2020年01月01日

2020-謹賀新年(Japanese New Year)


2020-謹賀新年(Japanese New Year)

新年おめでとうございます

我が国を支える柱直ぐにして新たな年を迎え立つべし 

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Nanten, pine, plum, and leaf peony are the lucky
charms of Japanese New Year
Used as a New Year's decoration

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Japanese inn



日本の正月は文化である、韓国とかにはないし中国にもない文化である
それがなくなっているのは感じないのは餅にしてもいつでも食べているし
正月で特別なことがないからである
晴れの日というのがなくなったからである

こういう文化が失われることの深刻さは日本の心が失われることである
文化とか伝統とかは心と一体化しているからである
だから正月は農業とともにあって日本の文化になっていた
そこに代々受け継がれた心があった
それが失われることは日本人の心が失われたことにもなるのだ

確かにいつでも餅が食べられるし何でもいつも食べられるにしろ物質的には満たされても心が満たされないのが現代なのである
歳神の説明のようにそれが何を意味していたのか?
そこには何かやはり深い意味があった
でもその意味は受け継がれなくなったのである

家に歳神を呼ぶことは大事なことである、家に他人を入れることは実際に相当に怖いことだ経験で知ったからである
だから営業の人でも家に入ってくるとするとそこに危険が生れる
災いが生まれる、だから家政婦とかなんでも家の中に入る人は簡単に入れてはいけないのである
そういう経験があって歳神を入れるとかの信仰になったのかもしれない
いい人でも福をさづける人が入ってくれということである
福は内であり鬼は外でもそうである

自分の家に入って来た人たちは悪鬼だったともなっていた
そのショックから今もぬけられない、でもそれも自分の家のカルマだったのである
自分自身のカルマだったのである、それは自分が楽しすぎことから来ていたのである

ともかく家とかかわる人は注意しなければならない、福をもたらすものもあるが災いをもたらす人も多いからである
ただそれもカルマであり逃れられないのである

原町の道の駅でお盆の飾りははなまるガーデンの人が作った、社長が作ったという
うまくできているが他にインタ−ネットで見たらこういう形になっている
だからオリジナルとまではなっていない、正月の決まった形として作られている
でも葉牡丹が質実な感じになり苔がむして梅がこれから開く
その調和が日本的でいいと見た
日本的ミニチュアの小世界を具現化している

今年はどういう年になるのか?

今年はを良く言う人はいない、波乱の年になるとみんな言っている
ただそれを妄りに恐れても良くない、そうあっても常に新たな進化のためにそうなる
そういう変革がないと新しい世は生まれないからである

自分自身は調子がいい、創作は佳境に入っている、だから作品をまとめることが仕事である、これも手間なのだけどそれに励むのが今年もつづく

皆様の幸いとさらなる前進をお祈りします




2020年01月02日

2020年ー新春の短歌


2020年ー新春の短歌

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海老浜ほここは津波で家がなくなった


精悍にノスリ一羽や冬の浪


新春に光あまねく新しき力の湧くや国そ栄えむ

餅食うて力の湧かむ正月や日本に生きる幸を知るべし

紅白の餅を捧げて霊前に新しき年我は迎えぬ

新春の光さしにき我が家の広くもあれな憩い休みぬ

我が家に万両飾り正月に一人来たれる故郷の女

国々に栄のあらむその基見直すべきかな新しき年 


昨日は海老浜の方に行った、そこは津波で家がなくなって枯野になっている
浪がとどろきひびいている、そこにノスリが一羽いた
それから沼津の方から家族連れで海老の津波の死者を供養する観音像を見ていたので案内した
あそこだけは大失敗だった、30人くらい死んだ
避難所として指定していたことが大失敗だった
別に500メートルも歩けば避難する所があったからである
海に接していたからもろに津浪の被害を受けたのである

やはり正月は餅である、近くのやめた菓子屋でついた餅を食べた
これは他のよりうまい、なんか力がついた感じになる、パンより米がいいとか今言う人がいる、やはり日本人は日本食がいいのである
その歴史が長いから腸が長いいうときそういうふうにして体もその風土にあって作られてきたからである
外国人は肉を消化する酵素がでるというときもそうである
遊牧民は羊を常食としているからそうなる

姉と母の霊前に紅白の餅をささげた、これはコンビニに売っていた、ちょうどこれがあっている、この家を作ったのは二人だからである
そして大きな家に悠々と住んでいられるのも二人がいたからである
やはりいい先祖をもつと力となるのである

いづれにしろ世界がグロ−バル化したときその反動が世界各地で起きている
それもグロ−バル化というのは何かその国の風土とか歴史を無視するからである
私はワインなど必要ないと思うし本当は牛肉でも日本人に合っているのか疑問なのである肉食が日本人の体にあっていないような気がするからだ
日本人はもともと肉食ではなく魚を食べていたからである

今年はグロ−バル経済が国際金融資本家が世界の富を奪うことが終わるのかもしれない
そのショックが来る、それは一時的に大混乱になってもその後にいい世界がやってくる
貿易は必要でもまずその国の栄の元がどこにあるかを知るべきである
だから国風文化の時代となる、それが世界で起きているのは神の理だとなる

その国の力の根源がどこにあるのか見直すべき時代なのである

御民 ( みたみ ) われ 生ける 験 ( しるし ) あり 天地の栄ゆる時に 遭へらく思へば
(万葉集 6-996 ).

その国土の天地が実りと豊かさを与えてくれるのが基本なのだ
それを無視すると本当の豊かさはなくなる、それが原発事故で証明されたのである
それで日本が経済が衰退して農業に活路を見出そうとしているのは良い兆候である
耕作放棄地でも利用しなければ生きていけない時代が来るかもしれないからだ
製造業でも日本はもうかつてのように興隆しないからだ
第一輸入すらできなくなる、そうしたら日本国土にあるものを利用する他ないのである
ここ70年くらいがグロ−バル経済になり異常だったのである
もちろん農業とか言っても同じようにはならない
何か新しいものとして日本の風土にあって国土を利用するとなる
そういう大きな変わり目が2020年なのである

皆様も良いお年を・・・                                      



2020年ー日本列島花の俳句


2020年ー日本列島花の俳句   

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(北海道)

夏菊や函館による船を見る

ルピナスや船におりたたつ苫小牧

北の湖シラネアオイの映えにけり

開拓の村にポプラやこぶし咲く 

熊の湯にエゾリンドウや羅臼かな

湯上りや廊下を渡り月見草


(中山道)

山吹や山に分け入る中山道

山吹や中山道に滝ひびく

五月雨の驟雨に森や中山道

山吹に中山道に幟りかな

中山道宿の裏庭藤の花

金沢や松のくねりて十月桜

(京都)

