2019年10月24日

負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)


負担になる老人が増える(介護や病気で金がかかる)

青森に送られた親は最初は金がかからないとか預けるだけでいいと言っていた
実際は何か必ず必要なものがあり金がとられている
それを息子が払っている
その息子も非正規ではないから社長がいろいろとめんどうみる
怪我した時もいろいろと世話をやき母親のところまできた
人手不足だから人を大事にしている
建築土木の仕事である

それで今度は丸森が大被害になりそこに働きに行った、それも大変だと言っていた
自衛隊が入るのを規制している、断水もつづいている
そこもこれから復興には相当な労力が必要になる

そして一週間くらい来ないでどうしたのだろうと思ったらその人は目の手術をしてきたという、それも仙台まで行ってなのである
この辺で仙台まで行く人が多い、仙台の医者や病院は設備が良く優秀な医者がいるとして行っている、それで金がかかったと来る
必ず自分の所に金を要求してくる
なぜこうしう金を払わなければならないのかわからない

ただ考えてみると丸森に応援しなければならないと思ったがこうして現実に働く人がいるのだからその後押しとしてその母親のめんどうを金銭的にみるのかとなる
丸森では人手を必要としているからである
かなりの工事関係者がそこに集まっている

●介護で金がかかっている

●老人の病気で金がかかっている

こういうふうに今はそれぞれの家族でも必ずこの二つで負担になっているのだ
介護でも後はかからないといっていだが結構かかっている
そして母親の分までめんどう見れないとなっている
でもなぜ自分に要求されるのか?別に払わなくてもいいけど払っている
約束の倍以上払っているから苦しいとなる

何か今は本当にこうして必ず高齢化で負担を背負っているのだ
その数も増えてくる、福祉でも今はかなり制限されていてもらえないのである
全部病院でも福祉でまかなうことはできない、福祉といってもいろいろな段階がある
最低クラスだと本当に援助がないのである

ただ今回は丸森を応援しなければならないというときその人の息子は丸森で働くのだから間接的には丸森の人を応援しているとなる
だからやむをえないともなるが何かなぜ自分にだけ要求されるのかとも思う
友達だった人は糖尿病でもう4か月くらい入院しているから金銭的援助ができない
これもまた負担となっているのだ

いづれにしろ少子高齢化社会は団塊の世代が75以上になったらその負担で日本自体がつぶれるではないかとさえ思う
必ず介護になりその期間が長いから金銭的にも労力的にも負担になるのである
私の場合は介護も終わりすでに4年とかになる
なんか楽になったなとつくづく思う、余裕がでてきたから人のことを考えられる
余裕がなかったらとても他人のことを考えることも思うこともできない

でもそんなことをかまわす人間かは絶えず自分のことで頭が一杯であり俺たちは苦しいんだ、金がないんだ、・・・・と要求してくる
それは津波の被害とか原発避難者とかの時はもうそううい人たちが押し寄せてきたのである
でも自分自身が介護で病気で苦しんでいる時でもそうである
事業に失敗しし借金した人と金がないから盗むために家探ししていたとか人が苦しんでいることなど関係ないのである

ともかくなぜこんなに自分自身でもそうだけど災難がつづくなのだろうか?
相馬総合病院に入院していた人は津波被害者が新地と松川浦の人でありそして丸森の金山の人も入院していたのである
丸森と相馬市は近いから結びつくのである
今度は丸森町が大被害になったのである
そしてなんというか今度は郡山市まで被害になった
ここの地銀の営業に来ていた人は郡山市であり本店は郡山市にある
こうして何か福島県に災難がつづくのは何なのだろうとなる

今回の一番の被害は丸森町だった、宮城県だけど近いから隣という感覚の地域なのであるなぜか飯館村では原発で被害が大きかった
でもその代り補償金も多額であり立派な家を建てた人もいた
でも丸森町とか相馬市でも宇多川が氾濫して床上まで水につかったが補償金はもらえないのである、保険をかけていればもらう人もいるのが原発のように補償金はもらえないのである

もともと相馬市と丸森町も放射能の被害があったが補償金はもらっていない
それで相馬市の丸森のすぐ近くの玉野地区の酪農家が自殺したのである
何かこの辺ではそうして悲劇がつづくのはなぜなのだろうかとなる
津浪、原発事故、今度は洪水と三重苦になっているのだ
これも呪われているのか何なのか不可解だとなる

今日はgooglechromeのブラウザで文字入力ができくなった
これも直すことができず手間取った、それで時間がとられた
ウィルスではないみたいなのでほっとした
パソコンの問題は何か不具合があると原因が複雑になり直せなくなる
それは原発とも似ている、いろいろな原因が考えられるからもうわからなくなるのであるいろいろ試しても文字が入力できないのである
ただ別なブラウザ、インターネットエックプロラーは正常なのでそれほど困らないが
インタ−ネットは一旦なれて利用していると変えるのがめんどうになる

ここ一週間はこんなことで忙しく追われたが断水はとまった、それて楽になった

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天皇即位の礼の俳句と短歌(天皇は日本の文化を受け継ぐ)


天皇即位の礼の俳句と短歌(天皇は日本の文化を受け継ぐ)

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天皇の二重橋行く秋柳

秋粛と天皇行きぬ二重橋

令和の世我が年重ね秋柳

秋柳即位の礼の儀式かな

次の代即位の礼や金木犀

次の代即位の礼や秋の虹

松の間に豊の灯りや実りかな

初冠雪富士の嶺仰ぎ即位の礼


松の間に豊の灯りの節会かな大和心のここにはぐくむ

豊の秋天皇迎ふ外国の人そまねきて令和はじまる 



古い柳の木が二重橋に映えている写真
https://00m.in/p6UO1


柳の時を越えて 皇居二重橋の柳の風景
https://tegami.club/16982


皇極紀元年十一月の条に「天皇新嘗御(きこしめ)す」、応神記に「天皇豊明(とよあかり)聞し看しし日に」、大嘗祭祝詞に「皇御孫命の大嘗聞食(きこしめさ)む為故に」、続日本紀巻三十の称徳天皇の宣命に「今日は新嘗の猶良比(なほらひ)の豊の明(あかり)聞こしめす日に在り」など多くの用例があります
天皇の御所とかでもこうして古い謂れがあって名付けられていた

応神天皇というと


応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日

時代
古墳時代
摂政
神功皇后
先代
仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
次代
仁徳天皇

