2020年05月21日

黒川検事長は朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていた


黒川検事長は朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていた 


黒川検事長は今月1日と13日に緊急事態宣言が続く中、朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていたと『週刊文春デジタル』で報じられていた。

黒川弘務が懲戒免職まっしぐら!3密賭けマージャンで完全詰み状態

これも原発事故で起きたこととにてたいる、丁度福島原発が爆発したときマスコミの幹部が中国に招待されていたのである
それも右左関係ない、産経新聞でも朝日新聞でも招待されていたのである
こういう人たちがどうして原発の原子力村の「安全神話」に疑問すらさしはさまないことがわかる、つまりなぜなら「安全神話」に加担したのがマスコミだったからである
マスコミは権力と癒着しやすいのである
マスコミは報道は権力におもねるとしたら公正な報道ができない

なぜマスコミが堕落するのか?

それは権力とかかわりその権力にとりこまれるからである、そもそも権力とかかわるとき警察でも検察でも情報を得ること自体が権力におもねないと得られない
そして記者クラブとかがかえって権力のおかかえとなり権力者によって操作されるだけだとなる、そうしていれば楽だし利益の分配が受けられるからである

それからなぜマスコミが堕落するのかというとそもそもマスコミでも報道することに莫大な金がかかっていた、新聞をみればわかる、いちいち新聞を配るだけでその費用を大きすぎる、するとその金を工面するのにどうするのかとなりとても自力でまかなうことができない、それで宣伝費でまかなうとなる、その宣伝費でも会社から払ってもらうのだから
どうしても宣伝費を払う会社に忖度してその会社の悪があっても目をつぶるとなる

それげ福島民報などは創価の聖教新聞を刷っている、そうしたらそうした団体の悪口を言えないのである、そういうことは東電でもそうである、電事連から800億円の宣伝費が出ていた

原発再稼働政策を推し進める安倍政権と歩調を合わせるように、電力業界は広告費を増やし、再びマスコミを“カネ”で漬け込んで“原発タブー”を作り出しているのだ。

この電事連には右も左でも共産党でも組合員が入っているから強力である
第一電力無しで今の社会は成り立たない、電力で働く人も多いしまた電力を使う社会なのだからそうなる
だからこそ莫大な宣伝費がマスコミに支払われる、それで批判を封じることができる
つまり金でマスコミでも報道でも買われるとなる
福島県にも政経福島とか財界福島とか雑誌があっても一か月一回くらいだしてそれが賄えるのか?出版になると金がかかるからだ
だからなんらか会社とか他にも援助がないと出せないように思う
そこで何か必ずそうして金を出してくれる会社でも忖度するようになる
政経東北には渡部恒三がかかわっていたようだ
福島原発の推進のボスだった人である、だからそういう方面からも何か援助があったのかとなる

そしてマスコミの特徴としてマスコミ自体が一つの利益を共有する組織ともなっている
なぜなら他社を批判しないルールみたいなものがある
むしろ他社と競って真実を明らかにするようになった方がいいのである
でも互いに批判しないからみんな一様であり真実が見えないのである
かえって赤旗であり創価の聖教新聞であれそれが偏っていてもそういう党派のものとして見るからいいとなる
福島民報はあと半分は県で出資しているとなると官報と同じたとなる
そうなると真実を知らせることはありえないのである
でもマスコミの問題はテレビ局でもはNHKでも中立で公正を装っているから問題なのである、他社の記事でも互いに批判しないからかえって真実が見えなくなっている

それでなぜ福島原発が爆発したとき全マスコミの幹部が中国に東電に接待されていたのか?それは東電の宣伝費が大きいからである
それはほとんどのマスコミが報道がそうだったのである
創価関係の潮とか第三文明とかは全マスコミの二番目くらいに宣伝していて宣伝費をもらっていたのである
第一そこで雑誌を出す最初の仕事は宣伝費をもらうために会社に行くことである
そうなると東電が最も宣伝費を払うのだからお得様になり原発の原子力村の「安全神話」を支える強力なシンパとなる
それは朝日新聞でもそうでありみんなそうだったのである
福島県の報道関係でも全部そうである、だから「安全神話」を支えるものとしてあり
真実は県民に知らされなかった 

ともかく権力と癒着することは避けられない、何か情報を聞き出すにしても権力者が情報をもっているのだから記者はマスコミでも独自に調査できないのである
また権力と権力が癒着しやすい、検察と政治家が時の政権と癒着しやすいのである
今回はそれが露骨に現れた事件だった
マスコミでも報道が大事になるのは民主主義では何か知らされなければわからないとなるからだ、とすると知らされないのだから判断しようもない

それで福島原発でもそうだった、科学者の一団が十数メートルの津波が来る!

このことを自分は知らなかった、そもそも原発に関心がなかった
30キロ離れているし関係ないと思っていたのである
でもこのことを強く大々的に報道していたら違っていた
そんな津波来たらどうなるんだと注意するようになるし調べる人もでてくる

今になってそのことを知っていて科学者が警告していたのに東電は安全を計ることを怠ったから責任があるとされたのである、津波だけの原因ではない
十数メートルの津波が来るとして備えをしなかったとして裁判でも認められたのである
別にこのことは隠蔽する必要もなかった、かえってもし大々的に報道されて警告されていたら津波に警戒して助かった人もいた
すると東電に感謝されていたともなる

とにかく権力と報道でも癒着しやすい、第一権力がないものが取材すらできない
一ブロガーなど相手にされないだろう
ただインタ−ネットで一億総記者にもなった、今度はyoutubeで個々人がテレビ局にもなった、すると六局で独占したテレビ局でもマスコミでも対等化され水平化される
飛びぬけて力を持っていたマスコミの力がそがれるともなる
でも取材力となるとインタ−ネットでは力が劣る
だから何らか権力を監視するものが必要である
それで三権分立となった、権力を分散して監視する、行政を監視するのが検察だとなる

その検察を監視するのは何なのか? 

検察を監視するのはマスコミとか国民世論しかないというのが問題なのである
なぜなら東電にはこうした権力者が天下り先としてあった
検察でも警察でも自衛隊でも海上保安庁とかの官僚の天下り先となっていたのである
こうなっていたとても監視することはできない
だから権力の暴走をとめることができなくなる、そうしてその結果として国民が関係ないようで必ず誰かが責任をとらされる、戦争では暴走して300百万人が死んだように原発事故では故郷に住めなくなったように必ず誰かが責任をとらされるのである
でも東電の幹部は一人も責任をとっていない、政府でもそうである
だからこういいう構造自体がシステムを直さない限り同じことが起きる
それでまた電事連とかで宣伝費を増やして原発を推進しようとしている
まあれだけの事故が起きてもたりずにそうしているのである

おそらくそういうシステムとかを批判しても個々人のモラルの低下があり正せない
記者魂とかあったというときそうなのだろう、何か日本人自体魂(たましい)が喪失したそれは戦争に負けて大和魂も喪失した
何かうしろに魂がつくときそこに命を駆けるうなものが生まれる
職業倫理が日本では・・・魂だとなる、ただ利だけを追及するのではない
魂(たましい)を追及するのだとなるからだ
日本人は戦争に負けてその魂がぬかれたのかもしれない、ただ利益を求めるだけとなったそれは上らか下まで全部そうなのである、金になればいいしかない、その他のことは考慮しなくなったのである
金のために魂を売る、それが普通の状態でありそれに疑問すら感じないのである
そうしていると原発事故になって故郷にすら住めなくなったのである
だから上から下まで腐って日本自体が滅びに向かっているともなる

報道を考える時をどうしたら公正になれるのか?

