2020年05月27日

なぜ人間は道を誤るのか? (先が読めないーそして二0代で方向が決まる


なぜ人間は道を誤るのか?

(先が読めないーそして二0代で方向が決まる

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同じ時間でもその重要な度合いが違っている
そんなはずがないとしても後でわかる
それで新卒一括採用が人生を決めるとされるのである

人間は道を誤る、その原因は何なのか?
オウムとかカルト宗教団体に入りそこで優秀な理系の人がテロ集団化して殺人集団になり殺人を宗教で正当化してそれで人生を棒にふる
そこか宗教を求める場ではない、なぜそんなことになったのか?
今でもカルト宗教団体は創価のように社会に宗教を看板にして大集団化して組織化している

それは何なのだろうとなる、それもカルトなのだけど別に社会では容認されている
別にオウムのようにテロ集団ではない、選挙で政権を奪うとかそうでなくても権力側につき利権を得たいとなる
それも巨大な御利益を得るための集団であり組織である
それは政教分離に違反していてもとがめられることもないのである

道を誤るという時、国家自体が道を誤る、それが戦争で3百万人死んだ
それは国家が道を誤ったからである、また原発事故でも国家が道を誤ったからである
これも故郷に住めなくなったとか甚大な被害を与えたのである
国家すら道を誤る、国家が道を誤ればその被害は3百万人死ぬとかになる
また原発事故で故郷に住めなくもなる
つまり個々人だけではない、国家自体が常に道を誤るものなのである
だから本当は政府とか国家の指導者を監視しなければならないのである
それは原発事故で証明された、安全神話を権力で国家が作って道を誤ったからである

個々人でも何かしら道を誤る、国家規模でも道を誤る、それはなぜなのかとなる
面白いのはFラン大学に入ったことで人生は失敗だったとすでに28才くらいで大後悔したとyoutubeで反面教師になっているのを見て共感した
自分もFランとさぼど変わりないからである

何か結局人間が20代で方向が決まる

これが意外というかそう自覚できる人はまれである、人生は若い時はとてつもなく長いものに感じる、でも老人になると40くらいになると白髪でてきたりしてあっというまに老人になっているのだ
老人になると人生はあっという間だとなってしまう
それでみんな後悔するようになる、すで28才でこの人は人生が終わったようになって後悔しているのだ
その歳で人生を悟ったともなるのだ

なぜ20代が大事なのかと言うとそこで人生の方向が決まってしまうからである
カルト教団に入ったものはそこから脱出しなければ一生そのままになってしまう

そしてなぜ新卒で人生が決まるとされるのか?

それは大学を出て新卒で大企業とかに入ればそれで一生が安泰となる
また公務員とかになるにもそこで人生の行路が決まるからだ
そこからはずれたものは一生底辺になってしまうのである
それを私も経験した、就職もしないで一時は底辺労働者となってうろついていた
そしたらそのまま老人になるまで無職であり社会からはずれたものになってしまった
つまり20代でまともな進路からはずれたものは一生まともになれないのである
社会からも認められないのである
Fラン大学などはまともな就職先もなくブラック会社で底辺で働き給料も少ないから結婚もできなとしている
一生底辺の人生を送る他ないとなる
私も大学出てもアルバイトであり肉体労働とか流れ作業とかしか仕事の経験がないのである、だからそういう底辺に共感するのである

正社員の経験がないと、中途採用にも応募できない。年齢的にもどんどん厳しくなり、30を過ぎると応募できる会社自体がなくなる。周りの視線も厳しくなっていきました。『落ちこぼれ』『負け組』などと、自業自得と言わんばかりのレッテルを貼られ、自己嫌悪に陥りました。

30才すぎるとこうなってしまうのである

ただまた何かこれは変なのだけど自分は宗教を求めていたのである
自分のテーマはなぜ人間は死ぬのだろうということだった
それを解決したくて宗教を求めていたのである
だからカルト宗教団体に入ったのである
そして私はキリスト教について教会に一回も行っていないし聖書などもほとんど読んでいないのである
ではなぜキリスト教徒になったのだろうとなる
それは本当に自分自身も不思議だとなるのだ

ただ言えることは「求めよ、さらば与えられむ」である
なんであれもしそこでカルト宗教団体であれ求めるものが正しければ道を誤らないだろう私が求めているのはなぜ人間が死ぬのだろうということであったとしたらなぜ毎日選挙のために運動するのか疑問になるからだ
他でもそういうことは必ずある、だから何を求めるかが大事である
そこさえはっきりしていれば道を誤ることは無いのである

だから自分の場合は別に20代で道をはずれて底辺になってしまってもかまわなかったとなる、ただ人間が社会からはずれることアウトサイダーになることは実際は過酷なことなのである、ニートとか働かなくて楽じゃないかとなるがそうではない
世間の目が厳しいしまともに扱ってもらえないこともある
それから必ずそうして社会からはずれると社会のことがわからなくなる
社会のことがわかるにはやはり社会生活をしなければわからないのである
それで芸能人であれ芸術家であれ社会からはずれたものは確かに常識もしらない異常化する、それは自分自身が何か変な方向に行ってしまったからである
必ず小人閑居して不善を成すからである
実際のアウトサイダーになった人は天才芸術家とかでありその人たち優れた作品を残した人たちである、でも社会からはずれた人だったのである
その数は百万人に1人くらいであった、でも狂気となったのも多い
それだけ社会からはずれるということは精神異常と隣り合わせにもなる

ただ人間が異常化するというときそうして公務員とか正規のルートを進んだ者でも異常化していた、まるで常識もないにも驚いた
それは東大出ても今回のマージャンしていた検事でもそうである
あれだけ地位があってもその地位の自覚もない異常だったのである
なんらか人間は異常化する、例えば学者がいるとする、これもまた象牙の塔とかにこもり社会を研究していても現実の社会を知らない人がいる
科学者でもある一部分を研究しているだけでありそこに詳しくても全部に詳しい人は今はいないのである、そうして人間は極小化された部分に通じても全体を知らないとなり何かそこで専門馬鹿とか異常化しやすいのである  
そしてナチスとかもそうであり国家自体が狂気のファシズムともなり道を誤る
国家レベルでも道を誤り悲惨な結果になったのである 
個人も狂うが集団も狂う、でも集団が狂う時正常だとされるのである
なぜならその集団に歩調を合わせない者は今度は異常とされて刑務所にも入れられたからである、これだけ複雑な社会になるともう社会全体のことなどわかりえようがない
だからこそカルト宗教にもなりナチスでもファシズムでも生れて当然だとなる

現実の社会はその現実で働いて見ないとわからない、本ばかり読んでいてもわからないからだ、経験が物言うのである
何か理解するには仕事でも職業でもちょっとでもいいから経験すると本当に理解できるのである、そして会社の人でも上の人が現場で働く人のことを知らない
現場の人が知っていたのである、原発でも配管のことなど老朽化していて危ないとか知っていたのは現場の人だったのである
幹部と現場の乖離がありまた東京の中央の幹部と福島の現場との乖離があった
そこで意思疎通ができなくなっていたのである
流れ作業ばかりしていたら自分はこんなロボットのようなことはしたくない、ではどうすればいいのか?必死で勉強すればよかったとなるのである
そういうふうに人間は経験からしか理解できないのである
だからFラン大学とは痛切に勉強しないことを後悔するようになる

