2020年01月29日

冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


年明けて始動や雷の轟けり

突然に一月の終わり雷鳴りぬ

荒れ模様一月終わり雷鳴りぬ

禅僧の喝や叩かる冬の雷
  

今冬の雷が突然真上に轟いてびっくりした   


夏と冬の積乱雲を比べると、冬の方が圧倒的に背が低く、規模の小さいものになります。
落雷数は極端に少なく、遠くにいてもゴロゴロと音が聞こえる夏とは違い、冬の雷というのは音もなく近づいてきます。

落雷数が少ないというのは、良いことのようにも思えますが、実は一発の威力が強くなります。
一発雷と呼ばれる冬の雷は、なんと夏の雷に比べ100倍以上に達する凄まじいエネルギーを持っています。

また、冬季雷は、夏に比べて予測が難しいという特徴もあります  

なるほどそういうことだったのか、インタ−ネットは何か知らないことでもそれ相応のものがヒットするとき役にたつ、俳句が気候の挨拶のようになっているからだ
日本人は天気が変わり安いから天気が挨拶代わりになり俳句が生まれたからだ

冬の雷は日本海側が鳴りやすいとある、冬の雷は夏の雷とは違う、夏の雷だと遠雷とかあり入道雲がわき雷雲が湧きあがり徐々に雲が移って雷になり稲妻が走る
今日経験したのは突然にすぐ頭の上に雷が鳴った
それで停電になるかとびびった、パソコンの電源が切れのが怖いからだ


冬の雷は雲が低く突然鳴る、でも夏の雷に比べて百倍のエネルギーがあるとすると怖いものだったのである、ただ冬の雷そんなにごろごろと鳴りつづけたりしない
一二回突然頭の上にがつんとひびいておさまる
これは確かに禅僧が座禅して棒で叩かれる感じなのである

今年の一月も終わりだかなにかいろいろ波乱含みである
2020はみんな変換期で何か大きなことが起きると予想した通りとなるのか?。
その兆候は一月から始まったのである
コロナウィルス騒ぎでオリンピックが開催されるかどうかも怪しい雲行きになる

とにかくこの冬の雷は波乱の年の幕開けを告げるものとなっているかもしれない
今年は新年から不穏である
やはり今の時代は科学的なことを知らないと知識人となりえない
そこが弱いので私の場合は発言するにしても訴えないということがある
科学と文学は結びつきにくいからである
何か今年は波乱模様である、コロナウィルとかでもそうである
今年は新年から不穏である



亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


我が家に嫁ぎてあわれ悲しかな母は百歳生きて死にき

辛き日を生きにし母や今はしも彼岸に安らぎ我を見むかな

我が姉の笑いし声のひびくかなその日は遠しも心に生きむ

苦しくもますぐに生きむさもあらば後の人しも習い生きなむ

我が家に60余年を生きにしを心はなおもここにあるかな 

我が家の広しも家族なし廊下の長く寒くあるかな

蠟梅の今年も咲きぬ我が家に我は生きにつ家族を偲ぶ

人は死すも消えるにあらずその家に土地に国にも生きつづけなむ

その土地にともに生きなむ命なれ死にしあともなお生きるなるらむ

争うも家族なりにし死してのちなおともにしあらむと思ふ

人の縁きれやすきかなさもあれど我が家族の縁は死しても切れじ


夢で母と姉の夢をみた、なぜか二人で歩いていた、その後を自分も歩いていた
姉が死んでから10年とかにもすでになる、母はまだ4年とかである
でも人間は60年とか70年家族として一緒に暮らしていれば何か簡単には死んでも消えないものとなる
むしろ死んでからもやはり継続がある、死んだら骨となり灰となり何もなくなるかとんいうとそうでもない、何かその家に土地に他にも愛着するものがあり生きつづける

母は自分の家では苦労した、いいことがあまりなかった、だからといってすべてが悪いとはならなかった、なぜなら姉がいたことで楽だったし自分もそうだった
自分にとっては欠かせないものだった
父が中学で死んだからとくにそうなったのである

