2019年06月02日

処刑される引きこもり、ニート、無職! (数が多いから社会の重荷となるため)


処刑される引きこもり、ニート、無職!

(数が多いから社会の重荷となるため)

東京・練馬区の住宅街で元農水事務次官の熊澤英昭容疑者(76)が、同居する息子の熊澤英一郎さん(44・無職)を刺殺。川崎市・登戸の小学生児童ら連続殺傷事件を起こした岩崎隆一容疑者(51・死亡)が長期にわたって就労しない”引きこもり傾向”にあったことが改めて社会的に議論となる中、一報は飛び込んできた。

この引きこもりとかニートは相当数いる、田舎でもみかけるしそういう人と私は会い安いのである、それは都会だけではない全国的に平均的に存在している
だから特定の地域の問題でもない、場所に関係なく満遍なく存在している
もうそれは特殊なものではなく、普通にもなっているのだ
それだけ当たり前のことであり普通であり多いということである

ともかく社会の問題は数が多くなるとそれで騒ぐことになる、社会は数で見ている
少子高齢化でも子供の数がへると困るとか老人の数が増えて困るとかなる
歴史でも数からみる、縄文時代の人口はいくらだとか弥生時代になりいくらになったとか人口の増減で社会をみる、本当に明治以降なぜ日本がはこんなに人口が増えたのかとなるからだ
だから別に人口が減ってもいいじゃないか、それがもしかしたら自然の摂理というか社会の摂理なのかとなる
だって動物であれそれが増えすぎると生態系のバランスが崩れ問題になるからだ
地球自体人間増えすぎるとそれが自然破壊にもなる
だから世界人口が増えすぎているから減らした方がいいとするのもわかる

ともかく一連の事件が何を語っているのか?
それは引きこもりとかニートの数が多すぎるから社会問題化する
40前で50万とか40から60歳でも50万とかいるとてるとその数は社会を圧迫する
私が述べたアウトサイダーというときそれは世界で十数人の特殊な思想家とか芸術家のことなのである、それは今の引きこもりとかニートと似ていても全く違ったものである
第一団塊の世代は高度成長を築いた人たちでありその人たちは猛烈な企業戦士となった人たちでありその時引きこもりとかニートとか無職はほとんどいない
だからそんな人かいたのとなる、それは社会問題に何にもならないのである
そんな変人がいたのかとか誰も問題にしないからである
私は高度成長の時こそ、みんなが猛烈な企業戦士となり会社人間になっているときたこそ実は引きこもりでもニートでもそういう人がいた方が良かったのである
数としては1000人くらいでもその中から独創的な人間がかえって出たと今では思う
私自身がそういう人間として生きてきたからである

今の引きこもりとかニートはそういう問題ではない、百万人もいるときどうなるのか?
その数が社会を圧迫するのである、なぜならその人たちは仕事もしないからやかで生活保護になるというときその数の多さが社会の負担になるから騒ぐのである
それで51歳の引きこもりが無差別殺人になったとき社会がその引きこもりとかニートに恐怖する、それがどこでも実際は身近にいるからである
するとそういう人たちがあんな事件を起こすのかと見るからである
それは数の多さの故にそうなるのである
またそれだけ数が多いと別にみんな引きこもりでニートなのだからいいじゃないかとか
政府でなんとか対策しろとかなる、それは非正規だとそうなっている
非正規は働いているからまた違っている

ともかく社会は数でみる、人口で見ること統計から見る、それが社会を見る手法である
カルト教団があるとする、例えば創価でも票が7百万だとか8百万だとか政治的にはすべて数でみる、数は勢力となり政治的圧力となり権力となる
でも実際は創価の会員でも幽霊会員がただ一票を選挙の時入れてくれると思われる人が数百万とか膨大なのである、それを日々回っているのが幹部の仕事なのである
その幽霊会員をいかに一票に結びつけるか、座談会に出席させれば一票いれてくれるとなるとなり勧誘する
その目的ははっきりしている、ただエホバとかなるとなぜあんなにしつこく勧誘しているのか?それが疑問なのである
ただ数を増やそうとしていることは確かである
カルト教団は数を増やすことが目的でありその人がどんな人かなど関係ないのである
そんなこといちいち問うていたら数か集まらないからである

いづれにしろ数の多さでそれが社会に影響する、いい方面としてはそれだけの数がいるのだからなんとか対策しなければならないとなり政府でも援助するとかなる
そういう存在を認めて社会的に受け入れて社会に役立たせようとする
一方で常にネットでそんな役たたずは始末しろ、害になるだけだと攻撃しているそう思う人が多いのである
今回のような無差別殺人が起きるとそうなる傾向が強くなる
それで事務次官とかの高級官僚の引きこもりの息子が親に殺されたとなるのか?
迷惑かけるからと思ったのは事件がありまたそういう立場にあったからなのかとなる

つまりこれからの引きこもりニートは数が多いから社会の重荷となる

引きこもりニートは処刑しろ!