ともかく20代でそうして正規の社会からはずれた結果として変な方向に行くようになったのは20代で人生の行路が決まっていたからである
例えば赤軍とかの人は日本航空機をハイジャックして北朝鮮に行った
そこで遂に一生を過ごすようになった、子供すらそこで育てていたのである
でも日本に帰りたいとなったのである
何か北朝鮮のスパイのような仕事をさせられていたのである
そこでもその時人生の方向が決まってしまったからである
だから20代で人生の行路が方向が決まる、そのことが自覚できない
別に人生は長いのだから道を誤ったらまた引き返せばいいとかなる
でも実際は引き返せない、方向がきまり誤った道でもそのまま行くほかなくなりたちまち老人になっていたのである

人間が道を誤るのはなぜなのか、それはそもそも目的とか動機が悪いからだともなる
事業に失敗した人は別に理系で優秀だったし一級の免許をもっていた
でも事業をはじめたのは自分は優秀でありその優秀さを示すために見せてやるためだったとなる、そんなことで事業をはじめたのかとなるとそれが失敗したとしても当然だとなるそれに同情もできないとなる
そんなことで事業などしたら他者の迷惑だとなる

人間の不可解なのはなぜそんな行動をするのか?

その動機は何なのか?

推理小説では動機をまず探る、なぜ殺したのか?その動機は何だったのかとなる
つまり事業でもそういう行動をしたのはなんのためだったのかとなる
もちろん金儲けしたいということはあってもその他の動機があってする
俺は億万長者になって優秀なところを見せたいから事業をする
そういう動機だとするとその時周りの人はなんとみるだろうか?
そこからして出発点からして間違っている

だから戦争でもそんな一大事を国家の運命を決めるの動機は何だったろうとなる
なぜなら3百万人も死んだら結果論してなぜそこまでしなければならなかったと問うようになっているからだ、でもなぜ戦争になったのかその戦争の原因は動機は何なのか70年過ぎてもわからないのである
ただ戦争終った後にいろいろ理由をつけているだけなのである

いづれろにしろ20代で人生が決まるとか言われるのはその方向が決まってしまうからである、そして誤っても引き返せないから怖いのである
それで「若い時神を覚えよ」となる、なぜなら神を知るのは20代とかまででありそれ以上になると知る機会がなくなるとしたらいかにその時を逃したらもう神を知るチャンスがないとしたらそうなる

つまりチャンスは二度と来ない、神を知るチャンスはその時を逃すと二度と来ない

これを知れば恐怖である
でも20代では様々な欲でも噴出する、性の欲望でも極大化してとめられない
他にも欲望があふれるように出て来る時でもある
結局そうした欲望に目がくらみ神を求めよと言ってもできない
そのうちあっというまに老人になっているのである
だからみんな人生は後悔なりとなっている
だから勉強することでもなぜしなかったとのかとあらゆることで後悔するのである
なぜ旅しなかったのかとか外国に行かなかったのかとその後悔することは老人になるといろいろある、でもみんなそうして後悔して死んでゆくだけなのである

求めよ、さらば与えられむ

そこに神を求めよとでありその外のものを求めすぎるのである、そこから人間は道を誤るのである 

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2020年05月28日

abstract painting-Hokkaidou

  
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コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由 (原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)


コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

(原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)

流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱です。アフリカ、中南米、中国の奥地など未開の地において、土地開発や農耕地の拡大による自然破壊、動物の乱獲、密猟、売買などが繰り返されることによって、自然界に埋もれていたウイルスと人間が接触するチャンスが必然的に増えてしまいました。

江戸時代もまた、地域ごとに最も適応度の高い社会を作り、経済を分散させることによって全体の適応度を上げていました。ところが、いま世界中で進行しているのは、地方分散型社会とは真逆の、画一化としてのグローバル化社会です。

コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

コロナウィルスで変わる世界 (生態系を無視して人は生きていけない)


人間の生活は生態系を基にして成り立っている、その生態系というとき人間はもともと一地域で自給自足でまかなっていた
村が単位の経済だったのである、江戸時代がまさにそうだし実際は明治になってもその延長だった、だから子供の時本当に自給自足の江戸時代の生活だったのである
水道も電気もない生活である、水は井戸でありまた燃料は炭であり薪でありトイレは外のトイレであり農家の人がくみ取りして肥料にしていた
そしてその土地土地にとれるものでおよそまかなっていた
交通が発達していないから運ぶにしても馬車とかなると運べないからである

この運ぶというき鉄道ができたとき確かに運ぶことが飛躍的に発達した
福島県ではもともと小名浜から船で運んでいたのが常磐炭田ができて蒸気機関車で東京まで運ぶようになった、その他網の目のように森林鉄道がはりめぐらされて木材とか石材とかを東京に運んだのである
つまり運ぶという時主に東京にこの辺では運んだのである
そして何か外から運ばれるものがまれだった、地方では地方でとれるもので地産地消していたのである

運ぶといっても海でとれた魚を運ぶだけで苦労である、短い距離でも運ぶのは労力なのである、自動車などないからである
だから魚を売るということから行商が始まったということがある
松川浦の魚を売る人がいたからである
運ぶという時どうしても海を交通路にして運ぶということが楽である、もちろん海は危険だったか陸を運ぶとなると自動車も鉄道もないと海を運んだ方が楽である
だから北前船が日本海を通じて運んだのである
明治になり鉄道ができて運ぶのは不便となり廃れたのである
運ぶということは簡単にできない、江戸時代なら余計にできないから自給自足になったのである、それで隣の村とさえ交渉がない、隣から麦踏みの若者が大蛇だったとかの伝説が残る、つまり隣の村でもそれは得たいの知れない人になっていたのである

そういう社会だったら人は交わらないからウィルスは広がらないとなる
それでもウィルスは広がり大きな被害があった、その時医学も発達しないから被害が大きくなった
とにかく人間の生活がある一定の地域に限定されて住んで他と交わらないというのが長い間歴史的にそうなっていた
日本人は外国のように陸続きでないから海に閉ざされていたから外国とも交わらない
特殊な環境にあった、大陸の歴史は民族の激烈な抗争でありその侵入を防ぐことができないのである、だからこそ万里の長城が作られたのである
今回のコロナウィルスでも大陸ではヨ−ロッパでも陸続きでありロシアにもたちまち拡散したとか陸続きになると侵入を抑えられないのだ
だからグロ−バル化は今回はコロナウィルスをたちまち拡散させたのである

