2019年07月14日

山本太郎が参院選に擁立した創価学会員、公明党と学会を批判 (創価は分裂するのか?)


山本太郎が参院選に擁立した創価学会員、公明党と学会を批判

(創価は分裂するのか?)


「創価学会員の票を切り崩すしかありませんね。学会員の中には、今の公明党や創価学会に不満を持っている方が多くいると思います。そういう方たちを説得したい。学会員には原点に戻って欲しいですね」

 と語る野原氏



山口代表と創価学会員の野原氏が同じ選挙区で戦う

これも前代未聞だとなる、創価はこうして分裂して力を失ってゆく
ではなぜそうなるのか?池田大作会長が病気になって生きているのか死んでいるのかわからない状態で分裂してゆくのか?

政教一致だから政治での対立が宗教での対立にまでなり分裂

創価は完全に政教一致なのである

一票入れたら成仏する

入れない人は福運がなくなる→地獄行き

現実に選挙は信仰を示す最大の戦いである、選挙のためにあるのが創価である
そして選挙の時は拠点に集まり池田大作先生のためにと御本尊にく祈りフレンド票をとりにゆくのである
それは常時そうなのである、すべて選挙のためにある
選挙に勝つことが日々の活動なのである

選挙の勝利は仏法の勝利

だから政治で分裂することはありえないのである、政治の政策でも分かれれば組織全体が分裂する宿命にある
なぜなら政治と宗教が完全に一体化しているからである
政治が俗世のことが聖なる宗教と一致しているからそうなる
分離ししていれば政治で分裂しても関係ないとなる

宗教と政治が一致すると日本の戦争でも祭政一致になればどうなるのか?
それは戦争でも証明された、宗教は神は絶対だから日本に味方するから勝つとなる
その他のいろいろな条件が不利でも神が味方しているから負けることはないとなる
そのことで300百万人が死んだのである
これはまた違ったものとしても基本的に国家も実際は俗世的なものだが国家の神聖化は歴史で起きてきたのである、神聖ローマ帝国などと呼ぶのもそうである
政教一致の歴史が普通だったのである
それがフランス革命でカトリックの呪縛から離脱した、カトリックも強力な政教一致体制たからである、そういう歴史が長いから宗教に対して反発も強いものとなった

政治で対立→宗教で対立→分裂

こうなりやすいのである

ヨ−ロッパでは

宗教で対立→カトリックとプロテスタントに分裂

ヨ−ロッパでもカトリックとプロテスタンとは宗教で対立するから政治的にも対立して
アイルランドはカトリックでありイングランドはプロテスタントで差別されたのでテロになったのである

宗教対立→政治対立

政治対立→宗教対立

こうなる歴史がある

ただもともと創価は政治色が強い、日々の活動が選挙のためだというときそうである
政治権力を得るための闘争なのである、なぜなら御利益を福運を得るというとき政権をとりそこで御利益を配分することができるからである
創価も時代の産物だったのだろう、東京とか大阪で増えたというときそれは都会型宗教だった、戦後戦争に負けた精神の空白状態をうめるとか団地の宗教というように何かそこで新たな共同体を求めたのである

いづれにしろ完全な政教一致となると日本の戦争のように政治でも批判できなくなる
必ずあれだけの集団でそうして政治でも宗教でも批判すれば罰あたると祈りもするからである、宗教はそもそも批判を許さないものだからである
ただ政治になるとどうしても批判がありこうして政策が違うこともある
ただそれが完全な政教一致だから政治で分裂することは宗教でも分裂してゆく
政治で敵になることは宗教でも敵になってしまうのである

この政教分離問題は人間の歴史では実際はエジプトでもイスラムでもどこでも政教一致だった
政教分離の方が歴史としては浅いし新しい思想だったのである
ただ宗教も必ず俗化する、創価は前から数を集める一票を集めることを最大の目的としているから今回のように政治で分裂するとその本体の宗教団体も分裂しやすいのである
こうしたことが分裂のきっかけになり勢力は衰えてゆく
だから今度は自民が公明と一体なのだからその影響が国政にかかわってくるのである
自民が公明と組んだことで今度は自民が大きな影響を受ける
安定した票田を失うからである
自民党は弱体化して政権がゆらぎ国政も変わる、だからもともと宗教団体と一体化するべきではなかった
一時的には楽に票が得られるとしても政教一致の火種をかかえていたのだから慎重であるべきだったのである

posted by 老鶯 at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

大井川線から井川線の無人駅(秘境駅)のNHKの番組 (閑蔵駅で店を出している井川とついた野菜が地味豊か)

                                                      
大井川線から井川線の無人駅(秘境駅)のNHKの番組

(閑蔵駅で店を出している井川とついた野菜が地味豊か)

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温泉宿と駅を一人でこなしている

末続駅おりてあわれや菖蒲咲きわずかの畑耕す人をり

山間の駅におりたち数軒の家や郭公の鳴く声のみひびく

日立木駅畑耕す女見えて他に人なし春になりしも

春の日や我がおりたちて駅舎にそ待つ人あれや長くもありぬ 

  

井川線はダム建設の資材運搬用に敷設された専用鉄道

1935年(昭和10年)大井川電力の専用鉄道として千頭0大井川発電所(奥泉付近・現在は廃止)間で運行を開始。762mmの軽便鉄道規格。翌1936年(昭和11年)狭軌(1,067mm)に改軌。1954年(昭和29年)中部電力の専用鉄道として大井川ダム0堂平(井川から分岐する貨物線の終点・現在休止中)間運行開始。1959年(昭和34年)中部電力専用鉄道を大井川鉄道が引き継ぎ大井川鐵道井川線として旅客営業を開始。1990年(平成2年)アプトいちしろ0接岨峡温泉が新線に変更、アプトいちしろ0長島ダム間がアプト式で電化。

千頭0井川間25.5km、起終点を含む14駅があります。トンネル61箇所、橋梁55箇所。全線の3分の1がトンネルと橋梁です。

筆者は、2014年9月6日に井川線を訪れましたが、その4日前に閑蔵駅南600mで崩土が発生し接岨峡温泉0井川間が不通になってしまいました。2017年3月にこの区間が復旧して、ようやく2018年4月2日に再訪しています。

