理解しにくい人物ーその顔の不思議
(youtubeとかに出た人物評の試み)
SakuraSoTV
そもそも人間は他者を本当に理解しにくい、それは別に有名人でなくても普通の人でも理解しにくいのである
まず住んでいる地域から育った環境から職業の相違も大きい、その人の個性から世代からと様々な条件が違って理解しにくくなる
一人の人物を知るということは本当にむずかしくなる
そして理系と文系となると何か人種が違うのか互いに必ず理解しにくくなる
武田邦彦氏は理系と文系の知識と経験を備えているから文系の面からだと理解しても理系の面からとなると理解しにくいのである
特に私は文系だから理系が理解しにくく評論できないのである
でも理系的思考というのがありそれを知ることはできる
今日sakurasoTV(桜チャンネル)鈴木傾城氏が出演していた、その顔は出ていたが体まで出るとなにかもともと異色だったけど体も大きくて貫禄があると見た
ただプログでずっと読んでいたがその顔との差があった
プログだと何か若い人のなかと錯覚する、本だとたいがい認められた人として読む
でもインタ−ネットになると何か浅薄な人でも自由に発言できるから軽く見られる
でも今回のさくらTVに出演していた人で本当に異色な顔貌をしていた
あの人はなんなのだろうと私などには理解できない、アジアのは売春宿を回りその実態を知らせる、それ自体なんなのか理解しにくい
でもその言っていることは魅了されることがあるから読者が多いとなる
要するに底辺層に接していてその底辺層から上からの目線で学者として見ているのではない、他の人は学者だったのである
その顔を見ても学者なのである、私なんかも何か学者的なのである
でも鈴木傾城氏は違っていた、右翼の武闘派の親玉のようにも見えた
体も何か大きく見えた、そもそも武闘派の主張をしていたからである
なかなか右寄りでも学者はいるとしても本当の武闘派はいない
プログだけの発言して死んだ都築詠一氏は武闘派だった
その顔を見ることは私はなかったがその人なりが文章に現れていた
その人は顔を見なくても文体からイメージできたのも謎である
まさに文は人なりとなっていた
この世には強烈な天才的な個性をもった人間はいる、まれだがいる
ただ危険なのはそういう風貌とか体つきとかから人間を判断すると危険なのである
何か自分は体でも貧弱でありあらゆる能力が劣っているからそういう人にあうと崇拝してしまうのである
それで前の師を偶像化した、偶像崇拝になった、これが危険だった
キリスト教を知るには聖書を知るには神とは何かを知ることで一番大事なことは偶像を崇拝しないことだからである
必ず人間は眼に見えるものを偶像を崇拝するようにできているからだ
だからあらゆるものが動物でも石でも星でもなんでも神となる
でも本当の神は決して目に見えないし見ることも絶対にできないのである
もし見えたらどうなるのか?
必ず卑しめられる、それはなんだこれが神なのかとなり卑しめられた
キリストが神の子だといていって肉体を備えて現れたときに卑しめられることはまねがれなかったのである
神は妬む(ねたむ)神なのである
神は存在する、でも偶像を崇拝する者にねたむ、そんなもの神じゃない、私こそ神だとして現れる、神より上に立つものを許すことはないのである
だから妬むというとき神は人間の持つ心があるということになる
なぜなら普通神ともなればそうした感情は下等なものでありそんなこと気にしないとなるからだ
でもどうしてユダヤ人は神を認識したのか?
それは偶像を崇拝していてそれで神の怒りをかって真実の神を知らしめられたことは確かである、その神は見えない神なのである
とにかく人間の顔は不思議である、youtubeでは顔出すから文章より顔をまず見てしまうのである、こんな顔しているのかとまず顔を見てしまうのである
それはテレビでもそうである、顔が大事になる
それでラジオ全盛の時は声だけで放送していた、でもテレビ時代になると顔が大事になり人気があった人もなくなって番組からおろされた
テレビではアナウンサーでも顔が大事であり美人でないと受けないともなったのである
テレビだと文章ではない、まず顔を見てしまうからである
顔から判断するということがあるからだ
本だったら顔は関係ない、書いた内容で判断している
それで加治将一氏のyoutubeを見てしきりフラットフラットな関係と言っている
アメリカ暮らしが長いからアメリカ的人間が作られたともなる
まず外国暮らしをしてきた人と日本だけでしか暮らしていな人の差が大きいのである
外国暮らし人は比較で日本が見える、それはささいなことでも実生活から日本との比較ができるようになっているからである
ただ本を読んでとかテレビを見ていたとかではない、肌で知っていることの差なのである私は外国で暮らしたことがないからどうしても外国がわからないから視野が狭いのである
いづれにしろこの人の顔を見ると本当に気さくでありアメリカ人的だなと見る
あまりアメリカ人は上下関係を作らない、それはホイットマンの詩を読めばわかる
平民を主人公として詩にしている、そういうことはヨ−ロッパとか中国では起こりにくいのだ、まさにフラットな人間関係なのである、大統領さえフラットなものとしてあった
みんな大きな大陸でフラットな関係として詩にしている
例えば中国とかアメリカの基となっているヨ−ロッパでも歴史が古いから王様がいて貴族がいて上下関係がある、ヨ−ロッパはフラットではないのである
