経済活動には本当は動機が大事になるのでは?
(目先の利益にふりまわされている、老人になってみんな人相まで悪くなる)
●まずは利益だ
経済活動は金を得るためである、仕事も金を得るためである、会社も金を得るためであるだから最優先課題はいかに利益を出してもうけを出すかであり
そもそも儲けがなかったら利益がなかったち社員に給料すら払われないからだ
社長でもそして第一に利益を出すことを考える
会社は利益を出さなかったらつづけられない、社員にも給料も払われないからである
福祉事業でもないのだからまず利益を出すことだとなる
でもそこから何か経済活動が歪んたものになっている
それがあらゆる職業に及んでいるのだ、それは一番尊敬されている医療関係者、特に高給取りの医者でもそうである
今の社会で…様と言われるのはお医者様くらいだろう
そのくらい尊敬されているのに医者も金になっている
患者にとって有害な薬を出しているのは金になるからである
そして製薬会社と結びつき金が入る仕組みになっている
そういうことが慣習にもなる
ところが江戸時代は医療技術も貧弱だから医は仁術になっていた
医者に望まれたのは人徳であった、だから貧乏人からは金をとらないということもあったそれで医者はやはり尊敬されていた
そもそも医者になる動機はなんなのだろうか?
給料がいいとかが第一になる、それはみんなそうである、また医者だけは尊敬されるということもある
まず現代では尊敬されるということはほとんどない、平等社会だからである
ただ給料が高いということが一番の目的になる
それがみんなそうなっているとき社会自体が歪んでくる
もう頭の中が金しかないのが現代である
まず利益だ、金だ
これしかない、でもそれで社会の賛同が得らるのか?
利益があって当然でありそうしなければ会社が成り立たない
でも社会的有効性とか利益を得るにしてもそういうものがなければ果たして消費者が支持するだろうか?
何かその人が例えば経営者であり社長だとする、するとその人の頭の中が利益だけなのか、金だけを考えているのか?それがその会社全体に影響する
学習塾を経営するにしても経営者は何か蘊蓄を言っていたけどその人の中には金のことしかない、教育自体に何の興味もなかったのである
だから生徒を獲得させるばいいと思っていたのである
それで営業をさせてただ生徒を獲得して金になればいいと思っていた
そういう人に教育者となる資格があったのだろうか?
●会社はただ金儲けの手段
もちろん自分自身は仕事も会社に勤める経験もないのだからたいしたことは言えない
でも私が教育に関心をもったのはもちろん金が欲しいということがあった
それは同じである、でも何か面白い教育をしたい、何か子供に創造的なものを喚起したということがあった、それも実際は頓挫していたし経営能力もなにもなかった
それで失敗して終わった
でも何か多少はそういう動機があったことは確かである
じも経営者でも社長でも教育自体になんら興味がない、ただ教育というのは金儲けの手段とういう人も多いのである
会社は仕事は金儲けの手段である
何かそういう人が現実に多いのではないか?
それが何か社員でもそうなる、まずは売ることであり銀行なら貯金を増やすことであり
今なら投資信託を売りつけることだとなる
それはゆうちょでは保険だったのである
ゆうちょまでそんなことしているのかと社会の顰蹙をかった
でもそれもまた利益を出せない時代だから追い詰められているからそうなったのである
本来の仕事とは関係なくなっていたのである
銀行とか金融関係がもうけを出る会社に金を貸せないからそうなったのである
地銀とかは元来地域の会社を育てる、地域に貢献することを第一として仕事があった
でも地域に金を貸して利益を出せなくなり投資信託とか売りつけるようになった
社員はそのためにノルマを課せられて顧客のことなど関係なくなった
もはや銀行は客から金を奪うことを目的にしているとまでなる
それも高度成長時代は恵まれていたのである
顧客に貯金するだけで利子をつけられていたからである
今は顧客から投資信託などをすすめられて手数料という利子をとられる時代になったのである、だからめうう時代だからいちがいに責めるということもできないことある
でも頭の中がとにかく金をとれば利益をだせばいいんだということしかなくなることは異常ではないか?
