2019年08月19日

お盆、墓参り、蝉の声(短歌十首―心はここにある)


お盆、墓参り、蝉の声(短歌十首)

母と姉死したるのちも離れざれ我が身にそいてふるさとに住む

残りにし写真一枚に姉思ふおおらかなりしも笑いありしも

月見草草むら深く咲きそめぬ田舎に我はこもり暮らしぬ

常にして飯館村へ峠越え休みし時に秋の蝉鳴く

紫と白槿咲き雨しととふるさとにふり墓参りかな

雨しとと蝉の声聞くあわれかな田舎静かに時はすぎゆく

今ここにひびき聞き入る蝉の声幾時生きむ雨しととふる

我が兄の墓標を建てぬ故郷に娘は捨てしも我は供養す

歳月はたちまちすぎてみな死にぬ年ふりあわれ墓参りかな

我が家にありしも不幸兄なりし今供養するは我のみなりき

また一つ切れにし縁や無常なりカルマはつづくこの世なりしも 

暗雲の流るも光る満月の光り明るしお盆なるかな  

床の間に白菊活けて奥座敷月影さして虫の音を聴く


今日は台風がきて雨風がある、でもそれほどでもない、昨日は暗雲が流れたが満月が皓皓と光っていた、お盆も終わりである
雨しととふる中に蝉の声がひびく、人間はやはり蝉の声を聴くにしても常に今ひびいている蝉の声なのである
今ここにひびいている蝉の声でありその状況とか場所によって違って聞こえる
今日は雨しととふっているから雨の情緒の中で蝉の声を聴く
こころとはここであり常にここが心が働く場所なのである
なぜならまず遠い所だったらもう蝉の声は聞こえないからである
蝉の声を人間の声にしても遠くなると聞こえなくなる
噂すら聞こえない、それでまた一つ親戚の縁がキレた、それもありまにも呆気なかった
こんなに簡単に血縁でも縁が切れるのかと思った

もともと薄い縁だったということもあった、兄が静岡に移り住んだとき遠くなり縁がうすくなっていた、もし近くに住んでいれば行き来があったからこうはならなかったろう、もう付き合うのも限界だったのである
つまり人間は遠くに住むと去る者は日々に疎しになるのである
いくら交通が発達しても通信が発達しても同じである
ただに会わなければ直接会わなければ情も深まらないし助け合うこともできないのである近くだと憎しみにもなるが遠いと憎しみにもならないのである


何か最後はこの世の事の終活があり清算がある
それでいろいろあり縁もキレたがそれでほっとしたともなる
結局この世の縁は重荷にもなるからだ
それで30年間は何もそうした重荷もなくわずらわしさもなく過ごしていたことが奇跡のようにも思えた、何かごたごたに必ず巻き込まれるからである
それは姉と母とがいた結果そうした安住があったのである
だから姉と母との思いは私の場合は消えないのである

ただ兄に関しては私の家の負の部分であり最後は交通事故で40才で死んだ
その時娘が一人残されたがその娘とも縁が切れた
それも十万電車賃を払って墓参りすると待っていたが来なかった
その娘は親にひどい目にあったから親のことをなんとも思っていなかったのが驚きである十万の金が価値があり親の墓参りなどなんの価値もないし親のことなど思っていなかったのである
何か思いがあり墓参りはするからである、それが全然なかった驚きである

蝉の声というとき私はいつも自転車で飯館村へ大倉村から延々と坂を上って行っていた
自転車だからきついしその坂が長いのである
そしてその峠の手前でいつも休んでいた、その時どういうわけか秋の蝉の声がひびいていたのである、それが印象的なものとして心に残っている
これはなんとも不思議なことであり私はいつもその長い坂の峠の手前で休み秋の蝉の声を聴いている感じになる

そもそも蝉の声というとき

静けさや岩にしみいる蝉の声

この芭蕉の句がどうしてできたのか?これは暑い盛りであり今になると秋だからその時相当に蝉が鳴いていた、何か今は8月になってから蝉がなく、

するともう秋なのである
ヒグラシでもそうである、秋の季語である
だからその時は夏でも多くの蝉がいて一斉に鳴いていたとなる
でも不思議なのはこうして蝉の声を岩にしみいるとして聞いているのも旅人なら不思議である、地元に住んでいるならこうなってもわかるが旅人がそ

んなふうにして蝉の声聞くだろうか?じっと岩のようにしているのは地元に住んでいればそうなる
そこに定着していればそうなる
それは結局江戸時代という静寂の環境がそうしたともなる
芭蕉の残した俳句は今でもどうしても作れないものだからである
それは江戸時代という環境があり作れたとなるからである 

人間は最後に人間でも断捨離があり清算が起きてくる、そして最後に残るものは何なのか?
それはこの土地に住んでいるということかもしれない、心はここだからである
遠く離れていれば心が通わない、ここにいなからである
だからそこに誤解が生じるし意思疎通ができなくなる
ただまた逆にここにいることでかえって憎しみとかが深くなるのも人間なのである
遠くだったらかえって日々接することもないから良くみていることがある
それはその人が何をしているかも分からないからである
それは勝手な思いこみでありそこに誤解が生じるし意思疎通ができなくなる
だからこそ「遠くの親戚より近くの他人」になってしまうのである
二年に一回くらい頼りがあってももうその間に何が起きているかわからないからだ
人間は日々変化の中に生きている、人間関係でも変わるからである
ただここはその土地は変わるにしても変わらないから心がここにあるとなる






2019年08月20日

津波原発事故で学問の大事さを知った (学問は未来を知るための過去の知識の整理と分析)


津波原発事故で学問の大事さを知った

(学問は未来を知るための過去の知識の整理と分析)

