2019年08月01日

道の多様性(abstract ways-variety of ways)

道の多様性(abstract ways-variety of ways)


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Road to glory

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green city

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space station

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先住者と後から移り住む人たちの軋轢 (現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


先住者と後から移り住む人たちの軋轢

(現代は老人が生きずらい社会である―江戸時代が老人が生きやすい時代だった)


この辺では移り住む人たちが多い、駅でも道を歩いても元から住んでいる人たちではない第一一つの新しい街ができたくらい家が建ったからである
津波で被害を受けた人たちはこの町に元から住んだ人たちである
でも原発事故関係で避難して住んだ人が多いのである
ちょっと話してみると元から住んでいた人ではない、それから外国人もまじっているから外から人たちと混在している、それは全国的傾向であり特にここだけではない
広域社会とグロ−バル社会とはそういうものである

そこで軋轢を生んだのがいわき市である、二万人も移住して新しい家を建てたとういからそこになんらか軋轢が生じてもめた、なんであの人たちは他からきてすぐに新しい家を建てたんだろうとかうらやましがられたのである
もともと住んでいる人はそんな金がない人たちがいてうらやましがられた
そしてかわいそうだとか他から同情されたことも影響したのである
それはこの辺でもあった、ここでは津波の被害者もいて複雑になっていたのである
原発避難者は多額の補償金をもらったが津波の被害者はもらえなかったからだ

とにかく先住者と後から移住してきた人たちとうまくいかないことが普通にある
それを象徴していたのがアメリカだったのである、インディアンが先住者だったけど
その人たちは正直な人たちでありアメリカの土地に最初から根づいた人たちだったが
横暴な白人に踏みにじられて殺戮された
それは人だとアイヌでもそうだったとなる
こういうことは世界史でも民族の興亡が激しいからあった

でも先住者より他から入ってきた人たちが威張るとかなることもある
村で暮らしていた日本人だとよそ者を簡単に受け入れないことがある
おそらくそれは農業社会だったからだろう
なぜなら相馬藩では越中とかの移民を飢饉で受け入れたとしてもその人たちは先住者に草分けという農家に指導を仰いだから先住者が上になっていた
それで苦労して荒地を開墾して住みついたのである

だから農業だと先住者でもその土地についてはわからないからその土地の人に教えられないと住めないから先住者に従うとなる
でも現代の社会は何か広域社会でグロ−バル化社会であり工業社会である
すると金があればどこに住んでいいとなる金がある人がもともと住んでいない土地に来て威張るとか支配者にもなる
この辺でも立派な家を建てた人が多いのだからそうなっている
とにかく外から来た人たちは何をしているのか?
それが良く見えないのである、浪江の復興住宅に住んでいる人は仕事はしていない
ただ他に新しい家を建てた人たちは仕事しているのか?それが見えない
もともと何をしているか仕事しているから見えない時代だったから新しく来た人たちでもわからないということになる

でも何か新しい土地に来ても世話になりますとかはない、金さえあればどこに住んでもいいし金がある者が上なのだとなる
現実に土地の人で金のない人に与えればそうなるのが現代である
そんなことを言う人がいるから田舎は閉鎖的で嫌なのだとなるのも確かである
でも何か先住者というかもともとその土地に住んでいた人たちに教えてもらうことはあるだろう、すると金さえあれば関係ないということにはならない
それは自分自身も旅したとき、そんなふうにして旅していない、その土地の人に世話になるというか教えられるという気持ちがなかった、今はそういうことは確かにない
金さえあれば何も教えられなくてもいいとなる、道を聞くにしてもスマホがあればいいとかなっている、人は関係ないともなっている
でも旅をふりかえるとそれではまずかったともなる、自分の場合社会性が欠如していたからそうなったのである、この社会性が欠如するからニートとかは問題なのである

とにかく外国人をおもてなしとして日本人が迎えるのももそうである、日本人が貧乏になった時そうなったのである
本当は外国人がお世話になりますというのが順序なのである、知らない国に来るのだからそうなる
それが日本人がおもてなしとか金のために頭を下げて迎えるのである
そういうことを日本人か好景気のとき外国でそうされていたのである
今度はその逆となり貧乏になったからおもてなししろとなったのである
だからこれもつくづくカルマだとはなる
つまりグロ−バル競争社会では世界的にそうなるのである
経済力強いものがその土地に長く住んでいようが関係ない、上になり従うとなる、おもてなしされるのである
金だけ世界の共通の価値となればそうなるのである、何か金意外のことは無視される
それは観光だけではないあらゆることでグロ−バル化することで起きている
その国の文化とかも無視されて外国人が入ってくるのである

こういうことは別に田舎とか農業だけのも問題ではない
会社とかでも起きているのである、終身雇用というときそこに長くいた人に給料が多く払われ長くいる人は先住者で価値があるとなっていたのである
だから後から入る人は教えこうという立場にあった
それは職人でも徒弟制度があり厳しい上下関係があったのである
でも終身雇用がなくなると新人でも技術者は特別待遇されて給料も二倍とか三倍で優遇される、すると会社に長くいた人たちは先住者は価値がないとなるので不満になる
新旧の問題でも軋轢が生まれる

駅でも私は案内していたので今見守り役した人に盲人が来たとき導くことなど教えた
だかその人たちは何もそういうことを教えてもらわなくてもいいとしていた
そこで考えたことはどこでも必ず先住者がいてそこで経験を積み重ねた人がいる
すると何かしら教えられることがあるのだがそれを無視している
何か教えられることもないよはなっているのだ
だからとにかく農業社会だったらどうしても土地のことはわからないから先住者に教えられるのでその下で働くこともいとわないのである

今の社会の問題は例えば老人がいたとして誰も尊敬しない、教えられることもない
かえって老人は何もできない、無益な邪魔者で俺たちの金を使って遊び暮らしているだけだと見られている、それは社会が工業社会とか変わってしまったためである
それで法律の専門家が正論おじさんとか馬鹿にされたことでもわかる
情報社会だとインタ−ネットで教えられるとかともなる、老人に何かわからないから聞きに行く人などいないのである
ただその態度が問題なのである、やはり先住者に何かしら教えられることがありそれを拒否することは何か問題である
結局工業化社会というときどうしてもその土地のことは関係ないとなるからそうなった
車を作るのでもその土地のこととは関係ないからそうなった
そうなると先住者の方が肩身の狭い思いをするとかまた先住者は邪魔者だとインディアンのように滅ぼされるともまでなる

現代は本当に老人にとっては生きにくい社会なのである
老人が価値がないとされる時代なのである、それは数が多くなったせいもある
でも老人が長生きしても尊敬もされない、ただ社会の重荷になっている、早く死んで方がいいのだと若い世代に思われること自体、老人は長生きすることは苦痛になるのだ

そして認知症になっても江戸時代辺りだったら意外と生き安かった
いろいろな機械も使うことはない、非常にわかりやすい単純な社会でありいつも同じ人がいてなじみの人がいて変わらない社会である、そこで老人に教えられることもあるからだ老人はそこで尊敬されていた、老人に教えられることが何かしらあったからである
長屋とか人が常に変わって移り住んでいるようにドラマでは見るが長屋に住んでいる人はそこに長く住んでいる顔なじみの人が多かったのである
つまり江戸時代は人があまゃ移動しない時代だったのである
そういう所では認知症の人でも住みやすかったと思う
単純な社会であり人と人が直接情で結びつく社会でもあったからだ

江戸時代の日本人は明治の時外国から来た人たちが称賛しているがそれはそういう社会であったからだ、それは日本人だけではない、例えはラオスに行った人たちも同じようなことを言っていたからである、人間が素朴だと言っていたからである
つまり文明人になるとみんな同じになるのである
とにかく現代は老人には生きにくい社会である、そして老人が多くなりすぎることがさらに生きにくくしているのである
もし江戸時代のようなら老人は尊敬されていたし居心地よかったのである
ただ貧乏ということで生きにくかった、すべていいものとしては何でも働かない
ただ現代社会はかえって外から来た新来者が先住者を踏みにじることが多いのである
だからその土地に長く住んでいてもまた会社で長く勤めていても価値がないとされる
そういう社会は老人にとって本当に生きにくいと思った
老人は別に年とっているとういだけで敬われないし価値もないとされるからだ
そういうことで高齢化社会が実際は地獄化する、それは年金とか金の問題だけではないのである 

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ 

この歌のように峠を越えて異郷に行くことはその当時大変なことだった
だから人も変わるし妹の顔を浮かび離れたくないとなっていたのである
峠(とうげ)は手向け(たむけ)から来ていてそこ手向けして神に祈り幣を置くことでもわかる、隣の村でも見知らぬ土地に行くことは大きな変化であり畏れきもなっていたのである
この妹は親でも兄弟でも村の人でもいいのである
こういう心情は人間にはもともとあったし今のように絶えず見知らぬ人と交わっている時代はなかったのである
ただこういうことは老人にとって苦手になる、老人はいつもなじみの人と会いそこで精神の安定化を図る
認知症になると子供でも離れていると名前さえわからなくなるがずっと一緒にいた人は忘れないのである
だから認知症になる人が膨大に増える、その時老人はさらなる地獄を生きることになるのである
長生きは悪いことではないがこうなると本当に長生きは地獄だとなる

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週刊新潮8月8日号

これも他国でもずかずか遠慮なく入ってくることで起きている
グロ−バル化で相手の文化とか事情におかまいなく入ってくる
そういうことを日本人でも他国でしてきたから同じだとはなる
もう金さえ払えば王様だとどこでもそうなってしまっているのだ
何かお世話になりますということはないのである
それは観光だけではない、グロ−バル化するとあらゆることでこうなる
金があれば王様であり待遇される
日本だって金があれば高級旅館でおもてなしされる
金のないやつは来るなとかなる

だから私は旅したとしても高級旅館と温泉旅館には泊まらなかった
というより泊まることができなかったとなる
テント張ってとまった方がいいともなっていたのである
何でも金ある者が優遇される社会はおかしいのである
金をやれは傍若無人にふるまうことも許されるとなる
広域化社会とかグロ−バル化社会の弊害が今になると顕著になったのである
ただこれは外国人だけの問題ではない
日本人自体が外国でそうだったからである
日本国内でもそうである、金さえ払えばいいじゃないか、また受け入れる人は金のない奴は来るなとなる
金を落とす人だけ来ればいいとかなっているのも現代の矛盾なのである
江戸時代だったら殿様意外は貧乏だから同じ待遇だったと思うからである

2019年08月02日

引きこもりから介護から孤独死へ (引きこもりは文明から離れて自然と合一して巨大化する?)