何か個人でも会社でも社会の役割があり仕事する動機がある
それか金だけになって頭の中が社会的役割社会に貢献するとか全くなくなり金を引き出し奪うという感覚にすらなっている
医者でも地銀でも他の会社でもそういうことが多くなる
でも利益を出さなければどうにもならない、給料を支払えないとなっているのだからしょうがないとしてあきらめ働くとなる
それはでも社会にとって有害になり社会の人々に損害を害を与えるものにならないか?
医療関係でもいらない薬を与えてかえって病気が悪くなり薬を減らしたら良くなったというのが結構あるからだ
そこに金しか動機がなくなったらもう社会の害毒になっている
そういう人たちを容認していたら害毒がありいつかみんな被害者になる
●人間の日々の仕事や生活がその人を作る
資本主義社会がウェバーの言うようにキリスト教の精神から修道院ではじまったという分析がある、つまりキリスト教の愛の精神で他者に尽くすということから始まったのが資本主義だとしている、でも今はそんなことは全くない、ただ強欲資本主義になった
金さえ得ればいいという資本主義である、株式でも何か本来の投資ではない
ただ投機なのである、FXとにている
株が上がったり下がったりする、だから巨額の金があればそこで買ったり売ったりしていればもうかるのである、その上下しているから必ず上がったら利益確定すればいい
そしてまた上下するらか安い時に買い高い時に売ればいい
これは単純なのである、だから資金がある人はそうしてこまめに株の上下を利用すればもうかるのである、ただ一億以上とかの資金がないとたいしてもうからないのである
まず素人はそういう株の世界にはのれない、一日パソコンを見ていなければならなとなるからだ、一億でもたりない、会社だったら百億とかで売り買いして利益をあげている
それでも投資信託でアメリカのゴールドマンサックスのような世界銀行に投資信託をうまくうりつけられてゆうちょでも農協でも地銀でも投資して大損しているというから
普通は株では素人はもうけられないのである
いづれにしろ経済活動には動機が必要だけどそれが失われた
その時この社会の根底が成り立たなくなっているのではないか?
もうあらゆる人が頭の中が金しかない、他所でも別なものが動機があればいいのだが全部金が動機になっているのである
そこに現代の資本主義の退廃が極点に達しているともなる
それで面白かったのは「安曇の白い庭」で丸山健一が言っている
彼は間違いなく肉体は若者のようにひきしまり、贅肉などかけらもなく、肌にしみひとつなく、黒髪でふさふさしててその目はきらきらとかがやいていた
それより、何より、精神が全く穢れていないことに驚いたという
その人は蜂家でミツバチとともに花を求めて北から南まで移動する日々を送っているという
同級会で集まった人はみんな肉体も老いていた、それより心がみんなけがれて人相に現れていたという
丸山健一と私は年齢的さほど差がないのである
これは何を意味しているのか?その日々の性格の結果が肉体に心にも集積して現れたということである
だから人間とは何でも日頃の日々の生活が体でも心でも作ってゆく
だからこそ職業とは大事なのである、職業によって人間はかえって作られてゆくからだ
しかしみんなおかしくなっていたというときそれだけ現代の社会は体でも心でも歪めてしまう社会なのである、それが何か恐ろしいとも思った
第一株でも一日パソコンで株のことを見ていて億万長者になってもその人がどんな人になってゆくのか?何か人格的におかしくなってゆく、そしてその結果が老人になると現れる本当に老人になるとあらゆる結果が現れてくることが怖いのである
つまらないことでも老人になると結果として現れるのである
でも資本主義社会ではどんなことしても金にけがされる人が多いのである
つまりみなんその顔が金だけを追求する社会では悪相になっているというのだ
それこそが今の社会を如実に示していると思った
そういう会社で働いていたら自ずと悪相になってゆくのである
それが社会全体がそうだというとき生き苦しいものとなってくる
そういう社会ではモラルが失われていてもうまともにも生きられくなる
ただお前の言っていることは甘いだよ
世の中そんなものじゃない、食うか食われかなんだよ
そうしなければ生きていけないんだよ
そういう反論になる、でもそうした社会がどうなってゆくのか?
社会が結局そうして金ばかりの悪相の人間を増やしてゆく
それは地獄社会になってゆくのではないか?
