2020年01月27日

葉牡丹、寒烏、寒椿(田舎の冬の暮らし)


葉牡丹、寒烏、寒椿(田舎の冬の暮らし)

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我が家の墓を守るや寒椿

心澄む朝清明の冬の空

寒鳥の鋭く一羽朝の空

寒烏図太く田舎に生きるかな

寒雲や電車を待ちぬ田舎駅


我が庭に葉牡丹植えて石の側花は咲かじも冬を耐えにき

葉牡丹のその色深く心しむ冬にしあれば花もなくして 


田舎の冬は田舎らしくなる、冬ごもりとなくのもいい、都会では冬籠りもない、
常に騒々しく忙しく活動しかないのである
やはり冬は冬らしく休むということがいい
それが自然のリズムだからである、そういうことは農業の時代はあった
今は田舎すら騒々しいとなる、休む時期がない
冬田とかなると休んでいる田である
ところが海岸にある風力発電の風車は休むことがないのである
機械というのには休みがないのである
そこが人間とか自然と違うのである、それは非人間的になる
その機械にすべてを合わせると非人間化するのである
だから一見無駄なようでも非効率的なものでも人間には価値あることなのである
それで無人駅で何か電車を待つ時間が人間的なのである
電車を待っていると辺りの風景が心に映り季節を感じる

寒雲や電車を待ちぬ田舎駅

電車を待っていることが何かそこに人間味がでてくる、これが車だとそういうことがないのである、待つ時間がないからである、なるべく待たないということが現代に人間的なものをなくしているのである
効率ばかり追求することが非人間化させるのである
待っているという時、母親が子供を待っているとか誰かを待っている
親しい人を待っている、待つということはそこに期待感みたいなものか自ずとある
その待つ時間に何か人間的な情がはぐくまれているのである
これは鉄道だけではない、今はあらゆることにそうした人間的情などがなくしているのである、それで無人駅化するのもそのためなのである
人間のような非効率なものはいらないとなっている
これが実際は相当に危険なことなのである

墓守というのも一つの仕事なのだろう、親が死んだし私の家で残ったのは自分だけだからである、墓はすぐ近くにある、そのまわりに椿が咲いている
それは寒くなると今頃は寒椿になる、ただ今年はあたたかいから冬椿になっていた

寒烏というとき何かこれも図々しいというか図太い、何を食べているのかわからないが
烏は何でも食べている、雑食性である、だから図太く生きている
そういう人だと生きられるとなる、嫌がられる面もあるがあまり他人を気にしないのである、
ただ田舎の暗黒は田舎の人が人情にあついというのではない、かえって冷たい
それで田舎の人は不幸な家があるとその話題で盛り上がり楽しむとまでなっている
他人の不幸が本当に蜜の味になる
それだけ娯楽がないからそれが楽しみとなるというが別に今は娯楽はいろいろとある

「噂話ばっかし、噂話ばっかし。田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない」

 事件後に山中から発見されたICレコーダーにこう吹き込んでいた保見は、広島拘置所で接見した私に、「村人に犬猫を殺された」といった噂話を繰り返し語った。

 事実として保見が5人を殺したことは間違いない。しかし、噂が5人を殺したのか? この問いに対する答えは裁判では結局示されなかった。最高裁では『妄想性障害』という単語すら出てこない。いわば司法は動機を確立することを避けたのだ。

これも田舎の象徴的な事件だった、ただあそこは本当に昔の村であり山奥だから田舎でも違っている、田舎でも一万くらいでも都会化している所もあるからだ
そこは山奥であり極端化したのである

でも共通なことはある、何か他人の不幸が話題になりそれを語ることが楽しみになる
そこに田舎の負の面が露骨になるのである
私の場合だって介護とか病気で苦しんでも隣でも今は助け合うことがないのである
だから田舎と言っても今は昔と違うし昔も田舎の人間がいいとはならない
そもそも同じ人間であり人間の悪質性は変わらないのである

葉牡丹が今の季節にはあっている、私が買って庭に植えた
でも私の家の庭は土地が悪い、掘ったら石ころがでてきたとか土地が悪いから花が咲いてもつづけて咲かない、薔薇も今年は咲かない、肥料もやっていなかった
とにかく家事からなにから一人でできないのである
ただ葉牡丹と石はあっている、そして葉牡丹の紫の色が心にしみる
葉牡丹というのは花ではない、キャベツである、そういえばキャベツであり花は別に咲くらしい、葉牡丹はまさに葉なのである
でも冬の季節にあっているのである 

2020年01月28日

交通が発達すると伝染病が広がる被害 (江戸時代の伝染病も港からウィルスが侵入ー武漢も交通の要所)


交通が発達すると伝染病が広がる被害

(江戸時代の伝染病も港からウィルスが侵入ー武漢も交通の要所)


