2020年03月24日

電子本と紙の本を読む相違 (人間が記憶する仕組みはどうなっているのか?)


 電子本と紙の本を読む相違

(人間が記憶する仕組みはどうなっているのか?)


このことを書いている本があった、「デジタルで読む  紙の本で読む脳 」という本である、これは高いから読んでいない、私は結構アマゾンで電子本を読んでいる
スマホとかだと画面が狭いから読みにくい、目も疲れるからアマゾンのキンドルを買ったが利用しなくなった、スマホも字が小さいから疲れるから使っていない
でもパソコン画面上で読む電子本は読みやすい、目も疲れない
そしてアンダーラインを簡単につけられるのでいい、電子本だとネットのすぐれた点は検索機能である、これは本にないから大きな利点である

でも本を読むのと電子本を読むのとは何か違っている
その相違が明確ではなかった、どこが違うのか明確に指摘できないのである
確かにこの本を読んだらわかるところがあるに違えない
人間の不思議として記憶するということなのである

人間はどうして記憶するのだろうか?

そのメカニズムがわかりにくい、だから電子本で読むのと紙の本で読む相違がここにでるということでこの本が書かれた
私自身は知識は本から読んで蓄積してきた、ただどういうわけかワープロでパソコン通信時代から文字だけのやりとりをしてきた経験がある
それは私が悪筆であり字がへただから何とか読みやすい字にしようとしてワープロになった、それで偶然オワシスの親指シフトが打鍵しやすいとなり継続できるようになった

なぜならこれがないとまずパソコンでもやはりテキストが主役でありローマ字で日本語に転換するのはかなり時間的に遅れるからスムーズに利用できない、それで継続できないということがあった
なにしろ文章はスムーズに考えると同時に活字にしないと嫌になるからだ
私自身がこれだけパソコンで文章が書けるのはオワシスの親指シフトを使っているからだこれは別にソフトでも「やまぶき」が無料で使える
またオワシスキーボードも3000円くらいで買える
だからこれに慣れれば文章にするのが楽になる

ともかく電子本と紙の本の相違は何なのか、これはかなり人間にとって奥深い問題であるどこが違うのか、それは人間の記憶のメカニズムと深く関係しているからだ
まず紙の本を読むというとき本という一冊で一つの著者の世界を作る
その本は一ページ一ページをめくって読むこともあるが一冊を通読することもある
また途中からも読むこともある、いろいろな読み方がある
私は一冊の本を通読して要点をつかむ、それでもう一時間くらいで内容に通達する

そういうふうにできるようになったのは理解力が深まったからである
紙の本と電子本の根本的相違は一ページ一ページめくって読むのが電子本であり何か飛ばして読みにくいのである、デジタルの世界はそうして一ページ一ページ順序良く読んでゆくことにある
でも紙の本の世界は初めから最後を読んだり途中を読んだりして一冊を連環して読むことにあると思った
一冊の本はデジタル的にではなく連関したものとして記憶するのである

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何か電子本でも紙の本でも内容は変わらないから同じだとなる
でも人間の脳はデジタル的なものがあるがまた何かそうした順序に逆らい通暁するとか通読するとか全体を読むとかある
人間は記憶する時、一部分を記憶するのではない、辺りの全体を記憶するのが人間の脳である、一本の木だけではない、それが丘の上にあったとか森の中にあったとか川の側にあったとかそこに付随するものと同時に記憶されるのである
つまり人間が記憶する時、一つの部品として見ていない、全体の中の一つとして記憶するだから木だけを抽出して記憶しないのである
そこにコンピュターのデジタル思考と違ったものがある
コンピュターは部分の積み重ねとして見る、でも人間はまず全体を見て把握して部分をみる、それが紙の本を読むときもほんの全体を読む、そして部分を読むのである

だから本を読むときあらかじめその内容に自らの知が親しくなっているとき、共感ししているとき理解しやすいのである
この人の書いていることはおよそ理解している、部分的には理解しなくても全体は総体的には理解している、その時また記憶しやすいのである

とにかく人間は老人になれば記憶することが人生だとなる、記憶されたことが人生だとまでなる、それで認知症は今話していたことも忘れる、でも若い時代のことは忘れないので何度も話する、それで戦争のことを千回を聞かされてうんざりしたのである
でもそれがその人の人生だったからあきることなく語ったのである
そのことが一番記憶に残っていた、後は忘れてしまったとなるからだ