NHKの放送で見たこの井川線は面白い、番組としてもうまく作っている
温泉があり宿がありそこが駅になっていて昔の古い駅のままであり切符を売っている
昔はあんなふうだったなと見る

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それから土本駅は土本という姓の家が3軒ほどあって駅の名になった
それは常磐線の末続駅がそうである
そこの墓地をみたら8割は新妻姓だったのである、新妻一族の村だった
でもその数は多い、土本は三軒とかなると少ない

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それから閑蔵駅ではばあちゃんが特産のニンニクの井川大蒜とかを作っていてそれを店で作り売っている
こんな山奥になると米がとれないから稗を作り饅頭にしていた
蒜とはニンニクであり仙石線に野蒜駅があったからここでも食料としていた
何かそれもここでは滋養があり体にいいと見た、山奥では米がとれない飢饉のとき山には食べ物があり助かったということはこうした稗とか食べていたからなのか、それて江戸では江戸煩いといって脚気になり死んだ人がいる
それは稗などを食べないでビタミンB1で死んだのである
だから山にはかえって滋養があるものが食べ物がある、山芋とかそうである、山には山の幸がある 
つまり山には様々な種類のものがとれていたからそういう偏って食でかえって病気にならなかったともなる
ただ今は山の暮らしがわからなくなった、何か過疎地で貧しいということしか頭に浮かばなくなったのである  

それ以外ではここ井川で育て続けられている在来種の野菜が多くあります、井川ニラやおらんどと言うジャガイモ、からし菜、2段葱、小さなニンニク井川大蒜、特にこの大蒜はニンニクらしさがしっかり香り、火を入れると口に美味しさの広がる特長があります、他にも韮は味が濃く生で食べても辛味の強さよりも甘味を多く感じました。
このような在来種多くは代々この土地で育てて来た野菜で、地域の伝統行事や食文化と密接な関係があります。


 五月の節句には、ホモロコシの粉で柏餅を作ります。柏餅といっても、標高の高い井川では、この時期カシワの葉がまだ小さいために、ホオの葉が使われます。
そのほかホモロコシの団子を、季節の野菜とともに味噌仕立ての汁で煮る汁煮団子もよく食べられていました。
   
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    在来作物

 ここに井川産のものがこれだけあることはここが貴重な場所だったことがわかる、閉ざされていてかえって種が保存されたという、雑種にならなかったということなのか?山には山の幸があった 
ただ井川線で肥料も運んでいたというからどうしても肥料は不足になることがわかる


静岡県川根本町の地名

かんぞう

閑蔵

くわのみ

桑之実

こざるごう

小猿郷

やまいぬだん

山犬段

そばつぶやま

蕎麦粒山


この閑蔵(カンゾウ)は萱草なのか?当て字なのか、でもなぜ閑(ひま)な蔵にしたのか、何もない蔵なのか?
今は花を見ているけど昔は食料と薬としてみていた、花ばかり見ていたら生活できないからである
桑の実とかあるのもわかる、これは自生していてうまいのである、山犬とは狼のことである
蕎麦粒山とはまさにここで蕎麦を作っていた

いづれにしろ小海線でも山深く無人駅がありその前に数軒の家がありそこが駅のなかと思った
そういう駅がかえって記憶に残る、人で混雑した駅は忘れやすいのである
私はこうして電車の旅も長いから記憶の旅をつづけている
そことで問題になるのはいかに記憶されているかなのである
記憶していればまた記憶がよみがえり何かしら書いたり詩にできる、でも忘れるとできないのである
金谷から大井川線で千頭まで行ったことがある
そこから井川線があることは知らなかった、それはさらに奥だったのである

今回のNHKの番組は構成が良かった、やはり作り方で番組も相当違ったものになる、鉄道番組は多いが何か見慣れて飽きたともなるからだ
私は全国の鉄道にほとんど乗っている、それでこの番組で日高線のことを写していた、途中海の波で浸食されて鉄路が破壊された
それで復興できなくなっている、もう沿線の自治体で何億もかかるから無理だとしている
あそこはそうなるかもしれない、ただ様似は高山植物の宝庫だから貴重である、そこが終点だった

日高線終点なれやアポイ岳東菊(あづま)みて霧のかかれる

この山は必ず霧がかかる、小高い山でも高山植物の種類が多いから貴重である、ともかく私は本当に日本だったらたいがい行っている実際にその場を踏んでいることが貴重だった、だいたいその場所をイメージできるからである
そして記憶の旅をするときインタ−ネットが役に立つ、その場所が必ず写真入りで出ている
すると思い出すからである、この思い出すことが大事になっている、記憶から呼び出すことが仕事のようになっている
家族の介護でそういうことすらできなかった、なぜなら暇なく追われていたからである
今は介護もしていないのでこうして思い出す作業をして書いているのである

とにかく駅でも鉄道でも思い入れがある、だからこそ私の町の無人駅でボランティアなどを偶然にして駅や鉄道にかかわったことは貴重な体験だった
人間は思いというものが大事である、無人駅ではロボットでは情がない、人間は何事思いというものが生まれる
その思い大切なのである、なぜなら今になるともう人とは二度と会わないとかまた旅に行った場所にも二度行けないとかなった
特に外国に行くのはもうできないと思った、何か疲れてだめなのである、気力もないのである
だからこうして思い出す旅をしてその記憶をよみがえらせて書いているのである


2019年07月15日

ダリヤと揚羽の写真一枚


 ダリヤと揚羽の写真一枚  

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また一羽喜々と舞い入る揚羽かなダリヤ花の赤く映えにき

喜々として舞いて去りにき揚羽かなまた明日も花に遊ばむ


 写真はシャッターチャンスを逃すととれない、動いているのはむずかしい
 撮り方もある、どういう角度からとるかとかむずかしい
 毎日見ている所は撮り方を工夫して何度もとれるからいいものをとれることがある
 またいい場所を発見することでもむずかしい

 今日は偶然揚羽が飛んできたときとれたのである
 ただ小さいカメラでとった写真がとりこめなくなった
 何か機械が調子が悪くなると困る
 パソコンは別に悪くはない、カメラに問題がある

 ともかく梅雨で憂鬱になった、嫌になったともなる、でも今日は近くまで出かけた
 気分転換に出かけたが梅雨で気分が晴れない、重苦しいのである



2019年07月16日

天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)


天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)

