交通が発達すると伝染病が広がる被害
(江戸時代の伝染病も港からウィルスが侵入ー武漢も交通の要所)
天然痘(疱瘡)は Variola veraというウイルスによって起こる感染力の強い伝染病である。『日本書紀』に天平7年に「幼い子供が多数死んだ」という記述があり、天然痘は天平年間に大陸から侵入したとされている。以降天然痘は19世紀まで大流行を繰り返した。1857年から5年間長崎海軍伝習所の医学教授を務めていたポンペ・ファン・メ−ルデルフォ−ルト(J. L. C. Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)は「日本ほど痘瘡のある人が多い国はない。住民の3分の1は痘痕があるといってよい」と書いている
文 久2年 の流行は長 崎は も
ちろん,山 陰 ・山陽 ・江戸 ・越後 ・飛騨 ・信 州
か ら奥 州 までお よんで,ほ ぼ 日本全 域をおお う
ている ことが立 証で きる。
安 政5年 の コレラ
病 は石巻 に侵入,局 所的に流行 し,さ らに北上
川本流を のぼって鹿又 ・飯野川 にお よび,一 関
付近 まで流行 の兆 がみ られ る。江合川 に沿 う古
川 に達 しないのは,河 川交通におけ る利用度
交通頻 度の差 に よる もの と察 しられ る。
コロ リ病 ニ而人 死ス(飯 野川源光寺)
安政六年流行 コロ リ病 ニテ都合三人没 ス
八 月二十五 日 徳翁道教信士 赤岩 徳治事
八 月二十七 日 実相妙境信女 赤岩 徳治妻
九月五 日 宝台妙客信女 赤岩 徳治娘
(気仙沼観音寺 〔注13) 425頁〕)
な どがあ って,当 時いかに奇病 に困惑 したかが
うかがえ る。特 に,観 音寺 の記録 か らは,一 家
族 の大人3人 が,10日 間に病魔 で急死 した実態
を もうかがい知 る ことができる。
。雫石は南部藩城下町盛岡 の近郊
であるが,奥 羽山脈を越えて裏 日本の影響がみ
られ,八 戸は 旧盛岡南部藩 との関連や 海港 とい
う関係 もあって,西 廻 り航路の影響 よ りも,東
第6図 文久2年 東北日本諸地域に
おける月別死亡者構成
廻 りの影響が大で あった ことを示 してい る。
当時の川柳には、「はやり風十七屋から引き初め(飛脚問屋から流行性感冒が感染が始まるの意味)」や、
東ローマ帝国軍はカルタゴとアフリカ北岸のほとんどを奪い返し、シシリー島を奪還してイタリアに渡りました。ローマなどイタリア中部の都市を占領、さらにスペインの一部も奪還しました。540年にエジプトのペルシウムでペストが発生(エスティニアヌス疫病)しており、軍事行動によって拡散したペストは542年には首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)にまで及び、毎日5,000〜10,000人の死者が出たとされています。
若木神社は東根市役所の南方、神町東の若木山(133)の西麓にある。若木神社は疱瘡(天然痘)の神様として知られ、元は若木山の山頂に有ったという。
若木神社は日本唯一の疱瘡守護神であり、神町の氏神様であると共に
若木大権現として東北一円の信仰を集め、東北の人々の加護した神様であります。
大君の都-オールコック
明治に来た外交官の日本見聞録である、日本は中国より江戸時代でも清潔だったというのは日本の文化ともなっていた
江戸時代だと不潔な感じがするがすでに外国人からみれば清潔だったのである
これだけインタ−ネットで調べられた、江戸時代から安政からコレラも流行した
それは港からだった、疱瘡は天然痘は最も恐れられていて歴史も古い
それで相馬藩と伊達藩の境の玉野村に若木神社があった
これは疱瘡を防ぐものとして祀られた
江戸時代は国内では船の運送とかが発達したから全国的に交流が盛んになった
ということは伝染病でも伝播しやすくなっていたのである
それで交通の面からすると興味深いのは主要な港からコレラが伝染した