引きこもりから介護から孤独死へ

(引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する


NHKのテレビで放送していたのは介護のために職場をやめて引きこもりになった
50代くらいでなった、これも悲劇である
なぜならそれまでは普通に仲間と働いていた、でも親が介護状態になりその人は一人っ子だからめんどうみるのが当たり前だと親に言われていた
親にかわいがられたからそう言われた
一見引きこもりは親を困らせるが最後に親を介護するということで恩返しになる
親の世話することができる、だから何もできないとはならないともなる

ただ引きこもりしていてそれが長くつづき親にとがめられても引きこもりがつづく
これは前のとは事情が違う、この引きこもりの方が実際は深刻である
普通にに働いていて介護のために引きこもりになるのは同情に値する
でも引きこもりしていて親を介護するとなるとまた違っている

なぜそもそも引きこもりがこんなに多いのだろうか?
それはロストジェネレーションの非正規雇用の特殊な事情があった
その人たちが引きこもりと重なっていたのである
なぜ引きこもりとかニートとかに私が興味があるのか?
それが自分自身が30年間引きこもりだったことなのである
20代何か放浪状態にあった、肉体労働とかしていた、そこで危険な目にあったが生き延びた、でも30以後は職にもつかず引きこもりになったのである
ただ家に閉じこもってはいない、日本全国を旅していた
最初は鉄道の旅であり次に自転車の旅であり50以降は世界を旅するバックパッカーになって終った、60以降が親の介護になり二人いたので七転八倒して一人で介護した
そして最悪だったのは自分自身も病気になったことである
二回病院に入院したし手術もしたのである

その時のことをプログで延々と書いてきた
一切助けはない、ただ責められるだけだった、そして自分の家に来た人がみんな金に困っていたのである、だから大金を盗まれたり借金している人から金を要求されたり弱った時金で攻められてきた、一切自分が苦しいことなど考慮されなかったのである
それは結局自業自得の自分のカルマだったと思いそのことは恨まない
30以降自分は楽しすぎたのである、三食つきであり食事はいつも出されているし自分は何もしなくても良かったのである
私はだから殿様のようになっていたのである
そういう生活が30年つづいたということもふりかえればこんな人生もないと思った
ただ最近引きこもりのことをしきりに言うので何なのだろうと見ているのである

つまり団塊の世代で引きこもりはいないからだ
それは極わずかのアウトサイダーとなるだろう、みんな高度成長時代で猛烈に働いていたからである
なぜ自分がそうなったのかというと複雑だけど自分の家の特殊な事情でそうなったのである
なぜなら自分はそうして引きこもっていても責められるさとがなかったからである
働けとも言われたことがないのである
こういうことはなかなかありえない、引きこもりの人は家の人から常に言われているからである
だから自分のような人は団塊の世代は本当にまれだった、それができたのは自分の場合は特赦な家族の事情でそうなったのである

引きこもりがマイナスの点ばかり指摘されているけどこれにもプラスの面があった
人間の不思議は何でもマイナスとプラスの点が生まれることである
それが何か人間の不思議であり人間は全く違った視点で見れる
宗教自体が全くこの世の否定から始まっていることでもわかる
第一宗教者は何をしているのか?何か生産活動してきたのか?
毎日なぜ籠って座禅を組んでいるのか?
そんなことが許されるのか?これは明らかに引きこもりではないか?
そういう人たちをなぜ貧乏な時代に養っていたのか?
その時汗水垂らして農民は働いていたからである
そうして生産活動しない僧侶の数が相当に多かったのである
それらの人は引きこもりだったのかとなる

そういう人たちは個人でないが集団で寺に引きこもっていたとなるからだ
そういう生産活動をしない人たちが社会で容認されていたのである
引きこもりの人を何とか働かせようと社会に適合させようと腐心している
でもそもそも働きたくない、働くことを拒否している人をそうするのはかなりの困難がある
それより社会から離れて籠り修行する宗教のようなものとしてみる
なぜそういうことを言うかとなると社会から離れて暮らすことは精神の修養になるからだ沈黙の行をつづけることは精神の修養である
社会では会社勤めるにしろ必ず何かしら悪を成すのである
それがわかりやすいのはまずウソをつかずに社会生活を送れないということである
会社員として勤めると嘘をつくことが必ずある
銀行員などは固い職業でそういうことないと思ったが嘘をついていた
客に投資信託などを売りつけていた、それは客はもうからない銀行が手数料とるためだけのものだったのである
そういう嘘をつくことが常に社会ではある
第一嘘をつかないで生活するとなると僧院のような所に社会から離れて暮らすほかないのである、つまりそれが引きこもりなのである僧院とかは集団で引きこもりしてそれが社会から許された場所だったのである
人間はしゃべりすぎるのである、自然は沈黙しているが人間は絶え間なくしゃべるのである、社交とかでもそうなる
巧言令色になるのである

こんなことを考えるのは時代が変わると過去の見方が変わるからそうなる
ただ引きこもる寺とか僧院がなくなったから家で引きこもるようになったとも見る
そして引きこもりにも大きな効用がある
それは社会から離脱したことにより自然と合一するようになる
禅宗だと沈黙の行をつづける、それはいいことばかり言って客をだまして金融商品でも売りつけることなど社会では普通にある
でもそうして引きこもり社会かは離れて修行していれば嘘をつく必要がないのである
そうすると精神の修養になるのである

何かそして私は文明から離れて大自然と合一するように修行していたとなる
それは引きこもっていた結果自ずとそうなったのである
だからニーチェのようになったともなる
社会自体を文明自体を否定してなきものとして大自然の中に精神を合一させたのであるそうしてそこから詩を作っていたとなる

神の技と人の技

(Human beings unite with the universe and become a Giant)

時に人の技を安め
その技をとめよ
大いなる無用の空間にこそ
神の真の用がある
大いなる山は沈黙して
太陽は静かに輝き移る
人の技は限りなく疲れる
決してその技は完成しない
神の技はすでに完璧に完成している
人はただそれを讃える者としてある
その広大な海、山々、宇宙
そこに自ずから神の歌が響き渡る
精妙にして雄大なる楽が鳴り響きわたる
時に人の技を休めて
大いなる神の歌に耳を傾けよ
荘厳なる沈黙にひびく神の歌を聞け
一大ハーモイのシンホ二ィーを聞け
山は今日も深く黙しつづける
その内に向かって強く堅固に不動に
神の技はすでに完成して与えられている
人よ、なぜなお人の技を付け加えて労するや
無用の用のなかで人は大きくなる
汝は神の子にあらじや
汝に糧は与えられしにあらじや
神を賛美する者なれば・・・

宗教とかは何だったのか?それは精神の修養を修行を大事にした
騒々しい社会から離れる時そこには大いなる沈黙の山岳がある
その山岳と精神も一体化するのである、修験道とかがそうである、山伏とか法印とかが一部落に1人とか必ずいたのである、その人たちも別に働かずに暮らしていたとなる
今でも登山は人気である、昔は修業として登山していたのである
そういう人たちは社会から無用の人たちでもあった

真の神の用は社会にあるのではない、文明にあるのではない
大自然に宇宙にこそある、そこにこそ神の技があり人間の技なる文明には栄光はないのである、それを証明したのが原発事故だったのである
だから社会や文明に使われて疲弊する人間は本来の人間ではない
人間はそうあるべきではない、なぜなら人間に神が与えたものは神の技をほめたたえることだからである、文明に栄光ないのである

東京のような都会に埋もれて蟻のように働かさせられて絶え間なく不満を言っているのを見ているとこっちも苦しくなる
そこに人間の本来の生はないのである
人間は壮大な自然と共鳴して生きる時生きていたのである
文明にそういうものはない、だから文明自体が否定されるべきとなる
働けとかいう時、それは文明に使われて生を消耗させることなのである
そういう逆転の発想も思想もあった、それが宗教であり老子とかの思想なのである
だから働けと強要することは人間を生きることを否定させて奴隷にすることなのである

現実に確かに原発を作った科学者がそうだった、その科学者が働いたことによりこれだけの災いがもたらされたからである、働くということがすべていいものとして肯定できないのである
なぜみんながこれだけ毎日あくせく働いているのにその成果はなになのか?
東京の怪物都市となっているだけなのである、そこに自然にある壮大な美はないのであるそれは結局徒労だったともなるのである
だから引きこもりは実は巨大な人間になるものとしてあったともなる
働かないからと社会に文明人に卑屈になっている姿は情けないとなる
社会性は必要でも人間はそんなものではない
人間は大自然と宇宙と合一して巨大なるものとして成長する
それが神の子たる人間の目指すべきものである

