2019年11月26日


冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感

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stonethree1.jpg
0ne united stone

その場に
石と石
その場を得て
乱されず動かじ
冬の日に
人は老いて
その場に安らぐ
時に一つの石の
そこより取りさられると
その不在を感じる
そのなくなりし石を意識する
またその石のもどると
石と石は
その場に
一つとなるを知る


On the place
the stone and the stone
Get the place
Undisturbed and stillness
One winter day
People are old
On the place
Deeply rest
Sometimes one stone
If taken off from there
Feel the absence
Be aware of the lost stone
When the stone returns
The and the stone
On the place
Know that you will be one  
In silence



何か知人が5カ月くらい入院して家が空家になっていた
その人は妻が10年前くらいに死んだ、だから大きな家に一人で住んでいた
庭も立派な家である
それが5か月もいないからその家を気にしていた
でも昨日をスーパーで見た、やっと帰って来たのである
そのことを昨日書いた

その続きとしてこの石の詩を書いた
自分の詩のテーマは主に石がある、昨日は何か冬らしくなかった、今日は結構寒いから冬らしい、それでこの詩ができた
前から「場の現象学」という本から場のことを語ってきた

田舎には一万くらいだと人間はその場を共有して生きているとなる
だから別にたいして親密でないにしろその人が5カ月も入院して不在にしていたということで空白ができた、それを感じたのは田舎だからだろう
都会だったら人が多すぎるから人はいなくなってもそんなことを感じない
まったく意識すらしないだろう

でも田舎だとそういう存在感がある、別にそれはどんな人でも変わりない
人がいるだけで存在感がある
一方でその存在感が悪い方に働くと嫌な人間の存在感も大きなものとなって消えないのである、それが目立つのである、都会だったら人が多いからそんな人も気にしないのであるただ群衆のようにマスとして流れてゆくだけである
記憶にも残らないのである

ただ場をもつというときもし農家だったらもっと存在感をもてたかもしれない
田舎だと農家の存在感が大きいからである、大地に根付いたようになるからである
ただそれは昔の農家であり今は違っている
農家のように見えても今は農家ではない、農家だ果樹とか花栽培とかはそれなりに金になるからやっていけるのかもしれない、他は本当の農家はまれになっている

都会と田舎の相違は収入とかばかりを見ている、他でも都会の華やかな面だけを見ているが実存的というか何か存在感というとき砂粒のようになっているのが都会である
ただそういうことを考慮する人はまれである
人間はただ今は金の価値観しかないからだ

田舎に住みたいというとき金とかだけから見たら誰も住みたくない
しかし何か存在感を持ちたかったら田舎がいいとなる
ただそういうことを考慮する人はほとんどいない

田舎に住んでいてもそういうことがわかるのは老人になってからなのである
老人になると一つの場をもってそこに石のように落ち着きたいとなるからである
だから原発避難者は故郷に帰りたいとなるのである
若い世代は田舎で暮らしていてもあまりそういうことを思わないのである



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冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感


冬の日の石(詩)−田舎に住む存在感

threestoneee1234.jpg

stonethree1.jpg
0ne united stone

その場に
石と石
その場を得て
乱されず動かじ
冬の日に
人は老いて
その場に安らぐ
時に一つの石の
そこより取りさられると
その不在を感じる
そのなくなりし石を意識する
またその石のもどると
石と石は
その場に
一つとなるを知る


On the place
the stone and the stone
Get the place
Undisturbed and stillness
One winter day
People are old
On the place
Deeply rest
Sometimes one stone
If taken off from there
Feel the absence
Be aware of the lost stone
When the stone returns
The and the stone
On the place
Know that you will be one  
In silence



何か知人が5カ月くらい入院して家が空家になっていた
その人は妻が10年前くらいに死んだ、だから大きな家に一人で住んでいた
庭も立派な家である
それが5か月もいないからその家を気にしていた
でも昨日をスーパーで見た、やっと帰って来たのである
そのことを昨日書いた

その続きとしてこの石の詩を書いた
自分の詩のテーマは主に石がある、昨日は何か冬らしくなかった、今日は結構寒いから冬らしい、それでこの詩ができた
前から「場の現象学」という本から場のことを語ってきた

田舎には一万くらいだと人間はその場を共有して生きているとなる
だから別にたいして親密でないにしろその人が5カ月も入院して不在にしていたということで空白ができた、それを感じたのは田舎だからだろう
都会だったら人が多すぎるから人はいなくなってもそんなことを感じない
まったく意識すらしないだろう

でも田舎だとそういう存在感がある、別にそれはどんな人でも変わりない
人がいるだけで存在感がある
一方でその存在感が悪い方に働くと嫌な人間の存在感も大きなものとなって消えないのである、それが目立つのである、都会だったら人が多いからそんな人も気にしないのであるただ群衆のようにマスとして流れてゆくだけである
記憶にも残らないのである

ただ場をもつというときもし農家だったらもっと存在感をもてたかもしれない
田舎だと農家の存在感が大きいからである、大地に根付いたようになるからである
ただそれは昔の農家であり今は違っている
農家のように見えても今は農家ではない、農家だ果樹とか花栽培とかはそれなりに金になるからやっていけるのかもしれない、他は本当の農家はまれになっている

都会と田舎の相違は収入とかばかりを見ている、他でも都会の華やかな面だけを見ているが実存的というか何か存在感というとき砂粒のようになっているのが都会である
ただそういうことを考慮する人はまれである
人間はただ今は金の価値観しかないからだ

田舎に住みたいというとき金とかだけから見たら誰も住みたくない
しかし何か存在感を持ちたかったら田舎がいいとなる
ただそういうことを考慮する人はほとんどいない

田舎に住んでいてもそういうことがわかるのは老人になってからなのである
老人になると一つの場をもってそこに石のように落ち着きたいとなるからである
だから原発避難者は故郷に帰りたいとなるのである
若い世代は田舎で暮らしていてもあまりそういうことを思わないのである



