2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


posted by 老鶯 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など