2019年09月03日

駅でみる老人と若い世代 (老人は知らないで困ることがあり頼るから謙虚)


駅でみる老人と若い世代

(老人は知らないで困ることがあり頼るから謙虚)

駅で依然として無人駅で乗車証明書をとることがわからない人がいる
今はあまり案内していないが依然として老人は地元に住んでいてもわからない
昨日は三人くらいわからなかった
その人も鉄道を利用していないので電車の乗り方がわからなくなっていたのである
車ばかり利用していると電車の乗り方すらわからなくなる
それはよほど電車を人生の中で利用していなかったということである
それは逆にどれだけ車社会になっていたかを証明している

何か無人駅でも老人は困ることがあり教えることがある
普通はみんな自動で改札するからである
それで何か教えようとすると怒る人もいる、余計なことをするなと若い人はそうなる
でも老人は違う、何か話ができる、駅で待っていてもちょっとでも話することができる
昨日は「鹿島は原町よりいい」と老人が言った
その女性はちょっとでも教えられたり話できたからである
原町駅だと大きいからそういうことがないからである
つまり小さい駅とかまたここが無人駅だからそうなった
なぜ鹿島がいいとか言ったとき、小さい街だからかえっていいということがある
小さいことは人が交わり安い人情的になる

そして何より駅には待つ時間がある、この待つということが人間的時間をもたらしているだからそごで10分でも待つ時間があれば何か話したりできるのである
かえって待つという無駄な時間が人間的時間をもたらしている
ただ現代は人と人が機械化してスマホとかで交わらない、駅でも年配の人でもスマホを見ている、その人自体が携帯をもっていたし直接人に頼らない時代である
第一無人駅になっいていることが機械化して人間を省いていることなのである
ただ最近は朝と二時半から高校生の見守り役がいる
ただ駅や鉄道の案内とか無駄なことにはかかわらない、待っている人と話したりはしないJRでは駅の業務を頼むと金がかかるから頼まないのである
高校生の見守り役は市でNPOに頼んでさせている、金は市から払われている

人間は何かできるとか〈俺は助けてもらわなくてもできるからいい)というとき傲慢になっている、それは自分自身がそうだった
介護も十年とかしてさんざん苦しめられた、自分も病気になった
その時弱者になった、するとなんとか助けてもらいたいとなるがそれもなかった
それも自分のカルマだった、ただ駅でわかったことは老人は弱者でありわからないことがあり教えてもらいたいという気持ちがある
またいろいろ人生を経験して謙虚な人が多い、だから話ができる
でも若い人は何も教えてもらいたくない、うざいんだよ、駅には人などいらないんだよとかなっている、つまり傲慢なのである
若い人は弱者の気持ち、老人の気持ちがわからないのである

その原町から来た女性も喜んでいたのはばばあと言われて無視されるだけだと言っていた若い女性なら勝手に近寄り教える人がいるがばばあにはいないということなのである
結局若いということだけがいいとはならない、若い人には弱者の気持ちとかわからない
老人はみんな弱者化する、でもその老人の気持ちがわからない
すると実際は介護とかには向いていないとなる
ただ介護となると体力仕事にもなるからしているだけだとなる

何か自分は本当に駅にいるのはわずかな時間である
30分もいない、でもそこから見える社会があるものだと思った
自分は社会性が欠けていた、だからこういう所で社会であり社会がいかなるものか見えてくる、やはり家に引きこもっていただけでは社会はわからないのである
それは本を読んでも社会でも何でも何か実感が大事だからわからないのである