2020年03月12日

人生はみんな失敗に終わる (学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


人生はみんな失敗に終わる

(学歴も関係ない、文明そのものが原発事故のように終わる)


学歴がどうのこうのとかFランのことをyoutubeで自ら話しているのも面白い
なぜ自分は底辺労働とかニートとかFランとかに興味をもつのか?
今回も長男長女は融通性がなく引きこもりになりやすいというのもなるほどと思った
次男と次女とかなる世渡り上手でうまく対応する術を身につけるとなる
それもまさに自分が長男であり一人っ子でありそうだった

自分自身はどうしても集団生活になじめない、人間関係が苦手なのである
それでどういうわけか家庭環境で引きこもりが許されたので30以降は無職であり家に引きこもっていた、ただ仕事もしないで旅ばかりしていたとなる
そのことから社会常識が欠如する人間になっていたのである

大学でもほとんど勉強していない、Fランではないけどにたようなものだった
第一私の年代ではまだFラン大学がなかった
一応大学となるとみんなエリートになっていた、でも団塊の世代だとその頃から大学という価値が数が多くなり価値がかなり下がってたいのである
だからなぜこんなに大学は人数が多く1000人とか集まる講堂とかで授業しているのだろうとなる、そんな数の人間を前に講義すること自体なじめなかったから余計に勉強もしたなくなった、高校の時も勉強は嫌いだった、だから良く卒業できたと思う
卒業すらできない状態だった

私にとって大学とは田舎から自立するために出るということ家族から離れることに意味があった、そこで甘えていたが自立できるようになったからである
それだけか最大の効果であり勉強などどうでも良かったのである
そしてなぜカルト教団に入ったのか?
これも私はもともと宗教を求めていたのである、私の最大の問題は死の解決だったからである
でもカルト教団は全く宗教とは関係ない政治団体だったのである
だから毎日一票をとるために一軒一軒回るだけだった
ただこれも人間と接するということでひきこもりにならない効用はあった
でも勉強はしていない、これも実に無駄だったとなる

その後は就職もしない、底辺労働者でありそこで散々な目にあった
工事現場ではビルの四回から落ちて死ぬ所だった、そこは一番危険であった
そこで感じたことは底辺になることはこれだけ厳しいものだということを自覚した
そのことを語っている人がいて勉強しておけということを言うのもわかる
一回就職してみるべきだというのもわかる
実社会がどういうところか学生時代はわからないからである

ただ文学に興味があり短歌と俳句は早い時期からはじめていた、それも稚拙なものだったでも何らかその方面で才能があり今日までもう死ぬ時期になり続いている
詩も書いてきたがいいものが作れなかったが今はそれなりに作れている
人間は何らかその人なりものをもっていて個性をもっていてそれを活かすことである
天職につくことである、そこにこそ生きる意味がある
金は必要でもその前にその人なりの仕事をもつことである
そのために勉強して訓練することである

それがわかるのは老人になってからである、また震災で別に補償金をもらえるから生活できたとしても毎日パチンコ通いでありギャンブルだけになるともうその精神も荒廃する
それがやがて顔に現れる、生きがいもなにもなくなるしヤクザと変わりなくなることが怖い、それより大工でも自転車屋でも職人でも農業でも仕事をもっていることがその人を価値あらしめる
確かに漁業していた人は漁業権を売り東電から事故前も事故後も補償金を特別もらっているから生活に困らない
でもそうして魚もとらないとしたなんで港にいるのか?
そういう疑問になったことでわかる、何の意味があり価値があってあなたは港にいるのかとなるからだ
避難民となってもただ補償金だけで生活している人はそうなる
でも他に避難民として移ってもそこで何か仕事をもっている技術などもっている人は他の土地でも価値を認められるのである
それは金の問題ではない、仕事をもっていることにできることに意味がある

ともかく人間の成すことは結局失敗なのである
みんな成功したと思い努力しているし勉強している、でも最後は失敗に終わる
そもそもどんな優秀な人でも最後になって失敗に終わる
それは身近な家族で見たらかショックだった
体力的にも頭脳的にも優れた人間であっても認知症になんで馬鹿になったからショックだった、つまり認知症になることは人生そのものが失敗だったという烙印をおされる
なぜなら馬鹿になったのだとなってしまうからである
そして最後に言い残した言葉が

俺は優秀だった

ここには万感の思いがあったとなる
人間は優秀だった、優秀な人間が文明は人間が作った、でもそこに今や見る影もない、廃墟となっていたともなる

人間は成功も失敗もない、みんな最後はこうして失敗なのである
それは個々人でもそうだが文明そのものが失敗なのである
それを如実に示したのが原発事故だったのである
そこに理系の優秀な選ばれた人が働いていたからである
それはまた人間の英知を集めて作られた文明を構成するそのものだったからである
それが津波とかで一挙にバベルの塔のように崩壊したのである
つまり人間の愚かさを示すだけだったのである
つまり失敗に終わったということである

人間は成功も失敗であり失敗も成功である、失敗も必要なのである
人間は失敗して謙虚になる、俺は頭がいいから成功ばかりして億万長者になった
こんなことを自慢するようになったら危険である
それで事業を起こして失敗した人がいた、もし失敗しなかったら傲慢になって手がつけられないとなった

いづれにしろ学歴が別にその人の価値を決めない、文系などみんなたいして変わりないのである、ただ理系は価値があるから区別される
一体人間の価値がどこにあるのか?それ自体がわからないのである
乞食のような人間が神に認められた人間であることが普通にある
その方が多いのである、宗教に関してはこの世に成功する人は信仰者ではありえないのである、麻生大臣のような人がキリスト者ではありえないのである
巨万の富をもっているからである、まずかえって上級国民はキリスト者とか信仰者にはなれないだろう、ただ富者でも貧者でも区別しないということはある
ただこの世の成功者にはなりにくいことは確かである


人間は成功でも失敗でもない、何か成功は奢りに通じて失敗にいたり、失敗は謙虚になり成功に通じているともなる、国単位でも必ず栄枯盛衰があり一時的に栄えてもいつまでも栄えることがないと同じである、アメリカだって衰退してゆく
それが歴史の法則だともなる
人間は成功を求めることではない、神の国を求めなさいというときそれはこの世の成功ではない、この世のことはすぎてゆく常に変化して無常なのである
つまり結局栄枯盛衰であり成功しても一時的でありたちまち衰退して見る影もなくなる
だからこの世で成功を求めても失敗なのである

人間は学歴で何か価値が決まるわけでもない、有利なことは確かでもそれで価値が決まらない、その後に長い実社会での仕事で決まってくる
仕事ができるかできないかは学歴ではないからだ
ただ勉強していることは悪いことではない、みんな学校をでてもっと勉強していれば良かったと後悔しているからである
自分自身でもそうである、勉強しないから底辺に落ちたというのは本当だからである
なぜ流れ作業のようなことばかりしなければならなかったのか?
それはつくづくもっと勉強していなからこうなったと痛切に感じるからだ
つまり勉強しなければ奴隷にされる、ロボットにされるのである

ただ自分は特別恵まれたからそうならずにすみ大学を出てからも勉強をしつづけていたのである、それが今になってようやく実っているとなる

いづれにしろ

文明自体が失敗に終わる!