それは石巻だと北上川をさかのぼり一関市にとか伝染した
それは交通があり人や物の行き来が盛んになったからである
それが裏目となりコレラが幕末から明治になり流行した
当時の川柳には、「はやり風十七屋から引き初め(飛脚問屋から流行性感冒が感染が始まるの意味)」や、
飛脚もウィルスを運んだというのもそうである、人が移動するとウィルスも移動しやすいそれが伝染病の怖さである
それで今回中国のコロナウィルスの発祥地が武漢だったということで納得した
そこは盛んに中国の交通の要所だと言っていたからである
赤壁の戦いもそうした中国の要所だから起きたのかやはり場所と何でも深く関係している
コレラの発祥地は島根の方だとか言われるから港から入ってきた
そして東北にも被害があった、石巻では一家の三人が死んだというのは衝撃だったろう
そこは交通の要所であり江戸に伊達藩の米を運んでいたからである
古代から石巻や北上川は川を通じた交流がありそれか裏目に出たのがコレラの伝染だったのである
伝染病が怖いのは免疫がないとかで被害が拡大する、村の入り口に藁人形とか置いたのは疫病防止のためだともされている
それだけ疫病は恐れられていた、江戸時代はなかなか交流はしない社会だった
関所があり出入りも自由にならない、そういう社会でそういうふうに警戒することは理解できる、よそ者を入れないという理由にもなった
何かグロ−バル化でも何でも広く人間が交わり物が行き来することはいいことだとされるでも必ずその負の面がある、そしてグロ−バル化がこれほど拡大するとその負の面が大きくなったのである
それは神からの警告でもある
グロ−バル化経済はもうこれ以上必要ない、縮小すべきだ
それは日本だけではない、世界でも移民問題があり限界に来ている
国が交わるとしても何か別な方法を模索する必要がある
なぜなら日本では古代から文化は取り入れたが労働者とか入れない
あくまでも中国だったら留学生が行って文化を取り入れたのである
漢字とかでもそうである、仏教でもそうである
ただ日本では中国に与えるものがないので生口を送った記録にあるがこれは奴隷だったのかもしれない、何も与えることができないので送ったのかもしれない。
今でも何も与えることがないとすると技術もないとすると資源もないとすると生口を奴隷を送る、それは今の底辺労働の外国人労働者なのである
でも今やベトナム人の優秀な人たちは日本に来ないという
日本が優秀な留学生の来る場所でなくなっているからである
このウィルスでも自然災害でも津波でもそうだったが神からの自然からの警告なのであるグロ−バル経済とか資本主義がもう成り立たなくなっているというのもそうである
一時は資本主義が有効に働いていた、でも今は違う
別なシステムが必要になっている、別な思想が必要になっている
資本主義ももともと思想だからである、その思想が現実に合わなくなったのである
何か事件があればそれを歴史的に見ることが必要である
今に起きることはすでに常に過去にも起きていたから歴史から学ぶことが必須なのであるカルマとは繰り返すことであり歴史は繰り返すなのである
交通が発達した結果の負の面が伝染病が幕末から明治に拡大したのである
中国人が観光でサーズの時より10倍以上来ている、その影響は大きいのである
つまり必ずしも経済的な面だけからグロ−バル化を見てはいけないのである
それは大きな災いも同時にもたらすのである
ペストもトルコに東ローマ帝国の拡大とともに広がった
ペストの猛威をヨ−ロッパではとめることができなかった
ヨ−ロッパで三分の一が死んだ、黒死病だった、だから疫病は怖い、疫病との戦いも人類の戦いだった
とにかくグロ−バル経済というのは資本主義でもそうであり見直すときが来ているのである、それは負の面が増大してきたからである
江 戸 時代 にお け る コレ ラ病 の流行
-寺院過去帳 に よる実証菊 池 万 雄
この論文は興味深い、こうして学者の論文がインタ−ネットで読めることで知見が広がったのである