人間は生きることに最も大事なのは本当は生態系である
その生態系でもその土地土地が一つのミクロコスモスの生態系として完結している
その生態系の基本となるのは空気と水と土と森林とかである
そこが基本としてありそれが損なわれると生きることもできなくなる
現実に原発事故では空気も水も土も森林も放射性物質に汚染されて住めなくなったのである、それだけ甚大な被害が生まれたのである
原発がミクロコスモスを破壊したのである

ではコロナウィルスとは何なのか?これも生態系を動物とか生きている場所に人間が無防備に入りこんだからだときされている、その動物からウィルスが人間にうつされたからである、つまり生態系の破壊なのである動物は地域地域の中の生態系で生きる
技術もないから自然状態では生態系を変えることはできないからその狭い生態系に適応して生きている、それでそのウィルスがでてもその外に広がらないようになっていた
コレラでもインドの風土病でありそれが人に感染してもその地域から広がらないものだったが人が移動することによって広がった

人間は生態系を破壊するというとき原発でもその一地域の生態系を破壊すると空気でも水でも土でも汚染されて住めなくなる、今でも放射性物質の廃棄場にその汚染物質が積まれている
コロナウィルスと原発事故を比べて考察してきたが何か共通性があった
自然破壊は生態系の破壊でありコロナウィルスでもそうした人間の暴力的な自然の侵入と関係していたからである
そこで自然から逆襲されたということにもなる
ミクロコスモスというときそこで生物が生きる基盤であり人間でもそうだったのである
空気と水と土がないと人間は生きていけないからである

ところが東京のような大都会になると生態系を感じない、生態系から遊離して一千万人もの人間が生きるようになった、ただ原発で感じたのは空気が汚染されたことである
でも水でも水源が放射性物質で汚染されることがありその水が危険になる場合があった
そして食料でも外国から入るからいいとかなりその土地の日本の風土の生態系を意識しなく何ていたのである
でも今回のように外国から食料を運べないとなると日本の地方に食料を依存するほかないのである

つまり運ぶ技術がこれだけ発達しても食料でも外国から入らなくなる
そうすると近くから日本国内から運ぶことになる、でもまたコロナウィルスではそうして運ぶことも危険になった、そうなると日本国内からも食料も運べないともなる
それだけ遠くと結びく経済はいいようでもその弱点と危険性を自覚したのである
だから人間は生態系とか国々の風土を無視してはありえない存在である
その土地土地に生態系に動植物のように適応するのがまさに自然だとなる
それを無視した結果としてのグロ−バル化とか広域化経済には無理があった

何かスーパーで大きなタマネギ十個くらいが150円とかで売られていた
それは何か安物でまずいものだから売られていると思い買わなかった
別にそうでもなかった、佐賀県でとれたものが大量にとれて廃棄するようになったからそんなに易く出回ったとなる、東北で九州のタマネギが入ってくる
それは今は当たり前にしても何か不自然なものを感じた
何か過剰にある地域で一種類の野菜が大量に作られているからそうなる
それは全国に売るためであり運ぶ交通が発達したからそうなったのである
だから日本でも世界でも運ぶ交通の発達がそういうふうにある場所で一種類の野菜でも大量に作るとなる                                                     

それでコーヒーばかり作っていたらコーヒーが安くなったりして食べることもできなくなったとか後進国であった、そこではいろいろな野菜を食料を作っていた
でもコーヒーだけを作っていたら安くなったり売れなくなったら他の食料がなくなって飢え死にするともなる、それは江戸時代の東北で起きた
米ばかり作っていた所で起きた、米は江戸に送る商品作物となっていて米を作りすぎていたのである、だから米が冷害とかでとれなくなったら他のものが食料がなく飢え死にしたとかなる、これもグロ−バル経済とかで広域経済で起きる

つまりタマネギが大量に作られて捨てるくらいになる、キャベツとかでもキャベツ農家がキャベツがとれすぎて安くなるからと捨てたことがあったからだ
何かこういうことは不自然なのである、その不自然なことは自然から復讐されるともなるもちろん一地域ですべてをまかなうことはできない、それがグロ−バル経済でも広域社会でも度を越したものとなっていた
そうなると金の力が大きくなる、遠くからそうしたこ食料でも買うということは金が必要になるからだ

そうして金だけが頼りになったのは土地をもてなかったユダヤ人でありそれで金融が発達したとなる、それが今のグロ−バル金融社会を作ったものともされる
そうなると金が万能になる、それで原発事故以後補償金をもらうことがこの辺では目的化してその補償金を基にして他に移り住むちようになり故郷は放置されて復興できなくなったのである
金さえあれば別に便利な場所に住んだ方がいいからである
そういうふうに移動社会になるとそうなる、一億円もらえば前ら故郷を出て都会に出たいという人が多いからだ、それで仙台市に移り住んだ人がこの辺でも多いのである

何か原発事故でもコロナウィルスでも人間の生活が自然に則らない、不自然なものになって自然から復讐されたのではないか?
人間にはそもそもそういう宿命があった、人間は自然を破壊するように宿命づけられていたからである、グロ−バル化とはグロ−バルに地球環境を破壊することに通じていたからである、だから逆に自然からコロナウィルスでも復讐されたとなる 



佐賀のタマネギ農家に打撃 外食自粛、給食中止で価格大幅下落 出荷量全国2位 

これもコロナウィルスでタマネギが売れなくなり余ってこうなった

東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。 

posted by 天華 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年05月29日

寺でも政府に給付金を要求で怒られる (政教分離は重要でも検討されない)


寺でも政府に給付金を要求で怒られる

(政教分離は重要でも検討されない)

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週刊新潮6月号


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この記事でわかったことはコロナウィルスで観光業の影響が大きかった
するて京都などをみれば観光収入が減ったかというか入らなくなった
その打撃が大きいと思った
何か京都とかなると寺は美術館なのか博物館なのかわからなくなっている
そして宗教法人になっているとその観光収入が莫大でも税金を納めなくてもいいとなる
坊主丸儲けともなる、そういうことが昔からあったからそんな言葉が生まれた

それは宗教の場ではなくなっている、高い戒名料とったり何か本来の役割がなくなっている、江戸時代までは武士の菩提寺となりそこで死者を供養することであった
また戸籍係のような武士の政治の事務方のようなものにもなっていた
それで手厚く保護されていたのである
それで変なのは明治維新になったとき廃仏毀釈運動が起きて仏像など壊されたのは神社側が天皇が強力な力をもったことで国家神道となったことで力を得て積年の恨みを果たしたとなる、それはただこれも利益を得られない、利権の問題としてそうなったのである

もともと宗教と利権は深く結びついていたのである
宗教とはもう俗化したのであり利権の場と化していたのである
だから神社にしても完全に戦争の時国家権力として機能するようになった
地方の小さな神社でも必ず戦争に出征するとき神社にお参りして戦地に出されたからである、だから必ず神社に武運長久とか狛犬の台座とかに字が刻まれている
もともとそうした小さな神社は豊作を祈るとかであり国家神道化したものとは違っていたのである

ここで仏教団体にも金銭的に支援してくれ補助金を出してくれと頼んでしかられた
税金も免除されているのに金をくれというのは図々しいとなり担当した政府の人が怒ったというのもわかる                          

そもそも寺とか宗教はなんのためにあるのか?

