2019年06月13日

クルマ社会を見直すときが来ている (高齢化とかになり様々な弊害が大きくなりすぎた)


クルマ社会を見直すときが来ている

(高齢化とかになり様々な弊害が大きくなりすぎた)

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これだと車と対等になる

ヨ−ロッパでは自転車道路がかなりある


クルマ社会の到来は人々の精神の不自由化、すなわち人間の劣化を伴っていたのです。

改革すべきは、共同体を破壊するクルマ社会であることは明白です。現に、マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。 

クルマ社会がもたらす地方都市の荒廃   新しい交通システムLRTに未来はあるか

車道と歩道は物理的に分離するだけでなく、その間に緩衝地帯を設け並木を植えたりして、歩行者が直接自動車の排ガスをうけるようなことがないようにしなければなりません。住宅も直接車道に面している場合が多いのですが、必ずある程度の距離をとって、樹木なども植えて、人々の生活が排ガス、騒音、振動から守られるようにしなければなりません。」

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序章 成熟社会への展望
第1章 基本八策―百年の行動計画
第2章 有縁社会―コミュニティーの再生
第3章 安全社会―大震災を超えて
第4章 教育社会―次世代を育てる
第5章 長寿社会―人も物も長持ち
第6章 近接社会―歩ける暮らし
第7章 楽園社会―美しい国土の復活
第8章 和風社会―伝統文化の将来
第9章 成熟社会の世界戦略―日本モデルの提示

成熟社会―これから百年の日本 谷明

悲惨な交通事故が起きている、89歳になって親子を車で殺した高級官僚が杖ついて歩いて実況見分しているのも痛々しいとなる
そもそもあんな状態にまでなって車を運転していたということが信じられないとなる
それがクルマ社会の異常性なのである
身体障害者でも免許があれば運転できる怖さなのである

人間という生き物はなにか常に責任が背負っている、何するにも責任が課せられているのが動物とか植物と違っている、それが最大の相違なのかともみる
例えば道具をもつのは人間だけである
石を道具にしたときそれは魚でも肉でも切り裂き料理するのには便利である
でもそれは人を殺傷する道具ともなってきたのが人間である
猿も確かに道具を使うということがあっても殺傷まではしないできない

つまり人間には石器という道具をもったときからその道具をもつことで責任を課せられていた、使いようによっては強力な殺戮の道具となるからだ
つまり人間は道具をもつことによって大きな責任を課せられることになったのである
それは人間の業(カルマ)でもありそのカルマは遂には人類を亡ぼすまでになったのである、原発事故でもそうだし核兵器でもそうである

原発事故でもどれだけ責任を課せられていたか?
核兵器をもつことがどれだけの責任を課せられているか?
それを考えるともうその責任を果たせないから持ちませんとまでなる

原発事故は「安全神話」で百万年起きないとか確率で計算している科学者がいた

ではその発言に責任をもてるのか?

百万年原発事故は起こりません

責任をもてますか?
事故が起きたら切腹してもらいますが約束できますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

これほどの責任を課せられていたのである
するともうそんな責任が果たせないとしてやめるのが得策だとなってしまう
アメリカだと銃をもたせるがそれを持つことは大きな責任がある
人を殺せるからだ、現実に銃乱射事件が定期的に起きている
人間の道具は何かそうして石器が殺戮道具になってから変わらないのである
石器が核兵器になったのと変わりないのである
道具を持ったことにより過重な責任を課せられていたのである

クルマまたそれと変わりないのである、恐るべき殺戮の道具にもなるのだ
それが最近起きている痛ましい事件である
クルマは暴虐的なものであり恐ろしい殺戮の道具だという認識が必要でありそれに責任をもてないものは運転するべきではないのである
あんな歩くのがやっとの人がそもそもクルマを運転していることが異常だとなる
でも習慣の惰性があり今までしていたとはやめられないし継続するのである
ただそれではその責任が負えますか?
その責任を自覚したらもう運転はできないはずだったのである

でも交通事故は罪が軽すぎるのである、人を殺しても無罪にすらなる
金はそのために補償されているということで罪の自覚が薄い、責任の感覚が軽いのである
だからこそクルマがみんなもってクルマ社会になったのである
そうでなければクルマを簡単にもてないからである
そしてクルマをもたないと生活できないとなるまで社会が変わりすぎたのである
これまでの社会を根本的に変えてしまった
何かそれが今になってその異常性が露わになったのかもしれない
高齢化社会に車は向いていないということである
今の老人はクルマ社会に生きてきた、でも老人になってクルマ社会に適応できなくなったとなる、それもカルマだったとなる
道具は確かにいい面に働くと同時に悪い面として働く、それがあるときカルマとなって現れるのである

クルマというのがこれまで継続された社会を根本的に変えてしまったのである
そして人間そのものまで変えてしまった、クルマによって人格まで変えた恐ろしがある
キレルというときクルマに乗る人はどうしてもそうなりやすいのである
歩くとか自転車くらいだとそんなことにはならない、何か親和的情緒的にもなる
クルマを空間を切り裂くようにしてキレテ走る凶器ともなる
人間と人間でも自然との間でも切断する、溶け込まない親和的でないい道具なのである
クルマ依存から脱却すれば地方が再生するというのもあながち空想でもないのである
人間そのものまで変えた、人格まで変えたのがクルマだったからである

そしてなぜ原発事故でこんな簡単に故郷が捨てられたのか?
それは多分にクルマ社会であり分散社会でありもともとクルマと常に遠くに行く道具であり故郷とか近くではなく遠くへ行くものとしてある
するとクルマ社会だと狭い地域で暮らしていないのだから金さえあればどこに暮らしてもいいとなり一斉に蒸発するように人が流出したのである
それは原発事故だけでそうなったとも思えないのである
クルマが家だったとのかとまでなる、現実クルマの中で暮らしているホームレスもいたからクルマは家にもなるからだ

いづれにしろクルマ社会が根本的に社会を変えた、その影響は人間の人格まで変えたのである、モラルでもクルマによって喪失させられたのである
ただ異常なクルマ社会に住んでいる人はそれを感じない
異常社会でもそこに住んでいる人は異常を感じないのである

ネットを通じてできる仕事をしている人であれば、都会でも地方でも自宅でやりとりが可能ですよね。
しかし、仕事の息抜きに外(主に住宅街)を歩くといい感じに不審者に見えます。
というのも、地方の20代以降はほぼマイカーを所持しているため仕事休みの土日ですら「道を歩いている姿」を見かけません。(ゼロではないですが)

歩いているとすれば子供か高齢者の二択。
そのため20代以降の大人が犬の散歩などでもなく、のんびりと住宅街を歩いているとすごく違和感があるのですね。
「働いてないのかな?」「空き巣の下見かな?」「N○Kの集金かな?」



