2019年08月03日

東電が原発を作る前から地域の共同体は崩壊していた (技術者が新参者が上に立ち貨幣により支配されるグロ−バル社会)


東電が原発を作る前から地域の共同体は崩壊していた

(技術者が新参者が上に立ち貨幣により支配されるグロ−バル社会)


東電が原発が地域を破壊したとしている、でもその前から地域の共同体は崩壊しつつあった
農業は金にならない、漁業でも生活にならない、苦労ばかりだとかなってもう農業も漁業をやりたくないとなっていたのである
だから東電に漁業者は漁業権を売り渡して多額の補償金をもらって生活するようになった事故後も津波の後でも立派な家をすぐ建てたのである
それはここだけでない、日本全国が農業社会から工業社会に移る過程にあったからであるそれで原発で働いた人が親に農業だけはやるなと殴られたという、農業をすると息子が言ったからなのかその親は農業でさんざん苦労しているからそう言ったとなる
その人は原発や建築現場を渡り歩いて働くようになった

東電が原発を建てる前から双葉大熊辺りは特に働く場がなく出稼ぎ地帯であり地元で働きたいという要望を強くもっていたのである
それにかなったのが原発だったのである、原発だと三倍の賃金をもらっていたからだ
だからこの辺では原発で働く人が多かったのである
原発成金地帯みたくなっていたのである

東電が無理やり来て地域を破壊したのとも違う、地域にそういう要望があったからであるだから確かに東京に原発を作ることこそ一番ふさわしかった、でもそうなると福島県には金が下りないとなってしまった
それが矛盾なのだけど東電が原発を作り地域をすべて破壊したように見えるけどそれも違う、農業社会から工業社会へ移ることで起きて来た問題である
なぜなら戦前だと80パーセントが農民とかの世界である
戦後はもう今なら一割にみたない、第一団塊の世代だと山の木材を利用して炭で暮らしていた、ということは電気は裸電球一つしかなかったのである
エネルギーは地元の木材であり炭だったのである

そういう場所に高度成長時代となり電気時代ともなったのである、また石油時代ともなったのである、電気を何で作るかというと石油だったとなるからだ
そして原子力で電気を作るとなったのである
そういう時代の変化の中で地域は農村共同体とかは崩壊していった
だからどういうことになったかというと東電という技術集団が入ってきたときその人たちが地域の支配者になったのである
先住民の地域で暮らす漁業関係者でも農民でも炭を作る林業関係でもその時工業化してのみこまれたとなる

何か技術が社会を変えて支配することは世界の歴史でもあった
第一日本の天皇は実は伽耶国から出てきて伽耶は鉄の産地であり鉄を作る技術集団が日本に渡って来た、そして鉄の生産に従事した、それが渡来人である
稲作でも鉄の道具とかあってできるものである、縄文時代のつづきとして石包丁で稲刈りしていたということもあるがそれでは効率が悪いから鉄の鎌とかにして飛躍的に生産力をあげた、稲荷(いなり)様とは狐のことではない、鋳成りであり鋳とは鉄なのである
そして天皇は鉄の王だという時まさに技術者集団のトップの人が王になったとなる

ここでは東電が王の立場になったのである、だからもともと住んでいる人たちが力を持つとは限らない、それは農民社会でもそこに技術が関係していたのである
あとは馬とかも関係していた、相馬氏自体が騎馬軍団であり馬の操作にたけていて相馬地域を支配したとなるからだ
結局先住民とかが力をもつとは限らない、そうした技術集団であれ移動してくるとインディアンのように虐殺されたりするからである

でも原発事故でそういう優位性が崩壊した、東電の権威は失われた
そしてそこに住む人たちも何か今まであった生活を見直すことになった
それで生業を返せと裁判を起こしたのである、それも補償金をもらいたいからだけであるその前に生業自体を捨てていたのである、その象徴は親に農業するなと殴られた人だったのである
それは時代の変化でやむをえないということもあった、でもそれが何か間違っていたと気づいた時は事故後であり遅かったとなる