ということは個々人も失敗に終わるということになる、つまりこの世での成功は何であれ失敗に通じている、それを証明したのが原発事故だったのである

結局は

成功するのは全能の神だけだ!

あとは部分的に成功したりするけど全体的にみたら失敗である
そして理想社会など人間は作れない

科学技術⇒原発事故

政治⇒治められない

法律⇒守られない

科学技術でもいい面と悪い面がある、それが社会に全部いい面として作用しないのである政治でも治められない、民主主義なども今やどうにもならない、数だけが力となっているからだ、法律も守れない、弁護士自体が不正していることもある
法律をなぜ勉強するのか?金儲けだともなる
いろいろな問題を人間は解決できない、問題は問題をうむ
一つの問題を解決してもまた次の問題が生れてくる、そして永遠に解決できない
そこに人間の限界があるから解決できない、そして遂には破綻するとなるのだ
それで成すことではない、成さないこと天地自然にまかせることが治めることだという老子の思想の逆説になる、そういうことが現実だから共感するのである

boshupic1.jpg
ボッシュの絵

カオスになる人間社会、これも原発事故になったこの辺とにている
ここには人間の快楽を求めるものが露骨に現れている
それもまた人間社会の実相である
それは今でも変わりない、人間社会はいつまでもこうしたし混沌(カオス)なのである

2020年03月13日

コロナウィルスで貯金がない人が生活に困る? (政府の補償は必ず差別される―非正規フリーランスは半分)


コロナウィルスで貯金がない人が生活に困る?

(政府の補償は必ず差別される―非正規フリーランスは半分)

コロナウィルスでなぜ休業することでこれだけ騒いでいるのか?
それは日本人が貧乏になり貯金がない人が多くなった
その数が多すぎる、こんなに貯金がないのかと驚く
ただ不思議なのは江戸時代でも戦前でもその日暮らしだった
宵越しの金はもたないという江戸っ子がいたとしてもその反面は金をもてない
貯金できないということである
だから何か急に金が必要な時どうするのかとなる      

こういう時代は物でも何でも計り売りである、少量を買ったり売ったりしている
だから子供の時、酒屋にいって樽から量り売りをしてもらっていた
それをやらされていた、店でも計り売りである、飴一つとか子供は買いにきていたのである、私の家で家を貸していたときも毎日家賃をとりに行っていたという
毎日ということはその日暮らしだったということである
日銭稼ぎであり貯金もなにもなかったのである

生活保護だとそもそも貯金が禁止されている、貯金するとそれがわかると生活保護が停止されるから困る
ところが人間は必ず病気だとか事故だとか突然のことで金がいることがある
そうなると貯金がないと困るのである
貯金がない人が増えたというとき日本社会が貧乏な人が増えたとういことである
だからこういう緊急時には困ることになる
つまりその日暮らしが日雇いが変化した非正規とか何かフリーランスとか名前が変わったがそういう人が増えている
第一貯金があればすぐに暮らしに困ることはないからだ

団塊の世代になると高度成長時代でありな貯金した
貯金したのはその時利子が高かった、7パーセントの時すらあったから貯金した結果倍と三倍にもなった恵まれた時代だった
だから貯金していれば安心だとなっていたのである
今になると銀行に貯金しても利子がつかない、それよりゆうちょでも銀行でも高齢者から投資信託や保険をすすめる、これがわかりにくいのである
まず60以上になると株式や投資のこと自体を理解することがむずかしいのだ
でも高齢者では金をもっている人が多いからゆうちょとか地銀が地元で信頼していたからそういうことでものりやすい、つまりゆうちょでも地銀でも投資先がない、借りてくれる会社もないからそうなった

貯金するなとか言う人も今は多い、なぜなら貯金しても利子がつかないし目減りしているからである、金融資産はこういうときあてにならなくなる

でも何か困った時どうするのか?

貯金がなかったらどうするのか?それで借りるほかなくなるがこう言う人は返せないのである、だから貯金は必要なのである、でもその余裕が今はない人が多い
それでこういう緊急事態に困窮する人が増えたのかとなる
大会社だと休業補償が政府から8000円でも非正規とかフリーランスはその半分だとか不満になる、政府の政策では必ず割を食う人がいる
この辺の原発事故の補償でもそうである
30キロで区切られたからその内部の人は手厚いのである

医療費は10年間無料、高速も無料

30キロ以外はなし

この差別も大きかった、30キロ内は補償金でも三倍とかもらっていた
こうして必ず政府からの補償金は平等にならないのである
誰かが必ず損する、割を食うのである
これは別に南相馬市だけではない、相馬市とか30キロはずれたらほとんど補償金はもらえなかったのである、それで大きな不満が残ったのである
それで地域が分断されたのである

いづれにしろ貯金がない人が増えたという時、相当日本は貧乏になっている
そうなると昔のようにその日暮らしの人だって増えているから何か緊急のことがあったらたちまち窮するとなる、これも困ったことなのである

posted by 老鶯 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

梅匂う(死者は家に生き続ける (忘れられない家族と死んでも生きる)


梅匂う(死者は家に生き続ける

(忘れられない家族と死んでも生きる)

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真日さして山鳩数羽梅匂う

雨雲に月の隠れて春の夜                            

梅の香の夕べ満ちにつ闇に入る 

初蝶の庭に飛び来ぬ人変わる
        

姉死して9年すぎしやなおあれや我への愛の家に残りぬ

目立たざる母にしあれど我が家を支えて長し死してねぎらふ 

相馬焼に猫柳さし梅におい遺影を見つつ我が家に安らぐ

死者はなお家にありしも我が一人なおともにしもあると生きにき

目立たざるクリスマスローズ一輪の我が庭に咲きそを知りふれぬ

餌をやる女(ひと)の死にしも猫は来る知らずとあわれ年はへぬるも

その女(ひと)とわずかの時のともにあり死して見ざりき春になりしも
                              

人間は本当に死ぬと不思議である
自分の場合どうしても姉と母のことが忘れられない、それは複雑でも60年以上一緒にいたのである、子供の時から一緒に一つの家にいたのである
そのことが影響して忘れられなくなった、両親でもそうして一緒にいないと情も薄れてゆく、でもこうしし死ぬまで一緒だったから死んでも依然としているような感じになる
そして自分は複雑な家族でも特別良くされていたのである
何かとがめられたことがほとんどないのである
仕事しなくてもそれをとがめられたことはなかったのである
旅に出てもいつも待っていたのである
その時家事は一切しなかった、30年くらいそうして恵まれた歳月が夢のように過ぎてしまたっのである