これも異常なことなのである、私は昼間住宅地を歩いているからこれを感じる
街を自転車で行っても人と会わないのである
街はもぬけの殻のような感覚なのである
それはみんな車を使っているから人は見えないのである、車に乗っていると人は見えないからである
だから歩いている自転車でも何か怪しい人なのかとなる
そういう社会は異常なのである、それで街道だとかなると歩いて行く人に感動しているのも異常だとなる、人が歩く姿に感動していること時代今がすべてクルマになっているから異様な社会なのである
そして旅人はいなくなった、江戸時代ならみんな歩いているから旅人なのである

だからこそ「草臥(くた)びれて宿かる頃や藤の花」−場所となる
そして江戸時代の宿は旅人のための宿だったのである
なぜなら長く歩いてやっと宿につくからそこでねぎらうとういことがあった
宿は旅人のための宿だったのである、なぜならみんな歩いていたからである
今の旅館でもホテルでも旅人の宿ではない、クルマ社会になれば別に疲れるということもないからねぎらうこともない、旅館とかホテルは保養の場所でありそれで金持ちのためのリゾートのようになる、うまいものを食べるとかに変わる
現代では本当の旅人は歓迎されない、江戸時代ならみんな同じ宿代だろう
特別な部屋はない、それは殿様くらいだった、今の旅館とかホテルは旅人のもののためではない、第一旅人はいないのである、車で旅する人は旅人ではない、楽に移動している人だともなる

いづれにしろクルマ社会からの変革が高齢化社会でも要請されている
でもまだその自覚がたりないのである、そしてクルマというのは金がかかりすぎるのである、すると日本が貧困化するときクルマは贅沢品になる、クルマにかける金が大きいからである、ただクルマ社会を批判できないのは、クルマをトヨタなどで外国に売っているからなのだ、それて国が成り立っているとかまでなっているからである
そこで凄惨な交通事故があってもマスコミではクルマ社会が悪いとは批判しない
それはタブーになっているのである
でもなんか現実的に高齢化社会になりクルマ社会自体を見直すことが要請されてきているのである

posted by 老鶯 at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年06月14日

abstract railway and Architectures

abstract railway and Architectures

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ヨ−ロッパとか大陸国家と日本の歴史的根本的相違 (日本には都市がない、市民がいない)


ヨ−ロッパとか大陸国家と日本の歴史的根本的相違

(日本には都市がない、市民がいない)

ヨ−ロッパとか大陸国家から例えば中国から来た人でも日本に来て不思議に思うことがあるだろう
その大きな不思議が日本に来たら城壁で囲まれた都市がない街がないということである
そしてなぜか城だけがありそこは防御するようになっている
城門もあり厳重に敵から攻められるために備えているのである

でも街全体とかにはないのである、だから戦争という時、城に住んでいる侍と侍の争いでありそこに住んでいる住民は関係ないのである
ただ戦争の勝敗によって殿様が変わるから影響するだけだとなる
別に戦争に負けてもそこの住民は殺されたり奴隷にされたりしないのである

なぜヨ−ロッパとか中国でも熾烈な争いがあったのか?
それは中東でもそうであり大陸では熾烈な民族同士の争いがやむことなくあった
それは近代まで継続していたのである
そうした大陸国家の熾烈な争いに明治維新後に日本は世界史に登場しまきこまれたのである
明治維新からグロ−バル化がはじまったのである
そこで日本は相当にヨ−ロッパにおいつくために無理したのである
その無理がたたって70年後過ぎて太平洋戦争になり大敗北をして3百万人死んだのである、つまり大陸国家の歴史の興亡に巻き込まれたのである
なぜならヨ−ロッパとか大陸国家では戦争の連続であり何百万人の単位で死んでいるからである
それで思想でも中国なら三国志があり戦争の結果としていかに敵に勝つかと孫子の兵法が生れたりまたヨ−ロッパだとマキャベリズムが生まれた

そしてなぜ日本はヨ−ロッパとか大陸国家を理解できないのか?
日本には日本だけで海に囲まれて閉鎖した中で歴史がはぐくまれたからである
このために日本がは大陸国家の興亡を理解できないのである
戦争に負ければ奴隷にされる、そうなれば必死で戦争に勝つための方策を考えるし軍備でも備えるとなる
日本ではそうして他国に攻められて奴隷になる経験がないのである
ただモンゴルが攻めてきたとき一時その恐怖におののいたのである

なぜ大陸で階級制が生まれるかというと民族同士が国同士が絶えず争い優劣を決めるからである、負けたら奴隷にされたり下層階級にされる
大陸国家では必然的に奴隷を下層階級を作り出す仕組みがある
そして様々な民族がいるから混交するからそこで区別しり優劣を決めるのである
それはネパールでもそうだった、様々な民族の吹き溜まりのようになったのがネパールだからである、そこで階級制が生まれたのである
それで外国人まで日本人も階級のどこに属するから決められていたのである

ヨ−ロッパであれ大陸国家だとアメリカでも絶えず戦争がありそれで優劣を決める社会だとなる、また人種が混交するからそれで民族ごとに区別して差別して階級制になりやすいのである
これが世界の歴史であり普遍化したのである
だから日本人は外国で暮らしてメードを雇えない、使えない、なぜならそういう歴史を経験していないからである、武士は階級制ではないかともなるがそれも厳格なものではなく今では士農工商は職業で分けただけだとか見方が変わってしまった
第一侍でも大陸国家のような贅沢をしていないからである
また日本にはそれだけの富を生みだせないからである

大陸国家だと戦争に勝てば莫大な財産を得ることができる、奴隷もその一つであり他にも土地を奪うとしたら広いから莫大な収入になる
だからこそ戦争に勝つか負けるかでその運命も決まる
それで戦争は熾烈なものとなる、また中東などの砂漠では略奪は公然として許されている別に犯罪ではないのである、権利なのである
何かそうした大陸国家の成り立ちとか歴史が日本では肌で感じられないのである

だから大陸から来た人はなぜ城だけが独立してあって街を囲む城壁や市壁がないのだろうとなる、そして戦争でも別に殿様が変わるだけでありそこに住む住民は殺されたり奴隷にされないのである、だから戦争になってもそこに住んでいる人はあまり関心がないともなる
それで会津でもあれだけ悲惨な戦争であってもそこに住んでいる住民はその戦った侍に同情もしていないのである
それよりこれが好機として農民がヤーヤー一揆を起こしたからである
日ごろ税金に年貢に苦しんでいたからこの機に乗じ反乱起こしたのである
あれだけ薩長軍と官軍と必死で戦っている時、別に一緒に街を守るために戦うのではないかえってこの時こそ好機だと一揆を起こしていたのである
つまり城とか侍は一般農民とか庶民とかとは分離していたのである
侍同士の戦争でありそこに庶民とは関係なかったとなる
そして戦争に負ければ殿さまが責任をとり切腹して戦争は終わりになる
それから負けた方でも敵味方塚として供養されているので中国から来た人が理解できないとなるのである