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【武田邦彦】2019年はこうなる! などとドヤる学者の話を真に受けてはいけない

学問とは何なのか?
私自身別に学問を志した訳でもない、そもそも自分自身が学問を志すほどの能力がなかった、まずおかしなことは学校は学問する場なのである
でもそれを感じている人はまれだろう
いつも試験試験であり点数で優劣を決めるとかしている
だから人間がこうあるべきだとか学問をなぜするのか?
それが現代にはない、ただいい大学に入りいい会社に入るということしかない
現代はただ知識と技術の追求であり何ために学問するのかわからなん
功利的なものであり学問はまた知識欲であり好奇心である

学問は現代では実利的なものと結びつきすぎたのである
学問が実利的であれば社会でも容認するし金もだす
でももし実利的なかったら社会に何の役にたくのかとなり文系はいらないとなる
文系は実利と結びつかいのが多いからである

私が一番学問とは何なのかを感じたのは津波と原発事故だった
これほど学問を必要としたものはなかったのである
この大問題に直面して学問の大事さを知ったのである
それまでは郷土史でも地名とかなんとか好奇心であり学問とは思えないものである
俳句とか短歌を作っても学問とはならない
つまり津波と原発事故は最も学問が必要なものだったのである
それは生死にかかわるものだったからである

学問は生死にかかわる、未来の予知は生死にかかわる

普通の人にとって学問は自分と結びつかないだろう
庶民はただ功利的に生活している、今日の金を稼ぐために毎日仕事している
だから原発が金になるとなれば危険をかえりみず積極的に誘致したのである
でも学問は実利的なもの功利的なものだけではないものを追求している
学問の範囲は広いのである、宇宙の中の星がどうだとか研究してもそれが現実生活にどう反映されるのかそんなこと知って何か利益があるのかともなる
それはただの好奇心であり宇宙のことなど結局人間の知識の範囲外であり絶対にわからないと思うからだ

学問とは何かというときそれは未来を予知することにあることは確かである
未来がどうなるのかとなると実際は予知は不可能だとしている
地震でも予測できないのに予測していることを批判するのもわかる
ただ過去の記録を整理して分析することが学問であり予測はできない
その整理と分析から未来を予測するだけである

それを怠っていたために津波や原発事故で大被害になった
津波では二万人近くが死んだとかなる、それを予測できなかった
でも過去を整理して分析すればある程度予測できたことは言える
でもそれはかなりむずかしくなる

相馬藩政史に津波のことは二行でも記されていた
「生波(いくなみ)で700人溺死」と記されていた、生波とは津波のことである
まだこの時津波という言葉はない、慶長津波以来津波という言葉が定着したのである
この二行だけで凄い記録だった、でも今回の津波で明らかになったのでありそれまで相馬藩内で注目していた人はいなかったのである
郷土史というと何か好事的的なものであり実際の役にはたたないとされていた
でも郷土史という範囲は本当に広いのである
そこに地質学なども全般をトータルに郷土という地域を知ることでありそこには必ず科学的知識も必要なのである
だからとても一人では郷土史でも解明できないのである

学者の使命は未来を予知することである、なぜなら今回のように大被害となり二万人近くも死んだとういことでその被害はあまりにも大きいものだっからである
聖書が予言の書だというとき昔から何か常に大きな被害があり未来を知ることが生死にかかわっていたからそうなった
危険の前に逃げ出さないと死ぬということである
ソドム、ゴモラの滅亡が予知されて逃げた結果助かった、ソドム,ゴモラは神によって壊滅したからである
それは津波のように一瞬のできごとであり少しでも遅れて逃げていれば津波のように死んだのである
ただ未来は予測できない、人間の力では予測できない、未来は神の手の中にある
そこに人間の限界がある
なぜなら何億年の単位とかなるともう人間の知識でも力でも及ばないからである

何か微分積分でもその瞬間的なものでも変化がありそれが未来を予測している
株価の変化を瞬時的な変化から上がるとか下がるとか変化がないことでチャートをみるし予測する、人間の社会は自然でも人事でもは刻々変化しているからである
でも何百年とか何千年とか何億年という変化になるとできなくなるのである

ともかく確かに整理と分析が学問の要諦である、これは地道でもそうだったのである
現実に岡田清氏が過去の事実を整理して分析したことでもそうである

津波の前と後では石高が三分の一に減ったということは事実を整理して分析した結果だったのである
ここに学問の力を感じたのである、それは数字となり具体的になったから訴える力があった、それは過去のことだからできたのである
未来となるとできない、ただ過去のことはこのように学問でわかる
そこから未来はこうであろうということは予測できる、でもそこにはいろんな変数が生じるからあくまでも未来は確かではない、ただ過去の事実とか整理、分析から未来が予測されるのである

だから原発事故でも10数メートルの津波が来ると東電関係の学者が予測していたのである、だから津波対策をするべきだと提言していたのである
そのことにやはり科学者の学問する者の力を感じた
もしそれを大々的に宣伝してみんな知れば津波にだって警戒したのである
そういうことを広く知らされていない、それでこの辺では津波はこない地域として確信になっていたのである
でも学者が予見していたのである、それは占いとかではない、科学者がそうして過去を整理分析して予見していた

ただ津波対策をしなかったとなる、ただ津波の前にすでに配管とか原子炉でも危険な状態になっていたということは今になると説明する人もいる
そのことでも東電はなぜ事故になったかを正確に公表していない
結果的に次の事故でもそうなると起きる、なぜ事故になったかという正確な資料が残されないからである
それは戦争でもそうである、なぜ戦争を起こしたのか?それも日本自体が総括していないだからまた戦争が起きるともなる
いづれにしろ津波とか原発事故をほど学問を必要としていたことを感じことはない
それは結局生死にかかわるものだったからである

