2019年07月25日

野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

                        
野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

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真ん中に軍配の旗印
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金沢村に軍配の旗印は旗帳にのっていなかった
でも下高平とか鹿島区の大内村とか右田村にはあった
金沢村は江戸時代に開拓された場所である、それほど広い土地でもなかった
だから旗帳には二つくらいしかのっていない
軍配の旗印はのっていないのである


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原町区金沢村に立った旗印

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この旗印は深野村長野村とかにある


雲晴れて旗立つ家や夏の山

山百合に鬼百合も咲き野馬追いの明後日かな期待高まる  

野馬追いは野馬追に出る家に旗が立つときから始まる、金沢で二軒に旗が立っていた
一軒には三種類の旗が立っていたのはなぜか?
何かここに集結したためか?
ただ旗帳の金沢村には 記されていない、下高平村とかの旗にでている
そこから移動したのでその旗になったのか?。
なんらか家でも移動していることがあるからだ

深野から大原の方へ回ったら一軒だけ旗が立っていた、これは大原村の旗としてある
とにかく野馬追いというとき多くても500騎出るとしても実際は範囲が広いのである
浪江までありそこでの所帯数は何万とかなる、そしたら500所帯は少ないから野馬追いの出る家は特定できない、わからないとなる

鹿島区だと56軒出るのを知っているがそれでも少ないからわからない
鹿島区の特徴は南北朝の争いの時代に霊山から落ち延びた子孫がいる
その家の旗は天皇の菊印なのである、只野姓はその中心にある
その人は街内に住んでいる同級生だった
他に街内に住んでいて菊印の旗がたつ、それは天皇の紋である

只野姓の人の旗印は杉である、只野姓は本当に鹿島区に30人以上とかいるから多いのである、ここの由来はわかっている、その他はまずどこの家に旗が立つか場所がわからない
野馬追いは旗祭りだというとき旗印の意味がわかるといいのだがわからない
そもそもなぜあんなに旗印の数が多いのかとなる、それも不明なのである

軍配(ぐんばい)とは、かつて武将が戦の指揮に用いたうちわ形の道具。現在では相撲の行司が力士の立合いや勝負の判定を指示するのに用いる道具として知られている。

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軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略であり、本来「軍配」とは、所謂「軍配術」「軍配兵法」とも呼ばれる、戦に際して方角・日時を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する法のことである。「軍敗」とも表記される。軍配術を行う者を軍配者という

 団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られているそして、家紋のなかでももっとも古い紋の一つともされている。
 児玉氏は藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期には児玉党が旗印として用いていたことが知られる。とはいえ、当時は団扇そのものを印として用いていたようで、それが、やがて家紋として図案化されたものと思われる。

 これは深野とか長野村にあるし大内村とか右田村にもある、その系統が伝播したことがわかる

平安時代からあるのだから旗印は古い由来がある、それは武蔵とかに伝播されて相馬氏の侍の旗印となったのである、このように旗印の由来は古いのでありその起源は関西の方であり奈良とか京都の方だともなる、只野氏の杉紋は三輪山の杉に由来していて万葉集にその歌が残っている


あと三日で28日で野馬追いになるが今日は晴れてきたから晴れるようだ
野馬追いはやはり梅雨明けにはじまり本格的な夏に入ることを告げる祭りなのである
東北では一番先に夏の祭りとしてはじまる 

ちょうど藪甘草が咲き今日は山百合が咲き鬼百合も咲き始めた
野馬追いがはじまるとき咲きはじめるのである

                                                          

posted by 天華 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

ボランティアは偽善であるの議論


 ボランティアは偽善であるの議論


被災地に住んでます ボランティアを見るとイライラします。 
理由→遠くからこんなにたくさんの人が来てるのに地元のあなたはなぜ何もしないの? と怒られました。毎日がれきの中を通学してます 時間も経費も前よりかかってます。津波で流れたアルバイト 新しいところを探しました。勉強も必死にしてます。まだ足りないですか? ボランティアが来てから私はふるさとのために何もしない冷たい人になってしまいました

ボランティア活動というのは「受ける方は深く心から感謝する」そし
てする方は私心がなしでこのような受け手に心から感謝してもらうことで自分自身も喜び
を感じるというお互いが心から喜びあえるところにその本質がある


相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

本人は良かれと思ってやっていたとしても、相手にとって必要なことでなければ、お互いが無駄な労力や気遣いをして終わってしまうことになります。



ボランティアは偽善である―キワードで検索したら結構深い議論をしている
それは大学生とかでもそうである、大学生は今だとボランティアをしているからそうなるのだろう

ボランティアに対してなぜ一面こうした偽善だとか批判が大きいのだろうか?
この辺は津波や原発の被害でボランティアがひっきりなしにきていた
原発で避難した仮設に一番来ていた、そこには原発の被害者も津波の被害者もいた
その差も大きいものだった、ただ外から来ると原発避難者と津波の被害者は一緒に見ていたとなる、同じ仮設に入っていたからである

