2020年07月27日

嘱託殺人容疑の医師へ、患者から130万円提示か (金には責任がつきまとっている)


嘱託殺人容疑の医師へ、患者から130万円提示か  

(金には責任がつきまとっている)

(ALS)の女性患者が昨年11月下旬、計130万円を50万円と80万円の2回に分け、同容疑で逮捕された医師山本直樹容疑者(43=東京都港区)の口座に振り込んでいたことも判明。

大久保容疑者は昨年5月、自身のブログに「『安楽死は500万(円)』なんてふっかけても支払えないでしょう」「リスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません」と投稿していた。


金はカルマとして具体的に責任としてある、だから金のやりとりから人間のことをみるとわかりやすいのである
金を受け取ることで責任が生じていたのである
それをカルマ論で私は追求して来た

原発事故でも福島県の漁業組合は特に船主などは事故前にも多額の補償金をもらっていたそれで原発御殿が建っていたと周りの者がうらやましがっていたのである
漁業権という権利自体も海の資源保護が目的として与えられている
そうなれば東電に漁業権を売り渡せるものではない、原発が建った時、漁業権を売り
事故前に補償金をもらっていたのだ
事故後なら海を汚して魚などとれないとなって補償しろとなる
現実にそうなっている、でも事故前にももらっていたのである

それを言うのはこの辺では東電の原発のために故郷に住めなくなった大被害を受けたからである
その責任を問うときなぜ漁業権を東電に売り渡したのだとなった
それは漁業組合のものでもない、今になればこれだけ広範囲に被害があったのだから
みんなて市町村でも県でも管理するものでありまたその是非は県民であれ広範囲で決めねばならないものだった、なぜならこれだけ広い範囲で放射線の被害があったからである

それは漁業組合だけではない、船主だけではない、官僚でもそうである
警察とか検事とかが天下りしていたのである
官僚がそうでありまたマスコミでも宣伝費で莫大な利益を得ていたのである
原発は金を産むものでありその金を目当てにあらゆる人が群がったのである
それが事故になって黒い金となって責任が問われたのである
でも実際は何も問われない、東電の幹部でも罰せられなかったのである
地元の人は金をもらっても故郷に住めなくなるなるとかの罰があったから責任を果たさせられた、でもそうして東電の幹部であれ天下りした特権階級は罰せられなかったのであるそれだけの金をもらっていたのだから責任があり罰せられるべきだがなかったのである
何かその責任を厳しく問うものもない、マスコミ自体はできない
みんな莫大な金をもらっていたからできないのである

金をもらえばいい金になればいいというのが現代社会である
でもこゆ金には明確な責任がともなっていたのである
母の実家の墓を三百万で守ってくれと言って死んだ人がいた
私ももらう権利があったがもらわなかった、でもそれで助かったと思った
墓を捨てても墓は何も言わないとしても
「お前は三百万もらった」だから墓を守る義務があるとなるからだ
するとなかなか墓を捨てることはできなくなる
それよた何か無形のものが死んだ人を供養する無形のものの責任が課せられているともなる
別に墓がなくても愛する家族だったら心の中で愛しつづけることがあるからだ

金はもらえればもらうのがいいとしてか考えない、でも金は明確にその額だけの責任が課せられている、額が大きければ大きいほど責任が重くなっているのだ
それが何らかで後でカルマとなって苦しみとなって現れることがある
ただここでの医者の嘱託殺人の問題は金としての問題でもあったことだと気づいた
安楽死がいい悪いという前にこれは金をもらっていたということで責任が問われる

「『安楽死は500万(円)』なんてふっかけても支払えないでしょう」
「リスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません」と投稿していた

これは純粋に患者が苦しんでいるから殺して楽にしてやろうというのではない
すでに金をもらって殺すということの罪が問われる
そこに罪の軽重が生れる
そこで情状酌量とはなりにくいともなる
金が欲しくて殺したのかとなるからである、もし金をもらっていなかったら医者にも同情されるものがあるともなる
純粋に相手の苦しみをとりのぞいてやりたいという動機になるからだ
でも金をもらってやることは違ってくる
金が欲しいということが動機でありそこが大問題になる

だから人間の問題は金のやりとりで具体的に現れる、その罪を問う時も金のやりとりを見て判断する、それがわかりやすいからである
金には具体的に責任が課せられているからだ
だから法外な金をもらうことはいいようで後で苦しむことにもなる
原発事故では他の人はあいつらは事故の前も金をもらっていたし事故後も補償金をもらってうはうはだ、俺もあやかりたいとか言われるようにもなる
もし東電からそうしたことが金でももらっていなかったら堂々と原発に反対できたのである

例えばコロナウィルスでもGO TO キャンペーンでも二階氏とかが観光組合から金をだしてくれたことで見返りとして多額の政治献金を受ける
するとそれは純粋に観光業者に同情したわけでもない、自分たちの利益になるからそうしただけだとなる
こういうことは政治に普通にある、それがこの世だとなればなる
でもその観光業への金も国民の税金の金であり自ら金を出すということではない
国民の税金でも使うのにも責任が課せられている
でも何か大きな金はかえってその責任がわからなくなる、10万であれ百万であれ一万でもそういう金の責任はわかりやすいからだ
だから予算でも大きな金は何兆円でも無駄に使われるともなる、でもその責任も強く問われないともなっている