いづれにしろ文系は役立たないと言われるが郷土史でもこうして生死にかかわるものがあるということを実際に知った
時事問題の深層に7年前に相馬市の奥まで津波が来ているということがボーリング調査でわかっていたことを書いた
それはスマトラ津波があったときだった
でもそれは貞観津波のことであり400年前の慶長津波のことではなかった
貞観津波となると千年以上前のことだから危機感がない、でも400年前となると相当に危機感をもったはずである
それを科学者が原発に津波が来るということを調査して対策するように提言していたのである
それで裁判で東電は津波が来ることを知っていて対策していなとしてその過失の罪が確定されたのである
それは東電の経営者の責任だったのである、科学者は学者は理論的に危険を提示した

でも実際の対策すべき経営者はコストの関係とかで対策しなかったのである
それは政治家の役割でもあり政治家も何もしなかったのである
それは国との共同責任だったのである、つまり権力のある経営者はそれだけ責任が重かったとなる
それは政治家にも言えたのである、その責任の重さを自覚していなかったのである
そしてこうして経営者でも政治家でも責任はとならないが必ず戦争でも3百万人死んだとか津波とか原発事故でも甚大な被害が出
たように誰かが責任をとらされるのである、その責任から逃れられないのが人間社会なのである

posted by 老鶯 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)


南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)

●相馬氏の「一族」「若黨=家人=郎従?」「中間」

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若党(わかとう)      

『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したもの[1]であるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた[2]。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。


相馬氏の一族のことで千葉氏のことを詳細に書いているサイトがある
それを分析すると南北朝時代にすでに住んでいた人の名前が記されている
そこで注目したのが小嶋田と姓を名のる人がいた
江多利(江垂)六郎入道と名のる人がいた

仏道修行に入ることだが、とくに出家剃髪していながら在俗の生活をおくる者にいう。それから坊主頭の人を入道というようになり、

その土地の名を名のることは普通にある、それはその土地に土着したことなのである
江多利(江多利(江垂)六郎入道)六郎入道とあれば今の江垂に住む坊主頭の世俗の人だとなる

家人(けにん)とはその家に仕えるものなのか、また妻が夫を家人と呼ぶこともある
身内の人だとなる、侍は一つの家を中心に使う者と仕える者がいた
この表では姓がある者とない者がいる、中間とかなるとない、若党も中間とにていたが姓を持つものがいた、家人でも姓がない人がいた
この表でぱ若党はみんな姓をもっていたからまた別な役割をもっていた、格はは高かったともなるのか?
姓を名のることはよりその一族と一体化した人たちだったとなる

この表に注目したのは1300年とかなるとこの辺では古い、普通は江戸時代以降でようやく人物名が明確になる、その頃すでに姓があり土着して住んでいた人がいた
だから小島田は意外と古い地域だということがわかる、江垂もそうである 

小島田が古い地域であるという時、12年に一度行われる「お浜下り」の祭りで行列が小島田村に入るととき儀式がある、つまり小島田村は重要な村であり昔は境が大事でありそこを通るために許可が必要だとかなりそういうシキタリが残されていたとなる
郷土史では村の新旧を知ることが基本である
小島田村は古いが右田村は江戸時代に開拓されたのだから新しい
海老村は弥生時代の遺跡が津波の跡から発見されたから古いとなる
古墳のある寺内なども古いのである、古墳がある所はわかりやすいとなる
それで日下石に前方後円墳があった、それは津波が近くまで迫っていた地域だったのである  

今回小島田村も津波の被害があった、大きな被害にはならなかったが被害があった
ただ常に言うがこうして南北朝時代から集落があり古いのにこの辺では津波に関する伝承が残っていないのである
慶長津波は江戸時代になるときであり1611年である、1300年にすでに人名が明確にこのように記されて住んでいたのである、でも津波に関しての伝承がないのである
小島田という地名はこの辺が湿地帯であり島のようになって田があったとなる
そういう土地であった、大内の袋村は江戸時代に開拓したが消えたのは海側と河口に近く開拓できなかったのである

いづれにしろ真野という地域は古い、古代にさかのぼりそこは入江であり塩崎に船着という地名があり市庭という地名があり船が行き来していたのである
ただこの船は今の東北電力の火力発電所がある所で大規模に鉄の生産をしていたのでその鉄などを運ぶのに船を利用したと見る
そんなに遠くから古代には船は来ないからである
ただ頻繁に船は行き来していた、大内村に曾我船とある地名は船がさかのぼるということから名付けられた、ということは船が頻繁に来ていたからだとなる
泉かんがあったがそこに運河作られていて船が行き来していた
そうすると短い区間でありそこを船を利用していたのである
なぜそんな短い区間をわざわざ運河を作ったり船で行き来したのか?
それは湿地帯とか道が作られていないとかあり川とか運河でも海でも通行しやすいためである
そして大内村には800年の坂上田村麿の関係する薬師堂がある
これは古代にさかのぼるから大内村は古いとなる

いづれにしろ真野地域は南相馬市の鹿島区では一番古い場所だとなる
それは古代からつづき中館があり真野五郎が住んでいた
そこち南北朝で霊山から逃れた侍が住みついた
古代になると名前が姓があって人物名がないがこの頃になると明らかに人物名がはっきりとして残っている、それは相馬氏一族関係者であり霊山から落ち延びてきた南朝方の侍なのである
ただ霊山から落ち延びて来た桑折氏がいた真野で桑折五郎となのった
その前に土着していた真野五郎がいたとなる、ではなぜ五郎なのか?名前をとったのか?
それも謎なのだが五郎とか八郎とか九朗とかの名前が多いのはそれだけ兄弟が多かったためだろう
今でも八郎となれば八人目の子供だとなるからだ、今はもう子供の数が多いからそういう名前はないのである
次郎太郎とか普通にあったがそれすら今はなくなる時代だからである