水写る花や京の日夢となる

京の水花に染まりて暮れにけり

花の色濃くも暮れにき京の辻

雨にぬる花もあわれや京に暮る 

(大阪城)

夕日さし桜満開大阪城

夢なるや花散りやまぬ大阪城


三重塔蓮華畑や奈良に暮る 

和歌山城白壁映えて朝の菊

電車行くレンゲ畑に近江富士

島の古り瀬戸田に椿三重塔

(瀬戸内海ー四国)

瀬戸内や潮の流れて夏の蝶  

菜の花や四国遍路や海望む

瀬戸の海暮るるや椿に島の家

開く海平戸に来たり朝桜

(沖縄)

沖縄やサンゴの岩に鉄砲百合

紅の心にしみぬデイゴかな


全国を旅行して花を記憶をたどるとこんなふうになる、シラネアオイは苫小牧の支笏湖の回りに咲いていた、あの辺に咲くということは苫小牧からは北海道なのである
ルピナスは船で苫小牧におりたとき咲いている
何かそこから北海道であり空気まで違っている
北海道は花が映える、広いしまだ原野の感覚が残っているからである
羅臼の熊が入ったという熊の湯は露天風呂である
エゾリンドウは大きく太いから北海道らしいのである

中山道は山吹だったのか?
山間の道でありふさわしいとなる
森の中に入る道があり本当はその山道を行けば良かったが鉄道で行った
五月で驟雨になりそこに深い森があった
このときやはり歩く旅をしないと記憶に残らないし過去を偲べないのである    

北陸は金沢であり兼六園には十月桜が咲いていた、これはめずらしいとなる
これは金沢らしいとなる、何か花が象徴する場所がある
花とその場所が市町村でもあうといいのである
市町村の花があっても必ずしも合っていないからだ

だから相馬地域だと原町は明治以降機関区になって駅前通りから栄えたからひまわりがあっていると書いた、鹿島区は何か草深い感じになり月見草があうとか相馬市は城下町で
城跡に咲く藤の花があうとか柳がにあう市だとか書いたのである

ただこれが全国となると何が象徴的花となるかはむずかしい

近江は滋賀県は関ケ原を出て近江富士が見えてその前が蓮華畑がにあっていた
近江富士は形がいいから目立つのである

京都はどうしても桜であり大阪の満開の桜が散る風景は忘れがたいものだった
夕日の中に栄華の桜がそこはかとなく散った
それがなぜ特別なものに見えたかと言うとそこには歴史があったからなのだ
大阪城にまつわる栄華と滅亡の歴史がありそれでその桜が満開になり散ることがそうした人間の歴史と一体化して特別なものにしていたのである
そういう栄華の歴史は東北になるとなかなかないからである
こういうことは江戸があれほど栄えたのになぜか偲ぶものがないということが淋しいのである、東京ではまず江戸を感じるものがないのである
江戸城があったとしてもそれももう一つ大阪城のように感じないのである

海で印象的だったのは平戸だった、桜が咲くとき平戸の海を見たときそれは東北の海とは違っていた、明らかにその海は外国に具体的に通じる海だったのである
太平洋は外国と通じる海に感じないからだ
伊達政宗がメキシコ経由でヨ−ロッパに船で使節を送り出したのは例外的なことだった
九州とかなるとすでに外国の交流の厚味が違っている、歴史が違っているからだ

沖縄には沖縄の花がある、サンゴ礁の岩に鉄砲百合が咲きラグーンに波が寄せる
紅の何とも言えぬ赤が心に染みる、それは沖縄と一体化した花なのである
まだまだ旅して記憶に残った花があるとして記憶から消えてもいるのだ
とにかく自分は本当に旅をした、だから延々と今で旅路をたどっているとなる
それも経験として貯金だったと思う
貯金というとき金とばかり思っているけど他にいろいろあるのである
人間は何か必ず貯金している、それがわからないき場合がある
でも必ず老人になったとき何を貯金していたかわかるのである
それは人生経験の中でいろいろあるからである
老人はその貯金で生きているともなる
なぜなら新しい経験とかできなくなるからだ、すると記憶に生きるとなってしまう
それで認知症になると若い時のことは覚えていて千回も同じことをしゃべりつづけるのである、何か一番記憶に残ったことをしゃべりつづけるのである
なぜならそれが人生だったからである

ただどうしても記憶が薄れてゆくのである、それが問題なのである
だからいかに記憶に残る旅をするかが問題だと書いてきた
それは歩くとか自転車とかがいいとなる、でもそうなると時間がかかるのである
だから会社員とかはしにくい、旅するには金より時間なのである
今は交通が便利すぎることがかえって旅を経験できなくなったのである



2020年01月03日

未来は予測できない (この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)


未来は予測できない

(この世は人間は無常、無常ではない永遠の命を知るべき)

未来は予測できない、ミネルバのフクロウは夜に飛ぶというとき科学者がこう言っている地震は予測できない、科学的にわかっていないからだ、一日が終わった時その真相を知る、過去になった時その真相を知りえる
科学も万能ではないからだ、わからないことが多くあるのだ
東南海地震が津波が1年以内に起こるとか、5年以内に起こるとか十年以内に起こるとか
20年以内に起こるとか30年以内に起こるとか言うことができる
つまり30年以内といえばその内に起こったとすれば当たったとなるのである
結局地震とか津浪は予測しても無駄だからそうなたっときに備えをしている方が大事だとなる
津波対策としては高台を作り防波堤にして逃げる算段をしておくことである

それは東日本震災の津波で経験しているからである
予測をあてにしても当たらないからである
そんならそんなことに力を予算を使うより実際に津波が来たときの備えに使えばいいとなる
要するに人間は万能ではないという自覚が必要になる
でも科学者とか技術者は万能を望まれている、神のような力をもつことを期待されているのである
         
人間は運命を未来を予測できないから突然運命が変わる
ベ―トベンの運命のように突然運命に左右され翻弄されるのである
自分に起きたことも回りで起きたこともそうである
家族が認知症に突然なったのである
それは何なのか訳わからなかったから恐怖だった
次に地震があり津浪があり原発事故があり自分が病気になりと次々に恐怖が襲ってきたのである、その間に犯罪にもあった
家に来たのは悪鬼のような人たちだった、こうして自分の家は悪鬼につかれたようになったのである
一転して自分の生活はまるっきり変わってしまったのである

運命は予測されずにこのように突然来るのである
第一津波でもそうである、これほど突然なことはない、逃げられないほど突然だから被害があれほど大きかった
もし事前にわかっていれば一日前でも避難するからあんな大被害にはならなったのである逃げる間もなく津波が襲って来たからである
これほどの恐怖はなかったのである

予測できないから運命だとまでなる、もうあきらめるほかないとまでなる
人間が未来を予測することが不可能だというとき未来は神の手中にあるというのもそうである
神のみが人間の未来を決めることができるのであり人間にはできないからそうなっている未来を予測できないがそれに備えることは津波でもできる
ただいつ起きるかは予測不可能なのである