天才とは何かがまず問題になる、科学者でも芸術家でも歴史に名を遺すような人が天才だとなる
天才とは凡人とは違い天才に生まれついた人で決まっているということになる
その説はショーペンハウエルが言っている
知性は母親から受け継ぐものだという説である
それがなぜ母親なのか?すると母親によって決まるのか?
母親の資質がDNAによってその人の知性も決まるのか?
それも確かにある、男性の場合その人の母親の資質がかなり影響している

ただ天才という時、努力しなくても天才であり何か成しうる人だともなる
そういう人を知っているが本当に普通の人よりエネルギーがありすでに小学校でも見分けられるほど優れている、それは知性だけではない、性格的にも大人びて早熟でありとか
何か普通の人とは根本的に違っている
だからその人は努力することを認めていない
そういう人はゴッホとかゴーギャンとか詩人にもいる
英雄にしても生まれつきそういう資質があって時代に適応したときなる
高杉晋作とかがそうである、もし明治維新という大動乱の時に生れなかったらただの暴れん坊で終わっていたのである

そもそも天才は作れるのかとなると資質論からすれば生まれつきでありできないとなる
私が問題にするのは天才が作れるのかとかのことではない
天才とは定義すれば何かの創造者である、それは科学の分野でも政治の分野でも芸術の分野でもあらゆる分野で新しいものを創造した人である   

すると天才は作れるかどうかという問題よりいかに創造的になりうるのか?

ここに焦点をあてるべきなのである

子供の時は遊びは何か創造的なものとしてある、何かいろいろ工夫したりする
つたなくてもそうである、それが学校とかに行くと暗記中心になる
とにかく暗記することであり計算でも考えるのではなくただ暗記することなのである
九九でも掛け算の意味を追求することはないのである
算数でも図形を使い具体的に割り算とか掛け算でも教えることができる
そして教えることが教育でもそれも創造的なものとして教えることができる
だから先生が創造的でないと学ぶ人はただまねるだけになり自ら考えることができないのである
つまり自ら考えることがあらゆることで教科でも必要なのである
それは社会に出てからでもそうであるあらゆる問題があり自ら考えることが根本にありそうしないとただ他者の言うままになるのである

単純な例として

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I go to を教える時、このように図形化して行く先を入れ替える、するとわかりやすくなる、ABCDの代わりに他の単語を入れればいいからである、これを実際に教育道具を作り矢印が回るようにすればいいとなる
そこで子供ならゲームのように興味を覚えることがある
つまり教えること自体が創造的なことが必要なのである、そのこと自体が学校にないから創造的な人間が生まれないのである
教え方にも無限のバラエティがある、創造的に教えることがある
天才は生まれつきだとしても創造的な自ら考えて工夫することを目指すべきなのだが学校教育に全くないのである
日本人は同質的になりやすいから日本人から独創的な人が生まれにくいのである
カルト教団に入ったりした全く創造性と自主性を奪われる、過去にキリスト教であれ仏教であれ芸術が生まれという時
今とのカルト教団とは別物だったからである

そして環境が人を作るというとき家の中に全く本も置いていないような家だと刺激を受けにくい、私の家には一冊の本も置いてなかった、だから家でなにか学問になるものや芸術になるものに興味を覚えなかった、見ていたのは漫画だったのである
でもそれはそれでその時代があり炭とか囲炉裏がある生活は貴重な経験だったのである
いづれにしろ人間は家庭環境を基本にして人を作る、何々心理学を学んだ人は親からの承認されないものは歪んでしまうというのもわかる、家庭環境が悪いと致命的になる、ヨ−ロッパだと家庭で天才が作り出されてきた
家庭が学びの場としてありそこで貴族の家から天才が育てられたからである

第一留学した者と留学しない者の差は大きい、外国生活したものとしない者の差は歴然としている
私の場合は50歳以降に海外旅行したから遅かったのである
今の時代に海外旅行しない者はもう何も発言もできないのである
たいだい知識人となっている人は海外体験した人である
天才いかんにかかわらず留学できた人としない人ではその人いかにかかわらず大きな差が生じている
それは資質の問題以前のものであり最低条件として留学は必須になるのが時代だからである

そしてまた時代が大きく影響する、戦争の時代だったら天才も戦場であえなく死んで才能が発揮できなかったのである
英雄も英雄に成ろうとしてもなりえない、三島由紀夫は英雄になろうとして自ら演出したが成りえなかった
そこに無理に英雄になろうとしたあがきがあった、つまり英雄は時代が作るのであり時代が悪ければなれないのである
だから三島由紀夫は英雄ではないし評価できないのである
明治維新に英雄がでたのは時代が作ったからである、戦国時代でもそうである
ただ新たな時代を切り開くのが天才であり英雄でもある、それは科学技術的な面でもそうだし様々な分野でそうである
明治をみればわかる、あらゆる分野でみんな創業者になっているからである
今のような成熟した社会にはありえないからである、できあがった社会だからである
何もない社会では一から作り出さなければならないから創造性が要求されて創業者になる

結局天才は何かというとき、絶えず自ら考え工夫して創意がありそこに遊びの精神があり問題意識をもち臨機応変に物事に対処する
ただ言われるままに従うものではないとなる、何か時代が変わる時、そうした天才的なものが要求される
銀行が不用になるというときもそうである、時代が変わる時、ではどうしたら銀行が生き残れるのか?
そこに新しい創意が工夫が必要になる、でもそれは簡単にできないのである
ただ時代が変わる時否応なしに変わることが要求される、それができないと銀行はいらないとなってしまうのである
でも今までは銀行に入れば安泰だ、大企業に入れば終身雇用で安泰だとなっていたのである
それがグロ−バルの競争でそうなくなったとき取り残されてしまう
ただこうした体質は簡単には変えられないのである、欧米の強みは絶えず新しいものを生み出す環境がありそれで天才も生れていたからである、ヨ−ロッパになぜ天才があれほど生まれたのか?それは環境の相違だったのである


天才への階段

これは簡潔に表にしている、これはまさに努力して積み重ねることをすすめているから普通の人が天才となる道程を示している

posted by 老鶯 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

「魚は人間の手では作れないー 原発で苦しむ漁民」の立場からの本を読んだ感想


「魚は人間の手では作れないー
  
 原発で苦しむ漁民」の立場からの本を読んだ感想

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川辺茂著

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この著者は羽咋であり結局原発が近くに建った
ただ珠洲の方は反対して建てられなかった
北陸沿岸には原発が多い
ともかく反対した人がいたことが貴重だった

1993年7月30日 - (1号機)営業運転開始


この本の著者が優れているのはフクシマ原発事故が起きる前に能登に原発が建つとなり
それを漁業を生業としている立場で反対していたことである

海は誰のものか?

