2019年06月01日

統合失調症と引きこもりとアウトサイダー (文明そのものが病理的現象であり異常である)


統合失調症と引きこもりとアウトサイダー

(文明そのものが病理的現象であり異常である)

統合失調症には、10代後半から発症するタイプがあり、ひきこもりをそれと誤ってとらえられてしまうケースがあります。
統合失調症の発生頻度は、あらゆる時代と国を通じて、ほぼ0.5〜1.0%を前後する一定の値を示し、それほどの変動はないとされています。

しかし、統合失調症はその定義や診断基準が極めてあいまいで、単一の疾患単位であるかどうかすら疑われている「精神病」です。
中井久夫によれば、統合失調症だけに見られる特有な症状は存在しないといいます。

あるハンガリーの研究者によれば、ブロイラーが分裂病(当時)という名称を提案した前年にあたる1910年、首都ブタベストの分裂病者たちは、その半世紀後に比べて、より多彩な症状を呈していました。

しかも、当時支配的であった見解とは対照的に、ほとんどの分裂病は、いわゆる分裂病性の荒廃を残さず、比較的良好な経過をたどったとされています。
このことは、たいへん暗示的です。この1910年という時代は、西欧の周縁の地ブダベストには、いまだ、人格荒廃へといたる不治の病としての分裂病という物語が、さほど浸透していなかったことを示しています。

あるいは、現代文明から疎隔された台湾の原住民には、分裂病の有病率が台湾在住の中国人に比べてはるかに少ない、と報告されています。
しかも、彼らの精神病の特徴は、急性に発病し、その病相期は短く、再発や重篤な荒廃に陥る例はまれです。分裂病には再発例がまったくなかった、といいます。


精神分裂病は社会病理としての病気でありそもそもそういう病気がなかったという
文明化されない地域ではブタペストとか台湾ではない、一時的にそういう症状が出ても回復している、その理由は社会に仲間内で回復させるものがあったとなる
つまり社会病理なのであり個人の先天的な病気でないとしている

ともかく社会に適応できないものはすべて病気としてレッテルが貼られる
引きこもりとかニートは働かないからそれでこれは病気なのだとレッテルがはられる
会社に行けない者も鬱病だからとなり病気にされる
本当は鬱病は仮病だとする人もいる、何か社会に適応できないものは病気だとされるのである

ところが社会自体が文明自体がそういう病理現象を生むのでありもともとの人間にはなかったとなるのがこれでもわかる
マクロ的に見れば文明とは病理的現象でありそこで当然異常化しているとなる
そもそもその異常化した文明に適合している人間こそ正常ではないともなる
そこからニーチェとかヘンリーミラーとか

上野霄里

氏などがアウトサイダーが生まれた
現代文明とは病理的現象であり文明自体が病気なのである
その異常化した文明に適合している人間こそ異常だということにもなる
天才的な人間はとてもそんな文明に適合できない、だから全人間として生きようとする
それはアウトサイダーになるのだ、天才的芸術家はアウトサイダーである
ゴッホでもまたタヒチに逃れたゴーギャンでもそうである、タヒチの原住民の中に安らぎを見出したのである
それは現代文明の否定であれ逃れた結果生まれた芸術だったとなる

つまりここで言いたいのは文明の中で適合できる人間は異常でありむしろ適合できない人が正常だともなる
なぜなら統合失調症に現代文明化されている遅れた地域はかえってならない、なっても一時的で回復しているからである
だから現代文明に学校や会社に適合できない人間は病気のレッテルが貼られる
でも逆に現代文明に適合している人間は異常である
それは現代文明がナチスを生んだというピカートの思想でもそれを指摘していた
その全体主義の異常性はそもそも現代文明が社会的病理現象としてあり遂にはナチスのような怪物となり社会は踏みにじられたともなる 

