NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る
(認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)
認知症の薬のアセリプトを開発した人の人生である、最初高校卒で研究所に入るのかと思った、その後大学に入り研究者になれた
認知症にはじめて効く薬が発明された意義は大きい
認知症の治療とか介護に苦しんでいる人が多いからである
ただ杉本氏は母親がひどい認知症になってそれに心痛めて薬を開発することに熱心だったのである、そこに強い動機があったことで成功したのかとなる
動機は大事である
そもそも官僚になっている人は志がほとんどない、東大出たらいい暮らしができるとか
自分の利益しか考えないからだめなのだと東大出の人が言っているのだからそうなのかとなる
団塊の世代でも数が多いから熾烈な受験戦争であり志など皆無である
要するに他者を蹴落としてまでも点数をあげて得する立場になれということである
そこに動機としては自分のことしかない、自分か良ければ自分がいい暮らしできればあとは関係ないという世界である
だから東大に入ればそれで官僚になり財務省にでも入ればそこでいい暮らしができる
何か国のためにはか国民のためにかはないというときそれはそういう教育しか受けていないのが戦後の団塊の世代だったからである
その前の世代、例えば小学校でも戦争の時育った人たちは団塊の世代とは違っている
国民意識国家意識が強いのである、そういう教育を戦争とともに受けたからである
それは戦後否定されたにしても何かそれが全部必ずしも悪いとはなっていないのである
それで林秀彦の本を読んで日本語を見直すということで興味をもったのである
戦後の教育というそもそも教育がなくなっていたのである
何が教育なのかわからなくなってしまったのである
日教組が極端な左寄りとかなりそれも日本人としての教育ではない
左翼が風靡したとしてもそれは教育にならなかった
つまり何ら指標となる教育はなく、知識の詰め込みと受験戦争でいい大学に入りいい暮らしをするということしかなかったのである
ただ高度成長時代になりそれがかなえられたのである
教育というのは自分自身で一人で作りだされるものではない、社会自体に道徳とか規範とかあってできるものである、そういうものがなくなったとき誰も教育できなくなったのである、まねるものがなくなったのである、でも新しいものを造りだすこともできない
そこでただ民主主義とかマルクス主義とかそうした実のないうわべだけのものを言葉だけを取り入れたのが戦後だったのである
だからいかに伝統が大事だったかともなる、なぜならそもそもそうして歴史的伝統的に作られてきた民族の文化の骨格を否定する、でもそうなると新しいものを作る時なるとき作れないのである
だから宗教でもカルト宗教団体が戦後跋扈したのである、それも御利益宗教である高度成長時代にマッチしていかに得していい暮らしをするしかなかったのである
日本から教育がなくなった、道徳すらなくなった、宗教もカルトになった
そうしたら何を見本にするのか?
ただこういうことは文明自体の問題として世界中で共通していたということはある
宗教の力がなくなり物質的欲望を追求のことで共通していたからである
ともかくアセリプトを発明した人は強い動機があったことが成功へと導いたのかもしれない、それから各人に自由に開発させた、各人の能力を引き出すように指導したとかある
でも8年とかそれ以上時間がかかった、二回も挫折して研究は停止したとかある
それだけ一つの薬を発明するのに苦労したのだなと見た
そうなればその薬はありがたいなともなる
その薬が奇跡のように生まれたわけではなかったからである
ただ正直この薬にしても認知症は直すことはできない、ただ若干症状を遅らせるだけでありまた人によっては効かない、かえって副作用が出る
だからこれで認知症が直るというのではない、ただはじめて認知症に若干でも効く薬が発明された意義は大きい
認知症というのは謎である、だから別に医者でなくても対処療法があり心理的に対応する方法がある、それは医者でなくてもできる
それをこれまで私は書いてきたのである
認知症という病気を良く理解することである、それは化学的に体をみること脳をみることではない、だから別に医者のように知識もなくてもできるのである
ただ認知症がどういう症状がでてそれにどういうふうに対処するかがある
それも個々人で対処することがむずかしい病気なのである
だから認知症の介護できる人はずっと一緒に生活している人である
例え親子でも離れて暮らしていると自分の子供すらわからなくなるのだ
それで杉本氏の母親が自分の子供なのにわからなくなったというのはなぜか、そのことがわからなかった
一緒に生活していればそうはならないはずだからである、離れて暮らしているとそうなりやすいのである
まず認知症ほど謎めいた病気はない、なぜなら正気を失った、馬鹿になったとなるが必ず正気にもどる時がある、まず死ぬ前に一か月前とかに正気にもどる
これはなぜなのか?これも不思議だった、二人の認知症を介護したけど二人とも最後に正気にもどった瞬間があった、それで私は懸命に介護したので報われたともなる
だから生まれつきの知能の障害者とも違っていたなとふりかえる
要するに本当に謎が深い病気なのである、この病気は果たして化学的にとか薬で直るとかあるのか?