それは消費者のものだ

消費者を第一に考えるべきだ

それで新鮮な産直で売る運動をした

私自身も漁業者を原発事故以後批判してきた、それは船主などが特に漁業権を売り原発御殿が建ったとか回りからうらやましがられていた事実を知ったからである

何か今になると松川浦の人がプログで漁業が苦しいということをしきりに訴えて報告していた、今になるとみんなそのときは漁業は苦しいんだな、魚もいつもとれるとは限らないし売るにも大変だなとか同情していた
おそらく地元ですらそうなの田からそのプログを見た人は余計にそう思ったかもしれないこの著者は魚は鮮度が大事だから産直をするようになったと言っている
漁業者の特権は二三日すぎた魚は食べないとか言っていた
新鮮なものを食べるのが習慣となっている
農家でも自分の家でとれるものは新鮮なものを食べているのである

生ものは新鮮なものがいいのである、キュウリでもスーパーで売っているものは固いのである、それは日にちが過ぎると固くなるという、水分も蒸発してそうなるのかもしれないそれで近くの畑でとれたキュウリは柔らかいからうまかった
ただそのキュウリは一本一万もするものだったのである
なぜなら肥料とか種代とか道具でも援助していたからである
それだけ実際に農業して野菜をとることは今は金がかかるのである
普通ならその人は金に困窮しているのだからしない、ただ援助されたからしているとなる
このことは漁業にもあてはまる、金にならないと嘆いていたからである
ただ漁業については私は詳しくないし知らないから発言して何か間違ったことを言っているかもしれない、漁業者と直接接していないからである

ただこの辺では石鰈というのがとれてそれは大晦日に食べる贅沢なものだった
前は石鰈は普通は食べていない、その魚は新鮮なので身がしまってうまいのである
そしてその魚を烏アとかから売りにきて私の家では食べていたのである
それから今度は小高の女性が松川浦でとれた魚を行商して売っていた
車で回っていたのである、その時も高かったが買っていた
魚に関してはそれが一番の思い出だとなる
その石鰈をみしらず柿を送ってもらった代わりに会津の友人に送ったとき相手の人が喜んでいたこともわかる、会津ではまず新鮮な魚は食べられないからである
石鰈の方が相当に価値があったからだ

とにかくこの辺ではこんなに海が消費者のものだとか考えた人などいない
消費者など存在しか海は俺たちのものだとしかないのである
だからこそ原発事故が起きてから補償金をもらうために家の前の海に権利があるとして東電に主張したりしていた、それは小高では私道がありそれも権利があるとして補償金を主張していた
ありとあるゆることに補償金をもらうために権利を主張していたのである
まずこの辺ではこんなに海のことを考えて原発に反対した人はいない
それでそういうこを主張すれば孤立したとなる、それも福島の原発事故前だから感心したのである
年齢でも大正13年生まれであり1924年生まれであり95歳になっているのだ

漁業は生命に直結する産業であり、工業などより優先する

これからの漁業をは沿岸漁業が中心となる

海は生きものであり、環境さえ大切にすれば無限の生産力がある

海は人類への天与の資産であり、売ったりしてはならない

獲る魚は消費者のものであるとの認識にたたなねばならない

何かこれは私自身が主張してきたことでもあった、これは農業関係者にもあてはまる
そのことを書いてきた、ただ自分は自ら米をとるわけでもない野菜を作るわけでもない魚をとるわけでもないから主張としてリアリティがなくなることがある

ただこの著者を言っているように漁業権を東電に売らなければ原発は建てられなかった

このことは非常に重要であった、それとはまるで正反対に海は自分たちのものだから売ろうと何しようと勝手だとこの辺ではなっていた、それだけの権利が与えられていることはそれだけの責任もあったとなる
権利を主張するのはいい、でもそれとともに責任が課せられていたのである
原発を作るのはいい、でも事故があったら責任がとれるのか、国までつぶれてしまうともなっていたのである
そんな責任のことは思わずにただただ金を欲しいとなっていたのである
だから誰も回りの人などその漁業権を売ることに疑問すらなかったのである
それよりもしこの辺で漁業組合であれ漁業者にであれ漁業権を売るなとか言ったら大反発があり身の危険にもなっていたろう
だからマスコミであれ地元の人であれ漁業権がどうだのとか一言も言っていない
ただ漁業権で補償金をもらい船主が原発御殿を建てたことを周りの人はうらやましく見ていたのである、ただそのことは口には出さない、今になってそういうことを言うようになったのである

親戚の浪江の人でも原発の下請けになっていたから「原発は絶対安全だ」と言っていた
それで原発は少しでも危険だとか言っただけでも村八分になり住むことさえできなくなることもありえた、それほど原発が金になるから利権化していたからそうなったのである
人間社会利権化するともう善悪もなにもない、利権を手放さていからである
だからこの辺では原発が危険だということすら口にも出していない、疑問をさしはさんだ人もいないのである

そして小高に東北電力の原発の工事がすでに始まる寸前だったのである
その小高に東北電力の原発が建つことすら知らない人がいたのである
私の町からもう20キロ内に入るから事故が起きたら住めなくなっていたのである
それほど原発に無警戒だったのがこの辺だった、権力でマスコミとも一体になっているから危険だということを一言でも言えない状態だった
それで小高の大工さんが景気良くなるよと言っていたからである
そして何かこの辺の人は強欲だとも感じる、ここだけではないにしろもう金のことしかない、それは漁業とか農業が工業から比べるともう金にならないとして捨てられていたからである、跡継ぎもいないとかなっていたからである

だからこの著者のようにフクシマの原発事故前にこれだけ原発に自ら漁業する立場で海のことを大事に思っていた人はあまりにも希少だったとなる
それだけ原発は日本では安全だという安全神話にこりかたまっていた、権力でそうさせられていたしみんながそう思っていたから反対する人もいないし口にすら出さない状態だったし危険だと言えば村八分になり住めない状態になっていたことは確かである
だからこの著者のように原発に反対したはゼロだったとなる
むしろ積極的に原発を誘致して原発で金になるとして熱狂していたともなる