ただ自然災害と人間に起きることはまた違っている
株がどうなるのか、景気がどうなるのか、預金封鎖があるのかないのかという今の心配は自然災害とは違ってある程度は予測できる
預金封鎖でもそれは神がするのではなく人間がする
それは政府で決めればできる、でも秘密裡にするから突然に来るとなる
政府の上層部はそういうことを知っている、もしそれが誰かが知れば事前に対策する
でもその前に対策をする、でも有効な対策が預金封鎖だとないのである
原発事故だってある程度は予測できた
なぜなら東電では10数メートルの津波が来ることを予測していたからである
ただコストを考え対策をしなかっただけなのである

とにかく人間は無力だとなり運まかせだとなる、成功も運不運だとなる
まず時代が変わると価値観が変わるのもそうである
戦前と戦後では価値観が黒から白に変わった、それは何だったのだろうとなる
今の時代もそうである
なぜ高度成長時代は団塊の世代が企業戦士として猛烈社員になって働いていたのに今は
働かないのが勝ちだとか働かない人がこんなに多いのか?
そうしてAI社会になり人間は働かなくても暮らしていける
そして人間は何をするのか?
人間はみんなアーティストになるとか言ってみたりベーシックインカムが今や公然と言われる
こういう価値観の世界は猛烈社員として働いた企業戦士から見れば容認できないのであるそれは戦前の戦争でも一眼となってアメリカと戦った世代が戦争に負けてから全く変わってしまった社会とにているのだ
そこで価値観がまるで変ってしまうのである

自分などは団塊の世代で会社員にもならなかった、働いていない
旅ばかりしていたとか遊びだった、でも学問が好きであり独学したり芸術の分野で勉強して訓練はしていた、でもそういうことを認められたことはないのである
それは一銭も金にはならなかったからである
つまり自分はアリではなくキリギリスだったのである

何かこれはアリとキリギリスに例えると

アリは働いてるばかりいて馬鹿、アリはもういらない、機械とロボットとAIが働いてくれるからいらない

キリギリスは歌っているばかりだけど価値があった、今の時代に必要なのはキリギリスだ
アリのように働く人はいらない、キリギリスのようにアーティストになり歌っている人こそ価値あるとされる
それで歌謡でも素人でも玄人並みになる人もいれば芸術家になればいいとしている
これも猛烈企業戦士の高度成長時代からすると信じられない価値観なのである
だから人間の未来は予測できない、時代時代でまるで価値観が変わるからである
こういうことでも未来は意外なものとなっているのだ
つまり予測できないものとして常に未来がある
70年くらいすぎると時代が必ず代わり価値観も変わるからである
銀行は安定したエリートだったのにもう銀行は不必要だとかなるのも予測できなかった
時代が変わると評価も価値観も変わるからそうなる

そして過去と同じことは起きないのである、似たことは起きる
例えば飢饉で相馬藩で三分の一の人口が減ったその穴埋めに越中などからの移民が働いて回復した、そして同じように原発事故で人口がやはり流出して減った
このように同じようでも違った形でまた同じことを繰り返すことはある
でもそれは違ったものだから予測できなかったのである
現代では飢饉は起こらないとみるが違った形で何かまた起きてくるのである

ともかく今年一年何が起きるから予測できない、運命はまた突然非情にして襲い苦しめるかもしれない、それがどうなるのかなってみなければわからないとなるのだ
第一預金封鎖なるとしたら備えようがないのである
結局あきらめるほかないのかとはなってしまうのである
人間はただ運命に翻弄されるだけなのか?
そうならないためには信仰が必要だとなる
人間社会のことは人間は変わらないしただ世間に翻弄されるだけだとなる
常に社会は時代は変化する、価値観も変わる
そうなると人間はただ時代に翻弄されるだけだとなる

人間社会は無常であり人間も無常である、だから無常でないものは何か追求すべきだとなる、変わらぬもの、永遠なるものは何か追求すべきだとなる
永遠の命を知るべきだとなるのである


2020年01月04日

内村鑑三と明治維新


内村鑑三と明治維新


明治維新が何だったのか今問われている、単なる薩摩長州のク―データーであり権力奪取だったということもあからさまに言う人がいる
吉田松陰がテロリストに過ぎず薩摩長州に何か近代化を志すものがなかったというの確かである
それは後から美化されて作りだされたのである
どうしても西洋の文明とか思想を一挙に理解できないからである

ただ彼らの行動は幕府を倒すということで一致していた
何か主義主張があったとは思えないのである
なぜならとてもその時西欧の文明であれ思想であれ消化できないからである
それでまず西洋の文明の言葉を翻訳するのに苦労した
そこで日本人が漢字に翻訳したのである
その翻訳した漢字を中国人が使っているのである

権利はもともと権理だったとかいろいろに模索しつつ翻訳したのである
未だにそうした言葉は日本語にないとうときその背景にそうした歴史がないのだから実際は訳しようがないのである
市民という言葉の背景にヨ−ロッパの歴史が凝縮されて生まれている
市壁に囲まれて共同で敵から守る場として市がありシティズンがある
それでパスポートにどこの市民かと記すようになっている
日本だったらどこの村に所属していることがアイディンティティになっているから
市民となるとそもそも歴史的にないのだから訳しようがないのである

内村鑑三が侍の出であり薩摩長州の藩閥政治を常に批判していた
また天皇に不敬だとして不敬罪に問われてそのことで国民の敵とされて排斥されて苦しんだ
これも何を物語っているのか?それは明治は天皇というのがあまりにも異常に持ち上げられらた、それは古代の天皇制の先祖帰りだった
だから国家神道になった、なぜ廃仏毀釈が起きたのか?
それもやはり異常な天皇崇拝から起きた、それは不敬罪としてキリスト教への弾圧でもあった
ただキリスト教は明治では西欧化するのに認められた、なぜなら宣教師が多数来て大学もそうしたクリスチャン系が創始者になってできているからである

●異常な天皇崇拝(国家神道)−廃仏毀釈

●廃藩置県(侍の廃止)

●薩摩長州の藩閥政治

●富国強兵(国民皆兵)

これらのことが強圧的に進められた、その結果として日清日露戦争になり太平洋戦争の悲劇と通じていた
ただ国民国家というのは日本だけではない、フランスでもドイツでも世界的に国民国家になったのである、ナポレオンは国民国家にして国民皆兵にして戦争で強くなったのであるつまり世界が国民国家となった結果、国民同士が戦争するようになったのである
それで世界大戦となりその規模が拡大して大被害になったのである
だから国民国家というのはいいようで悪い面もあった
一つの説として国民国家ではなく国民軍など持たない方が良かった
そうならば日本は第二次世界大戦で中国とかまで進出することはなかったという意見もあるのもわかる
国民国家になったら国民全員が兵士になり外国との戦争では全員死ぬということにもなるどちらも国民国家であり国民が総力戦になるから最終的に全員死ぬということもある
もし侍だけの戦争だったら負けたら殿様が切腹して戦争は終わっていたからだ