普通の家族ではないにしろ家族として必要だった、補うものがあった
最後は悲劇だったにしろ何とか家族としてありつづけた
姉もひどい認知症だったけど納得して最後は死んだ
それが救いだった
何かしら家族でも必ず影の部分があり暗黒がある、ただ60年と一緒にいることの意味は大きい

どうしても人間は何か時間で作られる、家族でもそうである
もう子供でも離れて住むと疎遠になってゆく、それで認知症になると実の子供でも離れて過ごした人がわからなくなる、私は60年も一緒にいたからひどい認知症でも姉は自分のことを忘れなかったのである
そういう差がでてくる、何でも長い時間がないと親密さでも信頼でも作れないのである
だからこそ私はその土地にともに生きること地縁の方が大切だとなる
いくら物が入ってきても地球の裏側の人と親密になれないし信頼も生れないからだ

人間の一生を最後にみんなふりかえる、人が死ぬとその人がどんな人だったかとかかえって生きている時より偲ぶことになる
それは時間で作られたものであり必ずしも血縁とかではない
兄弟でも姉妹でも子供の時一緒に過ごさないと他人と同じになるからだ
兄は5年しか同じ家に暮らさなかった、それは5歳までだった
だから記憶が確かでないにしろ一緒に暮らし記憶があり兄となっていた
でも交通事故で40才で死んだのである
その5年間が貴重な時間だったのである

だから結婚して晩年に熟年離婚するのは損だと思う、なぜならその後は親しい愛する関係はもう時間がないから築けないからである
人間は最後になんでもあれ時間が最も貴重だったと自覚させられるのである
なぜなら何であれもう二度と会ったり何かをしたりすることができなくなるからだ

だから私はその土地と一体になる生にこそ深い意味をもてる、それでグロ−バル経済とかはそうした深い精神的紐帯が作れないからはぐくまないから賛成できないのであく
人間にとって物が大事になりすぎたのが戦後の高度成長時代である
その歪が世界的に多くなりすぎた資本主義でも国際金融資本が富を独占しているとかそうである、人間の心の歪(ひずみ)が世界的に現れた
人間は確かに物も必要であり食べ物がなかったら生きられないのも現実である
ただそれとともにどうししても人間は心に生きるということがある
その矛盾に常に人間は苦しむのである

家族とは心で愛で結ばれたものであり金でもない、そこが違っていた
私は家族の介護があり死んで親戚とみんな縁は切れた
それは「金の切れ目が縁の切れ目」となったからである
もう求めるものは金しかないからである
だからみんなそうなる、もちろんそういう人は生きて入る時から縁が切れているのである人と人が出会ってもただそこにはもの売買とか金のやりとりしかないのである
だからそもそも人間の関係とは何なのだろうとなるのだ 
それあまりにもはかない無常だとなる

でも家族だったらそうはならないのである、死んでもこうして10年過ぎても思っていることその面影とかなにかが見えない糸げ継続している
これはみんな感じているだろうが不思議だとなる
肉体は消えても心の絆が消えないのかもしれない、心とは見なかいけど通じているとなるからだ

ただ正直母は腰が曲がる時苦しくて自殺するところだった、危機一髪で防ぐことができたつまり自殺が後味悪くなるのは残されたものへの影響が大きいからである
もし自殺したら何かこうして偲べないとなるからだ
そして自分が殺したのだとか自虐的にもなるからだ

結局人間は苦しくても生きる、それが定めである、そして苦しくても生きたことにより
その生に重みが生まれる
もし楽して生きたとなるとそうはならないからだ
苦労して生きて私を育ててくれたとなると感謝するが金持ちで楽して育てただけだとか
人に頼んで母は何の苦労もしないとなると感謝もしない、ありがたみがなくなってうしまうのである
だから意外と金持ちの家では介護になるとすぐに金のかかる施設に入れて自分では介護しないのである
金持ちの家はかえって親に冷たいともなるのである