いづれにしろこういうことだけではない、もう先住者が何か価値あるとか力をもつことができない
この辺では津波や原発事故以後、特に原発事故以後大量に人が移動した
そして新しい一つの街ができた、そこには立派な家が立ち並んだのである
でも今は移動する自由があり金があればどこに住んでもいいのである
だから故郷を離れても別にその土地の人に気遣うことなどない
むしろ金があれは金がある人が威張っているのが現代社会である

それで小高の人が私たち金を使って鹿島の人たちを助けているのよねと言っていたのである
そんな感覚であり何かよその土地に移っても金ある人の方が威張っているのである
別によその土地でも金さえあれば生活できるからである
それは何もここだけではない、グロ−バル社会になると金さえあれば世界のどこでも暮らせるとなる、それで大金持ちは日本を脱出して暮らす算段をしている
それは日本だけではない、中国の共産党幹部は莫大な富があり中国国内で何かあったら外国で暮らせるようにしているからである
日本で土地などを買っているのもそうかもしれない、金さえあれば外国で暮らすことができる、そうなると国家など関係ないともなる
それが実はグロ−バル社会なのである、もともとその土地に住んでいても何の力にもならない、新参者が威張り金で力をふるう社会である
そこに旧来の共同体は破壊されていたのである

第一家を建てるにしても外材であり家自体が地元の大工とかかわったのは極わずかであるみんな大手の住宅会社がかかわり一週間くらいで組み立てて建てたものであり地元とは関係ないからである
そうしたら何か地元の人に世話になるという感覚もないのである
それが広域社会でありグロ−バル化社会である
ただそこで力をふるうのは金であり金のない者はいくら前からその土地に住んでいてもなんの力もないとなる
それで小高の人が鹿島の人を消費して助けているのよねというときまさにそうだったのである、それは原発避難民がいわき市に二万人移動して家を建てたとき数が多いから起きたことである 

なぜもともと住んでいた人たちは新しい家を建てられないのに後から移った人たちが次々に家を建てられるのか?
それも矛盾だった、でも金のある人がグロ−バル化広域化社会では強いのである
何かその土地についてもともと住んでいる人が知っていて教えられることがあってもでは農業するのではないから草分けの家に教えを乞うなどないからである
むしろ金をもっているから移動してきた人たちの方が権利があり力をふるうことができるそれがグロ−バル化社会である
そして田畑を売って金に換えたいということが強い、田畑をもっていても手間がかかり金にならない
それより今は移住する人が多いから土地の値段が上がり売った方が得だとなるのである
それげこの辺は一時移住者が増えて土地の値段が高くなり売れたのである
汗水たらして農業するより売って金を替えた方がいいという社会なのである


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つまり農村共同体のような小さな共同体を破壊するのがグロ−バル経済市場の中に組み入れられるとき貨幣の力が大きなものとして現れる、農村共同体の中で機能していた価値観は破壊されるのである

貨幣というのが今のように万能ではない、むしろ封建時代とかは土地の方が価値があった農業社会だとそうなる、土地の資本が食料を生み出すからである
工業社会になれば土地は価値の基準にならないのである
工業化は技術化社会であり技術が最優先される社会である
世界的に自動車でITでも技術競争にしのぎをけずることでもわかる

現代グローバル化社会の最大の特徴は土地からあらゆるものの債権化と株式化と科学技術化なのである
だから土地を基準とした封建社会とかからのこうした大きな変化の中で共同体は失われる変容する、それがグロ−バル化社会でありグロ−バル市場社会となる
その土地の支配者が王だったり殿様だったりするがグロ−バル資本主義では実質の支配者をすべての財が債権化されたなかで貨幣化された株式化された世界で価値をもつのであるだからその土地に長く住んでいても力をもつことはできないのである

