荘厳に蘇る春の森(詩)
(飯館村の森の復興ー失われたその価値)
荘厳なるいつかしの森に春の風がそよぎなる
一すじ清らかな流れのひびき
山の奥から蝶が喜々と舞い飛び来たりぬ
樅の木は神殿の柱のように堅固に立つ
そこに種は落ちて春の日がさしして若木が育つ
老木はここに歳月を重ね朽ちて土となる
森に循環する命の営みはつづく
しきりにさえづる鳥の声が森の奥処にひびきわたる
我々はここに力強く生きる
この木のように強く心は折れない
不壊のごとくに木は立ちここに深く根付く
我々は森とともにあり生きる
ここが我らの生きる場所なり
かけがえのない生き死にの場所なり
その命は森に還りまたよみがえる
春の日が再びこの森に回帰してくる
重々しく大石はここに座をしめ
かたえにキクザキイチゲが雪のように純白に咲く
この大石に神は座してとどまる
その石は厳粛にして口をつつしむ
そこは聖なる地なればなり
時にこぶしの花が天に向き咲き散ってくる
まるで天国の花園から散ってきたように
再び人は還ってくるだろう
いつの日か森は村は再び蘇える
その日は遠くも神は見捨てはしないだろう
荘厳な森は人の心をも作る
我が生も終わりとなりただそれを願うほかなし
そして再びここに生きることを望むなりしも
先祖となりてここを見守る者となりにけらしも
聖なる森の国
清らかに細い流れ
その深き山間より流れ
その岸辺に春の日はさしぬ
キクザキイチゲやカタクリの花
紋鮮やかに山の蝶の舞い来たり
樹々はもの寂びたギリシャの神殿の
列柱のように立つ
樅の木はゴシック聖堂の柱のように
重厚に風雪を帯びて立つ
かつて森につつまれし道
人の踏み入らぬ道
そこに隠された大石
そは聖なる石にもあれ
深く沈黙して不動なり
夏の日に深い木陰に
揚羽はその羽根を休みて
花を探して花の夢を見る
その村は高原の森に隠されてあり
森厳な森に囲まれて
春の日のさして新しく木は生えたちぬ
木はすくすくと真すぐに伸びて風にゆれ
流れは心地よくひびきぬ
この地に幸いのあれ
しかしその幸いの日は失われぬ
ただ樹々はなお厳粛に立っている
縄文時代よりの深い森の村
そこはカムイコタンにありしも
飯館村に育つ若木
こころはここのこと
ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここを離れると回りの景色も消える
ここは回りの景色とともにある場
部分として切り取られた場ではない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・
故郷は何かと原発事故以降問うてきた、相馬地域でも海から山と広い、そこでまだ知られざる地域がある、それもすぐ近くにあった
要するに本当に人間は灯台下暗しなのである、故郷に住んでいるから故郷を知っているとは限らないのである
かえって今の時代外国に詳しい人がいる、でも肝心の日本を知らないともなっているのだ
飯館は70パーセントが森である、森につつまれている、ただ川とかはない、それがものたりない所でも小川のようなものはある
そして何回も言うように飯館村は広いのである、その広さが特徴なのである
例えば丸森も字の通り森の国でもそれほど広さを感じない、飯館村は平地でも結構広いのである、だからまだ未踏の地がある
そして特徴は森の国であり木の国だとなる、その木でも樅の木がふさわしいとなる
それがドイツの森の樅の木の森に似ている、寒い国だからにている
ただ樅の木の林というのはない、数本の樅の木があるだけである
でもやはりその樅の木がいかにもふさわしいとなる
それはあの荘重なゴシックの大聖堂なのである、樅の木はその石の柱なのである
ただ今回の放射性物質の汚染で森も汚染された、それで生育に影響したという報告もあるでも表だってはそういうことはない、種が落ちてまた新しい芽がでて成長していた
その時森は復興してゆくのだと見た
でも村は復興しない、第一人が住んでいないからだ
別荘として元あった家をこじんまりした新しい家にしても住んでいないからだ
50億円かけた学校でも福島市とかからスクールバスを用意して通わせている
そして5人しかないというからショックである、5人に50億の学校を建てたというのも驚きである、それだけ金あ与えられたからそうできた
でもそれで村が復興はしなかったのである
だから金だけで何でもできるということはなかった
むしろ金が補償金が人の心を分断して村も二つに分かれて争うことにもなった
それで村に住めという村長はやめた、病気でもあったからだ
これは水俣病闘争でも補償金で分断されてだめになったというのと同じである
もう補償金をもらうことは復興の闘争になった
村全体をどうしようなどなくなったのである、そして個々人でも家族でもばらばらになったのである、それは南相馬市でも同じことが起きたからである
遺産相続のようになり兄弟でも争うようになる、それは伊達市でも親族が補償金で争ったというからどこでも起きたのである
天の時、地の利、人の和が勝敗を決めるその人の和が乱れたとき戦いに敗れる
奈良の十津川村では全員心が一致して北海道に移住した
それは補償金を政府からもらってもそれは全員公平に村のために使ったからである
村人が争うことは何もなかったからである
人の和があり成し得たことである
そして放射性物質に汚染されたことも致命的だった
なぜなら森でも放射性物質は消えない、空気になっても循環するから消えない
セシウムが半減するのは30年後としているからだ、ただ放射線量は思ったより減ったことは確かである
だからもう飯館村の復興は30年後でありさらに50年後であり100年後にもなる
天の時をまつほかない、時間が解決するほかなくなっている
それほどの被害でありまるでギリシャ神話の火を盗んでプロメテウスのが過酷な罰を与えられているのとにている
そして人が住まないということはそれがどうなるのか?