だからこの著者がここまで原発に自ら漁業者の立場で反対していたことに感心した
能登というと過疎地域になる、能登線とかも廃止になった
私もそこにも電車で行っていたからである、それだけやはり生活的には厳しい場所になっていたからそこで原発騒ぎが起きてくる
それは福島県の双葉大熊でも相馬市とか前の原町市とかから離れている場所だからそうなったのとにている

この著者はまた養殖漁業に造る漁業にも反対している、それも海を汚すとか自然なものでないから自然に反するものになると反対していた
これも自ら漁業しているからリアルに訴えるものがある
沿岸漁業がいいというときも資源保護のためにそう主張したのである
だからこの辺は何かあまりにも強欲になり原発事故前もそうであり事故後もただただ補償金が欲しいとしてもめて分断されたのである
矛盾しているのは船主などは事故後はさらに補償金が増加した
すべてではないにしろ船主は特権があるからそうなった、だから豪邸を建てたの知っているからである、例えば原発の汚染水で問題になったが漁業組合が交渉すればまた補償金を積み増しされるのである

汚染水を出すな

補償金をもっと出せ

これも矛盾している、もともとこの著者のように海を大事にして消費者を大事にしていうならいい、それも全くない、ただ金取りだけになったのがこの辺の漁業者だともなる
つまり海は俺たち漁業者のものでありそれを東電に売ろうが俺たちのものだから当然だとなる、補償金をもらうのも当然だとなる
そこからしておかしかったのだがではこの辺の人はそういうことにも気づかなかったのである、海に無関心になっていたし農業でもそうである
金にならないから跡継ぎもいないしやめるとなっていたしこれは全国でそうである
耕作放棄地が膨大なのである、農業でも金にならないとしてそうっなっていたのである
そういうことが原発事故にもつながっていた

なぜなら漁業でも農業でも消費者は無関心だったということがある
人間は自らに利害で関係しないと無関心なのである
それで私が無人駅でボランティアしても第一駅は地元の人でも無関心である
乗り方すらわからなくなった人がいる、それだけクルマ社会だからそうなったのである
それで何か注意を喚起しても全く無関心なのである
それで自分は邪魔者扱いされたとだけである
つまり利権になるとか金になるとかならないかぎり人間はたいがい無関心なのである
それでも鉄道が廃止されるとかなるとようやく騒ぐとかなる、その時鉄道のことを考えるようになるからだ、町がますます衰退するとかなるからである
とにかく原発に関心があるというとき金になるからだったのである
その危険性を問うよりまず金になることしか頭になかったのである

だからこんなふうに漁業を考え自ら仕事していた人がいたことは貴重だったとなる
この辺ではそんな人がゼロだったからである、一人くらいてもいいと思うが一人もいなかったともなる
マスコミでも漁業権を東電に売ることはおかしいとかも言わない
何か組合に反対されるから怖くて言えないとなる、そういうことが今の世の中には多い
だからテレビではタブー語が増えて何も言えなくなるのである

この著者はキリスト教徒でありその信仰の面からも発言している
私もそういう面からも発言してきたから共感する
とにかく原発事故以後に東京に原発を作るべきだとか本を出した人が見直された
それも今になると至極当然のことだったかその時はSF小説のように見ていたのである
マスコミでもまともにとりあげてはいないからである
ここでマスコミの責任もある、マスコミはとにかく何か重要な問題でもそれをつっこんで批判したりしない、いろいろな団体とか組合であれ苦情がくるから何も言えなくなるのである、そこで真実は明らかにされず今回のような大事故になったのである
だからマスコミは何のためにあるのか?それも問題になったのである

東電で13メートルの津波が来るとその部門の人が警告していた

でもこれも報道もはされない、したとしても隅の方にあり知っている人もいなかったのである
これを知っていればみんな津波に警戒していたはずだからである
東南海トラフではしょっちゅう警戒することをマスコミでも報道するから警戒しているからである、原発があるところはもっと警戒すべきだったからである
それは東電でも知っていたのである、ただ津波の対策はしなかった
金がかかるからしなかった、そして地元でも眼中に金しかなく危険情報など関係なかったのである、完全に権力によって作られた安全神話をそのままに信じていた

それも問題だったのである、まずこの著者のように考えていた人はいない
一人もいない、ただ金のことしか眼中になかったのがこの辺の人たちだったのである
だから今になって東電を批判したりしても政府を批判しても国民は原発乞食だとしか見ない、どれだけ金が欲しいんだとしか見ないのである
だから他の人と協力して原発反対するにしてもできない
他の人は金目当てではない、原発そのものに反対しても地元の人は金が欲しいから運動すると見られるからである、そうではないとしてもそう見られてしまうのである

結果的にはこの著者の住む近くに滋賀原発が建った、珠洲の方は反対して建てられなかった
でもこうして一人でも反対した人がいたことは貴重である
この人は漁業組合長でもあった、だから責任ある立場だったが原発は作られた
でも反対して作らせなかったのが新潟県の巻町と能登半島の珠洲があった
だからいくら権力があっても住民が反対すれば原発は作れないのである
この二つの例は貴重である、それだけ原発は住民でも反対することがむずかしいものだからである
この辺ではそういう人がいなかったからである


posted by 老鶯 at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年07月17日

野馬追い迫る


野馬追い迫る  〈通りに旗が立つ)

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白い馬は神の馬となる、これはそうなのか?

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これは南北朝の時霊山から逃れてきた只野氏の旗印である


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これは何なのか?

