2019年06月29日

一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)


一本の木の詩(世界的に普遍的なものとして人間の心がある)

裸の木
真摯な木
真面目な木
実直な木 
素直な木
真直な木
直截なる木
真(まこと)の木
真率なる木
一本気の木
木と木は向き合う
真摯に嘘偽りのなし
真面目なるものは
真面目なるものを要求し
真摯なるものは真摯なるものを求める
何ものを身にまとわない
木は飾るものがない
寒さがじかにしみ入り
風が吹きつける
自然なる神殿の中にあり
汝は堅く口をつつしめ
自然は神の敬虔なる下僕である 
そこは神の住まいなればなり
かくしてその姿勢で木は倒れる
木は倒れて大地に還る
木は静かに強く生を全うした
神の意にそい全うした
故に後悔はなし
まことは天地に通じて不壊なり
再び天の国に神の意によって立つ
その神殿は朽ちざるべし 

(一本のみはしらここにすぐに立ちまことの陽にそ映えるべしかな) 

私が追求してきたアイディンティティとは何か?
それは私は右でも左でもない、自然との一体感、自然とアイディンティティ化することを試みてきた、自然という時、またそれは地球のことである
確かに国はあってもまず自然が地球が宇宙があって神が作って国も存在したのである
ユニーバスというときユニとは一つのことであり一つの宇宙一つの地球のことである
だからどこの国でも自然がある、木もあり石もあり山もあり海もあり自然がある
その自然の様相は違っているがその国々に自然がある

例えばここに私が作った一本の木という詩はこれは日本に生きているからできたというものでもない、木はどこにでもあり木とアイディンティティ化して文化が生まれる
木はエジプト文明にもあり神殿に荘厳な柱がありそれは木を模したものである
ギリシャのパルテノンでもそうである、それは木なのである
大聖堂でも内部の柱は木をイメージしている、一番荘厳なのがゲルマン系のゴシック聖堂でありそれはドイツの樅の木の森をイメージしてできたとされる
でも別に樅の木はどこにでもある、南国にはないにしてもある
それを丸森で見て感動したのである
石でも岩でもどこにでもある、日本は木の文化だとするときむしろ外国ではインかとかマヤ文明でも石の祭壇を作っているから石の文明となる
石という素材から成る文明だとなる、エジプトのピラミッドにそれが象徴されているのである、石は堅牢だから3000年でも残りつづけているのである

ここで私が言いたいのは自然はどこの国でもあり自然を通じてユニバーサルなものの普遍性を作り得るかなのである
もし詩でも外国に理解されないと芸術でも理解されなければ普遍性はない
でも芸術には普遍性があり絵画などはいいものは外国でも見分けられる
詩とかなると言葉の障壁でむずかしくなっている
でも普遍性があるらなんとか訳すことができる、詩は翻訳できないというのもあるがでも全く通じないということでもない、ただ俳句でも短歌でも翻訳は基本的にできないものである

one Bare tree
one Sincere tree
one Serious tree
one Straight tree
one Honest tree
one Straight tree

何か英語では通じないし訳せない、例えば真摯なというとき日本語では強いひびきがあるでも英語にしたらSeriousとかにしても何かもう一つ違っている
そういうことはいくらでもあるからなかなか言葉は翻訳できないことで言葉が壁となり普遍性をもちにくいのである 
紀元節の国のみはしらというときやはり柱は木なのである
自然の中に真(まこと)と美がある、それは日本人が神道として大和言葉で伝えた

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

これが日本人の心なのである、真直なるという言葉に集約した日本人の心がある
その真直なる心を日本社会は喪失した、ただ金を求めるだけであり自然の美にすら感嘆しない、それは世界全体に言える、だからなぜ古代でも中世でも神殿であれ大聖堂であれ作れたのか?それは何か真善美というものを建築によって具体化できたということがあるそれは精神的なるものの産物であり現代の建築と比べるとまるで違っている
現代の建築はただビジネスのための機能的な建築だからである
ともかく大陸の文明では建築に感嘆することが多い、日本との根本的相違がそこにある
日本にも城があるのだがそれにしても城は小さいものが多い、大きなものは少ないのである、そこに経済力の差があったともなる

日本文明は大きな文明の一つとされたとしてもそこに世界への普遍性としての文明といえるのか疑問である
これだけグロ−バル化するとどうしてもユニバーサルなものをあらゆる分野で求められるからである、世界に通用しないものは普遍性がないものは認められないとなるからである

いづれにしろ一本の木で現したものは人間そのものもそういうものを求めて生きるべきなのである
つまり真面目さとか何か単純だけどそうした人間の心としてるるべきものが喪失しているのである、身近なもので樹とか岩とか良くみていると一体化するとそうなるのである 
それは普遍的なものであり日本だけのものではない、だから世界で通じるとなるのだが言葉の障壁でむずかしいとなる
ただ世界の人も求めるべきものであり宗教でもキリストの言う清い心というのはそういうものであり世界のどこの国でも共通のものがある

