2019年07月27日

真野川の河原で野馬追いの旗取り (野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)


真野川の河原で野馬追いの旗取り

(野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)

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近くにも但野(ただの)氏がいた
とにかく鹿島区では只野、但野・・・が多いのである

真野川の河原での旗取り

御家は小高から移った人の旗印ーこれは新しく作ったのか?
あとは只野氏の杉の紋と天皇の菊の紋は由来がわかっている


今日は真野川の河原で旗取タをしていた、ここに集まるのは鹿島区(北郷)である
でも(御家)とある旗は小高の人なのである
原発事故があり避難して鹿島区に移ってきた、ただ旗帳には見かけない
すると新しく作った旗なのかとなる  


江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも、人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば、伊達家によって治められ仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく、主家の名により「伊達家御家中」という表現が用いられ、また国持大名であった伊達家は徳川将軍家から「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここでいう「松平姓」も、幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。

給人とは、藩主から知行・俸禄を支給された武士を指します。相馬中村藩の給人は2区分され、城下にあって直接藩の用を勤めている府下給人(御家中・麓給人)と、通常百姓をし、戦時に兵役にあたる在郷給人とがあります

藩というときこれは明治以降に用いられた、江戸時代までは御家中である
藩は地理的区分としての藩を意識するが御家中という時は人的結合を意味している
つまり家が発展して城となった、城は家なのである
相馬藩だと今の相馬市の中村村に城を作ったから中村御家中となっていた
だからおそらくこの(御家)は鹿島区に小高から移り住んで侍出の人が新しく作った旗だとなる、なぜなら旗帳に出ていないからである
由緒ある家なので御家という旗を鹿島区に移り住み作ったのかとなる

他は只野氏の杉紋とか前にも書いた、とにかくこの辺では只野の姓が多い
その由来は書いた、南北朝の争いの時霊山城が落城したとき落ち延びてきた末裔が只野の姓なのである
その元は郡山の近くにある多田野村だったのである
それから桑折氏とか菊池氏とかもそうである、その紋は天皇の菊の紋である
南北朝の争いの時二人の天皇をたてて争ったからである
だから鹿島区(北郷)の旗印でこのことはわかっている
そして山王神社とか日吉神社は南北朝の争いで落ち延びてきた侍が護持したものである
鹿島区の江垂(えたり)の小高い山に中館を構えて住んだ
玉野村で鹿島の真野と相馬市に方に行った人が分かれた
それで山上には山王神社があることでわかる
そして野馬追いに参加している地区ごとの人数をみるとわかることがある
                               
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なぜ北郷(鹿島区)と中郷(原町区)がほぼ同数なのだろうか?
それは北郷はもともと相馬氏が入って来る前に在地の勢力としてあった
相馬氏進出の径路で書いたように相馬氏はまず小高から入り城を築いた
その時は行ったのは八重米であり太田神社のある地区であり小高区に入った
原町の場合は海側に泉氏とか在地の勢力が存在しては入れなかった
牛越城の位置は海から遠いからである
そして深野(ふこうの)にも在地の勢力がいては入れなかった
なぜならそこに館とつく地名が二つもあるからだ
館とか盾とつく地名は中世の地名であり城の役割を果たしていた
それで鹿島区(北郷)でも相馬氏は小池から進出して中村(今の相馬市)に進出したのである
海側には入れなかったのである   

そこでなぜ相馬藩で400年前の津波のことが400人溺死としか記されなかったのか
その原因がその時こうして相馬藩が進出するときであり支配下に入っていなかった
まず相馬氏が完全に支配できていなかったのである
その時中村に今の相馬市に城を築いたのである、そこは伊達氏の領域であり海側は在地の勢力圏内だったのである
それで津波のことは詳しく記されなかったのである
そして学者の研究で400年前の慶長三陸津波の前後で米のとれた石高が三分の一くらいに減っていたのである、それが大きな証拠となる
海側に在地の勢力があり海を通して交通もあった、でも津波でその海側の勢力がそがれて相馬氏の進出に有利に働いたのである、つまり津波は相馬氏の支配にとって都合いいものだったのである
他にも津波の影響でそうなった地域があった、戦国時代とかなる敵の不利になることがつけ入ることになっていた    

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。  
知らず「おいか」とは何の言なるか。    

なぜここで大原なのか、海老村と大原は遠い、でも相馬氏が進出したのは八重米坂から太田神社から小高の方である
原町となると海側ではない、大原は相馬市が深野をさけて進出した 
そこから小池を回って中村へ(相馬市)へ進出した、そして柚木が八沢浦と接して宇多郷になっている
その辺に津波の伝説が残っていることが不思議なのである
そしてなぜ海老の大工の善次が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る