これは原発事故でも「安全神話」が作られそれ異を唱える者は異常とまでされるのともにている、なぜそうなったかというとそれは政府と東電とマスコミが一体化して作り上げられたからである、つまり「安全神話」を作った者たちこそ異常であったのだ
現代文明自体が異常な病理現象として現れたものであり社会自体が狂気と化す危険性を備えていたとなる
その病理現象としての文明から当然統合失調症とか適合できない者にレッテルをはる
引きこもりとかニートは病気であり治療が必要だともなる

ところが全人間として生きようとするエネルギーにあふれた天才になるとアウトサイダーになる、それはまた引きこもりとは違う何か似た所がある
現代文明に適合できない、不適応者として存在するからそうなる
その人は病気であり治療が必要だとなる、そうして文明人は安心するのかもしれない
文明に適合している人はあたかも優れていて正常でありと自認する

私の場合はアウトサイダーだったとなるがそうなるとどうなるのか?
不思議なのは仕事するということはみんなパーツ化することである
現代文明はどんな仕事でもみんな無数のパーツの一部になるだけである
そこで全人間を発揮することなどありえないのである
会社に属さない決まった仕事をしないということは全人間としてあり生き自然でも全体として追求するようになる
だからニーチェとかのように超人的志向とか単独者にもなる、そこに危険性があるのだが文明を否定してしか全人間になりえないからである
だからそこでニーチェのように狂気にいたる人もでてくるのである
でも個人も狂っているが集団も狂っているというとき現代文明も狂っているのである
その文明から生まれるカルト宗教団体もまさに狂っている、それは病理的現象なのであるだから宗教団体には精神病者が多いという時そうなりやすいのである
なぜならそこは現代文明の病理現象として現れたものだからである
本来の宗教とは何の関係もないのである、つまりそれを放っておくとどうなるのか?
オームのようになったりナチスとなって全世界が踏みにじられるのである

いづれにしろ現代文明こそ異常な病理現象なのである、そうだからこそ統合失調になってもおかしくないのである、統合できない病気ということでそれを如実に示している
そして文明に適応できない、学校でも会社でも適応できない者は病気というレッテルを張り治療せねばならないとなる
でも文明そのものが異常な時、文明人は治療の対象にならないのである
むしろ正常であり認められる、それはカルト宗教でもそうである
それは社会で数が多いからと認められると同じである、そしてやがて文明自体の異常性がそういう病的な団体により席巻される、それかナチスだったともなる

文明とは無数のパーツにされた調和がない世界である、そういう世界に正常な人は適合できないとなって不思議ではないのである
適合できている人間こそ異常だとなる、アウトサイダーから見ればそうなるのである
だから自分自身が追求してきたのは自然の全体でありそこに調和があり真の存在の連関性がありそこに神の国があるともなる
文明にはそういうものはない、それは病的現象なのである、だから真善美とかもないのである、またそういうものも追求していないのである
ただ経済的なものしか追求していない、経済力、金がすべてだとなってしまったのであるそれはカルト宗教団体でもそうてある、それは文明の病理現象の中から生まれたものであり病気になったと人たちだともなる、しかし文明では数が多いから正常だと認められているのである

  調和の力
  
本当にこの世で強いものは何か
調和の力である
調和のひびきである
樹々は列して並ぶ
神殿の列柱のように
花と花はどれも調和する
それぞれの色に映える
濃い紫色と白の菊
それはともに長くも映えて咲いている
そこに調和があり乱れない
我々の力は調和から来る
決して争いからは来ない
神の意向するものはと調和である
力強い調和の讃歌である
我々は調和の中で強く不可分に結び合う
稠密に堅固に結び合う
調和の中で歓喜の歌を歌う
調和の中で神を讃える
調和の中に神はいましぬ
それは不壊なるものである
武装しても国土は守れぬ
平和の調和の力が国土を守る
人が乱れれば国土は守れない
国土の調和こそ堅固な守りとなる 
争いをやめるには
神の調和の世界を知ること
力強い調和こそ自然の営み
それを知る時人に本当の力が与えられる
平和は叫ぶことではない
平和は大地から湧きあがり天から下る
実りとなり祝福として与えられる
神の業こそ平和を成さしめる
調和の神殿は決して崩れることはない
それは神によって建てられたものだから
その礎は盤石にして支えるから・・・