2019年11月27日

郷土史研究で失敗したこと (広域的連携が計れなかった―津波でも隣の宮城県と一体だった)


郷土史研究で失敗したこと

(広域的連携が計れなかった―津波でも隣の宮城県と一体だった)

地理的に県を見ると不自然なのである、相馬藩と伊達藩が争ったから歴史的境界として
区切られた、それは自然地理の境界ではなかった
自然地理の地勢の境界とは原始状態で定められたものだった
山があればどうしてもさえぎられるから自然境界となる
阿武隈高原はどうしても中通りとさえぎられるのである
福島県では中通りからは海が見えないのである
逆に浜通りからは吾妻山とかは見えないのである
そうして阿武隈高原で隔てられている影響が思った以上大きいのである
どうしても見えないのだか日常的に地理的一体感がもてないのである

それで南相馬市の片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたとき南相馬市からも見えるから一体感を感じたのである
今回津波で大きな被害があったところは地理的に海から見ると一体の場所だったのであるだからこそ津波を知るということで共有する地理にあった
それで宮城県では実際に津波が来るということを警告していた先生がいた
津浪を警戒しろと本も出していたが受け入れられなかった

宮城県がより津波に警戒していたのは岩手県となると三陸だと明治にも一万人とか死ぬ津波があったからである、それは百年前とかであり400年前とかではない
そういうことで警戒していた、でも慶長津波は400年前のことであり警戒していても真剣には警戒しなかったとなる
それでも小名浜で東北電力の副社長だったか10メートルの高さに原発を作ったが津波が来るとして15メートルにした結果すれすれで助かったのである
これも被害があり間一髪で助かったとなる
東北電力だから地元だから津浪に対する危機感があった
それも岩沼の方まで津波が来たという伝説を聞いていてそうしたとされる

そもそも今になると巨大津波は三陸方面に明治にあったとしてそのすぐ近くに接近している石巻などが警戒していなかったというのもなぜだったのだろうとなる
東北電力で15メートルの津波が来るということで15メートルの高台に原発を作った
そうしたら石巻でも警戒してもいいはずだったのである
海に面してあれほど民家が密集していた、日和山の前がそうだった
あれをみて通った時何か不安を感じたのはやはり一つの人間的感だったのだろう
なぜならそこは道があるだけでその前に海岸も砂浜もない、すぐに海になっていたからである
この何もないことが危険だったのである
四倉では広い砂浜がありそれが緩衝地帯になり波をゆるめてそれほどの被害にならなかったからだ
緩衝地帯として砂浜もなにもなくすぐ海に面して家が密集していたのである
ただ松原などがあったらまた松原が根こそぎ流されるから大きな被害になったのは同じである

とにかく宮城県の地形は山はあまりなく海に面している地形である
岩手県でも海に面していても山も多い、区堺がありあそこは標高が高い、そこから盛岡に向かう、海に面している地域より山の国である
それは福島県でも中通りと会津は山の国である、ただ明かに宮城県と福島県の浜通りは海を通じて地理的に一体だったのである
そこで郷土史でも宮城県との連携が必要だった
伊達藩には慶長津浪の記録が残っていた、するとすぐ隣の福島県の浜通りでも津波に関心をもつべきだった
でも宮城県と福島県は別の県として区切られるから自然地理から郷土史でも郷土学でも見なくなる、それはあくまでも人間の歴史であり人工的な境であり自然の境ではないのである
だから自然災害では今の県とか行政単位で区切ることはできない、宮城県と福島県とは別だと思考していたら自然災害には対処できないのである

浜通りと宮城県は地理的には海を通じて一体であった
だからもっと津波に関心をもつべきだったとなる
宮城県では学者でもそれなりに津波に関心をもっていたのである
だからこそ女川原発でも津波を警戒して15メートルの高さに建てたのである
他でも津波を警告する本を出した人が実際に県とかにその危険性を言っていたが受け入れられなかったのである
それで学者が若林の辺りは津波が来るから危険だと警告したら土地の値段が下がると不動産業者から怒られたとかしている
ただ学者でも津波のことを警戒していたとなる

福島県では県全体でも津波に警戒していなかった
相馬藩政期で「生波で700人溺死」という記録は今回の津波の後に発見されたのであるそれまではそれすら知っている人はいなかったのである

それはなぜなのか?

宮城県と福島県と分かれていることにも原因があった
福島県単位と宮城県単位で区切って思考するからである
今回の洪水でも阿武隈川があるとしてそれを区切って見ることはできない
川は一つのものとしてつづいているものだからである
だから自然を市町村単位とか県単位で区切ることにも問題があった
それでは自然災害に対処できないからである
自然は大きな全体だからである

とにかく宮城県は海に面した国である、海洋県だともなる、だから伊達政宗が船を作り
メキシコ回りでヨ−ロッパまで行ったというのもそのためである
海への思考が働く藩であり県だったのである
海を毎日見ていれば海の向こう側は何かとか海を渡る思考が生まれる
それだけの船を作れたことも驚きである
宣教師が来て船作りとか地理でも教えられたことでそれが契機となり太平洋を渡ったともなる、戦国時代はそういう時代でもあった
それは伊達政宗が徳川幕府と対抗するとかのためでもあったとか言われる
それは明治維新になり会津がプロイセンと同盟を計り薩摩長州と戦おうとしたことと通じている、そういうグローバルな発想は山国の会津にもあった
だから東北が必ずしも閉ざされていたとはならないのである  
いづれにしろ伊達政宗の発想はグロ−バルであり雄大であり東北人ではないというときそうなる
東北ではそういう大きな発想ができない、内に閉じこもる性格があるからだ
それで宮城県人は東北人ではないといのはそのためである、海洋的性格が養われていたのである
東北は後は山国的性格だからである