『日本書紀』によれば母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊(仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。『日本書紀』によると即位3年10月に「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

ともかく応神天皇の代までさかのぼる歴史が豊の灯りでもある
皇室はこうして日本の歴史を保存してきたとも言える
何か応神天皇とか神郷皇后とか仁徳天皇になるとあの巨大な古墳がある
そういう時代にさかのぼる、皇室の意義がそうした歴史と文化の継続を保つことにあったそういう歴史を偲ぶことにある、ただそうした日本の歴史とか文化が継続しにくくなっている

例えば御所があるとして二重橋があるとしてそこは徳川幕府の江戸城があったところである、その城の後に天皇が住むようになった、もともと大きな堀があってそこを渡る橋が
明治以降二重橋となった
そしてテレビで即位の礼を見ていてそれが日本文化のきらびやかな絵巻物に見えたのである
おりしも雨がやんで秋の虹がかかったというのも吉兆だったし日本的だった
そして二重橋の前に柳があった、そこを天皇(すめらぎ)が通る
皇后様も通る、何か日本的な美がそこはかとなく醸し出された儀式だった

東京にはあまりにも煩雑になり高層ビルとかで情緒とか美が消失してしまった
だから行きたくないのである、ただ煉瓦の東京駅から皇居までは何か歴史を感じるのである、でも何か江戸時代が三百年あったとしてその歴史が偲べないのが残念なのである
なんといってもやはり天皇の歴史は京都とともにあったからである
何かやはり歴史というとき百年二百年でも短いとなるのだろうか?
まだあそこに皇居があり天皇が日本の国の象徴としてあることがなじまない
でも江戸城を復活しにくいのは天皇の皇居になってしまったからである

なぜ百万都市の江戸が偲べないのか?それは明治になったときあまりにも変わりすぎた結果である、大名屋敷でもなんでも江戸にあったものが破壊されたからである
それが残念だったのである、ただ江戸城跡の皇居にだけその跡が残ったのだか天皇の住まいとなったとき何かそぐわないとも感じるのである
天皇はもともと京都に住んでいた方がにあっている
なぜなら権力の象徴ではなく日本の文化を体現するものとしてありつづけたからである

だから言葉というのはその背景となるものが失う時活きてこない、皇居には具体的に日本の文化を受け継ぐものが残されていて豊の灯りという言葉応神天皇からあったということに驚くのである
令和とは国風文化の時代になる、だから大和魂は明治以降西欧列強に対抗するために富国強兵になったのである、そして太平洋戦争でそれも尽きた
その後は大和魂ではなく本居宣長のいうように大和心の涵養の時代になるのである
ただテレビだけではその雰囲気は感じられない、ただそれでもあの二重橋とか皇居内の
要人を接待する間は日本文化の伝統を受け継いだものだったのである
つまり日本人はそうした日本の文化を大事にすべきである、それが皇居に受け継がれていたのである

ただ昭和天皇は和歌がうまかったが後の人はそうでもないしそこが残念なのである
やはり短歌とか俳句は日本の伝統であることもこうして俳句にしたとき感じた
その季節にふさわしいものとして日本の風土の変化があり養われてきたものだからである本当に秋柳があり秋の虹がありそして富士山が初冠雪になっていたのである
そういう季節と密接にかかわり演出されたので天皇は日本の文化の象徴だと見たのである

即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という

海人とは綿津見神社系統の安曇族とかのことである、それと対比して山守というとき、山彦である
この時すでに日本は国際的だったのである、なぜか任那人というのもいた、それは伽耶の国に任那が日本府があったとされるからだ、それから剣の池があった
その剣の池に行ったことがある、そこがそれだけ古いし日本書紀にも記されている

剣の池我がはるけくも訪ねきて奈良の都の秋深まりぬ

あの時は名古屋から伊勢から自転車で奈良まで行った、それも遠い日になった
西でも奈良とか京都には三回くらい行った
ただ不思議なのは南相馬市の鹿島区の真野に万葉集の歌が残っている
真野の草原の歌である、これについては延々と書いてきた
そして現実に鉄作りで有名でありその工人が現実に近江の粟田郡に行き来して鉄作りを習得していた、その時代にそんな遠くまで行ったのかとなる

今なら飛行機で大阪まで行き一時間くらいで仙台空港から行ける
新幹線でも遠いから今は仕事の人はみんな仙台空港を利用している
でもそれはつまらないともなる、私は船で名古屋まで行きそれから奈良まで自転車で行ったのである、そういう旅は思い出に残るのである
何度も言うが後で思い出に記憶に残らない旅は時間の無駄だったともなる
旅したことにもならなかったとなるからもったいなかった後で後悔するのである
 

2019年10月25日

自然は人間の力で制御できない (行く川の流れを止めることはできない、自然は常に変化している)


自然は人間の力で制御できない

(行く川の流れを止めることはできない、自然は常に変化している)

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり
(方丈記ー鴎長明)

日本の風土はこれだったのである、本の水にあらずというとき水ほど千変万化なものがないのである
だから水は制御できないものだったのである

戦後の河川事業は、自然としての河川の自由を奪い過ぎた、河川は本来ときには手足を伸ばしして氾濫したいという強い意志を持っている、放水路は洪水を無理やりに一つの河道におしこめず、洪水のエネルギーを分散させることによって川の自由を保証しているのである
遊水地も同じく河道に閉じ込める不自由から洪水の一部ただ一時的にゆっくり遊べる自由を河川に与えているのである(川と国土の危機ー高橋治)

人間が作る文明というのは常に自然に逆らうものだった、自然を利用するにしろ人工化する、津波でもそうだったけどもともと人間が住むべきでない所に家が密集しすぎたのである、伊勢湾台風で5000人死んだのも名古屋が都市化が拡大化して被害になった
今回の千曲川の氾濫でもそうだった、長野市でも千曲川沿いに家が密集したのである
そこは湿地帯とかになっていた所である
そこがリンゴの果樹園になったとき本来は千曲川の流域でありそういうものはなかった
リンゴを作ることで人が住むようになった

自然に対処する時、人間は自然を制御しようとする、川なら川の道を作りあふれないように土手を作る、そして土手を頑丈にすればいいとかまた水の流れをせき止めるダムを作ればいいとなる
ところがそれで水は制御できない、水は本当に津波をみればわかるように空恐ろしいものだったのである、そのエネルギーは想像を越えたものとして襲ってきたのである
人間は文明が発達すると自然を征服できる、制御できるという思想になる
それが結局これほど文明が発達してもできなかった
こんかいの洪水でもろくも崩れさったのである

