2019年07月24日

利益と金を求めるこの世はサタンが支配する (ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる)


利益と金を求めるこの世はサタンが支配する

(ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
「価値と意味をまず求めなさい、そうすればこれらのものはみな加えられる」

「まず利益と金を求めなさい、そうすれば食べ物でもも着るものでも住まいも与えられるだろう」ーサタン{悪魔}の言葉

人間の矛盾は社会の矛盾は一番ここに現れている、これで悩むのである
それは社会全般でどこでも起きている、別にブラック会社だけのもではない
社会はまず利益と金を求めなさい、そうすれば評価されて価値があるとされる

だからそれは医療とかなると医者は精神的に今では一番価値あるものとして尊敬される
価値あるものとされる、でも医者でも薬でもなんでも必要のない薬を飲ませてすすめてもうけるとかしている、何か必要のないことを金になることをする
手術をしたいというときそれが金になるとしたときしなくてもいいのにしたりする
それが怖いことなのである

つまりこういうことはどこの現場でも起きている、銀行になると何かその悪が生々しいとなる
投資するにしてもサラ金きか闇金融とかにも金をだしている
それは自らはしないにしろ裏でしているとなる
それから大きな銀行だと武器会社とか環境破壊企業とかにも金になるということで投資している、ただ投資はわかりにくいから見えないから批判しにくいのである
この世の暗黒はここに一番現れている、そこに働く者の矛盾が一番現れている
会社でも働く人は不本意でも利益を優先しなければならないからだ

それで不思議なのがボランティアなのである

そもそもボランティアは何を求めているのか?

利益を求めていないとしたら金を求めていないとしたら何を求めているのか

何を求めて働くのか?

それが問題になる、みんな利益を出すために必死になっているからだ
でも退職したとかして金に余裕ができた、でも何もしないではつまらないとか生きがいもないとかなる

ボランティアが求めているのはまさに意味あるもの価値あるもの生きがいとかを求めている、だって利益を出さなくてもいいとしたら当然そうなるのである
そして感謝なども求めている、利益にならなくても感謝されたとか社会とか地域のためになったとかなるからである
でも実際はそういうことには必ずしもならない、何ら価値を認められないとか意味を認められないとか感謝もされない、お前は何しているのだと邪魔者にされてできなくなった。別に利益も金を求めたわけではないが何ら認められるものがなかった
ただ外から来た人は案内したときありがとうとか感謝されただけである 
ボランティアとは何か変だけど宗教的善意の行為なのである、だから宗教にかかわる仕事ともなる
ある宗教団体がトイレを掃除させてくださいとか実行した、それは宗教の行為として無償でしたのとにている

そういう楽なものではない戦場に医者が傷ついたものを治療するとかなると命がけになるからだ
そういうことができるのか?そこには意味と価値があっても簡単にはできないのである、まさに犠牲心がないとできない
すると何か軽く考えるボランティとはそれはまた違っているのである
ボランティアはいうとき何か誰からも認められて善人としてほめたたえられるという感覚になる
でも本当のボランティアはこのように犠牲心が要求されると、そしたら誰も簡単にできるものではない
つまりボランティアの問題はまた簡単に周囲から善人としていいものとして認められるからする
そうされると思ってする、そこにまた問題がある、自分なんかも駅でたまたま案内なとしたけどそうだった
でも結局なんら認知されなかった、ただそれは戦場で治療する命がけのものではないから当然だとなる

社会で働くという時働いたら必ず報酬がある、それは金をもらえるということである
だからともかく金をもらうために働く、不満でも働く、それでで社畜だとか言うようになる
一方で金をもらっても不満がある、この仕事には生きがいがないとか常に嘆いている
ただ一番不満なのは給料が安いということなのである
ただその仕事の価値とか意味とか感謝されたいとかはある
それで不満な人も多い、派遣で働ている人は確かに給料が安いから不満になる
でも働くこと自体にも意味と価値を感じられないのである
そこで二重に不満になる、もし給料が安くても働き甲斐がある、意味と価値が仕事にあるとしたらそうはならない、不満にしても何かそこで耐えられるものがある
でも給料は安い、働き甲斐もない、そこに価値と意味が感じられないとなればただ不満だけだとなる

いづれにしろ社会のこの矛盾は変えられないのではないか?