この相違は本当に大きい、例えば資本主義とはこうしてヨ−ロッパから大陸国家から生まれたからこうした歴史を知らないと理解できないともなる
なぜなら資本主義とは資本を投下して巨利を得るということが基本にある
それは戦争とにていたのである、戦争に資本を投下して敵に勝てば莫大な利益を得るとなるからだ、そういうことも資本主義の背景にある
だから大陸国家とは格差社会が歴史的に基本としてあった
それはグロ−バル化経済でも起きている、世界的に格差が生まれる社会が欧米型大陸型の文明だからである、戦争とは敵をうちのめして収奪することでありそれが資本主義にもある、別な見方があるにしてもそういう側面もあることは確かなのである

それも大陸国家の歴史から生まれた弱肉強食の思想だったともなる
マルクスが階級制を打破しろというときそもそも階級を常に意識される社会だからそういう過激な思想が生まれたのである
日本だったら生まれにくいのである

とにかく日本には市民がいない、街を守る市民がいない、ヨ−ロッパの都市はそこに殿様も王もいない、市民だけの都市がある、それは市壁に囲まれていてそうした都市同士が争っていたのである、そういう歴史が日本にはないのである
それでシテズンシップとかはない、市民意識、市民共同体がないのである
パスポートにどこの出身ですかというとき国があって市があるが市が重要だからそうなっている、どこの市に属しているのか市が基本的な共同体でありアイディンティティになっているから大事になる
この点で日本は根本的にヨ−ロッパでも大陸国家の歴史でも肌で理解できないのである
だから外交でも戦争でもそうした大陸国家の熾烈な戦いを興亡を経験しないから何か甘いというか外交下手となる
つまり大陸国家の長い歴史の中でつちかわれた経験がないから他国に対してどう対処していいかわからないとなりグロ−バル化して戦争にも負けるしまた一時は電機産業で高度成長を遂げたがそれも衰退に向かうとなる

日本の特殊性を理解するにはやはり大陸国家の歴史を知りどういうことで歴史的に成り立ったのか知る必要があるのだ
日本は世界で極めて特殊な国の歴史でありそれを自覚する必要がある
だからグロ−バル化するということは日本に向いていないのである
そういう経験をしていないからである、外国人労働者でもどう扱っていいかわからない
大陸国家なら奴隷として階級制を作り対処していたからである
でも日本だと同じ人間じゃないかとなりそういうことはできない、そういう歴史がないからできないのである
だから明治維新後西欧化とかそういう課題は戦後でも続いているのである
何か日本が経済的に技術的にも衰退するという時、それがどういうことになるのか?
グロ−バル化のなかで三等国になり奴隷ともなり階級的に下層民とされるのである
それが大陸国家の歴史であり日本は鎖国もできないからそうされるのである
現実に観光でおもてなしとか言っているけどまさに日本が世界の中で経済的に技術的にも衰退しているからそうなる

金が落とす外国人優先になるのはそのためなのである、まさに外国人の奴隷にもなる
それは東南アジアで一時為替の差で安く女性を買っていたとかと同じである
これも日本人のカルマだったのである
それも世界史で繰り返されているのである、中東が優位だったときはヨ−ロッパの女性が下位になり5ドルくらいで買われていたとかあった
それだ逆転したのもまた歴史である、カルマはくりかえされているのである
必ず国家の興亡があり上になるものが下になり下にあるものが上になる
それで今や中国が日本を経済的にも技術的にも優れていて日本は中国の属国になり奴隷二されるとなるのである
グロ−バル化では鎖国はできないからである
グロ−バル化とはそういう熾烈な戦いから逃れることができないのである



ヤーヤー一揆

新政府軍と会津藩兵との戦いによって数多くの犠牲者が出て、以後会津地方の旧武士階級の人々は薩長土肥に対して恨みを抱いたという話はよく知られている。だが農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。

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2019年06月15日

13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる (それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


13万プラス2万くらいが一人の老後で暮らせる

(それがもらえないのが現実ー百年安心などありえなかった)


老後の金の計算はむずかしい、第一人生百年といってもいつ死ぬかわからない、それでいくら金をためても貯金があってもたりなくなることもある
だからつぐつぐ年金は老後にとって大事だなともらってみてわかった
年金の強みはし死ぬまでもらえることである、百年生きてももらえるのである
だから払う方にすると額が大きくなる
そういうふうに払う方が損する仕組みなのが年金なことがわかったしだからこそ政府でそれをつづけられなくなったことがわかる
若い人が今の65歳以上の人に払うのでありそれが若い人は将来もらえなくなるから損だとなる、世代間の差が大きいからそうなる
団塊世代は逃げ切りの世代というのもそうである
そして何よりも日本の経済が衰退してゆくし少子高齢化で働き手も減ってゆくから余計に年金を維持することや医療でも維持することがむずかしくなる

ただ老後の生活費がいくらかかるか、最低限になると使ってわかたっことは13万プラス2万くらいである、すると生活保護でもらえる13万がその金になっていた
でも実際は国民年金でもそれだけはもらえないから問題なのである
だから生活保護の方がいいとなる、でも生活保護は簡単にもらえない
例えば国民年金、4,5万しかもらてっていない人も結構多いのである
そういう人は生活保護をもらえないのである
ただ医療費が無料となることがありそういうこともある
何か生活保護を簡単にもらえると思っているが地方ではもらえないし福祉では地方で差がある、老後は医療費がかかる人が多いからそこは無料になるだけで楽になる

何か2000万はたりなくなるから貯金しておけというがそれは厚生年金と国民年金では差が大すぎるのである、厚生年金で夫婦で25万くらいもらっていれば十分のような気がする、一人暮らしで13万だからである、ただ実際はその他の物はレジャーの費用とか家の修繕とか交際費とかはかからないとして13万だともなる
だから確実に貯金は必要なのである
でも2000万の貯金は若い世代では今は苦しいとなる
なぜなら団塊の世代とかその後でも退職金が貯金すると倍になっていたのである
だからこれは大きかった、今は地銀に貯金すると投資信託などをすすめられて必ず損してかえって利子をとられる、なぜなら地銀などはもう金を貸してもうける先がなくなっているからだ、投資信託は銀行にとって確実に手数料がはいる利子が得られるもので損することは絶対にない商品なのである、それは証券会社とか銀行のために作られた商品である
正直よほどの知識がなければもうからない商品である
だから2000万得るために投資しろというのは本当に政府は何を考えているのか無責任だとなる

厚生年金をもらっている人は贅沢しなければ一応生活は成り立つが国民年金の人は絶対に生活すらできない状態に追い込まれる、そういう人を知っているである
老人はみんな金をもっているというすうに見るが現実は老人にも格差がありみんながそうではない、ギリギリの人も多いのである
そして金だけでは介護でもなんでもどうにもならないことがある
もし家族に人手あればなんとかしのげるがない人は悲惨なものとなる
いくら金があっても手厚い介護は望めないからである
だからすべて老後は金でなんとかなるとはならない、老後自体の生活でも文化的な面でもそうである、金があっても豊かな老後になるとは限らないからである