What is really strong in this world
It is the power of harmony
It is a sound of harmony
Trees line up in a row
Like a temple column
Flowers and flowers are in harmony
Shine in each color
Dark purple and white chrysanthemum
Both are shining long and blooming
There is harmony there is no disorder
Our power comes from harmony
Never comes from conflict
What God wants is harmony with
It is an ode to strong harmony
We are inextricably bound in harmony
Closely and firmly connected
Sing songs of joy in harmony
God-fearing in harmony
God is in harmony
It is a crush
Even if armed, the land can not be protected
The power of peace harmony protects the land
If people are disturbed, the land can not be protected
Harmonization of the country is a strong defense
To stop the fight
To know the world of harmony of God
Strong harmony is the work of nature
When you know it, people are given real power
Peace is not to shout
Peace is rising from the earth and rising from the sky
Be fruitful and blessed
God's Work Can Make Peace
The temple of harmony never fails
Because it was built by God
Because the foundation is supported by rock stone ...



調和があるのは自然である、人間の社会に調和はない、絶えず争いと分離なのである
文明自体が無数のパーツであり調和はない、むしろ何かエジプト文明にはピラミッドでも調和があった、それは宗教的建造物であり王の墓ではなかったからである
一つの自然と調和を図った文明だとなる、今の文明にはそういうものがないのである
ただ無数の部分にパーツになったカオス文明である
そこに真善美も追及されていないのである、そこに荘厳なものが美が生まれないことでもわかる、醜悪な大都会が東京などがそれを証明しているのである
そして科学技術文明だが科学を信仰のようにしても原発事故になり森につつまれた飯館村が放射能汚染で住めなくなったように自然を破壊したのである

イスタンブールのソフィア大聖堂でもオスマン帝国でも破壊できなかったのはそこに美があったらだとされている、その建物には威厳があったからだとなる
東京のような大都会だとビルが林立してもそこには破壊衝動が生まれる
それでゴジラによって踏みつぶされるようなものが好まれるのである
もしそこに威厳ある美なる建物があればそうはならない、破壊できないものがあるからだ
 
中尊寺

  宮沢賢治
            
七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)に
蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる



つまり大盗でも盗まれないものが光輝がありまぶしく去ったとなる
そういうものが今の文明にあるかとなったらない、そういう文明は自滅するのではないか自らの醜悪さに耐えらずに自滅するということもある
一方で自然は威厳のある荘厳な調和の神殿なのである、そこから病的なものは生まれないのである、調和の尽きない美がある、それを発見するのは文明から離れて観るアウトサイダーだとなってしまう、引きこもりはまた違ったものでも文明に適応できないことが病気とされるが文明人こそ異常なのである、病的現象としての文明に誇ることがそもそもできるのかとなる、それはただ経済的てもの物質的なものだけになる
そこに誇るべき文化が生まれているのか?美が生まれているのか?
生れていないからそこは不毛の世界であり病気世界でしかないとなる
そこに病的人間を作り出すだけだともなってしまうのである

  
  
  

2019年06月02日

原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった (蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)

        
原発事故の復興は田んぼの復興なくしてありえなかった

(蛙の鳴く声を聞いた時それを感じた)


陽はゆっくりと落ちてゆく

陽はゆっくりと落ちてゆく
急いではいけない
街からら離れた所
田んぼに苗は植えられた
あとは育つのを待つ
水はここに流れめぐる
蛙がのんびり鳴いている
黄菖蒲に光がそそぐ
明るく一日映えている
私はここで休む
陽はゆっくりと落ちてゆく
時計の刻む時ではない
陽のめぐる時に合わせる
ここは安らげる場
あなたは何を望むのか
その欲は限りなく
安らぐことはできない
ここは安らぐ場
一時は田んぼも蛙も消えた
また田んぼに蛙の声が聞こえる
それが田舎の幸せ
ここに落ち着くがよし
陽はゆっくりと落ちてゆく
私の生きる時間はもう少ない 
光を惜しみ時を惜しむ
そここそ汝のいる場なりしを・・・・


