メデアの変化が現代の大きな変化
(マスメデアから個人ベースになる対話的メデアへの変化)
おそらく20世紀というかwin95からのパソコンの大衆化と変化とメデアの変化の時代だった、そこからインタ−ネットの情報化時代に大きく前進したからである
でもその前哨戦としてワープロがあり私自身はワープロからはじまったのである
私は悪筆であり自分自身が自分の字を見るのが嫌だった
それでワープロをはじめたのである、それはwin95がでる前でありその富士通のワープロに通信機能がついていたので偶然に通信をしていたのである
それは富士通のパソコン通信だった
でもそこに集まった人たちは草創期のパソコンマニアだった、それを操作する人は非常に少なかったのである、だから理系の技術者も多かった
それだけパソコン自体が高いし誰でも買えるものではなかった、40万くらいしたものがあった、そのパソコンでもしょっちゅうフリーズしたりしして使いにくいものだった
私はパソコンはwinの時はじめたのでありそれまではワープロの通信機能がついているものでしていた、それで富士通の親指シフトでしていた
これでテキストが打ちやすい、文章にするのにスムーズだから使っていた
なぜこうしてこういうことにはまったかというと私は機械が苦手ある、理系でもない
するとそういうものにはまるということはない
悪筆でありそれが嫌できれいな字にしたいからはじめた
これがワープロの動機であり通信というのは付随したものとしてはじめたのである
そして私は無職であり引きこもりだった、だから家に一日中いるからそこに時間をさけたからできた
何か人間は苦手なことがかえっていいように作用することがあるから不思議である
中国でスマホがあれだけ普及したのは固定電話をもつのがめんどうだったからである
それは他の後進国でも固定電話よりスマホが無線が便利で普及した
つまり何かそうして不利なものが有利なものになってゆくことが人間界にはある
中国がITの先進国になったのはスマホが電話代わりになったことが出発点だったからである
確かに引きこもりは社会的脱落者であり目の敵にされる、でも奇妙なのは引きこもりが悪く作用するとしても良く作用することもある
禅僧とかに私は同調する、なぜあのように一人沈黙するのか?
それは沈黙して瞑想することが修行だからである、沈黙することは精神の修行なのである人間はあまりにも口が軽すぎる、そして口からどれだけ悪いものがでてくるか
口は災いもとなのである、そして沈黙することは自然と同化することであり一体化することなのである
なぜなら山でも石でも木でも沈黙している、だから自然に通じるには沈黙が必定なのである、でも社会人として生活することは必ず何か営業でも嘘をつく
そういうことが強いられるのである、利益第一になるからどうしても嘘ついても相手がわからない投資信託とかいろいろな金融商品を売りつけるとなる
まずパソコン通信は文字だけで文章だけで会話する、これは今までにない会話のしかただったのである、だからこの世界を理解すること自体できないものだった
そこからメデアの変化が進行していたのである
つまりテレビは大衆を相手にしたメデアであり、6局によって独占されていた
この影響は本当に大きいものだった、なぜなら茶の間を独占していたからである
そしてマスメデアは大衆メデアだから常にどれだけ視聴率をとるかでその価値が決まる
それで硬いものは放送しない、大衆向きに作られている
だから大衆洗脳装置ともなっていたのである
テレビを見ていると知らずテレビ局に洗脳されるのである
そしてテレビ局は明らかな意図をもって放送している、ニュースでも放送するものと放送しないものがある、大事なものでも放送しないことがある
それはテレビ局でどんなニュースを放送するか決めるからである
だから6局によってマスコミが裁判官のようにもなっていたのである
それで武田邦彦氏がダイオキシンは害がなかったのにマスコミのキャンペーンでねそう思いこまされたとして怒っている
また温暖化はないとしてNHKの放送を常に批判している
それは科学的客観的なものではないのである
マスコミには科学者の客観的態度がない、常に武田邦彦氏は科学者としてデーターを重んじて科学的事実から判断する
マスコミの報道はそうした科学的に追求するものではなく温暖化とかを作り出しているとしている、それは科学的なものではない、恣意的に作り出しているのである
マスコミは中立ということはないし報道でもない、NHKでも編集会議を開きそこでトップがその方向性を決める
だから原発事故でも原発避難者側につくとトップが決めて番組を作りをしていた
津波の被害者より原発避難者を重んじるとして番組作りしていたのである
するとそれを見る人は原発避難者側に同情するようになる
マスコミはそうして放送する権利を独占していた、そしてただ事実を放送するのではない必ずニュースでも取捨選択して解説でもNHKがその内容を決めて編集して決める
だからもともとニュースでもその見方は多様になるがマスコミは一方的になる
そしてマスコミは何か裁判官のようになり常にいい子になりマスコミの言うことは正しいとなりおしつけられる、そこに批判は許されなかったのである
マスコミには悪がないように見える、でもそこに悪があった
それは原発事故で莫大な宣伝費を東電などからもらっていた、それで事故が起きたとき朝日新聞ですら中国にマスコミの幹部が全部東電に招待されていたのである