ただ正直未来はわからない、計算できないのである
例えばこれから10年生きるのか20年生きるのかもわからない
10年だったら半分ですむが20年だったらその倍の費用がかかる
そして私も金の計算をしょっちゅうしているが計算しきれない
それはこれからどのくらい生きるかわからないからである
そして不思議なのは一ケ月いくらかかるとか計算する
それで節約して一か月15万とするのだがこれを5日10日とか延長するとその分が節約できる、

150000÷30日=5000円

一日の費用が5000円かかる、でも15万円内で5日延ばすと一か月で2万5千円の節約となりそれが一年になると12か月かける25000円となり30万となる
                                                      
5×5000×12=300000円

これが10日延ばすと

5000×10×12=600000となる

一か月の費用を5日分を延ばすだけで一年に二か月分の節約になる
10日分だとその倍になる
一年分で計算するとこれだけ節約することが不思議だったし本当にこうなるのかと今でも理解できないところがある

つまり金の量ではない、日にちで計算しているからわかりにくくなるのである
それが納得いかない、間違っているのかと思うのはやはりそもそも日にちで金の計算しているから納得できなくなる
それだけ未来を計算することが何かわかりくいものとなっていたのである
でも一日の費用が5000円として計算に間違いがあると思えないのである

人間はつくづく金でも近い将来でもなおさら長い未来となると計算できないようにできている
なぜなら必ず不測の自体が起きるからである、計算し得ないことが長い人生で起きる
この辺で起きた津波とか原発事故がそうだった、完全にこれで計算が狂ってしまったからである、そういうことが起きるからこれから若い人が30年後にどうなるかなど計算できないのである、実際60になっても70になっても将来は計算できない

人生はそもそも計算できない、何が将来起きるかわからないからである
一寸先は闇だというのもそうであり世界情勢だって計算できない、必ず不測の自体が起きる、いくら貯金していてもそれも価値がなくなることもある
常にあらゆる価値が変動しているからである
正直未来に備えることもできないのが人間なのである
一億円貯金しても安心はないのである
人間は生きている限り安心が得られない存在なのである
だからあらゆることに備えることは老後でも無理だとなる
だから貯金しても年金を収めても無駄だというのではない、それですべて安心とはならないということである
百年安心などありえないことだったのである

ただ逆に何か長い時間の中で逆転が起きてくるのも人間社会である
10年前ですら中国があんなふうに発展するとは思わなったろう
それがみるみる日本を技術的にもぬいて先進国化していたのである
そういう逆転現象が人生でも個々人でも日本でも起きてくるかもしれないからだ
高いものが低くされ低いものが高くされるのがこの世である
それを操っているのは人間ではない、神だとなってしまうからである
いくら金があっても老後は病気になったら終わりである
寝たきり何なったら何もできない、ただ天井を見ているだけになる
金があっても何もできないとなるからだ
そういうリスクも老後は増えるからだ

それで認知症になったら最悪である、銀行から金を下ろせないとか看護婦だったのに病院に行ってもそこが病院だとわからないとか本当に最悪だった
金は何の役にたたなくなったのである、金をもっていても銀行から金を下ろせないのだから金は何の役にもたたなかったからだ
こんなことまで老後に起きるから金があるだけでも安心などないのである
ある人5歳で子供と離れて暮らしていたが金持ちの後妻に入っていい暮らしをしていた
でも認知症になり世話する人がいずその娘に頼った
でもその娘は異常人格者でありその人を母親だとは思っていない
ただ金をもっているから施設に入れているだけである
それも悲惨だとつくづく思った、認知症になったらこうして最悪になるから怖いのであるそれもこれかち800百万人もなる恐怖である、その時金があってもどうにもならないのである

人間にはそういう極端な逆転現象も起きてくる、だから大きくは国家でもその未来は神がにぎっているともなる、神のみが未来を知っているともなる
人間は十年先でも何が起こるからわからないからである、ましてや20年とか30年とかいろいろいうけどそれだってわからないのである、あくまでも予測だからである
ましてや100年後の未来などどうなっているから誰もわからないのである
そこに人間の限界がある

相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (津波の被害があり海となった地域)


相馬市日下石や柏アや磯部の歴史

(津波の被害があり海となった地域)

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ここは津波で海となった

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かつて常緑樹の原生地で、柏が群生していたことから「柏崎」と呼ばれた

【カシワとは】

ブナ科の落葉高木で日本全国に分布する。食べ物を包むのに使われるほど大きな葉が南国風の印象を持つが、比較的寒冷な地に多く、かつては北海道の十勝平野に大木が群生していた。

柏崎の地名由来は柏の木が生えていた地となる、これは南国性とかではなく冬にも強い木である、この木の特徴は柏餅というように葉っぱに特徴があり名付けられた
堅い葉はきうことで葉っぱが利用されていたのである
新潟県の柏アは大きい市であり有名である
するとこの名がついたのはそこは中心地域だったからなのか?
要するに木の名前がつく地名も多い、それはたいがい田んぼでも原始の状態に植生に由来している名付けられている

堅い木というとき槐(えんじゅ)がある、これは北海道で見た

木材で灰皿!?と、思うかもしれませんが、槐という木はとっても成長が遅くて年輪が細かくとっても硬い木なので、直接火をつけても燃えにくい木なのです。

柏崎の前は湿地帯だった、それで津波の時、柏アの高台に住んでいた人たちは被害がなかった
その下は海となったことには本当に驚嘆した
それでその一帯は日下石(ニッケシ)村でありそのニッケシという地名が二ということで西なのかと推察した
海から見たとき本当に一帯が海となったからだ、そして太陽がその岸辺に輝き落ちていったのである、海から見れば確かに西なのである
でも普通は太陽が上がる所は東になるのである

それも不思議なのだがこの辺は綿津見神社が異常に多いのである
それは山側にもあるし飯館村にもある、そして山津見(山祇)神社が対となってある
松川浦にも山津見という地名と和田が残っているがこれは綿津見神社のことであり和田都美となる、これは安曇系統の海人族が移住してきたためなのである
だからそうした海人族がきて日下石(ニッケシ)と名付けたのかとなる
アイヌ語説だと二は木であり木が茂っている場所になる  

和田都美神社とはもちろん古事記に出てくる天孫ニニギノミコトの息子、山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を探しに出掛けた「綿津見神の宮」を祀った神社ということになる。大綿津見神はイザナギノミコトとイザナミノミコトが国産みの後で神々を産み始めた最初の頃に生まれた神様であり、後になって山幸彦に霊力のある2つの玉を与えて助け、そのことによって山幸彦の孫であるカムヤマトイワレビコが初代天皇である神武天皇になるという大切な働きをしたことになる。つまり、綿津見神は山幸彦に力を与え、天皇家誕生に力を与えた海の神様ということになる。この綿津見神の働きの場面で古事記上巻である「神代の巻」は終了となり、このあと古事記は歴代天皇について書かれた中巻へと移っていくことになる。