田んぼの畔の所にいたら陽がゆっくりと落ちてゆく、それほど暑いということもなかった何か蛙の声がこうして鳴いているのを聞く、蛙と田んぼは実は一体だったのである
なぜなら田んぼが一時は消えた、草ぼうぼうになって放置された
放射能汚染でそうなったのである
だから蛙の声も消えた、そして二三年前だったか、それより前だっか、蛙が一斉に夜鳴いて夜空にひびいたとき復興したなと感じた

田舎は第一田んぼがない田舎は考えられない、その田んぼは千年とかあるとなればもう田んぼは自然なのである、ただ今の世の中都会に住んでいる人も多いのだから別に田んぼを身近に感じないし、蛙の鳴く声が聞こえなくても普通である
でも田舎だったら蛙の声が聞こえなくなったら田舎なのかとなる
それで満月が出て田毎に映っているのを見るとなごむ
そういう風景は当たり前だったがこの辺では一時消失したのである
今でも原発避難区域だったところは無惨である、草ぼうぼうで田んぼは回復していないからだ
そこに荒涼としたものを感じる

田んぼ米をとるというだけではない、それはもう自然なのである、なぜなら田んぼがあって蛙が生きることができるし田んぼには多種な命が育まれているからだ
そこは詐欺の餌場になっている、それで鷺すら原発事故でいなくなったのである
それで50羽くらいの鷺が河原の竹藪に止まって寝ている時この辺は復興したと感じた

農本主義の未来を耕す(宇根豊)よりの抜粋

「蛙の鳴き声なんて一銭にもならないよ」
「今年から蛙が良く鳴く田んぼには、税金から対価が払われます」
「蛙の鳴き声を金に換えるほど堕落していない」
受け取りを拒否する百姓が少なくありません
「その金はあなたにあげるのでなく、蛙にあげるのです」
「この金を蛙がちゃっと鳴くことができるようにあなたが使ってくつださい」

ここでの例え話は蛙に金を払うというのは外からの目線である

「ああ、今年も代かき、田植えが始まったな、 蛙の声を聞くと張り合いがあるというか今年も忙しくなるなと思うな」

蛙が鳴くということに対価を払うのは外からの実際に田んぼを米を作る百姓の目線ではないとしている
確かに田んぼを回復したいというとき米を作り収入にしたいということがあった
原発事故ではもう放射能汚染で米を作れないという深刻な状態に陥ったからだ
今でも溜池の除染をしている、どうしても放射性物質が水として流れてくるからだ
米粒が白くセシウムに汚染されている写真を見た、また二本松の方で米を作る農家の人が原発事故以後農業ができないと自殺したこともあった

ここで著者がとりあげていることは自ら農業しているから内からの目線で語っている
ただ田んぼを回復することはただ米を元のようにとれるようにする経済的効果だけではない、蛙も生きられる場を再生することでもあった
田んぼとは人間が作ったものでもない、第二の自然と化していたからである
蛙でも多種な虫でも田んぼに生きていたからである、それを餌とする鷺が帰った来たというときこの辺は復興したと感じたことでもわかる
自然の復興でもあった、田んぼの持っている意味は米が食料がとれるというだけではないのである
まず田畑がない田舎は田舎なのかとなる、畑に花が映えているときもそうである
カンナは大きな花だから特に映えたのである、そこになごみがある
ただ自分自身が実は田舎に住んでいても農業しているわけではないから外からの目線で見ている、だからこの著者のような内からの目線になっていないのである、田舎に住んでいても今農業にたずさわるものは一割と実際は少ないから農業のことを知らない人が多いのである、でもいつも田畑を見ているということだけで都会の人とは違っているのである