最後は悲劇にしろ二人のことは忘れられないのだ
そして何か不思議なのは依然として家にいて当時のようにそこにいる感じになる
何か死者は簡単に消えないのである
何か愛情をそそいだ場所に依然として愛が流れている、エネルギーを感じるのである
死者はそんな簡単に消えない、確かに体はなく何もなくなる
でも依然として霊となってとか何かが存在し続けている

そして花を挿す、供物をささげる、そういう行為で死者ともつながる
死者は消えてなにもないのだが花でも供物でもそれを通じて死者とつながるということがある、たから本当は死者には花でも供え物でも欠かせないのである
墓ではそうしなくても家に遺影があればそこにいつもいるという感じになる

隣の人が死んだ、その女性とはわずかに花がどうだとか話したりした
でもそれは四五年くらいだった、その前は自分は家族がいて誰ともききあっていないのである、家族がみんな死んでからしかたなく話すようになったのである
その女性はおとなしい女性だった、歳は60代から70くらいなのかそんな歳である

その女性が死ぬとは百パーセント思わなかった
数カ月前も庭を歩いたのを見た感じだった
ただその女性は野良猫に餌をいつもやっていた、そのことで自分も猫を飼っているから話した、何匹か野良猫が集まっていた、その野良猫が自分の家の猫の餌をねらって入ってくる
でも餌をやっていないようだ、どうしたのだろうと見ていた
それも最近のことだった、あっけなく死んでしまったことに驚く
仙台の方で入院はしていたようだ、何かそこで早く死んでしまった

とにかくこの年になると知っている人が次々に死んでゆく、隣近所でも死んでゆく
そこでいつも人間のあっけない死に驚く
こんな簡単に死ぬのかと驚くのである

人間は常に変化である、人も死んだり新しい人と入れ替わったりと人間関係も変化である今や昨日会って見ていたが死んだとかなる、それから二度と会えなくなる
人間は次々にあっけなく死んでゆくだけだとなる

初蝶を庭で見た、今日はあたたかい、梅はふんぷんと匂っている
三日前辺り月は雨雲に隠れた、まさにその女性は時死んでいたのである
隠れるとは死ぬことである、その女性の一生は何なのだったのだろうとまたふえかえる
でも次々に死んで忘れられるのも人間なのである
正直夫が一人残されると淋しいとなる、早く妻を死なれた人は悄然としている
息子家族と一緒にいるから一人ではないにしろ淋しくなる

梅匂う(死者は家に生き続ける (忘れられない家族と死んでも生きる)


梅匂う(死者は家に生き続ける

(忘れられない家族と死んでも生きる)

flowerarrengesp111.jpg

deadface11.jpg

真日さして山鳩数羽梅匂う

雨雲に月の隠れて春の夜                            

梅の香の夕べ満ちにつ闇に入る 

初蝶の庭に飛び来ぬ人変わる
        

姉死して9年すぎしやなおあれや我への愛の家に残りぬ

目立たざる母にしあれど我が家を支えて長し死してねぎらふ 

相馬焼に猫柳さし梅におい遺影を見つつ我が家に安らぐ

死者はなお家にありしも我が一人なおともにしもあると生きにき

目立たざるクリスマスローズ一輪の我が庭に咲きそを知りふれぬ

餌をやる女(ひと)の死にしも猫は来る知らずとあわれ年はへぬるも

その女(ひと)とわずかの時のともにあり死して見ざりき春になりしも
                              

人間は本当に死ぬと不思議である
自分の場合どうしても姉と母のことが忘れられない、それは複雑でも60年以上一緒にいたのである、子供の時から一緒に一つの家にいたのである
そのことが影響して忘れられなくなった、両親でもそうして一緒にいないと情も薄れてゆく、でもこうしし死ぬまで一緒だったから死んでも依然としているような感じになる
そして自分は複雑な家族でも特別良くされていたのである
何かとがめられたことがほとんどないのである
仕事しなくてもそれをとがめられたことはなかったのである
旅に出てもいつも待っていたのである
その時家事は一切しなかった、30年くらいそうして恵まれた歳月が夢のように過ぎてしまたっのである

最後は悲劇にしろ二人のことは忘れられないのだ
そして何か不思議なのは依然として家にいて当時のようにそこにいる感じになる
何か死者は簡単に消えないのである
何か愛情をそそいだ場所に依然として愛が流れている、エネルギーを感じるのである
死者はそんな簡単に消えない、確かに体はなく何もなくなる
でも依然として霊となってとか何かが存在し続けている

そして花を挿す、供物をささげる、そういう行為で死者ともつながる
死者は消えてなにもないのだが花でも供物でもそれを通じて死者とつながるということがある、たから本当は死者には花でも供え物でも欠かせないのである
墓ではそうしなくても家に遺影があればそこにいつもいるという感じになる

隣の人が死んだ、その女性とはわずかに花がどうだとか話したりした
でもそれは四五年くらいだった、その前は自分は家族がいて誰ともききあっていないのである、家族がみんな死んでからしかたなく話すようになったのである
その女性はおとなしい女性だった、歳は60代から70くらいなのかそんな歳である

その女性が死ぬとは百パーセント思わなかった
数カ月前も庭を歩いたのを見た感じだった
ただその女性は野良猫に餌をいつもやっていた、そのことで自分も猫を飼っているから話した、何匹か野良猫が集まっていた、その野良猫が自分の家の猫の餌をねらって入ってくる
でも餌をやっていないようだ、どうしたのだろうと見ていた
それも最近のことだった、あっけなく死んでしまったことに驚く
仙台の方で入院はしていたようだ、何かそこで早く死んでしまった

とにかくこの年になると知っている人が次々に死んでゆく、隣近所でも死んでゆく
そこでいつも人間のあっけない死に驚く
こんな簡単に死ぬのかと驚くのである

人間は常に変化である、人も死んだり新しい人と入れ替わったりと人間関係も変化である今や昨日会って見ていたが死んだとかなる、それから二度と会えなくなる
人間は次々にあっけなく死んでゆくだけだとなる