つまり日本の古事記、神話と関係して古い神なのである

ともかく柏アは高台でありそこは古くから人が住んでいたとなる

「芦」「葦」「菅」「蒲」「荻」「蓮」「鴨」「鶴」「亀」など水辺に見られる動植物が付く地名も、要注意なのだ。台東区の「吉原」は、かつて「葦原」だったとされており、ヨシ(アシ)が生い茂る低湿地であることを示す。

これらにはすべて田をつけることができる、他に蟹田とか蛇田とかもある
湿地帯だったのでありそこが田になったからである 

柏ア村の地名をみると西原西台とかあり北向とかありまた表とある
中台が村の中心地になる、表とあるのは海側に面しているからである、浜通りでは表は海であり裏は山側になるのが特徴である
海から太陽が昇るから表になるのである

そして津波でわかったことは地ノ内に古墳があったことである、ここまでは津波が来なかった、でもその前まで津波が来たということは古墳があったときその前は海だったとなる、海だったということはそこで魚と貝とかでもとれていて食料にしていたとなる
奈良時代でも鹿島区の烏崎に船着という地名がありあれほど奥まで津浪が来たからこの辺もぎりぎりで古墳の前まで海だったとなる
ただあの古墳はめずらいしと思った、たいがい高台とかにあるのが古墳だからである
ただ明らかに生活がそこであったという証拠だから貴重である

そしてこの辺の一番の謎は磯部である、磯部村がいつできてなぜあそこに人が集中して住んだのかとなる
磯部村でも慶長津波の前から人が集中して住んでいたのである、なぜなら佐藤氏の館がありそれが高潮があり鬼越館に移ったからである、鬼とは北向きのことである
だから慶長津波の前に館を移したのか謎だとなる、その後に慶長三陸津波が襲ったからである
柏崎村にしても北側は新田村でありここに元禄の碑があったから古いのである
そこまで津波が来ていた、元禄頃にに開拓された村だったのである 
磯部村には二千人住んでいて250人が死んで被害が大きかった
二千人も住んでいたのは意外だったというか家が多いことはわかっていた
ただなんであそこに家が集中したのか?それは漁業とか水運とか関係してそうなった
船溜に松川浦がありそれで船を操作する人たちが住んでいたからだとなる

いづれにしろあの辺は良く通る場所なのだが浜街道を通り相馬市に行く、すると何かその辺全体を見なかったのである
道路中心に行くとメインの道路ばかりゆくから全体がわからなくなる
すぐ近くなのにわからないのはそのためであった、つまり灯台下暗しだったとなるのだ
つまり脇道を行きその辺の全体を見る必要があるのだ、それが失敗だった   



柏ア村(野馬追に出る旗印の武士と郷士の姓)


 江井

 荒

 桑折

 桃井

 佐藤 
 
 南相馬市の原町区に下江井という地名がある、するとここから移ってきたのか? 
荒という姓は相馬藩に多い、これはツノガノアラシトからきていて韓国系統を受け継いでいるとなる
桑折は鹿島区の真野の日吉神社に南北朝の戦いのとき霊山から落ち延びてきた氏族であるそれで日吉神社があるのかもしれない、山王神社も日吉神社なのである
佐藤氏は磯部を支配して館があった、これはもともと在地の勢力である  

日吉神社の碑には寛政の碑があった、江戸時代末期の碑が一番多い、元禄となると本当にこの辺ではめずらしいのである
だから柏崎の北側の下の新田にある元禄の碑はめずらしいとなる、なぜなら新しく開拓したにしてはすでに古いとなっているからである
磯部でも古磯部となるとこちらの方が古いのかとなる、新町があり古町があり古町が古いからである
最初に磯部に住んだ地域は高台ともなる、海に接して住むことがどれだけ危険なものか津波でわかったからである
郷土史でも歴史は新旧をまず知るべきなのである、だから碑に記されている年号が大事になる
ただ日吉神社の碑は幕末であり古くはなかった

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古き木の切られて残る根っこかな日吉神社や梅雨に入るかも

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2019年06月16日

相馬市の日立木の柏崎のカフェドマニ (バラに囲まれた古風な館の喫茶店)


  相馬市の日立木の柏崎のカフェドマニ
  
  (バラに囲まれた古風な館の喫茶店)

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柏崎に喫茶店があることも知らなかった、薔薇の園の中にメルヘンチックな喫茶店があって食事を出していたのである
それは若い人向きのものである、あれも意外だった、あそこを通らなかったのが失敗だったのである
2013年に始めたというから津波の後でも早い時期に始めていたのである
道の駅では休んでいたがあそこでは休んでいなかった、私は喫茶店が好きである、あそこは高台にあり見晴らしが良かったのである
鹿島の海老村のニコニコ堂の喫茶店も納屋を改造したのもであり奥まった山陰にありその場所に特徴がある
でも料理は予約が必要であり二三回入って後は行っていない
ここも場所がいいのである、見晴らしがいいのである、それで試しに入って見たのである 
ただムーミンとか何か子供っぽいというか老人になると合わない、あれは若い人向きなのである
それで煉瓦のアーチの門とか作れば古風な感じになる、丘の上の古い館になる
ドマニとはイタリア語で明日となるとまた明日も来てみたいなともなる

何か喫茶店というかこれは場所がいいと価値が高まる

柏崎老鶯鳴くや喫茶店

こんな俳句を作った、そこは薔薇の園である、若い人向きでも老夫婦が経営していたのである
退職した人らしい、だから若い人向きだけど老人が経営して実際に仕事しているのである海老のニコニコ堂喫茶店も場所がいい、隠れたような場所にありわからない
二三回行ったが食事は予約制なのだが入りにくかった、そこも若い人向きである
何か隠れ家という感じなのである、前に庭があるのもいい
私は全国を旅行したときどうしても休む場所が必要になる、そこで考えたり詩作したりししていたからだ、だから喫茶店は好きなのである
ただ都会は景色がいい所の喫茶店には入れない、そこが問題なのである

とにかく人間は近くをかえって意識しないし見過ごしているのである
それは原町の高平の六号線脇の五輪塔のある墓地でもそうだった、あの辺は歴史ある場所だった
西殿とありそれから歴史を探った、あそこは西殿があり東殿があり沢田館があったから官衙とは関係なかった
そこでも最近発見して探求したのである
つまり一番近くにあるものがわからない、見ていないのである