鹿島の街内に住む只野氏はその子孫である、只野氏には何か古い資料が残っているとか聞いた、そして謡(うたい)として伝承を伝えていたが個人の家だけなので伝えにくくなったと聞いた、伝承は謡(うたい)として歌として残されていた
もともとは文書ではなく謡(うたい)として残されていた
それが祭りだとなる、でもなかなかその伝承も継承できなくなる
個人だけではやがて消失する、そして祭りを継承する村とか共同体がなくなると個人だげでは継承できなくなる、それで現代は村の祭でも継承できなくなり廃れてゆく
少子高齢化や過疎化で廃れてゆくのである
祭りはやはり共同体があって維持できるからである 



鎌倉時代1185年平氏が滅亡、源頼朝が守護・地頭の任命権を得る(鎌倉幕府の成立)
1192年源頼朝が征夷大将軍となる
1274年元寇、モンゴル帝国の襲来
1333年鎌倉幕府が滅亡
1334年建武の新政が始まる
1336年 室町時代南北朝の動乱
1338年足利尊氏が征夷大将軍となる
1392年南北朝が統一される


千葉氏一族の歴史

ここのサイトから著作権違反を指摘されたことがある
だから引用もむずかしいところがある
ただ一部の表をここに出した
こういうものも指摘されれば出せないとなる
でもそうなると学問的には発展しないとなる
なぜなら学問とは共同研究になるからである
全国になると特に広いからそうなる、そこでインタ−ネットは学問でも素人でも資料とか論文を読めることで参画できるようになった
それであまり著作権を言うと研究も発展しないとなることは確かである




posted by 老鶯 at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年08月21日

あおり運転の心理(車は人格を変える)−スクランブル1

あおり運転の心理(車は人格を変える)−スクランブル1{テレビ朝日)

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●車の中がじぶんにとってリラックス空間

これはクルマの中が外から遮断された密室となり自分の自由な空間となる
そこには相手がいない、他者がいない、いたとしても親密な人でありそれは気を使う他者ではない
その空間は他者を排除して受け入れない空間なのである
プラベイトな空間である、プライベイトとは奪うという意味であり空間を奪う私的なものとして奪うことなのである

そこにパブリックが欠けるのである
共有する空間という意識がなくなる
専横的的にふるまう空間なのである

電車ならそこは他者がいて気を使うから共有空間である、そこに他者でも情を通うということがある
老人席とかが用意されているのもそのためである
つまり車はこうして極めて私的なものとして相手を無視して暴走する性格を有している
それでハンドルを握ったとき人格が変わることを意識しろとなる
日ごろ穏やかな人でも人格が変わることが怖いのである
そうしてそういう人格は形成されているから車に乗らない場でもそういう性格をひきづるのである

とにかくクルマは他者に対する共感性を喪失する乗り物である
歩いて旅すれば旅は道連れとなる
そこに情が自ずと育まれる、そして別れるときもその後姿をずっと見ている
車は例えばそういう情を育むものが一切ない
瞬間的に別れを惜しむ時間もなく暴走して差ってゆくのである
つまり必ずキレル乗り物なのである

駅だったら待つ時間がありその時間が人間的時間を造りだしている
何かそこで十分でも待つから話したりする
それだけでも何か駅を人間的なものにしている
クルマにはそういう人間的時間とか共有する時間がないのである
プライベイとに暴力的になるものもわかる
自分だけの空間で他者への配慮がなくなる
それであれは極端にしてもなぐりつける

オレの邪魔するな)となる

そこには忍耐心も情もはぐくまれない、それは牛馬とか動物と一緒に生活したとき相手は生き物だからそこに情が育まれた
馬でも牛でも名前を呼び人間のようにも扱ったから情が育まれていたのである
クルマ社会の人間は何か他者への配慮がなくなる、クルマは他者を排除してキレテ暴走するのである
だから現代の人間はこういうクルマ人間になっていることが怖いのである

ハンドルを握ったら人格が変わる

これは林秀彦がテレビが人間どれだけ変えたか自らテレビとかかわってそのことを指摘した
ラジオがナチスを生んだというようにテレビで人間の人格まで変えられていたのである
道具はなんらか人間そのものもを変質させるから怖いのである
それはパソコンでもスマホでもそういうことがある
人間はやはり対面的でないと本当のコミ二ケーションが作りにくいのである

タイムアウトしろというときやはりクルマで走り続けるのではなく中断するということである
一息ついて車から離れることである
ただそれはかなりむずかしい、それで車から解放されるわけではない

いづれにしろこのあおり運転した人は40くらいで普通ではないことはわかる
そしてこの40代が問題を起こしやすいことがわかる
最近の事件でもそうだからある
この人は金に困っていない、マンション経営とかで親の遺産で暮らしているからだ
こういう人は都会にいる、それで外国で会った人が自由に早い時期に外国旅行していたのである
そういう人は本当に恵まれた人だったのである

ただそういう人は自由をもてあます、それで必ず「小人閑居して不善を成す」となる
そういう人が非常に多くなっている
このあおり運転した人も一流会社にキーエンスというAIの会社に就職していたからである
でもすぐにやめて社会性が喪失して遊ぶようになり問題を起こしたのである
そうなりやすいのである、それは自分自身も経験しているからわかる
40頃に何か問題を起こしやすいのである
何かおかしな方向に暴走しやすいのである