初蝶を庭で見た、今日はあたたかい、梅はふんぷんと匂っている
三日前辺り月は雨雲に隠れた、まさにその女性は時死んでいたのである
隠れるとは死ぬことである、その女性の一生は何なのだったのだろうとまたふえかえる
でも次々に死んで忘れられるのも人間なのである
正直夫が一人残されると淋しいとなる、早く妻を死なれた人は悄然としている
息子家族と一緒にいるから一人ではないにしろ淋しくなる

人間は愛着ある場所に生き続ける、そこにいたいからだ、原発事故はそういう場所を奪ったともなる
なぜならそこには死んだ愛する人が生き続ける場所でもあったからだ
ただ自分が生きている間は偲ぶが後はしのぶ人がいなくなる
とにかく人は一時を一緒にいるだけである、実にはかない、後は死んで逢わなくなる
この年になると逢うとしてもほんの一時で後は死んで逢わないとういことが多くなるのだ
それは家族でもそういうことがありたださよならだけが人生だとなってしまうのである

2020年03月14日

放射能線のように異常なコロナウィルス騒ぎ (不安の人間の社会心理)

                                                                          
放射能線のように異常なコロナウィルス騒ぎ

(不安の人間の社会心理)


放射能に怯える余り、科学的に十分安全だった除染の基準を無駄に引き下げ、除染した土の持って行き場に困り、無駄に金を使い、結果どこも安全にならない。子供たちは、必要以上に屋内に閉じ込められ、精神的な安定性を失い、バランスからすれば被害は拡大した農作物や魚の風評被害についてはいうまでもなく、僅かな安心を得るために、不必要に避けることにより、多くの地域の農業を苦しめた。

コロナウィルスは原発事故の放射能汚染と似ていることを考察した
恐れる人はものすごく恐れた、それは放射性物質の汚染が何かわからないからである
それで専門家でも二つに分かれた

危険 限りなく大

危険 小

危険を言う専門家は限りなく危険だとして怖がらせた、また逆に危険でないという人は低放射線は健康にかえっていいのだという人もいた
それが両極端になった、それで地元では今度避難区域に指定された所は住めなくなった
30キロ内に指定された区域は一時的に避難された
それから一部は5年くらい避難区域にされて住めなくなった
でも今から考えると

南相馬市は避難させるべきでなかった

小高地区は街の方は放射線量が低い

全部を避難させるべきでなかった

そもそも30キロで区切って避難させたのが間違いだった

結果的に人が住まないゴーストタウンにした

これと同じことがコロナウィルスでも起きているのだ
専門家会議を開きそれでここ一二週間が感染拡大をとめる瀬戸際だとして休校したりイベントの自粛を要請した
結果的に日本自体が経済活動が委縮して倒産する会社もでてきた
それはこの辺で街がゴーストタウンになったのとにている
この被害の方が甚大だったのである
30キロで区切られ避難区域に指定されて人が5年も住まなくなると若い世代は他で生活基盤を築き帰らなくなったからである
つまり避難区域にすることは慎重にすべきだったのである

その後は補償金でこの辺はもめて市町村が分断された、市町村内でもこまかく放射線量で補償金に差をつけたからである、30キロで区切られて隣の家は補償金で格段の差がついてしまった、そこでもめるようになったのである
今回も大企業の正社員は8000円とか休業補償されて非正規とかフリーランスはその半分の4000円だとしている
これもこの辺の原発事故の補償でもめたのとにている
必ず割を食う損する人たちがでてくるのである

結局なぜこうして放射線でもコロナウィルスでもうまく対処できないのか?

それはこれらが未知でありどう影響するかわからない、すると過剰に反応するようになる怖がる人はものすごく怖がる、それをあおる人もでてくる
第一専門家でも放射線の被害と同じように言うことが違っている
危険を強く言う人は言うしそれほどでもないという専門家もいる
そしてどうして判断していいのか一般の人はわからなくなる
どう対処していいいのかもわからなくなる

そしてかえってあまりに恐れ過ぎて会社を倒産したりすることの方が影響が大きくなる
つまりそしたら仕事がなくなり食べていけなくなるから深刻にもなる
ここではゴーストタウンになり元に戻らなくなったようになる
その被害の方が大きかったのである、小高などは放射線量が低かったのである
だから街内は避難させるべきではなかったのである
それがとりかえしつかないことにした

だから政府の判断はどれだけ国民に影響するのか今回のことでもわかる
政府の判断は強制なのである、それによって後戻りできないものを作り出す
ただ政府にしても未知なるものにどう対処していいかわからないということがある
もし手をこまねいて感染を増やしたらまた批判される
それでやむなく決断したとなる

ともかく専門家すらわからないことを素人がわかるはずがない

そしてやたらと専門家によって混乱させられてしまうだけなのである
だから専門家の統一した意見を言うべきだがそれもできない
すると国民は混乱するだけでありどう対処していいのかわもわからない
そうして政府の判断で日常生活もできなくなる被害が大きいのである
それによって弱者の被害が大きく生活そのものが破壊されてとりかえしつかないようになる

でもなにかにやいっても社会全般に広まった恐怖の感情は増幅されている
それがととまらない、そういう恐怖の心理が優勢になり社会を覆ってしまうのである
それを止めることはできない、その恐怖心を取り払うことはできなくなる
そういう社会心理が人間心理が怖いともなる
それで何か得たいの知れないものに遭遇して魔女狩りとかが生まれた
そこでユダヤ人がスケープゴートにされた
社会の不安心理がそうさせたのである
だからそういう人間の心理とか社会不安を過度にあおるものが怖いともなる
それにマスコミは便乗して視聴率をとろうとするのもまた不安をあおるのである

でも一方で安全だといってもそういう未知のものへの不安をかき消すことはできない
だからこの対処方法は本当にむずかしいのである 

僅かな安心を得るために、不必要に避けることにより、多くの地域の農業を苦しめた。

あまににも安心に過敏になった結果としてこの辺の農業とかは破壊された
その影響の方が大きかった、風評被害もあった、こういう時必ず風評被害が起きる
恐怖が増幅されて安全なものでも安全でないとする
わずかでも安全でないとなると騒ぐ、コロナウィルスでも過敏になると空気すら吸いなくなる、現実に放射線被害ではそういうことがあった、空気が汚染されているのだから空気すら吸いなともなるからだ

いづれにしろ日常生活が破壊される方が危険の場合がある
食料が入らない物が入らないとなり奪い合いとなり殺し合いまでになる
そっちの方が怖いのである
社会そのものか停滞して破壊させられる方が怖いことがある



posted by 老鶯 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

会津の旅の短歌30首


 会津の旅の短歌30首

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(湖南)