そのままにはならない、土地を持っている人は金にしようとしてソーラーパネルにしたり風力発電の工場のようにしたり他にもすでに放射性廃棄物の処理場は作られている
森でもすでに外材にたより森を手入れするものがなくり荒廃したようになる
つまりなんらか人の手が入りそこが生活の場になっていた時に森も活きていたのである
人が住まないからといって元の自然にもどるわけではない、もし人が住んでいれば
ソーラーパネルでも風力発電でも嫌だ反対する人がでてくる
放射性物質の廃棄場でもそうである、でも人が住まないということはその場所と関係なくなるのである
そのことは南相馬市にも影響してくる、一時放射性物質のフレコンバックが破れてもれだした、そういう放射性物質は水とともに流れてくる
真野川にも流れて来る、新田川にも流れて来る、土地はつながっているからである
だから人が住まなくなることは元の自然にもどるわけではない、誰も関心がなくなり
外から来た企業にその土地でも何でも買われて勝手にされても誰も文句が言えなくなる土地をもっていた人は金になればどうなってもいいとなるからだ
つまり心のこころの詩のようになる、そこに心が離れてこころがなくなるのである
人間のアイディンティティはその土地と場所と一体化しているからだ
その場から離れると関心もなくなりその場の持っている意味も喪失する
場とはそれだけ重要な意味をもっていたのである
その土地とが場は生産としても重要だが精神的なものとして重要な意味をもっていた
それは意外とそこに住んでいる人も自覚されにくいものだったのである
だからこそ補償金をもらってみんな一挙に外にでてしまった
でも老人はその場で生きた記憶がありそれが精神に安定をもたらすしまた老人は最後は記憶に生きるからその場を失うことは生きた意味すら失うことなに
東京の高層ビルに住むようになってそれをひしひしと感じともなる
そうした場とは生き死にの場でありそういう場を失った時、人間はアイディンティティを失い漂流者となる、それが現代文明人なのである、都会はまさにそうした場をもたない人たちが過剰に密集して住んでいるからである
そこで自己同一化するものを持たないのである、高層ビルを見上げて人間はただの点となりおしつぶされるようになり死んだら団地のような狭い空間にやはり押し込められる
墓でも森の中とか見晴しのいい土地にあるのがいいとなるからだ
そこは墓参りするにも気持いい場所になるからだ、そこで先祖とのつながりを確認して
一体感を持つのである
場とは先祖とも関係して時間の中で意味をもつものなのである
それで御先祖様が春になると山からおりてくる、その時は田植えの時期であり営々とつづけられた生の営みの中に死んだ人も生き続けるともなる
何かそういうことは工業社会とか商業社会になるとなくなったのである
それで生態系も維持できなくなった、コロナウィルスがその生態系からの逆襲だったという見解もそうである、人間は経済成長一辺倒になりグロ−バル経済で貴重な自然を破壊してずかずかと神聖なる自然の神秘な奥地までも入って動物からウィルスが伝染したとなるからだ
その罰としてコロナウィルスによって復讐されているということも納得するのである
人間は誰も多様な「根元」を必要としている、人間にはその一部を形成している環境を通してその道徳的、知的、精神的生活のすべてを引き出す必要があるのだ
人間が必要とするのは土地の切れ端ではなく、「場所」なのである
それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのである
この意味で場所はお金で買うことはできない
それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによって作らねばならない
彼らの愛情によってスケールや意味を与えられなければならない
そしてそれを保護されなければならない
「場の現象学」エドワードレルフ
この本だけは一番感心した本である、人間にとって場がどれほど価値があり意味があるものかを語る、それは日常的に意識されないのである
だから物とか食料のように意識されない、ただ精神的価値はもともと意識されない
金とならない、それが最も現しているのが景観なのである
景観自体は金にならないからだ、だから人間はそうした景観でもそこに住んでいる人でも価値ないとみて壊されてゆく
それでソーラーパネルになったり風力発電になったりする
今や飯館村は人が住んでいないのだから景観など関係ないとして土地を金にするために
土地を貸して売って金にした方がいいとなりそうなった
そもそもなぜそれまで飯館村が何か他と違うように見えていた感じたのだろうか?