電子本でもインタ−ネットでも読むとき何か記憶に残りにくい、それはなぜなのか?
それはやはり電子本を読むのと紙の本を読む違いとなる
でもインタ−ネットでも記事のニュース解説でも私は引用して評論している
そういうことがまたしやすい、ただ記事でも読むだけではない自分なりの見解を述べる
そういうことがネットの利点である
そうすると思考が深められるのである、だから紙の本がみんなだめになったともいえないまた電子本を読んでもだめだともならない、両方の利点を活かすことが必要になる

ただ知的な仕事するにはまず私設図書館のようなもの必要でありそれだけ広い家に住むと頭も働きやすいのである、なぜなら不思議なのは今は下の部屋で仕事しているが二階も広いしそこでまた本を読んだりすると気分が変わりアイデアが湧いたりする
つまり場所を変えると気分が変わる、それで知的な仕事もすすむのである

グローバル経済とコロナウィルス (国々の文化を破壊したら生きる意味もなくなる)


グローバル経済とコロナウィルス

(国々の文化を破壊したら生きる意味もなくなる)

 グロ−バル経済とか資本主義がなぜコロナウィルスでブレーキがかかったのか?
その矛盾がまさにグローバルに大きくなった
そこでそれを一旦ブレーキをかけて新たな世界を構築させる
天からの神からの作用だったのかともなるから不思議なのである

グロ−バル化のことを私が批判する時、それが国々の文化を破壊するからである
そこで注目するのは経済的な側面だけであり文化的側面は追求されないからだ
人間は経済的側面だけに生きるのではない、パンだけに生きるものではない
会津のことで書いたけど人間はその国に土地にまず生きる
その国の自然と風土の中で生きる、その国というとき会津は万葉集時代から国だった
東北では会津が国だったが他は国とはなかったのである
つまり国とは相当に広い範囲なのである
だから会津は明治までも大きな国であり藩であり最後は薩摩長州軍と戦ったのである

文化という時、cultureはcultivate(耕す)である、その土地を耕すという時、食料をその土地から作り出すということが基本にある
もしそうして食料でも外部から輸入していたら文化を作りだすことができるのか?
ワインもその土地が作りだしたものである
それはもともとパンと合うものなのである、日本の料理とは合わない
ワイン自体が種類が多くその土地の名がついたものもある
その土地の土と光とか風土が違うから違った葡萄が生れ種々のワインが生まれる
何か川とか湖の側だと光が反射したりして美味な葡萄ができるとかなるといかにその土地土地の風土が作りだすものなのかわかる
日本でもその土地の名の付いた野菜がいろいろありそれはその土地から作り出されたものである

グロ−バルというとき一面何かそうした土地土地の風土とは関係なくなる
グロ−バルというとき一様化であり何か数学のように共通化する
でも人間社会は数学では統計とか数字だけではわかりえようがないのだ
そんなふうに一様化したら土地土地の味わいもなくなり文化もなくなってただ定型化した個性もない社会になりつまらないとなる
それは日本語でも英語にした方がいいというときもそうである
日本人から日本語を取り去ったら日本人でなくなる
なぜなら日本語だけは密接に日本人を根源的に作っているものだからと言う人がいたから日本語は外国語とは違った特別な言語だとなる
その起源は不明なのである、つまりほんの一部が大陸起源だったり海洋系のオーストロネシアと共通だとか言ってもその謎は全く解けていない
つまり日本語は混成語にしても縄文時代から早い時期に日本人の共通言語となっていた
それはもう他の言語が入ってきても共通性が見いだせないくらい独自の言葉として成立していたのである

グロ−バル化というとき日本語を英語とすべきだとかエスペラントが必要だとかなる
どうしてもグロ−バル化すれば共通語が必要になるからだ
だから現代では英語が共通語化している、そして感心するのはグーグルの英語翻訳であるある程度文章でも8割くらい正確に翻訳しているのである
そこでインタ−ネットでは世界共通の言語として英語がまた言語の壁が取り払われるということも起きている
でも依然として国々の言葉がありそれは文化の基なのだから世界が一つの言語にすれば
文化を失うことになる、その時自国のアイディンティティを失う
それは相当に深刻なことになる、人間は経済人間ではない、経済的単位ではないからだ
統計的数字とも違うからである
グロ−バル経済と日本国内の広域経済でも人間はただ量として数として計算されるだけになる、政治でもそうである、一票は十万分の一の数でしかない