ともかくこの事件の注目すべきは金をもらったということにあった

ドラマであれヤクザが金をもらったので人を殺したとういことがあった
金をもらうことで責任が生れ人を殺すことになった、金にはそうして人を殺すまでの責任が課せられていたとなる
金から人間の問題が生じるのが多い、金のやりとりからみるとわかりやすくなる
だから犯罪者は借金していたとかが常に問われるのである
借金とは責任でありその責任を果たすことが強いられて犯罪にまでなる
だから金は怖いものだということである
漁業組合の船主でもそんなことを責任を考えず事故前に多額の補償金をもらっていたのである、それが事故になってそのことが問われた
他の人は自分でも知らなかったのである
だから後でこういうことで暴かれてその責任が問われる、金をもらった責任の重さを自覚させられるから怖いのである
でも普通は金をもらえばいいとしかないのである、責任のことを考えないのである

posted by 天華 at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月28日

南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史 (菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史

(菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


官軍の江戸城入場

nishikihata1.jpg

これは船をつないだ船橋である
これだけの舟をを用意した、砂浜にも船を並べたのか?



kikumonedojyou2.jpg

菊の紋の幕である

NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場

kikumonedo333.jpg

nishikimihata4.jpg

この赤と白の旗印と日本の線の旗印も野馬追いに出る
その由来は何なのか、天皇と関係しているのか?



野馬追に出る菊の紋の旗

kikunomaoi5.jpg

nomaoihata6.jpg

ここになぜ日の丸の旗があるのか?

その由来がまたわからない



吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。

吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である
「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった
2) 北朝系統の孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった


明治維新は南朝の復活であり南朝系統の天皇を祭り上げて支配することだった
長州が南朝だということがまさにそうである、当然南朝系統を祭り上げて天皇もその替え薩摩長州によって北朝を祭る孝明天皇を守る会津は仇敵とされ賊軍とされて討伐された
それは天皇の正統性と関係なく薩摩長州の特に長州により南朝系統の天皇が作られて祭りあげられたとなる、天皇は玉といわれて結局天皇自体に力があるのではなく背後の権力を持つものにただ祭り上げられる存在だったとなる
だから天皇の神聖性とは何なのかただ権力を持つものによって玉として祭り上げられる存在だけなのかとなる
そして靖国神社とは明治維新でも賊軍となったもの、西郷隆盛の墓もない、祀られていない、西南戦争で賊軍となったからである
だから靖国神社の矛盾は日本が太平洋戦争の戦没者を慰霊する祀るとしてももともと国民としての慰霊の場所にふさわしくないのである
国民国家になったときすでに南朝とか北朝とかは関係ないものとなったからである

事実西南戦争の戦いは国民軍と化した政府軍とその政府軍に反逆する者たちの戦いだったからである、その国民軍には会津の武士も参加していたのである
そもそも国民という観念は日本になかった、それが明治維新に武士の集団である西郷隆盛の西軍と国民軍が戦った、ということは実は江戸幕府を継続しようとした勢力が西郷隆盛だったともなる、西郷隆盛は武士を残して江戸幕府の継続して侍が国を治めることを目指していたとなる、そこに国民という概念もなにもないのである
だから今度は日本では天皇の臣下として赤子としての国民となったのである
そうした日本の歴史の矛盾があり太平洋戦争で日本国民の総力戦で敗北した
いづれにしろそこで天皇という日本の支配体系が崩壊したのだが依然として天皇は国民の象徴として残されたのである、なぜなら天皇は戦争に負けて戦犯として処刑されるところだったからである

玉だったとなる、天皇でもすりかえられるのである
萬世一系でもないとなる、それを説いた本がでている
ただ自分は詳しくない、でも南北朝の争いが全国にどれだけ影響があり全国隅々までその争いの傷痕を残した、小さな村村でもそうした物語が残されていることでもわかる
日本では天皇が二人になることは国が二つに分かれることなのである

そして霊山は南朝でありその末裔が相馬地域に多い、特に南相馬市の鹿島区は霊山が炎上したとき逃れた落武者の子孫が多い、その姓が只野氏なのである
その中心的役割を果たした人が近くの同級生だった
日吉神社のお浜下りのおつづら馬を担う主要な人物の子孫だったのである
つづらとは何か宝物というか品物を運ぶつづらのことである
この祭りは13年に一回としか行われない貴重な祭りである
宝財(ほうさい)踊りは霊山城が炎上して滅びたとき身を隠すために変装した姿が祭りになった  

ただ歴史という時、結局二つの勢力が権力争いになり二分される、

二人の王の間に反目が生じ、大きな騒乱が起こるからだ―ウェルギリウスー農耕詩

これは蜂の間で起きたことであるが人間でも同じである
歴史とは日本国内でも必ず権力争いで二分される、日本でも古代でも天皇が兄弟が二つに分かれて争った、壬申の乱がそうである、この時も南北朝の争いと同じだったのである
天皇の起源はわからないにしてもおそらく国を一つにまとめるために祭り上げられた王であった、関ケ原の戦いも東西の勢力の争いだった、国は必ず二つの勢力に分かれて争うカルマがある
そのカルマは世界史でも同じである、現代史でも同じである
米ソ冷戦があり今度は米中戦争の危機になる、そしてどちらかの陣営につかざるをえない中立を維持できないのである、そこで日本でも二つの勢力に分裂させられるのである