金がかかりすぎる報道だとできない、インタ−ネットとかだと無料でもできる
ただ取材とかなるとむずかしくなる、だから何らか組織が必要になる
それも大きくなると金がかかりまかなえないのである
奇妙なのは公正になるには権勢家でもかかわらないことだとなる
どうしてもそこで忖度するらようになるからだ
それで引きこもりの隠者が向いているとかなるのも奇妙である
そういう人は人とかかわらないしかえって公正に見られるとなる
なぜなら人間は誰でも交際すると情実が生じやすい、そこで忖度するようになる
この問題でも権力者と記者の間で親しくなりすぎるとどうしても情実が生れて
秘密の情報でももれやいからである 

ただ引きこもりとか隠者になっていては社会をのこともわからなくなる
それも問題なのである、そのことは自分自身だった、ただ人間関係からはどうしても情実が生まれやすい
そこで必ず忖度するようになり不公正になる、だから検察とかは特定の人と記者でもあまり親しくなると今回の様な問題が起きるから戒めねばならないとなる

タダで情報を得るということは、事実上、タダ働きしている人がいるということだ。そんなビジネスモデルではジャーナリズムは維持できない。

このようにジャーナリズムを担う人が必要である、それが誰になるのか?
権力を監視するためには結局権力が必要になる、その権力をマスコミに与えられていたがそれで不公平になった、マスコミがかえって第3の権力となり社会を歪めた
その本来の使命を果たさなくなった、それは朝日新聞が戦争をあおったりマスコミが歪めることが多かった、今は新聞よりテレビ局が社会を歪める
それでyoutubeが生まれたがこれが権力を監視したりできるのか?
それだけの力を持つことができるのか?それにも無理がある
第一では権力者の取材ができるかとなるとできないからだ
常に陰謀論ばかり語られる、直接取材できないから陰で推測だけだともなってしまう
結局権力を監視するには権力が必要でありまた権力を与えると堕落するとなる
それで権力は絶対的に腐敗するとなるジレンマになる
そこに人間の限界があるともなる、人間を裁くとき人間に限界があるからだ
だから公正な裁きはシオンにより成されるとなる

民をさばく主権者はあくまでも神です。その「さばき」は「義と公正をもって」なされます

この世ではいくら三権分立で公正を実行しようとしてもできない、システムをいくら作ってもできない、そこに抜け穴があり不公平がある
それを実行できるのは神しかないとなる
人が人を裁けない、裁くなというときそれだけ裁くことは人智を越えているためである
人の心をみる神だけが裁けるとなるからだ
だから法の番人でも最高権力者の検事でも裁かれる方にもなる
裁く者が裁かれる者になるのである





posted by 天華 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年05月22日

コロナウィルスで変わる世界 (生態系を無視して人は生きていけない)


コロナウィルスで変わる世界

(生態系を無視して人は生きていけない)



風土病に対する一般的な認識と同様です

すなわち、感染症の発生地域の人間・動物・植物には、何らかの耐性があるのに対して、遠く離れた地域の生物には免疫がないとするものです。

かつてのペストのように、元々はアジアの病気であったものがヨーロッパやアメリカに広ると、被害がより大きくなる傾向があります。

グロ−バル科学技術文明の批判 (生態系を破壊してコロナウィルスでも世界的災禍となる)


文明は滅び生態系は残る (原子力文明は生態系を破壊し滅びる)


人間は生物の一種である、その制約を受ける、その地域に風土に適合して生きざるをえない、その土地に合った食料がありその地域にあった暮らしをする
それが文化なのである
コロナウィルスでもウィルスは風土病だというときその土地に発生した病気でありそれはその土地だけに広まり世界に広まることはなかった
コレラでも江戸時代なら長崎から広まったのはそこが外国の玄関口となっていたからである
港からウィルスが入り安いから水際作戦が大事になる

人間は大航海時代からヨ−ロッパ中心の世界になった、ヨ−ロッパの侵略を受けてきた
アメリカにヨ−ロッパから人が入ったときその原住民のインデアンとか南米のインカとかメキシコのアステカとか古代文明人にウィルスがもたらされて大量に原住民が死んだ
それが呆気なく征服された原因だと見直されている
それだけウィルスの影響が大きかったのである、それは今回のコロナウィルスで証明された、社会を自体を世界を変えるような働きを目の当たりにしたからだ

大航海時代からヨ−ロッパ人が世界を席巻して侵略して征服した
それはいい面と悪い面をもたらした、悪い面は世界が交わることはかえって対立を産み出して戦争になった、第一次第二次世界大戦となり大量の人が死んだ
日本でも3百万人が死んだ、世界が交わることがいいように見えてそれが戦争になったのである、その惨禍はあまりにも悲惨だった
その負の面の大きさは何だったのだろうと世界史をふりかえる

例えばなぜ江戸時代三百年は日本が鎖国していても中国とも朝鮮とも平和な関係を結んでいた、それが欧米の侵略で対立関係になり戦争にもなった
それはヨ−ロッパの侵略が原因していたのである
ヨ−ロッパの侵略に対抗するためにアジアを守るための戦争ともなったのである

国と国が交わる時、その土地土地の生態系から国は長い年月をかけて作られている
だからヨ−ロッパ人だと肉食するために特別の酵素がでる、日本人は穀物を主に食べるから腸が長くなるとか体質的にも違ったものとして作られてきた
おそらく風土病というときまさにその風土から生まれた病気だとなる
だから世界が交わらなければその一地域の風土病として終わっていた
つまり世界に広まることはなかったのである

現代のようにグロ−バル化したとき世界中に瞬間的にも同時にウィルスも広まった
つまり悪いものも同時間で広まる、それを避けることができない
そして多国籍企業とかが世界を席巻する、それは国よりも大きな力をもち世界まで支配するようになる
そこでオラウータンの住んでいた広い森が破壊されてオランウータンが住めなくなったりする、そのことはそこに住んでいる人に影響する、森を破壊することはその土地の生態系を破壊することだからである
一地域は生態系に依存して住んできたからである

