2019年11月26日

冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感


冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感

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0ne united stone

その場に
石と石
その場を得て
乱されず動かじ
冬の日に
人は老いて
その場に安らぐ
時に一つの石の
そこより取りさられると
その不在を感じる
そのなくなりし石を意識する
またその石のもどると
石と石は
その場に
一つとなるを知る


On the place
the stone and the stone
Get the place
Undisturbed and stillness
One winter day
People are old
On the place
Deeply rest
Sometimes one stone
If taken off from there
Feel the absence
Be aware of the lost stone
When the stone returns
The and the stone
On the place
Know that you will be one  
In silence



何か知人が5カ月くらい入院して家が空家になっていた
その人は妻が10年前くらいに死んだ、だから大きな家に一人で住んでいた
庭も立派な家である
それが5か月もいないからその家を気にしていた
でも昨日をスーパーで見た、やっと帰って来たのである
そのことを昨日書いた

その続きとしてこの石の詩を書いた
自分の詩のテーマは主に石がある、昨日は何か冬らしくなかった、今日は結構寒いから冬らしい、それでこの詩ができた
前から「場の現象学」という本から場のことを語ってきた

田舎には一万くらいだと人間はその場を共有して生きているとなる
だから別にたいして親密でないにしろその人が5カ月も入院して不在にしていたということで空白ができた、それを感じたのは田舎だからだろう
都会だったら人が多すぎるから人はいなくなってもそんなことを感じない
まったく意識すらしないだろう

でも田舎だとそういう存在感がある、別にそれはどんな人でも変わりない
人がいるだけで存在感がある
一方でその存在感が悪い方に働くと嫌な人間の存在感も大きなものとなって消えないのである、それが目立つのである、都会だったら人が多いからそんな人も気にしないのであるただ群衆のようにマスとして流れてゆくだけである
記憶にも残らないのである

ただ場をもつというときもし農家だったらもっと存在感をもてたかもしれない
田舎だと農家の存在感が大きいからである、大地に根付いたようになるからである
ただそれは昔の農家であり今は違っている
農家のように見えても今は農家ではない、農家だ果樹とか花栽培とかはそれなりに金になるからやっていけるのかもしれない、他は本当の農家はまれになっている

都会と田舎の相違は収入とかばかりを見ている、他でも都会の華やかな面だけを見ているが実存的というか何か存在感というとき砂粒のようになっているのが都会である
ただそういうことを考慮する人はまれである
人間はただ今は金の価値観しかないからだ

田舎に住みたいというとき金とかだけから見たら誰も住みたくない
しかし何か存在感を持ちたかったら田舎がいいとなる
ただそういうことを考慮する人はほとんどいない

田舎に住んでいてもそういうことがわかるのは老人になってからなのである
老人になると一つの場をもってそこに石のように落ち着きたいとなるからである
だから原発避難者は故郷に帰りたいとなるのである
若い世代は田舎で暮らしていてもあまりそういうことを思わないのである




冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感

threestoneee1234.jpg

stonethree1.jpg
0ne united stone

その場に
石と石
その場を得て
乱されず動かじ
冬の日に
人は老いて
その場に安らぐ
時に一つの石の
そこより取りさられると
その不在を感じる
そのなくなりし石を意識する
またその石のもどると
石と石は
その場に
一つとなるを知る


On the place
the stone and the stone
Get the place
Undisturbed and stillness
One winter day
People are old
On the place
Deeply rest
Sometimes one stone
If taken off from there
Feel the absence
Be aware of the lost stone
When the stone returns
The and the stone
On the place
Know that you will be one  
In silence



何か知人が5カ月くらい入院して家が空家になっていた
その人は妻が10年前くらいに死んだ、だから大きな家に一人で住んでいた
庭も立派な家である
それが5か月もいないからその家を気にしていた
でも昨日をスーパーで見た、やっと帰って来たのである
そのことを昨日書いた

その続きとしてこの石の詩を書いた
自分の詩のテーマは主に石がある、昨日は何か冬らしくなかった、今日は結構寒いから冬らしい、それでこの詩ができた
前から「場の現象学」という本から場のことを語ってきた

田舎には一万くらいだと人間はその場を共有して生きているとなる
だから別にたいして親密でないにしろその人が5カ月も入院して不在にしていたということで空白ができた、それを感じたのは田舎だからだろう
都会だったら人が多すぎるから人はいなくなってもそんなことを感じない
まったく意識すらしないだろう

でも田舎だとそういう存在感がある、別にそれはどんな人でも変わりない
人がいるだけで存在感がある
一方でその存在感が悪い方に働くと嫌な人間の存在感も大きなものとなって消えないのである、それが目立つのである、都会だったら人が多いからそんな人も気にしないのであるただ群衆のようにマスとして流れてゆくだけである
記憶にも残らないのである