ただこの辺が原発事故で放射性物質に汚染されたとき田畑も作れなくなったときかえって外からの目線も必要になった
蛙も住めるようにする田んぼの回復が必要であり蛙が生きるために金を払う必要もこの議論で感じた、外からの目線でもそこに金を投資して自然を維持するという感覚をもつべきだとなったのである
それで趣味で畑で野菜を作ったいる女性に肥料代とか種とか道具類とか援助したのはやはり畑でも田んぼと同じように見ていたからである
回りが草ぼうぼうになっているとき畑があった方がいいと思ったからである
でもそこでとれる野菜はわずかでありキュウリ二三本しかもらっていない、そしてその人は腰が悪いとかなんとか草むしりでもするのが負担になっている
その畑から収入にはならないからである
その人は第一いつも金に困っている人だからわずかでも金になる仕事をすればいいと思っている、でもその人は農業をしたいのである
ただそれを援助するとなると自分自身も大変なのである、何もしてもらわないのに金だけ要求されているからだ

でもなぜ草ぼうぼうの荒地にしておくのか?土地はほとんど無料で貸ししてもらえる
でもやる人がいない、ただ浪江の復興住宅に住んでいる人が土地を借りて野菜を作っていた、あの人たちもなにもしないから畑で野菜作りすればいいとも思う
いづれにしろ田舎だとまず田畑が復興しないと復興したという感覚にならないのである

もちろんロボット工場とドローン工場とかを作り工業地帯にするのもわかる
でも基本的にベースとして田舎だと田畑を復興しないと田舎の復興はないと感じるのである、それが草茫々の荒地となっていることが荒涼としてくる
だから川岸に黄色の菖蒲が一杯咲き畑に女性の笑い声がひびいたとき何か元に戻ったなとか平和が戻ったとか感じたのである
ただここだけではない耕作放棄地とか跡継ぎがないとか日本全体の問題である
でもこれから農業の復興があるかもしれない、なぜなら日本は電気産業とか他に科学技術のグロ−バル競争に敗れ貧困化する
すると食料すら輸入できなくなる、すると自国で生産するほかなくなるからだ
その時荒地でも利用して食料を生産するほかないとなる、それは戦争に負けたとき引揚者がそうしした荒地に開墾に入ったからである、そういうことがこれから起きてくるかもしれない、つまり日本の貧困はますます厳しくなってくるからである


posted by 老鶯 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

処刑される引きこもり、ニート、無職! (数が多いから社会の重荷となるため)


処刑される引きこもり、ニート、無職!

(数が多いから社会の重荷となるため)

東京・練馬区の住宅街で元農水事務次官の熊澤英昭容疑者(76)が、同居する息子の熊澤英一郎さん(44・無職)を刺殺。川崎市・登戸の小学生児童ら連続殺傷事件を起こした岩崎隆一容疑者(51・死亡)が長期にわたって就労しない”引きこもり傾向”にあったことが改めて社会的に議論となる中、一報は飛び込んできた。

この引きこもりとかニートは相当数いる、田舎でもみかけるしそういう人と私は会い安いのである、それは都会だけではない全国的に平均的に存在している
だから特定の地域の問題でもない、場所に関係なく満遍なく存在している
もうそれは特殊なものではなく、普通にもなっているのだ
それだけ当たり前のことであり普通であり多いということである

ともかく社会の問題は数が多くなるとそれで騒ぐことになる、社会は数で見ている
少子高齢化でも子供の数がへると困るとか老人の数が増えて困るとかなる
歴史でも数からみる、縄文時代の人口はいくらだとか弥生時代になりいくらになったとか人口の増減で社会をみる、本当に明治以降なぜ日本がはこんなに人口が増えたのかとなるからだ
だから別に人口が減ってもいいじゃないか、それがもしかしたら自然の摂理というか社会の摂理なのかとなる
だって動物であれそれが増えすぎると生態系のバランスが崩れ問題になるからだ
地球自体人間増えすぎるとそれが自然破壊にもなる
だから世界人口が増えすぎているから減らした方がいいとするのもわかる