生態系とは空気とか水とか土と森林とか生物の基本的ベースとなる環境である
その環境が破壊されたら人は住めなくなる
それで原発事故が起きた周辺では空気も水も土も森林も海も放射性物質で汚染されて住めなくなったのである
東電とか原発はそうした一地域の生態系を根こそぎ破壊したのである
それだけ技術力が巨大化して簡単に一地域の生態系を破壊できる力を企業とか多国籍企業とかがもつようになったのである
東電は一地域の生態系を破壊した、それは世界でもそういうことが起きている、大企業がアフリカであれどこであれ未開の地に富を求めて進出する、するとそこに住んでいた原住民の生活が破壊されるのである、生態系を破壊するから住めなくもなる

江戸時代は生態系に依存して国内でも村ごとに自給自足の生活であり貿易があったとしても小規模であり基本的に村ごとの自給自足だったのである
隣の村人とすら交わらない、隣村すら異国でありそこの人は異人になっていたのである
確かに世界的交わることのいい面はある、でもそれが極限に達して限界になっていた
中国人が大量にインパウンドで日本に来る、それはまるで侵略だったのである
現実に北海道は中国領になるのかとまで見えたり京都は京都でもなくなる
外国人が押し寄せて悲鳴をあげていたのである

もちろん外国の文化とかにふれることは悪いことではない、そこで異文化と他国との理解が深まる、ただそれも限度だったのである、なぜならそのために自国の文化すら生態系でも環境も破壊されることになる、中国人があれだけの数がいると日本近海の魚でもとりにくる、魚がとりつくされるという恐怖にもなる
いなごの大群がおしよせて食い荒らすような恐怖になる
でも江戸時代三百年はそういう恐怖はなかったのである
中国側にすれば日本が戦争しかけてきたとか殺戮されたとか責める
それはもともとヨ−ロッパの侵略に対抗するためにそうなった一面があった
その元凶ヨ−ロッパのアジア侵略にあった、それに唯一対抗したのが日本だったのであるだから中国と日本の対立というより世界史的視野で見なければならない
現実に今度は米中対立となり戦争にもなるとなっているからである

だから何かこのコロナウィルスの不思議はそうした大航海時代からのヨ−ロッパの侵略やアメリカの世界支配を見直すものとなった
つまり世界が交わるグロ−バル経済とかの負の面が増大していたのである
もう限界に達していたのである、それはそれぞれの土地で長い時間でその風土に生態系に育んだ生活文化でも破壊するからである
その技術とかの巨大さが簡単に一地域の生態系でも破壊する
すると技術をなんでもいいものとして受け入れることも危険になる
何らか技術の制約とかまた巨大化する多国籍企業とか大企業とかを制約することが必要になる

つまりこれからは制約の時代になる

地理的に風土的に制約されない世界がグロ−バル社会だった、でもコロナウィルスであらゆる面で制約される社会になる、それがすべて悪い方に向くとはならない
人間とは何か制約されて生きる、その制約された中で文化を育む、アイディンティティを作ってゆく、それが人間本来の姿だとなる、なにか現代文明の制約なき社会はかえってアブノーマルであり異常だったのである
だからニューノーマルな新しい生活様式というときやはり基本は生態系を基本にしたものに帰らねばならない、復帰する復古するという傾向になる
国風文化の時代になる、日本の歴史は奈良時代は中国の文化をとりいれた、その時漢字を取り入れた、唐風文化の時代でありその後に平安時代になり宮廷の女御がかなを発明して国風文化になった、次に鎌倉時代になり武士の時代になった        

その時貴族の仏教から武士の仏教となり庶民の仏教となった、その後信長がでて安土桃山時代となりキリスト教も一時的に入り外来文化と日本文化の融合が起きた
戦国時代が終わると鎖国の江戸時代となりまた国風文化の時代になった
そして明治維新になり西欧化した、次にアメリカに負けてアメリカ化して次はまた江戸時代への復古が起こり国風文化の時代になる
そういうサイクルが日本の歴史にはあった
その時ちょうどコロナウィルスが世界に蔓延したというのも不思議である
コロナウィルスでこれだけの変化をもたらしていることが驚きである
人間だけの力では世界は変えられないことを見せつけられたのである




posted by 天華 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)


桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)

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ここは田んぼだった

そこに桐の花が咲くが田んぼがないから活きていない



石すえて白藤垂れぬ暮るる庭

この道を通りて猫や藤垂れぬ

藤垂れて猫じっとしてここにいる

雨しとと塵もつかずに桐の花


長々と白藤垂れてこの家に大きなる石すえて暮れにき

我が庭の木の実啄むヒヨドリの今日も来たりてつつがなきかも

ひそけくも桐の花散るこの道を今日も行きつつ災いなかれ

桐の花散りて静けき裏の道今日も行くかなひそかなるべし

なかなかに電車来たらじ黒揚羽線路をよぎり舞いさリ消えぬ

梅雨のようになった、桐の花がいつも行く道に咲いている
桐の花は会津の花である、桐のタンスとか有名だからである
桐の花でも田んぼに写すと映える、ところがこの辺で田んぼが荒地になっているのがまだ多い、ある程度は回復しても放置されて草ぼうぼうになっている
そこに桐の花が咲いていても何か活きていないのである
桐の花と田んぼが一体のものとしてあった
つまり景観とかは暮らしの中で作られてきたのである
だから原発事故以後そういう暮らしが失われて景観も失われたのである
自然は原始のままならいいが人が住んだとき人の暮らしと一体となり景観も作られてきたのである
それがこの草ぼうぼうの中に一本立っている桐の花が活きていないことに現れていた

写真の白藤の家は石を飾っている家として有名である
あそこは土手の道でいつも通っている
あの石は大きいし見ごたえがある、そこに白藤は垂れて咲いている
その土手の道に藤の花がたれる、そしていつもそこに猫がいる
猫と藤は似合っている、

写真をとりそれを絵にする、また抽象画にする、パソコンのソフトを使いこなせばそれができる、ただソフトを使いこなすことが容易ではないのだ
ただパソコンは人間の能力を頭脳を補うものとしてある
だから今までの機械とは違っている
AIが第二の脳となっていることが違っている
翻訳でも本当に人間より優れていることに驚く
現代はコロナウィルスでテレワークになったように家で個々人で仕事する時代になる、教育でも学校だけで習うものではなくなる
その時才能がかえって伸ばせて天才が相当数生まれるようなるかもしれない

そもそも才能はその人の資質もあるが環境の方が大事だからである
いくら才能あってもその才能を伸ばす環境がないと埋もれるのである
これから個々人が才能を伸ばす活かす社会になるのかもしれない
在宅が主になるということは集団ではなく個々人となり個々人の才能を育てるということに変わるのかもしれない
まず学校のような一様化した集団教育では才能は開発されないのである
自分は学校を卒業してから才能を開発してきた
それで何か絵の才能が全くなくても写真をとり抽象画にしたり加工して絵にしている
そのことが自分でも不思議なのである
だから人間の才能はこうして機械によっても開発されるものだと思った