そして治水というとき堤防とかダムに注目するが水の勢いは制御できない、とめられないという視点から水を治めるということに力を注がないのである
信玄堤そういうことではない、水の力を弱める自然に逆らわない手段をとって今でも効果がありつづけていることでもわかる
水は堤防とかダムだけでは治めきれない、自然の力がありそれを治めようとしてできない水は本当に自由なのである、どんな隙間にも入ってゆくし変幻自在なのである
だからそれを人工的に制御する思想が間違っているとなる

川でも海でもそうだったようにそれは自然であるからとても人間の力でぱ制御できないものとして対策するのがいいとなる
いくら水に対抗してもどこかに穴がありそこから自由な水は流れ込み制御できない
自然の力と大きさに負けしまうのである
何か常に人為的な人工的なものを嘲笑うかのように必ず破られて被害にあうのである

まず水を川を制御するにはとても堤防とかダムだけに頼ってはできない、ダムでも制限を越えると放流せねばならずかえってそうして被害になった
ダムだけに頼るのは危険である、ダムは万能ではないのである
そもそも脱ダムの思想が悪いわけではなかった
川をせき止めることは自然なことではない、自然に逆らうことだからである
そこになんらか自然に影響して人間に影響してくるのである

文明はもともと自然に逆らうことである、そこからして様々な問題が生まれて来た
その延長として核があり原発があった
人為的に核を操作することも自然に逆らうことであり科学者自体そんなことすべきでなかったと反省している、それはだいそれたことだったのである
それでとりかえしのつかないことになったのである
だから遺伝子操作などもどうなるかわからない危険が潜んでいるのだ
もし人間は神のように万能ならできるがそうでないから危険なのである
人間は万能でないから必ず必ず人工的なものでも事故が起きる、もし万能なら核を操作してもいいがそうでないから破滅的な事故になったのである

今回の洪水でも川だけみていてもわからない、山を見たり様々な視点が必要になるが人間は全体を見れないから常に過ちを犯すのである
専門家がいたして一部しか見れない、かえって専門家が危険なのは一部だけにこだわるからである、俯瞰して全体を見れる人はいないのである
長野市の新幹線の車両基地で車両が使えなくなって大損害を出したのもそうである
なぜ事前に地元の人とかもっと科学者とかに意見を聞かなかったのか?
それは原発の立地問題でも同じだったのである
ただ科学者が無能かというとそうではない、優秀だった、十数メートルの津波が来るから危険だと警告していたからである

車両基地はハザードマップで危険地帯であり洪水の危険がある地帯だったことでもそうである、しかしそれをJRの幹部は考慮しなかっただけなのである
ただそこがそうでも事前に避難させることは簡単だったのである
相馬市の松川浦ではあれだけの被害があったのに船にはほとんど被害がなかった
なぜなら津波が来たら沖に船を出せと言われていたからである
それはどこでも港では衆知していたのである

ただ本当に自然は人間の盲点をついてくると思った、自然に人間は完全に対処などできないのである、自然は全体であり人間を越えたものだからである
そこに人間側のいろいろな問題があり対処できないのである
そこには科学的技術だけではない、理系だけではない、人間側の経済問題とかコストとか金がかかわり歪められるのである、だから社会問題として災害があるというのもわかる
理系と文系とか越えたものとして自然災害があり対処しなければならなくなっていたのである

自然は常に変化して本の水ではない、本の川でもない、本の海でもない、本の山でもない変化しないよう見えても常に生き物だから活動して変化しているのである
百年単位でもそうだし千年単位万年単位で億年単位で人間は変わるのである
人間はいくら百年生きていてもじかに経験することは短いのである
そして何か30年くらいすぎる忘れるのである
30年前くらいにに私の家で床上浸水があった、その30年前以上でもその時は私の家は街で一番低い所にあり家が流されるほどの被害があった
でもそういうことが忘れてしまう、だから災害は忘れたころにやってくるというのが名言になっているのである

とにかく日本人の思想というか感覚はこうして絶えまなく自然災害があり被害があることから起きてきたのだなとつくづく思った、これほど自然災害にいためつけられる国はポかにないと思った、家が常に流されたり土砂崩れで壊されたり地震で壊されたり津波で流されてなくなる国だったのである
それで一番恐怖だったのは津波だったのである、一軒の家ではない、村自体が消失してしまったからである、だから空恐ろしいものだった
その後も洪水でこんなに被害があった、福島県は呪われているのかとも思う
ただ不思議なのは会津の方に被害がないのである
中通りと浜通りは津波と原発と洪水の三重苦になっている、これもどうしてなのだろうとなる、何かカルマがなるのか?ただの自然現象なのか?
何かそれだけではないものを感じてしまう、それはあまりに自然災害でも人間側に責任があるのかとも見るからである

水の流れは絶えずしていというとき水は流動してとまらないものである、一時的ダムに貯めたとしてもそこにいつまでも収まっていいない、必ず水は自由をもとめてあふれ出してくるのである、溜池でもあふれて被害があったからである
水をためることはこれも自然ではない、自然に逆らう行為だからである
つまり水は自由に流れさせて治めるのがいいというのもそのためである
実際に溜池を巨大化したのかダムだからである
ただ被害となれば溜池の方が少ないのである、水の量が少ないからである
ダムは大きいからいいようでも限界を越えて放流する時、被害があったように危険になるだから水の流れをそもそもとめることができないのである
そして水は本の水ではないのである、川も本の川ではない、自然は長い年月で見れば常に変化しているのである、自然自体が変化の故に今の姿がありまた変わるものとしてある
結局この世に固定しているものはない、動かない山でも岩でも変化する
地震があり津浪があり岩でも流されるし山でも噴火して形を変えるし変わらないものがないとなる、それが日本では極端なものとして現れる風土だったのである 

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ここがわかりやすい、反論があるにしても実際に知事をしていたから語られるのである
何かこの人は小説家だから科学技術とか土木事業とかにかかわる
知事とかまた市長とか町長でも全体を見る人なのである
だから専門家とも違う、全体を見て指揮する人なのである、だからそういう地位につくことは責任もあるし
何かビジョンをもつとかにもなる、だから知事とか市町村長でも具体的に地域に実行力がある
だからここでも全体を見る作業のである、それが知事の仕事だったのである
それでこれだけ説明できるのである、ここに反論があってもやはりこうして独自で十分に言いたいことが言えるのがインタ−ネットだからいいのである、理解がマスコミに出るときより深まるのである

posted by 老鶯 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市真野川流域に避難指示! (自分の家に水が流れ込んできた-真野川はまだ安全)




南相馬市真野川流域に避難指示!