後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

つまり古代の復古というか南北朝の争いの継続としてあり現実に明治維新では天皇絶対制官僚が実現したからである、それは民主主義国家とかとは違ったものである
なぜならそもそも国民という存在もていから概念もなかったからである
それはヨ−ロッパとかでも王と貴族がいても国民というのはいなかったからである
他から近代国家が現れたの20世紀とかでありそれまではなかったのである
つまりヨ−ロッパでも江戸時代のように貴族が侍であり国民はいなかったのである

そういう二分した権力争いの中で南北朝の戦いでも相馬藩地域でも小高で侍が歌を残している
そしてNHKの桜田門外の変のドラマで見たら江戸城入場がありそのときの旗印が菊の紋でありこれは天皇家の紋でありまた南朝の紋だとなる    





関連するプログの記事

明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首

光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
親胤の子の松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず 

この歌は何か本当にここだけではない、世界で同じである、二つの勢力が争いそれで苦しむ、それはいたるところにある人間のカルマなのである
それを家族で自分自身が経験した、家族でも争いそしてみんな死んだ
残されたのは自分一人だった、だからこの歌に共感するのである

今年の野馬追いは強烈もなにもなく終わった、震災で一回中断したが今回も中止になった



posted by 天華 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2020年07月29日

大航海時代からグロ−バル資本主義の終わり (江戸時代的価値観や東洋の思想の復活した社会へ)


大航海時代からグロ−バル資本主義の終わり

(江戸時代的価値観や東洋の思想の復活した社会へ)


遠くへ遠くへ

早く早く

より多く多く

効率的に無駄をなく


これまでの時代は西欧的価値観がグロ−バルに支配した、遠くへ遠くへというとき
交通が飛躍的に発展した、現代文明はグロ−バル化は交通の発達がなければありえなかった
歴史で見れば大陸だと騎馬民族がいてモンゴル帝国のように拡大する
それは馬があってできたことなのである
それから産業革命になって鉄道ができて車社会になり航空機が生れ飛躍的に交通が発達した
ただ馬の前に大航海時代がありこれは船の時代だった、船の技術がなければだ大航海時代はありえなかったからだ
大陸ではどうしても陸つづきなのだから遠くへ遠くへと実際に行ける
だから大帝国が生れやすいのである
つまり空間に生きるとなる、日本は島国であり時間に生きていたというとき季語が無数にあり季節の変化に敏感でありそれがあいさつにもなっている
日本の空間は狭いのである、そして日本人のアイディンティティが狭い村でありそこでの人間関係とかになり窮屈になる

日本人がなぜ景観に無関心でありかえって自然を大事にするということが欠けている
おそらく日本人は景観といってもそうした大きなものをとらえる感覚がない
狭い地域で村で生きていたとき森全体とかを見ない、木を見て森を見ないとなる
森となると大きなものだから意識しにくいのである
大陸では天を意識するが日本人にはそういう感覚はないのである 
日本人には戦略がないというとき戦術のみにとらわれるというときもそうである
戦争でも大陸になると広大であり兵士をどう編成するとか戦略的になる
日本人だとそうした大編成部隊を作ることが苦手である、そういう広い土地がないからである、たから大東亜戦争ではそういう大きな戦略がない、ただ拡大してゆくだけだった
だから西安の方まで日本兵が行ったのには驚いた
その時、鉄道でも発達していない、どうしてそんなに遠くへ行ったのかとなる
ただ馬で行軍していた、馬を利用して遠くへ行っていた
だから第二次大戦までは馬が重要な役割りを果たしていた、南京に日本軍が入場したとき騎馬隊だった、
第二次世界大戦でも馬が活躍していたのである
それで死んだ馬を供養する寺があった、それは馬頭観世音と同じである、戦前までは馬が今の車と同じように荷物を運ぶものであり大事にされたからである、それでいたるところに馬頭観世音がある
馬を供養していたのである

とにかく大航海時代から20世紀までは交通の発達が共通の文明をグロ−バルに形成したのである、それが西欧文明の普及となり世界が西欧化したともなる
それでアジア的停滞とかヨ−ロッパから見ればそうなった
つまりアジアは東洋が遅れたものとして認識されたのである
そして資本主義が世界を席巻してグロ−バル経済になった
資本主義も常に遠くへ遠くへと志向する、空間の拡大である
資本主義は常にフロンティアを求め投資してゆく、それが時代を作った

でも今なぜ資本主義がゆきづまっているのか?

銀行でも金余りであり世界でも金余りである、一時は中国は投資先となってグロ−バル
資本主義を導引した、でもそれも飽和状態になり成長が望めなくなった
世界にはもうフロンティアがない、残されたのがインドとかアフリカだとなる
そこが中国のようになるかどうかはわからない
それよりコロナウィルスが時代を変える、これまでのグロ−バル経済とか資本主義の思想が通用しなくなる
なぜなら遠くへ遠くへとか交通の発達がウイルスを拡散するものとして止められたからである
それで大打撃だったのは観光業だったのである、ばったり100からゼロにもなったという驚きである、こうなると早く早くという技術革新でもリニアでも無駄だから停止しろともなる、その投資すら無駄だとなる、時代に合わないとなるからだ