観光のためになるのか?美術館なのか?博物館なのかわからなくなっていた
京都とかなればインパウンドで観光客が増大した、それがコロナウィルスでぱったりと来なくなった、確かにそうなると収入が激減したとなる
でもこれまでどれだけもうけていたのかともなる、それは京都だとそうなる
それで京都では白足袋族の人といって寺には逆らえないという事情があったという
なぜならそれだけ観光でも寺中心でありそれで京都でも恩恵がある
それはあくまでも観光としてであり何か本来の宗教とは関係なくなっている
観光自体にも問題があった、観光とは何か、その前に人々の日常生活がありそこを乱さないようにすることも必要だったのである
京都などは外国人観光者の街となってしまったからである

ただ寺というのは建物とか庭でも維持するだけでそれなりに金がかかる
だから観光収入に頼る、でもそれは本来の宗教の役割ではないが観光には不可欠だとなる第一宗教の始祖とかみればわかる、あばら家に住み乞食と変わりないような生活していたからである、キリストにいたっては住む家すらなかったのである
釈迦でもそうである、そしたらそうした教祖にならうのが宗教者になるがそうはならないかえって派手な衣装を来て土地の権力者となったり観光収入で豪華に寺を装い遊んでいるともされる

そして仏教界でも利権を守るためには一致している、反目しても政府から金をもらいために創価にも相談するかともなる、でももらう資格かないのであきらめた
宗教団体からも税金をとるべきだというとき宗教界では利権を守るために一致していた

とにかくこういう政府からの給付金とか出るとなるとみんな目の色を変える
それは原発事故の補償金でそうなったことを延々とプログで書いてきた
原発避難区域ではあらゆるものが補償されたからである
仏壇でもあらゆる物権もそうであり何か私道のようなものでも補償してくれとなった
それで自分の家の前の海にも権利があるとして補償を要求した
そもそも何か漁業権というのでも強力な権利となり東電から事故前も事故後も手厚い補償があった
なんでもこうして利権化して団体化してゆくのが現代である
宗教団体も利権団体なのである、創価はあからさまにそうであるが他の宗教団体でも政治力がそれなりにあり権利を要求する、だからこそ本来の宗教とは違うのだから税金を納めるべきだともなる
でも自民党は公明党に反対できないのである

これはそもそもヨ−ロッパのキリスト教でもそうだった、カトリックが権力をもち堕落した
その権力は強大なものでありローマ帝国と一体化して権力基盤を広げたのである
だからヨ−ロッパとかでもあれだけ大聖堂とかあるのだから宗教が盛んなのかと見るとそうでもなく無神論者が増えているのである
日本でも外国から来た人が寺が多いから仏教信者が多いのかとみるがそうではないのとにている面があるようだ

いづれにしろこのコロナウィルスの影響はこうして宗教界まで及んでいた
韓国で広がったのはカルト教団が密集して起きた、何かそうして集団化して祈ることが本来の宗教からはずれている、キリストは密室で一人祈りなさいと言っているからだ
だから集団化組織化した宗教は権力化した政治化した宗教なのである
それで仏教というとき私は禅宗にひかれるのである、日蓮宗とか念仏宗は集団化して一心に題目を唱える、それで騒々しいからである
ただそういうのは大衆に受ける、集団となり一体化をかもしだすからだ
それが結局ファシズムにも通じているのである
何か宗教というのは人を心から奴隷化するのにはいいのである
それはイスラム教でもそうである、なぜイスラムの世界では科学とかでも一時は先進国だったのに停滞したのか?
それは宗教と関係している、民主主義も受け入れないのは宗教のためである
政教分離ができないのもそうである

だから意外と政治と宗教の政教分離がヨ−ロッパで法制化したがイスラムではできなかった、それがヨ−ロッパに後れをとったとのかともなる
それは中国でもそうである、中国では宗教ではないにしろマルキシズムが共産主義が宗教のようになっている、そして一党独裁であり批判を許さない
それで周りの国でも中国に同調しにくいのである
政治体制が恐怖政治であり批判を許さない体制でありそれで受け入れられない
そこで香港の自由はなくなり次に台湾は占領されて沖縄が占領されて中国に支配されてゆく、だから中国と欧米が対立するとそうした宗教化したイデオロギーの対決ともなる
それはソビエト連邦の冷戦でもそうだったからである

本当は政教分離はこうして大きな課題である、でもそのことはあまり議論もされないのである、信長は徹底して政教分離を宗教より政治の優位を寺を破壊し僧侶を殺戮することで実行したから新しい時代を作ったとされる
だから政教分離はそれだけ人間社会にとって大きな問題である
なぜなら明治維新で今度は神道が国家神道化して太平洋戦争に日本が突入したからである国家神道というときそれは政教一致になったからである
それで戦後は反省して政教分離が法律になったのだが創価とかあるように他でもそれが守られていないのである、それは結局ファシズムになる危険があるからだ
また中国が受け入れられないという時、経済の恩恵はあっても政治体制が一党独裁のイデオロギー政党であり共産化をおしつけるともなるからだ

宗教がかかわると厄介なのはなにかというと批判すると罰当たる地獄に落ちるとか集団で恫喝する
そうなると批判一切許されなくなる、それが危険なのである、宗教ファシズムになりやすいのである
ただ共産主義とは何なのか?それはソビエト連邦が崩壊して過去の亡霊ではないのか?
でも巨大化した中国でまだそれが残っている、それでも資本主義社会の中にもある矛盾である
だから中国はこうしたことで内部矛盾をきたし自壊するとも言われる
だから政教分離とは大きな問題なのだけどあまり検討されていないのである



1985年、当時の今川京都市長は古都税を創設しました。目的は寺社などの古都遺産を守るためです。京都市内の寺社へ支払う拝観料に対して課税する


古都の掟は彼らが決める。京都の影の実力者「白足袋族」は何者か

こういうことがあった、拝観料に都では税金をかけられなかったのである
だから税金を都にも国にも払っていないのだから今度コロナウィルスで観光客が来ないからと給付金を政府で出してくれというのはあまりにも虫がよすぎるとなる
白足袋族というのも京都の強力な利権団体だったのである
だからあらゆるものが利権団体化すると社会を歪めるのである

本来の仕事はなになのか?本来すべきものが何なのか見えなくなる
ただ利権だけを金だけを追及するようになるからだ
それは原発事故でも起きた、漁業権でも本来は資源を守るものだったけど手厚い補償金を東電からもらう団体と化していたのである
それだけではない、そういう本来の仕事を目的があるとしても利権団体化して歪められるのである

お寺が持続化給付金と引き換えに失うもの

ここでは税金をまねがれていたが政府からの給付金をもらうことは今度は宗教法人でも団体でも税金をかけられてもしかたがないとなる
なぜなら拝観料でも税金をとるなと京都府に抗議してそれが認められたからだ
だからこそ今回給付金を払えないとなったのである
それで給付金を払いというのは法律的にも理屈に合わない身勝手なのである



posted by 天華 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性 (権利を与える目的が見失われていた)


原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性

(権利を与える目的が見失われていた)


原発事故のことを追及してきた、その原因は何なのか?それを現場なのだから追求し続ける立場にあった
そしたらコロナウィルス騒ぎになった、これも何なのだろうと原発事故の経験と比較して考察して来た、そこに共通の原因があった
するとなぜ社会自体が歪んでくるのか?そこに共通の原因がありそれを知るべきだとなる
再三漁業権を東電に売ったということで漁業組合を批判して来た
これはどういう経過で起きたのだろうか?