日本一の水揚げを誇る宮城のホヤ。
 しかし、福島第一原発の事故後、最大の輸出先だった韓国が輸入禁止措置を続けている。安全性には全く問題がなく、日本は禁輸措置の解除を求めてWTO(世界貿易機関)に提訴したが、今年4月、最終審でまさかの逆転敗訴。生産地には不安と失望が広がった。

 原発事故でも宮城県と福島県に別々のものではなかった
宮城県で放射能被害があった、海の汚染では共通していた、でも福島県の漁業組合は新地までであり賠償は福島県までである、特に福島県の新地までの漁業組合の補償は手厚いのである、だからそこで宮城県の漁業者は不満になっているだろう
なぜなら漁業組合でも福島県と宮城県では一方は手厚く一方はゼロに近いとなっているからだ、ただそのことでも福島県の漁業組合は責められる
内部でもなぜ漁業組合だけがこんなに補償が手厚いのかとなっていたからである
原発は福島県だけの問題ではない、その被害は広範囲に広がるから宮城県の問題でもあった
結局海でも陸地でも実際はつながっている、でも行政上分けざるを得ない
すると地理的にも分断して見てしまうのである、津波では常に宮城県の方をとかを見ていなければならなかったのである






posted by 天華 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2019年11月28日

abstract desert

abstract desert

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desert river

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a desert ruin

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desert crest

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desert mountain


風が砂漠に紋様描き遊んでいる
そこは誰も通らない
廃墟が砂に埋もれている
ただ風が砂漠を唸り吹き
紋様を描き遊んでいる
そこに人の足跡は印せない
風が消し去り砂が消し去る
そういう場所に神が住んでいる

The wind is playing around in the desert
No one can pass there
Ruins buried in sand
The wind just blows through the desert
Playing with a pattern
I can't mark human footprints there
The wind wipe out and the sand erase
God lives the place in the distance


現代文明批判ー無職であることは全人間になること (職につくことは専門家になり部品になること)


現代文明批判ー無職であることは全人間になること

(職につくことは専門家になり部品になること)

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もう歯車は嫌だ

無職というとき批判の的になるし誰も推奨できない、しかしなぜこれほど無業者の時代になっているのか?これも謎である、無業者でありえることが働かなくてもそれなりに生活できるからそうなっている
貧乏な時代だったらそんなことありえないからである
みんなあくせく働いている時のうのうとしていられないからである
それだけ今の社会には余裕があるからそうなっている

団塊の世代はみんな猛烈な企業戦士であり無職の人は極まれである、つまり何百万人も無業者が無職がいるということ自体ありえない社会だったのである
学生運動とかヒッピーとかはやったこともあったがほとんどが会社に就職して猛烈社員となり高度成長時代を生きた
それがなぜこんなに無業者とかニートとかフリーターとか非正規が増えたのか、それも数百人とかの数ではない数百万の数である、まず数百人だったら誰も問題にしないからである、そんな人いたのとなっている

ただ無職であることの効用がある、マイナス面が大きいにしても無職になる効用がある
現代社会ではまず全人間とかになりえない
とにかくまず職につくことはどんな優秀な人でも科学者でも技術者でも専門家となり部品化することだからである
専門家というとき何かそうではない、特別の人のように見えてもそうではない
全体社会の中でわずかな一部分に関して専門家になることである
それで面白いのはトインビーが言っている

王や魔術師や鍛冶屋や吟遊詩人はいづれも「専門家」である
そして鍛冶屋がびっこであったり詩人ホメロスがめくらである事実は未開社会では専門家は変則てあり「万能人」もしくは何でも屋になる資格を欠いた人間になる

王とか吟遊詩人がなぜ専門家のなのか?この辺はわかりにくい、ただ吟遊詩人は職業化したからこそ専門家になったからこそそう言っている
ただ王となると国全体を見る人だから専門家とはなりにくいと思う
市町村長となると専門家では勤まらないだろう、その全体を見る人になるからである

ただ言えることは職業につくこと自体がもう専門家になっている、なぜならそれはささいなことでも一部分を担当して仕事することになるからである
それでまず何々の職業につくこと自体が巨大な複雑なの社会の一部品化したことなのである
それで農業というというとき農民というとき百姓と言っていたのは百の生であり百の仕事をこなしていた人なのである、農業にはそれだけ広範囲な知識でも業でも必要になっていたのである、だから農民というのではない百姓だったのである

それで天才のニーチェとか上野霄里とかヘンリミラーとかアウトサイダーと言われる人はそういう専門家になることを拒否したのである
第一ニーチェを超人をある職業についている姿をイメージできない
会社員であれ公務員であれ銀行員であれ何か員とつくものに従事している姿をイメージできない、完全にアウトサイダーとして社会から逸脱しているのである
結果的に狂気になったともなる
ただイメージすると自然の中の半神半獣とか神話的な英雄とか神になってしまうのであるつまりそういう天才的な人はとても何かの員とつくようなものに適応できないのである
今ではそういう人は天才的芸術家とかになっている
それで社会の中で悲劇的に人生を終わる

ただなぜそういう無業者が無職は実際社会では何も役立たない無能とされる
そしてなぜかブライドが高い、自分は何かできる、ただ活かされないだけだとか不満をもっている、つまり無職となると職につかないから専門家になっていない
無職の世界に開けているのは自然でありまた無限の時間なのである
そこでニーチェのような超人的志向になってゆく、部品として職についていない、すると何か社会は視界から消えて広大な自然が広がることになる
そこで自然と同一化すしようとする、アイディンティティ化しようとする
まず一つの職についたらその職に追われ他はかえって見えなくなるからだ
職義をもつことは専門家になることだからである
つまり社会に超人を受け入れるものはないのである、だから最後は狂気になる宿命だともなる
それほど社会を忌避するのは全人間として生きる天才的資質のエネルギーのある人は耐えられないとういことである