ヒヨドリが毎日木の実を食べにくる、何であんな小さな実を食べて生きられるのか不思議である、飛ぶことには相当エネルギーが必要に思えるからだ
何か他にも食べているのか?
鳥は虫を食べている、虫はタンパク質があるからエネルギーになる
でも八つ手の木の実は小さいしそれがエネルギーとなるとは思えないのである
ともかく今は下の庭の見える部屋にいる
だから庭を見るからそこに自然があると安らぐとなる
自分の家は広いから知的作業をするには最適な環境である
大学生の時から書斎が自分にはあった、そういうふうに自分は恵まれていたのである

まず在宅で仕事するとなると広い家が必要である、そこで子供とか妻とかいれば仕事に集中できないからだ、それで問題が起きている
となると在宅のテレワークとなると大きな家が必要になる
ただ通勤とか車とかはあまり必要なくなる
その分大きな余裕がある家が必要になる、ただそうなると家は高いから問題である
何か邪魔されないように仕事をノートパソコンもって公園で仕事していたというがそれでは仕事に集中できないから問題である
そういうふうにコロナウィルス以後の仕事は変わりそれに備えることが必要になる
それは必ずしも悪いことばかりではないと思った
新しい時代の働き方でありまた学び方にもなるからだ

2020年05月23日

南相馬市の介護殺人事件 (2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)


南相馬市の介護殺人事件

(2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)

南相馬市原町区のパート従業員、愛原正人容疑者46歳。
愛原容疑者は先月2日、自宅で、母親の隆子さん(当時70歳)の顔に布団をかぶせるなどして、死亡させた疑いが持たれている。

46歳では若いのに70歳の母親の介護で殺人事件になった
70代が介護される時代になった、それで2025年問題が言われる

2025年の日本は、団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類が経験したことのない『超・超高齢社会』を迎える。
現時点でも、軽度のものを含めれば、少なくとも820万人が認知症を患っているという厚労省のデータがあります
2025年には今の1・5倍、1200万人以上が認知症になっていてもおかしくありません」(国際医療福祉大学教授の高橋泰氏)

全国民の10人に1人がボケている。そんな国が成り立つのか、

この母親は認知症であり夜騒いでいたから布団をかぶせて黙らせていた、それで死ぬことになったとかニュースで聴いた
介護殺人はこれからもっと増えて来る、認知症の介護が一番つらい
そしてここでは男一人で介護していたようだ
それで手に負えなくなった、私も認知症の介護で四苦八苦したことをプログで書いてきたこの病気は何か理解できなかったから不安だった
狂気になったのかとも思った、それで怖かった

そして認知症は誰も相談できる人がいない

認知症について相談する人がいないのである、医者も相談してもわからないからだ
治療方法もない、するとどうするのか?
それは介護して自らその方法を見出すほかないのである
原町で民間の認知症相談をしている所がありそこに行ったが何の役にもたたないし助けられない、看板だけである
そこは女性だけであり男性の相談者は行っても相手にされない
つまり男性は介護で一番苦しい状況に追い詰められるのだ

認知症の介護に方法がていというとき認知症の症状で似たものがあってもそれが肉体の病気ではなく精神にかかわる面が多いから余計にめんどうなものとなっている
症状として直前のことが忘れる、その時ただ忘れたというのではなく盗んだと騒ぐ
その犯人になるのが一番身近にいる家族なのである
それは一種の狂気の症状なのである、この時その興奮を鎮めることが必要になる
盗まれたというときすごく興奮する、だからサイフでもなくなったものがありますよと落ち着かせるのである、それでいつも身近でその様子を見ていなければならないから何を置いたかなど知っておく必要がある、それで離れられなくなるのである

そして認知症の介護では広い家だったら狭い部屋で暮らさせる、狭い部屋だと看ている人もサイフがどこにあるとか通帳がどこにあるとかいろいろなものがどこにあるか管理しやすいからである
それで二階に着るものを置いていた、ところがそれを忘れたのである
その時なくなったと泣いていたのである、つまり一階と二階では離れているからそうなったのである
狭い部屋で生活していればそういうことはない、一階と二階と行き来することは管理しにくくなるのである
それは今自分は狭い部屋で仕事している、書き物をしている、狭い部屋にそのためのものを置いて整理するようになった、その方が管理しやすいことがわかった
ただ本が多すぎて狭い部屋に置けないのが問題なのである
常に身近に置いて見ていると管理しやすいのである
だから狭い部屋で認知症の人を介護して管理するのがいいのである

いづれにしろ認知症の介護は至難である、その方法は家族によっても個々人によって対処方法が違ってくるからだ、家族もいろいろであり他からわからないことがありそれで適切なアドバイスもできないのである
そして田舎でも近隣の付き合いが薄れている、するとかえって田舎では苦しんでいる人がいるとそれを話題として楽しみにもなるのである
だから自分の場合は何ら助けもなかった、相談する人もいない、まず認知症は相談できない、それが家族とか何か病気だけではない複雑に関連しているからである

ただ自分は特別良くされていたし世話になったとかあり必死に介護した
そのうち認知症について理解するようになった
認知症の不思議は確かに直前のことを忘れるとか狂気の面があるのだが何か人間としてわかったことがある、つまりこれまで経験したことを覚えていて何か人間として通じるものがある
最初は何なったのかわからなかった、だから怖かった
最も親しい人がそうなることは恐怖である
でも介護しているうちに何か今までのことがわかっていて心が通じあうことができるものがあった
それでだんだん安心するようになったのである
ただ正直何か騒ぐことがあった
だからこの人も騒ぐことがありそれを抑えるために布団をかぶせて抑えようとしたから死んだのかとなる
ただ詳しい事情はわからない、自分の場合は死ぬときに感謝してくれるように頭を下げたそのあとすぐ死んだのである、だから介護してくれたことに感謝してくれたのだと見て救われた、つまり認知症の謎は人間としてわかるものがある
だから全くの痴呆とも精神の狂気とも違う

そして認知症は時々正気になる!

これも恐怖である、何もわからないのではない、正気にかえることがある
それで死ぬとき孫に何百万やれと遺言を残して死んだ
これも驚きだった、第一金のことがわからなくなっていたからだ
でも実際は金のことでもわかっていた、その時正気になっていたのだ
孫のことに心をかけていてそう言ったのである

だから本当に認知症は不可解な病気なのである、わかることは正気の面があり人間としてわかることがありそうなるとどうなるのか?
もし冷たく扱うとそれがわかる、それで恨んで死んでゆく人もいる
その時後味悪いものとして死んでも残りつづけるのである
それが介護の大きな問題なのである、私の場合は介護できたのは特別に良くされたからである、それで苦しかったのだけど必死になって介護したのである
それは当然だったのである、だから家族というのはみんな違っているから介護になるとそうした事情がでてくる
それで兄弟でも一番世話になった良くされた人が介護しろというのもわかる
そうでないと介護もできないとなる

いづれにしろ2025年問題は深刻になる、介護された女性は70代だった
団塊の世代は75になると介護される人が増えて来るし10人に1人が認知症になるというのも恐怖である、私自身もそうであり体が弱っている
それが怖いのである、認知症は本当に一番怖い病気だと知ったからである
ただこれは何か人間として正気の面がありそれがわからないから厄介なのである
これは個々に事情が違うしなかなかアドバイスしてもできない面がある
ただ認知症特有の共通の症状かありそれはアドバイスできる
でも現実に相談できる人はいない、また身近にも助ける人がいないのである

そして介護殺人が増えて来る!

