2019年10月21日

困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会 (ダークネスサイトの批判の試み)


困っていても「福祉に頼んでください」あとは関係しない社会

(ダークネスサイトの批判の試み) 


街に出ると、貧困に苦しんでいる「見知らぬ他人」をみかける、ホームレスを見かけることもあれば、深夜のマぐドナルドで寝ている若者も見かける、そうしたニュースに接して、あなたは見知らぬ彼らに「自分の貯金からこれを使ってください」とさしだすだろうか?おそらくそうしないはずだ、しかしそんなことしなくてもいい理由がある(鈴木傾城)    

(ダークネス(鈴木傾城)

これも一理ある、人それぞれの言い分や考えはある、だからいちいち怒ったりしてもしょうがないとなる
このサイトと武田邦彦氏のyoutubeとかを見ている
だからこの人に別に特別反感もない、何か人はそれぞれの立場で住んでいる所も違うし生い立ちも違うからそれぞれの言い分が生まれてくる

ただこういうことに反感をもつ人がいることは確かである
税金収めているから助けているし助ける必要はない、今ここに飢えているものがいる病気の人がいるとして助ける必要がない、それは福祉がすることだとなる

とにかく苦しい時今は「福祉に相談してください」で終わりなのである
私とは関係ありませんとなっているのだ
何か困った人は福祉に相談してくださいで終わりです

私自身も介護とか自分の病気とか窮地にたたされたとき全く近隣の人は見て楽しんでいるだけである、田舎では特にそういうことがかえってあるのだ
他人の苦しみは密の味とかなっているのだ
だから何か人間観が自分は自分が苦しんでから変わってしまったのである
それも自分自身がそうなるカルマを背負っていたということもある
そうして今ではあきらめている

でも自分の問題は金の問題ではない、金は別にあったからである
みんな金で困っているわけではないのである
多くは金の問題にしろそれだけではないのである
人手がいるとか何か慰めてくれとかある、自分には金があったのだからそういうことをしてもらいたいかった

しかしなぜ何もしてくれないのか?
福祉でなにもかもしてくれないのである、福祉に頼んでくださいと言うのはあなたのためには何もしたくないからそう言っているのである
またそういうのもそういう人にかかわるとめんどうになるからである
いろいろと世話するようになると負担になるからである
そして金の問題になればその数が多いのだからとても無理だとなってしまう
だから福祉に頼んでくださいとなる

たいがい人生相談しても誰か親身になって相談にのってくれる人などいないのである
それは負担になることが嫌だからである
でもこのサイトでは金のことを問題にしているけど人間は金なくても何かできることはある、またそれほど負担でなくてもできることはある
洪水の被害でもそういうボランティアは肉体労働になるから負担でできない、だから寄付をしよう、金で応援しようとかある

自分がしてもらいたかったことは金の問題ではない、金があったし金は与えていたのである
でも実際は大金を盗まれたり金を要求されるだけだった
自分の苦しみを知るものは一人もいなかったとなる
なぜなら自分の家に来た人は金に苦しんでいたから何もできなかったのである
事業に失敗して借金していたとか大金盗んだ人は年金がたりないとか何か苦しんでいた
そういう人は自分のことで精一杯なのである
だからまず金のことより相手のことを思いやるという余裕すらないのである
そういう人が何か相手のことを気遣うことはできない
自分自身のことで精一杯だからである

ただその人を思う時何か異常だとも思った、何か自分の家に来た人は異常だったと思う
全く相手のことを思いやる心がなかったということである
そういう人たちしか来なかったということは自分の家と自分自身のカルマだったともなる
でもそれ以来人間不信になったしどうせこの人と付き合っても助けられることもないと見てしまうようになった、だから人間を見る目が変わってしまったのである
それは今までそうした苦労なく何不自由なく暮らしてきた自分のカルマだったとなる
だから苦しんできて自分に常に金のことで水道とめられた電気とめられたと来る人が

あそこの道で倒れても誰も助けない

そういうのを自分自身も納得したのである、現代はそれだけ金だけを求める社会なのである
ただ不思議なのは金が欲しいことはわかる、でも事業している人が他人のために荷物一つは運ぶことを嫌がる人が事業できるのか?
だって事業は人のためになることをすることだからである
ただ社長としてふんぞりかえって威張ることではないけどその人はそういう人だったとなる、そんな人がいくら技術的に優秀でも事業ができるのかという疑問である
そんな人にいくら社長でもついてゆくだろうか?
だから人手不足になれば社員自体がやめてゆく、ブラック会社は淘汰されるのではないか?