街道の湖南の蔵の宿泊まる菖蒲の咲きて心にしみぬ

風鳴るや木立騒ぎて夏の日に荒巾木(あらはばき)神社あるかな

街道の芒に暮れむなお遠く虫の音あわれ会津に向かふ

(猪苗代湖)

猪苗代湖その色碧く心しむ火を噴く後の磐梯山見ゆ

猪苗代湖その岸辺の松幾本や家居ともしく虫の音聞きぬ

猪苗代雪のふりけりその岸に秀夫は育つ雪の清しも

猪苗代湖その岸にふる雪清し心に雪の映りて去りぬ

(会津市街)

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雨しとと桐の花咲き誰が眠る会津の墓地を我が尋ぬかな

松静か桐の花咲き磐梯山形優美に聳えけるかも

氏郷の会津に死にぬ近江よりその歳月や花は散りにき

歴代の会津の殿も眠りける墓地を訪ねて秋の蝉鳴く

三人の女(おみな)の墓の並びけり城に仕えてここに死すかな

大川の流れひびきて広ろらかに会津の国や秋となるかな

会津なる謂れの古く大古墳鏡とともに冬深むかも

みちのくに会津のあれや山深く暮らせる人や冬深むかも

(西会津)

ここよりし西会津なり別れ道立木観音に秋の夕ぐれ

山の上会津の奥や戦いし藩士のしるし秋深まりぬ

阿賀野川新潟にそ流れつつ日本海にそ秋の陽没りぬ

新津駅会津の方に雪の嶺見えて朝たつ電車なかるかも

阿賀野川船運に栄ゆ津川かな雪に埋もれて我が踏み帰る

(喜多方の喫茶店)

喜多方の積もれる雪に蔵の中梁の太くも黒光りしぬ

(伊南)

そそり立つ巌に轟く流れかな心一つに戦い果てぬ

千の山競い聳えてひしめきぬなお奥に山会津の夏かな

鬼百合の咲きし会津やたおやめももののふの心戦いに死す

桧枝岐遠くにあれや米食えず蕎麦にヤモリを食いてしのぎぬ

古りにけるいさすみ神社の老木に我がよりあわれ秋深まりぬ

会津の奥の深しも秀麗に聳えし山や秋の夕ぐれ

会津なる奥の山路を分け入りて萱に埋もれし農家ありしも

雪のふり雪踏みてこそ会津にそ住みし心を知らるべしかな 


沼一つ奥にしあれや何ひそむ散りし木の葉の浮きて静まる

昭和村秋に来たれる鳥の鳴く声のすみにつ畑に人あり

舘岩の奥にしあれや境なるさえぎる山や秋となるかな

自刀せし親子のありぬ雪深く薩長の恨み残りけるかな

会津にそ灯ともりあわれなおしも雪のふりにけるかな

雪うもれ会津の墓や誰が眠る代々住みし家にしあるかな

しんしんと冷える夜なり会津にそ住みてその心知らるべしかな

(会津嶺)

会津嶺の国に生きなむ命かな同胞(はらから)友の絆強しも

会津嶺の国に生きなむ水清し母父ここに我をはぐぐむ

山々の重なり高くひしめきぬ守りの堅く国を守らむ

奥にある秀でし山の隠されて志操の堅く国をし思ふ  


次は国とは何かについて万葉者を例にして書いています

2020年03月15日

人間は国(くに)に生きる (国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)


人間は国(くに)に生きる

(国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)

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国という時何なのか?それは自然村のような自然に生じたものが国である
人為的なものではなくそこに風土があり自ずと一つの国が形成される
それでシンガポールとか香港とかは国ではない、商業単位の貿易都市である
そこには国はない、だから証券取引をする経済に特化された場所である
そこはイギリスとかによって便宜的に作られた場所なのである

国という時、そこに独自の風土があり土地があり自然がある場所でありそこに生きる時
国がある、だからまた東京とか文明の大都会にも国はないのである
そこは商業都市であり工業都市であり経済都市に特化したものである
または東京となると政治都市になる、でも自然がないのである
一千万人が住んでいてもそこは国とはなりえないのである

また行政単位として県があったとしてもそれも国ではない、自然から国が自ずと作られるとき行政単位としての国として廃藩置県で作られたから不自然になる
伊達藩と相馬藩がありその境が新地だとしてもそこが藩の境であり国の境と思えないのである、なぜなら平坦な太平洋岸の海岸線として仙台まで続いているからである
実際の生活でも仙台が身近なのである
むずかしい病気だと仙台に行っている、すでに二人は眼の手術で行っていたし近くで最近死んだ女性も仙台の病院に入院していたらしい

どうしても日本は山が多いから山でさえぎられる、すると自然の境界になりそれで実際の生活でも心でも心理でも形成される
阿武隈高原にさえぎられて中通りは遠く感じられる、第一中通りの山が見えないのであるでも蔵王が南相馬市の鹿島区からも見えるのである

陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王ざわうの山の雲の中に立つ
(斎藤茂吉)

この歌もそういう地形を歌っていたのである、でもそれより宮城県と山形県を分けるのは面白山がある所である、そのトンネルをぬけると山形になりそこは雪国だったとなるからだ、春でも雪が残っている、でも宮城県側はほとんど雪は降らないからである
だから面白山で国が分かたれていると感じるのである

福島県の成り立ちは会津が最も古い、この歌でもわかる

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 
偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね 万葉集

ここに国がすでにあった、国が形成されていたのである
その時浜通りにはまだ国はなかった、浜通りはなにか渡来人の跡が古くあり鉄を求めて資源を求めて来て早く開かれた
そして「黄金花咲く」で宮城県が奈良に知られていた
それを象徴しているのが

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを」 (万葉集巻3)

つまり真野の草原は奈良からみて知られた場所でありみちのくの辺境だったのである
その先はまだ知られていない地だったとなる
ただそこで国というのは形成されていなかった
万葉集の歌で

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに  万葉集  巻16 

があるとしてこれは今と通じている、交通の要所でありそこに官人を接待した采女の歌がこれだとするとそういう場所だったのである

そして中通りは

安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳
          
陸奥(みちのく)の安達太良真弓 弦(つら)着(は)けて
       引かばか人の 我を言(こと)なさむ 」
                 
これは縄文人の狩猟時代を彷彿とさせる歌である、原始性がある歌である、鹿と猪が身近なのである、陸奥(みちのく)の安達太良真弓とはこれはみちのくで特別なものである
安達太良真弓と固有名詞化しているから知られた弓だったのである

