2019年07月12日

 実力ある人のみ生き残る時代 (銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)


  実力ある人のみ生き残る時代

(銀行員でも弁護士でも医者でも頼める優秀な人がいない・・)

何か頼むにしてもその頼む相手が問題になる、それか人間社会で日常的に起きてくる
大工でも修理を頼んだが直っていなかったが金ばかりとられた
一方で仙台から来たユニットバスを請け負った会社は百万で作ってくれた
それはいいものだったから得だった、ほとんど損した
小高の庭作りしてくれた大工さんは優秀だったから良かった

地銀に投資を頼んだがそれも損しただけだった、第一銀行自体証券会社でないから素人並みである、そんなところに頼んでももうけられはずがなかったのである
ただ適当に客のことなど考えないで投資しただけである
投資したら損しようが地銀では関係ない、地銀には手数料が確実に入るからだ
地銀は一切リスクはとらない、では本当にそうなのかとなるとそうでもない
銀行は信用を失ったしその後に影響してくる
銀行はそんなものだったのかとなり銀行にまかせたら金とられるだけだと警戒するようになる、これが高度成長時代だったら銀行も楽だったのである
銀行に貯金してもらえば利子がつきますよとなりみんなあずけたし銀行は地域では信頼された安定した職場だったのである

でももし銀行員の営業の人でも優秀だったら別である
証券のことを知っていれば儲けさせる確率が大きくなるからだ
でもそういう人は銀行にはいないのである
そうしたらもうけることなどできないのである
つまり証券に株式に通じている人はいないのである
そういう人に頼むことはできない
ただ金持ちはフィナンシャルプランナーとかを個別に雇い投資をまかせる
でもそのフィナンシャルプランナーにリスクがある
損したらもうけがないとかなる、もうけたら一割でも二割でもそのもうけたなから収入となる、だからそれは相当に投資にたけた人でないとできないのである
まず地銀クラスには一人もいない、そういう仕事が地銀の仕事ではないからである

地銀の仕事はyoutubeで今日見たようなことである

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これまで金融庁で中小企業をつぶれないように援助していた、でも限界に来た
そして地銀自体が収益が悪く倒産するということで援助しないとなった
これももう追い詰められているから大目に見ることができなくなったのである

このように中小企業が大倒産の時代になる、その数も多いのに驚く、こんな数の中小企業が倒産してゆくことは確かに地銀にとっても衝撃が大きく地銀自体が倒産してゆく時代だと言っている
それだけ今の地銀は厳しい経営状態にあり先がなくなっているのだ
そういうふうに追い詰められた個人でも団体でも会社でもかかわることは危険になる
もう生き残るために善悪もなにもなくなるからだ
銀行でもゆうちょでもブラック化してゆく、投資信託でも無理やり売りつける
そもそも素人の知識しかないのに売りつける、ゆうちょでも簡保でも不正をしていたというのがそうである
ノルマを果たすために行員に無理やり保険でも老人に売りつけていたのである
老人もゆうちょをもともと信用していたからである

今の経済は社会は身近なところ崩れてゆく、その時モラルもなにもなくなる
事業失敗した人がそうだった、追い詰められているからとても人のことなど考えていられないのだ、そういう人が自分が病気で介護の時来たから最悪だったとなる
銀行もまた同じだった、追い詰められて余裕がないから客のことなど全く考えられなくなっている
オレオレ詐欺のようになってしまう、堅い職業の銀行までがそうなっいることはやはり日本の経済は危機的状況にある、地域の経済でもそうである

交通事故でわからないから弁護士を頼んだ、でも最初に相談料として100万要求された何か事件を解決したわけでもない、裁判になったわけでもない、ただ相談料としてそれだけ要求されたのである
それは仙台の弁護士だったのである、それを頼んだのは親戚だったがこの人も全くあてにならない人だったのである
つまり頼んだ人があてにならない→その人が頼んだ弁護士もあてにならい、金を不法にとったともなる
こうして頼む先があてにならない、信用できないとかなると必ず損するのである

中小企業の大倒産時代にそれを引き受けてうまく倒産するというか事業を維持させることは相当に熟練した弁護士でないとできない、その計画を明確に提言できる人だという
そういう弁護士はまれだという、それだけその事業を倒産させるにもノウハウがあるが
それをできる弁護士は本当にまれだとなる
つまり弁護士の資格をもっていようが医者の資格をもっていようが本当にできる人はまれなのである
第一資格といってもそれは実際の社会で通用するわけではないのである
資格はとれても実際の社会で通用しないことが多いからどういう経験を積んだか履歴を会社でみるというのもわかる