人間は何か科学技術は無限に進歩する、科学技術にはバラ色の未来しか見ないのである
科学技術が人間のすべての夢をかなえてくれると見ている
科学技術信仰が現代の文明である、それは止まることを知らないのである
それに歯止をかけたのが福島の原発事故でもあった
その事故のために生態系が汚染されて住めなくなったからである
そこに科学技術を万能化することの夢は打ち砕かれたのである
人間には核を操作する技術はなかったのである
その被害はあまりにも甚大だったのである、未だに山菜とかの放射線量は減っていない
むしろ増えているのもあるのだ
森は汚染されて放射性物質が循環しているだけであり減らないからである

いづれにしろこれからの時代は科学技術信奉の限界でありそれがすべてバラ色の未来をもたらすわげではないことを知った、そして早く早くという限りない追及もまた資本主義の効率の追求もより多く増やすという思想も限界に達した
何かこうしたヨ−ロッパの思想には止めるとか減らす思想がないのである
ただ早く早く多く多くとか増大する思想しかないのである
そして資本主義が効率を追求する時、肝心の人間の幸福が何かを追及しない
資本主義にとって

人間が一番のコストであり人間はいらない

効率を追求するとそうなる、現実にお手伝いさんをなどを簡単な仕事でも雇うと大変なことになることを経験した、その家族とかなにやかにやと世話することまでになる
福祉的なことでも人を雇うとコストがかかるのである
だから人間一人を雇うこと自体最もコストなのである
それでいかにこの人件費を抑えるかが資本家にとっての最大の課題となる
つまり労働を人間にさせないで機械にさせることが最も効率的なのである
皿洗いなら最近いいものができた、これまではうまく洗いなかったが3万くらいでいいものができたとかなるとその方がお手伝いさんを雇うよりいいとなるのだ
人間を雇うことは資本家にとって最大のコストになるからだ
だから機械の改良がつづけられているのである
頭脳労働ですらAIで代わりにしようとしているし現実化する
なぜなら人間こそが一番非効率的な存在であり資本家にとっては無駄なものなのである
それは資本家というより資本主義体制なのである
ただ経済システムとしてはそれが社会にとっていいものだから受け入れられたとなる

でも資本主義が終わりだというとき銀行でも投資先がないとかゆきづまるときこうした思想を見直すことが必要になる
人間が最もコストだとか人間はいらないという社会がいいはずがないからである
人間自体を幸福にしない社会体制がいいはずがないからだ
江戸時代まで人間は資本主義とは無縁の世界で生きていた、では人々が不幸だったとかというとそうでもなかった、日本人はみんな幸せそうに見えたと江戸末期に来た外国人が報告しているからだ
貧乏であっても日本人は幸福に見えたというのは何かそこに人間が必ずしも今高度な文明で生活してもそこに不幸が生れている
もちろ簡単に時代を比較はできない、ただ働いている人たちが俺たちは奴隷だ社畜だとか不満があるときやはり働くこと自体に生きがいを見出していないのである

だからより早く早くとかより多く多くとかより効率的に無駄をなくすとかの思想が限界にきている、人間はそこで時間を奪われ酷使されている
遠くへ遠くへと行くのでも経済面ではかえって労力がかかっている
なるべく身近な所で自給自足的な生活をするのがいいとなる
ただ村とかの範囲では無理である、それなりの広さは必要である
でもグロ−バルな経済は不自然なのである
そうしてアフターコロナの時代はそうした時代の変化がありグロ−バル経済も後退する
第一航空機でも利用できないとか外国人でも自由に行き来できないとなればそうなる
観光業が一番打撃を受けたという時、まさにそうなった
あれだけ京都で外国人であふれていたのがぱったりと来なくなったことの驚きである
そこにかえって日常の平穏な生活がもどったともなる

コロナの前でも良く中世に戻るとか言われてきた、日本なら江戸時代にもどるともなる
もちろん同じようにはならないにしてもそういう傾向になる
江戸時代の不思議はなぜ駕籠のようなもので人を運んでいたのかということである
技術的に開発できなかったというよりそうした生活でよしとしていたのかもしれない

遠くへ遠くへ

早く早く

より多く多く

効率的に無駄をなくす

この逆だったのが江戸時代なのである、より近く近く、より遅く遅く、 少なくまた効率的でなく人間的だともなる
少ないというときそれだけの資源もないし貧乏だから当然あらゆるものを近くにあるものを活かすほかないからそうなった
だから江戸時代がすべていいというわけではない、ただそうした停滞社会というのは逆に人間的だったということがあったからみんな幸福そうな顔していたともなる
現代の人間はみんな不幸そうな顔しているというときうつ病の時代だというときもそうである、資本主義でもグロ−バル経済になっても機械で便利になっても必ずしも人間を幸福にしたとは限らないのである
あまりにもまた金がすべてとなった社会でありそれですべての優劣が判断される
そして金融はマネーゲームとなりグロ−バル経済の中でモラルも消失した
だからこうした社会をコロナウィルスが止めたということで不思議なのである
時代の変革がコロナウィルスで成されるということが不思議なのである
つまりそんなことを簡単にできないからである、いくらそういうことを言ってもできないからである

ともかく価値観の変化の時代である、思想的にもまた西欧文明の資本主義でも変化する時代である、東洋的価値観とか思想の時代にもなる
ただこれも明確ではない、でも宗教となると仏教でも老子の思想でもキリスト教ですらアジアからオリエントから生まれたものである
そこが誤解しているのである、時代的に象徴するものとして馬の時代があり船の時代がありそれは空間の拡大だった、でもこれからは牛の時代になる
牛は大地と一体化したものであり遠くへと行くものではない、土地に根ざしている
木とか石でもそうでありそれは土地に根付いている時間的存在である

posted by 天華 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年07月30日

疫神社(八坂神社がなぜ多いの?) (渡来神と疫病除けの神の謎ー災難が連続するのはなぜなのか)


疫神社(八坂神社がなぜ多いの?)

