2019年11月01日

砂とつく地名の考察 (相馬市の北飯淵はもともと宇多川の淵だったから被害が大きかった)


砂とつく地名の考察

(相馬市の北飯淵はもともと宇多川の淵だったから被害が大きかった)


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小山田の上ー小川が氾濫して砂畑になっていた



谷川氏に具体的に危険な地名と、その理由を明かしてもらおう。
「例えば、江東区には北砂、南砂という町がありますが、白砂青松(海岸の美しい景観の形容)というくらいで、地名に『砂』とつくのは海辺に近い軟弱な低地であることを示します。

 また、江東区の『大島』や『越中島』などの“島地名”も低い地域を指します。

 岩石から削られた砂は、純粋に鉱物から構成されています。そこにバクテリア、地衣類、コケ類などが定住します。次に死んだ生物の分解によって、有機物と腐植物がたまってきます。その後、水や空気などの働きによって、鉱物質と有機物の複雑な混合物ができます。これが土壌、つまり土なのです
 https://kids.gakken.co.jp/kagaku/kagaku110/science0298/
 
地球はもともと岩石から作られていた、その岩石は噴火などによって地中から溶岩となって噴出されてきた、その岩が砕けて砂になりその砂にいろいろな有機物が交じり土となった

今回の洪水では小河川がほとんど氾濫した、普通はそうした小河川には砂が見えないのである、だからその小河川があふれて砂がでてきた
どうしてここに砂があったのかとなる、砂はどこにでもある
土と見えても砂がある、なぜなら岩石が砕かれて砂になり次に生物の基になるものが交じり有機物となり土となったからである、土の基は砂であり岩だったのである

地名になるとまず砂とつく地名はいたるところにある、砂田とかなればもともと砂があった所である、河岸地帯だったらそこに必ず砂地になっている
地球には膨大な砂がある、砂畑もあり砂がいかに多いかはもともと土の基は砂であり砂がどこでもでてくる、海岸地帯だけではないのである

相馬市と小高に砂子田はゆなこだと呼んでいる

ゆな →いのー。砂。砂利。岩手県下閉伊那。[考]南島八重山で、砂をイノー、石垣島で州をユーニという。千葉県武郡で、浜の砂をイナゴ、島根県松江で、砂浜をイナハマという。それらとの関係。熊本で火山灰をヨナというのとも関係あるか。 →よな。
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2016/03/post-0235.html

ゆなーよなーよねーえなーは何か一つのものから派生した同類の言葉である

与那国島とか恵那とか米子(よなご)とか共通の地名としてある、これも何か不思議である、砂(すな)の別名なのだろうか?古い日本語では砂をゆなとかよねとかよなとか呼んでいたのか?それだけ第一砂はどこにでもあり当然それにまつわる地名は多いとなるからである、与那国(よなくに)島が砂の島だというのはわかる
でも恵那(えな)となると山国なのである、でも山国にも砂はある、川があれば砂があるしどこにでも砂はあるから砂に由来して地名もあるとなる

そして今回の相馬市の宇多川の堤防決壊で一番被害が大きかったのは北飯淵である
そこはもともと淵とあり宇多川の淵である、そこは宇多川でも細い流れから急に広々とした河川敷になっている
あの辺一帯はもともと広い川の扇状地のようになっていた
川の一部だったのである、そういう地帯が日本には多い
だから地名が原初の状態から名付けられていて飯淵となるともともと川の淵であり危険だったとなる、そういう地名は日本はいくらでもある

地理を見る時土地の高低がわかりにくい、地図を見ても土地の高低はわからない
鹿島区だと海老は高いから津浪には安全だと思っていたが被害が大きく村は消失した
右田はさらに低い場所であり烏崎から大内と小島田は低い土地である
それでソーラーパネルのあり烏崎から大内の所は水がたまり使えくなった
そんなに水が流れてたまったのかというのが不思議だったけどそこは低い土地だから水がたまったのである、広い沼のようにもなったからだ

烏崎から大内から小島田から塩崎はもともと海であり低い土地だった、それは津波で証明された、塩崎の船着はもともと本当に入江となって船着場だったからである
小島田はそうした入江に島となっていたような土地だったのである

とにかく日本は土地がないから平坦な土地が少ないから海の方へと土地を埋め立てて田んぼにしたりして住むようになった、だから危険地帯が多い
江戸とは江の入口という意味だという、もともと入江だった所に住むようになった
当然そこは入江だったのだから低い土地であり土浦とか浦和でももともと浦だった
そういう場所は津波とか洪水になると危険な場所だったのである
日本には他にも山崩れとか危険な地帯が多すぎるから常に自然災害になり苦しんできた国だったのである
posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年11月02日

天変地異がなぜつづけて起きるのか? (悪を暴き出す面はあった、地球を浄化するためなのか?)


天変地異がなぜつづけて起きるのか?

(悪を暴き出す面はあった、地球を浄化するためなのか?)


日本の「異常な長雨」は人類存亡に関わる「氷河期の予兆」か
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/171108/lif17110811140005-n3.html

 人心は荒廃し、天変地異激しく、政状は混乱の極に達している世相に対して、提言した。
 世皆、正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り 聖人は所を辞して還らず。是を以って魔来り、鬼来って災起り難来る( 立正安国論)


 
温暖化にしろ寒冷化にしろ地球自体が気候変動期に入っていることは間違えない
科学の時代だから科学的にこうしたことを説明できるとなるが科学者自体が明確に説明できないことに人間の限界がある
温暖化を言う科学者もいれば氷河期に入る前の予兆だという科学者もいる
科学者も万能ではないから気候がどうなるか解明できないのである

でもこれほど天変地異が起きるのはなぜなのか?

そこに宗教だと人心の荒廃のためだとなる、今回の津波でも原発事故でも追及して来たけど津波が人間の悪を明らかにした、洗い出したということがある
「安全神話」を作ったのは今の支配層だったからである
政治家、官僚、科学者、マスコミ、・・・・全部がそうだった、地元の人たちも金を得るとして積極的に誘致したのだからやはり共犯者だった
しかしそういうものは見えなかったのである
つまり人悉く悪に帰す状態になっていたのである

例えば船主とかが多額の補償金をもらっていたことも地元でも知らなかったのである
そういうことも暴き出されたのである
悪というものは見えない隠されているだから闇の支配者がいて世界を支配しているというのもわかるのである
金融なども複雑なグロ−バル経済になって見えない、悪は見えないのである
だからこそその見えないことをいいことに数パーセントの人達に世界の富が収奪されているとか言われるのもそのためである

科学というのも公正なものではない、御用学者がいて都合のいいように原発を擁護していたからである、もし科学者は科学に忠実であればいいがそうはならない
科学者でも科学は普通はわからないから原子力のことなどわからないからいくらでも庶民をだますことができるからである、その危険を隠すことができるからである