エミシは、「弓で矢を射る強者」の意のユミシが訛ってエミシとなったという説がある

弓は日本の縄文弓もあるが、中国で発展したらしく、中国東部の民族を東夷と呼ぶのも、ばかでかい弓を使う人たちだったので、大の字と弓の字を一体化して「夷」としたと言うもののようである

日本人はなぜ長弓に固執したのか
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「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[13][注 2]。夷の字を分解すると「弓人」になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[15]

弓にたけていたのが蝦夷だったとなる、それは狩猟時代を生きていたから動物を射ることが得意だったとなる

この歌のようにこれはまさに開かれない狩猟していた人たちが蝦夷が住んでいたとなる
熊の穴とかイノシシが寝ていた場所だとか見るのは狩猟する人たちでありマタギの人たちだとなるからだ
だから万葉集の歌で福島県が特徴づけられたし今でも継続している
それは地形とか地理はかわらないからである

いづれにしろ人間が生きる時その場所が大事になる、その場に人は生きる、場と一体となり生きる、アイディンティティ化して生きる
そういう場がないとき人間の生は浅薄になる意味をもていないのである
でも現代社会は文明社会とはもうそういう場がなくなった
東京を見ればわかるそこに場となるべき自然がない、ただ政治経済商業都市として肥大化したのである、そこに国として生きる場ではないのである

ただ現代は全体的にただ経済人間として生きているのである
だからこそこの辺で金になる原発が誘致されたのである、農業とか漁業とか林業は衰退していた、跡継ぎもない、木材が外材だとか国を形成する基盤が失われていたのである
それで国に故郷に愛着がなく原発事故で簡単にゴーストタウンとなり捨てられたとなる
つまり金があればどこにでも住んでいいという時、その国の愛着はない
金さえあればどこに住んでもいい、国より金であり金で買えないものがないとまでなっている
だから金の切れ目が縁の切れ目であり土地とか風土から歴史から形成された国に愛着はないのである
その国に生きるより金にならなればその国との縁は簡単に切れるのである
原発事故でそのことが証明された、補償金が大事であり金さえあれば簡単に故郷は捨てられるのである
一億円もらったら田舎をでてやるとか事故前から若い世代でも言っていたから当然そうなる

ただ人間は経済人間だけでいいものなのか?それが極端化したのがグロ−バル経済である世界が経済の単位となり経済ですべてが計られるのである
そんなふうに人間を経済化することができるのか?
人間とはただただ経済に金にのみ生きるものなのか?
それが問われた、結局グロ−バル経済とは何か?それはアメリカの一局の経済支配でありまた中国の一帯一路の中華帝国支配になるところだった
それがコロナウィルスでブレーキがかかったのである

人間は何に生きるかと問いばそれぞれの国に生きる、そこが生き死にの場なのである
日本国家に生きるのではない、国に生きる、国家は行政単位である
国は自然に形成されたアイディンティティとなるものである
ただ会津を例にすると国と言っても城のある城を守る武士が会津のアイディンティティを形成したとなるが農民は別だった
農民は明治になって一揆を起こしたということは同じ同胞としての国を形成していたのではない、侍には堅い同胞として結ばれていたが農民は別だったのである
年貢をとられるものとしてそれに反抗して一揆を起こしたのである
だから会津を国として意識していたのは武士だけであったともなる
ただ万葉集の時は農民でも庶民でも国としてやはり意識していたのである
そこに同胞がいて妻がいてまた仲間がいてそういう意識をもっていた
そこに会津嶺という山々が常に心に映じていたのである 
なぜならその時会津藩はない、侍はいなかったからである
それでも農民でも庶民でも国として意識していたのである、国の感覚があった

自然から形成された国かあって人間も心も形成される、東京のような大都会から国が形成されるだろうか?
そこは物量の世界であり経済都市でありそこがいかに豊かになっても人間の精神は形成されない、ただ何か貪欲に世界から物とか食料でも食うだけの物欲人間になっている
だから何か精神的に象徴するものはない、皇居があるとしてもそれはもともと京都にあるべきものであり江戸城のあったところにあるのがそぐわないのである
そして江戸があった時そこにはまだ自然があった、縦横に水路がめぐらされて自然の美があった、でも明治以降はそういう美は常に破壊されて喪失してきたのである
つまり国には美がある時国になりえる
美がない時、そこに国はない、美は自然からしかから形成されないのである
経済都市とか工業都市とかからだけでは美は形成されない、美がないことは致命的なのである  

いくらそこで繁栄したとしてもそこに美がなく殺伐としてビジネスマンとは自ら言っているように社畜であり奴隷なのである
人間が生きる場所に値しないのである、たた現代はすべて金で経済力で計られる物量で計られるだけなのである
そして原発事故でわかったように肝心の風土を国を形成するもの、土や水や森や空気まで汚染されて住めなくなったことでもわかる
その時国に住めなくなった、生きる場所としての国が喪失したのである
ただその前に田舎でもどこでも金を追い求めるだけであり国を生きるなどなかったのである
「神の国を求めなさい」というときまず金を求めなさいしかなかったのである
だからこそ原発でも何でも金になるものなら国に作る
美とかも関係ないのである、田舎の人間の方が強欲にもなっていたのである
だから国という時日本の国として自然の風土と一体化した国にこそ人間は生きる価値と意味があるとなる

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば  海犬養岡麻呂

栄とは物質的なものだけではない、実りとは自然とアイディンティティ化した美がある
または国に真善美がある世界である、そこに生きる価値があるとなる

国というとき国魂神社がある、相馬市に都玉神社(くにたま)神社がある
これは相馬氏の子息が若くして死んで祀られたのである
ただ国の魂(たましい)というとき何なのだろうとなる
国家と国(くに)は別物なのである、国家とは行政の単位としてある
例えば廃藩置県の後は福島県となってもそれが国とはなりえないのである
他でもそれは行政単位として分けたのである、だから不自然なのである
江戸時代の藩でも実際は本来の国とは違うものになっていた
第一相馬藩というけど千葉県などから来た相馬氏に支配されたから相馬藩となった
それは本来の国とも違っていたのである
だから伊達藩と相馬藩の境が新地になっているけどそこは山でさえぎられることもない
浜通りの延長として海岸線を通じて仙台まで直線的につながっているのである