あの人は異常でも車に乗るとあれほど暴力的になるのかということをまざまざと感じた
あそこまで普通はしない、それはクルマが人格を変えるということでそうなる
クルマでは忍耐心が養われない
常に渋滞でもいらいらしている、とにかく切れやすい乗り物なのである
それがクルマから乗らなくても人格が変わっているのである
切れやすい性格になり情がない人格になる
だから現代人は人格そのものが変わっている
何か他者を人間とも見ない、物にしか見えない、それはまた資本主義社会で金だけが唯一の力となったこととも関係して
さらに人間は人格が変わったのである

そういう人間に取り囲まれていることは恐怖だとなる
他者に対する同情心も喪失している、第一車だったら道路で怪我していようが死んでいようが見ないで去ってゆくだけである
それで知っている人が道端に人が倒れていても助けないというときクルマ社会で形成された情なき人間になっているからそうなるとも言える、クルマに乗っていれば他者への配慮とかいたわりなど消失するからである
むしろ攻撃的になりあれほどなぐりつけるのも驚く
他者はもう攻撃してクルマで踏みつぶすものだとなってしまうから怖い
自転車でも絶えず邪魔者として怒鳴られる、そこに人間としての交流もなにもないのである
文明人は様々な便利な機械を利用するがそこで人格が変わっているのである
その機械の負の部分を知るべきである、原発でもそうだが機械には必ず負の部分がありそれが大きく影響して社会自体を変えている、人間も変えて非情化しているのである

posted by 老鶯 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

姉の北海道旅行の写真 (姉がいて自分は自由に生きることができた)

姉の北海道旅行の写真

(姉がいて自分は自由に生きることができた)

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コロポックル

この写真がたまたまでてきた、旅行の写真はかなり残っていたが何か貴重なものにはならない、この写真は姉らしいものなので出した
姉はおおらかな陽気な女性だったのである
いつもにこにこ笑っていたのである

だから認知症になって一時自殺したいと言ったとき悲しかった
社交的な女性でも認知症になってから誰も来なくなった
話がまともにできなくなったからだ
話好きだったから本人もがっかりしていた、
話す相手は自分しかなかったからだ
そして戦争の話を千回聞かされたのである

でも時間が過ぎるのが早かった
死んでから8年とかなる、それは津波とか原発事故とかあり余計にその間にごたごたして時間がまたたくまに過ぎたのである
十年がまたたくまに過ぎてしまったのである

ともかく何か死んだら記念になるものを残すといい、それで偲ぶことができる
姉とは子供の時からずっと一緒だった
60年間一緒だった、その長さがやはり忘れられないものとしたのである
もし結婚して他の家に行っていたらこうはならなかったのである

また姉がいたから中学生の時父が死んでも家を維持できたし繁栄できた
私が勉強嫌いだったが大学に行けたのもそうである
あと何もしないで旅行とか自由な生活を送れたのもそうである
私は学校とか会社には適応できない人間だったからだ
そういうことができたのも姉がいたからだとなる

ただこれにもプラスとマイナスの面があった
そのために社会で働かないから社会性がなく介護になってから苦しむ結果となったのである
ともかく学問でも芸術でも追求できたのは姉がいたからだとなる
旅行していても何も言われなかったからである
ただ自由にしていいとなっていたのである
ひきこもりでも別に何も言われないのである
かえって旅行することをすすめられていたのである
だからこういう人生になったのも姉がいたからだとなる


2019年08月22日

夏景色(Summer scenery)

夏景色(Summer scenery)

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cool

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2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


posted by 老鶯 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2019年08月24日

若い人はなぜ老人を理解できないのか? 老人の心境(安住する場所)


若い人はなぜ老人を理解できないのか?

老人の心境(安住する場所)



老人は新しいものを受け付けない
これまで形成して組み立てたものの中に生きる
空間でも時間の中でアイディンティティ化したもの
時間軸で生きるようになる
若い時は空間をどこまでも駆け巡る
マ―キューリーのように動き回る
でも老人になると鈍重な土星のようになる
老人は人でも外界でも時間の中で作られたものに生きる
それで今より過去に生きる
だから死者は死んでいない
その人の中で親しく生き続けている
むしろ新しい人を物を老人は取り込めない
今まであったものが親しくその世界を形成している
それは固陋な古い家であり神殿のようでもある
その柱は時間軸の中でともに存在した人でもある
そこに新しい人は入りこめない
時間軸で形成した固定して閉ざされた世界
時間の中でアイディンティティ化した世界
老人はその中に生きている
大きな大地に根を張った古木
時間の中で成長してきたもの
そういうもののなかに安住する
そこに昔からあった石
そこに座り見慣れた風景の中で安住する
長くともに生活した家族は死んでも生きている
だから死者に話しかけて生きつづける
死者が老人には生者より親しいもの
新しい人の名前を覚えることができない
新しい人はその時間軸で形成された空間に入れない
堅く拒んで入れない
老人は過去から今へつながっているものの中に生きている
新しく生成したものは存在しない
固陋な老人のアイディンティティ化した世界は変えられない
それは古木のように大地に根を下ろして変わらない
そこに老人は深く安住して動かない
その建物は完成したものであり新しく変えることはできない
その中に長く一緒に生活を共にした人も生きている
死者は老人の中では死んでいない
むしろ若い人を認識できない
名前も覚えることもできない
老人の中ではそうして新しいものを取り込めない
ただ古い家や神殿のようになっている
一時代に形成されたアイディンティティ化されたものに生きる
新しい時代を拒否して受け入れない
変化できないのが老人の世界
そのために世代の差が埋められないのである

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ソリドゥス金貨(ソリドゥスきんか、Solidus)は、4世紀のローマ皇帝・コンスタンティヌス1世の時代よりローマ帝国・東ローマ帝国で鋳造された金貨の総称。東ローマ帝国では「ノミスマ」(ギリシア語: νフμισμα)と称された。11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通した。