別に事業が慈善事業ではない、利益をあげることである、でも他人のために荷物一つも持ちたくない、それは無料でもなかった、すでに私は百万単位で金を与えていたのである
その後も借金していたのをゼロにして縁を切った
だから無料でしてくれではなかったのである
でも簡単なことでもその人は他者のためにはしたくない、そんな簡単なこともできない人がどうして社長になっていられるのか?
もちろん自分は事業をしていないから会社経営のことはわからない
でもその人の人間性に大きな問題があったのではないか?
それは原発事故でも何でもそうである、その会社を運営する人間性の欠陥がありそれが事故につながる、何かそういうことは原発関係では多かったのである
モラルが欠けていたことが事故につながった原因でもあったからだ

いづれにしろ困った人は苦しんでいる人にかかわるとかえって損するということは確かである、だから人はそういう人とかかわらないかかわるのはそういう困った人たちを利用する人たちなのである
共産党でも創価でも他のカルト宗教団体でもいろいろな団体でもそうである
そういう人たちを味方にして票を増やして権力を得ようとする
数が集まれば権力になるのが民主主義だからである
そして共産党すら幹部が裕福なのである、それは今の中国を見ればわかる、幹部は王侯貴族になっているからだ、人民服きていた共産党の時代とは全く違ったものになっている
人民から富を収奪しているのが共産党だっともなっているからだ

誰か本当に困った人を苦しんでいる人を助ける人はいるのか?
それはその人たちのために税金を払っているのだから福祉がすればいいとなる
でも福祉でなんでもしてくれるのか?
「福祉に頼んでください」あとは知りませんとなる
それで本当に自分自身が苦しい時そう言われると腹正しくなる
それは私はあなたのために何もできません、それよりしたくないのです
だから福祉に頼んでくださいとなる
これも現代の資本主義なのである

でも自分の場合だけど別にそんなに負担にならないで助けていればお礼はあったのであるそれはなぜ自分がそういうことを強く思ったかというと
困っていて苦しんでいてその人から得るものはない、金にならないというけど金はあったのだからそんな負担をかけずにも何かできたことがあった
ただの励ましでも言葉でも助けることだってあった
ただそういう気持ちが全くなかったのである
それは後で大きなお礼となって金銭的に得することがあった

例えば大金持ちの人でも何かそこで多少でも助けたらお礼が大きなものとなる
ただその大金持ちでもわからないいことがある、それでたまたま何か苦しんでいたそれをちょっと助けたが後で大きな金銭としてのお礼があったとかもありうる
でもそれも最初からこの人は大金持ちだからとわかっていて助けるのはまた別である
そのとき動機はただ金が欲しいというだけになるからだ

人間は今だと毎日働いてもたいして金にならない、でも人を助けたときそこで恩を感じた人は大きな金を払うということはありうるのだ
金をもっていることがあるからだ、でも実際は大金を盗まれたというだけだったのであるまた何一つ気遣いもなくただ金が欲しいというだけあった
でもその人は他で毎日働いていた、それは苦しい労働だったのである
要するに自分が苦しんでいることに対して全く関心もなにもないし何か助けるいう気持ちもなかったのである
そういう人が他者に気づかいできない人が事業を成功できるのだろうか?

何か人を助けるというとき重い負担が課せられるから嫌だというのはわかる、自分も嫌だからである
でも簡単なことあるとき水一杯やることが助けることだったある、でもそれすら関心がない人は気づかない人はしないのである
そういう気持ちがないからしないのである

損して得をしろ!

何も介護の重労働をさせるわけではない、言葉で慰めることくらいでもいい、でもその人はそういう気遣いはゼロだったのである
そういう人たちはもう人間ではないとも思った、ただ金だけを求める社会になるとそういう人達が普通になっている
だから目の前に苦しんでいる人たちがいても何もしない、「福祉に頼んでください
それですべて終わりである、今そこで倒れても何もしないのか?
救急者も呼ばないのかともなる
だからあそこの道で倒れても誰も助けないという人の気持ちがわかったとなる