それほど現代文明では人間は無数の部品となり構成されているからである
その時人間は全人間たろうとするときナチスのようなファシズムに陥ってゆく
何かそうした無数の部品が一つになるためにハイルヒットラーと叫ぶようになる
ナチスの原因は文明自体にあった、それは今でもカルト宗教団体がそうである
何かばらばらになった人間が一体感を求めてそういう組織に入る
そこで何か存在感を得ようとしてそうなる、それが現代文明の危険なのである

原発事故でも本当はこれは事故後にわかったことだが自然でもその市町村でも全体にかかわることだったのである
結果的には全体が自然でも市町村でも破壊されたからである
でもその時全体を考慮して作られていない、議論すらしていない、それで今になってこんなに広範囲に被害あることで騒いでいる
例えば宮城県のホヤが風評被害で今でも売れないというときそうである
福島県は漁業組合には原発事故前も後も手厚い補償がある
宮城県には一切なかったのである、つまりそれだけ広範囲に原発は影響あるものとして全体を見ていなかったからである
つまり全体的に見れないことが考慮できないことが致命的な結果になったのである
第一吉田所長がトップにいても復水器のことがわからなかったのである
トップでも全部知る人などいなかったのである
むしろ配管を見ていた人はその配管が古くなって危ないと見ていた
その部分をいつも見ているからそう見ていた、でもトップの人はそのことを知らないのである、それで結局破綻したのである

そして現代文明ではみんな無数の職業につき専門家でありそのことは部品化することなのである、そうなるとどんな優秀な人でも歯車にすぎないとなる
複雑巨大な文明の歯車となるだけだとなる
社畜だというときもそうである、会社の歯車として働くほかない、それ以外生きる道はないとなるからだ
それでそういう巨大な社会の歯車から逃れるのがニートとかフリーターとかになっていたでもそれはロスジェネ世代が氷河期世代がまともに就職できないということでそうなっていたのである
私の言う全人間志向とかではない、そう強いられた世代だとなる

時代をさかのぼればのぼるほど原始人でも全人間だった、一つの職業についているという感覚はなかったのである、それは家事なども仕事が実際は多様だから女性でも全人間的に仕事していた,経済でもその起源が

Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味になったものと思われます。

つまり経済という時家計が始まりだった、それがグローバル経済になったとき世界経済になったのである、そのギャップがあまりにも大きすぎるのである
家計だったら日常的な生活から推し量れるせかいである、グロ−バル経済になったらもう天文学的数字にもなりもう見えない世界になっている

人間は文明社会で不適合を起こすのは当然なのである、それでこそ人間としては正常だとなる、文明社会に抵抗なく適合ししている人は人間ではないとなる
機械かロボットなのかとなる
たからこれだけ働かない人がいるということは文明を否定している人たちなのかとなる
それは異常でもあるがまた今の文明社会に適合している人は異常だともなるのである
ただアウトサイダーというとき世界でも天才的な人でありまさに例外的な人である、だからまた今の無業者とは違ったものである
そんなアウトサイダーが増えたらそれも異常だとなってしまうからである

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現代文明は図のように全体に生きられない、結果的そうした無数の人間が部品化する、そのパーツが一体化しようとして全体主義がファシズムが必然的に生まれる、民主主義の弊害は意外と全体主義に通じている
ナチスは民主主義から生まれたからである、民主主義がナチスを生んだ、それは合法的なものだったのである
民主主義は数のなのだからその数を無数の部品を一体化するためにヒットラーとかの偶像を必然的に産む
その対極にアウトサイダーが生まれる、それが巨大化するのである
それが天才的な人であり偶像化する、これはどっちにしろ現代文明が生んだものであり怪物化したのである
一人の人間が異常に巨大化するのはナチスが巨大化したものとまた違っていても対照的に生まれたのだとは思う
ただ全体主義の方が恐ろしいものとなったのである
現代の宗教は宗教ではない、ファシズムになりやすいのだ、仏教ファシズムになったことでもわかる
宗教自体が現代文明にとりこまれて変質してそうなった、本来の宗教とは何の関係もないものとなってしまった
国家でも巨大化するとファシズムになりやすい、ポピュリズムもファシズムだからである
大衆というもの自体が統制できないものとなりファシズムになってゆく
要するに標語をみたいなものを一切に叫ぶだけなのである、それで一体感を感じるのである

つまり現代文明が生んだものであり文明そのもの災厄だったのである
それは原発でも同じである、文明の巨大災厄だったのである
文明自体がそうした災厄を必然的に産むものだったのである
だからグロ−バル経済とか資本主義でも社会主義でもそういうものも異常な格差を生んだり人間的なものでは計れないから富の極端な偏向があり自壊してゆく
必ず大恐慌とか経済破綻が生じて来る、巨大なるがゆえに誰もしることができなし操作できない
何かに常に操作されている、それで陰謀論になって終わっているのである

私が郷土史とか郷土学を追及してわかったことはこれは狭い範囲にしろそこにヒューマニズムとかアイディンティティを回復しようとする試みだった、人間性の回復とかはとてもグロ−バル経済とか東京のような都会とかではありえないのである
大組織でもありえない、それはファシズムになる、それは宗教も今は組織化したらみんなファシズムになっている
そこに本来の人間性の回復はない、巨大な文明にとりこまれてただその中で操作されるだけになる
そしてナチスのようになり偶像崇拝になる、そうしてしか全体に帰属するとか一体感をもてないからだ
でも場の現象学を追及したように人間性の回復は一つの共有の場をもってアイディンティティを造りだすことなのである
そこにこそ人間性の回復がある、だから地方に住む、田舎に住む意義はそこにある
それはグロ−バル経済とか金だけを追求する世界とは違ったもの精神的価値を追求している
グロ−バル経済とか資本主義が行き詰まっているのはそういう時代が終わって別な価値観を求めてるようになっているからである
多少金がないにしろ精神的に落ち着く場所で暮らしたいとか金だけではない物質だけではない
精神的安らぎのもてる場を価値を求めるようになったためだと思う