この図のように社会そのものの変化がもともと住んでいる人たちの力を消失させた
債務とか債権化されるとは実体としての財が貨幣化したことなのである
債務とか債権は貨幣のことでもあるからだ、貨幣はそこから生まれというのもそうである貨幣によって財は抽象化してそこに住まなくても所有できるというのがグロ−バル社会でありだからこそ証券市場とはあらゆる財を債権化したのである
そこで唯一最大の力は貨幣となり地域の共同体などは無視される
グロ−バル化した世界で債権化して富が移動しているのである
だから一か所の土地に定住するということは実際は価値あることにはならない
そこに長く住んでいたからと価値ある者に力をあるものとはならないのである
土地をもつより土地を債権化したものを証券でももっていることが力をもつことになる

ただそうなると文化的見地からするとその土地を耕す(cultivate)がcultureになったのだから文化はグロ−バル化によって破壊されるのである
つまり文化は債権化貨幣化しにくいからそうなっているのである
でもグロ−バル化資本主義も投資先がなくなるというときまた銀行が農業に投資するとかなるときそこで変化しているのである
なぜなら農業とはただ食料を生産するだけではない、文化と深く関係しているからであるそこでグロ−バル経済の転換が地域から起きているともなるのである

ともかく前になぜこんなに簡単に原発事故で放射能問題があっても簡単に一挙に街自体が捨てられてゴーストタウンになったのかそのことを考察した
農業社会だったらもう簡単に他に移れないのである
この辺で越中などの農民が飢饉の時三分の一に人口が減った時移住してきたがそれ自体命がけであり草分けという古い農家に草鞋をぬぎここで荒野を開墾して苦労して農業をして住みついた
そういう時代をふりかえると全くそういうことはない
むしろ他から移住してきた人たちがたちまちに立派な家を作り長くこの土地に住んでいても金がないなら何の力をもないのである
何か教えてくれということもないから先住者としての価値はないのである
むしろ金がある新参者が威張る起きているのである
それは別に金があればいくらでも世界から物でも食べ物でも入ってくるからである
そして長くその土地に生きていても価値がない、そのことは老人に価値がないとなる社会である、だから老人は価値ない者として邪魔者扱いされるのである

江戸時代でも戦前でも食料はそんな遠くから入ってこないのである
それはいいとしてそのマイナスが共同体がすでに崩壊していて原発事故があってそれで
もう簡単に分解したともなる、共同体というが現代のグロ−バル経済はこうした一地域のミクロのことなど無視した点を無視したグロ−バル経済なのである
だからこそこうして簡単に町でも崩壊して一時ゴーストタウンになったのかとなる
グロ−バル経済としてつながっているがその住む地域のつながりは希薄化していた
そしてどこにでも金さえあれば住めるとなればかえって移動した方がいいとなり
その故郷の復興など考えなかったのである
だからこういうグロ−バル広域社会のなかでこういうことが起きたことを認識すべきである、そのマイナス点を認識すべきだとなる


posted by 老鶯 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

損して得取れ (本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

損して得取れ

(本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

一時的には「損」しても、その損が将来の「得」になるのであれば、当初の損を厭うな、
という意味だと解釈している。目先の損得だけを考えて行動しても、トータルで(長い目で)考えれば損になることがある、ということを示唆しているのだろう。商売でよく言われる言葉だ

人間はとにかく複雑なのである、商売となるとこれも通じることはむずかしい
そもそも自分に商売とかビジネスを語る資格などない、経験もないし、実際失敗もしているから語る資格がない、だいたい芸術とかなる浮世離れしているところがあり語る資格がないとなる
ただここ十年いろいろ経験してそれで語っているのである
まず諺はこれは本当に真理のように普遍的であり人間の経験から生み出された教訓である、では今でもなぜ通用するのか?
それは人間というものがいろいろ変わっても本質的に変わらないものだからである

人間はまず損しようとしない、損するのが嫌なのである、損する人とは付き合いたくないのである、でもなぜ損して得を取れとなっているのか?
そこに経験から生まれた深い意味がある
ある人は事業を始めたが技術系であり商売のことは知らない人だったと思う
その家自体の家風がまたその人を染めたのかもしれない
ともかく一円でも絶対に損しないようにと身構える家だったのである
そして事業をはじめてもまず他人のために一つの物を運ぶこともいとう
ただでは何もしたくない、箱一つさえもたない、一円すら損することはしない
そういう家だったのである、そういう所で事業を始めたらどうなるのか?
何か嫌になるだろう、誰も接したくないともなる