ただ助けられ人にも問題がある、そういう人たちは何か性格的にもおかしいという人がまた多いのである
貧乏しているのに金が入ったらぱっぱっと使った、そして金をねだったりギャンブルに使ったりできることをしない、何か家に来て金だけはねだる
でも何もしない、食器洗うことでも自分の家の台所仕事だったらていねいにするけどなおざりにする、何か汚くなっていたがそこをきれいにしていないとか気づいた
それは自分が食器洗っているから気づいた、自分は汚くしているけどやはり自分で食器あらってみると食べ物を扱うからきたないとまずいと思ったのである
ここでも他人の家のことだし自分とは関係ないとなり家事手伝いでもなおざりにすることがあるだろう
そういう人にまた次に頼むということがしにくくなることもある
ただ自分の場合は何もしなくてもいい、来てくれるだけでいいとか見回り役として金を払っているからいいとはなる

ともかく人間関係は複雑でありややこしいから一面だけを見てもわからないのである
ただこのサイトの人は底辺の人たちを扱っているから同情しているのかとも見ていたのである、でもそれは割り切ってこういう言い方になった
それは今の社会の一般的な見方なのである、そういう言う人が多いから特別ではないのである
福祉にたのんでください」私たちは税金を払っているから助けている、ただ個々人には対応できない、だからかかわるなとなる
でもこの人でも本当に困った立場になって「福祉に頼んでください」私には何もあなたのためにはしたくないです、そう言われるとどういう気持ちになるのだろうか?
そして逆にそういうふうに頼まれても同じよう「福祉に頼んでください」となる
あなたとは関係したくないです、あなたがどうなろうと私の責任ではないです
福祉がすることです、何かそれが現代社会なのである

おにぎり食いたいという言って餓死した人がいた
生活保護をもらっていたが打ち切られてそうなった、病気になって仕事をやめた人だった
でも昔なら隣近所でそういう人がいたら頼まれたらおにぎりくらいくれていた
現実に昔は戦後まもなくでも乞食がそうして回っていた
それで物をくれていたのである、かえって乞食がそうして豊かになっていたとか責められたこともあったのである
そういう時代と対比すると何か個々人でも情がなくなっている
言うことは福祉に頼んでくださいというだけである

でも福祉から断られたらもう行き場がなく餓死する社会だとなってしまうのである
また交渉力がない人はそうなりやすい、男性はプライドがありそうなりやすい
女性はコミ二ケーション能力がたけているし同情されやすいから生き延びるとなる
もう福祉係にしがみついても恫喝しても金をもらうとか援助を要請する人もいるからである、そして福祉係を襲う事件がある、それは切羽詰まってそうなっているのである
それは明日食べるものがないというとき人を殺して奪ったりするのとにている
だから追い詰められた人間は怖いのである
自分の所に来た人たちはそういう人達だから怖いものだったのである
ただそれも自分の場合は他者を責めるにしても自分自身のカルマだったというほかなかったのである      



  
あとがき

インターネットはもともと対話からはじまった、でも二三行の応答だった、プログとかなると長くなるから深い見方をして批判したりできる
私は二三行くらい書いてもその人のことがわからないから答えにくい
でももしプログでいいから匿名でも何かその人なりのの発言していれば答えるかとになるかもしれない、対話が成立するかもしれないただ二三行だとケチつけるだけで終わりだとなっているからだ、それで答えにくいのである
それでただこれだけ一方的に書いている、対話成立しないのである

対話が成立しているのは武田邦彦氏とここのダークネスサイトだけかもしれない、ただダークネスサイトは対話できなかった
今回は経験から批判したとなる
何かインタ−ネットとにかく応答しやすいメデアなのである、だから誰かの書いたものを引用してそこから自分なりの言説を展開しやすいのである

そしてアマゾンで本も買いやすい、千円以下の本を買っている、本は内容があるから違っている、そしてその本でも何冊でも読むと多様な見方が生まれる、何かつなぎあわせると編集するとそれが一つの論文のようになるのも不思議である
こうした知的作業がもっと前にできていたら知的な進歩があった
第一仙台まで行って本を買うこと自体が手間だったのである、仙台でも売っていない本が山ほどあったのである
それが何か関心があったときすぐに本でも読める、洪水があり川のことを知りたいと(川と国土の危機)という本を買った
今関心があるものをすぐに手に入る、また今度はプログでも利用できる、対話できる、そして編集できる
それで知的仕事ははかどるなとつくづく思った






自然災害がつづくのは天罰なのか? (なぜ福島県はこの辺は連続的に災害に合うのか?)