人間にも天使にも偽善を見破ることはできない、
つまりこの偽善こそ神のみを除く誰にも見えず、神の黙認によって天と地を横行闊歩する唯一の悪だからだーミルトン(失楽園)

この世の偽善はわからない、見えない、それは金融関係で株とかで他の証券とかでもそうなる、それは複雑すぎて見えなくなっているのだ
そこに巨大な悪が隠されている、銀行自体がそういう悪の手先だと言う人もいる
資本主義社会では銀行が金をにぎり支配するからそうなる
もちろん社会主義では独裁政権となり中国のように金を握るのである
中国のような共産主義はかえって悪が露骨に見える、だから庶民も反発していづれ革命が起きて支配層は殺されるとまでなる
資本主義はそうして富を不正に独占する者が見えないのである

だから天変地異とは何か人間の悪を暴き出すものがあった、それは原発事故のことで延々と書いてきた、今度はまた飯館村が原発で無惨な姿になり次にそのとなりの丸森町が洪水で大被害になった、それはなぜなのだろうとなる
別にこの辺は原発とも関係していなかったからである

確かなことは天変地異は人間の力を越えたものとして現れる、いくらこれだけ科学技術が進んでもそれに抗しきれないのである、そこに政治の不備があったり備えきれないからまた犠牲者が出る、それが最近は連続して起きているから何なのだろうとなる
もうこの辺では嫌になる勘弁してくれとまでなる
災害に疲れたのである、丸森はいいところだなと春に行ってそのことを書いた
それがあんな大被害になったことにショックだった 

もうボランティアも集まらないというとき東日本大震災を経験してその時ボランティアは来たが、またなのとなれば疲れてしまう
自分自身でも何かもいいがけんにしてくれ、疲れたとなる
こうして災害が起きる平和の営みができなくなる
こんなとき俳句とか短歌を作っていられるのか?
ボランティアになり泥をかぎだせとかなるからだ、それは津波の時もそうだった、ただその時は自分自身が自分の病気と介護で苦しんでいたから自分の苦しみげ精一杯でありそうした余裕がなかったのである

いづれにしろ天変地異は人間の見えない悪を暴き出すことは確かである
それは小川に砂が見えなかったがその小川から砂がでてきて田んぼを砂地にしたこととにている、日ごろ見えないものが天変地異で現れてくるのである
防災の不備も現れるし政治の不満も起きて来る

なぜオリンピックなど金を使っているのだ

もっと防災の方に力を入れろとかなる、マラソンを北海道にするとかどうかなどもうオリンピックは返上しろとなる
こういうときはどうしてもスポーツでも芸能でも芸術関係に力を入れるより今苦しい人たちを助けるべきだとなるからだ
それは必ずしもいいことではない面はある
なぜならこんなとき俳句とか短歌とかのんびり作っていられなとかなるのは異常なのである、それは正常な人間の営みができなくなっていることなのである
飢饉と同じでありもう文化的な生活ができない、ただ食べるために生きて入るだけだとなってしまうのである

ともかく正直これだけ連続して大被害になると疲れる、だから丸森でも行って楽しもうとか自然を鑑賞しようとか思っていたができない、その被害が大きすぎた、津波とにていたからだ、これも連続して起きたからこそそうなった
第一あれだけの津波や原発事故の被害がありまたそれと劣らぬ大被害があることは何なのだろうとなる、それもすぐ近くで連続して起きているのである
だからこの辺は呪われている地なのかとまで思うようになる

世が乱れたとき天変地異が起きる、江戸時代が比較的平穏だったのは戦争とかもない
かえって開国して明治以降に日露戦争があり太平洋戦争があり莫大な死者を出した
つまりグロ−バル化は経済的にいいようでその反面世界戦争にも向かう危険なものなのである、かえって軋轢が強くなり国同士が争うようになる
それが世界的になり世界戦争となる

いづれにしろこの辺は災害で疲弊した、東日本震災から津波と原発事故から8年以上すぎてやや平穏をとりもどどしてきたなと思っていたらまた大きな災害となったからだ
ただ相馬市でもそれほどではないように見える、丸森の被害が大きかったのである
それは飯館村の隣でありそれが何故なのだろうとなる
そこは私が詩にもしたように秘境の場だったからである
それが無惨なものになったことがショックになったのである

平らけき道失へる世の中を揺り改めむ天地(あめつち)の業(わざ)  望東尼

まさに揺り改めむというとき天変地異はそういう働きをする、とすると大きく改める時代を変える時だとなる
とても人間だけの力でぱ変えられない、原発だって津波がなかったらそのままでありそして壊滅的になって日本が亡んでいたかもしれない、その警告として原発事故があった、神からの戒めとしてあったともみれる
東京だってもう遷都などできないとなっているが大きな天変地異とか地震とか来れば決断できる
そうしなければもう生きていけないとまでなるからだ
人間そこまで追い詰められなければ思い切ったことはできないからである






posted by 老鶯 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

相馬市の音楽祭は災害で中止 (とちおとめが南相馬市の道の駅で演奏)


相馬市の音楽祭は災害で中止

(とちおとめが南相馬市の道の駅の駅で演奏)   

秋風にバイオリンの音のもの悲しとちおとめ歌う声の流れぬ  
秋風にもの悲しかなクラシックその余韻の心に残りぬ  

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バンド名「とちおとめ」
栃木県を中心に北関東一円で活動。
震災以降は原発被災地の浪江町、南相馬の仮設住宅を
まわりながらミニコンサートで活動中。
最近ではデイケアサービス、道の駅、公園イベント等で演奏。
フォークソングや昭和の歌、演歌を原点とする男女のデュオ
https://www.youtube.com/watch?v=RD6GJE0mzUM

写真とれなかったけどとちおとめはyoutubeで聞ける、youtube見ていた人は知っているとなる
インタ−ネットのサイトでぱ男性だけど女性と男性で歌っていた
前でCDを売っていた、演歌系統である。



秋風が吹いている、今日も何かまだ秋の日ざしではなかった
音楽でも野外だと自然の中にひびくことになる、室内だと秋風は吹いてこないからだ
だから野外の演奏は何か楽しいとなる、また生演奏は違っている
それで音楽は生演奏を聴けというのもわかる、そこに本当の音楽の醍醐味がある
ただ地方だと生演奏は聞きにくいのが問題である
今日はバイオリンの音色が何か物悲しくひびき良かった

やはり何でも自然の中で音楽を調和するとなる、それは小鳥でも自然の中で歌っているからである
私は音楽はなかなか鑑賞できないが音楽から森とか山とか川とかなにかせせらぎの音とかそうした自然をイメージする
そうなるとまさに自然の中で野外で演奏すると音楽でも一段と心にひびくものとなる
宮沢賢治の童話に自然と調和した音楽をテーマにしたものがあった
そういうものは都会で生まれにくいのである
とちおとめの音楽は何か物悲しいひびきがあった、秋にふさわしい歌だったともなる
 