2019年11月29日

南相馬市右田浜から今日の朝に見えた雪の蔵王の写真


南相馬市右田浜から今日の朝に見えた雪の蔵王の写真

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これはヒヨドリなのか、海鳥ではないみたいだ
イソヒヨドリは見たけど色が鮮やかだから違っている
ただ海にいると海鳥に見える





日のさして塵もつかざれ冬の菊

誰が家や冬薔薇二輪行く人なし

冬薔薇田舎に籠りい出じかも


朝望む蔵王に雪や白鳥も鳴きつつ飛びて北風の吹く

蔵王見ゆ右田浜かな変わりたる景色や冬の朝の明けにき

冬の海朝日のさして沖に見ゆ漁の船かな鴎飛びゆく  


右田浜の端の方から蔵王が見えるようになった、今日は雪になっていた
ただ端の方に行かないと見えない、もともと蔵王はあそから見えていた
八沢浦からは見えていたが右田浜から見えなかったのは松原にさえぎられ見えなかった
そしてまるで景色が変わってしまった

風力発電の風車はまだとまっている、台風来てから一か月以上過ぎている
だからこれもあてにならないと思った
そんなに長く止まるとしたら日常生活ができなくなるからだ
ソーラーパネルも緊急の場合は役にたたないと思う

沖には小さく漁師の船が見える、何か海でも生業として船が見えないと海も活きてこないのである、ただ漁業の問題は生業だけでは成り立たないから原発に頼っていたことである漁業権も東電に売り渡していた
漁業でも農業でも林業でも自然と直結するのがグロ−バル経済などでだめにしたためである、ただ烏浜などは二回補償金をもらったのである
火力発電所が作られたときももらったし漁業関係者は原発で手厚い補償金が事故前もらっていたのである、だから相当に裕福だったとなる
だから漁業でも農業でも生業を返せというとき矛盾しているのである
その生業が成り立たなくなったから原発を誘致したからである

とにかく昨日は寒かった、今日も朝は寒い、ストーブが必要になる

  



カンボジアは中国人の植民地になった (それは十年前以上にも予測されていたー私の経験から)


カンボジアは中国人の植民地になった

(それは十年前以上にも予測されていたー私の経験から)

中国人の「ギャンブル」「詐欺」産業が集中するカンボジアのシアヌークビルに潜入したhttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191129-00016196-bunshun-int&p=1 

アンコールワットに行くなら覚悟したほうがいい。完全に「中国人の観光地」となり全然楽しめない。


これに共感したのは観光のバイクを経営していたのが中国人だった
そのバイクはホンダのものだった
5ドルとかで貸ししているとかバイクを地元でそろえられないから資本がないから中国人がバイクを貸してカンボジア人を雇っている
その時、ビジネスなど知らない自分ですらバイクを十台くらい買って貸せば経営者になるなと思った
つまり資本があればできる、でもその資本が金がカンボジア人にはない、それで中国人がバイクをそろえて貸して経営者になっている

それを見たとき私は外国旅行したのが50歳以後で遅かった
でもその時実感したのだ

中国人に支配されてしまうと・・・・・

それが現実化したのである、その後十年以上も過ぎるとめざましく中国が発展したからである、新幹線まで走っているのは信じられないとなる
その時鉄道では車両に中国人が家畜のように詰め込まれていたのである
現実に鞭で打たれていたというからまさに家畜扱いである
その時から出稼ぎ者が大量に移動していたからである

カンボジアは相当に貧しい、私自身関係していないが女性が5ドルで買えるとか言っていた、5ドルというと500円から600円だとなる
そんな値段なのである、カンボジアはそれだけ安いし後進国になる
内戦で二百万死んだとか骸骨が積み上げられた博物館もあった
そういうことで疲弊していたからである

こういう場所に次に中国人のカジノが作られる、それだけ金持ちも増えているから中国人が進出してくる、カンボジアなどは簡単に中国人に席巻されてしまう
何か奇妙なのはアンコールワットの壁画に中国人の兵士が描かれていた
するとカンボジア時代に栄えたとき中国人もここに来ていたとなる
タイとか周辺の国もここに集まり栄えたときがあった
でもカンボジアではアンコールワットだけが過去の栄光を伝えて森に埋もれてしまっていたのである

メコン川、トンレサップ川とバサック川の合流する地点に“ダイアモンド・アイランド”と呼ばれるコーピッチ地区があるが、ここは完全に“チャイナ・アイランド”。商業施設、ホテル、マンション、高級住宅など、ほぼすべてが中国資本により開発され、街中には簡体字があふれている。
 また、トンレサップ川対岸のチョロイチャンバー地区も高層ビル建設が進んでいるが、これもほとんどが中国資本が建てている。

アンコールワットは中国人が席巻しているというとき私が感じたことと同じになった
日本橋というのを日本で作ったがそれも中国橋が新しくできて目立たなくなったとかあるカンボジアには変な日本人の中高年がたむろししていた
何かそこで仕事を見つけようとしていたらしい、またそこが後進国でまだその時日本円が強かったとかあり優位にたつからそこに何しているのかわからないけどいたのである
日本では仕事ができない人がそこで何かしようとしていたのかもしれない

しかしそんな時代は終わった、そんなところで日本人は何もできない、中国人に席巻されてそこはもう中国人の街になり形見が狭くなるというのもわかる
カンボジアだったら優位になり日本人として友好もありうるが今はない
中国人の下でしか付き合えなくなったのである
日本は後進国になったとかなるとカンボジアまでいかなくても同じように中国人とかにいろいろおもてなしされる側になる
それもつくづくカルマだった、日本人が海外で威張っていた、それもできない、今度日本人が俺たちをもてなす番だとされる
それがグロ−バル社会の弱肉強食の世界なのである
経済でも技術でも負ければグロ−バル化の経済ではそうなるのである

2人が裁判で語った犯行動機や事件の詳細は次の通りだ 。中茎被告は銀行に借金があり、お金に困っていた。石田被告は借金はなかったが、「これから先何があるかわからないので、お金が欲しかった 」と話した

カンボジアのタクシー運転手殺害で、日本人の男2人を逮捕・起訴

これも信じられない、カンボジアで月収3万だというとき一応アルバイトでも20万収入があったという、だからなぜ殺すことになったのか?
殺す気でなくても暴れたので殺したとしているが強盗までするとは信じられないとなる
ただ日本の若者自体が貧乏になったというときこれもありえるのかと思った
かつての日本人ではない、貧乏な日本人であり海外で遊べる日本人でなくなっている
かえってインバウンドでは東南アジアからでも中国からでも大挙日本に観光に来て日本人がもてなす時代である

それにしてもこれほどまでに日本が落ちぶれたのか?