ところが地理から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅとあるが浜通りは阿武隈高原でさえぎられているから中通りと地理的一体感を感じないしまた会津になるともともと地理的に別世界なのである
この地理だけは変えることができないのである、いつも阿武隈山脈を見ていると向こう側は見えないのである、でも飯館村まで来るとかえって中通りでも近く感じる
地理的一体感を感じるようになる
この差が大きいのである、だから人間は地理からその場からアイディンティティ化される地理は変わらない、山が平地になどにならないからである

第一いつも太平洋側から太陽が昇るのと山から太陽が昇るを毎日見ているとき相当に感覚的に違ってくる、その感覚がどうしても理解できなくなる
例えば韓国から日本海を見ると東海と呼んでいるけど日本海側から見るとそこは常に太陽が沈む場所なのである、つまりそれだけ場所によって見る感覚が違ってくるのである

とにかく会津は古代から大きな国だった、他に福島県でも東北でも国として意識されていない、その国とは今の県とか江戸時代の藩でも伊達藩のように地理とは関係なくなる場合がある、人工的なものとしての国が形成される、ただ古代から国(くに)として継続したのは日本でも少ないだろう
国こそ国体という観念なのかもしれない、それは日本国家というのではない、その土地と一体化したものでありアイディンティティ化したものである
それが本当は愛国心に通じている、ただこの国と国家はまぎらわしいのである
国とは血脈を通じたものがあり国家は行政的機関とかなり人間の温かい血が通っていないのである、だからお国訛りとかなると何か親しみを感じるのはそのためなのである




2020年03月16日

コロナウィルス騒動が人間に問うもの (人間は自然を越えられない、生態系を無視して生きられない)

                                                      
コロナウィルス騒動が人間に問うもの

(人間は自然を越えられない、生態系を無視して生きられない)

グロ−バル科学技術文明の批判 (生態系を破壊してコロナウィルスでも世界的災禍となる)


人間はどうしてもある制約が課せられている、それは生態系を無視して越えて生きられないとか地理の制約がある
ただ技術の発達で交通の発達でそういう制約を無視して克服して船であれ電車であれ車であれ飛行機であれ自由にヒト、モノが流通するようになった、グロ−バル化するようになった                            

ではコロナウィルスとは何なのか?

こうして交通が発達してグロ−バル化したことに歯止をかけた、ウィルスというときそもそもおそら侵入してはならない密林とかにひそんでいた所に人間があえて侵入して伝染したとかなる
自然があったとしても人間は技術力があり入ってゆき森でも何でも資源として利用して喪失させた、そしてオランウータンとか森がなくなり住む場所がなくなったとかある
それはオランウータンが住む生態系が破壊されたために起きたのである

生態系から文明をみるとき日本は中国の江南辺りから雲南辺りからの照葉樹林帯の共通の文化圏を形成しているとみる、原町のスダシイ神社とかあるのもそうである
それで不思議なのは韓国と古代から日本は交流が深い、その半島の先端に伽耶国があり
ここは日本と一体化したようになっていた、日本府任那があったからだ
そこで料理は禅宗の精進料理のようなもので質素だったという
肉食はモンゴルが侵入してから習慣化したのでありその前は南は照葉樹林帯の文化だったのである

人間は生態系を離れてありえない、でも現実に東京とかなるとそこに自然とか生態系を感じない、人工的空間に生活している、東京に住んでいたら米がどこでどういうふうにとれるのかわかならい、田んぼがないからである
ただ中国であれ外国からであれ入ってくるものであれスーパーに行けば買えるものだと思っている
でも中国から今回のように食料すら入らなくなるとどうするのかという深刻な問題が生まれる、それは私はグロ−バル化経済批判で再三指摘して来た
なぜならこういう時、食料が不足したらまず自国優先になる、その土地土地に住んでいればその住んでいる土地が優先になる
すると東京とか大都会ではどこから食料を手に入れるのかという問題が生れて来る
それは深刻なものになる、外国は頼りにならないのである
そこにグロ−バル化の限界がある

今回のコロナウィルス騒動で不思議なのは様々な文明の弱点、グロ−バル経済の弱点、
または世界の国々の弱点が露呈されたことである
医療でもそうである、アメリカは保険がないから貧困層は医者にもかかれない、病院ち行けないから感染者が増える、インフレインザでも一万人以上死んでいる
貧困層が医者にかかれないことは感染も拡大してそれが上層部にも波及する
つまり格差社会は上層部もまきこみ被害になってゆく
だから極端な格差社会の国は国自体が脆弱なものとなる
ウィルスの攻撃には弱いことが判明した

それはイタリアでも顕著なのである、ここはそもそも病院の数が日本の十分の一とかに減らしてないのである、これは国全体が財政的に厳しく医療とか福祉にまわせなくなったからである、中国に頼るようになったのもそのためである
そのイタリアからヨ−ロッパ全土に広がった、EUでは行き来を自由にしているから余計に
そうなる、スイスにも広がったという時、スイスからイタリアへの鉄道があり交通が張り巡らされているからそうなる、スイスに広がり隣のオーストリアにも広がる
ヨ−ロッパは一つの大陸で交通が発達しているから広がりやすいのである
日本はもともと海に囲まれているから水際でとめられるということがある

そしてなぜヨ−ロッパから日本に帰ってきた日本人が感染していたのか
それは空港で検査が必ずあり厳しいから判明したのである
日本は明らかに検査する数は少なすぎる、もし空港で厳しく検査するようにしていれば数は百倍になるかもしれない、そこに日本の不安があり疑問がある
ただ死者数はそれほどではないとしてもこれインフレインザで肺炎で死んだ人をコロナウィルスでもそうししていないのかもしれない、何かここは不安なのでアク

いづれにしろ人間は何らか常に制約がありタブーがあったがそれを破ってきたのが文明であり科学技術なのである、でもその制約を越えられないものがある
原発事故で致命的だったのは生態系を破壊されて土や水や森や空気まで汚染されて住めなくなったことである
田んぼとかは生態系に依存してあった、でも一時田んぼでも稲作を禁止されたとき荒廃して原野になった
その時田んぼから蛙が消えた、蛙が消えると鷺が消えた、蛙を餌としていたとかあるからだ、田んぼには水生生物をもいて蛙の餌となっていたからである

つまり生態系はこうしてつながっている

田んぼがなくなる⇒蛙がいなくなる⇒鷺がいなくなる・・・人間がいなくなる

この連鎖が生まれた、人間も町から消えてゴーストタウンになったからである
生態系を破壊すれば人間はその土地に住めなくなるのである

だからコロナウィルスの不思議はこうしたグロ−バル経済とか生態系無視の経済の拡大とかに警告したのかともなる、それも天の作用だったのかともなる
社会自体を見直すものとして生じたのかともなる
津浪でも原発の危険性を警告した、その惨状はあまりにも強烈だった
でも津波が来なければまた以前として原発は安全だとなり日本中が原発だらけになっていた、誰もとめることができない、金になるとなればこの辺でそうだったように目の色を変えて危険は無視されるからである