(自分の家に水が流れ込んできた-真野川はまだ安全)

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南相馬市でも広い、川もいくつもある、せめて新田川とか真野川とか大きな川の状態を知らせるべき
地点で地点で避難するかどかは違ってくる
夜は避難しにくいから大きな範囲で避難指示を出されると困る
新田川は決壊箇所があるから真野川より危険なことは確かである

南相馬市の高の倉ダムが放流開始 流域の周辺自治体からの情報に注意

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新田川に高の倉ダムから水無川へ流れる

その水が西殿の越水した新田川の堤防の所に流れる
これは危険かもしれない
まだ修復されていないからだ
決壊した堤防もあったからだ

福島 南相馬の新田川が氾濫危険水位に

福島県と福島地方気象台によりますと、南相馬市を流れる新田川は、午後8時ごろ、洪水のおそれがある「氾濫危険水位」に達しました。

県と気象台は南相馬市の流域では、堤防が決壊して氾濫したり、浸水するおそれがあるとして、午後8時20分に「氾濫危険情報」を出して適切な防災行動をとるよう呼びかけています。





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消防車が真野川流域に避難指示がでたと回っている
自分の家の玄関から水が入り込んできて床下浸水になった
ここは街で一番低いから水が集まる

ただ真野川が水嵩がましたとは思えない
消防車もその危険は言っていない
ただ暗いから水は見にくいと思った

水につかって歩いた、水が堀からかあふれて自分の家に流れ込んでいる
ただ雨は小降りになっている
だから真野川は決壊とか越水しない限り床上浸水にはならない

でもなぜここで避難指示を出したのか?

避難勧告ならわかるが指示となれば強制的に避難しなければなくなる
ただ消防車では二階に避難して安全を計ってくださいとは言っている
前は近くの土手が越水して床上浸水になった、だか真野川が越水したりしなければ
床上浸水にはならない、だから台風19号で決壊した所は危険になっている

雨は小降りになっているから床下浸水で終わるだろう
真野川は越水していないしこの辺では崩れてもいないから安心はしている
ただ夜は様子がわからないから危険だと思った
避難する途中で危険な目にあう、だから夜は簡単に避難できないのである

玄関から入った水はひいた

一時的なものだった、台風19でも水は入ってきた
でも今回と同じだった

ここは被害はないだろう

22時51分アップ


posted by 老鶯 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年10月26日

常磐線は午前中は山下ー原ノ町間運休ー東北線も一部運休 (線路工事のユニオンの列車来る)



常磐線は午前中は山下ー原ノ町間運休ー東北線も一部運休

(線路工事のユニオンの列車来る)


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大型保線機械による線路整備工事乗り心地の良い線路状態にするために、
夜間に終電から始発までの限られた時間で、大型保線機械により、線路の不陸をミリ単位で修繕しています。

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山下ー原ノ町間は運休、他にも東北線でも運休とか遅れとかある
そして引き込み線に来ていたのは線路工事用のユニオン建設の列車である
こればなかなか見れないだろう

何か常磐線が来年双葉とか大熊とか富岡とかが不通になっているのが開通するので
その工事のために来ているのだろう
まずこういうものはなかなか来ないからである
それでまだある引き込み線が使える、必要だったとなる

駅前の花壇は美しくしてある、これはなかなかいい
ただ案内板のところは荒れている
花壇の手入れも手間になるのである
とにかく台風が去った、一騒ぎだった
最近は駅の方で何かすることがない、ときどき外から来た人と話していたがそれもしていない、でも何か変化があるとき報告する

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新田川の越水、また一部決壊の場所 (支流が交わる場所の危険)



新田川の越水、また一部決壊の場所

(支流が交わる場所の危険)

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台風19号で西殿に水があふれる

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小川橋より水無川を見る



小島田から六号線の塩崎方面

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小さな川でも水があふれる 鹿島区で低い場だから水集まり安い


西殿で新田川と水無川が交わる場所の所の堤防が連続して三か所くらい越水して土手が削られていた
あそこが今回一番危険だった、この写真は台風19号のものであり台風21号とは違っている
でもこの水無川の上流が高の倉ダムでありそれが昨日は放流したのである
それで避難指示がでた、高の倉ダムは小さなダムでありあふれやすい

相馬市の宇多川の上流の松が房ダムも小さいから満水になりやすい
そういうダムは大雨になると放流するからそれで被害にあったところがある
ダムは必ずしも治水にいいともならないのである

今回わかったことは西殿の水無川と新田川の交わるところが危険でありその土手を頑丈にする必要が迫られた、ここの土手は相当に頑丈にしないと危険である
何か今回は小さな細い川でも支流でも危険なことがわかった
小川町とあり小川橋とある水無川でも土手すれすれに水が流れた
あれもあふれたら家が密集している街内になるから危険だった

ただ真野川は今回はそれほど増水していないのに避難指示になったのは過剰防衛になった避難を警告するにしても広い範囲だと対処できない
今回は新田川と水無川が危険だった
だから高の倉ダムを放流するというとき周辺では避難すべきだとなったが真野川は避難指示を出すような状態ではなかったのである

いづれにしろダムだけで洪水は防げない、かえって大雨ですぐ満水になり放流するとなるとかえって危険にもなる
日本はつくづく水害の国だった、津波でもそうだし洪水もそうだし海に囲まれているし
水が山から急流となって土砂を運んだり山崩れが必ずある風土であり地形だったのである

posted by 老鶯 at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年10月27日

悪い病気でも死なない人の謎 (社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)



悪い病気でも死なない人の謎

(社会的役割があることの大事ー何もしないと認知症になる)


医療が進歩しているから今やいろんな病気でも簡単には死なないのだろう
その人は病気と聞いてから5年以上それより長く普通に働いている
そして街に自転車屋が一軒しかないからもしそこがなくなると不便になる
それで古くなった自転車を無料でひきとってもらった
それは高価だったが使えなくてなんにもならなかった自転車だった