社会とはそういう所でありこの暗黒は消すことはできない、それがこの世に生きるということである
天国だったら神の国だったらそれが成り立つ、この世ではそれが成り立たないからこの世なのである、それは有史以来そうだったのである
この世はサタンに支配されるのであり神の国には決してならないからである
だからこそ神はこの世を滅ぼすというがこの世を天国に変えるとは言っていないのである
要するにこの世で必ずしも価値あること意味あることに労力が費やされるわけではないのである、それを求めてもサタンが支配しているからそうはならない
この世とはそういう場所でありそれが変わることはないとなる
いくら努力してもそうである、それがこの世だからである 
そうした理想が成るのは神の国でありこの世ではないからだ
それは人間にはできないからこそ神の国なのである、神が備えるのが天国なのである
この世ではそうした矛盾のなかで罪の中で生きるほかないとなっている

天国はどこにあるのか、人の心にあるというときもそうである  
「神の国は汝らの 中 ( うち ) に在るなり」内とはその人の心であり社会ではないのである、個々人の心に神が宿るとなるからだ
社会自体が変革して天国は成ることはない、それが共産主義が信じられない地獄になったことでもわかる、社会全体を変えて天国にすることができない証明だったのである
政教分離というとき宗教と一体化したとき社会が神によって理想の社会になるということだがそれはならない、かえって政教一致になるとカトリックのように権力をもって堕落したとなるからだ、宗教と政治が一体化することは政教一致は結局堕落して腐敗して終わるそれは歴史が証明している、なぜそうなるのか?

それは人間が変わらないからである、人間の心は変わらないからである 
政治化するのはこの世の欲望を政治で達成しようとする試みである
御利益をいくら言ってもそれが現実化しないと支持もなくなる、それで政治で御利益を配分しようとする、政治化するのである
そしてなぜ社会が変えられないのか?それはそもそも人間の欲望が消えることがないからである、それでこの世は欲で滅びるとしている、人間から欲が消えないのだから共産主義でも結果は同じだったとなる

いづれにしろボランティアがかえってむずかしいのはなぜなのか?

それは神の国を求めているからかもしれない、利益を求めない、意味と価値だけを求めるとしてもではそれを与えられるのかとなると与えられない
むしろ利益を求めることこそこの世では第一にされるからである
つまりいくらボランティアしようとしても善意でもそれは実らない
なぜならこの世は利益をあげる金にならないものは無駄だとしているからだ
金によってすべての価値が図られているのがこの世だからである 

「この金貨は神のものか、それともカエサル(ローマ皇帝を指す語)のものとして納めるべきか」と問われた時のエピソードは有名である。当時のユダヤ人はローマに支配されていたので、単純に「神のもの」と答えた場合は権力に歯向かうものとして問題が生じる。逆に「カエサルのもの」と答えた場合でも権力に阿って信仰を曲げたとして宗教的指導者としての沽券が傷つく、つまり非常に答えにくい質問であった。これに対してイエスは、金貨の銘がローマ皇帝であったため「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに返せ」と答えたとされる。

カエサルのものというときそれはこの世のもののことである、神のものというときこの世に属するものではない
意味とか価値を求める時、それは神のものであり神の国を求めることである、神の義を求めることである
義とか価値とか意味なのである、カエサルものというときそこで得られるものは今の世で得られるものである
それは利益であり金で得られるものになる、金で得られないものがまたある、愛とか意味とか価値とかは金だけで得られないのである根本的にこういう矛盾があるときこの世では解決しえないものだとなる
だからこういう矛盾にみんな苦しむことになるのがこの世だとなる

常に人間は矛盾してくるのは例えば宗教を求めて宗教者になったとしてもではどうして暮らすのか?それも布施にたよるとなるとそこに欲が生まれる
それでカトリックでは免罪符を出して金儲けした、それと同じことはカルトでも仏教でも行われている
それで天からの贈り物としての食料でもマナが必要だとなる
それは神から与えられたものだからである、人の手によって与えられたものではないからそれによってけがされないのである
この世では必ず与えられるとしても汚されるからである
結局この世に生きるかぎりこうした矛盾の中に生きることになる
そういうことを人間は繰り返してきたのである
でも結果的にその矛盾は解決されなかった、それは人間の欲望を消すことができなかったからである