ともかく一連の事件が何を語っているのか?
それは引きこもりとかニートの数が多すぎるから社会問題化する
40前で50万とか40から60歳でも50万とかいるとてるとその数は社会を圧迫する
私が述べたアウトサイダーというときそれは世界で十数人の特殊な思想家とか芸術家のことなのである、それは今の引きこもりとかニートと似ていても全く違ったものである
第一団塊の世代は高度成長を築いた人たちでありその人たちは猛烈な企業戦士となった人たちでありその時引きこもりとかニートとか無職はほとんどいない
だからそんな人かいたのとなる、それは社会問題に何にもならないのである
そんな変人がいたのかとか誰も問題にしないからである
私は高度成長の時こそ、みんなが猛烈な企業戦士となり会社人間になっているときたこそ実は引きこもりでもニートでもそういう人がいた方が良かったのである
数としては1000人くらいでもその中から独創的な人間がかえって出たと今では思う
私自身がそういう人間として生きてきたからである

今の引きこもりとかニートはそういう問題ではない、百万人もいるときどうなるのか?
その数が社会を圧迫するのである、なぜならその人たちは仕事もしないからやかで生活保護になるというときその数の多さが社会の負担になるから騒ぐのである
それで51歳の引きこもりが無差別殺人になったとき社会がその引きこもりとかニートに恐怖する、それがどこでも実際は身近にいるからである
するとそういう人たちがあんな事件を起こすのかと見るからである
それは数の多さの故にそうなるのである
またそれだけ数が多いと別にみんな引きこもりでニートなのだからいいじゃないかとか
政府でなんとか対策しろとかなる、それは非正規だとそうなっている
非正規は働いているからまた違っている

ともかく社会は数でみる、人口で見ること統計から見る、それが社会を見る手法である
カルト教団があるとする、例えば創価でも票が7百万だとか8百万だとか政治的にはすべて数でみる、数は勢力となり政治的圧力となり権力となる
でも実際は創価の会員でも幽霊会員がただ一票を選挙の時入れてくれると思われる人が数百万とか膨大なのである、それを日々回っているのが幹部の仕事なのである
その幽霊会員をいかに一票に結びつけるか、座談会に出席させれば一票いれてくれるとなるとなり勧誘する
その目的ははっきりしている、ただエホバとかなるとなぜあんなにしつこく勧誘しているのか?それが疑問なのである
ただ数を増やそうとしていることは確かである
カルト教団は数を増やすことが目的でありその人がどんな人かなど関係ないのである
そんなこといちいち問うていたら数か集まらないからである

いづれにしろ数の多さでそれが社会に影響する、いい方面としてはそれだけの数がいるのだからなんとか対策しなければならないとなり政府でも援助するとかなる
そういう存在を認めて社会的に受け入れて社会に役立たせようとする
一方で常にネットでそんな役たたずは始末しろ、害になるだけだと攻撃しているそう思う人が多いのである
今回のような無差別殺人が起きるとそうなる傾向が強くなる
それで事務次官とかの高級官僚の引きこもりの息子が親に殺されたとなるのか?
迷惑かけるからと思ったのは事件がありまたそういう立場にあったからなのかとなる

つまりこれからの引きこもりニートは数が多いから社会の重荷となる

引きこもりニートは処刑しろ!