いづれにしろいくら働くとしてもしょせん複雑な巨大な文明の歯車にしかなれない
どんな優秀な人でも歯車にしかなれないのである、科学の発明にしももう一人の力ではどうにもならない
それだけ複雑化しているからそうなる、科学でももう限界に来ているのである
東京のような都会を見ればわかる、用で埋め尽くされている
無用の空間、空地もない、そこで人は消耗されるのである
そこでは余裕がない、絶えず利益を追っている、血走っているともなる
金に追われている、利益を求めているのだがそれが社会にとってどれほど有益なのかもわからないのである
それはあくまでも社会の用であり曽木社会とか文明から離れて無用の空間がありそこにこそ真の神の用があるともなるからだ

社会から離れてひきこもるときそこに文明は消えて巨大な自然と宇宙が現れるのである、その中で人間も巨大なるものとして成長するのである
確かにそれが極端にすすむとニーチェのようになる
ニーチェは神ではない、偶像である、でもなぜ現代人は文明人はニーチェに惹かれるのかそれはあまりにも人間が文明の中で矮小化された結果なのである
それに反発する時エネルギーが普通人とは違う天才はアウトサイダーとなったのである
ただ遂に30年引きこもっていれば普通の人も巨大化することはありうるのだ
そういうことを上野霄里氏が言っていた
彼もニーチェのような天才だったからそう言ったのである
それでも普通の人でも30年も引きこもっていると何か異常化もするのだが巨大化する
それは大自然と合一しようとする力が自ずと働いてくるからである
反作用としてそうなってゆくのである、それを自分自身が経験してきたからである
それでこういう詩を書いているのもそうなのである

ともかく引きこもりが40代以上で50万人とかまた二十代からでも40万人とかいる社会とは何なのだろうか?
これはやはり文明の反作用としてそうなっている
またそうして働かなくても生活できるとはいうこともある
そういう人達から何か巨大な人間が生まれるのか?
みんなが社会からただ病人とか落ちこぼれとか役にただずとか言われるだけなのだろうかそれがなんとも数が多いから何なのだろうとなる
そもそもそれだけの人間が働かないで暮らせたというのも現代である
問題があるにしろ一応暮らしていけたのである、親を頼みにしても暮らしていけたのである、それは法印とか山伏とか寺に引きこもる僧とかもそうである
だから時代が変わってそういう人達が引きこもりなのか?
なぜなら引きこもりの人は結婚もしていないということでも共通しているからである

最近AIとかロボットとか盛んに言い働かなくてもいい社会が来るというのもそうであるそれのいい面はそうなれば人間は別に社畜にならなくてもいいし文明の部品とならなくてもいい、無用の空間で遊び自然と合一する生きるとかなる
無理やり強制されて働かなくてもいい時代が来るとなる
実際は人間はそんなに働かなくてもいいのである、その働く思想がどこからきたのか?
それは農業社会から来たのかもしれない、とにかく農業は畑で野菜を作るにしても暇なく草むしりをすることが強いられる、すると休むことができない、勤勉になるのである
一方で牧畜民とか遊牧民は羊飼いでも何か暇な面がある
それで想像にふけっているとかある、そういう違いがある、農業は勤勉さを生むのである

人間はとにかくなぜこれほど働くことが奨励されるのだろうか?
働くことが必要でもそんなに働く必要があるのか?
それが疑問なのである、だから働かない無職は犯罪者と同じになるのである
ただそれがAIとかロボットとか機械化で働かなくてもいい人が膨大に増えたらどうなるのか?一応ベーシックインカムとかで生活費が供給されるようになったらどうなるのか?もう強制的に働くことはしなくてもいいとなる、その時働かなくてもいい価値を無用の価値を追求できるともなるパラドックスがある
結局これも時代の変化で価値観が変わる、がらりと変わるからそうなるのである
そもそも引きこもりとか無職がこんなにいること自体がやはり社会の変化でそうなった
その人たちが批判されても現実にそれだけ存在している
それが可能な社会だからいるとなる
                                    
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機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ 
我々は一人一人個性ある人間なのだ
その個性を示すことが人間が生きることなのだ・・・・・

引きこもりはわからないにしてもアウトサイダーはまさにこれだった、文明の歯車として機能しなくなった人である
でもそれこそ人間的な人として個性ある人となるという逆説がある
ただ正直ニートとか引きこもりは何か人間的に劣っている人たちが多いのが現実である
子供部屋おじさんとかもいる、これもうまい名付け方だなと思う、ことおじとかなる 
何か子供のような顔していて大人になっていないのである
何か第一社会人でないものは結婚しないとかしていないと何か幼稚なのである
人間的に成熟しないのである、それは自分自身がそうだったのである、大人になれないのである
だから実際はやはり社会性が欠けて人格的に大人になっていないのである
人格的に何かが欠落しているのである、そして小人閑居して不善を成すとなる、何か異常な犯罪者にもなりやすいのである
アウトサイダーというときニーチェもそうだがヘルダーリンとかもそうであり芸術家でも狂気化していることでもわかる
本来社会生活で養われるものが養われずにそうなったともみる、もともと天才にはそういうことがあるからだ
だから私が言うアウトサイダーとはまた別物として引きこもりとかニートはある
ただ自分自身がそういう生活をしていて遂に死ぬとまでなったので何なのだろうとなってこの一文を書いてみたのである




2019年08月03日

損して得取れ (本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

損して得取れ

(本当に得したことが得で損したことが損だったのか?)

一時的には「損」しても、その損が将来の「得」になるのであれば、当初の損を厭うな、
という意味だと解釈している。目先の損得だけを考えて行動しても、トータルで(長い目で)考えれば損になることがある、ということを示唆しているのだろう。商売でよく言われる言葉だ

人間はとにかく複雑なのである、商売となるとこれも通じることはむずかしい
そもそも自分に商売とかビジネスを語る資格などない、経験もないし、実際失敗もしているから語る資格がない、だいたい芸術とかなる浮世離れしているところがあり語る資格がないとなる
ただここ十年いろいろ経験してそれで語っているのである
まず諺はこれは本当に真理のように普遍的であり人間の経験から生み出された教訓である、では今でもなぜ通用するのか?
それは人間というものがいろいろ変わっても本質的に変わらないものだからである

人間はまず損しようとしない、損するのが嫌なのである、損する人とは付き合いたくないのである、でもなぜ損して得を取れとなっているのか?
そこに経験から生まれた深い意味がある
ある人は事業を始めたが技術系であり商売のことは知らない人だったと思う
その家自体の家風がまたその人を染めたのかもしれない
ともかく一円でも絶対に損しないようにと身構える家だったのである
そして事業をはじめてもまず他人のために一つの物を運ぶこともいとう
ただでは何もしたくない、箱一つさえもたない、一円すら損することはしない
そういう家だったのである、そういう所で事業を始めたらどうなるのか?
何か嫌になるだろう、誰も接したくないともなる

別に損しろというのではない、とにかく相手のためにするというとき一円でも損したくないという身構えているのである
そういうことで商売が成り立つだろうか?
誰も確かに損して商売はしないしできない、でも何か損することがどうしてもある
でもその損することがまた得することに通じることもある
だから一概に損することにこだわると何もできなくなる
その辺の兼ね合いがむずかしいにしろ一円も損はしないぞという構えになると付き合いたくないとなるだろう
ただこの世の中損得に一喜一憂しているのが現実である
それはわずかの金でもそうである、だから誰も損したくない得したいと毎日必死になっている、それから逃れられないことは確かである

でも人間の不可解は「損して得とれ」という諺に現れていたのだ
つまり何が損か得がその時々で計れないことがあるからだ
その時得だと思ったことが損になりその時損だと思ったことが得になったということを経験しているだろう
例えば地銀で苦しいから投資信託を売るのはわかる、それで一時的会社はもうけたとかなる、だから得したとなる
でも銀行は信用を失うとかある、ゆうちょでも保険でそういうことがあった
今までゆうちょとか銀行は信用されていた、それで投資信託をすすめられても銀行がすすめるのだから間違いないと思って大損したばあちゃんがいたのである
銀行とかゆうちょはまず地域で信用を築いてきたのである
でもそれが時代でもうからなくなり変わった時一時的には会社の利益になり得しても
その次から信用がなくなる、銀行とかゆうちょはそんなものだったのか?
もう信用できないな、金をあずけることはできないなとかなることが怖いのである
それで一時的に得してもあとあとは損したとなっていたとなる

ただ損する行為は誰もしたくないのである、自分自身がなぜ働かないのに金を出しているのか?それが嫌になっている、まるっきり損しかないと思うからである
第一商売するにしても損していたら続かない、赤字になり倒産してしまうだろう
だから商売は多少の損を覚悟して資金の余裕をもってするものかもしれない
最初からぎりぎりの資金でしていたら一円でも損しないと身構えるからである
そうなるとかえって客もつかないとかなるからだ

例えば仙台から来たユニットバスを百万で作った会社は優創建は得させた
何か会社自体が損しているのではないか?
第一ガス会社では二百万かかると言っていたし地元の人に頼めば三百万にもなったかもしれない、だから本当に安かったし悪いものでもなかった
だからここだけは得したとなる
あとはみんな損することだけだった、金をむしりとられた奪われたとしかない、現実に盗まれたりもしたからである
その人たちはただ損することより奪うということだったのである
金に苦しんでいるからそうなった、相手が苦しいからこの際脅迫しても奪ってやろうとしかなかったのである
損も得もない、相手から奪おうとするときそれはすでに犯罪者だったのである
実際に罰せられるべきだったのだかそうはなっていない

でもとにかく人間の不思議は不可解は一見確かに得したと思っている、でもあとになると損していたとなる、これは今でもそういうことがある
何が得で損かわからないのである、例えば大きく歴史でも日本の戦争は負けたが三百万人も死んで負けたから国にとっては大損だったのである
でもその後の復興をみればそれが得に変わっていたのである
高度成長ができたのは既得権者を戦争に負けて一掃できたからだという人もいるからだ
国自体でも損したと思うことが得に変わることがある