内村鑑三は日露戦争を批判した、日清戦争は賛成していた
その後非戦論者になった、キリスト者として非戦論者になった
今でも日露戦争を肯定する人は多いが彼は否定したのである
日露戦争に勝ったとはいえなくてもロシアに対等で戦ったということが日本人は評価するでもその評価が奢りが太平洋戦争に通じていたのである
太平洋戦争の原因は明治維新からすでに始まっていた
西郷の征韓論でもそうである、吉田松陰のアジア征服でもそうである
その思想は明治維新からあった、それが大東亜戦争となったのである

歴史とは何かというときいろいろものが複雑に交じり合うから評価するのがむずかしくなる、でも歴史を明治維新でもその後でも一人の人物から見るとわかりやすいとなる
内村鑑三は幕臣でありこの出自が重要な意味をもっていたのである 
都築詠一氏というプログを書いて死んだ人も幕臣だったのである
それで明治維新の偉人を批判していたのである
内村鑑三も常に薩摩長州の腐敗した藩閥政治を批判していたからである
明治維新の元勲をもちあげているのは誰なのか?
今でもやはり薩摩長州の人たちであり山口県から首相になる人が多い
今の阿部首相もそうである、つまり薩摩長州の藩閥政治は継続されているともなるのだ

なぜ日本が大東亜戦争に突入して300百万人も死んだのか?
それは内村鑑三が生きていたらその戦争にも猛烈に反対していた
日露戦争は国民的合意の戦争のようになっていた、それでも反対していたのである
ただ大東亜戦争も評価するのはむずかしい、でも歴史的に継続するものがあり突然に戦争になったのではなく明治維新の時すでに予定されていたともなる
国民国家同士の戦争はすでに世界で用意されていたともなる
国民が全部兵士になるとき国民皆兵になるとその戦争は熾烈になる
現実に日本だけではない、ドイツとロシアの戦争でもここが一番多くも死んだからである日本も大陸の民族同士の熾烈な戦争に巻き込まれたのである
その原因を作ったのは西欧のヨ−ロッパのアジア進出であり植民地化であった
もしヨ−ロッパがアジアに進出しなければアジアで争うことはなかったのである
不干渉であり日本は鎖国して他国とはかかわらなかったからである

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世界史的には国民国家同士の戦争だったからこれだけの被害が出たのである
世界がハルマゲドン最終戦争の様相を呈していたのである

とにかくなぜ明治維新が世界でも奇跡だったとして称賛されるのか?
それは薩摩長州だけの力ではないことは確かだったのである
そこだけをはでに取り上げるのは問題であり否定されつつある
結局薩摩長州の藩閥政治は腐敗したからである
ただ明治維新ではなぜ英傑がキラ星のごとく生まれたのか?
それは日本の江戸時代三百年がありそこに侍がいて幕臣も国造りの中核になり明治時代が築かれた、だから今見直される
その一人が内村鑑三でもある、これだけの強烈なキリスト者が生まれたのはなぜなのかとなる
それは内村鑑三がアメリカに留学して視野を広げたことが関係している
今でも留学したとか外国で生活した人は視野が広くなり日本を相対的に見れる
日本の良い点と悪い点が見えるのである
ただやはり留学とか外国で生活した人であり旅行したくらいではわからないのである

いづれにしろ明治にたいがい実業でも教育でも大学でもみんな創始者になっている
つまりその延長として現代がある、その基は明治に作られたのである
明治は日本では偉大な時代だったとなる
ただ薩摩長州だけの功績とするのは間違いである、庶民にしてもすでに幕末から近代化の用意ができたともしている
なぜなら墓を見ると個人墓でも幕末のものが多いのである
その頃から農民でも経済力がついて個人の墓を建てるようになったのである
それまで村の共同墓地のホトケっポとかに葬られていて個人墓はなかいからである
ただ明治維新が何だったのかはそれを知ることは容易ではない
それは日本国という総体的な力が結集して成されたともなるからだ

とにかく歴史でもミネルバのフクロウは夜に飛び立つというようにそれが百年とか過ぎないとその真実がわからない、それだけ歴史となると評価がむずかしいのである
人物にしてもそうである、ただ死んで百年の後にとりあげられるだけですでにその人は歴史上の人物である、それは歴史に生き続ける人物であり後々まで影響するのである
あとの無数の人間はただ消えてゆくだけだとなっているのだ

明治の預言者(内村鑑三

そは噴火口なり
煮えたぎる溶岩を噴出す
火の言葉、ロゴスがその底より
とめどもなく噴き出す
その熱き岩よ、言葉よ
憤怒となり世を正す
聖書一冊を手中にして
明治の新しい時代の興国の預言者
そはまた堅き岩に身を寄せて
いと細やかなる高山の花を愛ず
そしてかなた遠望す高き峰
大洋を望み世界大に視界を広げる
その湧きあがる力の源泉は
神への信仰にして成りぬ
その清冽な泉の涸れることなく
こんこんと湧きて人を癒しぬ
キリストの霊の宿りその言は強し
その言葉は末代にもひびきわたる
新しき日本に義人一人生まれる
異国の攻めの強くも独立不羈に立つ
新しき世に炎のごとく立ちにけるかも!
得がたきものや神は日本にあらしめる
侍の矜持の高くその節を曲げぬ
誇り高き者にして神の言を伝える
その顔の柔和と見ればしかあらず
憤怒のとなりて世を正す
冷徹にして氷河のように閉ざす
その上に孤高の峰がそびえ立つ 
近寄りがたき者にして俗を排しぬ
江戸幕府三百年は無為にあらじ
侍の志の高くその信の篤し
その刀は邪を切り義を高める
明治になぜかく英傑の生まれしや
綺羅星のごとく生まれしや
真の侍のありてこそかな
日本の歴史の重みなるかな


(反歌)

千歳巌のごとく
国の礎と千代に
その末を見守り
その信の強くも
揺るがざるかな
国の栄の基なれ
そは人物にあれ
国の山河にあれ
その礎の堅くも
国は崩れざりし
天地の支えつも
神の支えるなり
国は盤石にして
毀つ能わざりし
その礎知るべし


2020年01月05日

外国旅行を20か国以上している人は3パーセント (私はその部類に入っていたーその回想) (私はその部類に入っていたーその回想)


外国旅行を20か国以上している人は3パーセント

(私はその部類に入っていたーその回想)