ともかく相馬市で音楽祭が中止になったというとき災害で自粛することになる
こんなとき音楽祭かボランティアしてくれとなる、ボランティアが不足しているからだ
でもこの辺はもうこんなに連続して災害が起きると疲れたとなってしまう
他の人でも東日本大震災でボランティアをしてまたかとなり嫌になり来ないとなる
丸森に行くにしてももうそれを見ただけで疲れる
ただどうしてこんな被害になったのかを知ることは後のために必要だし報告することに意味はある
でもそこではくつろぐということはできない、ただ寄付くらいはできるが後は何もできないからだ

そして東日本大震災では未だに原発避難区域になったところは被害者でありお前たちはただ面白半分に来たのかとなる
でもその内部の人間がどうなっているかというとフィリンピンの女性に貢ぎ補償金を使ってなくなったとか毎日パチンコでありギャンブルしていたのである
だからこれも暗黒なのである
そういう人間がどこがかわいそうなのか?未だにそういう心情なのである
今度は相馬市でもいいから丸森でも小高の人でもボランティアに行けばいいと思う
いつまでも助けられるべきだとはならない、もちろん自治体では前から倉敷の吉備だとか他にも応援に行っていたから今回真っ先に吉備の人が相馬市に応援に来たのである

俳句や短歌や詩を作っていたが何か発表するのがためらわれた
相馬市はまあまあだけど丸森は被害が大きく暗澹としてしまう、ただ相馬市でも全体が被害があり北飯淵では床上なのだからそれなりに被害があった
ただ家自体が壊れた家は一軒もないから丸森と比べるとそれほどでもないと感じる

とにかくなぜこれほど災害がつづくのかそのためにうちのめされるとなる
どうしても暗くなってしまう、リスボンの地震では地震そのものの影響もあるがそれが精神的に打撃になり冒険する気風もなくなりポルトガルが衰退したのである
それだけ自然災害は人々の心まで変えてしまったのである
災害でも私の家が洪水で家が流されるようになってから30年ほど過ぎて第二の水害になった、それも床上浸水である、でもそれから30年以上災害はなかったのである
つまり30年くらい間隔があけばこんな気持ちにはならないだろう
こうして連続して大きな災害になると打ちのめされてしまうとなる
そしてリスボン地震のように人々の心を変えてしまうことの影響が大きいのである

2019年11月03日

南相馬市でサイクリング大会 (常磐高速のSAでは国土交通省の人と会い話する)


南相馬市でサイクリング大会

(常磐高速のSAでは国土交通省の人と会い話する)

●スポットを巡り、得点を競うサイクリングイベント!
 〜ツール・ド・ニッポン2019〜ライドハンターズ in 南相馬

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鹿島駅により去って行く

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SAにより去る別なグループ

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国土交通省の車

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ここを地図で印をつけていた


 
今日鹿島区で三人が駅がどこだと聞かれた
それで案内した、何か南相馬市でサイクリング大会があった
それはインタ−ネットに出ていた
背番号していたからである

駅がスポットになっていた、聞いたら原町区の人で三人がロードに乗っていた
一人は若い女性であり一人はニュージランドの青年だった
一人は白髪の老人だった、何か前にも原町に住んでいる人でロードにのっていたのには驚いた、63歳とかであり大倉で坂があるから良くロードで乗れると思った

常磐高速のSAでも背番号したサイクリングする人が三人見かけた、やはりSAがスポットとなっていたから寄った
とにかく原町ではロードに乗っている人が多い、老人も乗っている

そこで国土交通省の人にであった、78人集まっていた
地図を広げていた、北の入りという川に印をつけていた
ここは地元でもわからない、そもそも小さな川の名前とか知らないのである
栃窪をいくら通っていてもそこに川があったのか認識していないのも不思議である
そういえば川があったなとみる

いづれにしろ地理は地元に住んでいてもわからないことがある
だから今日来ていたのと岐阜県とか三重県とか遠いしわからていと思う
すると道案内とか地元の地理に詳しい人が必要だともなる
国土交通省の職員だからプロだから地図を見ればわかるとしても地理だけは簡単にわからない、地理はそこに住んでいると体で覚えるものだからである

今回小河川が氾濫したのは一度に大量の雨が集中したからだと言う
こんなに小河川が氾濫するのは意外だったからである

それから水無川原に人がいた、何か珍しい石がないか探す人がいた
それから鮭が上ってきていた、普通ここには鮭は上らない、水無川であり流れない時があるからだ、高い堰がありここは上れないからである
何か真野川の下流で鮭をとる簗が流されて上ってきているとか言っていた
もっと橋の上にも鮭は上りそこで死ぬのをいつも見ている
 
そして環境省の人が数人やはり真野川の水質調査をしている、その人たちはここに住んで定期的に調査している、真野川は水が大量に出たので放射性物質が泥として流れてきたのを調べているのかもしれない

とにかく国土交通省というのは興味がある、なぜなら私は旅してきたから地理とか地形に興味があるからだ、日本の国土に興味がある、ただ理系ではないからとてもそうしした場にかかわることはできない、でも地元の利がありやはり専門でなくても遠くからくればわからないから地理は教えることがあるとなる
地理だけは本当に地元ですらわからないものでありまして遠くから来たら余計にわからないのである

それでその水無川の橋で出会ったのは同級生のT君だった
同じ自転車に乗っている、私の勧めた自転車がしきりにいいというとき自分自身もこの
ヤマのYPJ-XCには感心している、だから遠出をしたくなる
これはただスタンドがないので不便だというのは同感だった
これはマウテンバイクになっているから若者向きだと最初思っていた
でも実際はこれは軽く走れるから老人向きだったのである
T君は一回手術している自転車でも遠くには行けない、でもこれは乗り安いというとき運動にはいいのである

なんか体が弱ってくるのが嫌だというのもわかる、その先どれくらい自転車でも運動できるのかとなる、ただ現代は元気な老人は元気なのである
まず老人は同じ年でも病気になったらその差が大きくなる
老後というとき金も大事だけど健康に活動できるかできないかでその差が大きいのである


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水無川

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この上は上れない


2019年11月04日

柿 馬を飼う、鮭上る、千鳥(水無川の朝)


馬を飼う、鮭上る、千鳥(水無川の朝)

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本流がまだ濁っているから水無川の方に鮭が上ってきた

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これは千鳥である

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こんな木がどこから流れてきたのだろう、これを流す力には驚く