そして人生そのものもがまた何が損か得かわからないのである
人生をふりかえって誰でも何か得だったのか、損だったのか?
それがわかるだろうか?美人と結婚したから得だったかなっているのか?
金持ちと結婚して得だったのか?それも最後になって見ないとわからない
人生の損得も計れないのである、損だと思ったことが得になり得だと思ったことが損になる、そんなこといくらでもある
得したとやったと思ったことが後で大損だったとかなる
結局人間は小さな損得に一喜一憂しているはかない存在だったともなる
達観すれば所詮この世の損得はどうでもいいことだったともなったりするからである
要するに死んだら損も得もない、一巻の終わりだとなるからだ
いくら富を積んでも来世にはもってゆくことができないことでもわかる
この世で宝を積んでもその宝も腐るし天に持ってゆくこともできないとなっているのだ

要する人間はどんなに得しようとしても結果的に得にならない
損しして得をとれというとき損が得になることがあるから経験でそう言っているのである得ばかり追求しても得になると思ってもならない、かえって損することにもなる
一時相手をだまして得しても結果的には損していたとかなる
つまり長い目で損得をみればそうなる、ただ人間は日々目の前の損得に追われているのである、だから本当に大きな得とか損をわからないのである
人生を総決算すれば本当に何が得だったのか損だったのかわからないとなってしまうのである

あの時損したとことが実は大きな得だったとかなりあの時得したと思ったことが損だったとなることなどいくらでもあるからだ
結局この世の損得は計れないともなる、だから損して得をとれという逆説が成り立つのである、そういう逆説が人生に必ずある、もしかしたら非正規とかロスジェネは割を食った損な世代だったとか言っているのもわかるがまだわからない
最終的にどうなるのかわからない、個々人でもわからない、結局何が損なのか得なのかわからないからである

正直自分の家にきて苦しい時、得しようとした人は絶対に成功はしない、自分自身のカルマであったにしろ相手も成功はしない
銀行ももう地銀とあれば地域に尽くすものだったかこれももう終わりなのだろう
北銀で農業に投資しているとか何か地域に役立つをことをしないと終わりになる

ともかく本当に損して得とれというときそれができない人は成功はしないともなる
一円でも損しないぞとか商売していたら人と接していたらその時点で失敗している
そういう人は事業するべきではなかった、雇われていれば良かったともなる
結局第一損得勘定からはじめる、絶対に一円でも損しないとしてはじめる
それより事業を始める目的は何なのか?それが大事だともなる
ただ得したい金を得ることだということがすでに失敗しているのではないか?
ただ得したいとなれば相手から金でも財でも奪えばいいとしかなくなるからだ
そもそも相手のために何か物一つもつこともしたくない、そういう人が果たして事業などできるだろうか?

社長として偉く見せたいというだけで事業ができるだろうか?
事業のことがわからないにしてもそのこと自体がもう事業する資格がないとなる
最終的にはそういう会社は消えるのではないか?
一時的なものとして泡沫のように消える、ただ事業自体が20人一人とか成功していない6パーセントくらいしか成功していない、だから何か動機があり真面目にやる人でも失敗している、でも最初から絶対に一円でも損しないとか何も動機がない、偉く見せたいためとか、そして他者のために物一つ持ちたくないという人が成功するものだろうか?
その人が技術系でありその技術だけに集中してやれば問題は起きなかった
そこで利を追及していれば何も損しないし問題も起きない、でも事業となると違っていたのである、結局事業起こすこと自体むずかしいからそうなったのである
そういう人は事業を起こすべきではなかった、社会の迷惑になるだけだった
その後借金して周りに迷惑をかけている

人間は日々目先の損得勘定で生活している、でもそれはいいとして大きな事業となるとまた違っている、損得を勘定しないで始めることも必要になる?一円でも損しないということで始めることはできないだろう
長期的視野をもたないとやれないのではないか?そういうことを言っているのもわかるのである、でも現実問題として利益があがらなければつづかない、だからある程度資金的余裕がないと事業ができないともなる
そこで大企業は豊富な資金があるから資本があるから有利だとはなる
一時的に損してもまた資金と資本があるから立ち直れることがあるからだ
個人事業主とかなるとそれがないからである
いづれにしろ(優創建)は安い、で損している感じにもなる、仕事もいい、だから成功するかもしれない、ただそれにしても事業自体がむずかしいからわからないとなる




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東電が原発を作る前から地域の共同体は崩壊していた (技術者が新参者が上に立ち貨幣により支配されるグロ−バル社会)


東電が原発を作る前から地域の共同体は崩壊していた

(技術者が新参者が上に立ち貨幣により支配されるグロ−バル社会)


東電が原発が地域を破壊したとしている、でもその前から地域の共同体は崩壊しつつあった
農業は金にならない、漁業でも生活にならない、苦労ばかりだとかなってもう農業も漁業をやりたくないとなっていたのである
だから東電に漁業者は漁業権を売り渡して多額の補償金をもらって生活するようになった事故後も津波の後でも立派な家をすぐ建てたのである
それはここだけでない、日本全国が農業社会から工業社会に移る過程にあったからであるそれで原発で働いた人が親に農業だけはやるなと殴られたという、農業をすると息子が言ったからなのかその親は農業でさんざん苦労しているからそう言ったとなる
その人は原発や建築現場を渡り歩いて働くようになった

東電が原発を建てる前から双葉大熊辺りは特に働く場がなく出稼ぎ地帯であり地元で働きたいという要望を強くもっていたのである
それにかなったのが原発だったのである、原発だと三倍の賃金をもらっていたからだ
だからこの辺では原発で働く人が多かったのである
原発成金地帯みたくなっていたのである

東電が無理やり来て地域を破壊したのとも違う、地域にそういう要望があったからであるだから確かに東京に原発を作ることこそ一番ふさわしかった、でもそうなると福島県には金が下りないとなってしまった
それが矛盾なのだけど東電が原発を作り地域をすべて破壊したように見えるけどそれも違う、農業社会から工業社会へ移ることで起きて来た問題である
なぜなら戦前だと80パーセントが農民とかの世界である
戦後はもう今なら一割にみたない、第一団塊の世代だと山の木材を利用して炭で暮らしていた、ということは電気は裸電球一つしかなかったのである
エネルギーは地元の木材であり炭だったのである

そういう場所に高度成長時代となり電気時代ともなったのである、また石油時代ともなったのである、電気を何で作るかというと石油だったとなるからだ
そして原子力で電気を作るとなったのである
そういう時代の変化の中で地域は農村共同体とかは崩壊していった
だからどういうことになったかというと東電という技術集団が入ってきたときその人たちが地域の支配者になったのである
先住民の地域で暮らす漁業関係者でも農民でも炭を作る林業関係でもその時工業化してのみこまれたとなる

何か技術が社会を変えて支配することは世界の歴史でもあった
第一日本の天皇は実は伽耶国から出てきて伽耶は鉄の産地であり鉄を作る技術集団が日本に渡って来た、そして鉄の生産に従事した、それが渡来人である
稲作でも鉄の道具とかあってできるものである、縄文時代のつづきとして石包丁で稲刈りしていたということもあるがそれでは効率が悪いから鉄の鎌とかにして飛躍的に生産力をあげた、稲荷(いなり)様とは狐のことではない、鋳成りであり鋳とは鉄なのである
そして天皇は鉄の王だという時まさに技術者集団のトップの人が王になったとなる

ここでは東電が王の立場になったのである、だからもともと住んでいる人たちが力を持つとは限らない、それは農民社会でもそこに技術が関係していたのである
あとは馬とかも関係していた、相馬氏自体が騎馬軍団であり馬の操作にたけていて相馬地域を支配したとなるからだ
結局先住民とかが力をもつとは限らない、そうした技術集団であれ移動してくるとインディアンのように虐殺されたりするからである

でも原発事故でそういう優位性が崩壊した、東電の権威は失われた
そしてそこに住む人たちも何か今まであった生活を見直すことになった
それで生業を返せと裁判を起こしたのである、それも補償金をもらいたいからだけであるその前に生業自体を捨てていたのである、その象徴は親に農業するなと殴られた人だったのである
それは時代の変化でやむをえないということもあった、でもそれが何か間違っていたと気づいた時は事故後であり遅かったとなる

いづれにしろこういうことだけではない、もう先住者が何か価値あるとか力をもつことができない
この辺では津波や原発事故以後、特に原発事故以後大量に人が移動した
そして新しい一つの街ができた、そこには立派な家が立ち並んだのである
でも今は移動する自由があり金があればどこに住んでもいいのである
だから故郷を離れても別にその土地の人に気遣うことなどない
むしろ金があれは金がある人が威張っているのが現代社会である

それで小高の人が私たち金を使って鹿島の人たちを助けているのよねと言っていたのである
そんな感覚であり何かよその土地に移っても金ある人の方が威張っているのである
別によその土地でも金さえあれば生活できるからである
それは何もここだけではない、グロ−バル社会になると金さえあれば世界のどこでも暮らせるとなる、それで大金持ちは日本を脱出して暮らす算段をしている
それは日本だけではない、中国の共産党幹部は莫大な富があり中国国内で何かあったら外国で暮らせるようにしているからである
日本で土地などを買っているのもそうかもしれない、金さえあれば外国で暮らすことができる、そうなると国家など関係ないともなる
それが実はグロ−バル社会なのである、もともとその土地に住んでいても何の力にもならない、新参者が威張り金で力をふるう社会である
そこに旧来の共同体は破壊されていたのである