相馬市の道の駅には良く行く、あそこまでは近いが相馬市までになると遠くなるからだ
あそこには五本松があり今は三本松になった、あれは枯れてしまうのだろう、それも残念である
何か松は人間に最も親しい木であり友のように見えるのである
だからいつもあそこを帰って行くとき松があるので家に帰ってきたような感覚になるのである
今は誰も家族が待っていないが松が待っているとまでなる

キーワード検索で五本松と入れると詩にしたものや写真がでてきます



2019年06月17日

人間は自ら被害者になり困らない限り関心をもたない (津浪や原発に無関心だったのもそのため)


人間は自ら被害者になり困らない限り関心をもたない

(津浪や原発に無関心だったのもそのため)


人間は無関心なのか、津波で原発でもこの無関心から起きて大被害になったともいえる
それで災害は忘れたころにやってくるとなっていたのである
津波が400年前にあったとしても関心を持ち続けられない
それを伝えられないのである
そして400年前は戦国時代であり為政者の関心が戦争にあったから津波のことは相馬藩では700人溺死としか記されなかったのである
これは政治的問題としてあった、為政者が今のように選挙で選ばれるわけでもないから庶民は二の次になるからだ

ただ本当に津波と原発事故ではその無関心さが致命的結果を生んだのである
スマトラ津波であれだけ被害があったときもそうだった、津波がないところだから警戒を怠ったとか日本人自体が言っていたのである
日本の問題はとにかく島国であり外国に関心がもてないのである
陸続きの国は何かあると必ず陸続きだから影響する
食料がなくなれば襲われるしそういう恐怖から都市でも城壁で囲み万里長城が作られた
都市とは城壁で囲まれた場所をさしていたのである
大陸では常に外部に対して敏感だったのである、それは陸続きで攻められるからである
日本は海で囲まれているからそういうことがないからのんきだとなる
そして鎖国のように国を閉ざすこともできたのである
大陸では国を閉ざすことができない、陸続きで難民が流入してくるのを防げないからである
民族移動があればもうそれを防げない、戦争する他なくなる

日本は孤立した島として世界から離れてあった特殊な国だったのである
中国とかなるとそもそもが多民族国家であり絶えず他民族に侵略される国だった
それで外国に常に関心をもたざるをえない、それは自分たちの身を守るためにそうなったそれで「他山の石」という言葉が生まれる、他山の石でも関心をもてということである
日本は地震国なのに2014年スマトラ地震の津波でも危機感をもっていなかったのである
それは今回の津波の7年前だったのである

なぜ人間は関心をもたないのか?それは自分の身に及び困ったり苦しんだりしない限り無関心なのである、鉄道が無人駅になっても別に困らなければ無関心である
でももし他で鉄道が廃止になっている線がある、だからここもなるようなことがあれば困るとなるが実際はみんな車社会だから鉄道に関心がないのである
それで廃線になるとかなれば騒ぐのである

人間の弱点はとにかく体でも健康である限り病気に関心がない、病気になるとも思わないのである、でも実際は病気は知らずになっている場合がある
ただそれが苦しみとなり症状が現れない限り放置される
そして気づいた時は手遅れになっていることが多いのである
人間は自ら困ったり苦しんだりしないかぎり何でも無関心なのである
つまり病気になれば病気に異常に関心をもつ、なんとか直してもらいたいとなり関心をもたざるをえない、でも健康であれば病気に無関心なのである
そして何か苦しみがないかぎりカルマでも意識しない
何も苦しみがなければカルマがないと思うし第一意識しないのである
苦しみとして現れたときカルマを意識するのである

人間は自分が困ったり苦しまない限り無関心なのである、だから身近に病気の人がいても貧乏な人がいても何か困っている人がいても無関心である
でもそれが一旦自分の身に及ぶとき困ったり苦しむとき関心をもつのである
てもその時はすでに時遅しとなっているのだ
それが津波と原発事故だったのである
関心がないからこそ20キロ内に小高に原発の工事が始まるのにそれすら知らなかったのである、また知らされなかったのである
その知らせる役目がマスコミにあったが福島県の報道機関は知らせないのである

それで東電で13メートル以上の津波が来るという試算をして備える必要があると報告していたが東電はしなかった
そして地元の人たちそんなこと知らなかったのである
13メートルの津波が来るということをみんなに知らせていたら科学者が言っているから信用したからである、そうしたらこんな大被害にはならなかったとなる
この辺では津波の話など海に面していて聞かなかったのである
そうして老人は津波が来ないとして逃げないで死んだ人が多いのである

人間が関心をもつべきことはいくらでもある、芸能人に関心を持っている人もいるし様々なことに関心をもつのである、それは多様であり人によって違ってくる
でも逆に最も大事なことに無関心だったということがある
津波とか原発がそうだった、これは最もこの辺では関心を持つべきものだったのである
ただ大被害になって関心をもつようになったのでありそれまでは無関心だったのである
また無関心にさせられていたともなる  
すぐ近くのゴミを置く場所でも網をかぶせるが烏につつかれて散乱することがある
そのことを言っても困っていると言っても知っている人がいても何とかしようということがない、市役所ではゴミを入れるものは場所を決めれば置いてくれというが本当に困らないからそのままになる、私自身もいくら言ってもみんなで何とかしようとはならない
一人がいくら言ってもみんなでなんとかしようとしないかぎりどうにもならないからやめた、それは無人駅でも同じである、みんなが本当に困りなんとかしようとしないかぎり改善されないのである
そしてそういう無関心さが今回のような津波とか原発事故の大被害につながるから怖いのである

例えば灯台下暗しというのもそうである、本当にいつも住んでいる場所に関心をもたない見過ごしているのである、最近自分自身でもいつも原町に行く高平とか相馬市の道の駅の日立木とかに興味をもった、そこは一番身近でいつも通る場所だからである
でもそこでも良くみていないし無関心だったとなる
関心をもつには意識して関心をもたないと関心をもてないというのも人間なのである
ただ正直あらゆることに関心はもてない、でも無駄なことに関心をもつのも人間である
肝心の一番身近なのことに関心をもたないいことがあった
それが海に面していれば津波に一番関心をもっていもいいし原発に関心をもつのは当たり前でもそうならなかったのである
そして大被害になったとき関心をもつようになったが時すでに遅しとなっていたのである



posted by 老鶯 at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年06月18日

こ線橋の工事 (駅の見守り役に駅の業務はしないと契約したのはJRで金をはらいたくないため)


こ線橋の工事

(駅の見守り役に駅の業務はしないと契約したのはJRで金をはらいたくないため)

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これも相当に古い、屋根が錆びついていた



こ線橋の屋根の修理である、写真でし見たら錆びていた
ここに注目している人はいない
ただ写真をとって見たら気づいた
これも相当古くなっていたのである

とにかく鉄道は毎日の用地ユニオンなどが点検している何か仕事しているのである
そういう人に金を払うからJRでは金を使う
それだけ鉄道というのは金がかかる、そのインフラを維持するのに金がかかる
道路よりかかるのかもしれない、電気系統もあるからかかる

それでわかったことは

なぜJRでは駅の見守り役に駅の業務をしないとして南相馬市が委託したNPOと契約したのか?