馬を飼う昔郷士や柿なりぬ

我が里を耕す女(ひと)や朝の菊

出水に変わる流れを鮭上る

清流に卵を産みて鮭の死す

出水や流木一本跡残す 


秋の朝千鳥来たりてすみやかにとびさり消えぬ跡もなしかも


野馬追いがあるからこの辺では馬を飼っている家がそちこちにある、それがこの辺の特徴でもある、郷士というとき農業して侍だった家である
野馬追にはそういう人たちが出る、もともと農家だった家から出る
相馬市内とか原町市内とか街内からはほとんど出ないのである
城勤めではなく郷士に受け継がれてきたのが野馬追いなのである

なぜ鮭が水無川に上ってきたのか?
それはまだ台風でふった雨が流れて濁っていたからである
卵を産むとき鮭は清い川で水を求めてそこで子を産む
それで水無川は清い川だから上ってきたのである

それにしてもあのような大木がどうして流れて来たのか?
とてもあの川からこんなものが流れて来るとは思いもよらなかった
自然の力には驚く、そこは水無川でありいつも水がほとんど流れていないからである

出水(いでみず)は秋の季語であり台風のために出る水である
でも温暖化で10月末頃これほどの台風が来る
それで季節的になにかおかしいとなる
そして今年は虫の声が聞こえないのである
これも異変である、川原の草むらには虫が鳴いていた
でも川原の草叢が台風の出水で流出した、それで虫の声が聞こえないから
季節感がなくなるのが淋しいとなる

我が里に・・・というときこの里(さと)というのは日本独特の言葉だと思う
村(むら)は群れるからきているからだ
それは比との集団である、でも里の不思議はそういう村とも違うのである
国は英語でもcountryでありこの意味は田舎という意味もある
村はvilligeであり一応対応する言葉がある、でも里にはないのである、里山というのもそうである、だから里とは日本独特の生活空間の意味になる
自然と融合した空間なのである、ふるさととは里のことなのである

そこに田畑があり耕す人がいて菊が映える、そこに暮らしがあり花でも映えるのである
だから暮らしがなかったら里とはならない
それが原発事故で一時失われたし今でも避難区域では里が回復していないのである
田畑は草ぼうぼうになっているからだ、ただこの辺では荒地が多い
それは日本全体でもそうである、つまり日本の故郷(ふるさと)が里が消失しているのである、日本の原郷のようなものが失われてしまっているのである

カメラに映っていたのはチドリである、チドリの好む場所は草地ではない
砂地とか砂利とか石だらけの所である、すると今回の台風の出水で流れが変わって砂地と砂利と石ごろごろの河原になったからこういう場所を好み来たともなる
チドリはなかなか見れない鳥である、というのは海でも砂浜自体消えているからである
でもこれは河原にも来るとあるがなかなかみれない、ただ時々田んぼとかに飛んできているかもしれない、でも鳥はとらえにくい、すぐ飛び去ってしまうからである

小型チドリ類が繁殖できる場所は、ただの空き地だったり河原の中州だったり砂浜だったり、人間にとっては何の利用価値もない空き地で、他の動植物もあまり多くはない環境です。川が氾濫を繰りかえす中で中州や広い河原ができ、そして河口部には砂州ができます。そういう場所に、まず最初に移り住んでくるのがチドリの仲間たちです。
https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0609_2.htm

こういう習性がある、写真にとらえられたことはラッキーだったとなる

なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか? (国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)


なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか?

(国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)

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なぜ氷河期世代とかロスジェネ世代とか不遇な世代が生まれたのか?
これはなぜ大企業でもその世代を採用しなかったのか?
それは不景気とかコストの関係もあった、個々の企業にしてみればその時その時の経済の状態で判断する
それが自由主義社会であり資本主義社会だから自由競争社会だから企業でもっと採用しろとは言えなかった

ただそこに資本主義社会自由主義社会の欠点があったともなる
つまりその時々の情勢によってしか動かない、景気が良ければ採用するし景気が悪ければ採用しない、というよりは採用できないとなる
それは企業側の一方的判断なのである
企業というのはいくらでもある、個々の企業の判断なのである
利益が出なければ人も採用しないし給料を安くするほかないのである

資本主義の弱点は国家百年の計とかをもてないのである
企業の寿命はせいぜい20年とか30年だとかなる、技術革新が速いと十年ももたないとなればとても長期的計画をもてない、だから人を採用したくないときはしないのである
その時々に対応しているだけなのである

でも今なぜ人手不足なのか?それは一時期に人を採用しなかった、人を育てることもできなかった、結果として氷河期世代とかロスジェネ世代が生まれた
その人数も多かったから問題になった
そして今頃になって氷河期世代とかロスジェネ世代を国で応援するといってももう手遅れでありこの世代が放置されて割を食ったとなる
これだけ人手不足の時代でも正規として採用できないとなる
それは時代と言えば時代だから仕方がないとされる

つまり少子高齢化とか氷河期世代とかロスジェネ世代の問題は資本主義の欠点として現れたのかもしれない、それより現代の問題は何でも長期的展望をもって計画できないし全体を国でもみることができない
資本主義とか自由主義はその時々の熾烈な競争でありグロ−バルに争いそれに負けれは会社自体が存続できなくなるからそうなる
グロ−バル経済になると国内だけを見ているわけにはいかない
それで国家というものが弱体化して多国籍企業が国を越えたものとして力をもつことになる

でもグロ−バル経済とか資本主義とか自由主義の欠点は社会を長期的視野で展望で見れないことである
第一次産業主体になると自然を相手だから長期的にみる
第一森林でも木が育つには50年かかるとなるとすでにそのことで長期的に見ない限り維持できない、それは一代でも維持できない、だから農家では三代つづかないと仲間に入れてもらえないとういうときそうなる
その土地に根づくには農業だったら三代くらいかかるということである

もし氷河期世代とかロスジェネ世代でも国家がこれではまずいと考えて手を打てば違っていたかもしれない、
でも今国家にはそうした力をもっていない、自由主義社会だとそうなる、では共産主義国家だったら強制的にそうした不遇の世代を救うことができたのかとなるとそうもならない共産主義国家は資本主義のように古い体質の企業が残りそれが足かせとなったまま変えられないという弱点がありこれも逆にかえって全体が窮乏するとなる
現実そうなって崩壊したのである

ただ長期的展望の上に政治も経済も計画できないというときそこに問題が起きる
人間はそもそも空間軸と時間軸で何でもあるとして時間軸で長期的に観ることができないし全体として空間を俯瞰的に見ることができないのである
それで津波に関してはこの辺で400年前に700人溺死とあった記録も忘れていた
まず400年という間隔で見ることはできなくなっている
会社でもせいぜい十年くらいの先しか今ならさらに一年先すら見ないとなる
政治でも一寸先は闇だとなるのもそうである