天然痘(疱瘡)は Variola veraというウイルスによって起こる感染力の強い伝染病である。『日本書紀』に天平7年に「幼い子供が多数死んだ」という記述があり、天然痘は天平年間に大陸から侵入したとされている。以降天然痘は19世紀まで大流行を繰り返した。1857年から5年間長崎海軍伝習所の医学教授を務めていたポンペ・ファン・メ−ルデルフォ−ルト(J. L. C. Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)は「日本ほど痘瘡のある人が多い国はない。住民の3分の1は痘痕があるといってよい」と書いている


文 久2年 の流行は長 崎は も
ちろん,山 陰 ・山陽 ・江戸 ・越後 ・飛騨 ・信 州
か ら奥 州 までお よんで,ほ ぼ 日本全 域をおお う
ている ことが立 証で きる。 

安 政5年 の コレラ
病 は石巻 に侵入,局 所的に流行 し,さ らに北上
川本流を のぼって鹿又 ・飯野川 にお よび,一 関
付近 まで流行 の兆 がみ られ る。江合川 に沿 う古
川 に達 しないのは,河 川交通におけ る利用度
交通頻 度の差 に よる もの と察 しられ る。     

コロ リ病 ニ而人 死ス(飯 野川源光寺)
安政六年流行 コロ リ病 ニテ都合三人没 ス
八 月二十五 日 徳翁道教信士 赤岩 徳治事
八 月二十七 日 実相妙境信女 赤岩 徳治妻
九月五 日 宝台妙客信女 赤岩 徳治娘
(気仙沼観音寺 〔注13) 425頁〕)
な どがあ って,当 時いかに奇病 に困惑 したかが
うかがえ る。特 に,観 音寺 の記録 か らは,一 家
族 の大人3人 が,10日 間に病魔 で急死 した実態
を もうかがい知 る ことができる。

。雫石は南部藩城下町盛岡 の近郊
であるが,奥 羽山脈を越えて裏 日本の影響がみ
られ,八 戸は 旧盛岡南部藩 との関連や 海港 とい
う関係 もあって,西 廻 り航路の影響 よ りも,東
第6図 文久2年 東北日本諸地域に
おける月別死亡者構成
廻 りの影響が大で あった ことを示 してい る。


当時の川柳には、「はやり風十七屋から引き初め(飛脚問屋から流行性感冒が感染が始まるの意味)」や、


東ローマ帝国軍はカルタゴとアフリカ北岸のほとんどを奪い返し、シシリー島を奪還してイタリアに渡りました。ローマなどイタリア中部の都市を占領、さらにスペインの一部も奪還しました。540年にエジプトのペルシウムでペストが発生(エスティニアヌス疫病)しており、軍事行動によって拡散したペストは542年には首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)にまで及び、毎日5,000〜10,000人の死者が出たとされています。


若木神社は東根市役所の南方、神町東の若木山(133)の西麓にある。若木神社は疱瘡(天然痘)の神様として知られ、元は若木山の山頂に有ったという。


若木神社は日本唯一の疱瘡守護神であり、神町の氏神様であると共に
若木大権現として東北一円の信仰を集め、東北の人々の加護した神様であります。

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 クリック拡大koreracopynew22.jpg



大君の都-オールコック

明治に来た外交官の日本見聞録である、日本は中国より江戸時代でも清潔だったというのは日本の文化ともなっていた
江戸時代だと不潔な感じがするがすでに外国人からみれば清潔だったのである

これだけインタ−ネットで調べられた、江戸時代から安政からコレラも流行した
それは港からだった、疱瘡は天然痘は最も恐れられていて歴史も古い
それで相馬藩と伊達藩の境の玉野村に若木神社があった
これは疱瘡を防ぐものとして祀られた
江戸時代は国内では船の運送とかが発達したから全国的に交流が盛んになった
ということは伝染病でも伝播しやすくなっていたのである

それで交通の面からすると興味深いのは主要な港からコレラが伝染した
それは石巻だと北上川をさかのぼり一関市にとか伝染した
それは交通があり人や物の行き来が盛んになったからである
それが裏目となりコレラが幕末から明治になり流行した 

当時の川柳には、「はやり風十七屋から引き初め(飛脚問屋から流行性感冒が感染が始まるの意味)」や

飛脚もウィルスを運んだというのもそうである、人が移動するとウィルスも移動しやすいそれが伝染病の怖さである
それで今回中国のコロナウィルスの発祥地が武漢だったということで納得した
そこは盛んに中国の交通の要所だと言っていたからである
赤壁の戦いもそうした中国の要所だから起きたのかやはり場所と何でも深く関係している
コレラの発祥地は島根の方だとか言われるから港から入ってきた
そして東北にも被害があった、石巻では一家の三人が死んだというのは衝撃だったろう
そこは交通の要所であり江戸に伊達藩の米を運んでいたからである
古代から石巻や北上川は川を通じた交流がありそれか裏目に出たのがコレラの伝染だったのである

伝染病が怖いのは免疫がないとかで被害が拡大する、村の入り口に藁人形とか置いたのは疫病防止のためだともされている
それだけ疫病は恐れられていた、江戸時代はなかなか交流はしない社会だった
関所があり出入りも自由にならない、そういう社会でそういうふうに警戒することは理解できる、よそ者を入れないという理由にもなった