中世フランスや南米などで使われた通貨のソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)はソリドゥスに由来し、ペルーでは現在もヌエボ・ソルという通貨が使われている。

ドル記号$の由来ともされる。また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。

solidとはまさにこうした純度の高い金貨である
老人は純度の高い精神性を追求して表現するのに適している




人間は意思疎通ができないというとき職業が違ったり住む場所が違ったり男女間でもそうだし特に世代間で意思疎通ができなくなる
若い世代と老人のギャップは大きい、まず若いという時その心は外に向かう
だから空間的に生きる、広い世界を見たいと思う
自分自身にしてもこれだけ旅行したのはそのためである
女性でも若い時は冒険的になり遠くに出る、今なら外国にも普通に行く
そしてインドでもインド人と結婚した日本人女性がいた
それには驚いたが良く話は聞けなかった、そういう余裕もなかった
ただ女性一人で旅行していた人もいたことには驚く

若い人は空間を生きるのである、まだ見ていないものを見たいという欲求が強烈なのである、だから故郷から出たいとなるのが普通である
故郷だったらそこは常に見るものも同じでありあきるからだ
だからむしろ故郷を嫌悪して外にでる
自分自身でも故郷を嫌悪していたから東京の大学に入った
それはどうしても親元から故郷から出たいということが動機となっていたのである
勉強する気持ちもなにもなかったのである
それが自分のような一人っ子のわがままなものには良かったのである
だから東京に行くとか20代は一番冒険的だったのである
これは自分だけではない、みんなそうなのである
私の母は内気な性格であり冒険的なところのない人だった
その人さえ東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それはその当時相当冒険的なことだったろう
そこで夫が工場で働いていて事故で死んだ故郷に帰ってきたのである

とにかく自分の場合、50代でバックパッカーで外国旅行したからその時も外部志向であり空間を生きていたのである、空間の拡大の中に生きていた
これは他の人にはないし異常だったと思う
50になればたいだい内向きになってくるからだ
ただ外国旅行というときもとから外国に憧れていたからそうなった
私が失敗したのは田舎に友達もいないし何か情報にうとかったからそうなった
ただ外国に対しての強い憧れがありそれで50からでも外国旅行したのである
だから本当に辛い苦しいものとなった
こうしたきついことは若い内にするべきだったのである

いづれにしろなぜ老人のことが理解できないのか?
むしろ老人になると若い人のことを理解している
それはみんな若い時を経験しているからである、ただ子供時代になるとなかなえ理解できなくなる、子供の時代は特別な時代でありその経験はもうできない
そして大人になると子供時代のことを理解できなくなる
でも若い時のこと大人になってからのことは理解できるのである
若い時は若気のいたりがあるというのもわかる
必ずエネルギーがありあまり噴出して過ちを犯すからである
それがその時で終わると思うが実は老人までその時の過ちをひきづる
それが若い時はそれで終わると思っているからそういうことをするのである

不思議なのは若い時は老人のことをなにやかにや言うにしても老人のことを理解できないそしてみんな60くらいで死ぬとか言う、でも実際は今なら百歳まで生きるようになる
若い世代は得にそうなのである、早い内に死ぬからいいとはならない
そして60過ぎても誰も早く死にたいとは思わないのである
そして60とかなると20代からするととてつもなく先のように見えるのである
でも50、60になるとあっというまに過ぎたとなる

ただ年齢をふりかえるともう40になると白髪でてきたりするから老化してくる
それで40は何か人生の分かれ目のようになる
それで結婚しないとか給料が安いとか非正規の底辺労働者が嘆いているがその心境がわかるのである、40はまだ挑戦できる時代だが50になると無理になる
50になるともう初老になってしまうのである、ところが40でも50になるのはすぐなのである
50から外国旅行でバックパッカーしていた自分は普通ではない人間だったのである

とにかく自分は本当に老人になった、体力的にはまだ体に柔軟性があり運動もできる
でも精神的には老人になっている、介護になってから十年は旅行もしない、ただ毎日同じ場所にいる、外に遠くに行くのが億劫になった
仙台にすら今年は一回行ったのかとなる
何かもともとそうだったのが人ごみの中に行くの余計に嫌になったのである
もともと自分自身の性格は山の中で一人石のようにしているのがあっていた
人と会うことや人ごみの中に人と接することが向いていないのである
その気質も異常化する、引きこもりの性格がもともと自分にはあっていたからこうなったのである

なぜ自分が老人になったということを意識したかというとこの詩のように心境がなっているからだ
そして老人の心境を理解したのである
例えば老人は新しいものを受け付けない、新しく接した人の名前を覚えられないのである特に一回切りだとかなると余計に覚えられない、それで認知症になったとき遠くの子供の名前やその人自体を忘れるというのはありうる
それが身近にいないからそうなる、でも身近に暮らしていればそういうことはない
いつも一緒にいた人は覚えているのである

そして気づいたことはいかに長く一緒にいた人がその人に影響して人間を作ったいたかということである
私は結婚もしないし子供もいない、でも親と一緒に60まで暮らしていた
姉ともそうだった、だから他人にとっては嫌かもしれないが姉と母のことをこうしていつも語っているのである、それは夫なら妻のことを妻なら夫のことを語るのと似ているのだいい年して親にこだわるというのもわかる
でも現実がそうなっていたのだからどうしようもないのである
自分にとって一番影響して親しいものは姉と母だったからである