まず東電で原発を作る⇒漁業権をもつ漁業組合と交渉する

「ここに我が東電では原発を建てます、海は汚すことはありません
でももしもの場合として補償します、その金は払いますのでご了承願います」
「補償してもらえるならいいでしょう、漁業権を売ります、でも補償は十分にお願いしますよ」
「わかりました、補償は十分にさせていただきます」

なんかこんな交渉があった、でもここでおかしなのは漁業権の権利が与えられた目的はなんだったのか?

それは漁業資源の保護であり東電に漁業権を売って補償金をもらうために与えられたのではない、確かに漁業をするために海産物を汚されては困る
でも汚されるても補償金を払うから容認されたのである
だから漁業権を与えられた趣旨と違ったものとして利益を得るために漁業権を売ったのである

権利を与えるのはもともと権利はライトであり正しいから与えられる
また最初は権利は権理と訳されていた、何か権利を与えるには理に適うことで必要だからである
ところが権利は利権にもなる、最初から利権になれば金になればいいということがどこでも起きている、権利を与える目的がありその目的より金になればいいとなってしまう
そこであらゆるものが歪められるのである
それは漁業権だけではない、あらゆるものがまず金になればいいとしかなくなっている
それが社会全体を歪めているのである

今回のコロナウィルスでもそうである、給付金を寺にもしてくれと政府に要求する

ところがそもそも寺は何のためにあるのか?

僧侶はなんのためにあるのか、何の目的をもって社会に存在しているのか?
それが見失われている、それで観光客から金をとるときその金に税金を京都府でかけようとしたら仏教組合で反対して税金をかけさせなかったのである

観光はそもそも宗教活動なのか?

お布施とかありそれは何のために金を払うのかとともなる
つまり金を払う方でももらう方でもその金についての明確な理由があいまいなのである
そもそも寺が何のためにあるのかということもあいまいだから観光税をかけるというとき宗教行為だから税金をかけるなとしている
では宗教行為とは何かとなるとこれもあいまいなのである
別に外国人が寺に来るのは仏様を信仰するとか何の関係もないからである
主に寺の美術品とか庭を美の鑑賞とかになる
でせもともと寺は観光のためにあるのではなかった、その目的からは観光ははずれていたのである、そこで莫大な収入ともなるから京都府では税金をとりたいというのは自然なの事である

こういうことは常に社会にある、会社を経営するときでも何もを目的としているのか?
まずもうければいい、金になればいいとなる、利益にならなければどうにもならない
だからあくどいことでも客をだましてでも利益をあげることが優先される
銀行でも投資信託とかむずかしいものをすすめて手数料をとる
その目的は何か不明でもまず利益をあげればいいとかなる、客でも金になればいいとしかならない、第一投資するにもなんのために投資するかというより金になればいいとしかならないからである
だから投資する方でも目的がただ金になればいいとなりわからないのである

宗教というのがある、でも宗教活動とは何なのか?

これも不明でありあいまいなのである、神を仏を信じることだとなっても創価などは選挙を第一として政治の権力を得るための活動になる
だから選挙が最大の仏法の戦いだとして仏に祈り一軒一軒回って必死に一票を獲得に回るだからその目的が宗教活動ではない、政治活動になっている
教理にしても王仏冥合の思想が日蓮宗にあり王は政治であり仏と一体化する社会を作るということでもそうなる
でもそれは現代の法では政教分離で禁止されている、それは神道が国家神道となり戦争で三〇〇百万人死んだという反省で生まれた法律でもある
現実に創価の創始者の牧口常三郎は戦時中弾圧して獄死したとかあるからだ
これでもまた政教分離を主張することになるが政教一致祭政一致の集団となっているのも矛盾なのである

こういうことはこの世の中に常にある、宗教でも権利を主張する、でも宗教が権利を主張するとしてもともと宗教の勤めはなになのかとなる
宗教活動に税金をかけないのは宗教行為だからとしている
また国が援助しないのは国家権力が宗教に関与しないからだとしている
だから常に権利と利権{利益}と目的が相反するものとなり矛盾してきて社会をゆがめる
権利を与えることには責任がともなう、それで資本主義社会だと金がよりあるものが実は責任が重くなるということがある
金をもらうことは得ることはその金に責任がともなっている
それでヤクザが金をもらったから殺すんだとというときそのもらった金に責任をともなっていたからそうしたとなる
つまり何であれ金をもらうこと得ることでも責任が課せられているともなる

民主主義はただ個々人でも団体でも常に権利を要求してそれが利権になっていた
そこに責任があることを自覚しない、権利が与えられることは責任がともなっていた
漁業権は資源の保護であり東電に売って金を得ることに与えられていなかった
だから事故になってその責任が問われる、なんだあいつら東電から事故前も豊富な補償金をもらい事故後ももらっている
それは回りの者が事故後に気づいたことであり別に事故にならなければ責められることも気づくこともなかったのである
実際はそれは権利を与えられたとしても責任が重いものだったのである
だから何でも金になるからいいというのは相当に問題なのだけど現実は金になればそれでいいいとしかないのである

税金にしてもそれがどう使われているかも不明なのが多い、コロナウィルスの給付金でもそれが利権化して目的とは違って使われる、そのことは原発事故でも起きたからである
ただ金になればいいとしかなくなる
原発事故でも地元住民でも金になればいい、あとは関係ないとなっていた
ただ事故後にいろいろ考察すると原発を作るのはその土地に住めなくなるほどの被害を出すのだから相当に互いに検討して納得してから作るべきだったと今では思う
責任は必ず誰かがとらされる、地元で住めなくなったということで地元住民は責任をとらされたからである
でももし地元に住めなくなるということがイメージされてそれを納得の上に原発を建てさせたかとなると疑問になる
そういう例が近くになかったので真剣に地元の人たちも考えなかったのである
それよりまず金だ、金になればいいとしかなかったのである

ただ一般に人は今や金のことしか考えない、あとは考えることもめんどうになる
その人の前に金をが積まれればそれがなんであれ従うのが資本主義社会だともなる
でもそうして金と利益だけに目を奪われると矛盾してくるしまた原発事故のように地元に住むことさえできなくなる
そういう教訓を事故から得たということもある
ただ一般的に大衆となると金を積めばそれでたいがいは通る、それで本来の目的となるものが見失われる、それはどこでも常に起きている問題なのである