何かグロ−バル化でも何でも広く人間が交わり物が行き来することはいいことだとされるでも必ずその負の面がある、そしてグロ−バル化がこれほど拡大するとその負の面が大きくなったのである
それは神からの警告でもある

グロ−バル化経済はもうこれ以上必要ない、縮小すべきだ

それは日本だけではない、世界でも移民問題があり限界に来ている
国が交わるとしても何か別な方法を模索する必要がある
なぜなら日本では古代から文化は取り入れたが労働者とか入れない
あくまでも中国だったら留学生が行って文化を取り入れたのである
漢字とかでもそうである、仏教でもそうである
ただ日本では中国に与えるものがないので生口を送った記録にあるがこれは奴隷だったのかもしれない、何も与えることができないので送ったのかもしれない。
今でも何も与えることがないとすると技術もないとすると資源もないとすると生口を奴隷を送る、それは今の底辺労働の外国人労働者なのである
でも今やベトナム人の優秀な人たちは日本に来ないという
日本が優秀な留学生の来る場所でなくなっているからである

このウィルスでも自然災害でも津波でもそうだったが神からの自然からの警告なのであるグロ−バル経済とか資本主義がもう成り立たなくなっているというのもそうである
一時は資本主義が有効に働いていた、でも今は違う
別なシステムが必要になっている、別な思想が必要になっている
資本主義ももともと思想だからである、その思想が現実に合わなくなったのである

何か事件があればそれを歴史的に見ることが必要である
今に起きることはすでに常に過去にも起きていたから歴史から学ぶことが必須なのであるカルマとは繰り返すことであり歴史は繰り返すなのである
交通が発達した結果の負の面が伝染病が幕末から明治に拡大したのである

中国人が観光でサーズの時より10倍以上来ている、その影響は大きいのである
つまり必ずしも経済的な面だけからグロ−バル化を見てはいけないのである
それは大きな災いも同時にもたらすのである
ペストもトルコに東ローマ帝国の拡大とともに広がった
ペストの猛威をヨ−ロッパではとめることができなかった
ヨ−ロッパで三分の一が死んだ、黒死病だった、だから疫病は怖い、疫病との戦いも人類の戦いだった
とにかくグロ−バル経済というのは資本主義でもそうであり見直すときが来ているのである、それは負の面が増大してきたからである

江 戸 時代 にお け る コレ ラ病 の流行
-寺院過去帳 に よる実証菊 池 万 雄   

この論文は興味深い、こうして学者の論文がインタ−ネットで読めることで知見が広がったのである





posted by 天華 at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年01月29日

亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


亡き家族を偲ぶ短歌十首(人は死んでも生き続ける )


我が家に嫁ぎてあわれ悲しかな母は百歳生きて死にき

辛き日を生きにし母や今はしも彼岸に安らぎ我を見むかな

我が姉の笑いし声のひびくかなその日は遠しも心に生きむ

苦しくもますぐに生きむさもあらば後の人しも習い生きなむ

我が家に60余年を生きにしを心はなおもここにあるかな 

我が家の広しも家族なし廊下の長く寒くあるかな

蠟梅の今年も咲きぬ我が家に我は生きにつ家族を偲ぶ

人は死すも消えるにあらずその家に土地に国にも生きつづけなむ

その土地にともに生きなむ命なれ死にしあともなお生きるなるらむ

争うも家族なりにし死してのちなおともにしあらむと思ふ

人の縁きれやすきかなさもあれど我が家族の縁は死しても切れじ


夢で母と姉の夢をみた、なぜか二人で歩いていた、その後を自分も歩いていた
姉が死んでから10年とかにもすでになる、母はまだ4年とかである
でも人間は60年とか70年家族として一緒に暮らしていれば何か簡単には死んでも消えないものとなる
むしろ死んでからもやはり継続がある、死んだら骨となり灰となり何もなくなるかとんいうとそうでもない、何かその家に土地に他にも愛着するものがあり生きつづける

母は自分の家では苦労した、いいことがあまりなかった、だからといってすべてが悪いとはならなかった、なぜなら姉がいたことで楽だったし自分もそうだった
自分にとっては欠かせないものだった
父が中学で死んだからとくにそうなったのである

普通の家族ではないにしろ家族として必要だった、補うものがあった
最後は悲劇だったにしろ何とか家族としてありつづけた
姉もひどい認知症だったけど納得して最後は死んだ
それが救いだった
何かしら家族でも必ず影の部分があり暗黒がある、ただ60年と一緒にいることの意味は大きい

どうしても人間は何か時間で作られる、家族でもそうである
もう子供でも離れて住むと疎遠になってゆく、それで認知症になると実の子供でも離れて過ごした人がわからなくなる、私は60年も一緒にいたからひどい認知症でも姉は自分のことを忘れなかったのである
そういう差がでてくる、何でも長い時間がないと親密さでも信頼でも作れないのである
だからこそ私はその土地にともに生きること地縁の方が大切だとなる
いくら物が入ってきても地球の裏側の人と親密になれないし信頼も生れないからだ