これがわからないことだったがやはりJRとしては節約して金を払いたくないからだった
業務を委託すれば金を払わざるを得ないからだ
駅前の自転車屋に駅の前で頼むにはいいとしても金を払うのが嫌で頼まないのかともなるただ商工会には掃除を頼んでいるからJRで金を払っているのである
それはやむをえずそうしているとなる

鉄道はとにかく整備するだけで金がかかる、今の利用数では維持できないとなる
昼間などを見れば本当に乗っている人が少ないからである
その割には鉄道を維持するには金がかかりすぎるのである

常磐高速のSAだと掃除する人だけで二人の女性を雇っていることでもわかる
それだけの差がある、駅前のトイレの掃除はあさがおが障害者施設の人が毎日掃除している、それも市の方で払っている、そうしないと駅自体が維持できないのである

前の駐車場は一台だけが遠くの人が泊まる場だが後はそこにとめるのは契約した人だったらしい、遠くから来てとめる人は少ないからかもしれない、でも一台でまにあうのかともなる

いづれにしろ今は昼間は遠くから来た人の案内はたまにすることがあるが地元の案内はしない、地元でわかっているからである
それで駅に来たのではないが駅前に車が来てあそこの豆腐がうまかったからその豆腐屋はどこかと聞いてきた、それは30年前とかの話である
その豆腐屋は知っていたから教えたけどなんでそんなことのために聞いたのか来たのか良くわからなかった、ただ駅前にはこうして鉄道を利用しない人が結構来るのである
やはりこの街の中心と思うから来ている、それで案内が必要になるときがある


相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)


相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)

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諏訪神社と地の内古墳

ここまでは津波が来なかった、でもそれなりに近くまで来た


●大塚神社{稲荷神社)の謎

空が光り輝き、轟音と共に萱原に光るものが落ち、当時、郷士であった志賀家など数家の主が、恐る恐る鎧、兜で身を固め何者かと恐れながらも槍を持って近づいてみると金の御幣束であったといいます。それを大塚権現のご神体として祠を建てて祀ったといわれています。
また、境内にあった公会堂は、籠り堂で、藩政時代は備蓄米を納めていた郷倉を移転したもので、破損が激しく建て替え公会堂にしたものですが、今は基礎だけとなりました。

地名の由来となった大塚古墳と大塚稲荷社のあったところなのだけれど 

古墳だらけの谷端川・小石川流域。


清和源氏の始祖・清和天皇が、この地を訪れた時に冠を忘れ、それを守っていた村民が天皇崩御後、冠を祀り社殿を造ったのが大塚小神社の始まりとされる。また建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

高槻市大塚町

大塚の地名伝承は、大塚神社の説明板によると
 「平安時代後期(9世紀中頃)、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位した後、日本諸国をめぐったという、そして当地の「松ケ崎」に立ち寄り、小松原で休憩をとり淀川の風景を楽しんだ。
 そのとき天皇は松の木に冠をかけたまま帰国され、気づいた村人はその王冠を埋めて「王塚」と名付けた。
天皇の没後、社殿を設けて清和天皇の霊を祀った。
これが現在の大塚小神社「大塚殿」にあたる。」とあり


この神社は常磐自動車道・関本PAの南西約1.2km、神社から高速道路が良く見える、水田地帯の中の小高い丘に鎮座しています。今では鬱蒼とした樹木に覆われ、研究者にしかその存在は分からないかと思われますが、この丘は古より大塚と呼ばれた前方後円墳です 



新田村に寺田とあるのはそこに寺があったからである、寺の田があった、その寺の領域内にたくさんの碑と墓が捨てられたようにあるそこはもともと寺の中にあった、だから寺田なのである
他にも寺が廃止されて墓だけ残されているのがやはり相馬市の山上の奥の金谷村もそうである、墓だけが残されているのだ
つまり寺は墓を守る場所だがその寺がなくなってしまったのである
おそらくこれからも寺がなくなり墓だけが残されることが多くなる、ただ寺がなくなったのは最近のことではない
いつかわからないが寺が江戸時代からあり寺田となっていたことは確かである
まず地名となると江戸時代までにしかさかのぼれないだろう、明治から地名化しているのは北海道くらいだろう。
北海道は新しいからである

地名からみると新田と程田と飯豊(いいで)があるが飯豊は飯豊天皇とかいて古代にさかのぼる地名である
程田も古いのかもしれない、もともと程(ほど)という地名がありそこが田になったのかもしれない
程(ほど)はホトであり女性の陰部となっているがそこはそういう地形ではない
要するにほどほどという言葉があるようにほどほどの田とかの意味かもしれない
新田ははっきりしている、元禄時代に新しく開拓して田にされた地域である

松川浦に近く湿地帯であり広い地域である、でも中村に城が移され田野か慶長地震津波のすぐあとでありそれから元禄になり開拓された、意外と早いしまず元禄の碑はこの辺にはほとんどない、幕末が多いのである
明暦と元禄の碑があったのは葛尾村の落合だったというのも不思議だった
他に元禄の碑を見ていないからだ、だからあれは貴重だと思う
そして柏崎には日吉神社があっても古いと思えない、柏崎に人が住んだのは元禄以降かもしれない
飯豊とか程田は古く新田でも元禄であり新田ができて人が増えて柏アの方に人が住むようになった

あの辺をみると日下石でも古墳が小さくてもある、平地に古くから人が住んでいた
そこは今回の津波が来た地点に近いかった、そこに神社もあった、そこまでは津波が来なかった
謎なのは大塚神社と稲荷神社である、大塚神社の由来は良くわからない、それがなぜ松川浦の近くにあったのか?
その辺は湿地帯になっていたはずである、だからそれほど古くないのか?
でも樹齢何百年かの太い杉が残っていた、でも江戸時代でも300年と400年になる 
他にも大塚神社は全国にありたいだい大塚町とあり古墳があったところにある
だから古墳に由来していることがわかる、大塚が王塚ということにもなっている
王が埋められているからそう名付けられたともなる   

この神社の謎は慶長津波の時にあったのか?
烏崎の津神社はあそこは移されたのである、前は別な所にあった、その場所は烏崎村の家が立て込んでいた所なのか?
どこにあったのかわからないが後であそこに移された、でもいつの時代に移されたのかはわからない
神社は歴史を語る証拠としてある、その場所と時代がわかればいいのだが時代が神社が意外とわからないのである  

建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

慶長津波地震の後にこういうことがあったのか?大洪水があったというとき仏像が流れてきて霊験があり神社がここでは建てた?
ただ松川浦に近すぎるのである、慶長津波の前荷ぁたとした確実に津波の被害を受けた
それも完全に破壊される強い津波である、そういう記録もなかいからわからないとなる
あそこに古墳はありえない、湿地帯になっていたからである