本当にこうなるかもしれない、親に処刑されたともなるからだ
それは引きこもりやニートにとっては恐怖となる
なぜそうなるのか?それは数が多いから社会の負担となるからである
数百人とかの単位だったら負担にはならないから無視できるのである
でも百万人とかなるともう無視できないのである
それから外国人労働者だって百万人以上になると無視できない、社会を変えてしまうのである、現実に田舎でもベトナムとネパールの人がかならずいるからである
つまり数が増えるということは確実に社会を変える、それで放置するわけにいかなくなるのである、それはいい面にも働くが悪い面にも働く、どっちかというと悪い面に働き処刑しろという世論が高まりそれを見越して親が処刑したのかとなる

民主主義とは数で決まる、多数決で決まる、数が多いということが権力をもつことであるだから非正規でも数が多いのだからそれを圧力とできるが政治的にそれを組織するものがないとか政治に反映する団体がないとかできないとしている
そこに民主主義の問題があるとなる
シルバー民主主義というのもそうである、老人が数が多いのだからどうしても老人に有利な政策がになるのである
だから数が多いということは現代社会では社会そのものを左右するのである
数の多さによって多数決ですべて決まるという民主主義もそこに限界が生じているのである

posted by 老鶯 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年06月03日

人間はすべて恵まれて終わらない (最後に大きな不運に見舞われる)


人間はすべて恵まれて終わらない

(最後に大きな不運に見舞われる)


人の一生をみているとわからないものだとつくづく思う
人間はどんな人でもどんなに恵まれていても最後になると不幸になり不運になり意外な結果になる
まさか事務次官までした人が殺人罪でつかまるとは思いもよらなかったろう
その本人すらそうである、東大出て高級官僚になり順風満風だったのである
上級国民として勲章までもらった人がやはり90近くで痛ましい交通事故を起こして世間から責められるのもそうだった
何か60歳以降に不幸が起きやすい、それはその人のカルマだとして考察した
60歳以上にカルマの清算が起きてくるからだ

親戚というのでもないが実の親でも5歳で捨てて金持ちと再婚した人もその捨てた娘に頼った、認知症になったからである
でもその娘は全くその実の親に愛情がない、ただ金をもっているから施設にあづけて死ぬのをまっているというだけである、これも恐ろしい不幸なのかもしれない
その娘は前にも書いたけど異常化していた、非情化した人間になっていたからである
なぜなら育ての親にも非情化していた、いろいろあっても病気になっても何のいたわりもないそれで最後に自分のところに「ひどい娘だわ」と言ってきてすぐに死んだのである
それが介護もされずに死んだから良かったのである
介護も何もその娘はできない、私の家にきて「おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ」と言って血相変えて去って行ったからだ
ただ私の家とはもめていたからそれもありえたが育ての親ともめたとしても一番世話になったのだからそういうことはありえないと思ったからである
そもそもあんな人間になっていることは何なのだろうとなる
引きこもりとかなんとか人間にはいろいろいるが正常と見られる人間でも全く信じられない異常化した人間が普通にいるのである

人間はだから最後まで見ないとわからない、私の姉も最後は信じられない結果となり死んだ、優秀だ優秀だと言っていたが認知症になって死んだ、悲惨なのは死ぬ間際まで「俺は優秀だと」言って死んだことである、でも認知症になり馬鹿になったということも信じられないとなる、これほど意外な結果もなかったのである
正直人間が最後がどうなるのか、人生というのはいかに生きてもわからないのである

人生は意外な結果で終わる

みんな最後にそう思っている見ているかもしれない、人生はもしかしたらその人がいかに努力しても自分自身だけでは決められないものかもしれない

人生を決めるのは神だ、人間では決められない

こうなるかもしれない、人間の運命をにぎっているのは神だとなってしまう
だからみんな意外な結果として終わっている
いくら計画しても計画通りにいかないのが人生である
人生には有為転変がつきものだからである、第一こんな津波とか原発事故で故郷に住めなくなるなど想像すらできなかったからである
もちろん戦争で3百万人死んだとかもそうである
何か人生でも70年とか生きればその間に予期せぬことが起きるからである
だからこそみんな意外な結果で人生が終わっているのである
とすると今の不幸が必ずしも不幸とはならず幸福になるものをもっているとかなる
今の幸福が実は不幸につながるものをもっている
実際にあまりに恵まれると危険になる、なぜなら必ず人生には苦難がつきものだからである、するとあまりにも恵まれると苦難に耐えられなくなるのである
底辺の人はそういうとき切り抜けられるということもある
第一簡単に借金などプライドがあると人はできない、頼めないのである
サラ金とかだと頭を下げることもないから簡単になる
でも面と向かって借金を頼むとなるとなかなかできないからである    