(渡来神と疫病除けの神の謎ー災難が連続するのはなぜなのか)



私たちの郷里の疫神社にはこういう由緒が書かれています。

「明暦二年(一六五九年)多田村及近邑に疾疫流行し、人民なやみ苦しめり其年十月祠官有光時安十七日間身を浄め、神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り、病邪たちどころに退き邑村の悦ぶところとなる。」

かんながらの道


神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り

八坂神社の境内の三社を巡って御朱印をいただける「三社詣」です。

朱印を頂く宝船の絵が入った用紙をとり、八坂神社の主祭神である素戔嗚尊の六世孫にあたる大国主社からスタートし、続いて八坂神社、つまり御本社へ、そして最後に大国主命の御子神でもある蛭子社(北向蛭子社)


元慶元年(877)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり

ここに祀られている蘇民将来は、牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊)から疫病を免れる茅(ち)の輪を授けられたという伝承があります。蘇民将来に縁のあるものは疫病にかからないとされ、有名な祇園祭では、粽(ちまき)などに疫病退散を願って「蘇民将来之子孫也」と書かれた札が付けられます。

平家物語の冒頭の部分、「祇園精舎の鐘の音」とあるように、江戸時代までは、仏教寺院にある鐘もあったわけです


この辺で多い神社は綿津見神社と山津見神社と八坂神社とかである
これは本当に多い、ただ八坂神社は全国的に多いのである
綿津見神社と山津見神社も渡来系の安曇氏などの祀る神だから渡来系である

ここで不思議なのは津祇園神社とある、この津なのである、これはこの辺に津神社がいくつかあることで考察した、これは津とあってもツノ神社と読んでいる
それがまぎらわしいのである、ツノとはツノガノアラシトのことのである
伽耶(かや)国の王子のことであり渡来系であり鉄を生産する技術をもった人たちでありこの地に来て鉄作りをしたのである
その跡が今の東北電力の火力発電所のある場所である
津神社は原町に二カ所とかあり相馬市の松川浦に津神社があるがその呼び名はツノミツ神社なのである、これは津波の神様だとかしたが違っていた
また妙見神社は相馬氏の祀る神でありそれは北斗七星でありこれも中国からもたらされた神なのである

神社というとき渡来系が多い、それは何を意味しているのか?
神社は祖先を祭ることが多い、とするとそれだけ渡来系の神社があるということは渡来人が日本に相当数きてその人たちが日本の国造りをしたとなる
ただ謎は逆に縄文時代から韓国の釜山辺りとか伽耶国のあった場所は韓半島でも別な地域であり文化も違っていた、それで縄文人が渡って行っていたともある、その証拠も発掘されている、つまり伽耶国とは必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったことは確かである
そしてそこが照葉樹林文化帯に属している、そこは気候的にもそうなのである
南相馬市の原町区の原町区江井字西山のスダシイ神社はスダシイの北限の地としている
そして同じく鹿島区海老村のマルハシャリンバイも奄美大島から種が流れて来て根付いた北限の地とされているのである
そういうふうに気候的に温帯地域と寒帯地域の境界線としてあった地域である
その気候風土の境界線が国の境界線にもなるのが歴史ではある

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

この万葉集の歌はその境界線だからこそ歌われたのである、ここまでは奈良時代にも知られた地域であり大和王権の領域ともなっていたのである

ではなぜこの渡来神が疫病を防ぐ神ともなったのか?
蘇民将来なども中国系の渡来神である、何かもともといた縄文人なのかその人たちが技術をもった渡来系の人たちに頼ったのかもしれない、技術をもっているということは医学の知識もあったのかもしれない、漢方薬などがそうである
それで他の病気でも直したことがありそれで頼ったのかもしれない、信仰といっても科学技術がないときは神に頼るほかないのである
それで会津であれだけ800年とか寺院が建てられたのは加持祈祷のためだったのであるだから疫病にしても加持祈祷になる、それしか方法がないからである

ともかくなぜこれほど災害がつづくのか?
それを確かに科学で解明するのが現代である、でも解明できない、対処する方法もない
ワクチンの開発をしているがコロナウィルスの正体は不明である
一度できた抗体も消えたとかある、こうして不可解なものがあると神に頼るほかないのである

津浪にしてもなぜこんな恐ろしいことが起きるのか、それも確かに科学的に解明することが現代である、でも不可解なものが残る、科学だけですべてが解明できるのかという疑問にもなる、なぜなら科学がすべてを解明していないからである
それで私は津波が起きたのは原発事故でも神からの罰だったと発言してきた
伝承でも一匹の魚を粗末に扱った結果として津波が来たということが伝えられている
漁師でも東電に漁業権を売り渡して原発御殿を建てていたとかある
それは原発前から多額の補償金をもらっていたからである
何かそうして魚をとれることよりまた米をとれることとか天地の恵みを軽視したことがあったことから原発事故が起きた
科学万能の時代だからそういうことは軽視されてきた
でもすべて科学で解明できないからこそそうもみる

第一自分自身の一身上でも家族の認知症にしてもこれも不可解な病気だったのである
そして回りで津波ー原発事故ーコロナウィルスと次々に災難が襲ってきた
これは何なのだろうとなる、それを科学で合理的に解明できるのか?
その災いのもとになっているのは何なのかとなる
それでカルマだともした、東京が一番今度は災いの地となったからだ

それで東京から来るな!