宗教でもただ数が問題にされるだけである、会員数でそのすべてが図られる
そこに生きる意味などない、数として計算されて処理されるだけなのである
そういう文明社会に反発する者としてアウトサイダーが生れたのも必然だとなる
そしてイスラム教の集団礼拝とか韓国のカルトキリスト教団がコロナウィルスの伝染を拡散してしまった、クラスター伝染の源となった
宗教は本来はそんな大衆的集団的なものではない、そこでは常に数のみが誇張される
それは権力を追及している、数は権力である、一人だと何の力もない、それが十人でも集まれば力となる、注目する、宗教が外部に対して数で認めさせる
それがまた民主主義で権力を得る方法となっている

グローバルというときグロ−バルとローカルを合わせたグロ−カルという言葉が生まれたグローバルな言語が英語でも必要である、でもローカルなナショナルなもの歴史と文化に作られた世界を否定したら人間の生きる意味すらなくなくなる
人間はただの一記号のようになる、現実にすでになっている 

グロ−バル化でサプライチェーンを担う中国から部品などが入らず電動自転車まで品不足になったという、春には自転車が売れるから困るとなる
つまり何でも中国に頼りすぎるとこういうときどうにもならなくなる
グロ−バル化というときやはり自国の需要中心にして自国の生産消費を守るべきだとなる世界が第二次世界大戦のようなナショナリズムで分裂していた時代に戻るとういけどそうともならない、時代の逆行になるというがそうともならないだろう
むしろ各国が独自の文化を再発見してそれぞれの国の文化を追及するということにもなるそれをうなかすものとしてコロナウィルスが作用したともなる

グロ−バルというとき宗教でも仏教でも中国に入ると禅宗が生まれたようにより実践的なものとして用になるものとして追求される
韓国に入ると美的なものとして追求される、日本がでも優美なものとして美的なものとして追及される、仏像でも塔でも違ったものとして作られる
その理解も違ったものとなる、解釈もその国によって違ったものになる
それはキリスト教でも同じである、イスラム教でもそうである
宗教はユニバーサルなものグロ−バルなもの普遍的なものとしてある
でもその国々の風土歴史によってまた違ったものになったのである
そうであってこそ人間はそれぞれの価値を作りだしてまた価値を持つのである
経済とはただみんな同じものを型にはまったものを大量生産することではない
人間がみんなロボットのようになり同じ言葉を話する、そのとき文化を失うのである
ただ共通なものは英語でもインタ−ネットの言語でも追及される
つまりグロ−バルでありローカルであってこそ世界に価値がある

だからコロナウィルスが何かそうした一様化としてのグロ−バルではなく各国独自の文化をはぐくむ契機となるのかもしれない、人間は国境でも関所でも必要なのは人間を精神的な面から見ると制約された場所でないとアイディンティティが作れないことである
グロ−バル化といってもそれはただ物流が自由ということであり物と精神は別物なのである
自動車の部品でも中国に頼りすぎると今回のように作れなくなる
電動自転車車でも中国に部品を頼っていて入らなくなる
日本の中で作る体制があればそういうことはなかったのである
自動車はABCDEFG...とか無数の部品をから成り立つとしてそれらを組み立てて車を作るということができる、でも文化とかにはそういうことはできない

その風土とか歴史と密接に結びついて一つの文明でも日本文明でも作られているからである、それを無数の部品があり解体したり組み立てたりできないのである
グロ−バル経済にはそうした無理があった、それは国々の文化を破壊することにもなっただからコロナウィルスはそういう社会をとめる働きをした
確かに一時的には犠牲がともなうが次の新しい社会への変革への契機ともなる
だからコロナウィルスは天の作用なのかともなり不思議なのである

ともかく今回のコロナウィルスは社会全体に世界全体に影響するから世界を社会全体を変える作用があることに驚くのである
これだけの影響力を世界に与えることはアメリカですらできない、特にエンタテーナメントとか観光業とかが打撃を受けた
でもそれは本来の社会の脇役であり主流ではないから芸能人が政府に援助を要請したがそれを河原乞食など今は必要ないとか言われる
普通だったらそういう人たちはに大金稼いだとか言われる
社会全体に何か価値の選別が起きている、だから社会全体で価値観が変わるとういことにもなっているのである

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この本はコロナウィルスで今社会が変わることを予見していた
ローマ帝国は物財を量の富を追及した
グローバル化してローマにあらゆる富を集中させた
しかし中世になるとそういう過度な物財の追求はしなくなった
人々の価値観が変わったのである
そこで修道院にこもり瞑想するとか物財の追求する価値ではない
精神的価値が追求されたのである
その状態が今とにている、そういう時代の兆候が見えていたのだかコロナウィルスによってそれが早められたともなる
posted by 老鶯 at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層