それを感じざるを得ない、中国は破竹の勢いであり日本は衰退の一途をたどるのかとなるただ反面中国も経済的には衰退局面に入り破局するとか言う人も多い
それは日本ともにている

いづれにしろカンボジアという国はもうカンボジアではない、首相からして中国の傀儡政権である、そして汚職にまみれている、金にまみれているという
ただこのことは日本にも波及してくる恐怖がある
アメリカ軍が撤退した時中国人が日本に戦争ではないにしろ中国人の金で様々なものが買われる、今は土地が買われている、水資源がねらわれている
アメリカと中国が対立してもアメリカ自体の力をも弱っている
だから日本がウイグル弾圧とかまたカンボジアのように中国人の植民地のようにされる恐怖がある、中国は日本から近いから大挙して中国人が移動できるからである
それは庶民レベルでできるし一部はそうなっている

だから何か不思議なのだけど日本が連帯するのは東南アジアとかインドだというときそれは巨大な中国に対抗するにはそれしかないからである
日本は中国とは戦争するべきではなかった、ただ東南アジアを占領してインドとも協力して戦ったように太平洋戦争の繰り返しなのかとなる
そういきう地理にあるともなる

とにかく旅行は介護になってから国内でもしていないし海外でもできなくなった
だから50歳でも海外旅行していなかったら自分はできなくなっていた
つまりこのように何かすべきときしないと後はできなくなる
体力もなくなるし気力もなくなったからである
だから何かすべきことはしておかないと後で後悔することになる
結局人間は何であれ失敗しても行動した方が得だとなる
なぜなら行動でも病気になったり何か介護とかなったりと不測の事が起きてできなくなるのである
海外旅行してなんとか国際性がわずかに身についたということで笑われるようなことを書かずにすんだ、今の時代海外旅行とか海外を知らないと知識人にはなれない
それでカンボジアのことを思い出したのである
posted by 天華 at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

(SBI)が福島銀行を買収。地銀の預金がまとめて外資に盗まれる。 JAバンク倒産、ゆうちょの貯金も奪われる


(SBI)が福島銀行を買収。地銀の預金がまとめて外資に盗まれる。
JAバンク倒産、ゆうちょの貯金も奪われる

オリーブの木

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福島銀行と出ているので何だろうとこのyoutubeを見た、何か金融というとわかりにくい
でもこの人はこういう所で仕事していたからわかりやすく説明している
金融の諸悪の根源は大本はアメリカの証券会社のゴールドマンサックスだとしている
その会社が日本の貯金を奪おうとはして訳のわからない証券を売っているという

それを地銀とかゆうちょとか農協中金で知らないのに買っているという
その額も大きいから倒産するようになり外資のSBIに貯金が奪われる

ゼロ金利で地銀は利子とれない、貸付先もない、やむをえずそうした外資の証券を買わされているという、地銀とかゆうちょとか農協はまるで証券のことを知らないから鴨だという
これも何なのだろうと思った、一応地銀でもゆうちょでも農協中金でもプロと見ている
でもそこは素人並みの知識しかないという
それでアメリカの外資は鴨にしているという、ゴールドマンサックスとかの証券会社にはハーバード大卒業生が入っているがその人たちが主導してそうした訳のわからない証券を作りだしているという

本当に一時的に投資信託で月ごとにとか分配金出るのを買った、それはアメリカのものだった、その仕組みは本当にわかりにくいのだ
そしてわかったことは地銀とかゆうちょとか農協とかもそのアメリカの外資のカモにされて莫大な日本の貯金が奪われているというのは驚きである
ゆうちょが民営化したのはそのためである、民営化すればアメリカの証券会社が奪いやすくなるからである

つまり私自身が福島銀行ではないが次に危ない大東銀行にすすめられて投資信託を買ったのである
その売る人が営業の人は東京の証券市場で働いていたと言っていたから何か証券のプロだと思いまかせたのである
自分自身は株の取引きとかにいちいちかかわっていられない、その時間がないからだ
だからプロだと思いまかせたのである
人間は何でもできない、家事するだけて時間が今もとられているし前は介護だったから
いろいろなことに時間をさけないのである

このyoutubeを見てわかったのは

地銀とかゆうちょとか農林中金とかの金融機関もだまされている
金を奪われて併合されて根こそぎ貯金が外資に奪われる

そうなったのはゼロ金利になったからである、金利をゼロにしても投資先がない
だから有価証券を買う、グローバル株式で投資する
それができないのにしている

それは自分自身が地銀にだまされて投資信託を買ったと同じだった

地銀自体がそうして証券会社化して大損して福島銀行はSBIに買い取られたとなっている
すると次は大東銀行などのなのか?
とにかく金融はグロ−バル経済で巨大な詐欺となっている
金融の操作で巨額の金が流れる、それは実質経済をもう反映していないのである

でもなぜそういうことに日本の金が奪われるのに政府ではそれをすすめているのか?