●みんなが善人だと思っていることが間違いを産む
ただこの世はそもそも地獄だという人も普通にいた、親鸞などがそう言っていた
「地獄は一定すみかぞかし」と言っていた
人間はみんな悪人だとも言っていた、それが世の中の変わらぬ真相である
資本主義がもともとキリスト教の奉仕の精神で始まったのだが結局金だけを追及する
強欲資本主義になったり共産主義が大格差を産んだりとなっている
だから社会は変わらない、世の中は変わらない、変えられないとなり無常だとなる
みんな悪人だというときそうだとなる、ただ悪人だと自覚していないのである
親鸞は悪人だと自覚していたし他の優れた宗教者も自覚していた
その差が大きいのである
たいがい善人だと思ってしているのである、だからかえって扱いにくいのである
カルト教団とか宗教関係者がかえってそういうのが多い
善人だと思ってすすめているけどそのすすめている人間が大悪人なのである
だからこそ善人は扱いにくいのである
俺たちは善人だ、全部善人だ、だから善人の言うことを聞けとなるからだ
地獄への道は善意で舗装されている
内的な確信が、間違った政策や行動によってなされた危害を正当化することがある。善意あるものは、その行いが集団に対して良いと信じている。それはかれらにとっては自明である。かれらはよりよい善をなしたためと信じた結果の巻き添え被害を正当化する。
善意だいうことで善人だとなりそれが災いとなる、善意なら通るべきだと従うべきだとなり強制される、そういうことが歴史上に常に人間には起きて来ていたのである
カルト教団になるとナチスもそうだけど善意が強制されて人殺しまでさせられるのである俺たちは善人で正しいから反対するならボアしてもいい殺してもいいとなるからだ
それはまず人間は親鸞の言うように悪人だとしないからである
そういう個々人で反省がないからである、そして集団の善意は一番恐ろしいものとなったのである、善意だから相手を殺ししてもいいとまでなったからである
結局この世自体がダンテの地獄編だったのである
地獄人間の中に生きているということである
そういうことは人生をふりかえり老人になると不思議にわかるのである
動機が大事だという時そもそも宗教というとき動機を一番重んじている、それはキリスト教でも仏教でも同じである
「神はあなたの心を見ている」とかいう時その動機を見ているのである
「心の清い者は神を見るだろう」というときもそうである
だから資本主義が修道院から始まったとしてもその逆になってしまったのである
共産主義でも同じだったのである
例えば宗教というときどうして生まれたかというと法華経になると飢えた虎にその身を与えたという故事がある、それは親のトラが植えて子供を殺そうとしたからだとされているその生まれ変わりが釈迦だとしている
なぜそういうことになったのか?それはインドでは動物を大事にする、動物を人間のように見ている、今でも牛でも猿でも大事にする
それから牧畜社会では動物を扱う、羊でも牛で豚でも飼っていて食べることがある
すると動物を殺して食べることに罪悪感をもつ、血を流して殺されてゆく動物を見る
そこで動物に対しての罪悪感を自ずともつ、動物を殺して自分は生きているのだという
ことになりそこで動物に悪い感じがする、動物の命を殺して自分は生きている
だから動物に感謝しなければならないとかなる、ただ植物だと野菜だけならそういう感情をもたないのである、魚でもやはり多少はもつが動物だと羊とかなるとより人間に近い感情になるからである
だから罪の意識が牧畜民族からより強く生まれて宗教になったともなる
現代の人間はそういう感情をもたない、ただ肉を貪り食うだけなのである
その動物を殺している現場を知ったらそうはならないのである
何か動物の接点がなくなる、するとただ肉の断片を買って食うだけになりそめういうことを感じないのである、命がどうして維持できるのかをやはり知ることが必要なのである
結局この世はダンテの地獄編なのである、そこにいるのは地獄人間だった
その地獄がこの世で現実にあるのだ、地獄編の人間のようにみんななってゆくことが怖いのである、でも本人はそういうことを自覚しないのである
そして老人にてったときみんな地獄人間となりその人相がダンテの地獄編にいる人と同じになっていたのである、宗教にかかわっている人もそうだったのである
だから日々生活する仕事が大事になる、それが結果的にその人を作ってゆくからである
でもそういう職業が資本主義では汚されているから大問題なのである