キノコのようにも見える、何かわからないのが本当に多い

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立葵咲きて野馬追い近しかな

立葵馬に向かいて咲きにけり 

野馬追いの出番を待つや白き馬

野馬追いの旗立つ通りはなやぎぬ

ノウゼンや通りに旗立ちにぎわいぬ

ノウゼンや千騎の旗のなびきけり


赤に白畑に咲きぬ百合の花馬を放ちぬ牧もありしも

御行列古式ゆかしくつつづくかな青田に映えし旗のなびきて



鹿島地区

原町(雲雀が原―神旗争奪戦)


野馬追いの旗が通りに立った、野馬追いの見方として旗印が多くて地元の人でもこれが何を意味しているのか未だにわからないのだ
何か調べようもないのである、なぜこれほど数が多いのだろうか?
そしてなぜこの旗印がわからないのかというと行列を見れるのは短い時間である
一時間とかである、するとすぐに通り過ぎるからゆっくり見れないから写真にもうまくとれないのである
地元の人でもこの行列を見れるのは一年に一回なのである
すると地元の人でもその旗をじっくり検討することができないのである
野馬追いは旗祭りなのだけどその旗が何を意味しているのかわからないのである
私も調べてもほんの一部しかわからないのである

野馬追いの旗は昔から侍の家に伝わったもの

新しく作ることはできない

歴史の保存で新しいものは作れない

野馬追い祭りの特徴は歴史の保存であり歴史に忠実な再現なのである
だから勝手に新しい旗を作って侍の家でないものが出れないのである
そこで地元の人にすると盛り上がらないとなる
勝手に参加できないからである
でも去年は黒いイスラム系の人が野馬追いに出ていた
何か結婚して出たのかもしれない、普通はよそ者は出れない
青森のネブタ祭りは飛び入りで誰でもハネトになれる
それで街中が熱気に満ちるのである

とにかくこの辺では馬を飼っている、牧がある、でも一年に一回の野馬追い祭りのために飼っている、すると金がかかるのである
でも馬のいる風景がここにはある
馬というのは競走馬を飼育しているとかそういう場でしか見れないのである
それで競走馬で皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人はよほど馬に興味がありしげしげと見ていた

競走馬でも競争に出れないまた引退した馬は殺処分される、それでかわいそうだと生かしている、ただ賞をとった馬は大事にされるが他はされない
馬というのは機械ではないから競走馬でも情が移ってゆくからそうなる
馬と牛とか動物と直接接していると情が移る
それで飯館村で10頭の馬の名前を覚えたいた人がいた
名前を呼んで世話していた、でも肉牛として売られてゆくのである
馬とか牛に直接接していた時代はこうして情がはぐくまれた

クルマのことは書いてきたけど人間の情を断絶せる、キレルのがクルマなのである
そこでクルマ社会が人間社会にどれだけ影響したかそれを重大なものとして考えないのである、便利だから何でもいいものではない、その影響が大きいのである
テレビでドラマ作りしていた脚本家がテレビをあれほど批判しているのはそのためである人格まで変貌させる、クルマでも人格が変貌する
必ず「馬鹿野郎」と叫び交通事故が毎日のようにあるからぴりぴりしているからそうなる
子供の時から馬とか牛に接していた時代は情緒豊かな大人になった
今クルマに乗って育った子供はどうなるのか?
それが現代を見ればわかる、まともな人間に育たないとまでなるから怖いのである

野馬追いが迫りこの時季に咲くのが藪甘草にノウゼンカヅラである
この花が野馬追いににあっっている
これは数多く咲くからである、一日一輪咲いて散りまた咲き覆うからである
そして真夏に野馬追いがあるから熱気で満たされるからこの花があっている


2019年07月18日

時間に生きる時代 (空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間に生きる時代

(空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間は謎である、対象的に見る時、時間があれば空間があるとなる
この二つの軸の中で人間は生きている
空間は地球とか宇宙であり空間は物理的にも移動できる
大陸だと全く次元の違った広大な空間がある
果てしない大地が草原が砂漠がある
大陸では空間を生きるというときそれだけの空間があるからだ
空間をどこまでも広げることができる、それで大帝国が生まれる
どこまでも空間を進んでゆくことにより新しい未知の経験ができる
新しいものに触れることができる
だからこそまず大陸を移動する遊牧民が生まれ次に海を移動するようになったという説もわかる
大航海時代が生まれたのはそうしてまず大陸を移動する人たちがいたからである

一方で日本が時間生きるというときそれは島国として閉ざされていたからである
空間が狭いからである、空にしても大陸の空から比べると狭い感覚になる
そういうふうに狭い所で生きていれば時間を生きる
時間の中で意味を求める定着文明になる
空間を拡大することで大陸で国々の興亡があり歴史となった
日本の空間は島国という一つの宇宙であった
それで最果ての感覚が生まれる、どこに行っても海になりそこで世界が尽きるからである
ともかく時間と空間を考察するとき時間を増やしたり時間を貯えたりできないし時間を
拡大することもできない、空間だったら異次元の世界を現実に見ることができる
外国に行けば異次元の世界だからである
時間は例え外国に行っても異次元の時間など経験できないのである
異次元の時間とは過去にもどることだがそれはできないからだ
だから外国に行っても歴史があってもわかりにくいのはそのためである
空間を移動できても時間を移動できないからである

時間の謎は金より時間が大事だということがある
金は増やしたり貯えたり金をもっと得ようとして働いてできる、それが働く動機となる
一億円を得てももっと欲しいとなり安心もない、金があれば安心になるからあればあるほどいいとか使いたくないとかなる

時間は限られている

空間も確かに限られている、地球は限られている空間と認識されるようになった
それまでは地球は未知の無限の空間だったのである
時間は限られているしそれぞれの人の時間はいつか尽きる
時間が尽きたとき死なのである
この世に生きる時間は限られている
そして時間を増やすことはできない、でも時間を無駄にしたとき時間を減らしている
時間を有効に利用した時に時間は活かせることができる
しかし時間の無駄は浪費はなかなか気付かないのである
若い時は時間はいくらでもあると思う、それで退屈で困るとなる
しかし時間はある年になると消失してゆく、時間がなくなってゆくのだ

現代は時間に生きる時代になる、地球の空間の征服は終わったからだ
地球が一つの村になったというのもそうである
メデアの発達によって世界から情報が絶え間なく流れてくるからである
でも実際は空間でも世界は広いからそれを実地に知ることは今でもむずかしい
やはり一生の間で経験できない空間がいくらでもあるからだ

時間に生きるというとき時間を増やすことも貯えることも拡大することもできない
それが空間との大きな相違である
金は増やすことができる、多くの物をもつことができる、でも時間は何かそうした物として得るものとは違う、それでいくら金をもっていても時間の方が大事だったいう時
時間は限られているしその時々でできることをしないとできなくなる
時間を戻すことができないからそうなる
時間は何かをするために与えられている、その時間を失うことが最大の後悔となるのである
時間は何かを成すためにある、そうなるといくら時間があってもたりないのである
一つの作品をしあげるのに何でも時間がかかるからである

