引きこもりから介護から孤独死へ
(引きこもり(アウトサイダー)は文明から離れて自然と合一して巨大化する)
NHKのテレビで放送していたのは介護のために職場をやめて引きこもりになった
50代くらいでなった、これも悲劇である
なぜならそれまでは普通に仲間と働いていた、でも親が介護状態になりその人は一人っ子だからめんどうみるのが当たり前だと親に言われていた
親にかわいがられたからそう言われた
一見引きこもりは親を困らせるが最後に親を介護するということで恩返しになる
親の世話することができる、だから何もできないとはならないともなる
ただ引きこもりしていてそれが長くつづき親にとがめられても引きこもりがつづく
これは前のとは事情が違う、この引きこもりの方が実際は深刻である
普通にに働いていて介護のために引きこもりになるのは同情に値する
でも引きこもりしていて親を介護するとなるとまた違っている
なぜそもそも引きこもりがこんなに多いのだろうか?
それはロストジェネレーションの非正規雇用の特殊な事情があった
その人たちが引きこもりと重なっていたのである
なぜ引きこもりとかニートとかに私が興味があるのか?
それが自分自身が30年間引きこもりだったことなのである
20代何か放浪状態にあった、肉体労働とかしていた、そこで危険な目にあったが生き延びた、でも30以後は職にもつかず引きこもりになったのである
ただ家に閉じこもってはいない、日本全国を旅していた
最初は鉄道の旅であり次に自転車の旅であり50以降は世界を旅するバックパッカーになって終った、60以降が親の介護になり二人いたので七転八倒して一人で介護した
そして最悪だったのは自分自身も病気になったことである
二回病院に入院したし手術もしたのである
その時のことをプログで延々と書いてきた
一切助けはない、ただ責められるだけだった、そして自分の家に来た人がみんな金に困っていたのである、だから大金を盗まれたり借金している人から金を要求されたり弱った時金で攻められてきた、一切自分が苦しいことなど考慮されなかったのである
それは結局自業自得の自分のカルマだったと思いそのことは恨まない
30以降自分は楽しすぎたのである、三食つきであり食事はいつも出されているし自分は何もしなくても良かったのである
私はだから殿様のようになっていたのである
そういう生活が30年つづいたということもふりかえればこんな人生もないと思った
ただ最近引きこもりのことをしきりに言うので何なのだろうと見ているのである
つまり団塊の世代で引きこもりはいないからだ
それは極わずかのアウトサイダーとなるだろう、みんな高度成長時代で猛烈に働いていたからである
なぜ自分がそうなったのかというと複雑だけど自分の家の特殊な事情でそうなったのである
なぜなら自分はそうして引きこもっていても責められるさとがなかったからである
働けとも言われたことがないのである
こういうことはなかなかありえない、引きこもりの人は家の人から常に言われているからである
だから自分のような人は団塊の世代は本当にまれだった、それができたのは自分の場合は特赦な家族の事情でそうなったのである
引きこもりがマイナスの点ばかり指摘されているけどこれにもプラスの面があった
人間の不思議は何でもマイナスとプラスの点が生まれることである
それが何か人間の不思議であり人間は全く違った視点で見れる
宗教自体が全くこの世の否定から始まっていることでもわかる
第一宗教者は何をしているのか?何か生産活動してきたのか?
毎日なぜ籠って座禅を組んでいるのか?
そんなことが許されるのか?これは明らかに引きこもりではないか?
そういう人たちをなぜ貧乏な時代に養っていたのか?