大原の方というとき相馬氏が進出した場所だった、何かその時中村に相馬氏が牛越城から移転して城を築くというとき天守を造るというとき大工の善次は相馬氏から要請された、そこで在地の勢力下にあった善次は拒否もできずに苦しんだ
その時津波の被害が海老にあったからだったのかともなる、その怪異は津波の被害を語っているかとも推察した
海老には寺の関係とかで二つの館があった、今でも屋形という地名は残っている、そこは海老ではないにしろ在地の勢力があった地区である

相馬氏より先に岩松氏が鎌倉からきて北郷とか相馬藩内を支配していたからである,相馬氏より岩松氏が先住者として支配していたからである、その岩松氏は鹿島区(北郷)を根拠地としていたから相馬氏と対立していたのである
ただ岩松氏は一家が四天王という家臣に子供まで惨殺されたのは有名である
だから野馬追いに出る人の数が原町と北郷で変わらないという時北郷が大きな力をもった地区だったとなる、小高の倍もあったからだ原町は広い範囲だから今から考えると雲雀が原があり何か力関係では侍の数でも同じだったとは思えないからだ
でも雲雀が原辺りに原町村とありそこから野馬追いに一騎しか出ていないのである、あの辺は広大な野馬追いのための牧であり野馬土手で囲まれていた、人家はほとんどなかった、この野馬追いに出る騎馬の数はそういうことを物語っていたのである
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なぜかわからないけど相馬市の松川浦から諏訪神社が相馬市内に移動しているし磯部の豪族の佐藤氏も鬼越城に移動している
それは慶長津波の前のことである、これも謎なのである、そして相馬市の諏訪神社に津波で舟が流されてきたという伝説が残っていたのである、小泉川を津波がのぼってきたのか?ただボーリングの調査では相馬市の奥まで津波がおしよせた痕跡が砂が発見された
しかしそれは貞観津波のものだったというから津波の唯一の証拠はその前と後で三分の一も石高が激減したことである
それは海側が津波で被害が甚大だったことをの証拠なのである、海側もかなり開拓されて田んぼになっていた
それが根こそぎ今回の津波の被害で大打撃を受けた、ただ田んぼだけではない、それより海上交通がありそれで財を成したともされる

小高には蔵院とかありかなり大規模に海上交通で商業がありそれで財をなして力をもっていたからである
それが津波でそがれてしまったとも推察できる
海側は意外と昔は魚でもまた海上貿易があると栄える素地をもっている、その延長としてこの辺は原発がたち一時は栄えたとなるからだ、海側にはそういうものが作り安い、松川浦とかでも今はガスの輸入の基地となっていることでもわかる
これからの発電はガスだというとき新地はそれで仕事ができて発展が望まれるというのもそのためである  

posted by 老鶯 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く


野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く

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先駆けて馬二頭走る青田風

蔵に映え騎馬武者行くや藪甘草

母衣(ほろ)赤く青田に映えて鷺白し

いななきぬ馬の活きにし野馬追に


宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流するのが海老原氏の家である
そこから本陣の農協の方の広場に集結する
そこで儀式が行われる

だから本陣と海老原氏の間は先駆けて馬が行ったり来たりする
その時馬が走るから青田に映える、だから知っている人はあそこが撮影ポイントなのである
野馬追いは年に一回でありすると写真をとる機会が一回しかないのである
だからいくら来年見れるとしても一回だから写真がうまくとれないのである

今日は昨日松川浦に行って疲れた、やっと行ってきて写真をとった
騎馬武者でも自然の中で映える、街中だとごちゃごちゃするから映えない
時代劇のロケ地のようにあそこが撮影ポイントなのである

今回は蔵がありそれを背景にして騎馬武者が行く、蔵には紋があるふさわしいともなる
古い農家は蔵を必ずある、だから古い家かどうかは蔵があるかで判断する

いづれにしろすぐに行列は終る、それでいい写真がとりにくいのである
今回は山を背景にして撮ろうとしたが自動車会社とか映ってこれもうまくいかなかった
赤い母衣(ほろ)は大将である


posted by 老鶯 at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)


野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)

野馬追いは他の祭りとは違っている感じがする、それは歴史の忠実な再現だということである、それで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する、それが儀式となっているのはそういう歴史があるからである
その忠実な再現を見たいと来ていた人は相当に歴史そのものに興味がある人だとなる
祭にはもともと古い謂れがあれその再現だからそういうことはあった
だから祭りとして残っていてもそれが何を意味しているのかもわからないのがある
書類とか言い伝いでわからなくなっても祭りとして残されているのがあるからだ