日本が歴史が古いからフラットではない、天皇中心にしたヒエラルキーを構成してきたと批判しているのもわかる、ただ日本の風土に関してそんなのがないというのはありえない
そしたら季語があり俳句短歌があることも否定されるからだ
とにかくこの人のことも理解しにくい、そもそもアメリカで不動産関係で仕事してアンテークのコインに投資していることも理解できない、そんなに一千万するコインがあるのかと理解できない、だから何か人間を理解することは難しいのだ
同じ日本人でもそうして生い立ちとか仕事ととか違うし理解しにくくなる
でもその人の顔を見たら何か気さくであり本当にフラットな感じなのである
それは誰でも気さくに声をかける上下関係もないアメリカ人になっているからかともみるアメリカに15年も暮らしていれば当然アメリカ人気質になっている
そういう点は好感がもてるのである
この人の顔から何か特別なものを感じないのである、その辺にいる気さくなアメリカ人となっている
それで人間自体が顔まで移民でも代々住んでいるとその民族と同化して同じような顔になるということを何かの本で読んだ
確かに日本人そのものがもう戦後はアメリカ化したからアメリカ人になっているのかもしれない、純粋の日本人はまれだろう
戦前だと天皇を神として戦争したのだから純粋の日本人は多く存在したろう
戦後はまるっきり変わった、アメリカに支配されたし日本人自体がアメリカ人になったのである、それはアメリカに暮らさなくてもそうである
なぜなら戦後はアメリカに同化するように生活自体がそうなったからである
そこで日本人の良さも失われた、日本人気質も失われた
顔とは確かに親の遺伝子から受け継がれたものが基である
日本人の気骨も失われたのである、明治には武士道がまだ活きていた
それで内村鑑三のような武士道キリスト信者が生まれた
日本は戦後そうした素地が喪失したのである
つまり日本人は骨なしになったのである、だから日本人は外貌でもアジア人ではないアメリカ人になっていたのである
アメリカでもいい面と悪い面がある、日本人でもいい面と悪い面がある
ただ日本人を形成する骨格となるものがない、骨なし日本人になったのである
だから日本人は実際はアメリカ人になったのである
その生活形態も考え方でも何でもアメリカにならったのである
それでアメリカ人の悪い所も習ったのである
金だけを唯一の価値としたのもアメリカ人にならったからである
戦前は金だけではない日本人的価値が義理人情でもあったと言われるからだ
戦前は何かまだ日本人的なものが残っていたのである
それが戦後は全く日本人的なもはのを捨ててアメリカ一辺倒になったのである
だから日本人が顔までアメリカ人になったと見るのである
顔は人生の中で作られるのである、双生児でも環境が違うと顔まで違ったものとなっていた、つまり人間がいかに環境の影響が大きいかである
公務員が同じような個性のない顔しているとか会社員でも社畜とか自ら言っている人たちはロボットのような顔になっているかもしれない
例えば夫婦でも顔かにてくる、似た者同士になるとかもそうである
私があった夫婦は奇形的な顔の夫婦になったから異常だった
子供の時あっただけだからその嫁となった女性の変わりように驚いたのである
もう人間からはずれたものになっていたのである
心理学者の内藤誼人先生によると、顔が似てくるのではなく、同じ「表情」をすることが増えるからだそうです。
つまり一緒に暮らしていれば、「笑い」「悲しみ」「怒り」など、同じ感情を抱くことで同じ表情をすることが多くなります
ダンテの地獄編では何かそうして顔が変形している人が良くでてくる
まさに顔にその人の心が現れてそれが奇怪な異様なものとなっていたのである
顔に責任をもてというとき顔にその人の刻印が押されるからだともなる
この顔は天国行でありこの顔は地獄だと印されているとして選別されるとなると怖いことだと見た
こういうことなのだろう、その奇怪な夫婦はなぜそうなったのか?
その夫は公務員だった、それは相互作用がありともに奇怪な夫婦として長年の暮らしで作られてきたとなる
だから人間の顔は偽れないということがある、言葉では偽れても顔は偽れないとなるから怖いともなる
とにかくyoutubeは顔が全面に出てくるから顔からまず判断されてしまうのがテキスト中心のプログと違っている
そして一番不思議なのは自分自身の顔がわからない、見えないことである
いくら鏡でもみても自分の顔がどういう顔なのだかわからない、それが心が見ないとにている
それで鏡に映る姿を古代人が最もおそれたことがわかる
それはその人の姿を心も写すものとして恐れた、実際に自分の心でもありのままに写されたから怖い
やましいものをもたない人はこの世に一人もいない
その実相が鏡にあからさまに写されたら恐怖だとなるからだ
あまりの醜さを見て死ぬということもありうるかもしれないからだ
また人間は何か何でも対照的に見ないと見えない、小さな石があったとしても比べるものがなければ小さい石として理解できない
大きな石があって小さな石だと認識できる
だから醜いということも認識できないのである、自分自身の顔がどんなに醜くなっているかも認識できない
だからこそみんな平気で顔を出して生きているのである
その本当の姿を認識できたらショックになる、そんな顔にどうししな成ったのかとなるからだ
もう子供の時と接した顔とは人間とはまるで違ったものとなっていた
その変容には驚くばかりである、もう人間とも思えなくなっていたのである
でもその人自身は自分のことを全く認識できていないのである