人間の一生を最後にみんなふりかえる、人が死ぬとその人がどんな人だったかとかかえって生きている時より偲ぶことになる
それは時間で作られたものであり必ずしも血縁とかではない
兄弟でも姉妹でも子供の時一緒に過ごさないと他人と同じになるからだ
兄は5年しか同じ家に暮らさなかった、それは5歳までだった
だから記憶が確かでないにしろ一緒に暮らし記憶があり兄となっていた
でも交通事故で40才で死んだのである
その5年間が貴重な時間だったのである

だから結婚して晩年に熟年離婚するのは損だと思う、なぜならその後は親しい愛する関係はもう時間がないから築けないからである
人間は最後になんでもあれ時間が最も貴重だったと自覚させられるのである
なぜなら何であれもう二度と会ったり何かをしたりすることができなくなるからだ

だから私はその土地と一体になる生にこそ深い意味をもてる、それでグロ−バル経済とかはそうした深い精神的紐帯が作れないからはぐくまないから賛成できないのであく
人間にとって物が大事になりすぎたのが戦後の高度成長時代である
その歪が世界的に多くなりすぎた資本主義でも国際金融資本が富を独占しているとかそうである、人間の心の歪(ひずみ)が世界的に現れた
人間は確かに物も必要であり食べ物がなかったら生きられないのも現実である
ただそれとともにどうししても人間は心に生きるということがある
その矛盾に常に人間は苦しむのである

家族とは心で愛で結ばれたものであり金でもない、そこが違っていた
私は家族の介護があり死んで親戚とみんな縁は切れた
それは「金の切れ目が縁の切れ目」となったからである
もう求めるものは金しかないからである
だからみんなそうなる、もちろんそういう人は生きて入る時から縁が切れているのである人と人が出会ってもただそこにはもの売買とか金のやりとりしかないのである
だからそもそも人間の関係とは何なのだろうとなるのだ 
それあまりにもはかない無常だとなる

でも家族だったらそうはならないのである、死んでもこうして10年過ぎても思っていることその面影とかなにかが見えない糸げ継続している
これはみんな感じているだろうが不思議だとなる
肉体は消えても心の絆が消えないのかもしれない、心とは見なかいけど通じているとなるからだ

ただ正直母は腰が曲がる時苦しくて自殺するところだった、危機一髪で防ぐことができたつまり自殺が後味悪くなるのは残されたものへの影響が大きいからである
もし自殺したら何かこうして偲べないとなるからだ
そして自分が殺したのだとか自虐的にもなるからだ

結局人間は苦しくても生きる、それが定めである、そして苦しくても生きたことにより
その生に重みが生まれる
もし楽して生きたとなるとそうはならないからだ
苦労して生きて私を育ててくれたとなると感謝するが金持ちで楽して育てただけだとか
人に頼んで母は何の苦労もしないとなると感謝もしない、ありがたみがなくなってうしまうのである
だから意外と金持ちの家では介護になるとすぐに金のかかる施設に入れて自分では介護しないのである
金持ちの家はかえって親に冷たいともなるのである



冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


冬の雷(今年は荒れ模様―俳句は気候をまず知る)


年明けて始動や雷の轟けり

突然に一月の終わり雷鳴りぬ

荒れ模様一月終わり雷鳴りぬ

禅僧の喝や叩かる冬の雷
  

今冬の雷が突然真上に轟いてびっくりした   


夏と冬の積乱雲を比べると、冬の方が圧倒的に背が低く、規模の小さいものになります。
落雷数は極端に少なく、遠くにいてもゴロゴロと音が聞こえる夏とは違い、冬の雷というのは音もなく近づいてきます。

落雷数が少ないというのは、良いことのようにも思えますが、実は一発の威力が強くなります。
一発雷と呼ばれる冬の雷は、なんと夏の雷に比べ100倍以上に達する凄まじいエネルギーを持っています。

また、冬季雷は、夏に比べて予測が難しいという特徴もあります  

なるほどそういうことだったのか、インタ−ネットは何か知らないことでもそれ相応のものがヒットするとき役にたつ、俳句が気候の挨拶のようになっているからだ
日本人は天気が変わり安いから天気が挨拶代わりになり俳句が生まれたからだ

冬の雷は日本海側が鳴りやすいとある、冬の雷は夏の雷とは違う、夏の雷だと遠雷とかあり入道雲がわき雷雲が湧きあがり徐々に雲が移って雷になり稲妻が走る
今日経験したのは突然にすぐ頭の上に雷が鳴った
それで停電になるかとびびった、パソコンの電源が切れのが怖いからだ


冬の雷は雲が低く突然鳴る、でも夏の雷に比べて百倍のエネルギーがあるとすると怖いものだったのである、ただ冬の雷そんなにごろごろと鳴りつづけたりしない
一二回突然頭の上にがつんとひびいておさまる
これは確かに禅僧が座禅して棒で叩かれる感じなのである