別に損しろというのではない、とにかく相手のためにするというとき一円でも損したくないという身構えているのである
そういうことで商売が成り立つだろうか?
誰も確かに損して商売はしないしできない、でも何か損することがどうしてもある
でもその損することがまた得することに通じることもある
だから一概に損することにこだわると何もできなくなる
その辺の兼ね合いがむずかしいにしろ一円も損はしないぞという構えになると付き合いたくないとなるだろう
ただこの世の中損得に一喜一憂しているのが現実である
それはわずかの金でもそうである、だから誰も損したくない得したいと毎日必死になっている、それから逃れられないことは確かである

でも人間の不可解は「損して得とれ」という諺に現れていたのだ
つまり何が損か得がその時々で計れないことがあるからだ
その時得だと思ったことが損になりその時損だと思ったことが得になったということを経験しているだろう
例えば地銀で苦しいから投資信託を売るのはわかる、それで一時的会社はもうけたとかなる、だから得したとなる
でも銀行は信用を失うとかある、ゆうちょでも保険でそういうことがあった
今までゆうちょとか銀行は信用されていた、それで投資信託をすすめられても銀行がすすめるのだから間違いないと思って大損したばあちゃんがいたのである
銀行とかゆうちょはまず地域で信用を築いてきたのである
でもそれが時代でもうからなくなり変わった時一時的には会社の利益になり得しても
その次から信用がなくなる、銀行とかゆうちょはそんなものだったのか?
もう信用できないな、金をあずけることはできないなとかなることが怖いのである
それで一時的に得してもあとあとは損したとなっていたとなる

ただ損する行為は誰もしたくないのである、自分自身がなぜ働かないのに金を出しているのか?それが嫌になっている、まるっきり損しかないと思うからである
第一商売するにしても損していたら続かない、赤字になり倒産してしまうだろう
だから商売は多少の損を覚悟して資金の余裕をもってするものかもしれない
最初からぎりぎりの資金でしていたら一円でも損しないと身構えるからである
そうなるとかえって客もつかないとかなるからだ

例えば仙台から来たユニットバスを百万で作った会社は優創建は得させた
何か会社自体が損しているのではないか?
第一ガス会社では二百万かかると言っていたし地元の人に頼めば三百万にもなったかもしれない、だから本当に安かったし悪いものでもなかった
だからここだけは得したとなる
あとはみんな損することだけだった、金をむしりとられた奪われたとしかない、現実に盗まれたりもしたからである
その人たちはただ損することより奪うということだったのである
金に苦しんでいるからそうなった、相手が苦しいからこの際脅迫しても奪ってやろうとしかなかったのである
損も得もない、相手から奪おうとするときそれはすでに犯罪者だったのである
実際に罰せられるべきだったのだかそうはなっていない

でもとにかく人間の不思議は不可解は一見確かに得したと思っている、でもあとになると損していたとなる、これは今でもそういうことがある
何が得で損かわからないのである、例えば大きく歴史でも日本の戦争は負けたが三百万人も死んで負けたから国にとっては大損だったのである
でもその後の復興をみればそれが得に変わっていたのである
高度成長ができたのは既得権者を戦争に負けて一掃できたからだという人もいるからだ
国自体でも損したと思うことが得に変わることがある

そして人生そのものもがまた何が損か得かわからないのである
人生をふりかえって誰でも何か得だったのか、損だったのか?
それがわかるだろうか?美人と結婚したから得だったかなっているのか?
金持ちと結婚して得だったのか?それも最後になって見ないとわからない
人生の損得も計れないのである、損だと思ったことが得になり得だと思ったことが損になる、そんなこといくらでもある
得したとやったと思ったことが後で大損だったとかなる
結局人間は小さな損得に一喜一憂しているはかない存在だったともなる
達観すれば所詮この世の損得はどうでもいいことだったともなったりするからである
要するに死んだら損も得もない、一巻の終わりだとなるからだ
いくら富を積んでも来世にはもってゆくことができないことでもわかる
この世で宝を積んでもその宝も腐るし天に持ってゆくこともできないとなっているのだ