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私が旅した国


日本で最も多く旅行をしている層は55歳以上で、11%が11〜20か国、3%が21〜30か国、1%が31か国以上
また、「これまでに訪れた国はいくつありますか」という質問に対し、68%の人が最大10か国を訪問したことがあることがわかった

中国に三回も行っているから国の数だけ多くしてもそれで本当に海外をわかったかとなるとそうはならない、日本の旅でも量より質だともなる
どれだけその国について理解を深めたかである

私の場合は海外旅行したとき50歳からバックパッカーで一か月は旅行していた
だから団体旅行とは違っていた
でも外国となるわからないことが多すぎるから説明つきのツアーの方がいいとも思った
何かわからないままに終わったのが多いからである
そして海外の一人旅は辛いのである、だから我ながら良くできたと不思議に思う
何か事故とか事件とにも巻き込まれることもあっても不思議ではなかった
それは中国に旅した時、バックパッカーで汚いので中国人と見分けがつかなくなっていて襲われることもなかったともなる
それは十数年前だったからである、その頃まだ中国はあんなに発展していなかったのである、だからあんなに発展したのは信じられないとなる

中国とかロシアなら広すぎるから一回くらいで旅はできないのである
ロシアは旅したとしてもウラジオストックからシベリアの方だけである
そこで印象に残ったのはアムール川の大きさだった
それを鉄道に乗って見たのが印象的だった
そこから満州に入り中国を鉄道で帰ってきたのである

とにかく外国を知るにはまず一回でもその地を踏んだ人の方が実感として知るのである
それは地中海を船で行った時、キプロスに6時間くらい立ち寄った
それだけでもキプロスという国を実感するのである
キプロスに行ったということでその後そこで預金封鎖などがあった
その国の事情を知る、そこに一回だけでもその地を踏んだことでそうしたことに興味を持つのである
トルコの人でもキプロスにヨットをもっているとか金持ちがいたのである
ロシア人がそこに別荘をもっているというのもわかる、シリアにロシアがかかわるのもそういう地理にあるからだとなる
キプロスは十字軍時代からイギリスがかかわっていたというのも古い歴史があると思ったヨ−ロッパはそれだけどこも歴史が古いのである

まず知識人になるには今は外国旅行はもちろんだが留学しないとなれない時代である
どうしても外国を深く知るには住んでみないとわからない
でも一回その地を踏んだだけでも実感するから違ってくるのである

ただ行けない所もかなり残った、アフリカがそうである、でもナイル川の下流にヌビア人
がいて黒人だった、そこはアフリカだったのである
エジプトはアフリカだった、黒人が作ったという説もあるからそういうこきもありうる
アフリカに行きたかったが行けなかった 
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ヌビア人は何十年もの間、エジプト社会の主流からはじき出され、政治的にも野党暮らしを強いられてきた。エジプト南部とスーダン北部の境界にある歴史上の故郷に戻ることを目指し、ほとんど実りのない運動を続けてきた。

スーダンの領域にも入っていた、つまりそこはアフリカだったのである

ナイル川のヌビア人(詩)

ヌビアとは金の意味でありキプロスは銅の意味である、みちのくの辺境は黄金を出すことで大和王権に奈良に知られていた

すめろきの みよさかえむと あずまなる
        みちのくやまに くがねはなさく

みちのくも黄金をとれる地域として中央に知られていたのである、世界でも日本と共通なものがありそれを知ると人間として同じことがあると理解しやすくなる
でも砂漠が日本にないのだからそこは理解できないものとなるのだ
ピラミッドでも砂漠と切り離されず生まれたものだからである
ヌビア人のいる場所が辺境でありそのためにヌビア人が追い出されるとか迫害されるとかなる,境界地域ではそういう問題が共通して世界で起きる
私があったヨットのファルカーの案内人のヌビア人はアスワンハイダムの近くだった
私はアスワンハイダムには行かなかった

南米のマヤとかインカの遺跡も見たかったが見れなかった
今になると体力的にも気力でも外国旅行はできない、何か介護とかで消耗したからであるだから海外旅行などいつでもできる、他の事もできると思っている
実際はできくなる、50歳ころで親の介護になっている人もいるからだ
つくづく何でも人間のする時間が限られているのである
日本はほぼ旅行した、行っていないのは奄美大島くらいだった、それに今頃気づいた
外国はもう20か国以上となるとむずかしくなる  

アメリカ、ロシア、中国(三回)、韓国、タイ、ベトナム、カンボジア、インド、ネパール、エジプト、イスラエル、キプロス、トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス、ドイツスイス、イギリス、オランダ

20か国は行っていた、3パーセントの部類に入っているとするとこれだけ行っている人は少ない、特に東北人は海外旅行している人がすくない、何か東北人はそうしたバイタリティに欠けている、引っ込み思案だとなる
関西の人は何か海外旅行でも抵抗ないということがある
外国人でも大阪の人は受け入れる、そういう土地柄なのである、大阪弁を外国人がしゃべっていることでもわかる、何か親しみ安いのである
だから海外旅行も抵抗なくしやすいのである

今や私は国内旅行すらする気がなくなった、海外旅行をましてできない、体力も衰え気力もないのである、だからつくづく若い内にハードなことをしておけとなる
いくら金があっても体力と時間がないと旅はできないからだ
海外旅行は相当に年取ってからは負担である
できるとしたらクルーズである、それなら80歳でもできる
ただ乗っていて食事もでるし楽である、ただかなり暇になることは確かである
三か月もかかるとしたら海ばかり見ていたら暇になる
そうなると人付き合いとかありうまくいかないことにもなる
とにかく海ばかり見ていたら飽きる、変化がないからである

東京から貨物船のような船で沖縄に行ったことがあった、食事は決まりきったものであきた、一週間になると船旅は変化ないのであきる
船にはかなり乗ったので船について古代史でも興味をもった
まず旅するとやはり地理はには興味をもつ、そして学問の基本が地理を知ることである
そのためには旅をしなければ海外でもんく本を読んでも実感できない、すると学問しなくても一回でも外国の地を実際に踏んだ人の方が知っているとなる
百聞一見にしかずとは本当に外国について知ることに言えるのである


小泉首相はナチズム的手法でゆうちょを民営化した (マスメデアは洗脳機関だった)


小泉首相はナチズム的手法でゆうちょを民営化した

(マスメデアは洗脳機関だった)

マスメデアがこれだけ力をもったのはその情報を操作して伝える力をもったからである
白を黒とも伝えられるし黒を白としても伝えられる
その判断はマスコミがしていたのである
それで最近なぜ小泉信三前首相があれほどゆうちょを民営化しようとしたのか?
それは外資にアメリカに国際資本家にゆうちょを民営化して貢ぐためだったと批判する人がいる
そうしなければならなかったのはアメリカの圧力であり日本は植民地だからアメリカに従わないければならない金を奪われても仕方がないということになっていた