第一家を建てるにしても外材であり家自体が地元の大工とかかわったのは極わずかであるみんな大手の住宅会社がかかわり一週間くらいで組み立てて建てたものであり地元とは関係ないからである
そうしたら何か地元の人に世話になるという感覚もないのである
それが広域社会でありグロ−バル化社会である
ただそこで力をふるうのは金であり金のない者はいくら前からその土地に住んでいてもなんの力もないとなる
それで小高の人が鹿島の人を消費して助けているのよねというときまさにそうだったのである、それは原発避難民がいわき市に二万人移動して家を建てたとき数が多いから起きたことである 

なぜもともと住んでいた人たちは新しい家を建てられないのに後から移った人たちが次々に家を建てられるのか?
それも矛盾だった、でも金のある人がグロ−バル化広域化社会では強いのである
何かその土地についてもともと住んでいる人が知っていて教えられることがあってもでは農業するのではないから草分けの家に教えを乞うなどないからである
むしろ金をもっているから移動してきた人たちの方が権利があり力をふるうことができるそれがグロ−バル化社会である
そして田畑を売って金に換えたいということが強い、田畑をもっていても手間がかかり金にならない
それより今は移住する人が多いから土地の値段が上がり売った方が得だとなるのである
それげこの辺は一時移住者が増えて土地の値段が高くなり売れたのである
汗水たらして農業するより売って金を替えた方がいいという社会なのである


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つまり農村共同体のような小さな共同体を破壊するのがグロ−バル経済市場の中に組み入れられるとき貨幣の力が大きなものとして現れる、農村共同体の中で機能していた価値観は破壊されるのである

貨幣というのが今のように万能ではない、むしろ封建時代とかは土地の方が価値があった農業社会だとそうなる、土地の資本が食料を生み出すからである
工業社会になれば土地は価値の基準にならないのである
工業化は技術化社会であり技術が最優先される社会である
世界的に自動車でITでも技術競争にしのぎをけずることでもわかる

現代グローバル化社会の最大の特徴は土地からあらゆるものの債権化と株式化と科学技術化なのである
だから土地を基準とした封建社会とかからのこうした大きな変化の中で共同体は失われる変容する、それがグロ−バル化社会でありグロ−バル市場社会となる
その土地の支配者が王だったり殿様だったりするがグロ−バル資本主義では実質の支配者をすべての財が債権化されたなかで貨幣化された株式化された世界で価値をもつのであるだからその土地に長く住んでいても力をもつことはできないのである

この図のように社会そのものの変化がもともと住んでいる人たちの力を消失させた
債務とか債権化されるとは実体としての財が貨幣化したことなのである
債務とか債権は貨幣のことでもあるからだ、貨幣はそこから生まれというのもそうである貨幣によって財は抽象化してそこに住まなくても所有できるというのがグロ−バル社会でありだからこそ証券市場とはあらゆる財を債権化したのである
そこで唯一最大の力は貨幣となり地域の共同体などは無視される
グロ−バル化した世界で債権化して富が移動しているのである
だから一か所の土地に定住するということは実際は価値あることにはならない
そこに長く住んでいたからと価値ある者に力をあるものとはならないのである
土地をもつより土地を債権化したものを証券でももっていることが力をもつことになる

ただそうなると文化的見地からするとその土地を耕す(cultivate)がcultureになったのだから文化はグロ−バル化によって破壊されるのである
つまり文化は債権化貨幣化しにくいからそうなっているのである
でもグロ−バル化資本主義も投資先がなくなるというときまた銀行が農業に投資するとかなるときそこで変化しているのである
なぜなら農業とはただ食料を生産するだけではない、文化と深く関係しているからであるそこでグロ−バル経済の転換が地域から起きているともなるのである

ともかく前になぜこんなに簡単に原発事故で放射能問題があっても簡単に一挙に街自体が捨てられてゴーストタウンになったのかそのことを考察した
農業社会だったらもう簡単に他に移れないのである
この辺で越中などの農民が飢饉の時三分の一に人口が減った時移住してきたがそれ自体命がけであり草分けという古い農家に草鞋をぬぎここで荒野を開墾して苦労して農業をして住みついた
そういう時代をふりかえると全くそういうことはない
むしろ他から移住してきた人たちがたちまちに立派な家を作り長くこの土地に住んでいても金がないなら何の力をもないのである
何か教えてくれということもないから先住者としての価値はないのである
むしろ金がある新参者が威張る起きているのである
それは別に金があればいくらでも世界から物でも食べ物でも入ってくるからである
そして長くその土地に生きていても価値がない、そのことは老人に価値がないとなる社会である、だから老人は価値ない者として邪魔者扱いされるのである

江戸時代でも戦前でも食料はそんな遠くから入ってこないのである
それはいいとしてそのマイナスが共同体がすでに崩壊していて原発事故があってそれで
もう簡単に分解したともなる、共同体というが現代のグロ−バル経済はこうした一地域のミクロのことなど無視した点を無視したグロ−バル経済なのである
だからこそこうして簡単に町でも崩壊して一時ゴーストタウンになったのかとなる
グロ−バル経済としてつながっているがその住む地域のつながりは希薄化していた
そしてどこにでも金さえあれば住めるとなればかえって移動した方がいいとなり
その故郷の復興など考えなかったのである
だからこういうグロ−バル広域社会のなかでこういうことが起きたことを認識すべきである、そのマイナス点を認識すべきだとなる


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2019年08月04日

共同することとは何なのか? (原発は地域共同体が強固に共同して作らられたものだった)


共同することとは何なのか?

(原発は地域共同体が強固に共同して作らられたものだった)

共同するということは何なのか?、また共同体とは何なのか?
無縁社会とか孤独死とか孤立が盛んに言われるのもわかる
では共同したいということはわかる、自分自身も共同したい
でも簡単に共同できるだろうか?
つまり家族でも夫婦でも共同したいから作られている
でも離婚が三分の一とか共同は破綻しているのである
だからいかに身近な所ですら共同しにくいかが人間の現実なのである

グローバル社会になってでは世界が共同しているかとなると全くしていない
かえってグロ−バルに経済活動が行われると人間が無機的な経済単位となり孤立化する
地球の裏側から物が入ってきてもその人と共同しているとなるのか?
ただ物を通じてつながっているだけである
それならグロ−バル経済だから世界共同体となっても不思議ではない
現実はそんなことはない、グロ−バル経済は地域経済を破壊して地域の共同体を破壊したということもある

そもそも共同とは何か?それがわからないからこうなる
例えば同じ地域に住んでもちょっとした考え方が違っても共同できない
その人はまず事業を起こしたのはただ自分が優秀だと見せたいからだとかそれで都会の金持ち相手にもうけようとした
それで贅沢したいとかなり事業を起こした
まずそういうことかして賛同できるだろうか?
その人は自分の苦しい時、荷物一つも持ちたくない人だったのである
ただ借金しているから金を要求してきただけである
他の人も自分が苦しいのを幸いに盗むとか責めてきたのである
そもそもそういう人と共同できるのか?近くにいても共同できない、同じ南相馬市民でもできない、だから共同するとは何かとなったらこうして別に近くに住んでいてもできないのである

ある人は毎月水道とめられた、電気とめられた、ガスとめられたとくる
金がないとくる、この人と共同できるのか?
その分を払わなければならないからだ、共同するときこうした極貧の人と金持ちが共同できるのか?金持ちはこういう人とは普通は付き合わないのである
金持ちは金持ち同士としか付き合わない、特に格差社会になり階級社会になるとそうなるつまり金持ちと貧乏人は共同しないで暮らすようになる
でもお手伝いさんなどが金持ちの家に入ってくるとやはりそれは共同することになる
そこで問題が起きることはありうるのだ
全く金持ちでも同じ土地に国に住んでいれば排除できないからである
結果的に襲われることがあるし現実に自分がそういう目にあったからである

例えば共同するというとき原発問題でもそうだった
原発をいらないとする人はゼロだった、そういう地域で原発をいらないということは住めなくなることである
本当にこの辺では原発に反対したら住めなくなっていたのである
なぜなら原発を作り金になることで共同一致していたからである
そしたら共同することは原発を作り豊かな生活を送ることである
それが共同することなのである

そして例えば山尾三省のようにパンがぜいたくだなと極貧の生活をして原発に反対する人などと共同できるのか?
パンでもなんでももっともっとおいしいものが食べたいからこそ共同するのが普通であるだからこそ原発は共同してみんな必要だったのである
漁業関係者になれば漁業権を東電に売って船主など原発御殿を建て津波や事故後でも立派な家を真っ先に建てた、そして補償されているから何ら生活に困らないのである
その人たちも原発を作ることで強力に一致共同していた
組合があり今でも東電と交渉して補償金を要求できるのである
なぜなら海を放射能で汚染したのだから権利があるから補償金を要求できる
ただそれは漁業組合とか特に船主とかが優先になる
これも共同ということで矛盾していたのである

なぜなら共同というとき地域共同体とか言うとき、それは海だけではない、地域全体のことだったからである、それで漁業者は海は消費者のものだったというときそこに住んでいる住民のものだったということもわかる
農業でも農業をしている土地をもっている人だけではない、そこに住んでいる人たちのものだということもできる
だってそこに住んでいれば今回のように放射能に汚染されれば住めなくなるからである
住めなくなることは最悪だからである、何をして暮らそうが住めなくなるのは最悪なのである
だから共同とは何なのか?それがわからないのである

家族自体から身近な所から共同しようとして共同は破壊されるのが常である
絆とか叫んでも実は原発事故周辺では補償金で分断されたのである
伊達市などは関係ないと思ったがそこも放射能で汚染されていた
わずかだが補償金が支給された、農家の人は土地が汚染されて補償金が多く支給されたかもしれない、それで親戚同士で補償金をめぐって争い喧嘩になった伊達市の人が言っていた、そんなところまで金の問題になるとうるさくなり深刻になるのである