今年の一月も終わりだかなにかいろいろ波乱含みである
2020はみんな変換期で何か大きなことが起きると予想した通りとなるのか?。
その兆候は一月から始まったのである
コロナウィルス騒ぎでオリンピックが開催されるかどうかも怪しい雲行きになる

とにかくこの冬の雷は波乱の年の幕開けを告げるものとなっているかもしれない
今年は新年から不穏である
やはり今の時代は科学的なことを知らないと知識人となりえない
そこが弱いので私の場合は発言するにしても訴えないということがある
科学と文学は結びつきにくいからである
何か今年は波乱模様である、コロナウィルとかでもそうである
今年は新年から不穏である



2020年01月30日

New Year-train go in America

New Year-train go in America


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ここに文明の都市があり大きな建物があった

今も柱が残っていることでわかる

いつしかその文明の都市も廃墟となった   

Here is a city of civilization and a big building

You can see that the pillars still remain

One day, the city of that civilization was also ruined

時給で雇われる人はモチベーションがもてない (金だけでモチベーションが持つことができるのか?)


時給で雇われる人はモチベーションがもてない

(金だけでモチベーションが持つことができるのか?) 

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このソファーの良かったのは一人分だと窮屈になる、二人分だと広いからゆったりとする
これは一人分の用があるということだけでは十分ではない
一人分だけの有用さを作るとしてもそこにさらに二人分となると無用となってもそこに老子の言う無用の用が生まれるのである
だから一人分の椅子とかソファーがあるがこの二人分のソファーはゆったりと座れるのである
通販だと大きさと座り心地とかわからないことがある
それで失敗している、確かに寸法が書いてあっても全体の大きさとか直感でわからないのである
だからすべて通販がいいとはならない
でも通販だと配達が無料である、そこが矛盾なのである


イオンに行ってソファーとか棚のようなものを買った
配達料が千円とられる、そこに消費税もとられる
だから実際は高くつく、車がないから配達してもらほかない
でも通信販売だとソファーでも大きさとか座り心地とかわからない
それから着るものでも体にヒットするとは限らないので失敗した
それでソファーはいいものだと言った
でもその人はイオンに雇われる人であり何か売る気がないし
買ってもらって喜ぶということもない

要するに時給で雇われる人はそういうふうにモチベーションがもてない
ここで雇われているのはただ時給いくらであり他でも百円高いなら他で働くとかなる
何かコンビニでもそうだが時給で働く人はモチベーションが低いだろう
結局いくら働いても時給で決まっているからである
そして何かあなたはこの会社で特別な人だとかならない
雇う方でも時給いくらだとしかならないから誰でもいいとなる
それは誰でもできるものだから今度は安く外国人を使った方がいいとなる
外国人の方がベトナム人でもはネパール人でも為替差益で高くなるからである
それを家族に仕送りしているのである
そういうモチベーションがかえって外国人にある、日本人にはないのである

要するに時給いくらとかなるとそれはAIでもロボットでもいいとなるのだ
だからこそ雇う方ではAIの方がロボットの方が自動化した方がいいとなる
人件費が最大のコストだからである
JRではだから無人化して無人駅を増やしているのである
コンビニでも自動化してゆく、時給で雇われる人はロボットにAIに代わられる安いのである

でも人間は働くという時、今は金だけである、金がいくらもらえるかでモチベーションが決まる、これしかもらえないのかとなるとモチベーションが低下する
それが今の働き方でありそこではただ金だけがモチベーションになる
また非正規だとモチベーションが下がる、時給いくらで安く雇われるだけだとなる
同じ仕事しても正社員と比べると差別されるからだ

基本的に金が給料でも時給でもモチベーションになる、こんな給料でやっていけるかとなるからだ
でもモチベーションというとこれも実際は人間の価値観として重要である
なぜなら資本主義がウェバーのキリスト教の他者に奉仕するというモチベーションから始まったという説があるからだ
他者に奉仕するために修道院から資本主義がはじまった
そういう思想が最初にあったということからモチベーションが重要なのである
社会主義にも平等にするというモチベーションがあり人間のすることにかかわるのがモチベーションである

例えば江戸時代とか戦前とか戦後まもなくとか家族経営とかあった
そこでは家族がみんなで働き家族を守る、家族が共同して豊かな暮らしをするということがあった
そこで自ずとモチベーションが言わずとも強制せずともあった
だから自給いくらで働くのとは違ってモチベーションがあった
売れれば家族の利益となるからだ
今は時給で働いていたらモチベーションが上がらない
ただあなたが売ったらいくらとか会社からその人が売った分が金として払われることがある、そこでモチベーションをあげるということはある
それはあなたの営業力とかを評価するシステムである
ただ家族経営のようにはいかない
それで働くことが端を楽にするということから来ているように家族経営だったら家族を楽にさせたいというモチベーションが働くのである
ベトナム人とかネパール人は貧乏だから家族を助けたいということで働いているのと同じである