そして現代の欲望資本主義は何か非常に短絡的になっている
目先の金だけを追っている、すぐに大金を得たいという心境にみんななっている
まずこつこつ働くということが馬鹿らしいという心境にみんななっている
だからそうして一攫千金を狙うようになる、株とかでもそうだし極端になると盗めばいいとなる、そういう心境にみんななっているのだ
長期的展望の中で生きることがないのである
刹那的快楽主義にも陥っている、それが道徳的には退廃することになる
目先の利益であり金が得られるとういことしか頭にないのである
その金になることに飛びつき消費して終わりだとなる
刹那的快楽主義となり堅実な生活が失われている

国家の政策にしても長期的、百年安心年金とか言うのもその時々の付け焼刃的なものであり適当に言っているだけなのである
国家の仕事としては防災とかなるどうしても国家百年の計なのである
本当に今は国家百年の計とかがない、国家はめまぐるしく変わる社会に適応できない
ただ国家のすべきは防災のように国家百年の計を成しうることにある
国家は千数百年とか日本だとつづいている、するとそれだけの長さがあり国が作られているのだからそういう長期的な展望をもつべきなのが国家だとなる
だから私企業の視点と国家の視点は分けるべきだとなる

国家のすべきことは何か?
それは防災だと国民の安全を計ることでありわかりやすい、これはどうしても長期的視野を展望をもって国家百年の計がないとできないからだ
氷河期世代でもロスジェネ世代の不遇もそれが少子化にもなっていた
その世代がベビーブームを生むというのも期待外れだった
その世代は一人が生活するのに精一杯で結婚できなかったからである
それも国の方で長期的に見ていればこれは将来大きな問題になると見ていればこうはならなかった、でも資本主義自由競争社会ではどうにもならない問題だったとなる
個々の企業は競争であり無駄なコストはかけたくないからである
無駄なコストをかけて長期的に政策を実行できるのは国家しかないのである

とにかく人間は人生百年時代というけどこれも長期になると見れない
そもそも人間は未来を自分の未来を見れない
まず若い時は年取ることをイメージできないのである
それでたいがい若い人は60くらい生きればいいやとかしか考えないのである
それくらいしか生きないと考えている
また老人になることがどういうことなのかイメージできないのである
それは老人になることはあまりにも遠い先だと見ているからである
まるず老人にならないようにも見ているのである
ところが青春はあっというまに過ぎ去る、そして老人になっている
玉手箱を開くと白髪の老人になっているのだ
40ですでにおっさんだとかなっている
その速さに驚くのである

人間の弱点は時間軸になると長期的に見れない、長期的展望をもって生きられない
ただその時々に懸命に対応して生きているだけだとなる
そしてみんな意外な結果として人生をふりかえり後悔して終わっているのである
個々人ならいいが全体社会になると国家百年の計をもたないと国家そのものが崩壊してゆくともなる、少子高齢化というのがそうである
国家自体がもう維持できなくなるとも言われるからだ
ただ国家が関与しにくいから手をこまねいてそうなってしまうのである
氷河期世代のでもロスジェネ問題でもそうだったのである

ただ教育とかに国家百年の計というとき何か自由が束縛される、そもそも学校が果たして国家百年の計でそのままでいいのか?
そういう疑問がある、今の学校はもう行き詰まっている、IT化がすべてではないにしろもう学校という旧弊なままの組織化は
国家百年の計にふさわしくないともなる
そこでモラルとかなんとういうと国家の強制だと見られるのもそうである
教育というときこれは教育するから伸びるのではない、かえって教育過剰になっているから才能が伸ばせないのである
自分のように会社に行かず30年間自由なことを追及できればその人の才能は伸ばせるのである
モラルでも教育しようとするとカルト教団のように強制された集団化されてかえって自由な精神は失われて奴隷化されるのである
つまり上の人の支配者のいいなりにするのが教育だともなるからこれも注意が必要なのである
posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年11月05日

テレビも新聞も消えてゆく? (狭い地域と個々人のメデアがインタ−ネット)


テレビも新聞も消えてゆく?

(狭い地域と個々人のメデアがインタ−ネット)

massmedia111.jpg

テレビと比べるメデアはなかった、独占だった

テレビを通じて世界を知るほかなかった

確かに本とか別に世界を知るものとなっていた、でもニュースとかなるとその時々起こっていることを放送するのはテレビが独占していた
ニュースは毎日見るからその解説なども診るし映像はインパクトがあるから見る
ただ映像はそれだけインパクトがあるからそれによって洗脳されてしまうのである
テレビで放送しているのは真実ではないというときそうである
一部分をきりとった映像なのである

イラク戦争で油まみれの海鳥を写していたけどそこには広い空間があったがそれは写されなかった、そこは別に油に汚染されたわけではなかった
その一羽の海鳥をクローズアップして映し出した結果世界に放送された結果が効果抜群でありそれでイラクはひどい国だと世界に放送された印象付けられたのである
なにかテレビは瞬間的に強力に印象づけられそれが頭に残るのである

それで宣伝でも番組の途中に入れると効果的になる、その映像が頭脳に残る

サブリミナル効果

とかになる
それだけ映像のメッセージは強力なのである
そのあまりにも強力なるが故に洗脳されてしまうのである

活字だとそういうことはない、活字を読むということは活字から映像をイメージする行為になる、すると相当な想像力がないと活字は読めないのである
それで活字で対話する時でもそうなる、もし映像だったら女性の顔が出てきたらその顔からまず判断するからだ、活字だったらそういうことはないのである
だから映像のインパクトは強烈なのである
それでイスラム社会ではテレビを拒否したというときそれは映像が偶像化されるからである
目に見えるものの印象は強烈であり頭にすりこまれる、するとそれが偶像化するのである神は目に見えないものであり偶像を拒否することが信仰の鉄則になっていたからである

テレビは事実ではないというとき事実であっても事実の一断片を映像で見ているのであるそれはどこが重要だとかどこを強調するかはテレビ局で決めている
それで議員の討論会でも一人だけを長く写すなという取り決めがあるのもわかる
つまりテレビ局によって編集されるからそれで誤ったものとなる
必ずテレビ局の意向が番組には入っているからだ
そうしたらそれを見ている人はテレビ局の意向によって左右されることになるからだ
それが意外と巧妙に作られているから見ている人にはわからないのである

それでこの辺で原発避難者が相馬市のトマト農家に飯館村の人を雇ってくれと言ったら断られたということを放送した
それを一瞬見た人はなぜ苦しんでいる人を断るのだとみる
でもそのトマト農家では津波の被害者の方を優先して雇ったのである
なぜならその人たちは補償金をもらっていないからである
別に飯館村の人を原発避難者を差別したわけでもなんでもないのである
公平に判断していたのである
でもNHKのその番組を見ていた人はなんで飯館村の人を困っている人を雇わないのだと見る        