その時汗水垂らして農民は働いていたからである
そうして生産活動しない僧侶の数が相当に多かったのである
それらの人は引きこもりだったのかとなる
そういう人たちは個人でないが集団で寺に引きこもっていたとなるからだ
そういう生産活動をしない人たちが社会で容認されていたのである
引きこもりの人を何とか働かせようと社会に適合させようと腐心している
でもそもそも働きたくない、働くことを拒否している人をそうするのはかなりの困難がある
それより社会から離れて籠り修行する宗教のようなものとしてみる
なぜそういうことを言うかとなると社会から離れて暮らすことは精神の修養になるからだ沈黙の行をつづけることは精神の修養である
社会では会社勤めるにしろ必ず何かしら悪を成すのである
それがわかりやすいのはまずウソをつかずに社会生活を送れないということである
会社員として勤めると嘘をつくことが必ずある
銀行員などは固い職業でそういうことないと思ったが嘘をついていた
客に投資信託などを売りつけていた、それは客はもうからない銀行が手数料とるためだけのものだったのである
そういう嘘をつくことが常に社会ではある
第一嘘をつかないで生活するとなると僧院のような所に社会から離れて暮らすほかないのである、つまりそれが引きこもりなのである僧院とかは集団で引きこもりしてそれが社会から許された場所だったのである
人間はしゃべりすぎるのである、自然は沈黙しているが人間は絶え間なくしゃべるのである、社交とかでもそうなる
巧言令色になるのである
こんなことを考えるのは時代が変わると過去の見方が変わるからそうなる
ただ引きこもる寺とか僧院がなくなったから家で引きこもるようになったとも見る
そして引きこもりにも大きな効用がある
それは社会から離脱したことにより自然と合一するようになる
禅宗だと沈黙の行をつづける、それはいいことばかり言って客をだまして金融商品でも売りつけることなど社会では普通にある
でもそうして引きこもり社会かは離れて修行していれば嘘をつく必要がないのである
そうすると精神の修養になるのである
何かそして私は文明から離れて大自然と合一するように修行していたとなる
それは引きこもっていた結果自ずとそうなったのである
だからニーチェのようになったともなる
社会自体を文明自体を否定してなきものとして大自然の中に精神を合一させたのであるそうしてそこから詩を作っていたとなる
神の技と人の技
(Human beings unite with the universe and become a Giant)
時に人の技を安め
その技をとめよ
大いなる無用の空間にこそ
神の真の用がある
大いなる山は沈黙して
太陽は静かに輝き移る
人の技は限りなく疲れる
決してその技は完成しない
神の技はすでに完璧に完成している
人はただそれを讃える者としてある
その広大な海、山々、宇宙
そこに自ずから神の歌が響き渡る
精妙にして雄大なる楽が鳴り響きわたる
時に人の技を休めて
大いなる神の歌に耳を傾けよ
荘厳なる沈黙にひびく神の歌を聞け
一大ハーモイのシンホ二ィーを聞け
山は今日も深く黙しつづける
その内に向かって強く堅固に不動に
神の技はすでに完成して与えられている
人よ、なぜなお人の技を付け加えて労するや
無用の用のなかで人は大きくなる
汝は神の子にあらじや
汝に糧は与えられしにあらじや
神を賛美する者なれば・・・
宗教とかは何だったのか?それは精神の修養を修行を大事にした
騒々しい社会から離れる時そこには大いなる沈黙の山岳がある
その山岳と精神も一体化するのである、修験道とかがそうである、山伏とか法印とかが一部落に1人とか必ずいたのである、その人たちも別に働かずに暮らしていたとなる
今でも登山は人気である、昔は修業として登山していたのである
そういう人たちは社会から無用の人たちでもあった
真の神の用は社会にあるのではない、文明にあるのではない
大自然に宇宙にこそある、そこにこそ神の技があり人間の技なる文明には栄光はないのである、それを証明したのが原発事故だったのである
だから社会や文明に使われて疲弊する人間は本来の人間ではない
人間はそうあるべきではない、なぜなら人間に神が与えたものは神の技をほめたたえることだからである、文明に栄光ないのである
東京のような都会に埋もれて蟻のように働かさせられて絶え間なく不満を言っているのを見ているとこっちも苦しくなる
そこに人間の本来の生はないのである
人間は壮大な自然と共鳴して生きる時生きていたのである
文明にそういうものはない、だから文明自体が否定されるべきとなる
働けとかいう時、それは文明に使われて生を消耗させることなのである
そういう逆転の発想も思想もあった、それが宗教であり老子とかの思想なのである
だから働けと強要することは人間を生きることを否定させて奴隷にすることなのである
現実に確かに原発を作った科学者がそうだった、その科学者が働いたことによりこれだけの災いがもたらされたからである、働くということがすべていいものとして肯定できないのである
なぜみんながこれだけ毎日あくせく働いているのにその成果はなになのか?