こうなったのもカルマだとなる、なぜなら福島から東京に逃れた人たちが放射能がうつるとして子供がいじめられたからである
そもそも原発は東京に作るのが危険だから福島に作ったのである
これこそ東京がやましいのである、危険を知っているからこそそうしたのである
別に東京に作って良かったのである、その方がコスト的には安上りだった
送電線でも安上りだったし東電の幹部は東京に住んでいるのだから管理しやすかったし東京都民が監視することになるから安全に目を光らせるからかえって安全が守られたとなるからだ

そして本当は津波が来ない高台に原発が作る予定だったのにコストがかかるとしてわざわざ土地を削って低くしたのである、それで津波に襲われたのである
女川の東北電力の原発も10メートルの高さにするところを副社長の提言でこの辺は津波が来るとして15メートルの高さにしてぎりぎりて難を逃れたのである

ともかくなぜこうして次々に災いが生れのか?
それが時代の大事件でも戦争でもそうである、それは偶然が重なり人智を越えたものが働いているのかとなる、戦争にしても結果はどうなるのかわからない、いくら計算しても
結果はふってみないとわからない、どう展開するかわからない、意外な結果にもなる
そこに神が関与しているのかともなる、偶然でもそれは偶然ではなく神が関与したとなると神の意志が働いたことになるからだ

聖書でも様々な災いがありその災いから逃れ守るのが神だったとなる
そこに確実に神の関与がありその奇跡を記したのが聖書である
とても科学的には説明できない、だからそんなことは作り事でありなかったともする
でも神が関与することは確かにある、ただわからないことはアメリカがなぜ日本に原爆をおとしたのか、そんなことをなぜ神が見過ごしていたのか?
神がいるのかいないのかともなる、つまり神の力が働いて原爆を落とす飛行機を墜落させても良かったとなるからだ
そんな悲惨なことを神がとめないのか?、そして津波でもそうである、なぜそんな悲惨なことを止めてくれないのかともなる
そもそもこの世にいるかぎり様々な災いから逃れようがないのである
この世はまさに火宅の世であり災いの世だということを実感した

いづれにしろカルマは必ずある、それは苦しみとなって現れるのである
本当に東京から来るなというとき東京が災いの地にもなったからだ
それは福島が災いの地となったされたと同じである
カルマは必ずいつかめぐってくる、でも何か早すぎた感じもする、カルマは何百年後かにもめぐって苦しみとなって現れるからである

次の災いは何なの?

もう米中戦争とかになる、これもカルマなのかもしれない、なぜなら日本は欧米と戦い
3百万人も死んだからである、その時中国は被害をそれほど出していない
その前に欧米に屈して植民地化されていたのである
その復讐として今中国が欧米を攻めてきているというのもカルマである
そして日本人に対してもそうだとなるがやはり欧米と対立して日本のようにつぶされるともなる
日本にされたことを今度は中国にされるのである、これもカルマなのである
この時日本が受けた苦しみを中国が受けることにもなる
ただその時また日本が戦争に巻き込まれるかもしれない、それはどう展開するかわからないのである
ただなぜこんなに災いが起きて来るのか、それが不可解でありそこにカルマが関係していることは間違えないのである

とにかくかんながらの道という神道による農業の実践には共感する
その思想に共感する、神道というとき明治以降は国家神道になったがもともとそういうものではなかった、神道というのはわかりにくいにしてもここでは農業として自然と一体化するものとして追求している、そして場を重視するというとき私が追求して来たものと同じであり不思議になった
外国でもそうして場の現象学とかに共感した、だから同じようなことを感じて同じことを追及している人はいるものだと思った、徳は孤ならず必ず隣あり・・・となる
思想的に共感するものがある、それは結局少数者である
大衆が共感するのは別なのである、それで現代ではアウトサイダー化するのである

かんながらの道 野見山広明

karumalaw11.jpg





posted by 天華 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract mountains(holy hidden mountain)


abstract mountains(holy hidden mountain)

hiddenmountsnow111.jpg


mountainrockbasess3.jpg


darkmountain111122.jpg

dark mountain

distantmoutain111.jpg


darkmountain4.jpg

rockstreet1.jpg

hidden street behind hard rocks





2020年07月31日


日本で起きたことが中国でも起きている

(三峡ダム崩壊の危機の被害の予想-原発も危機 ) 

genpatutv1.jpg

神王TV

三峡ダム決壊で、原発9基が超ヤバい裏話

ダムというのも巨大化すると自然を改造することだからそれだけで自然から復讐されるときがある、最近起きていることは世界的にも日本でもそうである
ダムの放流で日本でも危険なことになった
それからはよう湖は広大だけどそこも相当埋め立てて住宅地にとかしたという
それでそういうもともと湖だった場所がまた湖となり被害を受けやすいのである
水があふれやすいからである、それも自然の改造だから自然から復讐を受ける
それも日本と同じだった