これは間違えないのである、介護される人が増えればそれに比例して増えてくるのである介護で国が崩壊するとまで言われる、それだけ深刻な問題になるのが2025年問題なのである、経済的にも日本が貧困化して団塊の世代が氷河期世代を子供の場合が多い
だから子供も貧困化しているから経済的にも介護できないとなる
国民保険4,5万でどうにもならない、その息子もまた独身なのが多いのである
だから子供がいても介護で窮する人が多いのである
この場合は母親を男性1人で介護していたので同じような状況だったなのかとなる

NHKの「福島の経済と暮らし」で放送 (相馬の水産業のコロナウィルスの影響ーその人は近くの人だった)


NHKの「福島の経済と暮らし」で放送

(相馬の水産業のコロナウィルスの影響ーその人は近くの人だった)

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震災から回復していた、でもコロナウィルスでまた減ったのはショック

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こういう食堂は濃厚接触になるから営業できなくなった


この放送ですぐ近くの人が映っていたので驚いた
松川浦の魚の仲卸業であり主に飲食店とか旅館とかに魚を卸す仕事をしていた
それはわかっていたがテレビに映ったので注目した

コロナウィルスで魚が売れないという時、東京の新宿の食堂で福島産の魚を食べるのを写していた、東京で自粛があり食堂などが閉鎖されたので売れなくなった
何か飲食業に卸している人がいる、それは農業でもそうなのである
それでコロナウィルスの影響があった
飲食業とかホテルとか観光業が一番影響があった

ただ原発事故で海が汚染されたけど漁業関係者は生活に困ることはない、特に船主は困らない、原発事故前も以後も補償金をもらっているからだ
これは前から書いてきた、その補償は手厚いのである
だからこれもおかしいと追求して来た

そしてやはり漁業関係者が津波で家なくして近くに家を建てた、だからこの辺では漁業関係で仕事している人がそれなりにいる、前は小高の人が松川浦の魚を売りにきていたのである
今回の魚の仲卸の人は漁業組合とは関係ない、補償がない
魚をとったものを売る商売だからである、だから三分の一とかなると苦しいとなる
回復しないというのもその商売をつづけられるのか?
その人は一つの会社として経営していた
事務の女性もいたからそれなりの収入がないとつづけられないともなる

ただ魚の需要はある、でも観光とか飲食業とか旅館でもホテルでもそれが回復しないからそう言ったのか?
売り上げが三分の一に減ったら苦しいだろう

何か田舎で何の仕事しているかわからないようになっている
この辺は原発事故以後に大熊とか双葉とか浪江とかから移住してきた人が多いから余計にそうなった、だから新しい街が三つくらいできた感じにもなる
今でもまだ建売の家が建っている

ともかくコロナウィルスの影響が身近にあった一例である
前はすぐ近くの人が東京のライブハウスに行って感染したというときも驚いた

新宿の食堂では淡路産の何かと陸奥産と磐城産とかメニューが全国的豊富である
何かそれを見てうらやましくなった、かえって地方はメニューが限られている
どうしても外食するからうらやまく見たのである
東京だとさらに食べ物だと金があれば外国のものでもなんでもあらゆる料理を楽しむことはできる
そこが都会の利点だとはなる、自分の住んでいる地区は弁当さえ売っていないからだ

とにかく食事にはこまる、いろいろなものを使うからめんどうすぎるのである
それでステーホームで三食用意するのが大変だと学校が休校になり母親が嘆くのもわかる
給食の方がいいとなるのだ

posted by 天華 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年05月24日

磐城太田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)


磐城太田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)

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菜の花の隣は麦畑になっている、麦を栽培するようなった
ここはもともと田んぼだった

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磐城太田駅は無人駅である、そこに菜の花が咲いていたので待って写真をとった
鯉のぼりも見えたから絵になっている
撮り鉄も面白い、その撮影ポイントを探すことからはじまる
乗り鉄から撮り鉄に変わった、とういのはここ十年以上旅していないからである
私は車窓から常に風景をながめていた
それは贅沢な時間だった、でも鉄道趣味でもいろいろある
模型を楽しむのもあるしメカもある、自分はメカには弱い
ただ鉄道は風景にとけこむから絵になり写真になるから好きなのである

菜の花や電車を待ちて写真とる

ただ写真を撮るのに待っている、乗るためではないのも変である
そしてコロナウィルス騒ぎで電車に人が乗っていなのである
これも奇妙だった
ただ自粛が解除されたのでこれから乗るようになるのか?
それでも東京まで行くのはまだ危険である
原町の食堂では幸楽苑とか狭い場所で密集してラーメンを食べていた
あれもあんなに密集してコロナウィルスにうつらないのか?
何かそうした不安もなくなっているようである


資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ (草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ

(草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


田舎はいわば運命共同体
手入れが悪くて害虫を発生させた場合
当人だけではなく周りの田畑までまで影響が及ぶ
最善を尽くして被害が出たならばそれはたまたまその家が出ただけであって自分から出たかもしれないので地域全体でバックアップするし助け合う
ただ最善を尽くさずむしろ怠惰によって周りに被害をもたらしたものは許されない

この意見は面白い、どこに書かれたかわからなくなった

農業は毎日草刈が仕事である、草は刈っても刈っても生えて来る

怠けていると雑草が生えて来る、それで困るのは自分の畑を持っている人だけではない
隣でなまけて草を刈らないと困る、だから隣の人が怠けることが許されないのである
この辺では畑をやめてそこが荒地になると草が生え放題でありそれで困る
日本はヨ−ロッパとか違って乾燥していない、絶えず雑草が生えてくる
湿潤だから雑草が生えてくる、そういう風土である

農業は怠けられないのである、まず脱穀機ができたのは戦後まもなくであり精米するにも手間がかっていた、米を作ることは田植えからはじまり草取りがありまた手間がかかっていた、つまり米を作ることでも怠けられないのである
だからみんな勤勉でないと農業は成り立たない、それで一人でも怠けることは責められることになる

一方で狩猟とか牧畜は根本的に違ったものである、そこにあまり勤勉さを必要としていない、牧畜でも羊を放牧して自由にさせる、羊飼いは何かじっと見守っている
何か手を加えなくても羊は勝手に草を食べる、ただ草のある所に移動する時羊飼いは働くとなる、つまり移動することが働くことになる
それで馬を使用したりする、馬が不可欠になる

何か稲作とか畑で仕事するのとは農業は根本的に違っている、そこから形成される人間の感覚でも人間自体も違ったものとなる
狩猟とかなるとこれも何か勤勉に働くことではない、獲物を一発でとらえる
そこに必要なのはその獲物を捕らえる道具である
弓矢であり槍であり鉄砲とかでもある、そこで自ずと道具が発達したとなる
それが戦争の道具ともなった、何か稲作とかだとその道具が戦争になりにくい
そういう差が文化の差となり文明の差となった

それをなぜ知るべきかとなるとそもそも人間社会を導いたのは狩猟民族であり牧畜民族であり遊牧民だとなるからだ
ただエジプト文明は麦を栽培して農業文明だった、なぜならビールまで作っていたからである、ピラミッドを作ったのも農業の定着文明だからである
それはマヤやインカの文明にも通じている
とうもろこしを主食とすることは農業文明だったとなるからだ

なぜ日本人は一様に行動したり規律的になり村八分にしたりするのか?

