地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた
(飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)
大倉村はダムができる前は本当に秘境だった、真野川の上流にあり家が固まってあった
それがダムに沈んだとき家が高台のみになり失われた
葉山祭りという古い祭りも失われた、ダムというのも自然を破壊して村を破壊していた
ただダムとなるとこれに反対する人はあまりいなかった
やはり効用があるからそうなった、それで大倉ダムがダムの底に沈んだときこの時多額の補償金が出たのだ、それで立派な家を街の方に建てた人が結構いて話題になったのであるそれで山でぱダムができれば金になるということで期待する人が全国でいたのである
それはもう50年前とかであり日本がという国は高度成長時代になり大規模な自然破壊が始まっていたのである、その最初がダムだったのである
これによってなんらか川の流れなども自然の状態ではなくなった
ただダムについては危険視する人は騒ぐ人はいなかった
ただダムも自然破壊だったことは確かである
そして気づいていないかもしれないが飯館村の木戸木から新しい道ができたけど七曲りの坂ではない道ができたけどあそこに道がないときは細い流れがあり森につつまれていた
そこは人が入らない神秘的な道だった、歩いていたのは10軒くらいあった開拓部落の人たちだけだった、その流れは長く清流であり森につつまれていた
一つの秘境だったのである
自分はそこに良く行っていたのである
でもそれもなくなったのが残念だった、でもそのことで誰も騒がない、むしろ道路を作ることが進められた、車社会だからそうなったのである
七曲りの道は車だと危険にもなるからだ
新しくできた道でも本当に必要だったかどうかわからない、なぜならそこを通る車はまれだからである
要するにここだけではない戦後は自然破壊が全国的に大規模に行われたのである
道路を作ることも地方では公共事業として進めれた、だからダムでも道路でも過剰に作られた、農道まで舗装されたとかまた水路でもコンクリートの水路になり自然の小川もなくなりメダカとかどじょうだとか生息できなくなったのである
文明が発達するということは必然的に自然が確実に破壊される、それは止めようがないのである、ただエジプト文明とかなるとこれは古いとするが自然と調和する文明だったのである、そこでは動物が崇拝された、アニミズム信仰ともなるがそれだけ動物が崇拝されることは自然と調和していたということなのである
そういう文明がピラミッドを作る大規模公共事業を成したということも不思議である
現代のような技術力があった、でも自然と調和した文明だったのである
普通だったら科学技術はどうしても自然を破壊する
それも科学技術の力が大きくなると大規模な破壊が生じる
人間の技術の力が弱小な時は自然破壊は大規模にはできないからだ
現代は科学技術の力によって自然は地球が大規模に破壊された時代だとなる
アマゾンが大火事になって消失するとか問題になる
それも原因は何なのかわからないにしても何か大規模に自然が消失してゆく
それが現代文明社会の最大の特徴でありそういうことが起きたのかとなる
そして地球が大規模に汚染されてゆく
原発がまさにそういうものだった、この辺のように人が住めなくなるのだ
要するにやがて地球に人が住めなくなる
このことを暗示したのが今回の原発事故だったともなる、空気であれ水と土でも汚染された住めなくなる、そういうことが地球規模で起きてくる
中国などは広いにしてもそういうことが大規模に起きている
原発の数も多いし増やしているからだ、そういうことでいつかこの辺のように大規模な汚染が生まれて人が住めなくなる
文明によって人は地球に住めなくなる、これを暗示している
そして人間の文明そのものが滅亡してゆく、自滅してゆく
それは人間自身の技が発達して災い(わざわい)となり自滅自壊してゆく
それはあくまでも人間側の問題であり神の知恵で創造したものとは違うからである
生態系は神が創ったものだが科学技術は人間の知恵と技で作り出したものだからである
それによってまた人間が滅びるのもカルマだとなり自滅自壊がすでに定められていたとなる
それで火を盗んだプロメテウスが神から厳しい罰を与えられたことでそのことはすでに神話で暗示されていた、それが20世紀になり科学技術の発達で現実化してきたのである
何か現代はグロ−バル経済でも資本主義システムでも限界にきている
それは結局強欲資本主義でありあくなき人間の欲望を是認するものだからである
それで今の若いものは欲がない、欲をもてというのも変なのである
断捨離とかミニマム経済とかになるのはやはり時代なのである
拡大成長一辺倒の経済は地球規模で限界に来たからそうなっているのだ
ともかく一地域を見ても本当に自然破壊の歴史だったことをふりかえる
今度は飯館村に風力発電ができるという、これもまた自然破壊だったのである
ソーラーパネルも草野にしきつめられたが今度は肝心の森につつまれた飯館村が風力発電でその本来の自然が破壊される
一見ソーラーパネルとか風力発電は自然を利用した自然を破壊しないものとして作られたしかし実際は違っている、やはり何かしら人間の作り出す技は自然を破壊するように宿命づけられている
確実に風力発電でも森を破壊する、人口の風を起こすことでそうなる、また景観も乱す
つまりソーラーパネルでも風力発電も自然のエネルギーを奪う行為でありそれはプロメテウスが火を盗んだのと同じなのである
風力発電でも自然の風ではない、自然の風を奪う行為だからそこに必ず自然破壊が生じて森が破壊される
それで科学者の武田邦彦氏がそのことを指摘している
そして未来とは何なんだったのか?それは山尾三省とかが言うには未来とは新しい科学技術のことである
今でもそうである、AIとか自動運転が世界を変えるとか核融合のエネルギーができるとか寿命はまだまだ長くなるとか科学技術が未来なのである
でもそれが未来だとして本当に人間の未来なのか?
