2019年09月12日

神秘の洞窟(Mysterious artificial cave)

神秘の洞窟(Mysterious artificial cave)



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Mysterious artificial cave

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dark vally

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a hidden lake

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crest of the earth

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縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? 

(日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

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津浪で海となった、その先が太陽の落ちる方向が日下石

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縄文時代を通じて切れ間なく大陸から人が漂着しており、そのいずれもが長い航海を経てたどり着いていることからして、列島に流れ着いた人は総じて航海技術に長けており、それらの技術を生かしてネットワーク形成を担った運輸集団になっていった可能性もあります。
その一つが縄文晩期に北九州に漂着してその後長野から東北に移動した安曇族であり、古墳時代を通じて日本中にネットワークを広げた物部氏です。


日本語の謎は深い、それを解き明かすことは不可能である
ただどういう人たちがその言葉を最初に創りだしたのか?
それは日本に渡って来た人たちがいてそれがもともとあった縄文語と混合した

海岸が西になることはありえない、でも今回の津波でわかったことは日下石(にっけし)という地名がにし(西)なのである
その近くまで津波が来ていたのである
そして津浪で海になった所をみたら日下石(にっけし)の方に輝き沈んでいった
そこから山は見えないのである海から見たとき海岸に太陽が沈むのである
そして日下石に古墳がありそこの近くまで津浪が迫った
その辺まで人が住んでいた

つまり船で来た海洋民族が安曇族などが上陸した海岸は日下石だったのである
それを名付けたのはアイヌなどではない、安曇族とか外来の民族である
なぜならこの辺に綿津見神社と山祇(山津見)神社がどれだけ多いか
特に相馬藩内に異常に多いのである、これは特筆すべきことでありこの辺の特徴なのである

それはなぜなのか?おそらくこの辺は今は海岸線に入江がないけれど奈良時代まで海が深く入っていたからである
その証拠となるのが鹿島区の塩アに船着という地名がありそこに船が来て交易をしていたそれで市庭という地名も残している
その船着のすぐ近くまで津波が来ていたからである
そこに今の東北電力の発電所があり鉄の一大生産基地でありそこから鉄などが運ばれていたのである

船で来て海から見れば海岸が西になるのである、そして東は陽{日}が上る岸になる
それは陸地から見たものであり海岸で見たものではないのである
海岸から見れば海の方から陽が上ることになるからだ
そしたら陽が上る岸とはならない、岸は陸地だからである
それは陸地から見て東として海から見たとき海岸は西だったのである

それで縁とは江西でもある、名古屋の愛西はエニシである、太陽は伊勢湾から昇る
その辺は海が入り込んでいた、だからそこも昔海岸であり西となったかもしれない
ただ方角はどこを中心にして東西南北を決めるか大事になる
その中心が変わると違ったものになるからめんどうなのである
南相馬市自体がそうである、相馬市の南相馬市になったからである
もし小高が中心だったら北相馬になっていた、現実鹿島は北郷となっていたのは小高に前に相馬氏が最初に城を築いたところだったのでそこから北ということ北郷になったからである  
また日本海とかでも瀬戸内海でも方角は変わる、太陽が海の方に落ちてゆくようにも見える
日本海になれば太陽は山から上り海に沈むから逆になる

いづれにしろこの辺で注意すべきは綿津見神社と山津見神社がやたら多いことなのである
それはここに海洋民族の安曇族とかが入植したために多いのである

私の魂は子の風景のもとに安んじて帰ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

日本は古来地理的に海に囲まれているから海岸線が重要だった、そこが生業の拠点ともなった
海老村で二日前に町があったところから坂を上っておりた崖の上に古墳が発見された、それも二も発見されたとなるとそれだけ海老村は人が弥生時代から人がかなり住んでいたからである
そこで魚や貝などをとって暮らしていたのである、また日本では海岸線は奈良時代とかその前になると入江になっているところが多いのである、津とつく地名はつづくからきていて海は陸地にはいりこみ海がつづいている場所だったのである
そこで交易も行われていたのである

だから海岸線は海岸は日本人が縁(えにし)となる場所だったのである、また入江が多いということはそこで魚とか貝をとりやすいのである、生活の場として適地なのである、それで新地の手の長い巨人が貝をとっていたというのはそのためである
松川浦のような入江がありそこで貝がとれたからである、そこが暮らすには適地だったからである
ただ海を海岸線を日本のアイディンティティとすることはなくなった、というよりは海というのはアイディンティティにしにくいのである、海と自己同一化するとしてもできない、海は固定していないからである、それは広大な平原とかともにている
また今回の津波のように恐ろしいものが海なのである

それよりアイディンティティ化しやすいのは固定しているもの山なのである、それに付随する木とか石なのである
だからこそ日本は大和(やまと)山が原点となり故郷となり国になったともなる
ただ最初は神話にもあるように海洋民族が安曇族のように日本の海岸線に上陸して山の方に入植したのである
だから松川浦に山津見という地名があり和田というのも綿津見であり地名化しているし栃窪にも山津見神社があり
その最終地点が飯館村の山津見神社であり綿津見神社なのである

ともかく津波は日本の海岸線が陸地の奥まで入り込んで入江になっていたことを証明した
それはわかっていたことでも驚きだったのである、入江は港でも生活の場にもなりやすいのである
だからみちのくの草原という万葉集の歌は草原(かやはら)は萱ではない、人が出入りして物が入る港だったのである
そういうふうに栄えた場所でありただ萱原が茂っている淋しい場所ではなかったのである
ただ原始の状態だったらその当時はそういう風景はありふれている、むしろ人と物が出入りする港だったとなる
みちのくの真野の草原遠けれどというとき遠いという場所の比喩となっていたのである
草原が茂っている場所ではなかった、ただそれが江戸時代まで石巻の萱原がその地だとされていた
それもまた地名として残されているからそうなった
そして真野の草原にきたとして萱をお土産のようにしてもっていったというのも記されている
それもなぞのなのだが考古学がない時代だからそうなっていたのである