それは稲作とか集団的に組織的一様化する労働からそうなった
そこで誰か一人が勝手な行動はできないし怠けることは許されないのである
それが草取りに現れていたのである
つまり一区画の田でも畑でも勝手にするわけにはいかない、それが草取りに現れていた

ここで詳しくは探求できないがこのことを思ったのはそもそも資本主義の精神というのがなになのかである
それう知るためにこうしたその基本となるものが資本主義の精神を形成した原動力は何かということである
それは勤勉な農業とも違う、何かそれは狩猟や牧畜、遊牧民から生まれた精神でないかと思った
ただその両方もある、何かを食料でも貯えるということは農業にあるからだ
資本主義にも資本を貯えるこということがあるからだ

ただ一発大きな獲物を捕らえるということは農業にはない、それで大航海とかを農民だったらしない、それはまるで違ったものだからである
航海はやはり海で魚をとっていた漁民から発展したのかとなる
どうしても船を操作することにたけねばならないからである
だから漁民が商人ともなる、遠くへ海をわたり品物を運ぶことになるからだ
つまり狩猟でも遊牧民でも移動することで共通している
農業文明は土地に定着して移動しないのである

つまり狩猟とか遊牧民だと狩猟は獲物を得るために弓矢とか道具が発達する
遊牧民は移動する、それで馬を使うようになる
どれだけ効果的に移動できるかが問題になる
それは何か資本主義に通じている、資本主義はグローバル化したがそれはその根底に移動するということがあった、移動して富を得ることがあったからだ
狩猟民でも獲物を求めて移動するからだ、
人間は人種より白人だとかアジア人だとかで区別するのではなくその生活形態で分けるべきである、アーリア人が残酷で世界を支配したというよりそもそも狩猟民であり遊牧民であるということが根底にありそうさせたとなる

ただ二つの生活形態で簡単に分けられないという面はある
なぜなら狩猟民とか遊牧民は大きな文明を作れなかった、大きな文明は四大文明でも農業文明であり定着文明だったからである
モンゴルとかは遊牧民の大帝国を一時作ったとしてもそれはただ拡散しただけであり何か文明を作ったとはならない、ローマは文明を作った、ローマ人は農民だったのである
質実な素朴な農民がローマを作ったのである
これも農業文明だったのである

ただ資本主義の謎はあらゆるものを資本とする、資本蓄積してそれで投資して富を増やしてゆく、物でも土地でも資源でも債権化して商品化して投資の対象にする
だから大航海時代に船の株主となりもし船が無事に荷物を積んで帰ってきたら株主は大きな利益を得た、しかし船が沈没したらゼロになったのである
そういう冒険的なギャンブル的なものがあるのが資本主義である
常に市場では株は上がり下がりしているからである、そこに必ずリスクがあるからだ

いづれにしろ何かコロナウィルスでこの移動が制限された
それはグローバル化が止められたとなる
グローバル化が限界にきてもうこれ以上拡散できない、縮小を余儀なくされたのである
それは自然環境にしてもグロ−バルの負荷が大きくなった
経済成長を追及してゆくと自然環境が破壊されて原発事故のように住めなくなるからだ
そのためにコロナウィルスが神がばらまいたのかとまでなる

資本主義が限界に来たという時、銀行がもう投資先がない、貸す会社もないということに現れている、銀行は金を貸して利子でもうける、でも何か設備投資して新しく商売する新しいものを作るということでも限界に来た
AIとかがもてはやされるのはそれは頭脳のことであり何か今までのものとは違っている
だから不思議なのはすでに2000年前に仏教であれキリスト教であれその後のイスラム教であれ宗教が興隆したのは何か文明がすでに発達した結果として内面化の精神文明が生まれたとなる第一僧侶とか牧師とかでも生産にたずさわらない、ただ瞑想しているということは生産に寄与しない人間だとなる
そんなことは日本だったら絶えず草取りしているのとはまるで違ったものだからである
瞑想して働かないということはその瞑想している人に食料を与える人がなければできないのである

いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済でありそれはコロナウィルスを契機として見直される、限りなく経済成長することは世界の自然環境を破壊することである
そもそもコロナウィルスはその土地の風土の自然環境を壊した結果としてそこからウィルスが生まれたということになるとまさに自然破壊がコロナウィルスでも産んだとなるからだ、自然からの警告だったともなるからだ

これから資本主義でももう投資先がない、それで銀行の役目もなくなる
そして宗教てあれ哲学であれ何か内面志向、物質ではない人間の精神を重視する文明に変わる、それはローマ帝国の後の中世時代とかにもなる、日本なら江戸時代の国風文化への回帰なのである、ただそれは同じものにならない、21世紀にふさわしい精神の内面化であり文化の創造となる
パソコンとかAIとかは何か物を作るというのではない、人間の脳とか心とか精神に働きかけるものをもっているからだ
通信というのもそうである、物の移動ではない、何か情報の移動であり物ではない
物の移動はもう限界にきていたのである

だからコロナウィルスで移動できなくなったことがそのことを象徴していた
移動から定着化とか縮小化とかステーホームとかは新しい生活様式だというときそうである、それは個々人が宗教のように内面化することにもなるからだ
コロナウィルスは三密を嫌う、集団的な行動を嫌うというのも不思議である
テレワークは何か個々人化するコミ二ケーションにもなる
なんらかコロナウィルスは世界を社会を変える作用したのも時代を変える作用をしたのもやはり人間社会は人間だけでは変えられないものがあり自然の作用で神が働きかけてそうなったきかと見たのである

posted by 天華 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年05月25日

武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較 (反するものがあるが共通するものもある)


武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較

(反するものがあるが共通するものもある)

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武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話! 