いづれにしろこのモチベ―ションは大きな問題である
なぜなら戦争のようになる時死ぬとなるともう金の問題ではない
国のために死ぬというモチベ―ションをもたないとできないからである
とても金だけで戦争して死ぬとなると断る人もでてくる
そんなことで死にたくない、十億円もらっても死にたくないとなる人もいるからだ
だからそういうぎりぎりになるとモチベーションがないとできない

何か人間社会にはこのモチベ―ションがあらゆるところで問題になるのだ
youtubeするにしてもプログにしても何か一か月一千万稼いだとかなんとかになると
そんなにもうかるのかとやる人もでてくる
でも金にならなかったらやらないとなる
でも私の場合は自分の創作したものを文章でも発表できるということでつづけている
それは他に発表する場がないからである
それで別に金にならなくてもしているのである

芸術家とかなると金がもらえるから創作しているのではない、画家だったら自分の納得のいく作品を作りたいというだけでありそれが金になるかならないかは二の次なのである
芸術家に十億くれるからいい絵を描けと言われても簡単にはできない
十億やるから技術者に科学者に発明しろと言われても簡単にはできないのである
そこにはやはりモチベ―ションが必要になる
十億もらえるのかとモチベ―ションになっていい絵が描けたり何か発明したりはできないそこには金だけではないモチベ―ションが必要になる
だから人間の働く基本にモチベ―ションがないとつづかないし店員でも時給いくらだと売る気もないのである、売れても売れなくても時給で同じだからである

例えばお手伝いさんでもそうである、もし子供がいて家族のためなら掃除でも料理でも積極的にする、雇われる人はしない、まず本当に何もしたくないのである
命令して強制しないと何もしない、ただ目的は金をもらいたいだけだからである
もし家族だったらモチベ―ションがあるから家をきれいにしたい子供を育てるとかの目的がありモチベ―ションがあるから自ずからする
雇われる人にはそういうことはないからなおざりになる
ただ金だけを要求してくるのである
そうなると機械で皿洗い機械とか何でも自動化してやれればいいとなる
それは雇う方が人経費を減らすの同じである
つまり今の社会が会社がそういうふうになっている
だからこそ何でも自動化して機械化した方がいいとなっているのだ

働く方もモチベ―ションがない、雇う方も誰でもいい、時給いくらだとか人件費をコストを減らそうとする                

そして会社で求めているのは何か?

AIやIT技術者でありまた機械でありロボットを操作する人である

時給とかで雇う人はいらない→ITにAIに機械にロボットにやらせる

こういう近未来の社会になるとどうなるのか?
コストのかかる人間はいらない、IT技術でAIで機械でロボットにまかせる
でも奇妙なのは別に機関もロボットも何のモチベ―ションもない
その機械がロボットがAIがもうけたいとかほめられたいとか家族のためとか地域のためとか何かそうしたモチベ―ションはない
つまりモチベ―ションをもてるのは人間だけなのである

戦争するにしてもなんらかモチベ―ションがなければできない、生きるか死ぬかとなる余計にそうなる
ところがAIとかロボットとか機械時代にはモチベ―ションはない
何をするにもモチベ―ションはないのである
実はAIでもロボットでも機械でもモチベ―ションをもって動かしているのは人間なのである
ここが人間とAIとかロボットとか機械の根本的相違なのである


posted by 天華 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

権力者は常に情報を隠ぺいする (コロナウィルスと原発事故の共通性)


権力者は常に情報を隠ぺいする

(コロナウィルスと原発事故の共通性)

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武漢のコロナウィルスは最初から情報が隠蔽されていた、中央政府からも情報が出されず隠蔽されて結果としてウィルスがたちまち蔓延した
そして一市民が危険を冒してyoutubeで発言して助けを求めている
また情報で混乱しているのも原発事故と同じである
浪江の人は一番危険な放射能汚染の場所に対馬に逃げた
津島が山の奥であり原発から離れているから安全だと思ったからである
そのことを原発関係者は知っていたが何も知らせなかった
ただ原発で働いていた東電の人がいて津島の山の方に逃げるより街の方が放射線量が低いと街の方に引き返した、それが正しかったのである
つまり東電に勤めている人が知っていたのである

武漢でもこれと同じような混乱が起きている、情報が錯綜して混乱している
インタ−ネット時代でありそれで様々な情報が出ている
ただ中国ではインタ−ネットも政府から規制されているから隠れて日本人の友達から放送して助けを求めている
もともと常に権力者は情報を隠蔽するのが常套である
危険な情報は出さない、でもどうしても人間がウィルスに伝染したりすれば隠すことができない、そういうときはすでに時遅しとなっているのだ

原発でも最初から強力な情報統制が行われていた
そして原子力村によって支配されていたのである
そこでは安全神話が作られて逆らうことはできなかった
政府ー官僚(検察)−労働組合(電事連)−自治体ーマスコミー地元権益者
こういうふうに強力な利権で結ばれたものは完璧とすら見えた
だからこそ安全神話は強力に作られたのである