その時メデアはたいがい原発避難者側について放送していたのである
でも仮設に入った人たちは原発避難者と津波被害者が隣り合わせていた人がいて互いに口もきかなかったと言っていた、一方は多額の補償金をもらっていたからである
でもそういうことを言わせなくしたのはNHKとかメデアである

それだけテレビの影響が大きいからそうなった
原発避難者は津波被害者とは別である、そこでは家族は死んでいないし家も壊れていないただ放射能被害ということでありそれはそれなりの被害でも津波の被害者の方が深刻だったのである
こうして原発避難者様となり非難することはできなくなった
現実はその補償金の暗黒があった、多額の金が入りギャンブルとなりパチンコ屋通いでありフィリンピンの女性に貢ぎ仙台にバーを開かせて金がなくなったという人も現実にいたのである

そんな人のことをマスメデアではとりあげないのである
それは地元だからそういうことが耳に入ったしそれは親しい人から聞いたから間違いないのである、そういう情報は地元でしか聞けないことがある
何でもメデアはとりあげない、自分たちの意向に沿ったものを取り上げるだけなのである
インタ−ネットで情報社会が変化したという時、インタ−ネットだとプログでもyoutubeでも何でも個々人がベースとしてその人の住んでいる狭い地域がベースになる
そういう狭い地域だと毎日暮らしているのだからマスメデアで報道しない細部を報道するようになる、それを自分は毎日している
今回の台風の洪水でもそうである、今回の洪水の問題は小河川があふれて被害が大きかったことだったのである 

それを報告したがこんな小さな川で被害にあったということが意外だったのである
それは日ごろ見ていてもとても洪水になるような川ではなかった
するとこういう小さな川も危険だったと再認識したのである
つまりマスコミは大きな川でありそうした小河川のことは報道しないのである
でもそれぞれ人はそうした狭い地域に住んでいる
そこに一番関心がある、そこが生活のベースになっていてアイディンティティの場所にもなる、だから心とはこころはここの場所のことだったのである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
(場所の現象学ーエドワード・レルフ)

最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ

地元だとどうしてもその場所への感情移入があるがマスメデアにはない、そこに住んでいないからである、そこに住んでいないということで原発事故でも東京の幹部が離れていてその場所について愛着もなにもないからそんな危険なものでも建てたのである

現代は世界のことを日々報道される、映像もきりなく隙なく写されて映像の洪水をあびている、しかしそれで世界の理解が深まったとかというとそうでもないのである
映像といってもあくまでも一部分をきりとったものだからである
その全体を体験することができないからである
ただ映像の時代だということは否定できない、それで自分自身が不思議に思うのはいくらでもある映像写真を加工して抽象画にしていることである
これもこれだけの映像が良質な映像が写真が出ているからそれをソフトで加工するような芸術が生まれたとなる、だから映像の力は言葉より強いメッセージになることは否定できない、それでそこに危険が生れる

いづれにしろマスメデアはテレビでも新聞でも消失の危機になる
地域のテレビ局でも新聞でもやはりマスコミなのである
福島県でも市町村があるとしてそれぞれその土地でも歴史でも別なものだからである
それを報道することは不可能だからである
おそらく私は歴史的には相馬藩内に住んでいても相馬市に住んでいると原町区に住んでいるとは違ったものになる
やはりそれぞれの村でも町でも市でもそこに住んでいる人がその場を知っていてそこがアイディンティティの場所になる
福島県全体がなりえないのである、国(くに)、里、村とかあるとき国だと会津とかは万葉集の時代から国(クニ)会津の国をさ遠み・・・として意識されていた
そして日本の不思議は里なのである、故郷というとき古里であり里なのである
故郷とは狭いアイディンティティの場所なのである

いづれにしろそもそも人間が理解しえないのは多様な場所に住んでいるからである
その場所はテレビに一場面写されても理解することはできないからである
だから世界中のことを映像で報道されても理解しえないのである

これからyoutubeとかとテレビ局が平行化する、それもテレビ局にとってはショックである、youtubeと同列に見られるからである
youtubeだと数人しか見ていないものもある
テレビ局だったち一千万とかの単位になる、youtubeと同列かするということはそういう恐怖になる、何千人単位とか万単位の放送になる恐怖である
とにかくテレビ局は芸能人の馬鹿番組でも多数に観られることで政治でも左右してきたのである、その構図が壊れる、テレビはただ写す箱になる
そこではかつてのようにテレビだけにかじりつく社会ではなくなっている
何か知りたいというときスマホでありパソコンでありインタ−ネットだとなる

ただテレビ局の優位はNHKなどだと優れた番組がコンテンツが作れる能力がある
そのコンテンツを売ることだとなる、貯えたコンテンツでも映像でも莫大だからである
それを売ることでしばらくせ成り立つとなる
これからコンテンツの勝負である、誰でも放送てきるとなればそうなる
今まではテレビ局でないと莫大な費用がかかるから放送できなかったからである






2019年11月06日

ネットの人物の動向 (個人を語るメデア、マス(大衆)を相手にするマスメデア)

ネットの人物の動向

(個人を語るメデア、マス(大衆)を相手にするマスメデア)

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ここは毎日読んでいた、他で毎日読むプログとかない、検索で当たったものは読む
それはただ辞書を引くように読んで利用しているだけだとなる
何かインタ−ネットのメデアは個人に徹したメデアである
マスコミはテレビでも新聞でも大衆を相手にしている、マスメデアである
そこで脚光を一番浴びているのはアナウンサーなのである
だからその出演者より常にアナウンサーに注目されているのである
まずどれだけ視聴率をあげるかを最重要課題としているから大衆にマスに語りかける手法をとる、そうなるとテレビでわかるように芸能人を採用して面白おかしくする番組作りになる、つまりマスコミは大衆と同レベルになるのである
もし放送する相手は知的レベルが高かったらそうはならないからである
その内容ではなく視聴率でその価値は決められる、宣伝するにも視聴率で決まるからである

ところがインタ−ネットは個人を基本にしたメデアなのである
個人はテレビ局をもったともなる、youtubeだとそうである
個人になると常に個人を主体にして訴える、だから何度も個人の体験であれ関心のあることを延々と語ることになる
テレビではそういうメデアではない、アナウンサーが主役のメデアなのである
だからアナウンサーの動向が気になる、目立つのである
出演者は脇役になっているのである