武田邦彦氏と加治将一氏の日本論を比較すると私の場合どちらにも共感する
確かに武田邦彦氏は日本礼賛であり鍛冶将一氏は縦社会の日本階級社会の元凶は天皇を頂点とした既得権階級の利益のためにあるとしている
一方で武田邦彦氏は天皇は偉いというのではなく天皇を頂点にして後は平民はみんな平等にしたシステムだとしている
つまり日本はまれにみる平等社会だとしている

ヨ−ロッパ―とか大陸は王様がいて貴族がいて90パーセントは征服した異民族でありそれは奴隷だった、それでslaveがスラブになりそれが奴隷民族をさしていたとなる
つまり戦争で民族同士が戦いそれで優劣を決めて負けたのもが奴隷にされる
その過酷な世界が大陸一般に通じる社会だったのである
だから新種差別なども黒人奴隷なども未だに形が変わってもアメリカに継続されている
コロナウィルスでも白人とかより倍も感染して死んでいるからだ
アメリカは超富裕層と貧困層に二分化されている

要するに日本は世界でぱ特殊なのでありそうした奴隷が階級社会があるのが普通の社会なのである、人間は歴史的に優秀な貴族と奴隷になる人間とに分化していた
その優秀さを決めるのが戦争だったのである
だから大陸の歴史は戦争の歴史だったとなる
日本も戦国時代があったし戦争があったにしても大陸と比べると熾烈な民族絶滅させるような過酷な戦争はない、適当なところでおさめる、殿様が腹を切れば戦いは終わりその殿様に仕える家臣は助けられるというのが多い        

それでまた戦争しても敵味方塚など戦った敵味方でも供養している
それは東北に攻めてきた九州と薩摩長州の兵でもそうである、それは碑として残されているのである、なぜ敵を供養するのかということが中国から来た人には理解されない
なぜなら中国では敵の墓を暴いてもばっしているからである
つまり中国も大陸でありその歴史はヨ−ロッパとにている、絶えざる異民族との抗争が歴史である、日本には異民族はない、みんな日本人なのである
日本人の根底には同じ日本じゃないかということがある
それで勝海舟と西郷隆盛は江戸を戦場にしないことで合意した
それは同じ日本人として同じ武士として通じるものがあったからとしている

加治将一氏はアメリカ暮らしが長い、それもビジネスしていたのだからアメリカ人にもなっていた、もちろん武田邦彦氏も科学者としてじかに外国人と欧米でも一流の人とじかに接している、そこが日本だけにしか住んでいないものとの差が大きい
でも言うことは根底から違っていても共通したものがあるのが不思議である
加治将一氏はしきりにフラットな愛のある関係を説く、武田邦彦氏は日本人は平等だとしきりに言う、天皇がいたとしても天皇以外はみんな平等なのが日本人だとしている
そういう歴史を作ってきたのが日本人だとしている
これは一見違ったようにみえても両者とも共通したものがある
つまりアメリカが外国がフラットな社会ではなく日本こそがフラットな社会としている
両者の意見が違っているようでも加治氏が日本が縦社会の階級社会、既得権社会だとしているが日本はもともと平等社会だとしている

もともとアメリカは王様がいないところから始まった、リンカーン大統領は丸太小屋に住んだヨ−ロッパからきた開拓者であるからだ
だから当然平等社会になっていた、それでホイットマンの詩が生まれた
そこであらゆる人を詩にしている、アメリカに住む人はみな平等であり同胞だとしている確かにその時代はそういう社会がアメリカだった、今は途方もない格差社会になっている数ハパーセントの人が富を独占しているからである
だからアメリカこそ縦社会であり階級社会であり貧富の格差になっているフラットな社会でないのである、そこをなぜ加治将一氏は指摘しないのか批判しないのかわからない
それでアンテークコインに投資している、それもわからないがアンテークコインは富裕層の資産保全のために構築された場である
なぜロスチャイルドがそのアンテークコインで財産を築いてそれで世界を支配する富を手に入れたと陰謀論になるからだ

確かにホイットマンの詩はhuman flat relationになる、それに共感する
でも日本人こそが実は武田邦彦氏の言うようにhuman flat relationの社会だったとなる
同じように外国生活していても見方が違ってくる
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカが拝金主義なことや様々な悪い点を見た
そして日本のいい点を見直した、だから外国の宣教師でもキリスト教でもそれは本来のキリスト教でぱないとして批判したのである

ただ奇妙なのは両方が対立しているうよで共通しているものがある
天皇を頂点とした縦社会既得権社会だということにも私は共感する
また天皇を頂点して天皇だけは別格として後は日本人は平等だったということにも共感する
ただ加治氏がアメリカを批判しないのは理解できない
つまり今をみればアメリカがむしろ最大のフラットな社会ではない、極端な格差社会でありそれを見習うことはできない、大国はどうしても中国でもそうなように一将なって万骨枯るになりやすいのである
あれだけ巨大な国を治めるとなればどうしても強権になり一党独裁になるからだ
それでコロナウィルスにしてももうそんな大きな国を統制できなくなるのである
それでかえって小国がコロナウィルスを封じ込めることができたのはそこで政治でも治めやすいからである、ガバナンスが行き届くからである
それでまた今回のコロナウィルス騒ぎでかえって地方自治体が大阪モデルなど適格な判断ができて指導できたとされる、これも異論があるが地方自治体の方が手の届く支援も支持もできたとなる
大陸だと歴史的にどうしても巨大化して大帝国化した、そこで大量の奴隷が生れ王を頂点とした階級制が生まれた
日本にはそういうことがなかったのは日本は島国でありそれも割と大きい島国であり特殊な環境にあったからである

とにかくyoutubeの発言は他にもいろいろある、そこでかえってマスコミには出ない人が自説を展開するのはいいことである
マスコミだとマスコミの意図にかなう人しか発言できないからである
だから武田邦彦氏などはテレビに出ていないのである
拒否されてしまうのである、医師会などあからさまに批判すればそうなる
なぜなら医師会とかなるとお医者様の団体となれば怖くて批判できない
庶民だと病気になったら診てもらえないのではないかという恐怖になる
それは原発ともにていた、電事連が800億円も宣伝費をマスコミに出していたからである、それに逆らったらマスコミ自体が成立たないなにっていたからである
医師会の言うことを自民党も無視できない、選挙の時は医者が頼りになる、たいがい地方の有力者だからである

ただここで両者ともなぜ熱があったとか体に異変があって医者に行っても診てもらえなかったとかそれで死んだとかありそれは医師会のためにそうなったともしている
病気になったら病院に行く医者にみてもらうのが当然だからである
そのために保険料を払っているからである
そこでもやはり共通して怒っている、これも医療のことでもわからないから国民は気づかないし専門家の言い訳があるからわからない
それも原発で核のことがわからないと同じだったのである
専門家の言うならば従うほかないとなる、知らない奴は口だすなとなる
それで原発事故では地元に故郷に住めなくなったのである

だから両者の意見は違っているのだがまた共通しているのがあるのも不思議である
ともかくyoutubeは個人が主体だからその個人の思想なり生活なりを診るのが違っているメデアである
マスコミはマスコミが主催してマスコミの意向を通すものでありそのために人選があるそれに反するものは拒否される
それはNHKでも同じなのである、そこで意見が言えるのはNHKの意向にそったものである
それで武田邦彦氏は温暖化はないというときもうNHKは温暖化をしつこく言ってキャンペーンまでしているからNHKからにらまれてテレビには出れなくなったのである
だから福島県のマスコミもそうである
原発を批判することなどなかった、なぜならやはり莫大な広告費の分け前を得ていたからである、この報道でも相当に日本は歪められたのであるフェクニュースでも惑わされた
だからこれからは常にマスコミは糾弾される対象なのである
それは日本の方向を歪めてしまい国民を誤った方向に導くからである
マスコミ自体が批判される時代になった、それはマスコミにはマスコミの意向がありその意向にそった編集をしている