でも原発内部で働いていた人たちは配管などで仕事していた人は壊れるとか見ていた
それを報告するにもできない、なぜなら東電の権力は絶対だからである
千人も電気工事関係者が働いていたがその人たちは東電の命令は絶対だとしていて何も言うことができない
言えば仕事がもらえないからである、東電は絶対的権力をもっていたのである
これは中国のコロナウィルス騒ぎとにている

なぜならコロナウィルすは生物兵器のウィルスがもれたためだとも言うからだ
それは秘密裡にされて作られていた、その証拠がないにしろ生物兵器工場が武漢にあったそこでフランスの技術者が協力していたのである
これは限りなく黒に近いともなる、火のない所に煙はたたないとなるからだ

とにかく原発でもそうだが常に権力者が隠蔽する、それは危険なものでありその危険を隠蔽する、そうせざるをえない、そしてその管理もずさんなのである
生物兵器でもウィルスがもれる、原発でも放射性物質がもれる
そういうことは事故がなくても現実に今でもあるのだ
原発のまわりではもともと放射性物質がもれていたのである

こうした政府指導のものは常に情報が隠蔽される、そうするこきによって危険が知らされない
なんとか指導者も権力者も隠そうとする
でもこうして必ず何か事故となり危険なものがもれてきて初めて大騒ぎして隠すことができなくなるのだ
これはウィルスでも原発事故でも同じだったのである
これは政治体制の問題であるが中国だげではない日本も同じだったのである
日本は自由なようで常に江戸時代から隠蔽社会だった
庶民は何も言うことができない社会だったのである

でもそうして情報を隠蔽すると事故になったりこうして危険が明るみに出てその時被害が拡大して止められなくなるのだ
その情報の隠蔽の結果として重大なことが起こり誰かが民衆でも国民でも責任をとらされるのである、今回はウィルスで中国国民が死ぬのである
これは中国の一党独裁とか政治体制の問題でもありまた世界的に日本でもそうだったように権力によって隠蔽される結果そうなる
権力者は都合の悪いことは表に出さないようにできる
でもそれが隠蔽されているといつしか必ずこうしてウィルスでも何でももれてくる
いつか明るみに出される
これはやはり真実がいつか明るみに出されて裁かれる、神から罰せられる通じている
時間はかかるにしろそうした隠蔽された悪が必ず明るみに出される
それが人間がするのではなく原発の場合は津波だったのである

このコロナウィルスが問題なのは中国だけの問題ではない、グロ−バル化しているからこそ世界の恐怖となる、この伝染病は本当に怖いものとしてあった
ペストでヨ−ロッパの三分の一が黒死病で死んだからである
これだけグロ−バル化して人が交わることはいいことのようでもそこに大きな危険が潜んでいたのである

何か世界が交わることはヨ−ロッパの大航海時代からつづいていた
でもその交わることで第一次第二次世界大戦となった
その死者は何千万人にもなったのである
江戸時代なら確かに遅れているし貧乏でも朝鮮半島とも中国とも争う必要もなかった
平和な時代がつづいていたのである
だから必ずしも人が国が世界が交わるグロ−バル化することは全面的にいいとはならないその負の部分がこうして拡大してきて歯止めが必要になったのである

老子の言うように平和を維持するには「小国かみん」がいいとか何か鍬までもつなとか
隣の村とも交わるなというのは人間の歴史の逆説である
国と国が世界的にグロ−バル化して交わった結果、世界大戦で何千万人も死んだとか
いいことばかりではなかったのである
鍬をもつなというとき道具をもつ延長として石器で殺し合っていたのが鉄の発明でより
殺傷力が強いもので鉄の武器で殺し合うようになったのも人間の歴史だったのである

ウィルスはやはりグロ−バル経済とかに対する警告なのである
神からの警告なのである、オリンピックももうそんなものに金をかけることは必要ない
それは平和の祭典とかではないからだ、マスコミとか利権者の金儲けのためだけなのである、何か意味があるわけでもないのである
オリッピック自体もうやめるべきなのである、別に技を競うならそれぞれの種目の世界大会で十分だからである

インタ−ネットの普及で情報社会になった、でも原発事故でもそうだが結局情報は権力者がにぎっていて表にでないのである、情報は統制されるのである
特にマスコミは政府であれなんであれ創価とか他の宗教団体であれあらゆる団体の圧力でタブー化する、そしてタブー化する結果、大きな事故とか災いを生まれて来る
これがさけようがないのである
民主主義の社会としても日本は情報統制がかえって強い、自由に発言ができるようでできないのである、その象徴が原発事故で起きたていたのである
その隠蔽のために故郷に住めなくなったり大惨事となってしまったからだ
それはコロナウィルスにも共通しているのである

posted by 天華 at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年01月31日

人間の記憶のメカニズム (記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)


人間の記憶のメカニズム

(記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)