要する人間はどんなに得しようとしても結果的に得にならない
損しして得をとれというとき損が得になることがあるから経験でそう言っているのである得ばかり追求しても得になると思ってもならない、かえって損することにもなる
一時相手をだまして得しても結果的には損していたとかなる
つまり長い目で損得をみればそうなる、ただ人間は日々目の前の損得に追われているのである、だから本当に大きな得とか損をわからないのである
人生を総決算すれば本当に何が得だったのか損だったのかわからないとなってしまうのである

あの時損したとことが実は大きな得だったとかなりあの時得したと思ったことが損だったとなることなどいくらでもあるからだ
結局この世の損得は計れないともなる、だから損して得をとれという逆説が成り立つのである、そういう逆説が人生に必ずある、もしかしたら非正規とかロスジェネは割を食った損な世代だったとか言っているのもわかるがまだわからない
最終的にどうなるのかわからない、個々人でもわからない、結局何が損なのか得なのかわからないからである

正直自分の家にきて苦しい時、得しようとした人は絶対に成功はしない、自分自身のカルマであったにしろ相手も成功はしない
銀行ももう地銀とあれば地域に尽くすものだったかこれももう終わりなのだろう
北銀で農業に投資しているとか何か地域に役立つをことをしないと終わりになる

ともかく本当に損して得とれというときそれができない人は成功はしないともなる
一円でも損しないぞとか商売していたら人と接していたらその時点で失敗している
そういう人は事業するべきではなかった、雇われていれば良かったともなる
結局第一損得勘定からはじめる、絶対に一円でも損しないとしてはじめる
それより事業を始める目的は何なのか?それが大事だともなる
ただ得したい金を得ることだということがすでに失敗しているのではないか?
ただ得したいとなれば相手から金でも財でも奪えばいいとしかなくなるからだ
そもそも相手のために何か物一つもつこともしたくない、そういう人が果たして事業などできるだろうか?

社長として偉く見せたいというだけで事業ができるだろうか?
事業のことがわからないにしてもそのこと自体がもう事業する資格がないとなる
最終的にはそういう会社は消えるのではないか?
一時的なものとして泡沫のように消える、ただ事業自体が20人一人とか成功していない6パーセントくらいしか成功していない、だから何か動機があり真面目にやる人でも失敗している、でも最初から絶対に一円でも損しないとか何も動機がない、偉く見せたいためとか、そして他者のために物一つ持ちたくないという人が成功するものだろうか?
その人が技術系でありその技術だけに集中してやれば問題は起きなかった
そこで利を追及していれば何も損しないし問題も起きない、でも事業となると違っていたのである、結局事業起こすこと自体むずかしいからそうなったのである
そういう人は事業を起こすべきではなかった、社会の迷惑になるだけだった
その後借金して周りに迷惑をかけている

人間は日々目先の損得勘定で生活している、でもそれはいいとして大きな事業となるとまた違っている、損得を勘定しないで始めることも必要になる?一円でも損しないということで始めることはできないだろう
長期的視野をもたないとやれないのではないか?そういうことを言っているのもわかるのである、でも現実問題として利益があがらなければつづかない、だからある程度資金的余裕がないと事業ができないともなる
そこで大企業は豊富な資金があるから資本があるから有利だとはなる
一時的に損してもまた資金と資本があるから立ち直れることがあるからだ
個人事業主とかなるとそれがないからである
いづれにしろ(優創建)は安い、で損している感じにもなる、仕事もいい、だから成功するかもしれない、ただそれにしても事業自体がむずかしいからわからないとなる




posted by 老鶯 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題