科学技術への過信は危険
むしろ生態系の維持とか接続可能社会とかが最近話題になるのもそのためである
私は極端にしろこうして自然が破壊されることに耐えられない
もうそういう社会には生きたくないともなる、クルマ社会でもいいものとは必ずしも言えない、だから自転車にのっているともなる
車も自然を破壊するものなのである、クルマ社会だからこそ飯館村の神秘的な小川が喪失したのである、ただそれに注目した人は一人もいない、飯館村の人でもいない
自分一人だったとなる、つまり別に飯館村に住んでいるからとして自分のように自然を見ている人はいない、そういうふうに強いられたからそういう生活をしていたのである
それで多額の補償金が入った結果として飯館村を出ていく人が多いことでもわかる
金の力がそれだけ強くなったからそうなるのである
実際外から見ていれば自然がありそういう村がいいと言えるのはそこで暮らしていないからである
でも未来は何なのか?未来に残すべきは何なのか?
未来に残すべきは自然だった!
これから生きる未来に生きる子供たちに残すべきは何だったったのか?
それは自然だったのである、その自然が破壊されたとき暗黒になる
もう人も住めなくなったのである
住むべき自然が残されなかったのである
その責任は今の世代にあり文明自体を作った人たちにもあった
ただそれはここだけではなく世界全体グロ−バルに起きたことなのである
ただ未来とは確実にすべて科学技術こそ未来を作るということで一致していることは世界で共通しているのである
でもそれがここではそうではないことを現実に示したのである
放射能の被害は何代もつづき人は住めなくなった、これこそ最悪だったのである
貧乏でも住めるならいい、住めないということは最悪だったのである
自分たちの世代はもう消えてゆく、でもではこれから生きる子供たちとか世代はどうなるのか?それをう考える時自然が破壊されて残されていないとなるとそこに幸福がありうるのか?まず次の世代まで考えて生きている人はほとんどいない
今が良ければいいとしかない、そのことによって次の世代が苦しむ
カルマとなって次の世代にのしかかる、そもそも幸福とは何かというときそのこと自体の価値観の過ちがこういう結果を生んだともなる
限りない欲望の拡大しかないのである、もう金のためなら何でもする
自然破壊もそのためにはやむをえないとなるとか無関心となる
そもそも人間は景観を見て感動するより飯の種にならなかったらそういうものは美はいらないとなっているからだ、それが人間の醜悪さとしてある
だからこそ東京のような怪物都市とかニュヨークでもそこに美がなくても生きていられるのである、その人間こそが異常なのである
そういう異常性に気づいていないのである、ただ経済だけを見ている
美を価値として見ていないのである
だから東京に住んでいた山尾三省があれほど田舎に執着してまるで田舎に命を捧げるほどになったのは逆説だったとなる
第一田舎の人こそ東京の人と変わりないしむしろ東京の人より価値観では同じであり強いともなる、いい家が欲しい、いい食べ物を食べたい、いい車が欲しいとかもうきりないのである、借金してもそうしているのが現実なのである
田舎があって自然があってその価値観に生きている人はいないのである
だからこそ原発は積極的に誘致されたのである、原発は金の成る木だったからである
だからなんらかそうした都会の価値観とか文明の価値観を否定しないかぎりそもそもまた同じことが起きて住めなくなる、その価値観を変えなければならないのだがそれがもう簡単にはできない、それがみんな望むことでありそれを一人が反対してもどうにもならない
その一つがクルマ社会が変えられないのはみんなが車がなくては暮らしていけないと思っているからだ、だからわずかでも減らすこともできないのである
そして自転車を邪魔扱いしている、そういうこと自体いかにもう変えることが不可能かわかる
自然などどうでもいい、美などどうでもいい、それより便利さでありあくなき欲望の充足である、山なんかはげ山になってもいいとか森がなくなってもいいとかそれより電気だとか贅沢な暮らしだとなる、そういう価値観を変えられないのだから根本的には変えることはできず同じことが起きる、その未来も同じだとなる
そこに最終的に人類文明の崩壊が起きるという暗いものになる
それより人間の文明が神によって滅ぼされるともなる未来が見えてくるのである
ただではどうするのか、炭焼きの時代にもどるのか?森が活用されなくなったとき木材が外材となり利用されなくなったとき森が無用のものとなり人の手がは入れらずに荒廃した、つまり炭焼きでも入会の共同の山でも森でも利用していたとき自然も活きていたのである、いくら景観をどうのこうのといっても現実の実利として自然と結びつかないと自然も維持できないのである
だからどうしても自然保護だけとなえているときれいごとだけになり結局自然は維持できなくなる
でも本当にこの辺は原発事故でどういう生活があるべきなのか?山尾三省は極端にしてもそれほどまでに自然との合一した生活を修行者として自然への殉教者のように実践して早めに死んだといことは何だったのだろうと問うのである
実際は全く田舎であれ地方であれむしろ都会人より欲望は深く都会人志向であった
だからこそ原発は積極的にむしろ地域で豊かになるために奪い合うようにして誘致していたのである
この辺では反対した人は一人もいない、それがこの辺の特徴だったと思う
そして残すべき自然は破壊された、未来に生きるものは放射性物質と遺伝子の恐怖に延々とおびえるというより住めなくなったのである、子供たちでも飯館村には住んでいない、将来も住まないのである
それは飯館村の責任でもない、原発によって自然は奪われて住むことができなくなったのである
真野ダムができる前の大倉村の真野川の映像
大倉がダムになる前のビデオ映像が残っていた
ただこれも30年前であり画質が相当に悪い、でも真野川が大倉を流れていた
急流ともなって岩を打ち流れていた、その真野川にそって家が結構あった、一部落を形成していた
ダムに沈んだとき高台の方の家は今に残っている
これは貴重な映像である、他にも30年前のビデオの映像が残っているのでそれを記録してプログに出す予定である