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この世の中に膨大な記録がある、人間は文字でも絵でもなんでも今なら写真でも動画でも記録はできる、私自身書いたものが膨大である
その自分が書いたものすら忘れていてもう一度読み返してこんなこと書いていたのと感心したりするのも変なのである
それだけ人間は忘れやすいのである

でも不思議なのは人間が記録することと記憶することは違う
例えば記録媒体によっても違ってくる、本であれ新聞であれテレビであれインタ−ネットであれ写真であれ動画であれ様々な情報にあふれているのが現代である

でも何かこの情報媒体が違っても記憶することが違ってくる
新聞を広げる、いろいろなことが書いてある
その中で興味あるものを読む、するとその興味あるものは記憶に定着する
でもまずそれは一つだけなら記憶しやすい
いろいろ記事があってもはそれも忘れる
ただその人なりに興味あるものは記憶される
でも私はその興味をもったものを記録しないとまた忘れる
それでスキャナーでパソコンに記録する
するとまた読み返すことができる

その新聞の記事を記憶したのはまず新聞を手にとる、紙面を全部見る、そしてその一記事に注目する、そしてその新聞を見た場所がありまた新聞を置いた場所がある
そういうものも記憶として残っている
それはモノだからそうなっている、モノとして新聞がありそのモノを扱うことで記憶しているのだ

でも電子掲示板だとインタ−ネットは電子文字になるからモノとして扱えない
それで膨大に記録はいくらでもできるのだが記憶しにくいということがある
何かモノを扱うのと違うからただ文字が流れて消えてゆくという感じになる
それでいつも興味ある記事でもどこに記録したのか場所を忘れる
電子空間でパソコンで記録していてもわからなくなるのである

例えば記憶とは一つの古い碑が道の辺にあるとするとするとその辺りの空間も意識して一つの碑に注目して記憶に残っているのだ
ただ一つの石碑を見ているだけではないのである
だから博物館に陳列したものは記憶に残りにくいのである
つまり場とともにモノがありモノの記憶が残る
それがただの記録と記憶の相違である
記憶するということは全体をきりとった一部は記憶に残らないのである
それで写真でも全体の一部をきりとったものだからそこから全体を見ることはできない
動画でも同じである、その場所の全体はわからないのである
そこに錯覚が生まれて何でも誤解が生まれるのである

本当に旅して不思議なのは地理を知るには一部分を知ることではない、全体の中に一部分がある、でも記憶媒体になると何でもそれは全体の一部を切り取ったものなのである
世界とは全体のことであり部分のことではない、全体があって部分がある
でも人間はメデア(媒体)がいろいろあるとしても新聞でもテレビでも何でも部分を見ているのである
でも実際のその地に立てば全体から部分を見るのである

今会津について短歌を30くらい作った、それは私は会津の全体を自転車で旅したからである、三回くらい自転車で旅した、それが今になって記憶としてよみがえる
記憶するという時車とかなるとまた記憶に残りにくい、電車でも記憶に残りにくい面がある、やはり徒歩だと一番人間は記憶していることは確かである
その土地を記憶するには歩くとその土地と一体化するからである
また何度も行けば記憶に定着しやすい、だから人間がアイディンティティ化できるのは狭い土地であり広くなるとしにくくなる
何度も見れば何度も出も行けば自ずと記憶に定着するようになる

記憶という時、その部分にあったとかその部分だけが記憶とはならない
ある場所にいたというときそこまで行った過程からその場所を記憶する
あそこまで坂を上り苦労してあの場所についたなということを記憶する
記憶はそうした全体の過程とからも意識されるのである
その全体から部分を意識するとか記憶するというのが人間の特徴である
だからいくら写真でも動画を見ても人間の記憶の仕方は違ってくる

数学でも問題を解くとき解答を出す過程が大事である、その解き方も一つではない
正解にいたる過程はいくつもある、その過程を通じて人間は記憶する
どういう手順を踏むかというのが大事になる
そういう作業を通じて記憶されるのである

例えば芭蕉の平泉で作った俳句の「五月雨の降りのこしてや光堂」というとき
それ5ははるばる奥の細道を歩いてきてその句が生まれた
それと同じように記憶もそうした過程の中で記憶されているのである
だから記憶とは全体の中から過程から記憶される
文章でも文脈がありその全体を知らないと部分だけでは定着しない、記憶されないともなる

とにかく記録と記憶は違っている、人間は最後は記憶に生きる
自分なら旅したからその記憶をよみがえらせて詩とか短歌と俳句を作っているのである
でもそれは常に全体から旅した過程があって記憶しているのである
鉄道でも車でもなかなかそうして全体の過程から見れない、それで記憶に定着しにくい
それで現代の経験は何かかえって便利になりすぎて浅薄な経験しかしてしいないのであるそれは後年に老人になってかなりの損失である
なぜなら最後は人間は記憶に生きるようになるからである
すると記憶に残らないとしたら何にもならなかったとなる
現実に団体旅行した人がどこに行ったかも記憶していなかったのである
こうなればその人は旅したということにもならなかったからである