人間社会はともかく何か考えるより金だとなるのがわかりやすい、また何か理屈など考えずに宗教だったら題目を唱えるとか楽だからそれがポピュリズムとかファシズムになりやすい、何のために働いているのか行動しているのかも考えない
まず金になればいいとなり若者は上の人に年配者に権力者に使われるとなる
だからどうしても本当は若者は必ず何か不正を社会に感じる
それを感じないとしたらその若者も人間としておかしいとなる
つまりおかしいな、こんなことしていることは人間として許せないとか何か義憤を感じるそれを感じないとしたらもうすでに社会の悪にどっぷりとひたってしまったのかもしれない、そうなるともう改革はありえないのである

結局人間の社会は常に腐敗でありそれの絶えざる改革を迫られる、それは限りがないのである、その原因は人間社会をそもそも治めることができない、それで改革は永遠につづき人類が滅亡するまでつづくほかない、そして最後は滅びなのである
真の理想の国は天にしかなく神がその作られた国を与えることによって成る
人間に理想の国は作ることは不可能であり必ず何か不測の事故が起きたり混乱したりして右往左往したりとバブルの塔のようになる
それが人間の宿命であり人間が人間によって理想の社会を作ることは不可能だとなる




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2020年05月30日

見えない貧困の問題―分断される社会 (ローマの奴隷の方が恵まれていた?)


見えない貧困の問題―分断される社会

(ローマの奴隷の方が恵まれていた?)

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絶望令和の貧困を語ります。(中村敦彦)

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クリック拡大、デュラント(世界の歴史)



あらゆることを考える時必ず歴史をふりかえり考えると見えてくるものがある
映画とかで見るとローマの奴隷など過酷だとみる
剣闘士にされて戦わせられたりただ残酷にしか見えない
でも現実はどうだったのか時代が過ぎるとわからなくなる
まず奴隷制度ができたのは人間の進歩だったとされる
なぜなら戦争に負ければ皆殺しにされた、でも奴隷として生かされたことは進歩だったとなる

だからこのデュラントの指摘も歴史の見方としてあるのかなと読んだ
なぜこのように主人と奴隷が同じ人間として遇されたのか?
そしてむしろ奴隷というより家族の一員のようになったのである
これに興味をもったのは人間の歴史では必ず富裕な者がいて貧しい者がいる
また地位の高いものがいて低いものがいる
強い者がいて弱い者がいる、今でも上級国民と下級国民がいる
それで上級国民のことを下級国民はうらやましがり責める
ただ社会が変化するとそうした差も変わるのでわかりにくくなる

現代では奴隷などいない、みんな自由であり差別はないとなりいい社会だとなる
ところがこのデュラントの奴隷について語ることにも共感するのである
それは人間というものがどういうものか?
いくらそこに金持ちとか身分の差があっても同じ屋根の下でまた家族のように生活していれば自ずと情愛が生まれる
それは別にローマだけではない、現代で不思議なのは江戸時代であれその前でもやはり身分差があって侍の家に仕える人たちがいた
また身分の高い者に仕える臣下がいた、でもそういう人たちでも一緒に生活することで
忠義の心が育まれていた、殿様の子供の乳母(めのと)となり家臣が育てることで家族のようになり忠義の心を育てることに役立った
そこには身分差があっても対立するだけではなかった
ここが現代で理解できなくなったのは現代というのはまずそうした協働性とか共同体が喪失したためだろう
それは封建制時代までであり日本でも明治維新からは資本主義になりそうした人間が情愛で結ばれるということが消失していった

ただ人間関係の歴史を外国でもヨ−ロッパでも貴族と召使階級があり召使が認められた仕事だった、それでチップ制が生れた、なぜチップを払わなければならないのか日本人に理解できないからである
ヨ−ロッパには明確な階級制がありそれが今日でもつづいているともなる
なぜこのことに興味をもつようになったのか?
それが自分の家に他人を入れて多少働いてもらうようになった経験からである
日本でも戦前は女中がいた、家事手伝いである
中産階級でも女中を二人も必要としていたと女中が女性の仕事であった
私の母は東京で女中の仕事をしていた
女中は女性の勤めさきとしてあった、そして今女中という言葉も死語となり差別語となった

今はお手伝いさんとかはいる、でもそもそも家の中で働くということはなくなった
その原因が家事が機械化したことである、それで私は全部家事も一人でしてこうして毎日プログに文を書いている
それを全部一人でできるのはパソコンとか通信の発達とか家事の機械化でできている
だから別に女中をお手伝いさんを雇う必要もないのである
ただ一人だから話し相手として来る女性がいる
それでその人が貧乏なので金だけ要求されるともなる
もし戦前のようだったらまず家事に追われて何もできない、勉強も文章書くことすらできない、家事に追われていた、第一米を炊くだけで洗濯するだけでどれだけの労力が必要だったかを知ればわかる
人間が電気を使いそういう労働から解放されたのである

ただではなぜ人間は必ずしもローマ時代の奴隷とかまた身分差があっても仕える人と比べて何か不幸なのか、かえって恵まれていないのか?
それは貧困とかが貧しい人が見えなくなったのである
それよりシステムで見えなくさせられたのである
だからこの貧困をテーマにして取材している作者でもそのことを言っている
つまり上層の人と下層の人は交わらなくなった
実は上層の人と下層の人はどうしてしも家事労働が重荷となっていたから下層の人を雇うことがあったが今は機械がするからなくなった
そこでかえって人間と人間のつながりが消失したのである
そこにかえって分断が生まれたのである

人間というのはいくら金持ちでも上層でも一緒に生活していれば必ず情愛が生まれる
その情愛があって忠義が生れたり奴隷でも家族のように扱われたとういことがある
現代はかえってな上層と下層は分離してそこに対立しかないともなる
そして貧困が見えない、貧しい人がいても見えない社会になった
生活保護者は生活保護者として区別されて分離されて隔離されて暮らしている
これは意外と危険なことになる、社会が分断されるとそこにかえって対立が露わになり
貧しい人たちが上層を襲う暴動が生れるとされるのもそうである
そして現代の価値観は金さえあればいいしかなくなった
だからたとえお手伝いさんとか雇ったとしても非常に危険なのである
戦前でも女中がいたし封建時代の江戸時代でも上の者と仕える者でも情愛で結ばれていたとかあり忠義の心があった、しかし今はない
それで金さえあればそんな上も下もない時代である
するとそうして家族の中に入ってくるとどうなるのか?
主人がいないとき金を盗むことしか頭になくなって屋探して盗むことしかないとなる
だから現代ではいかに家に入れることが危険なのかわかる
ただ裕福な家でももともとそうしてお手伝いさんを雇っていた金持ちの家はそうして家で働くことで信頼されていたからできる
それが普通の家ではできないのである