それはアメリカが経済でも世界でも支配していてアメリカに金を貢がねばならない

そのことはアメリカで戦争に負けた結果である、敗戦国でありそのために金を払っているこれが中国が覇権国になったら同じことが起きる、まさに中華帝国に朝貢貿易となる
今はアメリカがそれを行っているのである

地銀などでも顧客から集めた貯金を原資が保たれない元金割れする証券に投資している
それは危険だと警告している
そしてこうした金融操作をしていてまたリーマンショックのようなものが倍加して起きて来るという、
つまりグロ−バル経済とは金融とはこうしてアメリカが他国から富を奪う仕組みなのである、第一世界の富が数パーセントのアメリカの富裕者に流れていること自体がそうなのである
世界の富の収奪がこうした人によって仕組まれているのである
だから株式などは公正なものではない、素人は絶対にもうからない仕組みになっている

ただそうは言っても分散投資の手法は正しかった

株とかリートとか国債とかに分散して投資することは正しい手法だった
その分散投資を言っていたのに地銀の営業マンは守らなかった
リーマンショックの時の株が元にもどり上がったて来たのにそれをJ-リートに回したのである

それはなんのためか?

そこでJーreityに回すと営業の成績が上がるからである

ノルマを課せられているからである

顧客のことより自分自身のノルマを果たすことだ

こうして自分は投資でも損したのである、結局遺産の金は出て行くだけだっ

地銀でももうもたない、もういつ福島銀行のようにアメリカの大手の証券会社などに買収されるかもしれない、島根銀行もそうなったから地銀はもう地域の会社を育てる地域経済に貢献する役割を喪失している
金を貸す先が地域にないのである、金利もゼロとかなったら収益をあげられないのであるそこで地銀はアメリカの証券会社にだまされて大金を投資して奪われているのである
その貯金は顧客の地元の人たちのものである
それは自分自身のものでもあったのだ
だからこうして金の流れが眼に見えてくるときそうだったのかと納得する
その説明がわかりやすかったからである

政府では何もしない、かえって見逃している

なぜなら竹中平蔵とかSBIの顧問であり外資と深くかかわりもうけているから
政府でもゆうちょを民営化したのは日本の金を外資にアメリカに貢ぐためだからだともなる
日本は独立国ではない、政治的に経済的にアメリカの植民地のようになっている
それが敗戦国になった日本だからそうなった
ただでは中国はどうなるのかとなるとアメリカより悪くなる、まさに昔の朝貢国になりさらに過酷な搾取になる、それは香港であれウイグルを見てもわかる
つまり日本はそうしてアメリカと中国の狭間でまた自主独立をすれば戦争にもなる
ただ習近平がアメリカとの対立で日本におもねるとかもありアメリカでもまた日本は中国と戦うには日本が大事になる
そういう駆け引きの中に日本がまたたたされるとなる
政治でも経済でも一体であり切り離せないのである
公平な資本主義の経済などないのである、そこに不公平なものでも力でもって通るのが世界政治だとなる

いづれにしろハーバード大学とかはアメリカのエージェントを育てる場所なのかもしれない、なぜハーバード大学に入った日本人が自分の所に来たのか?
それも謎である、何かの目論見があってきたのか?
ただ何か津波とか原発事故を研究するためだけではなかったとなるのかもしれない
あの人については謎であり不明になった
ただハーバード大学の卒業生がゴールドマンサックスで働いてそんなことしているのかとなるとアメリカのエスタブリッシュメントは世界的詐欺的金融で株式で証券でもうけている、それで金持ちになっている
またグロ−バル株式市場自体が世界の経済の実体を反映していない

日本のようにその貯金が奪われるし世界的搾取の構造がある
それは超大国のアメリカだからこそできるのである
でもアメリカですら極一部の超金持ちにしか金が回らない、だからアメリカ自体がそうして貧困層が増えて不安定になり暴動でも起きて来る
そして資本主義自体が機能しなくなり崩壊してゆくのかもしれない
そういうことからまたリーマンショックのようなことがさらに倍加して大規模に起きて
グロ−バル資本主義経済が機能しなくなってくる
そうなることがやはりかえって世界のためだとなる
そして新しいシステムが経済活動が生まれてくるのかとなる

2019年11月30日

地理のテーマになる境の考察


地理のテーマになる境の考察

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 境界民族,境界線, 境界帯,  国境, 国境貿易, 国境都市, 政治的境界, 
 自然的境界, 人為的境界, 人為的荒廃境界, 障害境界, 海洋境界, 河川境界, 山脈境界, 山狭境界

自然的境界というとき山川海でさえぎられる、そこで例え同じ国でも別な意識をもつのである、それに人為的境界がある、それは例えば相馬藩と伊達藩の境は新地になるけど歴史的人為的境界であり自然的境界ではない
なぜなら平坦な土地だからである、関所でも人為的境界であり自然的境界と一致しない

ただ日本は山が多いから峠が国字となったことでもわかる
峠を越えると別世界が開けるのである、そして山に囲まれてそこは小国となる
そこが一つの国となっているのが日本なのである

白河の関は必ずしも自然境界ではない、人為的境界である
ただ山をぬけるので確かにその山を越えるとみちのくだという意識はもつ
でもそれほどの高い山でもないからそんなに境界だと感じない
ではなぜあそこがみちのくの入り口になったのか?
それはやはり自然的境界より人為的境界だった、大和王権が支配できない地域として大和朝廷に認識されていたからそうなった
それは政治的境界でもあった

境界というとき実際はいろいろある、まず国というものを意識する前に人間は自然を地理を地勢を意識させられて生活する、村でも自然村として発展する
都市だとこの成り立ちもいろいろあるが商業都市として発展するのが多い
オワシスが都市になったのはそのためである
ただ村とかなると自然村が発展して村になった
不思議なのはヨ−ロッパでは城壁内の都市とその外は別な世界である
農民は都市民ではない、異民族とかに攻められるから城壁で囲みその中で戦うのが市民なのである、農民は異民族でも攻めてきたら他国が攻めてきたら城壁内に入らなければ助からないのだ
だから中国も都市国家的側面があり城壁の内と外でぱ分かれている
都市籍がないと都市には農民は住めないのである
城壁も境であり人を分けるのである