ただそれなりに商売できるからつづけいるのだろう
あまりに収入が低くかったらできない
その人は話ができる、ただ自転車の技術屋ではないのである
良く職人気質とかいうときただ物つくり一筋に励んでそれを売るということでは商売では愛想が悪いという人がいる
そこが一人で経営していることのむずかしさである
大工さんでも本当に話がうまいというか商売に向いている人がいた
その人は自ら注文をとる一人親方だったのである
そういう人はいるにしてもみんながそうはならない
自転車屋はただ自転車だけを見ていては商売にならない、客との交渉とかあるからだ

その店は時々休むにしてもなぜそんなに長くつづくのか?
それはその仕事をすることに役割がある、その仕事をする人がいなと困る
町に一つしかないとそれは貴重になる
隣市に行くと不便なにるからだ、するとそういう気持ちがその仕事をしている人に反映するのかもしれない、それで病気でも仕事が続けられるとなっているのか?
休む時は点滴しているというから結構病状はいいとはいえないのである

ここは謎ではあるが認知症の場合は確実にあてはまる
認知症も謎だけどどうしてなるのか?それを前にも書いたけど役割喪失であり仕事がなくなることなのである
一人は家事を94歳までしていた、働き詰めだったし趣味もなにもない
でも94歳まで家事の仕事をしていたのである
一人は役所を定年退職してなにもしなくなった、家事すらしない、用意されるからしない結果的に認知症になった

仕事がない、役割がないは認知症になる確率が高い

これは原因はわからないにしてもその確率が高くなる
仕事がない、役割がないということは人間にとって相当に深刻なのである
何もしなくてもいいのだから楽でいいのではないかとなるがそうではない
それは人間にとって深刻な問題を引き起こすのである
それがボケになり認知症になることに通じていたからである

たから嫁にばあちゃんは何もしなくていいですよ、テレビでも見ていてくださいと言われる老人がぼけるというのがそうである
つまり家でも家事をすることがないからである、でももし料理が上手なら料理を嫁に教えたりしていたらそういうことはない、でもそれはみんなができることではない
何故か家事をしてみると料理でもこまかいのである、いろいろ種類をそろえねばならないから手間だなとりほとんど買っているだけである
人間はいろいろなことを一人ではできないのである

だから人生百年時代の大きな問題は金もある、これも深刻だけど会社を退職したりするとそこで役割を失う、仕事を失うことが深刻なのである
そして会社を退職すると「ばあちゃんはテレビでも見ていてくださ」と男でもされるのである、ボランティアにしてもそれを受け入れる場所はない、地域でもない
すると仕事がない役割がない、生きがいがないとなることが深刻なのである
高齢化社会はそういう人が社会にあふれる時代だともなる
高齢者の役割は何か?病気になり病院に行くことであり介護されるだけだとなる

しかしそれは社会的費用が膨大にかかる、労力もかかるのである
認知症患者が800万人になるというとき空恐ろしいものとなる
社会を認知症の患者が徘徊して彷徨うとなると悪夢だとなる
人生百年時代になると会社人生だけではなんライフワークとかをもつ必要がある
雑学でもいい何か専門をもち認められるように努力することが必要になる
そうしないと会社を退職した時点で仕事もなく、役割もなく、生きがいもないとなり
認知症になりやすいから怖いのである

働くということはWORKすることであり機能することである、社会的にもその人が機能する
役割をもち社会に機能することである、そこに生きがいが生まれる
ただ社会に機能しなくてもアウトサイダーのように別個の価値を追求することもあり売るただこれはかなりむずかしい、だから簡単なことでも何か社会に機能する仕事が必要なのである
女性ならやはり家事を続けるとかでもいい、家の中でも機能する、役割を喪失させると認知症になる危険が高まる
それは今度は周りに迷惑をかけるから家族も崩壊するようになるから家族の人も認知症にならないように注意しないといけない
何か役割を与えるようにしないと危険になる

とにかく人生百年時代は人類でも経験していないことである
だからそこに様々な問題が起きて来る、経済的問題も深刻だけど社会から無用化されて
家でも無用化されて何の役割も生きがいもないとなりボケになり認知症になる
それも高齢化社会の大きな深刻な問題なのである

自分の場合は性格的に内面的な仕事に向いている、外面的な人と接する仕事には向いていない、それで社会と適合できずに社会からはずれた生活をしてきたのである
でも社会的生活も有益である、無駄ではない
結局人間が経験するのはわずかだからである、するとなんでも経験したことが貴重になる個人では限られたことしか経験できないからである
でも仕事は積み重ねである、知識でもそうである、だから退職してから何かはじめようとすると困難になる
ただ人生百年となるとそこからでも自らにあったものを仕事とか役割をもたなければならない時代になった、そうしないと認知症になるリスクが高くなるからである

もしかしたらその人が社会に役割があり家族でも役割があるとき死なないのかもしれない役割も仕事もなくなった時その人は認知症になったり病気になったりして社会的家族的死になる、その時その人はもうすでに社会から忘れられたものとなっていたのである
その人がいるかもとうかもわからない、社会から消えるのである
社会的死になっていた、そして後は大迷惑かけるだけの存在になってしまったのである
そういう認知症が800百万にになるのが高齢化社会でもあるとしたら空恐ろしいとならないか?医療費ももう限界にきている、介護も人がいない、貧乏社会になり介護費用も払えない、その負担が今のロスジェネ世代なのである
その人たちは金銭的にも余裕がないからだ
そういう悪夢の時代が現実化するのがもうすぐだという恐怖になる

ただいい面としてはそれだけ長く生きると何かをライフワークを追求するのには有利になる、急ぐ必要がないからである、成果を出すのは七十以上てもいいとかなるからだ
その後でも精進つづけられるからである、何か本当に学問とか芸術とかでも知識の分野は一代でも追求しきれないものがあるからだ
それだけ知識の分野は広いからである、それでそういう分野では才能を発揮できる人が増えてくる、インタ−ネットなどでも独学でもできる環境が整ってきたからである
それで自分自身もこんなにプログで書いているのである
文章だと書ける、しゃべるとなると私は苦手だからできない、それでこんなに書いているのである


2019年10月28日

相馬市の洪水被害ー増子議員来る(2) (小泉川など小河川がすべて氾濫―宇多川は一部決壊)



相馬市の洪水被害ー増子議員来る(2)

(小泉川など小河川がすべて氾濫―宇多川は一部決壊)



相馬市の道の駅から日立木の入口の川から相馬市街へ行く道の川の氾濫

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これは台風21号の被害である

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これも台風21号の被害

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小泉川の氾濫

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これも台風21号の被害

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宇多川堤防の決壊(台風19号の被害)