マスコミは誰かの主張でもない、それは組織全体の主張として作られる
でも不思議なのはyoutubeとかプログとかインタ−ネットは前から個人をベースとして主張される、マスコミはマスが対象のメデアである、だから大衆受けするのものとして放送する
でもインタ−ネットでは個々のメデアであり個々人のメデアである
個人をベースにしてニュースでも解説している
つまり常に私はこう思うという主語があるIがあるメデアである
マスコミは常に我々はとかみんながとか放送する、その相違があるのでこれは何なのかとマスコミの放送に慣れた人はとまどうことになる
自分自身がyoutubeについて何かイマイチからないものがあった
テレビで個人が主張することが理解できなかった
でもyoutubeだとみんながではない、私はこういう経験してきて勉強してきてとか個人をベースにして語ることになるのが違っているのだ
武田邦彦氏は科学者としての経験が篤いから科学がわからない人には科学とはそういうものかと理解するようになった
その科学もマスコミで報道するのとは違う、なぜならその科学についての報道を常に批判しているからである
ただ有名なノーベル科学賞をもらった人まで批判できるとなるとそれだけの自信がないととてもできない、だから素人の人はそういう人が言えば何も言えなくなる
ともかくyoutubeとかプログでも個人をベースとして対話するメデアなのだ
だから対話する時その人がどういう人なのか、プログに書いているとわかりやすくなるのである、この人はこんなことに興味をもちそんな経験をしてきたのかわかるからである
ともかくそうして個人をベースにして放送しているのがインタ−ネットでありyoutubeでもそうである、一人の局など今までありえなかったからである
マスコミとは対話できない、そこには個人もいないし私がこういう経験をしてこういう場所に住んでいてとかないからである
人間はその住んでいる場所の影響も大きい、だからその見方も場所によって変わってくるのである、おそらく隣の市でも町でも違った見方になる
それが全国となると広いし世界となると広いから場所の感覚が理解できないから実感できないのである
つまりテレビの画面からはいくら旅の番組を放送してもその場所に立つとかその場所に住むという経験がないと理解できない
日本には砂漠がない、すると砂漠から生まれものを理解てきない、砂漠からなぜエホバが神が現れたのかも理解できないのである
この場所だけは本当に多様なのである、一地域でも本当に多様なのである
そこでそこに住む感覚が違ってくるのである
いづれにしろ20世紀はここ30年くらいは情報革命の時代だった、それはコンピュターと通信の世界が普及してそうなった
それは個人をベースとして対話するメデアだからそれは今までにないものだったのであるだからこれは新しい文化だからなかなかなじめないものなのである
ただ若い時から慣れ親しんでいればそれがノーマルとなる、ニューノーマルなのである
でもそれになじまないものはアブノーマルな世界になる
ともかくインタ−ネットの世界は個人をベースにした対話的メデアである
だから相手と個人として対話する態度が必要になる
でも武田邦彦氏のように科学者となると対話すること自体むずかしくなる
なぜなら文系だと科学的なことがわからないからである
ただ武田邦彦氏は文系にもわかりやすいよちうに説明しているし自らも文系の素養をもっているから対話をなんとかできるともなる
科学者とかなかなか対等に対話が文系はできないからである
二人は同世代である、だから同じ世代として通じるものがある
でもその経験がそうとうに違っている、すると個々人の経験から語る
それで違ったものになる
ただここに欠けているのは場所性なのである、武田氏は名古屋だとしてもその場所性が
ほとんど示されていない
加治氏は北海道出身でも不思議なのはアメリカ出身となっていることなのである
アメリカ人ともなっている、北海道出身という場所性はほとんどないのである
私自身は常に自分の住んでいる場所をベースとして書いている
場所を離れて自分自身もないのである
場所をアイディンティティとして常に語っている
インタ−ネットでは地域メデアでもある、その地域地域に根ざして発信している
でも何かもう一つのその地域のことがわかるものが見つけられないのである
私のプログを読めば相馬という地域が見えるものがあると思うからだ
なぜyoutubeがもう一つなじめないのか?それは話すことが中心であり文章ではないからでもある、どうしても話すことと文章にすることは違うからである
でもボードに文を書いて説明するとわかりやすくなる
話すだけだともう一つ理解しにくいと見た
もう一つは短編になるので長い文のように一貫したものを把握にしくいことである
二人は本も出しているからそれを読めば理解は深まる
だからyoutubeであれプログであれ本であれ表現の仕方が違ってくる
そこで伝える内容も違った印象をもつのである
それはメデアが違うからそうなる
でも個人がこうしてメデアをもつことは今までなかった、個人がテレビ局になることはありえなかった、だから何かとまどうものになっている
私自身はしゃべることが苦手である、でも家に閉じこもって書くことは向いている
人に会うのも苦手である、だからひきこもりになった
何か人と会うとひどく疲れるのである、それで今つきあっているのは一人しかいないのである