人工的人為的境界というとき明治以降の県単位の境界は自然境界とは関係ない、人為的に上から行政の範囲として強制的に決められたのである
だから境界が不自然なのである、みちのくの入り口として白河があり関所があったから一応茨城県とは別れる地域として福島県がある
でも福島県は広いから地理的一体感をもてないのである
磐梯山とかあってもそれが福島県を象徴する山でもない、なぜなら浜通りからは全く見えないからである、ただ霊山に来ると見えるのである

浜通りからすると相馬地域だと飯館とかに行くには峠を越えなければならない
標高が高いからである、それで自転車だと難儀するのである
八木沢峠をみればわかるその高さだと越えるのにいかに障害になっているかわかる
日本にはそういうふうに山で別々に分かれて隔離されている感じの場所が多いのである

外国だと大河がありそこが境界になる、父なる川のライン川がそうである
その大河がドイツを作ったともなるからだ
とにかく大陸には長大な川がありそれが境になるのは当然だとなる、自然境界になる
平原でも川があればそれが境界になりやすい、シーザーがルビコン川を渡ったという故事はそのために生まれた、そこは越えてはならない異郷の世界へ入る川だったのである
みちのくの白河の関ともにていたのである
それは自然境界でもありそれが川になっていたのはいかにも大陸国家らしいとなる

見たまえ、地球が回転するさまを
先祖の大陸たちは遙かかなたに集い
現在と未来の大陸は地峡をはさんで南と北に
ホイットマン(草の葉)

こうなると日本がにそんな巨大な地峡などないから理解できなくなる
ホイットマンの詩はアメリカ大陸を謳っているからスケールが大きすぎて理解できなくなる、グランドキャニオンなどがまさにそうである
アメリカにはインデアンが住んでいても歴史的境界というのがない
アメリカの歴史はそれだけ短いからそうなっている   

また現代で見逃しているのが森である、中世とかまでヨ−ロッパでは広大な森があった、ドイツの黒い森は有名である
それは人も入れない森でありそこに逃れれば追っても入り込めないほどの広大な森だった、そこにイギリスのロビンフッド伝説
生れた、イギリスにも広大な森がかつてあった、そこに逃れればもう入り込めない自由の場となっていたのである

相馬藩では原発事故のあった地点、双葉とか大熊とかは磐城との境目であり森に覆われていた、そこで夜の森とは相馬藩の殿様の余の森のことだったのである、相馬藩の殿様の森だったとなる、ただ境目だから領有権を主張するためにその名がついたとなる
土地に名前をつけるのはそこが自分の土地だという証でもあるからだ

森はしたがって、見える国境というより、緑の海であった。ひとつづきの村や畑、未耕地、そして町は、森の海に囲まれた島であり、島国であった。
当時の西洋人にとっての「森」のイメージは、ちょうど、日本人にとっての「山」のイメージと同じです。山なかには山姥や、妖怪がいます。また、アジール(法喪失者の避難場所)としての機能も共通しています

いづれにしろこの境界は一つの探求するテーマである
地理のテーマである、ただこれは世界は広いから探求することは困難になる
例えばインドと分けるのがヒマラヤ山脈だとなるときそうなる
空からしかその全貌は見えない、わずかに空からその頂上を見たことがあった
これもあまりにもスケールが大きくなって理解できなくなる
日本に住んでいただけではこうして世界の地理は理解できないのである

ただ境は何か節目として記憶する場所になる、江戸時代だったらどうしても関所を通るからそのことを意識した、今は関所がないからその境が意識できない
でもやはり一連の短歌にしたように何か境は意識しやすいのである
歩いて旅したときは常にこうして境となる地点を意識させられた
坂でも峠でもそこで歩いて上ればそれが体に記憶されるからである
今はただ便利に楽に通り過ぎてゆくだけなのである

それで今は何か旅でも記憶に残らないものとなる、まず現代では旅人になるにはかえって歩いたり自転車で行くとか時間で手間暇をかけないとなれない
たいがい旅行でも保養であり旅にならない、旅人は現代ではいなくなったのである
旅人でありえないのである
結局私は暇だから時間があったからこれだけ旅できたとなる
旅するには必ずしも金はかからない、時間はかかる
自転車旅行ならテントで寝れば無料になる、温泉旅館は高いから泊まったことがない
でも日本では安宿は本当に少ない、ヨ−ロッパのようなゲストハウスやユースホステルがないのである
別にユースホステルでも老人でも普通にとまっているから安いのである

私は大学の卒業旅行で資金30万円で3週間のヨーロッパ旅行を計画し、無事実施することができました。
もちろん往復の航空券代や諸経費も全て含めて30万円です。

私もこんなものだった、ただ食べるのはハンバーグとかだけだった
日本と違いここが不便だった、レストランは日本の食堂とは違っている
何倍もする社交の場のようになっていて高いからバックパッカーは入れない
庶民の食堂はわからないし言葉の障害で入れないから困ったのである
グルメの旅などに自分は興味なかった、ただ旅できればいいと思っていたから気にしなかったのである

いづれにしろ境界というのを知るにもそもそも実際に旅しなければわかりえようがないのである
そういうテーマをもって旅すれば論文でも書ける、まず本だけ読んでいても地理はかわらないのである
そして地理の見方がいろいろある、角度をちょっと変えただけで別な風に見えるのであるそれで地理だと地図が必須になるがでもその地図通りではない
その人の旅した経験からか地図を描けばみんな違ったものになっているのだ
だから地図は主観が入ると本当に個人個人によって違ったものになるのである
ただこんなことしいるだけでたちまち時間が過ぎて人生も終わる
それが自分だったのである、旅に終わったとまでなる
それでも外国になるとまだまだ旅は未完に終わったのである、それだけ地球がとてつもなく広いということだったのである