とにかく現代というのはまず情に欠けた社会である、そして貧乏が見えないという時、
機械が労働者となり奴隷というときシステム化された奴隷ともなる
いろいろな下働きでも時給いくらとかなるのは下働きでありでもシステム化してそういう人たちは奴隷ではない、でもその人たち現代の奴隷なのかもしれない
良く俺は社畜なんだよなとか言うのそうである
現代にも奴隷制があるがかえって過酷だともなる
なぜなら機械化ロボットのように扱われているからだ
むしろ戦前であれ江戸時代であれローマ時代であれ人間には情があるから情として通じるものがあり奴隷にも情愛が生れていたから奴隷が一概に不幸だったともならない
それはあくまでも比較でそうなる、ただ歴史の現実は今と比べてもわからない
むしろ現代の方が情が消失して過酷だともなっている

上層の人たちが下層の人たちと交わらない社会は社会が分断されることであり危険になる互いに人間として理解できなくなりそうしているうち対立が深まり不満が大きくなり暴動にもなる
そして現代は金が唯一の価値とするとき下層が成り上がるには株とかまたFXとかの博打のようなものにで一攫千金を試みほかないのである
でも株でも元金がないと資本主義ではもうけられない
意外と自分で株を投資信託でもしてわかったことは大きな金があれば増えやすいということである、失敗があるにしても大きな元手があると増える金も大きくなる
金が金を増やすのが資本主義のルールなのである
だから金持ちはより金持ちになり貧乏人はいつまでも貧乏から這い上がれないのである
それがいづれ限界にきて暴動が起きると予測できるので実は上層にとっても金持ちにとってもいいことではないのである
治安も悪くなり南米のように金持ちは子供が誘拐されて身代金を要求されるとか安心して暮らせなくなるのである

このyoutubeで貧困のことが実際の取材をして語っているからリアルである
何か不思議なのはyoutubeで語るのと本で読むのとは違っている
何かわかりやすくなる、だから本だけから人は理解できないと思った
その人の経験したことを語るには何かささいなことでもつまらないと見えることでもyoutubeでは語られるから身近になる
この人は本を相当だしている、でも読んだこともない、でもこうしてyoutubeで語ると身近になるのである
だからこれから本の作者もyoutubeで語る時代だとなる
ただそこで金をもらえるのかとなると相当数登録者を得ないと無理である
でも本だとなかなか読むことが抵抗があってもyoutubeだと気軽に見れるのである
ただ何か深く考察するには本を読むのがいい、私の場合は深く考察するから文章の方がいいししゃべるのが苦手なのでこうして毎日ブログで書いているのである

posted by 天華 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)


夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)
   
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下太田

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高速に遠くより来ぬ青葉かな

黄菖蒲やなお陽の明るし野良仕事                              


夏菊に矢車草の交じり咲きスーパーヒタチのここを行くかな

蛙鳴く植田の縁に萱草の咲きて白鷺の餌あさるかな

影なせる奥の家かな蔵ありて菖蒲の咲けり石の重しも

夏の日のなお輝くや一面に菊の白くも風にそよげり


鉄道でもスーパーヒタチが通るのと通らない差が大きいと思った
その車両に魅せられたとなる
普通の車両はかっこういいとならない、その差が大きい
夏の日に田園を走るのが気持ちいいし絵になっている
鉄道は何か自然と融合するからいいのである
ただ鉄道の問題はせっかくスーパーヒタチが通るようになったのに客がほとんど乗っていないのである、これはまだ当分つづく
まだ一回も乗っていないから乗ってみたいが出にくいのである

蛙が鳴き植田があり萱草が咲き鷺が餌をあさる、この光景は見慣れたものだけどこの辺ではずっとそういう光景が一時消えたのである
それから田が元にもどり蛙が鳴き鷺が来るようになった
田んぼは生態系に融合したものとして自然の一部となっているからそれがなくなると蛙でも鷺でもいなくなるのである
それで蛙が鳴き、鷺が戻って来た時復興したと思った
田舎だとこうして生態系とともに生きている
都会だったら街の復興というとき建物とか道路とかインフラの復興になる

でも浪江の人は回りが草ぼうぼうになっているのにそのことで何も感じていなかった
仕事は東電でしていたから田畑に関心がなくなっていたのである
つまり田舎でもそういう都会人になっている人が結構いる
第一田畑で仕事している人は一割くらいであり他の人は別な仕事をしているからである
だから自分もそうだったが意外と農業のことがわからないのである
自ら米作りしたり野菜作りしている人は少ないからである

ただ生態系とともに生きているということは田舎では普通は感じる
コロナウィルスでも生態系のことを言われた、何か不自然に人間が生態系に入り動物からウィルスを感染する、だから原発でも生態系を破壊されたからコロナウィルスでも共通していたのかとなる
地球規模で生態系の自然の破壊がもう限界に達していた、だからコロナウィルスが自然の逆襲として広がった、また自らの生態系を守るためにウィルスが出てきたのかともなる

柚木(ゆぬき)の家は隠れようにあり何か蔵がありその前に大きな岩がありどっしりとしている、この家を見たとき何かここで営まれた生活の重みを感じる
家構いからしてそうなのである、兜屋根でありたいがい養蚕した場所がある
だからどれだけ養蚕が盛んだったかわかる
今になると地元に根付いた生業というのが大きなものとなっていない
当時は外から何か物が入ることなくやはり自給自足的な生活を継続していたのである
ただ養蚕は絹織物は輸出するためのものだったのである

とにかく大都会には生活の重みを感じられない、家自体がなにか狭苦しくおしこまれたようになるからだ、この家はどっしりとしている、岩もいい岩である
ただ家を勝手に写真撮ったりすると見ている人がいる
実は庭に隠れて人がいたのである
それに気づかなかったのである、それでとがめられたことがある
田舎では人がいないようでいる、そして見ているのである
誰もいないと見てもいるし見ているとなる、やはりこういう場所に来ると目立つのであるあの辺は木陰が多いから自転車で行くと気持ちいい場所である

2020年05月31日

農業を知らなければ自然も田舎もわからない (今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)


農業を知らなければ自然も田舎もわからない

(今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)

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「鍬ハ国々にて三里を隔ずして違ふものなり」と述べ、各地の特色ある鍬を図示しているが、この中に「若州小浜辺之鍬」「越前敦賀ニ用ル中鍬」が含まれている。鍬は刃と柄の角度が大きく、頭上から打ち下ろして土中深く耕す「打ち鍬」、刃と柄の角度が小さく、土中深く打ち込むのではなく、土を浚え移動させるのに便利な「引き鍬」、その中間で、粘質土に適した「打引き鍬」の三つに分類される


乾田では土が硬くなっているので、まず深さ20cmくらいまでの土を細かく砕く「荒起こし」を行います。その後、深く耕すためには人力による鍬では対応できないため、牛や馬の力を用いる馬耕とセットで奨励されました。
「乾田馬耕」により、収量は倍近くになり、稲刈りの後に麦などを栽培する裏作が可能となりました。

