「不要不急」が問われた
(過剰化社会が是正される―病院に患者も来ない)
コロナウィルスが社会に提起した問題は様々だった
そこで浮き彫りにしたのが「不要不急」という標語だった
不要不急とは無用でいそぎでないことを表す語。不要は不必要、無くてもよいこと、またそのさまを表す語で、不急は差し迫っていないこと、またそのさまを表す語である。
現代社会はこの不要不急が多すぎたのである、無くてもいいものまた少なくてもいいものが多すぎたのである
その一つが医者とか病院で患者過剰になっていた
コロナウィルスでは感染関係の医者とか病院とか看護師とかは必要でもその他の関係ない医者ふ病院や看護師は暇だった、それより患者が来なくて収入がなくなり倒産するのがこれから増えてくるという危機になった
つまり病院に医者に行くほどでもないのに行っていたのである
そして本当はいらない薬まで飲まされて金を使っていた
そこで医療費が膨大なものとなり国までつぶれるとかまでなっていた
病院が街の医院でも老人のサロン化していたいうのがそうである
それは日本では国民保険があり医療費が安いからそうなっていた、でもそれももう国では負担できない状態になっていた
医者がたりないと言っていたが本当は医者が過剰だったということが判明した
看護師でも過剰だったのである、人手不足が常に言われたが実は今になると失業者が増えてそれも解消してゆくというのも不思議である
医者とか病院の怖さはこのように患者がいなくなると病気になって病院に来てくれ、病院がつぶれるからと切実なものになる
するとどうなるのか?何か故意に病気の不安をあおりいらない薬を飲ませたりいらない治療をする、さらに医者がありもしない病気まで作りだして治療もいらないのに治療して金を稼ぐとまでなるから怖いのである
そういうことは職業にある、消防士が仕事がなくてわざと火をつけて火事にしたことがあった、暇だから火事にした
警察だと犯罪者がいないから犯罪起こしてくれとかともなる
軍隊だと戦争がないと生活にならないとして戦争を起こしてくれとなる
アメリカの軍産複合体では武器を大量生産しているからその武器を売り消化するには大規模な戦争が必要になる、そのために定期的にアメリカでは戦争を起こしていると言われていたのである、極端になるとそうなるから怖いのである
現代文明社会はあらゆることが過剰化したのである、不要不急なものにあふれるようになったのである
新宿の歌舞伎町の夜の街が批判されたけどそれも不要不急であり必要なものとも言えないでも世の中は誰も修行僧のように暮らせない、だからそうした場を否定できない
要するにこの世には特に文明社会になると無駄なものが膨大に増えてくるのである
もしかしたら本当に必要なものはわずかである
それでも人間は生きることができる、それは動物をみればわかる
最低限のもので自然の中で生きているからである
とにかく文明社会はあらゆるものが過剰化したのである、報道でも過剰化した
ニュースはきりなく毎日報道される、そして忘れられる
そこで一貫して連続して追求されるものはなくなる
次々に新しいもの新しいものを求めて報道される、まさにニュースなのである
またあらゆる人が意見を言う、コメンとする
意見は積み重ねがなく、変動し流動する
知識は積み重なってゆく、意見というものは他の意見に必ずしも積み重なってゆくのではない、知識は成長するが意見は変貌する
「過剰化社会」−D・J ブーアスティン
知識と意見は違う、意見は誰でも言うことができる、いいとか悪いとか言うことができるでも知識は体系的であったりまた専門化してくるから簡単に言えないのである
あることに言うについてもその知識の積み重ねがないと言えないのである
いろいろな歴史についてもそうである、知識の積み重ねがないと言えないのである
だから私は何かいちいちコメントするのがめんどうになりしていない
一方的に書いているだけである
対話するということは二三行コメントするのとは違う、深いコミニケーションが必要になる
それは何かネットではしにくいのである
今はこうして毎日プログに書くことに時間をとられて他のことができないのである
過剰というときあらゆるものが情報でも報道でも日々過剰化している
もうインタ−ネットでyoutubeを見たりしているとテレビは見れなくなる
実際私も見る時間がかなり減った、youtubeの方が有益だとしったからである
今は情報に追われる、でも知識は積み重ねでありまた物事を知るには過去から歴史からみることで深く知ることできる、今のことに追われていると深く知ることはできないのである
だから今はある程度情報を遮断することも必要になってくる
情報の洪水にのまれてしまい、かえって真相が見えなくなる