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かなり大きく決壊した

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水につかった所

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明治時代に河川改修した宇多川の記念碑

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これは昭和45年に道を直したとある

堤防を改修したのとは違うのだろう

でも明治に土手を作ったとか改修したとかなると古いもである

その頃から堤防は作り改修していたのである


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宇多川が決壊して小泉川があふれて両方から水が来たから被害が大きくなった
津浪の時その水の流れ方が一方的ではない、水は複雑な流れ方をするのである
だから小河川が意外と危険だと今回は知ったのである
堤防も低いからどうしてもあふれやすいのである

台風21号でも水があふれたらしい、でも両方から水があふれたというのは台風21号の時である

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下流の和田地区で小泉川が氾濫した

それは台風21号であり台風号の方が被害が大きくなった
水位高くなったところがある
台風19号と21号の二重に被害があった人もいた
そして小泉川の氾濫では21号の方の被害が大きかった
宇多川は21号では氾濫していない

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相馬市の道の駅によったがその隣のセブンエレブンからさらに六号線の道路へと水があふれた
その水が日下石川の水だった、ええ、あんな小さな水がこんなにあふれたのと驚いた
次に日立木に家並みに入る所にも小さな川がある、そこもあふれた

次に相馬市の鉄道を横ぎる手前の小川でもあふれた、床上まで浸水した所もあった
あんなところで床上浸水になったという驚きである

そして小泉川はこの三つより大きいのである、でもたいした川でなかったと思ったが
この川は前の三つより大きいからかなり被害があった
今回の洪水の特徴は小河川の氾濫にあった
宇多川が決壊して小泉川があふれたから両方から水が来たのである
結果的に広範囲に浸水した

一番被害の大きかった北飯淵も両方から水があふれて被害になった
相馬東高校があるがそこも床上浸水になったのである
宇多川は一部決壊したことでその水が北飯淵に流れたからそこが床上浸水になった所が多い、駅の方に水が流れたという時、どういうことになったのか?

とにかく決壊した部分から大量の水が流れたのである
小泉川の岸辺で増子議員とあった、国土交通省の人と話していた、その人たちは姫路から来ていたのである
なんでも激甚災害にするとか言っていた、金は出すとか言っていた
議員にはあったことがないから意外だった、そこに菓子屋の船橋屋がいた
後援会長しているとかで案内していた

そして堤防のことで国土交通省の人と話したが宇多川の決壊した堤防は明治に河川改修したとかの碑があったと古いから決壊したのかと聞いたらそうではないという
明治でも粘土とか使いかえって頑丈にしていたという
そういうものかとも思った、現代の方が格段に技術が進んでいると思ったが明治でも頑丈な堤防を作っていたことに驚く
信玄堤は今でも通用しているからそういうこともあっても不思議ではない

つまり昔作ったものがすべて現代より劣っているともならない
第一エジプトのピラミッドは非常に優れた建築物であり現代では作れないことでもわかるどうして計算して作ったのか解明できないのである
だから技術が後退するということもあるのかもしれない
日本建築でも法隆寺とかは優れたものだからである

今日は宇多川の北飯淵とかは行ったことがなかった
その辺をはじめて見てその土地を知ることになる
ただ相馬東高校があそこに建てたの河岸であり広い土地があったからである
あれは長野市の新幹線車両基地も市街から離れた元は湿地帯のような所に作ったのと同じである
広い土地がないからあそこに作ったのである、相馬東高校は相馬女子高校が基になっている
その校舎は市街にある

何かこうして津波の時もそうだが洪水とかあるとその土地の知らないことを知ることになる、郷土史として理解を深めることになる
ただ被害にあっているのだから物見遊山では嫌がられる
ただ津波の被害とは違ってそれほどにも見えないから今回は気楽にともならないが書けるもう丸森町は津浪と同じでありそこには当分行けない
ただどういう状態かどうしてそうなったのか知りたいとはなるが当分は無理である
とにかく今回の洪水は小河川が意外と怖い曲者だと知った
そうした小河川は土手がないからあふれやすいのである
それが盲点となって被害になったのである

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2019年10月29日

相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)


相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)

例えば,「良妻賢母」主義を実用知たらしめる「裁縫」は高等女学校では必須の学科目であり,また,伝統的には近世以来の女性の徳目の一つである「婦功」(あるいは「婦工」)の意味が込められていたはずであった
娘を高等女学校へ進学させるような社会層─ 例えばその中核を占めた士族層 ─ にあっては家事や裁縫,料理などの実用知を修めていくことへの動機付けがあまりなかったのではないか。

多くの女学生の放課後,家庭生活での教養や嗜みは,琴曲や点茶などの「遊芸」であったり,英語や数学の「学問」であったりした事実がこれを裏付けている。つまり,彼らは幼少期から家庭で培われた躾によって形成された「実践意識」の水準で,「良妻賢母」主義に異議申し立てをしていたのである。
http://www.seiryo-u.ac.jp/u/education/gakkai/h_ronsyu_pdf/12_2/04_inoue.pdf

私がなぎなたを始めたのは女学校に通っている頃でした。当時、学校の正課、体育の授業の一つになぎなたがあって、面白くてね。先生も東京で勉強をなさった方が教えてくださっていたので、楽しく取り組んでいました

  1903年(明治36年)4月 - 中村高等小学校校長の太田宗雄とその他有志により、「四行塾」が開設される。
        女子への裁縫教育を目的とした私塾で、修業年限を1年とする。
  1905年(明治38年)5月 - 中村町に移管され、「中村町立相馬女学校」に改称。
  1907年(明治40年)5月1日 - 相馬郡に移管され、「相馬郡立相馬女子技芸学校」に改 称。修業年限を2年とする。
        以後5月1日を創立記念日とする。
  1911年(明治44年)3月 - 「福島県相馬実科女学校」(相馬郡立)に改称。修業年限          を4年とする。
  1920年(大正9年)4月 -「福島県相馬高等女学校」
 
  
 裁縫教育を目的とした私塾ということは習いものくらいのものだった、それも一年だからである、次に技芸学校となっているのもそうである
 その後はも実科女学校だから実用主義である、それでも明治から始まり大正までさかのぼるというのは古いと思った
 