明治後期に入ると馬耕用の犂が使われます。堆肥を田んぼ一面にまいてから、牛や馬に犂を引かせて土を起こします。


年内に全県の112万ムーの土地を「大きく生まれ変わらせる」計画であるという。そして、土地は深く耕すことにより、水と肥料の呼応化を充分に発揮させることができ、収穫量を数十%から100%、数百%も増加させることができると述べた。

これに対して毛沢東は、5月27日八期二中全会で以下のように述べて、全国に長葛県の経験を広めるように呼びかけた。

「一尺五寸の深耕は大きな発明である。長葛の経験は全ての各県に問題を投げかけている。もし長葛県が今年一年で全県の耕地112万ムーで深耕をおこなったとすると、別の県でできないということがあろうか?一年で無理なら二年、二年で無理なら三年、三年で無理なら四年、四年で無理でも五年ならできるだろう!」

《若干重大决策与事件的回~・t,薄一波著,中共党史出版社,2008-1 


今の機械では土は深く掘れない
牛馬で鋤で掘りおこしたとき深く掘れた
何か機械の方が深く掘れると思った、だから意外だった、土を耕す掘るということは土作りに不可欠である、土を掘ってまぜるとかで土作りになる
農業の基本は土作りである、それは花でもそうなのである、土が良くなかったら花すら咲かないのである
深耕という言葉が何かひびくものがある、文化がcultureでありcultivateが基である
つまり文化というのは農業から土を耕すことから生まれたのである
俳句の季語でも農業から生まれているからである
だから本当は農業を知らないと俳句すら理解できないとなる
つまりこうして文化の基は農業にあった、ところが肝心の農業を知ることは容易ではない田舎に住んでも今は農業している人は一割にもみたない
農業がいかに苦労が多く様々な技術も必要であり道具も必要であり知識の範囲も広いのである
だから農業の世界は奥深いし簡単に知ることはできないのである

ただ自然を知りたいなら農業を実地ですれば体で自然を知ることになる
私の場合はただそうして外から見ているだけであり実地に体で知りえないのである
ただ実地でわずかの畑で野菜作りしている女性から聞いた話で興味をもったのである
ただそこではほとんど何もとれなかった
そこで道具代から肥料代から苗代から薬から金ばかりかかっただけである
正直十倍の金はかかり収穫はほとんどなかった
ただ農業の苦労話を聞いただけである、ただそれでも農業とはどういうものか実地に知るということがあった、その知るために金を払ったともなる

私のように自然を実際の農業をするのではなく何か芸術的に精神的なものとして見る
それでは本当の自然がどういうものか体得することはできない
農業を実地にして実りを得ている人は実地に自然を体得している
ただ農業していたら何か文章書いたり知的なことはできなくなる
それだけ手間であり体力も使うからである、とても家事から何から一人ではできない
要するに人間はあらゆることに通じることができない

でも田舎に住んでいて農業を知らないということは肝心なことが欠けているのだ
それで浪江町の東電に電気関係で働いていた人が回りは草ぼうぼうでも何の関心もない
それで東電で働いて金を残したとか全く田舎に住んでいて農業に関心もない
それで周りが草ぼうぼうでもなんとも感じていない、東電の社員であり農業とは関係なく住んでいたからこの人は全くの都会人になっていたのである
だから田舎に住んでも今や仕事は農業ではないとしたら農業のことはわからない
戦前では8割が農民だったとかあり戦後も引揚者が農業するために開墾に入った
そういう場所がすぐ近くに残っていた、現実にそういう人を子供の時知っていた
つまり戦後焼野原になったとき仕事は農業するほかなかったのである
その後十年くらいして電器製品が売れて高度成長時代になったのである

例えば田んぼがあるとして田んぼに水を張ることで稲作が飛躍的に発展した
つまり田んぼに水を張るということが様々な効用があり稲をとるのに進化した形態だった水の効用でそうなった、その前は乾田であり陸田とか陸稲だったりしたからだ
つまり農業というのは道具でもそうだが絶えず進歩してきたのである
だから本当は人間は自然をしるためには農業を知ることが不可欠である
でも田舎に住んでいても田畑に囲まれていても実際に農業を知っている人は少ないのである、そもそも農業を仕事にしなくなったからである

毛沢東が農業を指導していたからこそ農民の心を知ったとなる
つまり農業の実地の指導者でなければまた国家の指導者でもありえなかったのである
そこに毛沢東の偉大さがあったがそれは農業をしていないと理解できなとなっていた
それは中国は農業国家だからそうなっていたのである
でもその後工業国家になったときやはり農業が軽んじられるようになった
それは世界的に共通している

とにかく深耕というとき何かこの言葉に魅かれる、深く耕すとはあるゆることに言える
あらゆるものは深く耕してその知識でも技術でも深めてゆく進歩させてゆくものだからである

富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。麦の実りは冬から力を入れてきたからである稲を仕つければ秋には実る。米の実りは、春から丹精して(心を込めて励んで)きたからである

こういう思考は農業を実地にしていなければ生まれないのである

音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経(きょう)を繰り返しつつ(二宮尊徳)

二宮尊徳には芸術的に見ていない、自然には音もあり香もある、天地の経を読むということは天地を知ること土を知ること自然を知ることが農業だったからである
人間とは絶えざる努力なのである、今あるものは田んぼすら水を張るということが先人の工夫として生まれたのである、だからそうした歴史を知ることがあらゆることで人間を知ることなのである

おそらく江戸時代から明治維新でも工業化しても戦後十年でも依然として農業が基本でありそこから文化が生まれていたのである、工業でも道具を作ることで農業と結びついていたのである
だから現代が農業から心でも離れたという時、小高の人は親が農業していたが金にならないので農業だけはするなと殴られたという、つまりそのことはいかに農業というのが農家自身で苦労が多いだけとなって捨てたのである
でもその時何が起きたのか?原発に農業を捨てた子供は働くようになった
そのことで空気も水も土を汚染されて故郷に住めなくなったのである
自然を守るとういが実は実際に自然で生活している人がいて守られるということがある
狩猟でも動物をとるのは殺生だとするがそこで動物とも自然とも深く交わる術を学ぶのは農業と同じなのである、そういう生活から人間は都市人間は離れすぎてしまった
自然という時何か自分自身がそうなのだけど表面の美だけを見たりしている   

実際は自然の中で食料でもいろいろ自然を活用したとき自然を知るのである
自然を守るとういうが森林でも外材に頼り肝心の自国の木材を利用しないとき枝打ちとかしなくなり森林は荒れてしまったのである
だから自然を守れとか景観を守れというが自然と深く交わるには自然の中で生活して自然を利用して活用する時自然を知るとなる
そういうことが第一田舎に住んでいる人さえなくなっていたのである
それは自分のように表面的にだけ自然を風流として見ているものも同じである
何かそういうことから自然を知るといってもそれは観念的になる
ただ正直農業をするということは体力的にきついから知的な仕事をするとなると両方を兼ねることはむずかしくなるのである

posted by 天華 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題