2019年12月14日

墓とは何なのかその謎 (墓参りすれば良心がなぐさめられる?)


墓とは何なのかその謎

(墓参りすれば良心がなぐさめられる?)

墓が何なのか?これも知ることは簡単ではない、そこで墓の歴史を見る
江戸時代には侍意外は墓はなかった
村の共同墓地に埋められていた、つまり墓はなかったのである
そこはホトケっボとか言われて残っている
そこには死体が埋められたのである
でもそこには誰々の墓とかはないのである

殿様とか侍の墓は菩提寺にある、それも個人名であり家の墓がない
…家という墓はないのである、男性でも女性でも個人名の墓はある
女性でも侍の家だったら個人名である
だから墓がある人は特別な人であり一般の人は墓がなかったのである

でも経済力がついた幕末辺りになると農民でも個人名の墓が生まれた
墓を作るのは結構当時は金がかかるから作れない
でも経済力がついたとき農民でも墓を作ったのである
今でも立派な墓を作るのは裕福な人だからにている
墓はあくまでも個人であり個人を供養するものである
ただ村という共同体があるときは共同の墓地にうめていた
ただそこには何もないのである

家族墓が一家の墓が生まれたのは明治以降なのであり新しいのである
それは上からの政策でそうさせられたということがある
家を一つの単位として国をまとめる国の政策として一家の墓が奨励させられた
天皇が日本国民の親であり国民は子であり赤子であるとかなった
それは上からの押しつけだったのである
だからち歴史的にみれば家族の墓は新しく作られた制度のようなものだったとなる
家族の墓は世界的にみてもない、みんな個人の墓である
そうすると家族の墓は一家の墓は特殊だとなる

不思議なのは共同墓地に個人が埋められたとき個人は消失する
でも村の人たちがそのホトケッポにお参りしていた
だから村がある限り誰かがそこにお参りしていたということはある
でもそれは特定の個人にお参りしていとはならない、なぜなら個人はそこで消失しているからである

墓の不思議は墓は家より長く残る、家が消えても墓が残っている
家は絶える家があるからだ、今になると家が維持できないとなり墓終い(はかじまい)
する人が多くなった、墓はこのように維持することがむずかしいのである
だから誰もお参りしない墓があり捨てられるようになる
墓の墓地ができてしまうのである、特に家族のつながりが希薄化している現代ではそうである、子供でも女性なら遠くに嫁ぐとか広域化すると代々つづく家というのが少なくなる
なぜ墓が家より長く残るかというとその土地と関係している
家だと家という建物は消える、でも土地にあれば墓は例えばその家の人が死んでも墓だけが残ることがある、無縁墓になっても残ることがある
家はもし人が住まなくなったら壊されてなくなるからである
そして家族がお参りする人がなくても無縁墓でも土地の比とがわれだとして花でもたむければ墓だけはその後も残るということがある
そこに墓の意味があるともなる

ともかく墓というのはまず人間は家族でも死ぬと何もなくなってゆく
そこで死体を埋める、そうしたときそこに卒塔婆のようなものを建てることからはじまった、死者はいないのだがそれが代わりになる
でもその卒塔婆だとこれも古くなり朽ちてなくなる
それでなくならないように石にしたともなる
ただ問題は墓でも誰かがお参りしないと墓は捨てられるのである
そのように継続することがむずかしいのである
それが共同墓地になると数が多いから誰かが子孫でもお参りすると継続できるのである
一家の墓は継続しにくいのである
それは墓石会社が言うのとは違ってくる
こういうふうに死者を商売するするとき何でも歪められる
墓を売りたくてそういうからである、また戒名などもそうである
そんなもの第一仏教ではそもそもなかったからである
それも寺や僧侶の金儲けのためであり歪められるのである
人間は必ず利益がかかわると公正に見れなくなるのだ

ただ骨を海に散骨するとか木の下に埋葬するとかして墓を建てないということも選ぶ人がいる
そうするとどこに墓参りしていいかわからなくなるので困ることになる
墓というのは墓参りがあって墓の役目を果たすからだ
その人の墓があればその人を供養することになる
そして何か墓というのは良心をなぐさめるためにあるともなる
親に苦労かけたのに何もできなかったから墓参りするとかである
それで心が慰められるのである
何か本当に死者に対しては良心が問われるものである

第一死者は何を生者に求めているのか?

供え物なのか?そうでもない、死者は心から私を思ってくれますか?
そのことかもしれない、死者はもう何も与えてくれないしまた何を与えても返事もないからである
それでそういうことになると何も思っていない人は墓参りもしなくなる
現実に実の娘ですら金にならないとして墓参りしなくなった
こちらで電車賃とか10万とか払ってもそれはその金が欲しくて墓参りすると言ったが来なかった、その人は事情があるにしろその10万が欲しかっただけなのである
それで死んだにしろ親の縁もキレたとなる
それは親に責任があるにしろなにか人間の縁などあっけない無常だと思った

とにかく墓があればその個人を偲ぶことがある、それは具体的に墓というものがあり墓参りして何か良心のなぐさめとなる、墓がないとそれがなくなる
死者との縁が墓を通じて結ばれるということはある
でも立派な墓は必要ないのである、そういう死者を思う心があれば卒塔婆のようなものでもいいのである、第一石の墓だとお参りする人がいなくなれば片付けるのに困るからである、卒塔婆のようなものだったら片付けるのが簡単だからいいのである 

私が新しく兄の墓を作ったとしてもそこに骨もなにも埋まっていないのである
でもそこに兄がいるとしてお参りする、不幸にも若くして事故で死んだしいろいろ私の家族ではマイナスのものとしてあったからお参りする
それで良心のなぐさめになる、母もまた苦労したからそれでお参りして良心の慰めになる不幸という時、子供の時不幸なのは愛されない最悪だからである
母も継母に育てられたからそうだった、継母にいじめられたのである
兄も私の家では愛されなかった、だから不幸だった

それで不思議なのは母の場合は何か愛されないというカルマをもっていたのかともなる
その子もそうなったりしたからである、それは自分の家族とも関係していた
それで私は恵まれたらか良心の慰めとして兄の墓を作りお参りする
でも実の娘も不思議なのは愛されないものとなった
これもカルマなのかとなる

親ー子ー孫とありみんな愛されなかったという連鎖はカルマなのか?

こういうことがカルマとしてあるのは確かなのである

いづれにしろ母の命日を今年も忘れていた、ただ一人になるとそうしていろいろ気がまわらなくなる、家事するだけでも忙しいからである
だから命日だけでも個人を偲ぶということは必要である