本当にこうなるかもしれない、親に処刑されたともなるからだ
それは引きこもりやニートにとっては恐怖となる
なぜそうなるのか?それは数が多いから社会の負担となるからである
数百人とかの単位だったら負担にはならないから無視できるのである
でも百万人とかなるともう無視できないのである
それから外国人労働者だって百万人以上になると無視できない、社会を変えてしまうのである、現実に田舎でもベトナムとネパールの人がかならずいるからである
つまり数が増えるということは確実に社会を変える、それで放置するわけにいかなくなるのである、それはいい面にも働くが悪い面にも働く、どっちかというと悪い面に働き処刑しろという世論が高まりそれを見越して親が処刑したのかとなる

民主主義とは数で決まる、多数決で決まる、数が多いということが権力をもつことであるだから非正規でも数が多いのだからそれを圧力とできるが政治的にそれを組織するものがないとか政治に反映する団体がないとかできないとしている
そこに民主主義の問題があるとなる
シルバー民主主義というのもそうである、老人が数が多いのだからどうしても老人に有利な政策がになるのである
だから数が多いということは現代社会では社会そのものを左右するのである
数の多さによって多数決ですべて決まるという民主主義もそこに限界が生じているのである

posted by 老鶯 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった (蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)

        
原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった

(蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)


陽はゆっくりと落ちてゆく

陽はゆっくりと落ちてゆく
急いではいけない
街からら離れた所
田んぼに苗は植えられた
あとは育つのを待つ
水はここに流れめぐる
蛙がのんびり鳴いている
黄菖蒲に光がそそぐ
明るく一日映えている
私はここで休む
陽はゆっくりと落ちてゆく
時計の刻む時ではない
陽のめぐる時に合わせる
ここは安らげる場
あなたは何を望むのか
その欲は限りなく
安らぐことはできない
ここは安らぐ場
一時は田んぼも蛙も消えた
また田んぼに蛙の声が聞こえる
それが田舎の幸せ
ここに落ち着くがよし
陽はゆっくりと落ちてゆく
私の生きる時間はもう少ない 
光を惜しみ時を惜しむ
そここそ汝のいる場なりしを・・・・


田んぼの畔の所にいたら陽がゆっくりと落ちてゆく、それほど暑いということもなかった何か蛙の声がこうして鳴いているのを聞く、蛙と田んぼは実は一体だったのである
なぜなら田んぼが一時は消えた、草ぼうぼうになって放置された
放射能汚染でそうなったのである
だから蛙の声も消えた、そして二三年前だったか、それより前だっか、蛙が一斉に夜鳴いて夜空にひびいたとき復興したなと感じた

田舎は第一田んぼがない田舎は考えられない、その田んぼは千年とかあるとなればもう田んぼは自然なのである、ただ今の世の中都会に住んでいる人も多いのだから別に田んぼを身近に感じないし、蛙の鳴く声が聞こえなくても普通である
でも田舎だったら蛙の声が聞こえなくなったら田舎なのかとなる
それで満月が出て田毎に映っているのを見るとなごむ
そういう風景は当たり前だったがこの辺では一時消失したのである
今でも原発避難区域だったところは無惨である、草ぼうぼうで田んぼは回復していないからだ
そこに荒涼としたものを感じる

田んぼ米をとるというだけではない、それはもう自然なのである、なぜなら田んぼがあって蛙が生きることができるし田んぼには多種な命が育まれているからだ
そこは詐欺の餌場になっている、それで鷺すら原発事故でいなくなったのである
それで50羽くらいの鷺が河原の竹藪に止まって寝ている時この辺は復興したと感じた