インタ−ネットだと放送するのは個人であり徹底して個人が主役になる
だから個人の経験とか関心を語り発言しつづけるのである
本でも何回も同じことか書きにくいけどネットだと延々と語り続けられるのである
その底辺に流れているテーマを語りつづけられる
それで私の姉はシンガポールに4年間従軍看護婦として苦しんだのでそのことを認知症になっても千回も語りつづけて死ぬ直前までも語っていたのである
それだけその印象が強烈だから忘れることができなかったのである
人間もある年になるとそうして自分自身の体験を語るのである
この人の経験は海外で底辺の女性と売春婦とかを渡り歩いていたとか特殊である
でも何かそうした底辺層への同情がある、これも自分には理解できないのである
でも一貫した主張があり読んでいたのである

それが手術することで中止になった、右よりで硬派なのに病気になったのかとなる
年齢はわからないにしろ50くらいなのか何か病気になる人が多い
都築詠一氏も69歳で病気になり死んだのはショックだった
それなりの年であるからありえることだったがそんな病気だと思わなかったのである
60以上になるとみんななんらか病気になる人が多い、自分もそうだった

●武田邦彦のyoutube

この人は一番有名だろう、この人の経験は自分のうよな三流大学の文系出て底辺でアルバイトしていた者とは全然違う
日本の一流の会社で働き日本の指導層のことを知っているからだ
直接接していいるから知っている、それでそういうことは底辺層には知りにくいから参考になる
何か今回の洪水で国土交通省の人と直接話した時、そんな上の人と接することができないと思っていたからいい経験をした
ちょっと話しただけだけどそれでも話できただけで身近になった
増子議員でも直接接したことで身近になったということがある
それで選挙の時、どぶ板選挙といって地元をまわり地元の人と直接あって票を得るという意味がわかる、それで南相馬市長選挙のとき前桜井市長は一軒一軒回って歩いたというのもそうであった、直接会うということはそれだけ票に結びつくということである
それは同等のものとして会えるということにも通じていたのである
武田邦彦氏は話するのがうまい、話術にたけていると見ていた

ただ理系で歴史に興味をもっている人は少ないだろう、でもあれだけ造詣が深いということはめずらしいと思った、その知見が広いのはグローバルに科学者として活躍したことにもよっていた、何か日本でも語る時外国のことを知らないと語れないのである
それで直接外国人と仕事で接しているから言うこと違っているのである
アメリカのことでも批判している、正義をふりかざしても実際その裏ではあくどいというのがアングロサクソン系の人たちだというのもわかる
そのことはアメリカに留学した内村鑑三もアメリカは拝金主義でありそれに習ってはいけないとして日本の良さを主張していたのとにている
外国と対比して日本の良さを見直すことも必要なのである

●キミアキ先生の起業酔話

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ここで面白いと思ったのはこの人は長崎の佐世保出身であり棚田のある所で育った
そこの棚田は上るだけで大変だと苦労だというときそうなのかと思った
棚田は美しいというけど実際はそこを上り下りしして作業するのが苦労なのである
そういうふうに経験しない人は見ないのである
その他この人は駅でバイトして酔っ払いの吐いたものとか便までかたづけることをしていた、そういうことが嫌で何とかビジネスで成功しようと努めたとなる
その背景にそういうことがあったのかとなる
それも個人の経験でありそういう経験したことが訴えるのである
机上の空論では訴えないからである

自分自身も冷凍室で働いた時がありあれは本当に危険な仕事である
必ず体を壊すことは間違えない、若い時はこうして底辺で働いていたからそのことがわかる、そしてなぜこうして底辺で働かねばならなかったのか?
それは大学出ても三流文系であり資格もなにもなかったからである
その時勉強することの大事さを知ったが遅かったとなる
そして対には30年間引きこもりとなり隠者として生活したのが自分だった
そうできたのは親に恵まれたからである、でも社会性が欠如して介護となり七転八倒して苦しんだのである

今ニートとか子供部屋おじさんとかいる、そういう人と接しやすいのが自分である
でもそれがいかに過酷なことになるのか?その未来が見えていないのである
人間はつくづく未来を知ることができない、だからのんびりしているのである
津浪でもあんな恐ろしいものが来るとしたら絶対に海岸には住んでいないからである
その未来が人間には見えないのである

インタ−ネットはマスコミとかマスメデアとは全然違ったメデアである
どうしてもその個人を基にして語る、個人の経験を基にして語る
だから若い人はまだ経験がたりないから語るものも浅薄になる
だからむしろ老人に向いている面もあるのだ、ただ操作がめんどうだということで利用していないだけなので名知る
いづれにしろ人間は必ず最後にはその人生は一冊の小説になっている
それぞれが一つのストリーを必ずもつようになり語ることになる
それがありありと見えるようになるからである
その時々の行動が何であったのか見えやすくなる、それぞれの人生が完結して見えやすくなる

ただyoutubeで20歳くらいの人が月30万稼いだとか紹介されているが問題でもある
若い時簡単に収入を得たりするとなんだこんな簡単に金がとれるのとか成功するのかとなり傲慢になる、若い時成功することは危険なのである
若い時はむしろその傲慢さが打ち砕かれることがいいのである
だから別に底辺でもそこで謙虚になるからいいとなる
ただ正直底辺のまま終わることは辛い、それが氷河期世代とかロスジェネ世代の問題なのである

ともかくメデアによって例えば本で書くことと、電子本で書くことは書き方が違ってくるということがある、youtubeとテキストだけのプログではまた違ってくる
それはメデアが違ってくるからである、メデアとは媒介するだけのものだけどその媒介するものが違ってくると表現も違ったものになるのである
それはそれを表現する方でも受け取る方でも違ってくる
何かワープロが生まれたときから表現方法が違ってきた
ワープロだとキーボードを打ちながら思考している、万年筆とか筆記具で原稿とかに書くのとは違ってきていた
それで私の場合はオワシスのワープロで親指シフトを使ったからスムーズに文章を書けるようになった、これがないとなかなかワープロにもパソコンになじめなかったのである
どうしてもテキストとか文章がやはり中心になるからキーボードでスムーズにそれが打てないとなじめないのである
そこが入口となってつまづくのである

とにかくネットだといくらでも書き続けられる、いくらでも無制限に表現できる
それが今までは違ったメデアである、だから膨大な記録がネットに貯えられるのである
図書館の不便なのはそれを調べるだけで手間なのである
南相馬市にもいい図書館はあっても介護になり家事が忙しく一二回しか行っていない
そこでは手間だからできないのである
ネットで検索して必要なものを古本だと安いからその都度買って参考にしている
そういう点でも便利なのである、こんなに本があったということに驚くのである
これまでは仙台まで行かないと専門的な本はない、仙台でも限られていたから知的探求には田舎は相当不利だったのである、これだけ本が簡単に手に入ることは田舎でも遅れることはない時代である、それは相当に恵まれたことなのである


2019年11月07日

An unknown mysterious space8(abstract painting)