そこにはいろんな人達が来た、宗教団体は多かったろう、それは宣伝のためである
売名行為の芸能人も来ていた、それを批判する人もいる
意外とネットではボランティアを嫌がっていると悪だと断定する人までいるのは意外だった、何か善意の押しつけでありうざいということなのかもしれない
そして何かボランティアは善人でありいいことをしていると見せつける
そして感謝とかでも何か強要する、それを見て嫌な感じになる
いくら無償でも嫌がる人がいる

相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

これは確かにある、駅のボランティアでそういうことを経験したからである
別に教えなくてもいいとなる、無人駅でもいいという人がかえって多かったのである
若い人には多い、でも老人はわからないとき教えると素直に感謝している
それは無人駅になってわからないことがあるからだ
若い人はうざいとなる傾向がある
つまり老人は弱者でありそれで教えられると素直にありがたいとなるのである
若い人は弱者ではないからそんなことしてもらわなくてもいいよとなる
つまり若い人には老人とかの弱者の気持ちがわからないのである
それは老人とか弱者にならないとわからないからである

ボランティアで確かにこの辺ではボランティアが働いて肝心の被害者は特に原発避難者は毎日補償金もらってパチンコなどギャンブルに興じていたのである
だから何で働かないのだと怒っていたのである
でも津波の被害者はかえって迷惑にしていたというのも意外だった
震災でも事情が違っていた、まず津波の被害者と原発の避難者は相当に差があった
津波の被害者は家をなくしたり家族が死んだり悲惨だった
でも原発避難者は別に家は損害がないとか家族も死んだりしなかったのである

ただ故郷に住めなくなったということはあった
ただその被害の度合いが相当に違っていたのである
その区別が外から来た人にはできなかったのである
つまりなぜ外から来たボランティアが嫌がられることがあるのかとなるとこうした事情がすぐに呑み込めないからである
するとボランティアでも反感をもつ人がいる
それは自分自身もそうだった、なぜ原発避難者だけが優遇されているのか?
私の住んでいる同じ南相馬市でも避難区域になったところとならない所では補償に差がありすぎたのである、今でも医療費は原町と小高では無料なのである
でも鹿島区だと6か月くらいで打ち切られたのである、この差は大きかったのである
30キロで区切られたこともあるが南相馬市で対策はしなかったこともある
こういう事情は外から来た人にはわからないのである 

何かボランティアというとき善意がうまく合わないことがある
ボランティアが善意でしたことでもそれがそれをされた人には迷惑でさえあるのだ
それは駅で盲人の人の手を引いて電車に乗せたときだった
その人は杖で別に電車の前まで行ける、手をとることを嫌っていたのである
だから電車のドアをあけるボタンをおせばいい、手をとる必要などなかったのである
そういうことは押しつけになっていた、その盲人は自分で行けたからそうなっていたのである
何かボランティアにはそういうことがある、無理やりおしつけて善意をおしつけていい人ぶる、そして強制的に感謝しろとかなる
そういうことを嫌がある人がいるのはわかる、迷惑な場合があるのだ
むしろちゃんと金をもらい働いている人こそほめられるべきだということもある
その人たちは金で報酬を受けていると感謝しないことがある
金が報酬だからである、でもボランティアの報酬は感謝とか善人としてほめられることを望んでいるのである、それが嫌がられるのである
金で払えばいちいち感謝など要求されないからである

だからただより高いものがないというときそれは決まった報酬がないからである
親戚の人が自分が介護で苦しんでいる時そうだった
荷物一つもつのも嫌がっていた、そしてその荷物一つをもったからと無料でしたとなると現実に途方もない金を要求されたようになったからである
その人は金に困っているから暗黙の裡に途方もない金を要求される
普通だったら荷物を運んでもらったからと決まった金をはらってしてくれる方が安心なのである、いくらとられるかわからないとなるからだ
ボランティアなら感謝だけでいいとなればそれは悪いとはならない
でもしてもらう方は決まった金を払ってそれですました方が精神的に楽だとなる
だからこそ現実社会ではすべて金の額で感謝を還元しているのである
その方が楽だからである、つまり無償で無料で何かをしてもらうことはしてもらう方がかなりの負担になるからそうなったのである

ただ道を教えたりするのは別にそういうことはないしそれで何か要求したりしない、
それでもありがとうと言われたときうれしいとなるだけだった
ただ今はスマホを見ているから煩がる人が多い、そこが問題になる
つまり人によって何かを無償ですることを選ぶ必要があったのだ
老人とか障害者とかは弱者であり教えられることを望む、助けられることを望む
でも若い人はそういうことが少ないのである
つまり若い人は傲慢なのである、助けられる必要はないですよとなっている
でも老人とか障害者とか老人は助けてもらいたい人たちなのである