絆を盛んに言われたが実際は内部の絆はなかった
グロ−バル広域社会になり外部からボランティアとかが来て絆を言っていたのである
それも現代社会を象徴している、外部の方との絆があり内部ではかえって分断されていたのである
だから共同とか言ってもどれだけそれがむずかしいことかわかる
まず豊かな生活をしたいというのが普通である
そしたら原発が金になるということで共同する、それに反対する者は共同体から排除されて住めなくなっていたことでもわかる
では山尾三省のようにパンが贅沢だなとという人と誰が共同するのか?
だから共同するということが何なのかほとんど不可能になるのである

農村社会が共同していたのは共同で草刈したり共同せざるをえないから協同していたともなる、そういう村社会がってその中で生きざるを得ないから協同していたともなる
今の社会を見れば金さえかあれば別に他人などはどうでもいい、村社会など関係ない
ここで米がとれなくてもどこからでも外国からでも米まで買うことができる
そうなれば大事なのは金であり金さえあればどこでも暮らせるとなる
現実に原発事故以後多額の補償金をもらってみんなすぐに故郷を町を捨てたことでもわかる、そもそもそこに共同体は消失していたからである

グロ−バル広域社会では第一そうした地域共同体が意味がない、協同より金の方が大事なのである、だからこそ金をもらったらみんな町を捨てたのである
そして一挙にゴーストタウンになったのである
そういう絆もなにもない社会がグロ−バル広域社会なのである
そこで頼りになるのは共同体でもなんでもない、金だとなってしまうのである
その矛盾が顕著に現れたのがこの辺だったのである

一見原発は上から外からおしつけられて作られたように見える
地元の人たちもそう思っている、でもよくよく考えてみると実際は地域共同体が強固に共同して作られたものである
例えば小高に東北電力の原発の工事がはじまる、それは原発事故で中止されたが工事がはじまる時だったのである
それで小高の大工さんが景気が良くなると喜んでいたのである
その小高に原発ができたらもう大きな人口がある原町とかはもう住めなくなっていたのである、10キロくらいしか離れていないからである
でも原発を反対を騒ぐ人を知らなかったし第一小高に原発を建つことすら知らない人がいたのである、自分自身も知らなかったのである
そしてマスコミも騒がないので容認していた
マスコミでも共同体に参画するものであり共同体の方向性を示すものであり危険を警告するものだがそんな役目は何もないのである
東電でも巨額の宣伝費を出しているからその恩恵を受ければいいしかないのである
それはみんな同じだとなる

だから何をもって共同するのか?それ自体がわからないのである
そもそもこのように利益があれば共同する、利益に反すれば共同できないとなるからだ
もし原発に反対すれば利益にならないとなり共同体から排除されて住めなくなっていたのである、人間は何であれ利益になること、金になること、豊かになることなら共同する
それ以外は共同しないともなる、とにかく贅沢できればいい、そのためには金が必要だとなりあくことなく金を求めるのである
お前もそうじゃないかとなればある程度はそうである、でも自分自身はそんなに贅沢はしていない、旅したとしても最低限であり温泉宿に泊まったことなどないのである
後は勉強に費やしていたのである、家はもともとあったから家に金を使ったりはしないですんだともなる

ともかく貧乏のために、山尾三省のようにパンが贅沢だなとという人と協同する人はいないことは確かである、そんな暮らしなど誰もしたくないからそこから脱するために働いてきたのが戦後だからである、それで高度成長時代になったからである
だから共同するということは何なのかわからない
修道院とか僧院とかで共同するというときそこなら質素に暮らして神に仕える仏に仕えるものとして貧乏でもいいとして共同がありうる
他ではそんなことありえないのである第一そんなことで共同などできないのである
そうして共同したいなら修道院と僧院に入れとなるからだ

この世とはあくことなき欲望を追求する世界である、むしろ資本主義だったらその欲望が奨励されているのである、もっとうまいものを作れ食べさせろとかあらゆる欲望の追求が奨励される、それで今の若者は欲望がたりないとされて批判されているのである
だから共同するというときそうして限りない欲望のために共同することだとなる
だからこそ原発はそうした欲望をかなえてくれるから地域の人たちが共同で望んだものだったのである、そのために一致共同して作られたものだったのである

生業を返せとか裁判したけど生業とは何なのか?

それは漁業とか農業とか林業とかになるがそれが金にならないからこそ原発が金になることで東電でも政府にでも売り渡したとなっていたのである
その責任は政府とか東電だけにあったとはならないのである
もちろんその責任は大きいにしてもやはり地域にそうして協同して原発を望むものがあったからそうなったのである
ただ別に原発でなくても豊かになる方法があった、もしそれが提示できればこうはならなかった、そのために協同することはありえたのである
原発はそうあってもあまりにも魅力あるものであり金になるものだから違っていたのである

それでも新潟県の巻町と能登半島の一部では原発を建てさせなかったのである
そこでは共同して建てさせなかった例外的なものだった
この辺は全く反対運動すらほとんどなかった、ただ強欲な地帯だったともなるのである
そして原発事故前も得して事故後も補償金で得しているとかさらに補償金を要求しているとか原発乞食だとか揶揄される
そういう一面は否定できないのである、ともかく人間は金となると目の色を変える
それは自分が株なとをしてそうなったのである、もっと金を欲しいとかなりそうなった
だからそれが危険だったなと結局損して気づいたのとにている
だからそれを責めるというとき自分自身もそうなるのから共通していたとなる
でもそれが実際はこれだけ危険なものだったのが原発事故で身をもって知ったのである
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近くの自転車屋で20台が原町火力発電所から注文される (経済効果大きかった原発火力発電)

近くの自転車屋で20台が原町火力発電所から注文される

(経済効果大きかった原発火力発電)


小型の自転車が東北電力から20台注文されたという
東北電力は大きい、千人くらい働いているとかいわれる
原発はそれ以上だった、その経済的効果は大きすぎたのである
社宅の団地もあり中に入ったことがないが外から見ても大きいビルである
その20台の自転車は小型であり安い感じになる、ただギアはついている
値段ではどのくらいなのか?とにかく20台の注文は大きい

これでわかるようにいかに東北電力とか発電にかかわる会社が大きいかわかる
その経済効果が大きいからこそ原発は誘致されたのである
原発の経済効果は石炭石油の比ではない、だからこそ浪江町が二万人の人口にしても
そこに東電社員とか他の工事関係者でも入ってきている

事故の時千人の電気関係者が働いていた!

これも驚くがそれだけ経済的効果が大きいのである
この辺では二つ発電所がある、原町と相馬市と新地と重なる所にもある
その経済的効果が大きいのである
最近はガス基地として松川浦の港も利用されている
そして将来有望なのはガス発電だとしている
太陽光だとか風力発電は意外と自然破壊するものでありその弊害が出てきているからだ
山に太陽光発電ができて泥が流れ出して川が汚れて岩魚がとれななくなったところもある太陽光発電はこれから景観も破壊しているし自然破壊されてもう作れなくなる
家の発電などは小型化したものは良かったみたいである   

ともかくこの辺では新しい街がいくつかできたように変化が大きかった
今日聞いた話ではシシドススーパーの土地は買ったのではなく借りているのだという
その辺りは田んぼであり前は70坪で700万円と立て札がでていたが私はいつもそこを通っていて知っているが売れなかったのである
それがたちまちその辺は新しい街になってしまった
そしてその土地は田んぼでありある人が60パーセントくらい所有していた
シシドスーパーというと駐車場が広いからそれを貸すとなると金になる
ある一人の地主に相当な金が入るということにもなるっていたのである
その変化にも驚いた、何か子供の時住んで遊んでいた人が帰ってきて変わったのでがっかりしたとか言っていた
川で遊んでいたがそこも草ぼうぼうになっていたからである
砂利があり岸辺で遊ぶ場があったことを覚えているからである

この辺で東北電力の火力発電所があることは経済的には大きい、そこの税収入も大きいからだ、原発はそれ以上に税収入をが大きいものだったのである
そうなるとどうしても原発に頼る街作りになったのである
ただ発電所でも火力発電所とかだと今回の様な原発事故とは違うから安心だとなる
多少空気が汚れてもしかたないとなる
それより経済的効果が大きいから受け入れたのである
ただ景観が破壊されたことは確かである
あそこが砂浜だったときを知っているからである 

ただ烏崎村では東北電力の火力発電所ができたときも多額の補償金をもらったのである
その後も漁業関係者は原発でももらったのである
だから30年前頃にヨ−ロッパ旅行していた人がいたのには驚いた
その頃一ドル240円だったから飛行機代が40万とかしていたの知っているから私は
外国には行けないと思っていたのである

でもそういうときどうして外国に行ったのか?
それはロシアのウラジオストックからシベリア鉄道回りでヨ−ロッパに行ったのである
そういう人と旅で会ったからである
それだけ発電所とか原発は経済効果大きいのである
それは別に烏崎だけではない、周りにも波及する、例えば烏崎村に呉服屋がいて高い呉服が売れたのである、それで呉服屋では旅行に無料で連れて行っていたのである
そういうふうに火力発電所でもましてや原発になると経済効果が大きいのである

とにかくこの辺は原発とか火力発電所とか津波とか原発事故で大変化がありそこで大きな金を動いて成金が生まれたのも確かである
大熊で牛を飼っている人が五億円もらったとか富岡町長の津波で流された金庫に5億円入っていたとかも嘘ではないだろう
それだけ原発となれば金になるものだった、最近では除染で地元の土建会社の幹部に億の金が入りそれを野球に使ったとかなんとかあったからである
それだけの金が動いたということである
自転車20台というのも驚くがたいした金ではない、でもそれだけの注文するのはやはり東北電力の発電者だということなのである
その経済的効果が大きすぎるから原発を地元で積極的に誘致したというのもわかる
その誘惑があまりにも大きいものだったのである 