自然災害がつづくのは天罰なのか?

(なぜ福島県はこの辺は連続的に災害に合うのか?)

天譴論とは,「天が人間を罰するために災害を起こすという思想」(14)であり,「もともとは,災害(地震)を『王道に背いた為政者に対する天の警告』とみなす思想であった」(15)というものである.天平 6年(734年),大阪で大地震が発生し多くの犠牲者がでたが,その時の天皇である聖武天皇は,「朕が訓導の不明に由り,民多く罪に入る.責は予一人に在り,兆庶に関かるに非ず」(続日本書紀)と述べ,地震が起きた責任は自分にあるとし,大赦をしている  

全人類の蓄積された不幸と悪行が、ときとして死にゆく神に押しつけられる。神はそれらを永遠に運び去り、人々を無実で幸福なものにする、と考えられている。われわれの代わりに、われわれの痛みと悲しみを他のだれかに負わせられるという概念は、蛮人の思考にはなじみのあるものである」

なぜ王は殺されなければならなかったのか?――『 金枝篇』 J.G.フレイザー

なぜこうしてこの辺では甚大な災害に見舞われているのか?
これをいろいろ追求してきた、他の人も追求している
科学がいくら発達しても不可解になるからだ
それで天罰論が生まれてくる、自分自身もその説をとって発言してきた面があった
ただ今は科学時代だから科学的考察が不可欠なのである

でも何かその原因を科学的なことではなく政治とか社会とか人心の乱れとかがあり大きな自然災害が起きてくるとすることが昔から言われて来たし今でも言われるのはなぜなのか?
それは現実にそういうことがあるではないか?

なぜ公明党の国土交通大臣が西日本豪雨で苦しんているときカジノ法案のために時間をかけていた、その方に熱心だったというときもそうである
そうした政治の不備があり自然災害に見舞われる
その原因は政府にあり国土交通省にあるともされる、それは天皇に責任があるとか王に責任があるとされ殺されたり世界でも災難がつづくと神に犠牲を生贄を献げていた
またノアの洪水は人の心が悪くなって神が起こしたとされるから宗教的見地からみて起きたとなる
だから中国でも治水が最重要課題でありそれがうまくいかないと王朝は交代する
自然災害でも時の政府の責任にされるのである

現実そういう面は確かにある、なぜ公明党の国土交通大臣がカジノ法案を通すために力をいれているのか?それは創価の会員も特に婦人部は反対している
ギャンブルの夫がいて苦しんでいる人がそこには多いからである
だから創価では盛んに仏罰を言うけど自ら仏罰を招いているのではないかとまでなる
そもそもそうした団体が仏罰など言えるのか?
そこにいる人たちがどういう人達か見ればわかるだろう、普通の俗人のそれも何か社会的に人の世話になるような人たちが多いからである
日蓮が仏罰を言うなら予言者が言うならわかるがそういう俗世にまみれた人たちが仏罰など言えるだろうか?
むしろそこにはかえって仏罰が起きてくるのではないか?

ただそんなことを言うのは公明党が政教一致だからそういうのである
別に政教分離だったらそういうことは言わない、やはりただ政治の不備だとして責めるだけである、そこに神仏はかかわらないのである
なぜ天皇が災害の責任を負ったのか?
それは天皇は祭司であり日本の国を守るものであり宗教的なものがあったからである
祭政一致だからそうなった
政治とは政(まつりごと)どありもともと政教一致であり祭政一致だからそうなったのである

本当になぜ福島県でこの辺でこんなに災害が連続して起きているのか不可解になる
その原因は原発などを作ったからでありそれも天罰だったとなる
神がそんな危険なものを作るなということで罰を与えたのかとなる
それは神話をさかのぼればギリシャ神話のプロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な罰を与えられたことまでさかのぼる
それは神から盗むことからはじまっていたからである
何らかで人間の技術は神から盗むことに由来しているのである
太陽光発電も風力発電でも一見自然のエネルギーのようでもそうではないと武田邦彦氏が科学者が言っているのだからそうなのかと思った

だから必ず人間の技術は自然破壊に通じているのである
水力発電でもそうだと言っているからこういうことはもう人間が生きはじめてから起きていることだと思った
石器にしても必ず殺戮のために使われたしいい面と悪い面に働くことがあった
原発にしても原理は同じである、石器と同じなのである
人間の技はいい面と悪い面に働くことでぱ同じである
だから技(わざ)は災い(わざわい)に通じていたのである、日本ですらそういう意識があって言葉が生まれていたのである