そして死んでわかったことはそれだたけ長く一緒に生活していると死んでも生きているという感覚になるのだ
これも自分だけではない老人の心境なのである
それで認知症になった人が死んだ人と話しているということが理解できる
別に認知症でなくても死んだ人と話しているのである
その時死んだ人は死んでいないのである

今生きている人より死んだ人が老人には親しい

死んだ人の方が生きている人より身近である

こういうことが一般的になっているのが老人なのである
だから死者の方が親しいから死者にいつも話しかけるとなるのである
その時死者は死んではいないのである

そして老人の世界観はこれまでの生きた人生の中で人でも空間でもアイディンティティ化した一つのコスモスを形成している
それは変えられないのである、だから新しいものを受け入れられないのである
固陋な神さびた神殿のようなものを形成してその中に生きているのである
それでそこに若い人は入れないとなる、拒絶されているのである
老人が安住する世界はそうして一緒にともに生きた人がいて人生の中でアイディンティティ化したもののなかに生きることなのである
その時精神が安定するのである
だから原発事故とかで避難した老人が故郷に帰りたいという心境がわかるのである
それはそこで長く生きていたから環境でも人でも一体化して生きていたからそうなる
それがまるで違った環境に移住することは苦痛になるのである
ただ南相馬市だったらその内に移住したらそれほどの違和感がないかもしれない
小高の人が原町に住んでも鹿島に住んでもそれほど変わりないとはなる

老人は空間を生きるより時間軸に生きるようになる、時間軸に生きるということは空間を移動するのではない、一か所に定着して生きることである
そして物事でも深く見る、深く鑑賞するのに向いている
だから本でも深く理解できる、そして鑑賞できる、それで批評家に向いてくるのである
批評はやはり一段と高いところから心境からしかできない
若い人はどうしても人生がわからない、老人が理解できないというとき老人になる経験がないからである
老人は人生をふりかえり誰でも経験しているから若い人のことも理解できる
40の人でも自分があの時代はどうだったとかふりかえり理解できる
何か焦燥感が一番出る年代だということを経験で知っているからである

でも40代の人は60以上の人のことをまだ理解しないのである
60以上になるともう死に向かっている
この世から離脱してゆく年代になる、だから40の時のような焦燥感も何もなくなっている、あきらめにもなる、どうせまもなく死ぬんだとなるといろいろ悩まないのである
むしろこの世から消えるのだから気持ち的には楽なのである
何かを成そうともしない、あとは死ぬだけだとなれば気持ち的に楽になるのである
それも老人にならないとわからない、その老人というのは今なら70以上だと思う
老人はどんな人でもどうしても一種のあきらめになり悟ったようになる
でも別にこの世の欲がすべて消えるわけではない、簡単に欲は消えない
残り火のようにかえって性の欲でもなんでも燃え上がることがある
それだけ人間の欲が強いものであり消えないということも実感する
だから老人がそういうことで問題を起こすことも理解できるのである
ただ老人の心境は詩のようになることは確かなのである



原町と鹿島の比較 (原町に小高の人が住んでいた、原町も鹿島も復興している)  


原町と鹿島の比較

(原町に小高の人が住んでいた、原町も鹿島も復興している)

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原町駅前の丸屋の十階建てのホテル

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サンエイとは相馬市に本店がある海苔店である

隣にそのその店があった

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ここはニトリの家具店になった
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鹿島区の障害者の学校

これは大きいものである




今日は電池で使うデジカメをもっていった、その単三の電池がなくなっていた
それで電池を買おうとコンビニに入った、でも高いと思い百円ショップに行った
そこで単三の電池が四本でアルカリでも百円だった
それを今までダイユーで買っていたので失敗した
400円とかになる、ダイユーの中に百円ショプがあってもわずかのものしか売っていない、こういうところが鹿島では不便である

そしてキクチスーパーで売っているのものが原町のキクチで売れ残ったものなど新鮮でないものを鹿島に置くとか言われる
品ぞろいも鹿島は悪い、前はシシドスーパーがなかったので独占していたから余計に品物が悪いとか高くついていたのである
原町だと競争があるからいいもので安いものを置くとなる
今度大木戸にシシドスーパーができる、新鮮な野菜を置くからこれも便利になる
それから駅前にヨークベニマルが再開する
そして今度廃業したスポーツ店から家具のニトリが8月30日に開業する
だから原町は相当に前の状態に復興している

それから六号線にサンエイ海苔店がありその隣にサンエイという6階建てくらいのホテルができた
ホテルはこの辺でまだ増えている、というのは小高とか特に浪江や双葉大熊の原発事故関係の仕事がありそういう人達が外部から来るからかもしれない
一時はホテルが不足して困っていた、それでプレハブの宿泊所が相当数できた
ホテルと言えば小池にも外部から来る人たちのためのホテルができたことには驚いた
それだけまだ需要があるということなのだろう
そして一番目立ったのはマルヤの駅前の十階建てのホテルである
これもやはり外からまだ来る人が多いためなのか驚く

道の駅で休んでいたら知っている人にあった、小高の人だった
小高に帰らず原町に住んでいたのである、意外と今は原町に住んでいる小高の人が多い
それから浪江の人もあれだけの復興団地があり住んでいる人が多い
原町では人口は小高の部分で減ったが実際は外部から入ってきている人が多いから減っているように見えない、なぜなら浪江町民だと南相馬市民になっていないから人口にならないからである
鹿島でも外から入って来ている人が本当に多い、それはちょっと話すとわかるからである新しい街が二つくらい町の中にできた感じだから当然だとなる

原町だと住むには便利である、一人暮らしでもスーパーも多いし惣菜も多様になるからいい、鹿島では弁当屋さえなくなったからである
外食でも原町だとしやすいのである
ただ別に車をもっている人は関係ない、すぐに原町でも相馬市でも行けるからである
だから私は自転車でしょっちゅう原町に行っている、でもそれにも限界がある