自然災害は人間の傲慢さを打ち砕くものである、人間は自然を越えられないのである
必ず台風でもそうである、新たな自然災害でその不備が問われるのである
そして自然災害は必ず人災だともされる、それはそうした危険を無視しているからである安全には金をかけないからである、コロナウィルスだってそうである
医療関係に金を使いたくないとして医療が脆弱になりアメリカでもイタリアでもそこをつかれて蔓延をとめられないとなる
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2020年03月17日

コロナウィルス騒動がもたらした結果の不思議 (グローバル経済の変革をうながすものとなっていた)


コロナウィルス騒動がもたらした結果の不思議

(グローバル経済の変革をうながすものとなっていた)


●グロ−バル経済の歯止

●中国の一帯一路の歯止

●アメリカの金融資本主義の崩壊の危機

●ヨ−ロッパのEUの分解

●密集する都市の被害⇒分散化

●格差社会の医療不備のから蔓延(アメリカなど)

●老人が感染して死に安い


何かこのコロナウィルスが不思議である、これの正体が不明なのこともある
ただその結果として現れたものから考察すると現代社会が築いてきたものの崩壊現象が起きていることである
それはこの辺でぱ原発事故から起きた、土も水も森も空気まで汚染されたら息すらできなくなる、そして町はゴーストタウンとなり今でも回復していない町がある

そもそもウィルスの災いも歴史的に甚大だった、それはヨ−ロッパのペストなどで象徴されている、人口の三分の一とか消失した、死体の山が築かれた、この世の終わりかとも見えた、だからヨ−ロッパで今回も恐れることはわかる

またアメリカのインディアンとか南米のメキシコのマヤ文明とかインカ帝国とかを滅ぼす原因となったのが白人がヨ−ロッパからスペインとかからもたらされたウィルスであったそれで壊滅的な死者を出したのである
日本がでもコレラが流行したのは幕末にあり明治にも増えた、それは外国人と交わるとそうなりやすいのである
免疫ができていないからそうなりやすいのである

このコロナウィルスが結果的にもたらすものを見るとこうして世界自体を変えるのかとなる、これらがすべて悪いものとして働くともならないのが不思議なのである
世界の人たちがこうなくことに反感することも多かったからである
私自身もそのことで批判してきたのである
トランプがアメリカファーストとかイギリスがEUから離脱するとかそういう傾向がすでにあったからだ

そして今株価が下がり世界の金融システム自体が危機にさらされる、崩壊の危機にさらされている、ということはグロ−バル経済を牛耳る金融システムを牛耳る金融資本家への攻撃ともなる
世界のそうしたシステムの中で暴利をむさぼっていたものの凋落ともなるのか?
そうなることは世界にとって悪いことではない
何かこういう時代の大変化の時は必ずどこかが誰かが犠牲をともなうのである
そしてその激変の後に新しい時代がはじまる
それは日本だと明治維新とか太平洋戦争後に起きた
それはだいたい70年周期で大変革起きて来る、それが2020年である
ここが節目の年なのでそうした激変が起きて来る

例えばコロナウィルスの結果中国では生産活動が一時停止して二酸化炭素が減り大気汚染の度合いが急激に減った、結果的に大気汚染で死ぬ人が相当数減った
コロナウィルスで死ぬより十倍もの人たちが中国では大気汚染で死んでいたのである
つまりコロナウィルスより大気汚染の方が深刻だったのである
ということはコロナウィルスが大気汚染を公害をとめたとまでなるから不思議なのである
それがコロナウィルスは密集する都市でたちまち蔓延する、それで一千万都市の武漢が閉鎖された、つまり人間が密集して住む都市は危険だったということになる
もし人間がこんなに密集して住んでいなければ武漢肺炎として風土病で終わっていたという、ウィルスは密接に交通と関係していたのである

コレラでも日本では日本海側から伝染して青森とかで増えた、でも内陸部はそれほど増えなかったのである
しかし福島県では会津若松市が二つの街道があり内陸部からと日本海側の新潟から感染者が入ってきて増えた
それから逆に田島の方へ感染が移っていたのである
つまり交通で人の流れに比例して感染者が増えていた、だから桧枝岐(ひのえまた)は秘境だったから感染者は出なかったのである,ほとんど交通がなかったからである

いづれにしろこのコロナウィルスの謎は子供とか若い世代は比較的感染しても軽症ですむが老人は60以上になると重症になり死に安いのである
これとは逆に放射線被害は若い世代へ子供とか次代のまだ生まれていない人たちまでに影響する、遺伝子が破壊されることで恐怖だった
老人は放射線を恐れなかった、なぜなら20年後に癌になるとしても何かしらの病気になって死んでいるからである、だから放射線は関係なかったから避難区域に帰ったのであるでもそこに若い世代がいなくなったから自治体を維持できなくなっていたのである,今回は老人がこれだけ増えすぎたのだからかえってコロナウィルスは減らす、するとこれは自然が与えた淘汰現象なのかとまでなる
だからコロナウィルスは本当に不思議なのである
自然からの天からの神からの人間の警告であり作用なのかとまで思ってしまうのである

そして日本では感染者が増えないとしているが外国から帰った人がヨ−ロッパからでも
感染している人が多い、それは空港で厳格にみんな検査しているからである
日本国内では検査していない、だから実際は十倍なのか百倍なのか感染しているともみるまた死者が少ないという時インフレインザの肺炎で死んだ人は見分けがつかないという時実際はコロナウィルスで死んでいるのかもしれない、その数は多くなるのである
老人はインフレインザの肺炎で死ぬ人が多いからである

ともかくこのコロナウィルス騒動というのが何なのか不思議である
原発事故も様々な問題を提起した、そのことを追及して来た
原発事故は大きくみれば文明崩壊の現象だったのである、なぜなら故郷でも住めなくなったからである、ゴーストタウン化したからである
そして廃炉まで40年かかるとかもう回復不可能のような状態に陥ったからである
だからコロナウィルスでも世界に蔓延してそうした崩壊現象が起きて世界自体を変えてしまうとなると一体これは何なのだろうとなる
それが確かに一時的には甚大な被害となり犠牲者が出る、でもそれは新しい時代を作る痛みなのかもしれない、グロ−バル経済でも金融資本主義でも一旦崩壊することは新しいシステムの構築へすすむとなるからだ


posted by 老鶯 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層