ただ清いというだけでは人間の心は現せない、真面目だとか真摯だと素直だと真直だとかなるのである  
こういう単純なことが社会で実践されない、第一嘘をつかないということをまず実行できない、あらゆる所で嘘がある
その最たるものがマスコミでありテレビであるというとき茶の間にその嘘を垂れ流すものを神坐のように置いていること自体が異常だったのである
テレビはむしろみんなで茶の間で見るべきものではなかったのである、茶の間に置けば家族自体が猥雑になり卑俗になり敬虔さが失われる、それを林秀彦は指摘した、何かテレビというものをあまりにも安易に受け入れてしまったのである
それがどれほど影響したか計り知れないとなる、そこまで考えた人はあまりいなかった
イスラム教ではテレビまで写真まで偶像として拒否したことにも一理あったと今では思う
それが茶の間にあることで汚染されたのである、テレビはそれだけ下卑たものなのだけど何かテレビに出るだけで名声と力をもつようになってしまった、そこでまず日本人の心は失われ社会全体に波及して現在がある


林秀彦のおテレビ様を読む


林秀彦のおテレビ様を読む


マスコミとかテレビ局のことを今盛んに批判する、その影響力が大きすぎたから批判するようになったのである
マスコミはやらせであり嘘つきでありただエキストラを使ってインタービューをしてテレビ局のシナリオ通りに発言させるだけだとyoutubeで指摘していた
テレビ局はみんなやらせだ、信用していないから見ないとしている

そもそも報道とは何を追求しているのだろうか?                        

あなたは報道局にマスコミにテレビ局に入り何を目的として働くのですか?

それは働いてみないとわかりません、でも何かこうしたいとか抱負があるでしょう

私は真実を追求したいです、国民に真実を知らせて国民を間違った方向に行かないようにしたい

そうです、真実を知らせて真実を追求する、それが報道の目的です

こういう会話があったとしてもではその真実が報道されるかというと現実はやらせでありマスコミは真実を報道しない、何かテレビ局の意向がありそれで報道はまげられる
インタービューでも役のない芸能人を使ったりエキストラに金をやってしゃべらせたりしている、テレビにはマスコミでも真実は追求していないのである
一番追求しているのは視聴率である、それで起業から宣伝費をもらうからである

マスコミ批判は今はインタ−ネットで常にありもうテレビは見ないという若い世代も増えている、NHKでもやらせ番組を作っている、NHKもやり玉に常にあげられている
もうテレビ自体を酷評した劇作家がいた

金儲けする最善の道はその取引相手が馬鹿であることだ、そんなこと誰だってわかる
あらゆる(勧誘はだましのテクニックだ)

テレビは企業の宣伝媒体でありテレビを支配しているのは金をだしている企業だとなる
その目的ははっきりしているそのテレビを支配する金をだす企業の利潤追求のためにテレビがありマスコミがある(おテレビ様と日本人ー林秀彦)

林秀彦は10年前に死んでいた、都築詠一氏もネットだけで発言して死んだ
何か共通点のある辛辣な批評家だった、林秀彦の本は最近読み始めたので遅かったとはなる、でも本を残しているから検討できる
やはり外国暮らしが長い人は日本のことが良く見える

そもそも報道の問題は金がかかりすぎてその金を得るために大企業と結びつく
病院でも高価な設備をそろえると馬鹿高い金がかかる
それを回収するために脳の写真でも一日10人診ないと回収できないとか言っている
それはマスコミでも同じである、設備と人件費にかかるからそうなる
そういうふうに無理すると不正もするようになる、必要のない薬も宣伝して売るとかなるつまり何かこの世の中は莫大な無駄なものに金を使っているのだ、浪費されているのだ
それがまわりまわって国民の税金となって徴収されているのである

林秀彦は日本自体嫌悪するようになり外国に暮らすことになった
日本を賛美する右がいるけど日本をこれほど辛辣にこきおろした人もいないと思った
それが説得力がある、それよりもうテレビとかスマホでもそういう機械が人間の間に入るとそれによって人間はゆがめられ心が通じなくなるとしている

機械が介在すると人間は非人間化する、車に乗ると人が変わる
まったく自分の意識と無関係に人格が機械化する
機械が人間の一部に決してならず、人間が機械の一部になる
テレビと対面している人間、インタ−ネットと対面している人間は顔が変化する
高貴さが失われ下卑る、アホ面になる
それまでその人が蓄積した人間性が一挙に消え去る
テレビに出る側、製作に関与する側にも同じ現象が起きている、スタッフも全員ロボット化している、無意識に

こういうことは別に古代からあった、ソクラテスは文にすることを嫌い語ることしかしなかった、文にすると言いたいことがまげられるとしてただ直接語ることしかしなかったのである
文にすること自体すでに人間にとって別な次元の体験になるからである
肉声でしか話さないともなる、もしスピーカーでもそれが媒介とするときメデアとするときまともに言いたいことが伝わらないともなる
本当の声が声でなくなるということはありうるからだ
面と向かって話すときは言葉だけではな表情とか感情がかならず加わるからである
そういうものが省かれてしまうからである
別にそういうことが機械文明なのだから人間は機械に酷使されて疲弊していると批判する人はいくらでもいる、人間は最後はロボットに使われる奴隷にさえなる
林秀彦がテレビをこれほど痛烈に批判したのは自分自身が劇作家でありテレビ側の人だったからである、そこに深くかかわり嫌悪するようになったのである