空間の時代から時間の時代になるいうとき金を第一として価値あるものから時間が価値あるものへの変換の時代となる
何故なら資本主義だと金をもうけて貯えて投資して増やしてゆくことだからである
時間には増やしたり貯えることができない
時間を節約はできる、時間を貴重なものとして使うことはできる
でも時間は目に見えないし物としてとらえることはできない、でも一番大事なものとして人生の最後に意識されるのである
なぜなら人間は何でも失ってみてその貴重さを知るからである

おそらく地球を空間的に拡大する時代は終わり時間に生きる時代になる
時間に生きるとは何か常に物を増やしたり金をためてまた投資して増やすという資本主義と合わないのである、それで銀行に金をためても投資する先がなくなって銀行が不用になるのは時代なのである
大航海時代から常に投資して富を得て拡大し経済でも常にGDPを増やすことであった
でもそういう経済成長とか拡大の時代は終わった、もう限界になったのである
これ以上経済規模を拡大すると増大すると地球環境の破壊とかなり限界に達したのである
そこで世界も空間を拡大するとか経済規模を増大するとかではない
時間を生きることにシフトするようになる
時間に生きるということは内省する、内面化する、内に向かう時代だともなる
何か増やすことではない、減らすことである
時間を節約して無駄な浪費を減らし内面を充実させることである
だから中世の時代にもどるということが言われるのである
資本主義の金を貯えて資本として増やしてまた投資するということができなくなったのである、その象徴が銀行が用がなくなったことに現れている
投資先がなくなったからである

そして時間に生きる時代となる

物事を深く知り深く感じて多様に見て感じる

そういう世界になる、一定の場所に定着していても物事を事物でも自然でも深く見て感じることができるからである
内面的に充実させることができるのである
それこそ宗教の世界だともなる、そもそもキリスト教はアジアから生まれたし宗教はアジアからオリエントから生まれたものである
西洋化したキリスト教はまた別物だったのである
それでウェバーの言う資本主義がキリスト教から生まれたというときもそうである
神に奉仕するために働き資本を貯えて増やして富を得ることは人を助けることだということがそうである
でも今やそういうことは不可能になったのである、資本主義の思想はもう通用しないのである、だからこそ銀行は不用になったのである

何でも増やす時代の終わり

減らす節約の時代へ

何かもう増やすということに限界が来ている、人口だって世界的に見れば増えすぎた
日本では明治以降4倍になり中国だって4億が三倍になったとかある
工業化時代になり人口が爆発したのである
とすると人口が減るのは自然の摂理かもしれない、もうこれ以上地球に人口を増やして住めないという警告かもしれない、ただ減らす思想というのはなじまない
貧乏になるからだとかあるし日本では少子高齢化で特にそうなる
でも時代が変わったのでありそうせざるええなくなっている
月給も上がらないし経済は30年間成長していないとか世界的にも日本でも増やすことができないのである

するとどうなるのか?
内面に生きるとか内省するとか無用の用に生きるとかになる
それが東洋的アジア的価値観としてもともとあった、老子の思想でもそうである
インドの思想でもそうである、仏教はそういう時間に生きる思想だったのである
思想的にも西から東へと転換する時代になったのである
だから確かに英語がグロ−バル時代で不可欠だというのもわかる
逆に日本語をもっと知るべきだ、自国の文化をもっと知り深める時代だともなる

日本人はこれまで外来のものを明治以降制限なく入れてきた
でもこれからは日本独自のものを文化を作る時代になる
そしたら日本を知らなければできないことである
国風文化の再興にしてもまず日本語でも日本でも知らなければできないのである
それで日本語は世界で独特のものがあり他の言語と違っていると林秀彦が言う時日本語の独自性を知るべきだとなる
言葉は最大の現存する生きている文化だとなるからだ
資本主義の勤勉に働き資本を貯え増やしてまた投資して増大してゆく思想が通用しなくなったのである
むしろ節約して減らす、時間に生きる時代になる
だから何でも拡大して増大してゆくグロ−バリゼーションとか資本主義の思想とは相いれない時代になる、それは限界に来たからである
ITにしても物を増やすことではない、情報を増やすことでありそれは今までの資本主義とも違っているのである
精神的な面での技術革新だともなるからだ

駅の入り口の自動ドアがしまるので風が入らない (住民が関心がないと何でも改善されない)


駅の入り口の自動ドアがしまるので風が入らない

(住民が関心がないと何でも改善されない)

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この入口のドアが自動化されている、開けると自動的にしまる
それで風が入らない
ただ電気自動ドアではないので簡単にあけたままに誰でもできる
でもJRの許可がないと勝手にはできないのである
おそらくJRに言えばそうしてくれることは確かである
高校生の見守り役にでも言えばJRに言えるからすぐにそうしてくれると思う


今日はむし暑い、それで駅にいたら風が入らないので暑い
入り口を自動ドアにしたからしまっている
開けても閉まるようになっているからだ
これが冬の時はいいが夏になると風が通り抜けないので暑い
改札のところは手動であけてそのままになる
だから風が入ってくるが入り口は入ってこない
風はぬけていかないから暑いのである

ただ入り口を開けておくことは誰でもできる
閉まらないようにできる
ただこれもJRの許可がないとできない
何か言うとまたうるさいとなるし今は見守り役の人がいるからその人が言うべきだとなるただ苦情を言うにしても住民とかは言わない
私が外から来た人にら原町行き仙台行きのホームがわからないから表示するように言ったのである
それがその場にいてそんなことがわからないのかと意外だったが外から来た人には良く聞かれたからそのことを言ったら表示するようになったのである

だから誰かがとにかく言わないと簡単でもできない
高校生の見守り役に言うか、住民が直接JRに言わないとだめである
自分はもう何も言えない、何かうるさがれたり駅長からにらまれているからである
また外から来た人は言えない、そこに住んでいないから言えない
一時的に来る人は言えないのである
不便でもなんでもあきらめるほかない、こんなものだとしてあきらめる
要望するにもいつも使用するわけではないからだ

つくづく何か不便になったり問題があっても住民自体が気づかない時があるし
関心もないなら改善はされない、別に簡単なことでも改善されない
そしてここでも

鉄道は誰の者なのか?