なぜ津波でこれほどの被害を受けたのか?それは仙台の若林区の被害が大きかったというときそこは不動産屋が開発した地域だった
それで学者がそこは津波で危険だと警告したら不動産屋からとがめられたという
そして津波が来た結果大被害になったのである
何か常に利益優先になりそうなる

それから中国の原発9基が長江の洪水で危険にさらされているという、これも怖いと思った、つまり長江洪水の危機は日本の津波と似ていたのである
もし洪水になり原発が崩壊したらそれは中国一国ではすまなくなる被害になる

そしてまた共産党の政府の幹部が500年間は三峡ダムは崩壊しない

と言っていたのもそうである、必ず御用学者がそう言うのである

福島原発でも100万年事故は起こらない!

御用数学者がそう計算していたのである

この構図は世界共通である、政府が御用学者を使い安全でないものを安全だと言わせる
民間は民間で利益第一主義であり不動産屋が無理して開発して津波で被害にあった
はよう湖でも同じ構図である、湖を埋め立てて住宅地とか田畑にして被害になった
だから本当に政府を信用する、政府になんでも任せるということが危険になる

でも政府とか共産党は権力をもっているからその圧力で押し通すことができる
そこに権力の怖さがある、権力さえもてば危険なことでも押し通すことができる
それに抵抗することはできない、共産党一党支配だと反対する者は逮捕されるからだ
日本が民主主義で自由主義だからそんなことがないとしている
でも実際は原子力村が形成されたようにその体制は共産党一党独裁と似たものだったのである、原発に反対することは封じられていたからである

政府は権力で押し通す

民間は利益になればいい

科学技術者は権力に従う

マスコミも時の権力に従い利益を得る

この構図は世界共通しているのである、だからこの逆にならなければ国民の平和は守れないとなる

政府は信用するな

民間は国民は利益だけを考えるな

科学技術は御用学者になるな

マスコミは利益だけを求めるな

太平洋戦争でもこういうことがあった、戦争をあおったのは朝日新聞だとしている
政府を信用しすぎたこともある、それは天皇現人神ということで政教一致になることで加速されたし絶対化された、つまり不敗神話は作られたのである
戦争には負けない、神の国だから負けない、原発は安全だという安全神話は一体化して作られた、それはあまりに強力なものだった
だから誰も反対できないものになっていたのである
宗教でも政治権力と一体化すると危険なものになるのである

政府は信用するな、常に監視せよ!

これが民主主義なのである、中国では共産党一党独裁だからこれができない
日本が自由でも原発に関しては同じだったのである
検察官僚でも東電に天下りして利益を得ていた
だから未だに原発の責任は誰も問われないのである、無罪なのである
ただ必ず責任は誰かかがとらされる、戦争では国民が3百万人死んだし原発では故郷に住めなくなった、その責任は甚大なものだったのである
だから民間でも利益ばかり求めると危険になる、責任をとらされるのである
そこに目覚めなければならない、その責任を必ずとらされるからだ
だから故郷に住めないとか戦争では3百万人死んだとかその責任の結果を常に考えるべきだとなる
権力に唯々諾々と従っていると危険なことになり故郷に住めなくなったり死ぬことにもなる、そういう危機感をもてばいいのだが何か利益になればいいしか国民でも民間でもないのである  

結局民主主義といっても国民がこうして自ら自覚しないかぎり何の効果も発しない
そういう制度があっても活かされないのである、立派な建物があってもそれを活かす人間がいないかぎり無用の長物になる、魂が入らないのである
そうするのは国民の自覚が必要になる
そして党派があるがその党派もまた利益優先主義である
どんな組合でも団体でも組織でも利益優先である、カルト宗教団体でも何でもそうであるそこで漁業組合が東電に漁業権を売りわたしたのもそうである
もともとそんな権利もないのに私的なものとして利用して利益を得ていたとなる
こうして組合とかも必ず正当な権利を追及しているのではない
利益を優先して求めているだけだとなる
原発でも容認されるのは電事連とかがありそれで生活している人がいるのだからそこから莫大な宣伝費がマスコミに流れていた
つまり共犯者だったとなる、結局人間利益から逃れることができない、でも利益だけを求めていると危険なことになる、このジレンマをどうして解決するのか?
それが世界で共通した問題なのである  

マスコミに対してyoutubeというのができたのはいいことだった
テレビばかり見てたら政府の言う通りにもなる、それは原発の報道でもわかる
マスコミ全員が朝日新聞でも幹部が原発が爆発した時、中国に招待されて歓待されていたからである
それでyoutubeで放送されることでバランスがとれるとなる、ただyoutubeはチャンネルが多すぎるので選ぶのが大変だとなる
情報が錯綜してしまうのである、でもマスコミの六局支配は異常だったのである
それが情報を一方的にしたのである、youtubeの不思議は簡単にテレビ局など個人でもできることであった
またインタ−ネットだと一個人でも新聞でも雑誌でも発行できるメデアだと思った
だから民主主義の発展の強力なツールになるとも見た
自分自身でもこうしてとにかく自分の力で書いて報道するとき自らが力を得たとも感じるからである、でも確かに読む人とか見る人の数に左右される
その数を得ることがインタ−ネットの世界ではむずかしいのである
だからどうしても選ばれた者は読んだり見たりするがそれが意外は全く読まれない見ない無視されるとなる、これも問題だと思った




posted by 天華 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

紫陽花、合歓の花、鬼百合・・・(夏の花の短歌- 亡き人を偲ぶ歌-猫の写真)