正直日本人だげてはない、文明人はもうまともなものがいない、そういうメデアでも機械でも人間の本来持っている人間性をゆがめる、まるでテレビが身近にあり何でも教える師範のようになっていること自体異常だとなる
テレビがお茶の間の中心になったこと自体が異常なことだったともなる
なぜならテレビは俗悪でありまた見る人もそもそも俗悪であり一切そこに人間を高貴にするものがないとしている、テレビとはそういうものだとしている
大衆が生んだ俗悪なものの象徴だったとしている
パンとサーカスでありニュースでも他人の苦しみも見学するショーとなる
現実に野獣と人間を戦わせるのを見ていて楽しんでいたからテレビでも常に形は変わってもそういうことをしている、戦争でもショーとなる、見ているだけなら面白いとなるだけだからである、イラク戦争でも日本で関係なければそうなる

つまり真実を追求するということが報道の使命というときそんなものは一切ない
大企業の宣伝媒体でありそこに人格を向上させるとか真実を知る知識を得るとかは一切ないとしている、テレビを見ているだけで馬鹿になるとしている
本当に一番認知症になりやすいのは嫁にばあちゃんはなにもしなくてもいいですよ、テレビを見ていてくださいと言われた人なのである
つまり人間を痴呆にするのがテレビなのだということになる
ただここまでテレビをこきおろせることには感心した、やはりテレビ側の人だっから余計に嫌悪するようになったのである

つまりこういうふうに嫌悪すること汚いものを嫌悪することができるのは正常な冴えた認識をもっている人なのである
カルト教団に入ってそこがまともだとして活動している人はありえない、創価のように毎日幽霊会員を一票入れてくれと回ることをしていてもそこに疑問を感じない
何かそういう人は麻痺している、それはテレビでも同じなのである                  
テレビを支配しているのは創価の民音であり芸能人は創価関係者が多いという時まさにテレビもそうういものだとなる、芸能人と暴力団は昔から必ずかかわっているからこれも人間の業(カルマ)として変わらないとなる
人間のしていることは今だけではない、ただ手を変え品を変えて継続されているのである

それだけではない、この世の中に憤りを感じない人間はもう悪に染まっても何も感じないのだ、この世がいいところだととかなっていたらその人はこの世にどっぷりとつかっている人である、そして悪もこの世の汚さも感じなくなっているのだ
この世に何か怒りを感じるのが普通である、この世に不正に怒りを感じなくなったらどうなるのか?この世に何か悪いことがありますか?
こうなったらもうこの人はこの世の悪にどっぷりとつかっているのである
テレビにはそうしてこの世の悪になんにも感じないのであるただ大衆の俗悪さをいいことにそれに便乗して金儲けするだけだとなる、そこで一番問題になるのは視聴率だとなっているのである

いづれにしろ正直もう人間に接してもまともな人間はいない、みんな俗悪なテレビ人間の類しかいない、そもそもこの文明から何かまともなものが発信されることも追求されることもないのである
それを人間社会に人間に求めることはもう不可能なのである
ではどこにも求めるのか?

何か自分自身奇妙だけど社会から引きこもり60歳まで過ごした
引きこもって禅僧のように自然そのものと山と木とか石と向かい合い真実を求めて来た
人間には求めない、山や木や石や岩と向かい合えばそこに神の真実が見える
神の真実と向き合うことになる、そこから人間に満ちている嘘偽りは全くないのである
人間は嘘偽りしかないからである、第一職業自体みんなそうなのである
弁護士が正義を追求すると思えば法律を盾にして金を追求している
銀行でも老人から投資信託とかすすめて手数料商売になる、損しても銀行は絶対に損しない、客が損するだけの商品なのである
地銀など投資信託のことなど全然知らないのにすすめていたからである

いづれにしろこの世の中マスコミであれどこにも真実はない、職業では宅建というか住宅関係くらいがまともだとなる、そこでは嘘はつけないからである 
住宅が壊れたりしたら責任が問われるからである、ごまかしにくいからである
後はなにかしら嘘つくことが多いのである
だからこの世にまともな人間はいない、するとどこに真実を追求できるのか?
それはこの社会から離れて禅僧のように引きこもり自然の真(まこと)に接することである、そこに嘘偽りのない神が創造したままの世界が今もあるからだ
つまり極力テレビは見ない、雑音に接しないで沈黙の行をすることだともなる
そうなると社会では異常化するから禅寺にこもりそれを認めてもらうほかないともなる
なぜなら社会ではそうしたことをしにくい、どうしても社会に合わせなければ生活できないからである

テレビの「ヤラセ」の実態を暴いた証拠画像がこちら!