ただ場をもつというときもし農家だったらもっと存在感をもてたかもしれない
田舎だと農家の存在感が大きいからである、大地に根付いたようになるからである
ただそれは昔の農家であり今は違っている
農家のように見えても今は農家ではない、農家だ果樹とか花栽培とかはそれなりに金になるからやっていけるのかもしれない、他は本当の農家はまれになっている

都会と田舎の相違は収入とかばかりを見ている、他でも都会の華やかな面だけを見ているが実存的というか何か存在感というとき砂粒のようになっているのが都会である
ただそういうことを考慮する人はまれである
人間はただ今は金の価値観しかないからだ

田舎に住みたいというとき金とかだけから見たら誰も住みたくない
しかし何か存在感を持ちたかったら田舎がいいとなる
ただそういうことを考慮する人はほとんどいない

田舎に住んでいてもそういうことがわかるのは老人になってからなのである
老人になると一つの場をもってそこに石のように落ち着きたいとなるからである
だから原発避難者は故郷に帰りたいとなるのである
若い世代は田舎で暮らしていてもあまりそういうことを思わないのである



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冬の灯(独り身は独り身を想う冬)


冬の灯(独り身は独り身を想う冬)


遠山に日のあたりたる時雨かな

5か月を入院したるその人の故郷に帰り冬の灯ともす

遠山に日のあたりたる枯野かな 虚子

何か類似俳句というのが作り安い、短歌でもあるだろう
昨日は本当に時雨だった、ぼつぼつりと雨滴にぬれた、ただそれは気づかれないほどだった、時雨でも雨の場合もあり間違いやすい、時雨はぽつりぽつりと頬を濡らすものであるそして雲が出ていて山を覆っているがその中から日がさして一部が明るくなっていたからそういう季節である

スーパーで5か月入院していた80歳くらいの人が退院してきてあった
帰るとときいていたがようやく帰ったとなる、でもやつれた感じである
糖尿病の人だった、その人は10年前くらいに妻をなくして大きな家に一人で暮らしているのが淋しと常に言っていた、でも娘はとなりの街に住んでいる
親戚も多い、でもやはり妻がいないということは相当に淋しいことになる
だからそのことをいつも言っていた
それは自分自身も家族をみんななくして大きな家に一人住んでいるからわかる

そして不思議なことは独り身の人は独り身を想うということである
別に妻がいれば夫婦の人は思わないのである
夫婦は互いに身近に相手を思っているからである
そして夫婦の人は独り身の人に関心がない、淋しいとかも思わない
何か人間は他人に無関心である
でも同じ境遇の人は共感しやすいことがわかった
同病相あわれむということもある、それと似た感じである

なぜその人のことを思ったのか?
それは親しいといのでもないてけれど一回くらいその人の家に入ったこと
庭とか見たことか、それとそこが近いからである
その近いことが相当に影響していたかもしれない、それでそこが空家になっていることを気にしていたのである

そしてようやく帰って来たのかと思った
その人は80歳越えているからこれからどれくらい生きるのか?
糖尿病がどのくらい悪いのかわからない
でもやつれた感じにはなる、そこに知り合いの女性は親しく行っている
前からの旧知であり連絡し合い行っている
ただ糖尿病だから食べ物に注意している、料理は自分でしていた
でも今度自分で料理をするのは大変になるかもしれない
何しろ病院の楽なのは料理をしなくてもいいことなのである
この料理だけは手間なのである、だからほとんど私は買っているだけなのである

いづれにしろ近くに親しい人がいることは安らぐ
そう思うようになったのは家族がみんな死んでからそうなった
それまで自分は妻がいたように他者のことを思わなかったからである
その人と特別親しいわけでもない、ほんの知り合いというだけでもやはり近いから思うとういことがあった
人間は近くないと日々顔を合わせていないと「去る者は日々に疎し」となってしまう

なんか変なだけど母の実家の墓参り一年に二回くらいしていた
今はしていない、その家の親戚にひどい目にあったから行きたくなくなったのだ
仲良くない親戚は一緒に墓参りすらできなくなる
プログに書いたように自分の親戚は分裂不和のカルマをかかえていたからそうなった
でもその墓でも実際は近いのだから墓参りに来てくれと死者が思っているかもしれない
それも奇妙だけど近くにあるからそうなる

「遠くの親戚より近くの他人」人間は思うだけにしてもそうなのである
遠くなれば思うことさえなくなる、実はこの思うということは意外大きな力がある
思っただけで殺したいと思っただけで誰かがそのために死んだとかインドの哲学者が言っていた、それだけ思いとか念の力を見えないにしろ思った以上大きく強いものなのであるどうしても思うことは現実化しやすいのである

近くにいても思わない人は思わない、無関心である、ただ自分自身でもその人を想っている想っていたことが不思議なのである
ああ、あの人がやっと帰ってきたなと思ったからである
そして5か月ぶりに灯がともった、またなお故郷に生きるのだなと思ったのである
それだけ近くにいるということは思いが働くのである
ただ独り身の人は独り身の人を想うとういことがありそうなったともなる