郷土史では時代を特定することが大事である
それで村の新旧を知ることが大事になり必ず碑を見て年号を見ている、でもなかなかわかりにくいのがある
だからあそこの元禄の碑がはっきりとわかったから印象に残ったのである
時代と場所が神社では歴史でも大事になる、だから直接その場に立ちその土地の人とわずかでも話すと歴史の実感が増
すのである、そこには寺がありましたと聞くだけでヒントになるからである
そして地図を調べてインタ−ネットで調べる、すると郷土史でも何かてがかりがあり知の連携ができてくるのである

これが図書館ではできない、調べるのに時間がかかりすぎるのである
それで今は家事も全部しているので忙しいから図書館には行っていないのである
手元に郷土史の本を用意しておく必要もある、ただ高いから全部は用意できないのである



posted by 老鶯 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年06月19日

平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に


平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に

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自治体のエリアが広がったことで、職員の土地勘がない場所が増えたのです。地形も、地域の実情も、住民の数も年齢層もわからない。地名の読み方さえもわからない。そんなことが、あちらこちらで起きています。

来るべき大規模な自然災害に、行政はどんな対策をしているのか?       

なぜ合併が問題になったのか?
それは地方だと市町村ごとに地形とか歴史でも違っているからである
やはり人間の生活の基はその土地に地形でも一体として作られてきたのである
日本の市町村の問題は日本自体が平坦な土地がないことも原因している
大陸だとどこまでも平坦な土地がつづく
それは区切られていない土地なのである
日本だと自ずと必ず山があり区切られのである
するとその区切られた中で一つの村なり町なり市が生まれるようになる

南相馬市を例にすると小高と原町でも高い山でないにしろ一応小高い丘で区切られているのである
だから必ず隣の市町村に行くには坂を越えてゆくとなる
飯館村とかなるともう峠であり歩いて行ったりしたらもうめったに行ける所ではない
現実に塩の道があっても急峻な山間を行くから一晩栃窪をでて助の小屋(たすけこや)で泊まったとかなる
そこで泊まってようやく飯館に行けるとなっいたのである
そういう土地が日本がには山が多いから多い、交通が閉ざされているのである
そういう中で独自に生活を形成してきたのが日本である
平坦な土地がある大陸ではモンゴルとかでも遊牧民がいて遠くと交流するのが容易なのである

たから合併するのはいいとしてもその地形まで変えて合併できなかったのである
そういう根本的な日本の問題が常に根底にある
第一福島県のことでも何回も言っているが地形的に一つになるのはあまりにも無理があった、ハマ,ナカ、アイヅがあるが地形も気候もまるで違っている
会津となれば冬は雪に閉ざされている、浜通りでは雪はほとんどふらないから仙台の方が身近なのである、天気予報だったら仙台を見ればだいたい同じだからである
そして福島一区でも阿武隈高原がありはばまれて福島市と相馬地方はかけ離れている
今むずかしい病気でも仙台に行ってみてもらっている人が多いのである
今も知っている人は糖尿病で白内障になり仙台に入院している、他にも病気が出たためである
鉄道が通っているから仙台は身近なのである

合併で問題になったことはいろいろある、津波や原発事故でもあった
特に原発事故の補償金では小高と原町と鹿島はもめた、それは深刻だった
政府に30キロで区切られた結果小高と原町と鹿島では補償金で差がついたからである
小高は別格であり原町は鹿島の三倍もらったのである
その差は大きかった、でも30キロで区切られたのだから文句が言えなかった
それでも自治体で何か施策があっても良かったと思うがそれも全くなかった
それで南相馬市はまとまらなくなったのである
外部との絆ができても南相馬市では絆がたたれたのである
それは今でも尾を引いているのである

また指摘のように土地勘がないということも災害のときは問題になる
津波ではつくづく地形に一番影響されていたのである
その地形を見ればなぜそんなところに家が密集していたのかとかなった
またその土地のことを歴史でも調べておく必要があった
今になって高平とか日下石とか相馬市の新田とかの歴史を調べている
近くでも意識して調べないと無関心のままなのである

地形が地理の基本だという時それがそこに住んでないと身につかないのである
これは地図を観ただけでもなかなかわからないのである
坂がどうなっているのかとかわかりにくい、坂を越えたり下ったり実際にしてみないと実感がわかないのである  
南相馬市となると合併して広くなったから全体を知ることがむずかしくなる
それよりいわき市は30万とかもっと大きくなったからもうそれだけ広いと一つの市となっても実情は別々なのである
第一日本は4,500百人くらいの村単位で長く生活してアイディンティティを築いてきたのである、大陸のどこまても平坦な地で国を作ってきたのとはあまりにも違いすぎているのだ

ともかく日本は山で区切られて一体化しにくい、分散して住むしかない、でも交通が不便で行き来しにくい風土だった
だから合併して広くなると行き届いた行政もできないとなる、災害に対しても地理が広くなるときめこまかな対応ができなくなる
それで失敗したの津波の避難場所の指定だった
海老村の海岸沿いの高い所を避難所して安全だと避難した人たちがそこで30人も死んだのである
別にすぐ裏側が山であり避難するのは道路を走ってもできた
すぐ近くでも津波からまねがれる場所だったのである
それは行政のミスだったともなる、津波に対して経験がないのと土地勘がないこともあったかもしれない、いくらでも避難する場所があったからである
だから八沢浦ではすぐ近くに海が見えていて津波が来てから裏山に逃げて助かった人もいたのである  
前に小高い山があって津波の勢いがそがれたことも幸運だった
とにかくこうして地形が津波と深く関係していたのである

まずその土地のことう地形を知ることが行政でも基本にあるともなる
人間は地形だけは変えられないからである、また気候も変えられない、風土は変えられないからである、その風土があって人間の生活も作られているからである
だから合併はそれぞれの地形が違い成り立ちも違うから一体化できないのである
それで南相馬市だと原町が大きな街だったから原町中心になりすぎるのである
施設でもなんでも原町中心になる
でも障害者施設の大きい建物が鹿島に建てられているのは原町からも相馬市からも近いからだという、中間にあるからである、交通の便がいいから建てられたとなる
そういうふうに交通とかも関係してくる

とにかく郷土史というときそれは全体を知る学問なのである
だから津波とか原発とかでも関係していたのである
原発事故の時、爆発したときちょうど東風がこの辺では春になると吹くというのもそうである、そのために放射性物質が飯館村から福島市に流れたのである
風に影響されて不運だったのが飯館村などであった
それも福島市まで影響が大きかったのもカルマなのかともなる
福島市は遠いから関係ないと思っていたろう
私も30キロ離れているから関係ないと思っていたのである
福島市の県庁が原発を許可した、そしてそこに放射性物質が流れたのもカルマだったとなる、福島の行政の中枢まで被害がったからである

posted by 老鶯 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係