いづれにしろ今や日本経済は厳しい状態に突入している
会社でも優秀でなくても年功序列で終身雇用で一旦会社に入れば安泰の時代は終わった
もう大企業でも不要な存在は容赦なく切り捨てられる、そうしなければ生き残れないのである、ただこういうときは本当に才能があり実力がある人はいい時代になる
高給で大企業でも若い人を待遇する、でも不用な45歳以上はリストラさせられる
会社にも余裕がなくなったのである
ただ銀行員でもフィナンシャルプランナーとかで個人的でもなれる人は生き残れるがそういう人はまれである、それだけのプロとなるとまれだとなるからだ
だから本当に実力社会になったら極少数の人しか生き残れない
特別優秀な人たちと多数の普通の人たちに分かれる、格差社会になる
そういう変わり目に時代は突入しているから厳しい時代になる
会社に入れば安泰だという時代は終わったのである
大卒だからだと学歴もあてにならなくなる、大学で評価されるのは理系の一流とかに準じる大学だけである、その他は文系だと評価されにくい、大学出ても実力社会では通用しない、学歴は通用しなくなる

こういう時代をどう生きるのか?
教育も見直される、暗記とか受験とかそうした勉強しても実力社会になると通用しない
資格をもっていてもそれでその人が優秀だともならない
医者でも弁護士ても選ばれる時代になるとそうなる
要するにでは選ばれる優秀な人になるのにはどうするのかということである
教育でも今までのやりかたでは通用しない、やはり何か創造力を鍛えるとか暗記ばかりではない、独自性を発揮させるものを追求することだとなる
既定路線にのって安泰な時代は終ったからである


posted by 老鶯 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと? (利害得失から離れた世界が聖なるもの)


遊ぶとは神聖なことであり神の意にかなうこと?

(利害得失から離れた世界が聖なるもの)

チンパンジーは干ブドウがほしくて勉強しているのではないことを示している。干ブドウにつられて勉強しているのならば、やさしい問題が続いて出される場合が一番いいわけでキーボードを押しては干ブドウをどんどん手に入れることができるはずである。やはり、問題を解く楽しさが、チンパンジーを勉強に向かわせているということなのだ。』
 【河合雅雄著「子どもと自然」岩波新書より】


類人猿は描くことで「作品をつくる」という結果を求めているのではなく、「絵を描く過程」がおもしろく、遊びの延長で描いているのだと齋藤先生は言う。これは、お絵かき帳などに自由に線や点を描く人間の幼い子どもと同じだ。


何かチンパージ―に学習させるのにバナナとかを与えたらかえって学習しなくなった
チンパージ―学習するのはまたゲームをするのはそれ自体が面白いからである
ところがバナナとか与えるとバナナを得るためとなりそこに気をとられて学習もゲームでも遊びもやる気がなくなったという


人間の学習でも動機づけが大事になる、動物でも遊びがありそれは餌をえるためではないただ純粋に遊ぶことが楽しいとか興味があるからだ
じゃれるのでもそうである、でも動物に曲芸とかしこむ、サーカス団とかでそうする
それは強制されてしているのではない、人間は金のために猿を使う、猿にとっては苦痛なのである
遊びそのものもを楽しみ追求するのが動物でもそうであり人間もそうである

人間の特質としてこの遊びが大きな要素にある、ところが子供の頃から純粋に遊ぶということがなく学習がおしつけられるのである
それは大人の功利的なものがあり押し付けられる
大人が親がいい学校に入りいい会社に入りとか自分の子供を自慢したいとか大人の功利的都合で子供を操作するのである
それは動物に芸を覚えさせて見世物とするのとにているのである

「遊ぶ」という語は、「古事記」に天若日子の葬儀の時
「日八日夜八日をもちて遊びき」とあるように
死者の魂を呼びもどすための歌舞をすることである
( 谷川健一)

あそぶとあそばされるとかは死者と関係していた、人が死ぬと遊ぶ存在になる
あそぶとはこの世から遊離して神ともなる
遊離の遊もそういうことになる
遊ぶとはこの世の利害にとらわれない自由な存在になる
死者はこの世の利害とかしがらみとか様々なものから解き放たれて自由になる
あそばされる存在になる、それが遊ぶの意味だった
神はこの世の利害得失から遊離した純粋に遊ばされる存在なのである