福島県の除染基準要項によれば戸建て住宅1軒の除染費用の目安は70万円で、「1軒の除染に4日、5〜6人でやったとして一人で一日3万円弱稼いだ計算」(同前)ということになる。現場作業員は地元の三次、四次下請けの業者に雇われていることが多いという。業者が各段階でマージンを取っても十分に利益が出る。

 これら除染事業は大手ゼネコンを中心としたJVが見事な棲み分けで落札している。2013年度発注の事業でいくつか例を挙げると、

●大熊町/清水建設・大林組などのJV、契約額151億2000万円
●南相馬市/大成建設などのJV、241億2900万円 
●富岡町/鹿島建設などのJV、573億3000万円


除染でも莫大な金が流れたしそれがゼネコンに流れて地元には流れていない
そんな金があるなら移住するための金として与えた方がいいという人がいたのもわかる
一軒で一億円はもらえたからである、また他にも補償金として回した方が良かった
そうすれば南相馬市でも補償金で争うこともなかったのである
得したのは地元の下請けの土木会社とかであり上の人に何億もの金が入ったとか野球とかで無駄使いしたとか報道された
何かこうして何兆もの金が動き無駄にしたともなる、復興にその金は使われなかったからである
自転車20台注文されるのとはあまりにもその差が大きいものだったのである
その額自体何兆円になるともう計ることはできない金だったのである


相馬のLNG基地

将来はガス発電が有望らしい、だからガス基地になることは浜通りでは大きな経済的効果がある






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2019年08月05日

子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)


子供部屋おじさん(変な方向に行きやすい―犯罪化するのも怖い)

駅と自転車屋でその人と良く会う、その人のことを自転車屋で聞いた
しょっちゅう行っているから仕事も手伝っているようだから自転車のことを学んでいるのかと思った、自転車修理に来た人が番頭さんいないのかと言ったようにいつもいるからである
そしたら自転車屋の人はあの人はだめだ、何もしない、何もできないよと言っていたのは意外だった

何か役所に言って文句言ったとか自分とも関係していたのは駅で良くあっているからインターホンでJRの人と連絡していたという
そしたら駅長がきて何しているのかとなりオタクと言われたことに激怒したという
その人は役所でも文句を言って激怒した
その人がそんな人だと見なかった、何か話しないからおとなしい人だと見ていたからである、私は話していないからである

その人は何もしていない、本当に子供部屋おじさんなのである
他にも仕事しないでニートの人と二人くらいあっている
一人は何か本当に異常的だった、もう常識の世界から離れていた
ただ回りでは異常者と見ているようである、誰もつきあわないのである
何かそういう人はかえって社会から離れていて個性ある人に見える

老人で髪ぼさぼさの人がいる、外見を見ると仙人のように見える
それは原発事故避難してずっといる、スーパーで良く会うのである
でも話してみたら何かつまんない人だった
ただ外見が何か異様だからどんな人だと思ったがくだらない人だった
だから人間はちょっとでも話してみないとわからないと思った
外見が異様でもそれで個性ある人とはならないからである

その人は最初はどういう人かわからなかった、でも良くみると幼い顔しているのである
本当に子供部屋おじさんにふさわしい顔しているのである
ただこの子供部屋おじさんとは40くらいであり豊かな時代に生まれた人である
団塊の世代になると子供部屋をもっていた人はいない、貧乏だから子供部屋を与えられて勉強などさせられないのである
私の家もトタン屋根の雨漏りする家であり家には何もない、飯台一つと裸電球一つだったのである、本も一冊もなかった、知的な環境は何もなかったのである
それはみんな同じだったのである
だから子供部屋がないのだから子供部屋おじさんなどいるわけがないのである
なぜか私の家では店をしていて配達など子供の時一番働いていたのも不思議である
大人になって働くことがなかったから不思議だとなる
農家でも子供はその時労働させられたしそうして労働力として子供をもつということがあった、今でも発展途上国だとそういうことがある

ともかくその子供部屋おじさんは変な方向に行き危険にもなる
上級官僚に殺されたニート、子供部屋おじさんがいた
その人は小学生が運動会で騒ぐので怒っていたという
こういうことはかなり危険な状態なのである、何か変な方向に行く危険がある
それは自分自身がそういうふうにして30年間家にいたからわかるのである
アウトサイダーならニーチェとかヘルダーリンでも狂気にいたるが子供部屋おじさんはそういう天才とは違う、でも社会性が身につかないからまた大人として成長しないから
変な方向にいきやすいのである
だから何か異常に役所に行って文句を言ったり駅で何か駅長とかが来て文句を言っているのもそうである、そこに危険な兆候が出ているのである


ただ何でもいろいろな見方がある、youtubeでは親孝行だからいいとしている
その人は親と会えず分かれて暮らしていたからである
そして親とこれからどれくらい会うだろうと言っていた
これもそうなのかと思った
私は親とはほとんど60年間離れずに暮らしていたから親孝行だとなったとなるのか?
そうは思えないが何か親とそれだけ一緒にいると十分に親といたから悔いはないともなった、親とこうして一緒に暮らせない人はまた違った見方になるのだと思った
何でも人はそれぞれであり見方が違ってくるのである

なぜ上級官僚の親が40くらいの子供部屋おじさんなのかニートなのか殺したのか?
それは小学生が運動会で騒ぐのに激怒していたからである
それは確かに危険な兆候だったかもしれない、それで親が危険を感じたのである
何か社会から離脱して生活しているとずれてくるもてなくなるのである
ただ私があった大学生の子供いる60近くの女性は社会的には何も問題がない
でも異常人格者になっていたからそういう人は結婚して子供もって普通に生活して社会から認められていてもそういう人はいるとなる

ただ例外はあるにしろこういう人は変な方向に行き安いのである
だから役所に行って文句言ったり駅長につっかかって激怒したりするのもそうである
ただ私自身が駅にかかわって文句を言ったことがある
今の高校生の見守り役に前の自転車屋の人も文句を言った
それは異常でも何でもない、見守り役が異常なのである、駅のことは何もしない、高校生の見守り役しかしないというのはありえないからである
だから何か文句を言ったとしても異常とは限らないのである
正当なことで文句を言う人はいくらでもいるしそれを全部否定はできないのである

ただ子供部屋おじさんとかニートとかは何か変な方向に行きやすいのである
小人閑居して不善を成すというときこれも古くからあったことなのである
不善を成すということは犯罪にもなるからだ、人間は暇だとそうなりやすいのである
人間にとって暇は大きな問題なのである、だから暇からスクールになった
スクールは暇から生まれたことが良くそれを示唆しているのである
学問がないと暇を活用できないとなるからだ、ただ学問だけでも象牙の砦に閉じこもりこれも変な人になる、学問と言ってもあくまでも実地の社会を知ることが先にあるからだ
人間はやはり社会で社会的訓練を受けるのがいいとつくづく思う
それがないと何か常識からもはずれた人間になる、そして変な方向に行くこともある
人間とはそもそも何であれ偏り安い、それは何か経験するにしても極わずかしかできないからである

ただ一方で現代社会に適合できない人はいる
それを無理やり適合させる、会社員にさせるとかするのはいいのかとなるとそうはならない、学校でも不登校になる人がいる、でもその人はその人なりの勉強をすれば何か身につくかもしれない、その人は受験とかそうした試験ばかりの勉強が嫌でしないともなる
自分自身がそうだった、学校には適合できなかったからである
そういう人は別に普通にいるのである、学校とか会社でも社畜だとかして適合している人こそ異常だともなるからである
だから今になると団塊の世代がみんな企業戦士となり猛烈社員となったことはおかしいと思う、文系大学だと自由であり講義にもでない、そういう自由な生活をした人が良く会社にみんな就職したと思うからである
もっと会社とか社会からはずれた人がいてもいいと思ったからである
ただその時は経済的にできなかった

なぜこれほどニートとか子供部屋おじさんがいるのか?

それは経済的余裕が親にもあるからなのである
その理由が一番大きいのである、そんなこと貧乏な時代だったら絶対にできない
みんな働かされたのでありそんなことはできない、選択の余地もないからである
だから時代的そういう人達が生まれたのでありそれがただやはり社会性がなく危険なものとなるから騒ぐようになったのである 

こういう人に比べれば非正規でもロスジェネでも派遣でも働いている人は何の問題もないただその人たちにとって給料が安いということだけなのである
そこを解決すればすべて解決するのである、そうすれば結婚もして子供ももつのである
それは金の問題として解決できる
でもニートとか子供部屋おじさんは金では解決できない、そういう生活を変えることであり親が返って金を与えてさらに自立できなくなっているからである

この人たちが十年二十年後にどうなるのか?
それぞれ事情が違ってもそのカルマは恐怖になる
そのことを自分自身が体験してプログに延々と書いていたからである
誰も助けない、責められるだけになる、妻も子供いないのだから過酷になる
それに金もなかったら地獄である、そうして共倒れになり悲惨な人もすでに出ているのである、親が死んでその死体と一か月いたりとか親が子供殺したりする
そういう前兆のような事件が実際はもうすでに起きているのである  
数が多いことが大きな問題であり放っておけないのである

アウトサイダーとかするといるかいないのかわからない人たちであり何か社会の負担になどならないからである
そしてそのまま50でも60にでもすぐなってしまう、そして破綻する人が増えたり問題行動を起こしたり犯罪になったりする、それも何か危険なものとしてなる
京アニはわからないにしろ事件を起こした人はやはり41歳だったのである
この年は本当に厄年であり鬼門の年齢だと思うからである
それは自分自身がそういう経験しているから言っているのである