ただそういうことをあからさまにはメデアでは言わない、マスコミでは言わない
だからマスコミにのせられてゆうちょを民営化することに熱中したとなる
それは小泉前首相がそういうふうに国民をあおるのにたけていたとなる
また国民もゆうちょの民営化は国民にとっていいものだとその時は熱中していたのであるそれはもしかしたら戦争でも政府があおり国民が熱中した構図とにているのかもしれない戦争でも今では朝日新聞があおったとしているからだ
オリーブの木で小泉信三と竹中平蔵と安倍首相がその首謀者であり日本の経済をだめにした張本人だとして告発している
バブル崩壊からの30年くらいが失われた時代であり日本経済が低迷した
その原因が小泉前首相とか竹中平蔵とか阿部首相などがそうさせたとして批判している
つまり外資に国際資本家にアメリカの言うなりになってそうなったとしている

経済が特にグロ−バル経済になるともう誰もその仕組みもどうなるのかもわからない
だから処方せんも書けないとなる
江戸時代に二宮尊徳が成功したのはその経済が眼に見えて具体的に把握できたからこそである、それで何を正せばいいか見えたからできたのである
グロ−バル経済だったらもう何を正せばいいのか見えないのである
それで必ず陰謀論になって終わっているのである

でも具体的に見えるのはカジノ利権とかある時である、それはカジノを運営したいのはラズベガスでカジノを運営しているユダヤ資本家だという、その名前もあげている
一方で中国でもかかわろうとして議員に賄賂が送られたとして検察が取り調べるをする
その裏はアメリカと中国がカジノ利権を日本で得ようとしているからだとなる
これがわかりやすいのは金がどういうふうに動いているのかわかるからである
それはまさに黒い金である

第一オリンピックでも消費税でもカジノでも国民が賛成していない、いるのは一部の利権者だとなる、ギャンブルは大きな利権である
だからパチンコが大きな利権でありこれでもうけている人たちは手放さないのである
原発だってこれも大きな利権だから地元でも官僚でも検察すら天下り先として東電と一体化して大事故になったのである
ただそこに見ているのは利権であり会社であれ個人であれ利である
利益を得ればいいというごけである、それはカルト教団でも宗教も実際は神より仏より
賽銭でもお布施でも利だとなる
神仏などよりそれでもって得る利が御利益が大事なのである
だからそういう利を否定しない、必ず拝めば利を得るとして教えている

金がこれほど力を持ったのもはなぜなのか?
それは本当は金とは媒介するメデアはメデュウムであり中間であり仲介するものに過ぎなかったのだがそれが力をもったのはマスコミのようにメデアとなっていたからだとなる
情報を仲介するだけのものでもそれが六局に独占されていたから第3の権力までになった
仲介するものがそれだけ力をもつのは金が貨幣が情報だからだという人もいる
今では金は数字としての情報である
そしたらその情報を伝える力をもつものが力をもつのは当然だとなる

人間は金だけではない、情報に左右される、今になるとなぜ小泉前首相が郵貯を民営化することにあれほど熱心だったのか?
そして国民がそのことに熱中したのか?これも本当に不可解になる
そうしむけたのはマスコミだったともなる、いつもテレビに小泉首相が簡単なわかりやすいフレーズで訴えていた、それが小泉前首相がうまかったのである
それがテレビという媒体がありそれにのっかたからである
マスコミは冷静に批判して伝えない、疑問もさしはさまない、良く議論もさせない、
一方的メデアなのである、マスコミはただ媒介する中間のメディウムではない
確実に放送局の意志があって決められる、それは幹部の会合でしているのである
ただ事実を報道するということではない、その事実の報道でも選ぶことによって力を得ている、何でも放送するわけではないからである
つまり放送局にとって大事だと思うニュースを流しているのである

なぜ人間はこれほど人物でも事の真相でも見えないのか?
それは人間は直接首相などでも聴くことなどできない、必ずそこに媒介する者がいて
その媒介する者に左右されるのである
噂でも人から人へと伝えられて別なものになってしまうと同じである
ゆうちょを民営化するのはアメリカにゆうちょの貯金をさしだすためだとか外資に売るためだとか言う人はいてもその仕組みが良くわからないからうやむやになっていて注目されななかった

大衆にとってはわかりやすいことが訴える!

それが小泉前首相はうまかった、演技者だった、それはナチスのヒットラーの手法だったのである、ワンフレーズで難しいことは言わない、それが大衆に受けたのである
それはハイルヒットラーと同じだったのである
現代は大衆時代であり何百万人であれ千万人にも訴えるなるとそういう手法になりそれが大衆に訴えることになる
それでカルト宗教団体も何百万人の会員がいるとか増えたのである
それもナチス的集団なのである、その前に小さな声は圧殺されるのである

だから民主主義などこれだけの人数が多いともう機能しないのである
ギリシャのボリスがせいぜい一二万の人口の都市で行われていた
それは直接民主主義てある、現代は間接民主主義でありまさに間接ということはそこにメデアが介在してそのメデアの影響が大きくなるのだ
そこで中間とか中立とかはありえないのである、メデアはどちらかに偏る
それがメデアの問題である、それでグーグルさえそういうメデアであり中立ではない
中国に通信技術を盗まれるとかいうけどそれはアメリカが情報をITの技術を独占するから対抗してそういうようになる、それが米中の対立となっている 

それにしても大衆というのは簡単に洗脳されるものだと思った
それでピカートはラジオがナチスを産んだとして批判した
それだけラジオすら音声ですら大衆を扇動するのに十分だったのである
それがテレビになったとき映像になったとき千倍の効果を出すことができるようになったのである、映像の力はそれほど強力なのものである
だからこそテレビの映像は必ずしも真実ではない、操作されていてもそれを信じるのである、それでやらせとかあってもわからないのである
まず真実はその場に立たない限りわからないのである
だからテレビを見て何でもわかったようになるのは危険である
まず人間はその場に立たない限りわからないものだという自覚が必要である
そうしないとやらせが普通にテレビにあり真実は見えなくなるのである

ただこんなことを言っているのはやはりミネルバのフクロウは夜に飛びたつというとき
過去をりかえるとき真実が見えて来るという人間の習性があり常に事の起きた後しか真実が見えないからそうなっているのである
その時々のことは時流に流されて生きる、しかしその事が終わった時、真実が見えて来るただその時はもう方向が決まっていて前にもどすことができない
それが歴史でありまた人間の一生でもあった
人生というのはみなん老人になるとあの時そういうことだったのかとわかるのである
何が大事だったかも人生を経験してみてからしかわからないのである
でも失敗したからとして道を誤ったからとしてその時に戻れないのが深刻なのである
戦争で3百万に死んだのはなぜだ、こうすればあうすればまた深く考えていればこうはならなかったといってもその時にはもどれない

3百万人死んだ人たちは生き返ってこない!