なぜ自然災害がこんなに起きるのか?それもどうしてこの辺に連続的に起きるのか?
原発事故では飯館村が被害が大きかった、津波の被害があり次に丸森町があんなに洪水で被害になるとは思いもよらなかった
相馬総合病院に入院ししてた時、新地の人と松川浦の人がいて丸森の人がいた
新地の人と松川浦の人は津波の被害にあっていた、新地の人は一番被害が大きかった
そして今度は丸森の人は金山だったがそこも被害にあったのかとなる
福島県でも郡山市の方まで被害があった
それは何なのだろうとなる、飯館村は原発で大被害になり隣の丸森町が大被害になる
相馬市でも津波の被害が甚大だった、今回の宇多川でも洪水になった
六号線の東側の飯淵とかが被害が大きかった、ただその他は床下浸水でさほどの被害があるとは見えなかった

何か日本全体でもこういうときは天罰論が言われるのもわかる
何か仏教でも末世だとか言われるのはそのためである、日蓮はその末世に生まれて仏法を説いたからである、その時モンゴルも攻めてきたからである
内憂外患の時代の動乱の時代だったからである
今も日本はそれににている、内憂というとき経済が落ち込んでもう日本は貧困国家であり後進国になったというときもそうである
何か大きな改革をしないかぎりもう日本はどん底に陥ってゆく
そのためにこんなに大災害が連続して起きているのか?
それは日本の改革をうながすためなのか?

例えばオリンピックとかカジノなどに勢力を費やすな、金を使うな

原発は日本では危険だからやめろ

経済もグロ−バル経済とかは日本の文化を破壊するからほどほどにしろ

・・・・・・・・・・・・・

何かそういうことを警告として自然災害が起きているのかともなる
そして東京一極集中をやめろ、遷都をもう一度考えろとかなる
日本は古代には頻繁に遷都していたのはその場所が穢れてくるから別な土地に都を移したのである
ただ東京は余りにも巨大になりすぎてできなくなった
だから東京に大きな災害が起きない限り真剣に遷都を考えないのである

次に東京に大災害が来る!

これは天罰論ではなく科学的にもう確実なのである、ただその時はじめて日本改造が起きる、改革が起きる、そうならないかぎり遷都はできないからである
それより東京が一千万人とか集中している弊害が大きいのである
だからこそ東電では電気がたりないと福島に原発を作ったりするからである
東京から災いがもたらされることが多いからである

とにかく天罰論というとき人間は自然の事象でも科学的に合理的に解き明かせないからである、それだけ複雑すぎるからである
確かに人心の乱れからこうした自然災害も起きていることもありうる
それは個人的に自分に起きてきたことでもそうである
そのことを延々とプログで書いてきた、日本の人心は上から下から乱れきっている
ただ金を求めるだけであり後はなにもない、人が苦しんでいてもこの時チャンスだとして金を求めてくるだけである
絆のことを言われたがその絆は外との絆であり内部では絆がなくなっていたのである
原発は電気は必要でもそれが深く人間の欲と結びついてできたものだった
その後も補償金でもめてこの辺は分裂したのである

そしてなぜ福島が連続して災害にあうのか?

これも不可解なのである、なぜ郡山市まで被害があったのか?
あそこには銀行の本店がある、そこの人が投資信託をすすめられた、それは詐欺まがいものだった、それも今回の災害と関係しているのかとまでなる
何か本当に自分の一身上に起きたことはただ人は金儲けの対象でしかないことだった
事業に失敗した人は借金に苦しんでいるから弱った時借金を要求してくる
自分の困ったことなど何の関係もない、ただ金を欲しいというだけである
それはみんなそうである、人間の情すら今や社会から喪失しているのである
だからそうした人間の心が冷たくなったときノアの洪水が起きたとしている
自然災害が仏教でも神道でも神からの仏からの罰だとしている

おりしもなぜこの時期に新しき天皇即位があるのか?

洪水被害で延期された、何か天皇即位を祝う気持ちになれるのか?
つまり天皇が自然災害で日本ではその責任をとってやめたということが過去にあったからである、だからこれも時期が悪かったなとつぐづく思うし国民がとてもみんなで祝うという気分になれないのである




posted by 老鶯 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層