農本主義の未来を耕す(宇根豊)よりの抜粋

「蛙の鳴き声なんて一銭にもならないよ」
「今年から蛙が良く鳴く田んぼには、税金から対価が払われます」
「蛙の鳴き声を金に換えるほど堕落していない」
受け取りを拒否する百姓が少なくありません
「その金はあなたにあげるのでなく、蛙にあげるのです」
「この金を蛙がちゃっと鳴くことができるようにあなたが使ってくつださい」

ここでの例え話は蛙に金を払うというのは外からの目線である

「ああ、今年も代かき、田植えが始まったな、 蛙の声を聞くと張り合いがあるというか今年も忙しくなるなと思うな」

蛙が鳴くということに対価を払うのは外からの実際に田んぼを米を作る百姓の目線ではないとしている
確かに田んぼを回復したいというとき米を作り収入にしたいということがあった
原発事故ではもう放射能汚染で米を作れないという深刻な状態に陥ったからだ
今でも溜池の除染をしている、どうしても放射性物質が水として流れてくるからだ
米粒が白くセシウムに汚染されている写真を見た、また二本松の方で米を作る農家の人が原発事故以後農業ができないと自殺したこともあった

ここで著者がとりあげていることは自ら農業しているから内からの目線で語っている
ただ田んぼを回復することはただ米を元のようにとれるようにする経済的効果だけではない、蛙も生きられる場を再生することでもあった
田んぼとは人間が作ったものでもない、第二の自然と化していたからである
蛙でも多種な虫でも田んぼに生きていたからである、それを餌とする鷺が帰った来たというときこの辺は復興したと感じたことでもわかる
自然の復興でもあった、田んぼの持っている意味は米が食料がとれるというだけではないのである
まず田畑がない田舎は田舎なのかとなる、畑に花が映えているときもそうである
カンナは大きな花だから特に映えたのである、そこになごみがある
ただ自分自身が実は田舎に住んでいても農業しているわけではないから外からの目線で見ている、だからこの著者のような内からの目線になっていないのである、田舎に住んでいても今農業にたずさわるものは一割と実際は少ないから農業のことを知らない人が多いのである、でもいつも田畑を見ているということだけで都会の人とは違っているのである

ただこの辺が原発事故で放射性物質に汚染されたとき田畑も作れなくなったときかえって外からの目線も必要になった
蛙も住めるようにする田んぼの回復が必要であり蛙が生きるために金を払う必要もこの議論で感じた、外からの目線でもそこに金を投資して自然を維持するという感覚をもつべきだとなったのである
それで趣味で畑で野菜を作ったいる女性に肥料代とか種とか道具類とか援助したのはやはり畑でも田んぼと同じように見ていたからである
回りが草ぼうぼうになっているとき畑があった方がいいと思ったからである
でもそこでとれる野菜はわずかでありキュウリ二三本しかもらっていない、そしてその人は腰が悪いとかなんとか草むしりでもするのが負担になっている
その畑から収入にはならないからである
その人は第一いつも金に困っている人だからわずかでも金になる仕事をすればいいと思っている、でもその人は農業をしたいのである
ただそれを援助するとなると自分自身も大変なのである、何もしてもらわないのに金だけ要求されているからだ

でもなぜ草ぼうぼうの荒地にしておくのか?土地はほとんど無料で貸ししてもらえる
でもやる人がいない、ただ浪江の復興住宅に住んでいる人が土地を借りて野菜を作っていた、あの人たちもなにもしないから畑で野菜作りすればいいとも思う
いづれにしろ田舎だとまず田畑が復興しないと復興したという感覚にならないのである

もちろんロボット工場とドローン工場とかを作り工業地帯にするのもわかる
でも基本的にベースとして田舎だと田畑を復興しないと田舎の復興はないと感じるのである、それが草茫々の荒地となっていることが荒涼としてくる
だから川岸に黄色の菖蒲が一杯咲き畑に女性の笑い声がひびいたとき何か元に戻ったなとか平和が戻ったとか感じたのである
ただここだけではない耕作放棄地とか跡継ぎがないとか日本全体の問題である
でもこれから農業の復興があるかもしれない、なぜなら日本は電気産業とか他に科学技術のグロ−バル競争に敗れ貧困化する
すると食料すら輸入できなくなる、すると自国で生産するほかなくなるからだ
その時荒地でも利用して食料を生産するほかないとなる、それは戦争に負けたとき引揚者がそうしした荒地に開墾に入ったからである、そういうことがこれから起きてくるかもしれない、つまり日本の貧困はますます厳しくなってくるからである


posted by 老鶯 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連