そして思ったことは今の時代はどうしても原町くらいの人口がないと標準の生活ができないと思った、百円ショプがないと高くつくからである
それと原町に住んでいれば車が必要なくなる、自転車で十分に買い物でも用をたせるからである
小高の人は女性だけど車をもっている、でも小高の人でも今はあまり金に余裕がなくなっているみたいだ、今は何の援助もなくなっているからだ
どういう家に住んでいるかはわからないが仮設のように無料ではないから金がかかる
車をもっているとまた金がかかる
その人は仕事で車を使っていたが今は仕事していないから車は必要ないかもしれない
車は金がかかるしこれからさらに年取ると危険になり免許を返納せざるをえなくなったりするからだ
でも原町に住んでいればまず車がなくても生活には困らないのである
遠くに行くのには困るとしても別に原町内で十分用はたせるからである
そこで節約もできるからいいとなる

何か老人は街中に便利な場に集めて暮らさせた方がいいような気がする
駅前とかにコンパクトシティ化して施設も作りそこに老人を集めた市があった
そうなれば別に車も必要がないのである
なぜその女性が小高に帰らないのか?
それは年だし不便だからそうなっている、老人はまず復興の足しにならない
むしろ世話される方になっているからだ
そこで南相馬市は介護士でもいないから青森にみんな介護される人は送られている
看護師だってたりないのである
介護する時一軒一軒田舎だと広いから回ると不便になる
一か所に集めると介護しやすいとなる

とにかくどうししても街作りでも高齢化に適したものが必要になる
高齢者を優遇するというのではなく負担を減らすために必要なのである
でも人口が一万くらいだとそういうコンパクトシティは作れない
原町くらいの人口規模がないとできない、実際に作ったのはもっと大きな都市だからである
社会が広域化するとき広域的に街作りも計画するようになる
ただ小高でも鹿島でもいい面はあった
特に夏は鹿島だと右田の松原は日影になりそこで自分はいつも夏は浜風を受けて休んでいたのである
今は川岸の土手の道が木陰の道になっているのでそこをいつも通っている
一万の規模だとさらに静けさがある、原町は比べると都会になる
だからなんでもいい点と悪い点がある
今思うと右田の松原がなくなったことはショックだった、その損失は大きい
憩う場がなくなったからである

ともかくこの辺では小高とか浪江とかは依然として復興していないのである
ただ原町になるとヨークベニマルでもシシドスーパーも新しくできるとか復興している
それは人口そのものは減っていない、浪江でも外部から入ってきた人たちが多いからである
原町でも鹿島でも復興している、鹿島でも障害者の学校が建設中でありまもなくできる
それが大きいのである、障害者がそれだけ多いということである
全国だと一千万いるとか本当に障害者は多いのである
これも相当に負担だと思った
障害者であれまた介護する人であれかえている人が本当に多い、そういう時代なのであるそれが日本を圧迫しているのである
posted by 老鶯 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年08月25日

蝉に虫の音 (夏から秋へ)


蝉に虫の音 (夏から秋へ)

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蝉鳴くや6号線を朝走る

集まりぬでで虫あまた田舎かな

庭に咲く芙蓉の余裕客迎ゆ

夜に鳴く虫の音聴きぬ隅の石


朝目覚めあまた昼顔咲くを見ゆすずめ来たりて一日はじまる

畑にそカンナの映えて朝の蝉盛んに今し鳴きにけるかな


今は夏と秋が混交している、蝉の声は夏である、季節的には秋になるのがまだ暑い
でも秋と感じることもある、虫の音や芙蓉は秋である

カンナは夏である、畑にカンナが咲いているのはあっている
でもその畑でわずかのものを作っている女性がいてその話を聞くともう嫌になる
キジに食われたとかブヨにさされたとか蛇がでてくるとかちょっと手を入れないと草ぼうぼうになっていた
その草を勝手に草刈機で刈った人がいて金を要求されたとかまた金を払わされる
金に窮しているから頼まれないのにも草をかって金を要求する

そもそもその畑をもっている人は金がないのだから要求しても無理なのである
そして自分がいつも払わされている
その畑どれるものはほとんどないのである、キュウリは固くなくてうまいけど他は何もとれないのである
だからキュウリ一本が一万もしているのである、これは嘘ではない、それだけ畑は趣味でも金がかかるし手間もかかるだけなのである
ただ荒地にしておくよりはいいとして援助しているが困っている

芙蓉が庭に咲いている、芙蓉はなにか大らかである、それで客を迎える
客を迎えるには余裕が必要だった、自分は介護十年してそれからも何か余裕がなかったのである、家の中もかたづかなかった
それでかたづけたりして余裕がでた、何か余裕がないのでお茶も出せないということがあった、それよりも自分は今までそんなふうにして客を迎えたことがなかったのである
今になり一人になったからそうなったのである

田舎の一日はこんなふうに始まる、でも田舎だって車がしきりに通るし前の田舎とは違うのである、木陰に休んでいたらそこはクルマが来ないところと見ていたがやはり車が結構きて休めなかった
この辺で損失は右田の松原が津波でなくなったことである
それで木陰なにるところがない、そこではいつも海からの風が吹いて松影の下で休んでいたからである、そうして憩う場所がなくなったことの損失が大きい
かといって津波に文句を言うことはできない、ソーラーパネルはあるだけで暑く感じるのである
ただ山の方には涼しい場所がある、でも自転車で遠いと暑いと最近疲れる
熱中症になることも怖いのである、だから原町辺りまでしか行かないのである

隅の石については「石の涙」の詩で書いた 

隅の石について(石の涙の詩)