An unknown mysterious space8(abstract  painting)

unknownplane11.jpg
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未だ人の踏み入れない土地がある
そこは神秘的であり太陽の光がさして
まばゆい黄金に輝いている
そこにまだ神が住んでいるかもしれない
人の踏み入ることない聖なる地
世のことはここに聞こえない
山々が連なり閉ざされている   

There is still land that people can not step on
It ’s mysterious and the sunlight
Shining golden
God may still live there
A sacred place where people cannot step into
I can't hear the world here
The mountains are closed

desertrail2.jpg


a train go in the desert

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undergroundblu4.jpg

caslejapanese5.jpg
Japanese castle



なぜこれほど抽象画ができるのか?
それはオリジナルな映像がインタ−ネットとかでも雑誌でもいくらでもでているからである
それをソフトで操作すると機械的に生産される
アレンジするとできる、ではこれが著作権違反なのか?
それはオリジナルなものとまるで違ったものになっているからわからないのである
ただ良くみればオリジナルな絵と比べればこれは違反だとする人もいるかもしれない
二次的製作にしろやはり新しい創作の分野となったと思う
それは映像の時代だからこういう芸術も生れたとなる

Why can we make such an abstract picture?
That's because the original video appears on the Internet, magazines, etc.
When it is operated with software, it is mechanically produced
Can it be arranged? Is this a copyright violation?
I do n’t know because it ’s different from the original.
If you look closely, some people may think this is a violation compared to the original picture.
I think that it was a new field of creation even if it was a secondary production.
Because it is the age of images, this kind of art was born

首里城炎上消失 (変転極まりないこの世―末世の詩)


首里城炎上消失

(変転極まりないこの世―末世の詩)

一瞬にして首里城は炎上して消失した
その宝物もなすすべくもなく消える
そのようなことがかつてある
城が燃える、そして主君は切腹して果てる
大阪城が燃える、無念に淀君は死ぬ
紅蓮の炎の中に死ぬ
津浪にのまれて一瞬にして街が村が消失する
その恐怖も生々しい
それは未だに悪夢である
ある時赤紙が来て戦地に若き女性が送られる
それは地獄に送られたのだ
従軍看護婦として地獄を生きる
戦後紙幣は紙切れになった
事故で死んだ夫の残した金が紙切れになった
でもわずかに買った土地が財産になった
このように急激に運命が襲ってくる
変転極まりない人生を経験する
津浪や台風が容赦なく襲い飲み込む
常に突然に襲い無と化してしまう
この世の財宝はかくして火に燃えて消失し
水にのまれて消える
アトランティス文明も大海に沈む
この世に永遠の都はない
つかのまの繁栄であり火に燃えて消え水にのまれる
それがこの世の変わらぬ習い
あなたの命は明日はないかもしれぬ
すでに青春は遠の昔となり白髪の老人となる
残る命を数えているだけになる
そのように激しい変遷にさらされている無情の世
台風で古木も倒れその後に荒れた河原の土手の道
風が吹き荒れ木の葉が吹き散る
もうまもなく冬だ
脳梗塞で一命をとりとめた同級生が脇にいる 
津浪で家も村もなくなった人がいる
私の家族もみんな死んだ
ただ悄然として一人故郷に残る
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
そのように人に安住はない
死がすぐにあなたをこの世から引き離す
あなた自身が火葬にされて骨となり灰となる
常に世は無常の世界
人もまた無情である、昨日の友は今日の敵
信頼に値する友はない
野獣のように金のために襲ってくる
他者は金を得るためのものでしかない
財産があれば肉親でも財産を狙う
金のために原発でもいい
そして故郷に住めなくなった
ただそこは荒地となり草ぼうぼう
人は復興もなにもない、老人だけが残されて悄然としている
親を残して子の世代は去った
戦争の業火、300百万人が死ぬ
原爆の生き地獄、その苛烈な現実にうちのめされる
この世は火宅の世、変わらぬ地獄なのだ
この世のどこにも安住の地はない
安住の地は天にしかない
この世は滅びの世であり永遠はない
束の間の夢であり悪夢でありすべて無常のなかにある
首里城を作る職人の労苦も一瞬にして消える
未だ津波の恐怖が覚めやらないのに次々に変化する世
墓場の中にしか安住はないのか?
人の縁も簡単に切れる
人は頼りにならない、ただ己のことしかない
結局ただ風に散る木の葉のように人は翻弄されるだけ
後は死があるのみ

なぜこんなに津波から原発事故以後災難の時代になったのだろうか?
それは歴史をふりえれば世の中は常にそういう無常の世だったのである
常に時代は変化している、そうして翻弄されてきたのが人間だったのである
それは家族でもそうである、それぞれが運命に翻弄されていた
姉は赤紙がきてすぐに従軍看護婦としてシンガポールに送られて4年地獄を経験した
つまりそれは突然なのである

そういうことが自然災害でもあり津浪でも原発事故でも起きた
母は東京に女中に出て夫が工場で事故死した
そこで運命が180度変わってしまったのである
人間は運命を決めるのではない、運命は自然であれ大きな制御できないものによって決められ翻弄されているだけなのである
津浪でも台風の洪水でもそうだった、いくら堤防を作っても自然の力を制御できないのである

首里城が炎上して一日で消えるというのもそうである
そういうことは別に戦国時代でなくても戦争で焼野原になったときそうなのである
この世にあるもので永遠のものはない、だから人間は火と水で滅びるというときまさにそうだった
津浪ほどそれを知らしめたものはない、それは人知を越えた余りにも空恐ろしいものだったからである
この世にはそうした予想もつかない恐ろしいことが起きることを知った
黙示録の世界が来る、まず津波とか原発事故ではそういうことを感じた
原発事故でも原爆と同じように住めなくなるのだからもう住んでいられなくなるのだから同じなのである、それは自然ではない人間によって作り出されたもので滅びるとういことである
その前で人は悄然として茫然としているだけだとなる
そしてこの辺では復興などない、ただ補償金を求めて騒ぐだけであり後は何もない
若い世代は脱出していない老人だけが取り残されたのである

何か世の終わりであり末世であり災難が連続して起きる
今度は経済が壊滅的な状態になるかも知れない、紙幣が終戦と同時に紙切れなったようにそうなるかもしれない、アメリカは裕福に見えてもその日の食べ物も得られない人は相当数いるという、そして大金持ちは助けないという
そういう社会が安定するわけがない、何か不満が爆発して社会が乱れる
自然災害だけではない、そうした社会の乱れ人間のモラルの崩壊が起きてきて
そこに大きな自然災害が連続して襲ってくくる
そういう末世なのである、だから東京オリンピックなどもうできない
停止すべきである、そんなものに浮かれているときではない
東京が壊滅するような災害が起きるかもしれないからだ
そういう危機に備えるべきだとなる、台風の被害に予算を回すべきだとなる


posted by 老鶯 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層