水害の状況を調べるために宇多川を下っていったら相馬東高校があった、ここは相馬女学校が基になっていた、これは相馬藩内では一番古い学校なのである
そこでクラブ活動になぎなたがあるとそこの用務員にあって聞いた
そんなものがまだあるのかと思った、弓術なら良くみかけるけどなぎなたはあまりももう聞かないだろう
明治となると江戸時代の継続がまだあった、だから第一明治維新で侍がいなくなったとき教師になる侍が多かったことでもわかる
なぜなら士族はすでに家庭で独自の教育をしていたからである
するとどうしても士族の教育が学校にも持ち込まれるのが自然である
つまり人間は全く新しいことはできない、必ず前の時代の継続なのである
だからこそ天皇制によって復古によって明治維新が成されたのである

たただ論文で裁縫のことを語り相馬女学校も裁縫教育から始まったとしている
その後も実用主義である、でもなぜ士族の子はそういうことになじまないというとき
何かそういうことは家でしてくれる使用人がいたからなのかとなる
裁縫を第一とするものに反発するものが芽生えていたとなる
それは女子が今までのただ結婚するということを目的とした花嫁修業とかに反発する新しい女性の芽生えだったのかもしれない
とにかく相馬女学校を出たとなるとそれだけ女性として格が高いものになっていた
女性としてのエリートだったのである、というのはまず女学校には入れない、金がかかるから入れない、それで私の姉は女学校に入りたかったと悔しがっていたのである
なぜなら頭が良かったし体力とか他の優れていたからである
だから学校は一番だったしマラソンでも一番になっていたかとなっていた
その後看護師の免許も東京でとった、それもなかなかできないことだったのである

そして飯館村の大倉に行ったら私は相馬女学校でたのよというばあちゃんがいた
つまり相馬女学校出たということは特別でありだからそれを自慢したかったのだろう
どうして大倉から相馬女学校に入ることができたのか、これもおそらく山では木材が売れて金になった時代だったからだとなる
その人は親戚の家から鹿島から相馬の女学校に通ったという
明治以降になると学校ができても必ずしもみんな入れない時代であった
字が書けない女性がいていつも人に頼んでいた、それで気がひけていたという人を知っている、ある人は子守りして学校に行けず小説読んで字を覚えたという大正生まれの人もいる、学校にまともに行けない人が結構いたのである

それは今の発展途上国をみればわかる、ネパールとかでは第一書くものボールペンすらないからボールペンをくれとなる
今でも裸足で歩いている人がいる国でありそういう国もまだ世界にはある
そういう時代が学校というのが貴重なものであり知識を得る唯一の手段だったのである
だから学校が重要な意味をもっていたのである
でもその後学校も社会の変遷とともに姿を変えた、あらゆるものが時代の変化にともない変わる、もうすでに団塊の世代から学校に対して不満が大きくなっていた
学生運動でも実際は大学の不満から生まれた面があった
マンモス大学となりまともな授業がないのが私立だったからである
1000人とか一つの講堂で授業するのだから学問に興味を失ったのである
そして文系となると本当に大学は遊びの場でしかなかった
毎日麻雀しているものとか授業に出ないことが自慢だったのだから変だったのである

つまり大学というのは高校とまるで違ったものであり独学する場所だったのである
何か知りたいことを独学する場所だったのである
そうなれば別に大学に行かなくてもいいともなる
ただ当時はそういう環境が整っていなかったのである
まだまだ教育環境は貧弱だったからである

それがインタ−ネット時代になると本当に独学できる、こうして学者の論文を読めるしいくらでも本が安くアマゾンで買える、すると非常に見識が幅広いものなる
それはAIのビッグデーターの思考方法と同じである
膨大な知識を集めてそれを編集するようなことをしているとそれは新たな創造物になるのである、自分はそれをしているのである
集合知ということがそうである
だから今の時代はインタ−ネットをしないと相当に遅れる、学校というのも知識の面ではもう時代遅れなる、youtubeでは優秀な先生が実際に教えているからである
すると学校で教えられるよりも理解が早くなるのである

教育も変わり目にきている、第一学校とか先生の役割も低くなる
なぜなら知識が自由化して膨大化しているからである、学校という閉じられた空間で学ぶだけの時代が確実に終わったからである
すでに学校は前時代の遺物のようになってしまうもしれない、そこにいろいろな問題が生まれてもう持続できなくなる
結局何でもその時代の反映としてあり学校も教育も同じなのである
でも相馬東高校が400人いてクラスが35名とかなると違ってくる、それは中学校でも同じである、一クラス30名だといっていた、団塊の世代だと50名くらいいたからである、少子高齢化時代は少数精兵主義にならざるうえないのである
教育でもそうである、世界に伍してゆくにはそうならざるをえない
そうして教育自体も変革を迫られているのである

私は学校とか集団になじめなかった、結局人間は自己開発しないかぎり何か身につかない何か求めるものがないかぎり何かを強制しても身につかないのである
信仰にしても求めよさらば与えられんとうなると求めないもの絶対に信仰が何であるのかその精華を得ることはできない、そもそも求めていないからである
学問でも何か強く求めるもの問うもの学びたいものがあれば雑学でも得ることがある
それで自分の場合は全国を旅行して地名に興味をもち地理に興味をもったとなる
だから学校を出てからの方が勉強するようになったとなる

どうしても学校では真剣な課題をもつことができないが社会に出る否応にも真剣な課題に直面するからだ
それには命がかかってくる、知らないと大損したり命まで失うから学ばないで得られくななる、でも学校だというそういう真剣に学ぶということがないのである
そうして時間の無駄になる、ただ人間は何でも経験である
例え間違ったとしても経験することの方が知識より先になる
学問はそうした社会での様々な問題に直面してから本物になる
それは津浪とか原発事故とか今回の洪水の問題でもそうなのである
どうしてそうなったのかとかその問題を解決するにはどうしたらいいのかとかそれは命にかかわるものとして解答を出すことを要求されているからである
 
 
posted by 老鶯 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2019年10月30日

阿武隈川の歴史(江戸時代から度々氾濫の記録)


阿武隈川の歴史(江戸時代から度々氾濫の記録)

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信達平野の歴史をなぞると際限ないが、伏黒、二の袋、木幡の三村を、西根郷から東根郷に移すほどの大氾濫のあった天文9(1540)の大洪水、信夫山の南側を流れていた
松川の流路を変えた寛永14年(1637)の洪水
福島城の三の丸まで冠水した享保8年(1723)の洪水・・・・
明治になっても数年の一度は洪水があった