それが疑問なのである、だって脳となれば精神が影響しているだろう
では認知症は海馬が損傷してそうなったのか?脳の一部の障害なのか?
ただ人間であり人間として認められる、感情もある、喜んだり悲しんだりする
それで感情があれば人間なのか?何かそうしたことを考えさせられるものだった
だからこれは精神病とか心理学とか何かそうした人間の心の分野と関係もしてくるから
ただ化学的体だけからみただけでは解決しないのではないのか?
でも認知症を直す薬が生まれのだろうか?
それが生まれたらすごい、海馬が損傷するとしてそこを直せば全体も回復したりするのかとにかく認知症だけは謎が深い、それは直接介護してみないとわからない病気だったのである
医学でも科学でも何か今は限界がないとみられる
でも本当にそうなのか?
原発事故のように限界がある、ただ限界がないように常に発見があり発明があり科学が解決すると期待されるのである
でも医学でも科学で限界が生じる、それは人間の限界なのである
もし限界がないとしたら遂に人間自体が神となり解決しないものはないとなるからだ
とにかくその人をみるときその人の成したことをみるとき動機が何かを見ることは大事である、神は人の心を見ている時、その動機が良くなければいかに成功したとしても成功したとは言えないのである
そうして成功したとして金持ちなったとしても成功したといえるのか?
俺は優秀だからその優秀さをみせるために事業を起こした、それも田舎では金をもっている人がいないから都会の人を相手にする、何かこんな動機で事業を起こした人がいる
そもそも動機がそんなふうでは成功したとしてもますますその人は増長するだけであり
人を見下すようになるだけである
自分の親が認知症になりそれをなんとかしたいというのとはあまりにも違うからである
ただ成功と失敗もか一重なのかもしれない、もうそういうぎりぎりのせめぎ合いで偶然新人が入ってきてその人が実験して成功したともなる
そしてもし成功しなかったら時間の無駄になり金の無駄になり何にも得られないとなる
そうなることだってありえたしその方が確立が高かったとなる
それだけ薬の開発がいかに容易ではないかわかった番組だったのである
エーザイ新薬治験で健康男性死亡 極めてまれ、厚労省が調査
世界大手も尻込みする認知症新薬開発
エーザイのようにアルツハイマー型認知症新薬を開発する製薬企業に対する期待は否が応にも高くなる反面、開発が不調となれば、失望も極大化してしまう。師走のエーザイの株価急落は、まさにそのことを端的に示している。
厚生労働省は9日、免疫の仕組みを利用したがん治療薬「オプジーボ」を投与された患者11人が、副作用とみられる脳の機能障害を発症し、うち1人が死亡したとして、製造元の小野薬品工業(大阪市)に、薬の添付文書に重大な副作用として追記するよう指示した。
薬は必ず副作用がある、アセリプトにもある、エーザイは杉本氏が勤めていた会社である
やはり一連のニュースとして注目するものがある
ニュースも自分用に編集する時代なのである
でもこれだと時間がかかるのである
だから仕事している人はやはり情報がいくらっても目を通すことはむずかしい
インタ−ネットは相当暇でないとできないのである
ただいつもアクセスするところを情報源とする
それでもインタ−ネットだと情報が多すぎるから編集するにしても時間がかかりすぎるのである