それが不思議だった、それはそこ独自の場があったということである
村全体にあったことである、別に海側でもそういう場所はある
ただおそらくそうた盆地的な場所は日本の原風景だったのである、国のまほろばだったのである
人間は金になるものは意識する、でも金にならないものは意識しないのである
でもそこに精神的価値がありかけがえのないものがあった
それを原発事故で住めなくなって普通の人でも意識したとなる
そして飯館村がいいと見えたのは私は別に飯館村の人と誰ともつきあっていないし知らないのである
だから木戸木があってそこに十軒くらい開拓部落があったことも最近気づいたのである
そこに二三軒しかないと思ったが一部落を形成していたのである
森に隠された村
七曲の坂を上りようやくその村に入った
そこに人の気配もない
森の中にその暮らしは隠されていた
人がでてくるとき何か醜いものを感じる
それはどこでも同じである
人は見ないけど草深く花がうなだれ咲いていた
何か人に見られるのは恥じらうように・・・
人の顔は見ないが広い前の庭に畑に
様々な花が咲いて飾られていた
それを天から神が見ているだけのように
人の暮らしは隠されて平和な村があった
夏の蝶が森深くから舞い出てきてまた去る
そこに人の顔は見ない
ただ森の中に家はつつまれて静まっている
我が心に映るはその花々だけだった
そして私はまたその村を後にしたのである
こんなふうだった、神が人の暮らしをか隠したという時、そこに美だけが映えたともなるそれを証明したのが原発事故だったのである
人間の醜悪さが金をめぐって露骨になり村は二分されて争う
ソーラーパネルが覆い、次に森に風力発電の巨大風車がその景観を壊す
そして放射性廃棄物の処理場ができる
それは村人のしたことではないにしろ醜いものが露骨にむきだしになったからである
ただ人間は貧しいことに耐えられない、ただやむなく貧しくてかえってそのことが
森に隠される村がありえたのである
ともかくかつての隠された飯館村は消失した、村人は金の亡者とも化して二分して争う醜さが露骨になる、そうなると純粋な花すら映えないとなる
ただそもそもそこには人は住んでいない、住まなくなる
老人だけでありやがて消滅する村ともなる、そしてそこが元の森におおわれというのではなく、ソーラーパネルとか風力発電とか放射性廃棄物の処理場とかそんなものしか残されない、かつての村はない、人もいない、何か50億かけた立派な五人しかいない生徒のために建てた学校もむなしいとなる
つまり金だけでは復興できない、金で何でもできるとはならない
精神的価値を形成していたものが失われたのである
場が失われたのである、ただそれは金にならないから意識されなかったのである
ただなぜ人間はこれほど場とか景観を破壊して何も感じないのか?
それを東京とか都会にみる、そここそ全く場所でも景観でも破壊されたむきだしの醜悪さを示した場所だからである
そこまで人間は景観とか場所に無感覚なのである
そうして場所を失い空虚な場で腹は満たしても心は満たされず死んでゆくのである
その墓も団地の様な狭い一室に葬れるだけである
そんなところで死ぬほかないのである、だから死ぬにしてもそんな場所に葬られるのは嫌だとなる、田舎なら一応は墓所は景観のいい場所にあるからである
いづれにしろ飯館村は原発事故で象徴的な場所になった、何かギリシャ神話のような場所にすらなった、それほど悲劇な場所になったのである
そして原発事故の被害はプルトニウムが消えるのは二万年後というようにそのカルマが甚大なものだったのである
それほどの過酷な罰が与えられたとなるのだ、でも依然として日本に原発がありまた事故になり悲劇が繰り返されるかもしれない、それは結局東京をみればわかる
あのような非人間的、自然もない場所でロボットのように生きられるのを見ればわかる
そういねう人たちが非人間化した人たちが金にならないものはいらないと無造作に破壊してゆく、それはグロ−バル経済でも世界の森を破壊したりしたからである
その一つの象徴が飯館村だったともなる、他にもそうした村があり日本がから消失してゆくのである