この世は常に人間の利害得失のなかにありそこで悩み苦しむ、その利害得失から解き放されることがないのである、それで遊ぶとういことはそういう利害得失から解き放たれることである、死者はこの世の利害得失とは関係なくなる、あそばされる存在になる
だから死者と遊ぶということは死者とこの世の利害得失かは離れてともに遊ぶことだとなる
ただ遊部が葬送を司る集団だというのもわかりにくい、なぜなら遊ぶというとき陽気なものに感じるからである、葬送となると陰気なものになるから矛盾している
言葉は長い間に意外なものに変化していることを示している

ただ遊ぶというときそこは利害得失がない純粋な遊びの空間となるとき聖なるものとなる人間は宗教的に考察してもエデンの園ではただ遊んでいたのである
そこは聖なる空間であり利害得失がない、純粋に遊ぶ空間なのである
子供が利害得失を考慮しないで遊ぶように純粋に遊ぶ場でありその時そこは聖なる場所になる
この世は遊星だというときもそうである、遊ぶ星なのだが異常な勤労の星になっている
それを神は良しとしない、勤労は常に歴史的に奨励された、それはやはり勤労がなければ生きていけないので強いられていたからである、だからすべて勤労がいいとはならない、別に原始人でも祭りがあれほど多いということでもかえって遊ぶ時間が多かったのである、だから必ずしも働くことを人間は好んでいるとはならない
資本主義は時は金なりというときそうした働くことが神に奉仕することだということでそうなった
でも逆に遊ぶということが神聖なことだったというもある
この勤労が宗教までになったのは西洋的価値観なのである、キリスト教を西洋的な価値観で変えたということもある

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


働きもしない、紡ぎもしないとある、キリストが働くことを奨励することを言ってはいない、むしろ否定しているのである
人が働くことは呪われたことでもあった、人間は労働を罰として与えられたとしているからだ
そうししたら労働がない世界がパラダイスだとなる、あったとしてもそれが遊びとなればパラダイスなのである
でも人間社会にパラダイスには永遠にこない、何か矛盾してきて地獄化してゆくのである

この世はあまりにも利害得失で汚されたのである、インタ−ネットでも前は無料の遊ぶ空間的なものがあったが今は世間と同じである
アフィリエトで宣伝でいくらもうけたとか一億円のブロガーがいるとかyoutubeがいるとか話題になり、利益を追求する場になった
その時インタ−ネットでは何ら世間と変わりない場所になったのである
何か芸術でも学問でも遊ぶということがありそれが利害が関係してくるとそこなわれるのである
遊ぶことと金銭は離れるべきだけど密接に結び付く、すると金をもうけることが第一になり本来の遊びはなくなるのである

それでチンパージ―でも学習でも遊びとして夢中になっていたのがバナナをもらうとその方に気をとられて学習でも遊びとして興味をもっていたが興味を失ったとなる
現代社会はその矛盾が大きくなった、あらゆる場所に利害得失が入ってきている
だからベーシックインカムとかはそうして利害得失の入りこめないものとして純粋に遊びを追及するものとして機能するとすればそれは理想となる
結局自分自身の人生は旅に費やしたというとき一生が遊びだったのである
それが無駄がとなればそうでもない、むしろ高度成長時代に企業戦士と働き詰めの人たちが神から祝福されない人たちだったともなる

老人になって趣味もないとか遊べない人間になっていることでもわかる
老人が用がないというとき遊べないからそうなる
とにかく人間は利害得失の世界から離れられない、金から離れられない、金でしか人間と関係できない、遊ぶことができない存在になった
そもそも資本主義に遊ぶとかのは入りこむ余地はない
それで資本主義自体がもう投資先もなくなり行き詰まっているのである
何か最近おかしいのはベーシックインカムとかAIで人間は仕事がなくなるとかいいみんなアーティストになるとかいうのも不思議である
蟻よりキリギリスになれと奨励しているのである

働きづけの人間が評価されないというのも不思議である
働くということは至上命令でありそれからはずれた人は罪人にもなる
あいつは働いていないとか無職だとなると犯罪人と同じにみられるのである
私は20代をのぞいて働いていない、私の人生は遊びだったとなる
でもそれが無益な人生だったのか?
一方で働き詰めで会社人間として働いた人は今でも社畜だとか言っている
不本意に奴隷にされているということなのである
これからの社会が利害得失から離れた社会になるとは悪いことではない
資本主義がゆきづまったのも悪いことではない、新しい価値観が生まれることは悪いことではない、社会はそれで進歩しているともなる