東京の怪物都市となっているだけなのである、そこに自然にある壮大な美はないのであるそれは結局徒労だったともなるのである
だから引きこもりは実は巨大な人間になるものとしてあったともなる
働かないからと社会に文明人に卑屈になっている姿は情けないとなる
社会性は必要でも人間はそんなものではない
人間は大自然と宇宙と合一して巨大なるものとして成長する
それが神の子たる人間の目指すべきものである
いづれにしろいくら働くとしてもしょせん複雑な巨大な文明の歯車にしかなれない
どんな優秀な人でも歯車にしかなれないのである、科学の発明にしももう一人の力ではどうにもならない
それだけ複雑化しているからそうなる、科学でももう限界に来ているのである
東京のような都会を見ればわかる、用で埋め尽くされている
無用の空間、空地もない、そこで人は消耗されるのである
そこでは余裕がない、絶えず利益を追っている、血走っているともなる
金に追われている、利益を求めているのだがそれが社会にとってどれほど有益なのかもわからないのである
それはあくまでも社会の用であり曽木社会とか文明から離れて無用の空間がありそこにこそ真の神の用があるともなるからだ
社会から離れてひきこもるときそこに文明は消えて巨大な自然と宇宙が現れるのである、その中で人間も巨大なるものとして成長するのである
確かにそれが極端にすすむとニーチェのようになる
ニーチェは神ではない、偶像である、でもなぜ現代人は文明人はニーチェに惹かれるのかそれはあまりにも人間が文明の中で矮小化された結果なのである
それに反発する時エネルギーが普通人とは違う天才はアウトサイダーとなったのである
ただ遂に30年引きこもっていれば普通の人も巨大化することはありうるのだ
そういうことを上野霄里氏が言っていた
彼もニーチェのような天才だったからそう言ったのである
それでも普通の人でも30年も引きこもっていると何か異常化もするのだが巨大化する
それは大自然と合一しようとする力が自ずと働いてくるからである
反作用としてそうなってゆくのである、それを自分自身が経験してきたからである
それでこういう詩を書いているのもそうなのである
ともかく引きこもりが40代以上で50万人とかまた二十代からでも40万人とかいる社会とは何なのだろうか?
これはやはり文明の反作用としてそうなっている
またそうして働かなくても生活できるとはいうこともある
そういう人達から何か巨大な人間が生まれるのか?
みんなが社会からただ病人とか落ちこぼれとか役にただずとか言われるだけなのだろうかそれがなんとも数が多いから何なのだろうとなる
そもそもそれだけの人間が働かないで暮らせたというのも現代である
問題があるにしろ一応暮らしていけたのである、親を頼みにしても暮らしていけたのである、それは法印とか山伏とか寺に引きこもる僧とかもそうである
だから時代が変わってそういう人達が引きこもりなのか?
なぜなら引きこもりの人は結婚もしていないということでも共通しているからである
最近AIとかロボットとか盛んに言い働かなくてもいい社会が来るというのもそうであるそれのいい面はそうなれば人間は別に社畜にならなくてもいいし文明の部品とならなくてもいい、無用の空間で遊び自然と合一する生きるとかなる
無理やり強制されて働かなくてもいい時代が来るとなる
実際は人間はそんなに働かなくてもいいのである、その働く思想がどこからきたのか?
それは農業社会から来たのかもしれない、とにかく農業は畑で野菜を作るにしても暇なく草むしりをすることが強いられる、すると休むことができない、勤勉になるのである
一方で牧畜民とか遊牧民は羊飼いでも何か暇な面がある
それで想像にふけっているとかある、そういう違いがある、農業は勤勉さを生むのである
人間はとにかくなぜこれほど働くことが奨励されるのだろうか?
働くことが必要でもそんなに働く必要があるのか?
それが疑問なのである、だから働かない無職は犯罪者と同じになるのである
ただそれがAIとかロボットとか機械化で働かなくてもいい人が膨大に増えたらどうなるのか?一応ベーシックインカムとかで生活費が供給されるようになったらどうなるのか?もう強制的に働くことはしなくてもいいとなる、その時働かなくてもいい価値を無用の価値を追求できるともなるパラドックスがある
結局これも時代の変化で価値観が変わる、がらりと変わるからそうなるのである
そもそも引きこもりとか無職がこんなにいること自体がやはり社会の変化でそうなった
その人たちが批判されても現実にそれだけ存在している
それが可能な社会だからいるとなる
機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ
我々は一人一人個性ある人間なのだ
その個性を示すことが人間が生きることなのだ・・・・・
引きこもりはわからないにしてもアウトサイダーはまさにこれだった、文明の歯車として機能しなくなった人である
でもそれこそ人間的な人として個性ある人となるという逆説がある
ただ正直ニートとか引きこもりは何か人間的に劣っている人たちが多いのが現実である
子供部屋おじさんとかもいる、これもうまい名付け方だなと思う、ことおじとかなる
何か子供のような顔していて大人になっていないのである
何か第一社会人でないものは結婚しないとかしていないと何か幼稚なのである
人間的に成熟しないのである、それは自分自身がそうだったのである、大人になれないのである
だから実際はやはり社会性が欠けて人格的に大人になっていないのである
人格的に何かが欠落しているのである、そして小人閑居して不善を成すとなる、何か異常な犯罪者にもなりやすいのである
アウトサイダーというときニーチェもそうだがヘルダーリンとかもそうであり芸術家でも狂気化していることでもわかる
本来社会生活で養われるものが養われずにそうなったともみる、もともと天才にはそういうことがあるからだ
だから私が言うアウトサイダーとはまた別物として引きこもりとかニートはある
ただ自分自身がそういう生活をしていて遂に死ぬとまでなったので何なのだろうとなってこの一文を書いてみたのである