ともかく何か現代はボランティアの時代でもある、だからボランティアは何なのだとなるただ善しあしは経験しないとわからないことがある
人間は何であれ経験しないとわからないのである
私自身がささいなことでも経験したから書いているのである

私と同じことを若い人でも言っているのは感心する

ボランティアは宗教の行為だ

そう書いているプログがあったからである
無償とかなるとそれは宗教の分野だからである、ただ宗教自体がまたほとんど偽善なのである、宗教が一番偽善なのである、なぜならそんな無償の行為ができないからである
それで実際は金儲けだったりするのが普通なのである
そもそもボランティアが宗教だというときもうそんなこと実行できる人はいないとなる
だからいろいろあってもボランティアを容認する心も必要だとなる
ただ嫌がられるということもボランティアで意識する必要がある

だから本当にボランティアはむずかしいと経験から思ったのである
駅では若い人はそういうふうに嫌がっていた、それは助けられなくてもいいとなっているからだ、強者だからである、でも老人とか障害者などはそうではなかった
何か落ち着いて話しもできたのである
だから老人は若者にとって嫌がられるが若者にも嫌な面がある
若いというだけですべて肯定的に見れないと思った
若者は横暴で傲慢なものだからである、そこに深い思慮もないのである 
「俺は助けられなくていい、俺は教えられなくてもいい」とかなると傲慢なのである  

この世はカルマが必ずある

老人をいじめるものはまた老人になりいじめられる

なぜなら若い人でも老人になるからである
つまり因果応報は必ずある、継母で虐待していた老人が死ぬとき悪かったなと悔いた、そしていじめた子供に頼り死んだからである
老人を別に手厚くする必要がないがいじめたりすると必ず今度は老人になったときいじめられる
すぐに誰でも年とる、若いということはほんのわずかの時間でありすぐに過ぎ去るからである
だから若者が無謀になり若きの至りでも必ずそれかあとで後悔する、でも悔いてももうどうにもならない
その時は帰ってこないしその罪は消えないともなるからだ、そしてその報いは必ず受ける
老人になって同じ目にあうカルマとなるのである

ともかくボランティアは無償の無料の行為である

でもただより高いものはない!

無料であり無償だからこそ報酬は実は馬鹿高いものとなる、きりないものとなる
もしそれに見合った金を払えばそれで終わりである、でも無償だということ無料だということは無限に要求されることでもある
だからかえってその仕事に見合った金を払った方が楽だという結論にもなる
つまり人間には無償の行為をすることは一番むずかしいとなる
神は無償で様々なものを与えている、それができるが人間にはできない、人間はそもそも与えることができないものなのかもしれないすべて実際は神に与えられたもので生きているからである
それで何かを無償で与えるということで傲慢になる、実際は人間は与えることはできない存在である
与えたとしてもわずかである、日々生活する中で何か与えているものがあるのか?
食料でも何でも買うとしてもそれは誰かが作ったものであり与えられたものだからである
人間一人で与えるものはほとんどない、そういう謙虚さが必要だとなる
でも何かボランティアは無料で無償で与えているということが全面に出すぎるのである

右の手のしていることを左の手に知られないように
| マタイの福音書

こうはならないから嫌がられるとなる、ただそこまで高尚なものをボランティアに要求することは無理である、聖人にでもなることが要求される
そん要求したら誰もできくなるからだ、ただボランティアのむずかしさは自覚するべきである
俺はボランティアだとして何かおしつけるのは嫌がられるのである、その兼ね合いがむずかしいのである
でもボランティアをこうして否定することは良くない、ただボランティアというだけですべて是認されないことを自覚すべきである
だからボランティアというのは何かむずかしい立場にある、そんなら一層やらない方がいいとかなる、自分自身もして感じた、善意でしてもそれをみんなが受け入れるとは限らないし、それが実際に効果がないときもあるからだ

結論は奇妙だけどボランティアでも金で報酬を与えるべきだともなる、そうすればかえって割り切ってやれるともなる、そうなるとボランティアでなくなるともなるから何か人間のすることは何でもめんどうなのである
そしてどんなことをしても必ず批判がある、ただ批判する人よりボランティアしている人の方がいろいろあっても評価できるともなってしまうのである
ただ現代はボランティアをしたい人が多い、それは高齢化で地域でも生きがいをなくしている人が多いからである
それで正論おじさんとか問題になった、あの人も何か地域に役立ちたいということがあったがかえって迷惑になっていた
その人は司法関係の人でその法律の知識を活かしたいと思ったのだろう、でもそれは迷惑行為だったのである
そういうことがボランティアにはありうる、ただ地域に役に立ちたいという人は多い
でもそれがむずかしいのである