このことでもいかに道を誤ることが深刻かわかるのである、それは個々人だけではない、国家の進路でもそうなる、対処が誤ると道を誤るとそれだけの恐ろしい犠牲が出るということである、そして取り返しがつかないのである
共産主義でもカンボジアで2百万人死んだとか今でもカンボジアは最貧国で疲弊している
だから国家が道を誤ることはどれだけの犠牲が出るかということである
これは肝に命じなければならない、だから国民をただ他者に為政者にまかせるだけでは
いけないのである、結果的に無関心だと戦争にもなり犠牲がでる
それは原発でもそうだったのである
自分等も30キロ離れているから無関心だったのである
また地元の人たちは「安全神話」を信じていた、信じさせられた
結果的に放射能汚染になり悲惨な結果に住めなくなったのである
それも自分自身もそうだが無関心からそうなったのである

ただ政治とかにはなかなか関心がもちにくい、その原因が民主主義でもいくら一票あるからといっても無力感がある、どうせ変わらないとなる無力感がある
それは社会の規模が大きくなりすぎたいうこともある
一票でも百分の一くらいの重みがあったら違っている
比例区とかなると百万分の一ともなれば一票などどうでもいいとなるからだ
そこに無力感があり民主主義はポピュリズムになり大衆化して遂にはナチスのようちファシズムになり安いのてある
あまりに規模が大きいともう民主主義は成り立たなくなる
そこで通用するのは小泉前首相のようにナチズム的手法になる
それが現代の政治だけではない全般的な問題なのである

2020年01月06日

新年-冬椿(冬の俳句十句)

                        
新年-冬椿(冬の俳句十句)

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万両や新年に幸分かち合う

新年に珍しく来る目白かな

白鳥にまばゆき光年明ける

寒雲に二両の電車待ちて来る

社消え落葉にうもれ碑の二つ

冬椿奥に籠れる女(ヒト)静か

路地裏の垣根静かに冬椿

城下町通りを歩み冬椿

冬椿心にしみぬ赤き色

外に出て北風吹かれ帰る家

目白が珍しく庭に来た、これは目が白い縁になっているからわかる
ただ隠れてわかりにくかった
庭だと近くだからなんとか鳥を見分けられる
庭に来るのでは後は四十雀とかでありこれもめったに来ない

万両は新年にふさわしい、豊作だともなる
その幸を分かち合うとなる、白鳥がいたのは手の沢の池である
六号線の道の駅の近くである、あそこは餌やる人がいるから来る
白鳥は餌をやらないと来ないのである
その近くに社が鳥居もなくなって碑だけが落葉に埋もれたのがあった
一応慶応とあり江戸時代のものだった

駅に行くと寒雲がたなびき二両の電車が来る
最近案内していない、何かめんどうになった
ただこの待つということが駅に価値を与えているのである
人を待つということが駅に人間味を与えているのは不思議である
二両の電車は一日二回くらい来る、昼間である
常磐線は一時間おきにしか来ない
不思議なのは人間は何かこうして無駄なこと待つ時間があることで人間的なものが生まれる、まず車だと待つということがないし今は待つことを嫌がる
それだけ時間に追われているからである

冬椿がいいと見た、というのは冬椿と寒椿があるが冬椿だとそれほど寒くない感じがする今年はまだストーブを使っていないし寒い感じでもない
ただ風は冷たいから外に出にくい、ただ冬椿というのが今年はあっている
相馬市は城下町であり冬椿がにあっている
それは病院に通ったりしてしいたとき相馬市内を歩いていたからである
歩くということもなくなっている

冬はやはり冬ごもりである、静かにこもっているのがなんともいいのだ
それはやはり田舎だと冬ごもりがいいのである
これが薪とか積んでストーブを燃やしたりしているとさらにいい
街内にどうも外から来た、都会の人なのか、そうして暮らしていた人がいた

ともかく冬椿が今年が心にしみる、今日だって外は風が吹いて冷たいけど家の中はそれほど寒くないのである、だからストーブをしていない、去年はストーブを一日燃やしていたそれで石油代がかかったご今年はかかっていないのである

何か介護の前のように平穏な日々に戻ったとなる
まず十年間くらいは落ち着かなかった、もう振りまわされて落ち着かなかった
自分の人生をふりかえると不思議なのは家族がいたときは30年間くらい引きこもりでありそうして静かに事もなく暮らしていたことである
そんな暮らしができたこと自体不思議だった
そういう平穏な平和な日がつづくこと自体相当に恵まれたことだったのである
今になりようやくそうした前の平穏な日々が返ってきたのかと思う

いづれにしろ今は遠出も旅もしたくない、めんどうになったのである
何か冬籠りがいい、じっとして家にいるのがいい、人とも会いたくないし人ごみ嫌なのである、そういう性格であったが余計に年取ってそうなってしまった
だから自分はもともと田舎にしか暮らせない人間だったのである
そして仕事をしなくてもそういうふうに暮らせたことが不思議だったとなる
今も別に金銭的に困ることもないのである

ただ今年はどうなるのか?
何か経済的に波乱含みである、アメリカのイラン攻撃もあったりなんだかきな臭い
今年はこれからどうなるのかわからない、大きな波乱がまた来るかもしれない
でも自分の状態は平穏なのである

貨幣が紙幣がなぜ今問われているのか? (キャッシュレス社会とかグロ−バル経済で通貨を何にするか問われる)


貨幣が紙幣がなぜ今問われているのか?

(キャッシュレス社会とかグロ−バル経済で通貨を何にするか問



貨幣とは何なのかということを追及するとそれが不可解になる
いろいろな人が貨幣について述べても何かわからないのである
簡単なところでは金本位制というのはわかりやすい
金自体に価値がありその金が基となり現実にあるからそれで紙幣で発行される
その裏付けはその紙幣で金と交換できるということである
だから金の額が決まっているから発行される紙幣は制限される
現代は金本位制ではないから紙幣は紙なのだからいくらでも作れる
でもそれが大量に出回るとその紙幣の裏付けがない、金と交換できないのだから紙くずになるのである

つまり大量の紙幣を刷ってもそれ自体には何の価値もない、紙くずにもなる
だからこそバブルが起きる、オランダのチューリップバブルでもそうである

そういうものになぜ高価な値段がついたのか?