ここには海洋民族の安曇族をはじめとしてツノガノアラシト系の鉄の生産技術をもった渡来人とか集中して来た場所だった
そういう背景があってみちのく真野の草原の万葉集の歌が生まれたのである



posted by 老鶯 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

夏から秋の変化の短歌十首(海老の浜)


夏から秋の変化の短歌十首(海老の浜)

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クリック拡大(沖に船が見える)

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クリック拡大ー白い花が何なのか、

浜木綿(はまゆう)とにている
でも違っているみたいだ
こういう花をここでは見たことがなかった
津浪の後の変化なのかもしれない、津波で生物でも植物で死んだり再生したりしているからだ

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津浪にも残った松ーその下に松が茂っている


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めずらしい虫、葉は何か、海老浜はマルハシャリンバイの南限の地として有名
つまり南国性の植物が生える場所だとなる



朝の蝉六号線を急ぐかな

夏の日に釣りする人や波しぶき

雷鳴りて後にすずやか月光る


大平洋波打ちしぶき沖に船揚羽のここに舞い去りにけり

珍しき虫の一つや海老の浜八年過ぎし津波の後かな

津波にもなおも残れる松ありて新しく育つ松も頼もし 

津浪より8年過ぎて育つ松繁げるや海老に秋の海見ゆ

鴎群れ大海原の波にゆれ沖に船行く秋の海老浜

ふるさとの小径にここに分かれけりいづくに行かむ秋の日暮れる

水無しの河原に露草あまた咲き今日清らかに水の流れぬ

(南朝語る)

只野氏の南朝語りしきり鳴く蝉の声かな故郷の暮る

南朝を語りし友や秋の蝉ひびきてあわれともに老いゆく

ひぐらしの森の奥よりひびきけり影なす道の行く人もなし

(月)

今日もまた月の窓のぞき我を母の見つつありなむいともは静かに

母もいて姉もありなむ争わず我が家にむつみあうなれ月の光りぬ

別れてもまた会う人や故郷の木陰の道や今日も行きにき

月満ちて明るさ増しておとろえぬ我が老ゆとも智は冴えにけり

山の端に月の傾き光るかな故郷に住み老いゆく我かな 




この三日くらいは天候が次々に変わった、日本の天候は本当に変わりやすい
最初は雨がふって夕べ虹がでた、それから台風がきて昨日は雷が鳴った
その雷もやんだと思ったからまた鳴った、秋の雷となるが昨日は暑かった

この天候の変化の中で海老の浜に行ったりした
そこで古墳が発見されたとか松が意外と高く茂っていたとか変化があった
あそこは風力発電の風車がないからいい、家もなくなったので見晴らしが良くなった
右田の松原はなくなったので鹿島区では海を見る場所としてはあそこが一番いいとなる
つまりビューポイントなのである

雄大な大海原(おおうなばら)に鴎の群れが波にゆれている、何かきもちいい
しかしふりかえると海は怖いものだったなとつくづく思う
その海が見える後ろでは避難して30人が死んだ
そこは高台だから津波の避難所として指定されていたからだ
これも悲劇だった、でもあそこは海を見るにはいい場所として残った

ふるさとで出会うのは同級生の人でありその人は本当に霊山を落ち延びた南朝の末裔の只野氏だったのである、とにかくこの辺は只野氏がやたら多いのである
只野氏一族の町だともなる
ただ南北朝の争いは日本全国にその傷痕を残した、どこでもその争いが伝えられているからだ、それは小さな村でもそうである
それだけこの南北朝の争いは日本の歴史にどれだけ影響したかわかる
天皇が二人になったときどれだけその影響が日本では大きいことを示した歴史だったのである

月は秋の季語である、月がだんだん満ちて明るく輝く、でも今は夏から秋になる時期である、そして夏と秋がある、最近は暑いから余計にそうなっている
何か何度も言っているが不思議なのは今になって知性が冴えている
本でも一か月に10冊とかアマゾンの古本で買っている
だから書評を私はできる、この本が何を言おうとしているから一読してわかるからだ
ただ残念だったのはこんなに本があっても知らなかったし読めなかったのである
本というのは自分の知的関心から買うものだからインタ−ネットのキーワードで関心あることを調べそこで深く知りたいとき本を調べ買う
また誰かの文を読んで紹介されて買うとういことが多くなった
そういう買い方が良かったのである、それが今まではできなかった

そこで田舎ではまず本を買うことができなかったのである
仙台まで行って買うにしてもそこでも本が少なかったのである
すると肝心の本が買えないから知の分野では本当に不利だった
今はインタ−ネットで学者の論文でも読めるから素人でも学者ともなれるとなる
なぜなら文献とか論文とか本を読まない限りプロにはなれないからである

老人は体力は衰えても知性はかえって冴えてくる、人間は死をまじかにすると精神でも相当に鋭敏になってゆく、末期の目で見るようになるからだ
だから老人は知的な世界では充実してくる、私がこれだけてプログで書いていることでもわかる,書くことがいくらでもある、その内容も深く濃いのである

月数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか  万葉集4492

こういう感覚は万葉時代にもあった、明確に月を数えてもよんでも辺りの景色は冬と思っても春となっているし秋と思っても夏となっているとかある
今は季節が一か月くらいずれている
今日は秋なのかでもまだ日ざしは強い、ただ今日あたりからは秋らしくなってゆくようだ