洪水になると洪水は河道からあふれて氾濫原を作る
水は河原の外に出ると流速は急速に弱まり水の運搬力も衰え運んでいた土砂をそこに沈積させる
すると川沿いに海鼠餅のような棒状の微高地ができる
古くはこの上に集落が発生した

福島市鳥谷野、腰浜(腰浜廃寺や郡衙があった)
伊達市の前川原、原島、箱崎(石田時成の築いた箱崎大舘は自然堤防の上にあり川跡湖の舘堀として利用していた)
阿武隈川沿いに延々とつづく集落はこの自然堤防の上に生まれたのである
その周りは湿地帯でありそこが耕地として利用された

阿武隈川の風景 高橋貞夫


阿武隈川は大きな川だからこそその流域も広くなる、堤防がないときは自然堤防ができてその上に大館のような館ができた、その周りの川の湿地帯が田圃とかになった、それは海岸が前は湿地帯でありそこを埋め立てて田んぼにしたのとにている
そして阿武隈川に古川とあるときそれは阿武隈川の一部であり流路が変わりそこに昔の古川が残った
それで川原とつく地名がその周辺に残っている、でもそれが広いので驚くのである
それは阿武隈川は大きいからそうなる

つまり地理を見る時必ず原初の状態から見なければならないのである
その地の利によって歴史が形成されてゆくからである、だから土砂が積まれてその上に舘が作られたということもなかなかこの辺ではイメージできない、なぜなら浜通りには大きな川がないからである
川を知るという時、上流から下流から全部知ることは容易ではない、阿武隈川となると大きいから余計にそうなる

なぜ今回こんなに阿武隈川で被害があったのか?
それは今だけではないここは川のカルマがあった場所だったからだとなる
カルマとはその地形が造りだしてそれがカルマとなり繰り返して現れることである
人間だと必ず苦しみとなって現れるのがカルマである
だから阿武隈川は何回も氾濫してきたのだからそれは特別なこと一回限りのこどではなかったのである

阿武隈川のように大きいとその影響が大きい、その流域も広いのである、それで阿武隈川に古川が残っているがそれは阿武隈川の一部だった、それがいまにも残っていてその流域に川原とつく地名が残っている
歴史はその川から作れていた、そこに土砂が流れて積まれて微高地になり館が作られて人が住んだとなる
そしてその周りが湿地帯であり埋め立てて田んぼにしたりしたのである
川で洪水があってもそこは生活にいい場所となっていたのである



  阿武隈川水系の流域及び河川の概要(国土交通省ー河川局)
https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/
shouiinkai/kihonhoushin/031128/pdf/e4-1.pdf

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  舘矢間とは丸森町である、ここの流量が多いのは下流域になり阿武隈川の水が集まるからである
  丸森町に阿武隈川の水量が集まり角田まで広く浸水した
  他にも土砂が裏山から流れて来たとかあった

  この地図で注目すべきは福島市と伊達市と丸森町と角田市の流域の土地が低くなっていることである
  でも福島市に被害がないのはなぜか?岩沼市と同じように河川改修して堤防を強化したためか?
  何か理由はある



阿武隈川は、上流域の白河盆地を過ぎた付近から北向きに流れを変え台風の進路と同じ方向となるため、台風の北上と流出量の増加が重なり、狭窄部による影響と相まって洪水の発生しやすい地形となっていることから過去たびたび甚大な洪水被害を受けてきた。阿武隈川の洪水に関する最古の記録は「カンジュウシの洪水」と言い伝えられてきた平安時代(寛治かんじ4年)の洪水がある。狭窄部においては、古くは天和てんな二年(1682年)から水害の記録が残っている。


各平野部内では変流・乱流を極め、洪水のたびに流路が変わるような状態で、河道の屈曲が甚だしい。特に郡山地区や福島地区の氾濫原は、再々度にわたる大氾濫で形成されている。福島北部から梁川にかけての氾濫原は、広いところで 6km に達する幅を持ち、その中には無数の旧川跡をたどることができる。

この論文は読み応えがある、詳しく阿武隈川を分析している、ただ今回は岩沼では被害がない、岩沼でぱ過去に二回くらい堤防が決壊して浸水している、今回はなぜ被害がなかったのか?おそらく河川改修と堤防の強化が行われた結果なのかとなる
岩沼の堤防は大きいし高いからそうなのかと思った、そこを歩いたことがあるからだ
堤防が貧弱だと決壊しやすいのである、相馬市の宇多川の堤防が決壊したのは明治に改修されたとあってもその後なかったのかもしれない、道を作ったとかあるが堤防そのものは改修していないのかもしれない、それで決壊したとなる

とにかく阿武隈川は長く広いのである、だから流域も広い、6キロもあるとすると広い、だから一旦洪水になったら今回のように広い範囲が被害になる、川を流れる水の量も膨大だからである
学問の基本が地理だという時、その地理を風土をどう理解するのかむずかしいものとなる
阿武隈川が中通りで台風の通り道になりやすいというとき今回二つの台風がそうだったのである
中通りの阿武隈川にそって上ってきて被害になったのである、そういうふうに台風の進路も規則的になる場合がある
それで被害が大きくなったのである

この論文で注目したのが地図を見たら土地の高低がマークしていて福島市ー伊達市ー角田と土地が低くなっていた
そして丸森町でも角田市と同じく低い土地になっている
するとこの辺が水がたまりやすい、水があふれると低地に集まり安いのである
それで湖のうよになってしまうのである、だから福島盆地が湖だったというとき阿武隈川が氾濫して湖のようになったからだとなる
縄文人は川の周辺に住んでいない、山の方の高い場所に住んでいた
これだけ阿武隈川が氾濫するとなると住めなかったとなる、津波でも縄文人が住んだ場所は津波の来ない場所だった
ただ大きな川になるとその辺が良くわからなくなる

いづれにしろこれだけ大きな川となると河川改修でも堤防を作るのに国家百年の計とかなる
日本はこうして自然災害の戦いを強いられた国だったのである、それは津波でその怖さを知らしめられた
また今回の台風でもそうだったのである、私の家は街で一番低い土地にあり堀からあふれて玄関から中が水浸しになった
水がここに集まるのである、川で行く川の水は絶えずして本の水にあらずである
川の流れも変わり古川とあるのはその名残りである、川も日本の国土が変化しやすい象徴としてあった
日本の風土のカルマとしてあったことを今回の台風は知らしめたのである

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