紫陽花、合歓の花、鬼百合・・・(夏の花の短歌-  亡き人を偲ぶ歌-猫の写真)

cattuyu11.jpg



cattuyu1122_FotoSketcher.jpg

この猫は人になれない、さわらせない、近くにはよる
猫を飼う人はその猫に似るというのも本当かもしれない
自分の性格がこの猫ともにているからだ
なれなれしくなく何か人となじまないからだ
この猫は一か月くらいいなくなって尻尾を焼かれて悲惨だった
そこから血が流れていたのである、それもとまったので助かった
そのために余計に人になれなくなったのかもしれない
ただもともと人になれない猫だったのである

いつでもつんとしている、これがいつもの表情なのである
だからまさにこの写真がこの猫にふさわしいとなる

写真の不思議は絵に近くになる、絵の才能が全くなくともパソコンで絵にできる
ここで気づいたのは葉っぱに雫が見えた
するとここを目立たすようにもできる
ここに雨粒を大きく見せたりして加工するのである
また絵だと銀色にして雨粒を描く
つまり猫そのものがシルバーなのである、何か明るい感じがしない
猫は梅雨の日にあっているともなるからだ



雨しととこの道今日も合歓の花

鬼百合の競い咲きにし十数輪 

(京都―八坂神社)

古木なる枝垂桜や京の夕

京の日や枝垂桜によりそいぬ


山鳩の野に飛びにつつ働ける人のありしも実りのあらむ

我が庭の石のぬれにしその上に猫の座りて家にいつきぬ

めずらしき蝶のとまりし街の辻我のみ見るや心にとめぬ

交われ近くの女(ヒト)や草深く藪甘草咲き我が家のあり

紫陽花のことしもやさしく庭に咲き亡きにし女を我が偲ぶかな

我が身とて消えゆくものを今しばし花のそばにしよりそいあらむ

花とてもよりそう見れるその人のありしを思ふその場なるかな


梅雨がつづいた、そろそろあけるかもしれない、今日午後三時空を見たら晴れて来た
何か山鳩は鳩は平和の象徴である、田舎では山鳩は常に見かける鳥である
その鳥にしてももし原発事故のように荒地になって野に働く人もいなかったら
その鳩も活きていないとなる、もし全く人の住んでいない原始の自然だったら別にそこに活きていた

でも人が住むようになったとき違ったものとなった
人が野に働き平和な時、鳩もその人里に来て調和する、人の生活と調和する
そこに暮らしがなくなったらそうは感じないのである
それを象徴しているのが飯館村とか原発避難区域になった所である
人が住んでいない、暮らしもない、それげ生業を返せと裁判も起こした
今あるのはソーラーパネルと今度風力発電とかの工場ともなる

それは確かに利益を出すものだから仕方がないともなる
でもそこに山鳩とかが飛んできて調和するだろうか?
ただ別に田んぼで働いていた人は草刈機で草を刈っていた
するとやはり機械の騒音とかがそこにある
意外とこの草刈の騒音が嫌だいう人がいたのもわかる
毎日どこかで草刈しているからその音がするからだ
だから機械から離れて人はもはやありえないのである

庭の石に猫が座っている、雨に濡れた石に座っている
それを見ていると石と猫は一体化して調和する
猫が石になり感じである、自然は動物でも自然と調和する
なぜ人間だけが調和しないのかとなる

庭に紫陽花がやっと咲いた、今回は切ったので遅く咲いた
その時ここに姉が立っている感じになる
ただやさしいというとき自分にはやさしかったが優しいという女性ではなかったのである人間は死ぬと理想化するのである、悪い面が見えなくなるからである
となるとやさしいと偲ぶのは何か理想化してやさしい観音様のような女性がそこにあるように見たともなるのだ
人が死ぬとどうしても理想化されやすいのである

花の不思議は花を見ている人がいる、やがてその花を見ている人も消える
その時花もまたその人を偲んでいるとなる
これは別に恋とかの歌ではない、万葉集の歌は死んだ人を偲ぶ歌だとされている
恋とは乞うだったとしている、もう一度死んだ人と会いたいという歌だったとされているからだ

ともかく花とともに季節は変わる、今は合歓の花が咲き山百合が咲き鬼百合が咲いた
花ともに季節は変わってゆく、お盆になればもう秋だとなる




京都の八坂神社について書いた、あそこは30年前とかに行った記憶がある
何か本当に遠い日のことになった、でも京都は春夏秋と四回くらい行っている
それで八坂神社の枝垂桜は大きく見物である
京都に咲く桜でも何か違ってい見えるのが不思議である
それは千年の都だから自ずと何か歴史がそうさせているのである
でも正直インパウンドで外国人であふれたときは行きたくなくなった
情緒もなにもなくなるからだ、修学旅行生でもうるさかったのだから古の京都の情緒はなくなったのである
今なら本当に京都に行くのにはいい、閑散とした京都はありえなかったからである
でもコロナウィルスでまた行けないとなっているのだ
とにかくこれだけ旅行したがそれも今は記憶としてたどるだけだとなる