それは大量の紙幣を紙をもっていてもそれ自体に価値がないからである
金余りが高じるとそうなるのは何か簡単に理解できる
本当の価値は紙幣にはない、紙幣は紙に過ぎないからである
だから貯金していたとしてもその貯金しているのは紙幣であり数字にすぎないとしたら
紙幣は紙屑になるし数字は一瞬にしてゼロになる
数字に価値があるはずがないからだ

そして現代は金余りだというときバブルになるというとき大量の紙幣が土地とか建物でもまた前は絵画とかが投機商品となった、ゴッホの絵が百億円とかで買った実業家もいる
それはその絵画に価値あるというより投機商品として買った
いくら金をもっていても紙幣なら紙くずになり数字ならゼロになるからである
それよりはましだとしてチューリップの種であれ何でも実物と骨董品でも何でも持っていた方が価値があるとなるからだ
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金融資産は3.4倍に増えている
つまり世界的に金余りなのである
日本は金融資産ではアメリカよりも大きいとかある
日本は金は持っている、でも活かされていかないのである

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島の人たちがみんなこの石貨どこの家にあり誰の者か認めている
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銀行の場合は銀行だけが特定の個人の金があることを認めている
他の人はわからないのである


不思議なのは石の貨幣がヤップ島である、それは重いから移動できない、いつも持ち主の家の前にある、それがなぜ貨幣としての機能があるのか?
わかることはいつもその石の貨幣を島の人たち見ている

その石の貨幣を島の人たちがみんな認めている

ここに貨幣と同じ役割がある、それは交換できないのだがその石の貨幣をもっていることはみんなが認めている、だから立派な石の貨幣をもっている人は信頼される  

このみんなが認めるということが石の貨幣として価値をもたらしている
このみんなが認めるということが大事なことを銀行のことで気づいた


例えば金というのはタンス預金として持っているとその人が持っているかどうかもわからないのである、だから盗まれたとき盗まれたと認識するのはその持っている人しかいないから証拠がなくなる

この人はいくらの金をもっていましたと証明する人がいなくなる

ただ預金通帳を見れば日にちが記されていていくら引き出したかわかる
それを手がかりとして証拠として盗まれたことを証明できるかもしれない
でも証拠がないと盗まれたということを証明できないのである
だからタンス預金は盗まれたとき警察に訴えても返ってこなくなる
証拠がないからである、常に犯罪を証明するには証拠が大事になるからだ

あなたは本当にその金をもっていたのですか?

それを証明できますか?

こうなって立証することがむずかしくなる

だから金というのは何かというとき本来は島の人たちが石貨でもある人の家にあることを認められて存在しているともなる
その石貨は重いし盗むことができないから安定した貨幣だとなる
ただそれ自体で交換はできないのである
ただそこに金があるということを常に示している、それをみんなが認めているのである

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日本経済新聞1月6日号

一方で今の金は紙幣はそれ自体で匿名性でどこでも何でも買える、交換性が抜群なのである、それが誰の金でなくても金さえあれば例え盗んだものでも使えるのである
その金をつかっても誰が使ったなどわからないのである

でもキャッシュレスになるとカードで買うとその本人のことが個人情報がわかる
斎藤という人がいくらいくら使ったとか記帳されるからわかるのである
それでここで問題にしているのは銀行預金がないとカードが使えないということである
とすなると銀行なしではありえないということで問題にしている
銀行がつぶれたりするとかいろいろ銀行だけに頼ると問題が起きたとき使えなくなる
現実に銀行がつぶれるとか騒いでいるからである

金というのは銀行にあづけるとこの人がいくら持っているとかわかる
銀行がいくらあづけられたかと証人になるからである
それはタンス預金とは違うのである、それは盗まれることはないのである
ただ預金した人の金があることを知っているから投資信託とか売りつけにくるのである
そして遺産相続の時も銀行がかかわるのである
別に親族でもないのに金がおろせなくなるのである
つまり銀行がその人の金を操作するようにもなるのである
だから金を銀行に預けることは権利を委任するような感覚になる
銀行がその人の金に口出してして操作するとまでなる
だから銀行とは何なのか?これもわかりにくいのである

石の貨幣だと島の人たちが貨幣として認めるものだった、それはもし現金をもっていたらあの人はいくらもっているとかなる、大きな石なら大きな金をもっていると認める
でもそれは交換に使用できないのである
でもみんながあの人には大きな石貨があり金持ちだと認められるのである
ところがタンス預金にはいくらもっていもみんなが知らないから認められないのである
第一そんな金をもっているとなると周りからいろいろ言われる
だから隠すことになる
一億円見せびらかして殺された人もいたからである
もし銀行にあづけていれば盗まれることも殺されることもなかったかもしれない
現金を見せびらかして現金が家にあると思われたから盗まれて殺されたとなる

でも銀行にあづけるといろいろ銀行側で今は苦しいから投資信託とか損するものがすすめられる、それはゆうちょでも同じなのである
金が余っているけど投資してもうける先がないからである
だから日本は貧乏になっているというとき金は紙幣は貯金は多いのである
でもその金があっても有効に使えない、会社だと内部留保であり投資に使わないとか
金が全体に回らないのである

ともかく今貨幣を紙幣をどうするのか、グロ−バル経済にもなり混乱している
それは金というものが何なのか?それ自体が問われるのもそうである
そもそも金というのが一定したものではない、金が単なる数字であり情報だという人もいる、通信がこれだけ発達するとまた金がもう紙幣ではなくキャッシュレスになり数字になり情報になる、でも依然として銀行に貯金がないと使えないという指摘もある
そうしてブロックチェーンとかが生れて来る素地ができている
これはわからないにしてもやはりその人が金をもっているということを銀行という民間会社だけではなくみんなで認め合うということかもしれない
それは石貨とにているのである   

つまり金でもそれ自体で通用していたがキャッシュレスとなるとその本人の個人情報がはっきりしていないと使えなくなる
そしてカードから金がどれだ何に使ったかとか把握される
それを銀行がするとなると銀行が潰れたりすると使えなくなるから困るとなるのもわかるキャッシュレスだと匿名でなくなる、個人の情報があって信頼されて金が使える
もう金を盗んで使えなくなる、それは誰の金か登録してあって他の人は使えないからである

いづれにしろ金について紙幣についてどうするのか転機に来ていることは確かである
それでそもそも金とは紙幣とは何かを世界で問われるようになったのである
ただ正直金が何なのかわかりにくい、金には多様な面があり多様な機能がありそれがなかなかわかりにくいのである

第一国で預金封鎖するとかなぜできるのか?
個々人の貯金をゼロにすることもできる、そんな権限が政府にあるのかとなる
すると金とはあくまでも政府の国のものであり個々人にはないともなる
だから金は紙幣は国で管理して民間銀行で管理してはならないともなる
なぜならそんな権限を持ちえるのは国であり国の都合で意のままになる
国が借金しても預金封鎖で金をとりあげて払えばいいとかなる
個々人に金をもつ権利はないとまでなる

とにかく金であり貨幣であり紙幣でありこれがグロ−バル経済になると大きな力をもつ
金で世界を支配できるとかなり問題になる、ドルが世界基軸通貨になっているからアメリカが世界を支配するとなる
それでいいのかとなりユーロが生れたり中国でも反発しているのである
posted by 天華 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題