消費者と住民のものである

鉄道というときそれがJRが所有してJRのものだという感覚になる
だから住民でもサービスを受ける側でも乗せてもらっているから何も言えないともなる
でも海は誰の者かということでもと漁師の人が消費者のものだ
そういういって本に出していたことはそうなのかと思った
海は漁業組合のものであり船主のものになっていたからである
だから漁業権があり東電に売って多額の補償金を事故前も事故後ももらっているからだ
これもこの問題と多少にている

鉄道はJRのものだ

消費者のものではない

だから文句は言うな

こうまでなる
でも利用するのは住民であり消費者なのである、その利用する人にも権利がある
でも権利があるとしても利用する人がそれ相応の負担を責任をとっているのかというととっていない、ただ要求するばかりだったらJRでも勝手だとなるからだ
JRでも負担ばかりで損してまでやる義務がないからだ
海は誰の者か、漁業組合と船主のものだ、では権利があるとしてその責任はきれるのか?実際は権利を主張して海を放射性物質げ汚染されたのは漁業権を売った組合や船主にもあった、でもそのことを誰も追求しないのである

何か民主主義は住民が権利があるが責任もある社会である
住民が改善する意志がなければそのままなのである
いくら一人個人がこうしたらいいと主張しても誰も聞かないとしたらそのままなのであるかえってそういんう個人は無関心だったり排除されるのである
それは住民の責任もなるのである

いづれにしろ駅のことは実際はささいなことであり誰も関心がない
だからとやかく言っても無駄だしそのままでいいとなる
ただ駅にかかわったことは一つの経験でありここにも住民自治とか民主主義と関係するものがあったと自覚したのである

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ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境 (金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)


ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境

(金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)

その人は建築関係の会社に勤めている、正社員なのか?派遣とも違う、一つの会社に勤めて現場に派遣される
今は青森に行っている、青森というとこの人の父親が介護のために南相馬市から送られた場所だったのである
その人が嘆いているのは安い施設に入れてもその後にたりない分が要求されることであるでも親だから金を出している
そしてもう一人その母親も困窮している、だから金をせびる
でもその人はそんなに収入がないのである
でも親に金をだしていることで感心するとはなる
自分は介護しても親に働いて金をやったことがないからだ
実際は結婚して子供をもっている兄弟がいるがその人は父親にも母親にもかかわらないのである

この人は40代でありロスジェネとか氷河期世代である
ただこの人は別に建築現場があっているからしている
他のサービス業を嫌っているからである
だから必ずしも不本意にその職業についているわけではないから事情が違う
一方でlove and freedomの「底辺労働者」テーマにして訴えているyoutubeの人は不本意についた職業だから派遣だから不満なのである
貧しくても結婚したいができないとしているからだ
この世代は現代の日本社会のブラックでありそれが社会を歪めている
世代によって運不運が大きいのが人間である
まず戦争中だったら特攻隊で20代で死なねばならなかった
それが嫌でもどうにもならなかったのである

つくづくこのyoutubeに私が関心があるのは人生をふりかえると40才が最後の転機だったことである、自分の人生は参考にはならない
普通の家庭環境では違うし何か特別恵まれていたからである
この人は不幸な家庭環境で育ったからである、でも大学を出ているからインテリなのである、子供の時親に特に母親に承認されない人は一生自信がなく育つというのは本当であるなぜこの世代が問題なのかというと将来60以上になると年金ももらえないとか今のままに貧乏をひきづるからである
そして独身が多いから頼る人がいないで孤独死となる、この人も身寄りがないから同情する、誰も助けてくれないというのは本当である
現代とは情が喪失した社会である、日本人にあった人情などなくなっている
それで金さえあれば未来を開ける、結婚もできると嘆いているのだ

この人がなぜこうした重圧感にあえぐのか?
それは40という年なのである、もう人生は決まったとなり将来がないと見る年代だからである、40というのはその人がもう何でも見える、決まるという年である
その年で結婚していないとか子供もないとかなると会社でも社会でも信用されないとなるこの世からはずれた人ととなる
私が言っているアウトサイダーをあてはめることはできない、それは特殊な才能があり芸術家のことなどをさしているからである
これだけ数が多いということはその人たち普通に暮らしたいのである
結婚して子供をもち貧しくても楽しい我が家をもちたいのである
それができないから絶望的になっている

知っている人も結婚はしたくないというが本音は違っているというのもわかる
結婚したくても金がなくてできないのである
金がないから収入が低いから女性が相手にしないのである
結婚して子供を育てる金銭的余裕がない、経済力がないからである
それだけ日本社会は貧乏になっているとういことである
これはますます深刻になり治安も悪化する

何か今日はアニメ会社で放火があり10人死んだのか大被害が出た

この犯人は41歳だった!

この人も何か40才という年で事件を起こした
何かこの年に問題があったのか?
40歳で人生にキレタのか気になる
まず40才から50歳になったらもう結婚もなにもない、人生終わりだとなる
私の場合は50歳からバックパッカーになっていたから終わっていなかった
そこでやっと見聞を広めることができたのである
だから別に40歳で人生が終わるわけではない
私は60から十年介護してそれからこうして盛んにプログで発表するようになったからだ長寿の時代は鼻開くのは60以降とか70以降にもなる、人生百年となればそうなる
そうはいっても40歳は人生の分かれ目となる
一般社会ではもうその行く先とか評価は決まってしまのである

それで底辺労働者として一生終わり最後は孤独死だとなり夢も希望もないとなる
私の場合は別にそういうことはない、今自分自身の時間は充実している
今まで貯えたものがあり詩などの創作に熱中しているからだ
学問でもそうである、孤独ではあるが最後に実りがあるなとつくづく思う
人によってその時期が違う、早い時期に才能を開花する人も天才もいるからだ
いつづれにしろ40歳前後は社会にとって大きな問題をはらんでいる
これもニートとかと同じように数が多いからそうなるのである
数十人なのかアウトサイダーなどは放っておいても何の問題もない
でも数百万人もいるとなると放っておくわけにはいかないからみんなの問題になるのである

posted by 老鶯 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年07月19日

古代の遺跡(a ancient ruin)

古代の遺跡(a ancient ruin)


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high speed train

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