歴史という時、北郷というときこれは相馬氏がまず小高に入り小高に城を築いたからその小高から見て北になるから北郷になった
だから合併して南相馬市になったとき今度は相馬市に城ができてそこが江戸時代中心になったからその南ということで南相馬市になった
つまり城があるところが中心として意識して方角地名がある
それは歴史的継続だとなる、方角地名は必ず中心があって東西南北が決められるからである

野馬追いの見所はそうした歴史の忠実な再現なのである
なぜどこの家から野馬追いが出るのか、野馬追いに出る家に旗が立つというときそこに注目したのはその旗立つ家は野馬追いに出る家であり古い家だからである
侍の家だったのであり郷士の家だったからその土地で古い家として認識できるからである歴史を知ろうとしたときそこでリアルに感じるからである
でも地元でもどこの家から野馬追いに出るのかわかりにくい、結局十軒くらいしか自分自身はわかっていない、人口が相馬藩内で10万ちかくあってその中で野馬追いに出るのは500騎としても少ないからわからないのである

野馬追いが歴史の忠実な再現だとして野馬追いがあれだけの旗印がある、それは何なのだろうとなる、でもその旗印の由来を知ることができない、その由来は平安時代とかからも始まっているからわからない、由来をたどれば関西の方にまでたずねることになるからだなぜなら関西から関東地方に平家とか源氏でも移住してきたからである
東北は関東の武士団が移住してきて作られた地域である
それは鎌倉時代でありその人たちが先祖になっている
相馬氏もそうである、相馬氏は騎馬軍団で強いからこの地の支配者になったし強大な伊達市と対抗できたとなる

だから野馬追いのもう一つの意義は馬を知ることである
ただこの馬のことがわからなくなっている、馬は今は競馬でしかわからないのだ
それで皐月賞をとった馬がいるとういことでわざわざ見に来た人がいたのである
その人は相当に馬に興味がある、しげしげと馬を見ていたからである
実際にこの辺ではそうした引退した競馬馬を使って野馬追いに出る
また野馬追いに出るために馬を飼っている人もいるからそうなると金がかかるのである

いづれにしろ馬というのが身近な存在ではなくなったとき馬のことがわからないのである実際馬を知るにはモンゴルのような所に行かないと馬の存在感はないだろう
何もない平原地帯でこそ馬が疾走すれば活きた馬を見れるからである
モンゴルの馬にのったときこれが小型なのである
足がつくくらいだった、こんな小型の馬で良くモンゴルが世界を制覇したと思った
ただ山岳地帯とか行くにはいいのだろう、万里の長城のあるところは山岳地帯だからである、結構険しい山岳地帯だすると小型の馬の方が上るにはいいとなるからだ

日本の馬は大型である、だから落馬で相当死んでいた、高いから落ちたら大けがするからだ、馬はとにかくなじみがなくなった、馬が活きる場所は競馬だけになったからである
ただこの辺では馬に親しむ場所として残されている
だから競馬と深く関係しているのである
馬が今現実に活きているのは競馬だからである、そこで馬体を見て馬の良しあしを判断したりしているから馬が活きている場所なのである
その他は馬とほとんど関係していないのである

ただなぜ地元でも野馬追いが盛り上がらないのか?、外から来た人も一回見れば終わりだとなっているのか?。
それはもともと歴史の忠実な再現であり変えられない、現代的に変えればいいじゃないかと言っても変えられないのである
自由に旗印を作って野馬追い行列に参加すればいいじゃないかと言ってもできないのである、野馬追い祭りに参加できるのは10万人いたとして500騎しか参加できない
相馬藩内では極わずかの人たちしか参加できないとなっている
だから何か地元でもただ見るだけであり毎年見ているとあきる
それで地元自体が盛り上がらないとなっている、他の人たちはただ見ているだけだからである、ただ野馬追いに出る人は侍になった気分になるから気分いいとなる
それで野馬追いに金がかかっても出たいなっている

だからこの辺は馬と関係あるのだから馬に親しむ地帯にするということはある
それでこれも問題だが小高とか浪江では田んぼが草ぼうぼうとなって放置されている
すると何に利用するのかとなると牧場にして馬を飼うのがいいかと想像したりする
これもまたありえないとなるがただ歴史的にはそういう場だったから想像する
何か馬を活かす方法があってもいいとなるからだ

posted by 老鶯 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)