「沈黙」もまた必要なのである、瞑想も必要なのである
ただ現代文明は沈黙とか瞑想を嫌うのであく、それは空白であり真空を嫌うからである
何かで空白を埋めようとするのである
だからなにかかにかある、広告で埋められたり絶えずそこには音があり何もない空間とか沈黙の空間とかは拒否されるのである
それが具現化したのが大都会である、東京とかになると家とビルで埋め尽くされている
仏教とかでも無を説いたときその無の空間が老子なら無用の用の空間がないのである
教育だって過剰化していた、学校が休校になったけど今ならITで学ぶことができる
youtubeとかは教育の道具として優れている
すると自主学習になり能力をかえって伸ばせるかもしれない、なぜならそこでは教えるのがうまい、特別優れた人が教えているからである
つまり並みの先生はいらないとなるからだ
学校という校舎に建物に集める必要もなくなる、ただコミ二ケーションとかは問題になるでも何か学校だけが教育の場所とするのはふさわくしなくなっていたのである
それは明治の時に教える場所が学校しかなかった、その後もそうだったのである
私の家には戦後のことであり貧乏だから一冊の本もなかったのである
戦前はそれよりびどかった、学校に通いなかった人がいたのである
子守りとかあってそうなっていた、今なら後進国ではまだそういう場所がある
ネパールとかだとボールペンもないのである、だからくれと言われた
そういう社会なら学校は不可欠である、でも文明社会ではもう学校に行くことをこだわる時代ではない、学ぶ環境が整っているからである
つくづく知的仕事には大きな家が必要である、書斎でも必要である
テレワークでもそうである、環境が人を作るのである
人間とはまたこれほど仕事をしなければならないのか?
それも疑問なのである、みんながこれほど働いていることも異常なのである
本当はそんなに働かなくてもいいのかもしれない、でも働くことは強制される
それで無職とかニーとは罰せられるべきだとまでなる
俺たちは働いているのにあついらはのうのうと働かないで過ごしているとかなる
自分自身は30年間引きこもりでありで沈黙の行をしていたからまた異常だった
ただ社会もまた異常なのである
いづれにしろ過剰化社会をコロナウィルスが浮き彫りにした、不要不急のことはするなというのはそうだった
つまり現代社会はあらゆるものが過剰だったのである
その過剰が問題を引き起こしていたし無駄な労苦さえ生んでいたのである
そんなに外国からあらゆるもの食料まで輸入することがあったのかとかこんなに交通が必要だったのかとが問われた
交通も過剰だった、もうリニアなど必要なくなった、急激にコロナウィルスで鉄道すら利用しないことに驚いたからである
コロナウィルスが過剰なオーバーツーリズムとか交通を止めた
車だって過剰化していた、道路でも作りすぎたとかある
いらないもの不要不急なものはいらないというときどうしても必要なものには力をそそぐとなるから悪いことではない、食料は自給が必要だとなればそこに人員を集中させるとかなる、すると農家の人手不足も解消するとかなるからだ
コロナウィルスは謎であるがこれほど社会自体を変えることに驚いた
社会は簡単に変えられないからである、コロナ前と以後の世界は変わってくる
津浪と原発事故もこの辺でまるで違ったものとなった
そのうようにコロナウィルスでも社会は変わり時代が変わる
何かあらゆることが過剰化していた、物でも情報でもあらゆるものが過剰化していた
ただそこに足りないものが常にあった、それから物があふれていても今度はその物が変えない貧困化した日本になっていた
あらゆるものが目の前にあるのに買えない貧困である
過剰に物があっても買えないとなるとかえって苦しいとなる
なければないで暮らすほかないがこれだけ物があってもそれが買えない食べることもできないとなる貧困である、これまた矛盾なのである
過剰に物があっても貧困化すればますます不満がつのるだけになる
そういうアンバランスがどうして起きたかというとグロ−バル経済というのにもある
世界から食料まで材木でも何でも輸入する、しかし日本が電器製品でも売れないとか
貧困化してくれば買えないなのである
確かに世界中に物がある、でも買えないとなるのである
そういう時代にどういう社会にするのか生活にするのか考えねばならなくなった
エネルギーでも電気でも過剰に使っていた、でも使えなくる、貧乏がわかるのは人口の
5%が毎月の電気水道料が払えない、それで取り立てする人が嫌になってやめたとかあるそこに一番の貧乏が具体化しているのである
そこが節約できないからである
いづれにしろ過剰化社会はつづけられない、コロナウィルスでそれが明らかになったのである