草深い田舎の夏の花々(白いの家の花々)


草深い田舎の夏の花々(白いの家の花々)   

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老鶯や昼顔咲きて草深し

鬼百合や外人歩む田舎道 

鶏(かけ)鳴きて農家の庭や夏の夕  


草深く月見草咲き黒き蝶二羽の舞いつつ今日も暮れにき

昼顔に藪甘草の草深く咲きて一本木の根ずくかな

十数輪ここに群れ咲く鬼百合に黒揚羽とまる夏の夕ぐれ

百輪のノウゼン散りて千輪のノウゼンなお咲きにけるかな

紫の芙蓉数輪色深めここに咲くかな今日も通りぬ


なんか暑くて昼間ぐったりして一回は寝る、ぼーっとして寝る、だから近くしか行けない疲れて行けない、花が次々に咲いている
白い家は白に花が映える、だから白い家はいい感じである
すでに芙蓉が咲いているから秋は近い、お盆の用意である
この芙蓉は濃い紫色で深みがある 、赤い紫色にも見えた
ここは狭い家でもうまく花を咲かせている、向かい側は畑になっていてダリヤも咲いていた、ここはいい場所である

土手の草が刈られないから伸び放題になっている、そこに昼顔と藪甘草が咲いている
そして木があるのもいいし絵になっている
絵は描けなくても写真を加工すると絵のようになる

農家の庭に鶏(にわとり)が鳴くときほっとする、放し飼いだからである
プレハブがあり道を外国人の労働者が歩いている、これも現代である
鬼百合が咲いているが今や日本人は草食動物だとか言われる
だから外国人でも若い人でいきのいいのがいいともなる
第一建築現場とかなると肉体労働となると荒っぽい人でないとできない
そういう人が外国人にいるというのがわかる
もしかしたら犯罪者なども混じっているのかもしれない

ジャノメ蝶が草むら深く咲いている、そのまわりも晩方になると二羽が待っている
何かそれが月見草にあっている
ただ毎日ぐったりする、だから遠くに行けない、近くをぐるぐる回っているだけである


2019年08月06日

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ) (アイディンティティは場から形成される)


読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)

(アイディンティティは場から形成される)

根をおろすということは、おそらくもっとも重要であるけど最もわずかしか認識されていない人間の魂の要求である
人間は誰もが多様な「根元」を必要としている
人間にはその自らの一部を形成している環境を通してその道徳的知的、精神的生活のほとんどを引き出す必要があるのだ

この本はバイブルのような感覚になる、それは自分自身が、追及してきたことだからである、現代文明の現代人の問題は場の喪失、アイディンティティの喪失にある
それはグロ−バル経済とか広域社会とか交通の凄まじい発達とか通信の発達とか外部との交流が飛躍的に増大した、モバイル社会である
ただ反面そのためにアイディンティティが喪失したのである
地球の裏側から物が入って来たとしてもアイディンティティとは関係ないのである
第一果物でも食料でも入ってきてもその土地のことなどわからないし関係ないからである
こういうことは便利さを求めて交通が発達した結果もたらされたのである
そこで物欲は満たされたとしても精神は空虚化したのが現代なのである
現代はみんな故郷喪失者になったのである
人間は物欲に満たされても何か満たされない空虚感につつまれているのである
現代人には文明人は精神の充足感がないのである
みんな精神的に疲れ鬱病が増える、それは何か本来人間のあるべき場の喪失とかアイディンティティの喪失のためである

人々と場所からの疎外、帰るべき場所の喪失、および世界の非現実感と所属先の喪失感をともなう、
そのような観点からは場所は意義ある存在の中心ではありえない

東京とかの怪物都市となるとそれが現実に思えない、何か幻影のように見える
そこでとても人間精神は涵養できるものではない、巨大な異空間の中で人間は言葉を失いまたアイディンティティを失うのである
現代人はアイディンティティをもつ場を失っている
江戸時代とか農村が社会の中心だった時は自ずとその土地と密接に結びついてアイディンティティが形成されていた
それは代々継続される時間がありそこが一つのミクロコスモスとしてアイディンティティをが形成されていた

だから人が死ぬと山に還りそして春になると田植えの時期に先祖がおりてくるというのはまさに時間的空間的にそこに心もあるとういことなのである
それは一代で終わるものではなく営々とつづく、先祖との関係もその場を通じてありつづけるのである
お盆というとき死んだ人を迎える時それは家だったりその土地だったりする、死んだ人もアイディンティティとして生きた場所にありつづけるという日本的信仰にもなる
それは都会ではありえないのである、だからお盆とはそうしたアイディンティティの場所に還るという祭りだともなる

金門田《かなとだ》を 荒垣ま斎《ゆ》み 日が照《と》れば 
雨を待《ま》とのす 君をと待とも 
  〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3561 相聞歌

門のそばの田が荒れていれば掻いて清め
日照りが続けば雨を待つ
そんな気持ちで貴男をお待ちしているのです 

門の前の田とかは重要な田だった、農家では今でも前の田とか畑で農作業している
家続きだから庭のような感覚にもなる、家と仕事場が一体化していたのである
前田となるとそこは草分けの農家が最初に開いた所で重要な村の中心となっていた
とにかく遠くに通って働くということはない、だからこそ余計にその土地と一体化するアイディンティティ化しやすいものがあった
そういうふうに自然と一体化した原始的心性から歌われたのが万葉集である
だから現代ではこういう歌は作りえないのである、他の歌でも自然と密着した心性は失われた、確かに現代でも農業している人はいてもそういう心になれないのである


道の辺《へ》の 茨《うまら》の末《うれ》に 延《は》ほ豆の 
からまる君を 別《はか》れか行かむ
   〜丈部鳥《はせつかべのとり》 『万葉集』 巻20-4352

道端のイバラの枝先に絡みつく豆のつるのように
別れを悲しんで すがる妻を残して 自分は旅立たねばならない

 755(天平勝宝7)年、上総国(千葉県)の防人の歌です。「ノイバラ」を詠んだ歌であるとともに、唯一「豆」を詠んだ歌でもあります
 

この豆は野生のものであり必ずしも畑で栽培したものとは違うという見解もある
こういう歌もそうである、別れるという時、野生の茨(うまら)がからまってくる君というとき自然と一体化した人間の心情が現れている、今だとどうしてもこういう発想にならないのである
だから万葉集の世界は自然と身も心も一体化したものとして歌われたから貴重だとなる

現代は本当にそうした場が失われている、そうした身も心も一体となった所から発想しない、それで抽象的なものとなる、抽象的時空がイメージの中で作られてくる
そして膨大な情報社会になったとき余計にそうなったのである
そしてその情報でも抽象的になり場から離れて膨大な情報にふれる
でも実際はそうした情報は一過性の中で消えてゆく、時間の継続で消化されない
原始社会だと何か事件があったらそれをその部族の中で語りつづける、それが歴史となり継続される、今は次から次と事件を消化しないままに次の事件が起こりただどんな凶悪な事件でも忘れられる、次の凶悪な事件が起きて忘れられるのである
それは場の喪失から起きてくる、記憶する継続する場が失われているからである
何か起きることはtake placeであり場所と関係していたからである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

現代の情報社会の問題がここにある、特にマスメデアというときテレビの影響がそうしたのである、その影響はあまりにも大きいものだったのである
その情報の致命的なのはその場を知り得ないことから起きている
なぜならテレビに映し出されたものはその場での時間空間を実際は経験できない
一部を恣意的に切り取られたものを提供されているしとても実際の場に立って得るものとは違うからである

だから不思議に思ったのは私がその土地のものとその生きている場所で話すとき話がはずむ
何か言葉でも生き生きしてくる、言葉が活きてくる、それはその場が具体的に反映してくるからそうなる、それは決してテレビとか見ては感じ得ないものなのである
その場がどういう場所かはその場に立たなければわからないのである
そして現代では交通の発達で車社会になったときその土地土地の場を感じないのである
ただ通り過ぎて行くだけになる、歩いてゆくならその場を感じるものがあるが車で突っ走ればなくなるのである、つまり旅をしてもただ移動するだけだとなる、通過するだけだとなってしまうのである、だから旅しても何か表層の旅であり深くその土地とコンタクトできないのである 

まず芭蕉のような旅は現代ではできない、ただ通り過ぎてゆくだけの旅である
かえって便利になりすぎてその土地と交わる経験ができないのである
だから現代の文明は芸術にしても深いものが生まれないし土地とのアイディンティティももてず空虚化しているのである、そこにかえって人間の生が価値あるものとして現れない要するに人間の根とある場をもたないのが現代人である
心とはこころ、ココであり場所のことだったからである、場所から離れて心はありえないのである

そして原発事故の最大の被害は今までそうして住んでいた場が奪われたことである、住めなくなったことである
たしかに補償金はもらったとしても精神的に失われたものは補えないのである
ただそこに住んでいる人も別にこんなことは考えない、そこに生活して自ずから無意識にその場が心となっていた
ただその場が失われたとき何か重要なものが失われたことを自覚したしその価値を知ったのである
そういうことはなかなか自覚しえないものだったのである
そういう精神的なものには値段がつかないし金で売買できるものでもないからである
でもそういう精神的なものこそ生きる拠り所になっていたということを自覚させられのが原発事故だったともなる
ただ実際はそこに生きていた人たちがこんなことを自覚はしていない、便利さを求めて金を求めていただけであり
それが価値あるものとして生きていた訳ではないのである
それで価値とは何かというときそれはすべて金で売買できるものではないのである
それが余りにも金が万能になりすぎたのが現代なのである、そこでアイディンティティが喪失しているのが現代なのである
根無し草になっているのが現代人なのである