そしてマスコミ自体がフェイクニュースを平気で流している
六本木なのか原宿なのか自粛が解除されて人でにぎわっている光景を写ししていたがその映像が古いものだったのである、他でも鉄道ファンが集まったとかも自粛より前の古い映像だったのである、こうして映像にもだまされるのである
それも気づきにくいのである、だからマスコミは今や常に批判的にみてネットからその真実を暴かれるようになった
六局独占の時代は終わったのである、新聞でももうもたない、旧メデアは報道するのに金がかかりすぎるのである
プログなどになると報道するのは無料なのである

ただやはりもう一つわかりやすい構成にしたくてワードプレスとかしようとしたがこれもなかなかできなくなった、つまり技術的にめんとうになった
それは歳とって技術についていけなくなったのである
ホームページでも作り直すのもなかなかできない、意外とこのインタ−ネットの作業が時間がかかるのである
ただテキストは親指シフトでなれているから早く打てるのでできている
でもプログを同じもの二つ作ったのが失敗だった
それが手間になっている、それを変えることもできなくなったのである
フェスブックも設置してみたが使い方がわからないから一度も発言も返事もしていない放置したままである
まずプログに文章や写真をアップすることが第一でありその外のことをする時間がないのである
なぜなら家事も全部一人でしているから時間がないからである

牡丹の写真

 牡丹の写真

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朝の陽の光吸い込む牡丹かな


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これは大きくすると見栄えする、やはり牡丹は大きな花だからである

この写真は成功していた、私の庭の牡丹も毎年五六輪咲いていたが今年は一輪も咲かない
でも20年以上咲いていたのだから驚きである
やはり遂に土地の栄養分がなくなったのかもしれない
でも花を植えても三四年とかで消えたりするのが多い
ただ地下深く根を張る花は長く咲いている
やはり土地に栄養分がなくなると咲かなくなるようだ



タグ:牡丹の写真

2020年05月26日

暮らしがあるのとないことの差の大きさ (原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと)


暮らしがあるのとないことの差の大きさ

(原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと) 

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菜の花畑があり隣は麦畑であり田植えで水張る田もあり鯉のぼりもなびいている
ここに暮らしがある、ただスーパーヒタチにはコロナウィルスで人がほとんど乗っていない
ただ写真をとる場所としては良かった


磐城太田駅でスーパーヒタチの写真をとった、そこは今の季節だと田んぼに水が張れている、菜の花畑がありそこでしきりに雲雀が揚がりさえづる
隣は麦畑であり麦の穂が風にそよぐ、それが気持ちがいい
五月だから駅前の家に鯉のぼりがなびいている
ということはそこに子供いるということになる
田んぼで農作業する人もいる、ただ磐城太田駅は無人駅であり人が乗るのが見えなかったあそこでどれくらい人が乗っているのか?
日立木でも一人二人くらいしか乗り降りしない
だから駅自体が成り立つのかという問題がある
またコロナウィルスでスーパーヒタチに一人しか乗ったのを見なかった
ただスーパーヒタチが走っている光景が絵になる
しかしただ写真をとるだけに走っているというわけではない
とにかくこの光景は暮らしがあって風景も自然も活きている

これと比べたとき原発避難区域は暮らしが失われている
田んぼは草ぼうぼうで荒地であり人が戻ったとしても子供はいない、だから鯉のぼりもないとなる、小高はある程度帰ってたとしても浪江町とか飯館村は子供が住んでいない
飯館村だと立派な学校を建てても村の外から通っている
町長自体も村に住んでいないのである
新しくこじんまりした家を建てていたので人が帰って住んでいるのかなと見た
でも住んでいないのである、補償金をもらったから援助があるから建てたらしい
それは別荘だというときときたま帰っては畑などで野菜を作っているらしい
だからそこには暮らしがないのである

そこで生業を返せと裁判に訴えて認められたした
つまり生業が暮らしが奪われたのである
その生業とは何なのか?それはそこにもとからあった暮らしなのである
田んぼがあり畑がありそこで仕事していることなのである
それはこうした風景を作っていたのである
それがなくなると草ぼうぼうになり子供もいないから鯉のぼりも見ないとかなる

例えば菜の花があるとする一面の菜の花畑があった時、その菜の花畑は菜種油の材料として菜の花があり暮らしがあって活きていたのである

菜の花や油乏しき小家がち 蕪村

菜の花は菜種油をとるものとして植えられていたのでありただ鑑賞するためではなかった油ともしきとうとき菜種油でもとるに手間だからそうなった、油は貴重だった、何でも貴重な時代だった、小家がちというとき小さな家が農家でも多かったということである、小家という表現が多いからである
菜の花はまさに生業としてありそれが風景を作っていた
それはただ菜の花が鑑賞用に見ているのとは違っていたのである
ただ小高でも菜の花を植えて菜種油作りしていても現代ではいくらでも油は作れるからそういう風景にならないのである
油を作るのに効率的ではないからである

いづれにしろ原発事故の避難区域になった所とのそうでない場所の差が大きいことを子の光景を見て感じた
第一磐城太田というけど隣はすぐ小高なのである、それで小高から原町に来る山側に田んぼだった所がソーラーパネルがしきつめられていた
海岸ではあまり感じなかったが狭い田んぼはソーラーパネルになった所が多い
もう誰もそうした田んぼでも跡継ぎもなくやる人がいなくなっていた
それで手間ばかりかかるからやめる、ソーラーパネルなら土地を貸すだけで収入になるからである、ただその時田舎の風景はなくなる
つまり生業がなくなったからである

ただ生業を返せというとき別にソーラーパネルになる前から農業は金にならないとして
その生業自体を放棄してやめたい人が多かったのである
だから耕作を放棄した耕作放棄地が日本全国てぬ膨大になったのである
でもそれなりにまだ磐城太田駅付近で農業が続けられているから耕作放棄地だらけにはなっていない
それで田に水を張り田植えがありと暮らしが続けられて田舎の風景が保たれているのである
それは原発避難区域と比べると一目瞭然なのである
風景は自然の風景と違って人間によって人間の暮らしによって何代にもわたり作られた風景がある、それで南相馬市の鹿島区の松原もそうして作られた風景である
米を潮の害から防ぐために作られた松原だった、それは江戸時代からあったらしく松が太かったのである、それが根こそぎ津波で消失したときはショックだった
今やその風景は全くなくなったからだ
白砂松原という風系は暮らしがあって作られた風景だったのである

posted by 天華 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連