才能があっても発揮されない

成功は失敗である

異常は正常であり正常は異常である

何が有能かわからない 


結局人生は終わりからみればわかりやすいのである、いくら才能があっても発揮されない、そういう環境がないと発揮されない
特別柔道の段をもって医者だった人も病気あえなく若くして死んだとかある
戦争の時は有能な人が相当に死んで才能を発揮されなかったとかそういうことはいくらでもある
才能のあるなしの問題ではなくそういう環境がないことが才能を発揮されないのである

成功が失敗であるというとき成功した人はおごる、会社員としては有能だったが事業を起こして失敗した
それは会社員として働くのと経営者になるのは次元が違うからである
また成功すると失敗するのはそこに奢りが生れる、日本が技術で優秀だったとか吹聴していたけど原発事故をみればわかる
日本の技術は劣っていたのである、また高度成長は幸運だったのであり今になれば中国が優れているとなっていることでもわかる
電機製品は別にどこの国でも作れるものだったのである、もし日本でしか作れないものだったら日本人が優秀だとなっていた
日本はIT分野では中国に完全ぬかれた後進国となっていて貧乏国に転落したことでもわかる
成功したことが失敗に通じることが普通にある

異常というとき引きこもりとか異常というけどでは正常と思われて生活している人が実は異常人格者だったとかいくらでもある
公務員の夫がいて子供もいてその人にどこも異常性はないが実際はその女性が異常人格者だったのである
でも社会では正常と認めているのである、そんな人も普通にいる、だからこの世の中、何が誰が異常なのか正常なのかもわからない
そして何が有能なのか無能なのかもぉわからない、あれだけ優秀だとしていた人が認知症で無能化したことには驚いた
そして800万も認知症になるとしたらみんな人間は無能化されのかという恐怖になる
人間はみんな最後に無能化されるのかとなるからだ

つまり人間とは人生でも先が読めない、今の不幸が実は幸福につながっているかもしれない、今の幸福が不幸につながっているかもしれない、つまり人間の先は誰も読めない、未来は誰も読めないのである
神のみが全能であり未来を知っている、人間は未来を知ることができない、人生の幸不幸もわからない、何が幸いするかしないかもわからない、こつこつ金をためても金はためられない、盗まれたとかある
何もしないのに親の遺産が入ったとかもある、金でも何か不確実なのである
いくら真面目に働いても金が必ずしも入らないのである、努力しても正当に報えられるともならない
社会自体には何か大きな逆転も起きてくる、だから上に立つものが安泰とはならない
そして何が起きるかわからない、上級国民でも78歳と90近くになって大きな災いに見舞われるのである
だからこうして人間で人生でもわからないからそこに神が関与しているのではないかともなる
人間の思い通りにならないからである、それで聖書では強い者が勝つとは限らないとしている
大国が勝つとは限らないのである、そういうことでも世界史でも神が関与しているのかとなる

「人生不可解なり」と華厳の滝で自殺した青年はまだ若い、本当に不可解だと思うのは老人になってからである、若い時はまだ経験がない、でも老人になるとそういう現実を具体的に見るから経験するからそうなる本当に人生は不可解なのだと老人になると実感する
70年も生きると何が起きるかわからないとういことである
それは予測できないものとして現れる、だから意外だった、人生も意外に終わったとうい人が多いのである



2019年06月04日

引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける (寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)


引きこもりをプラスに考える、精神の修行に向ける

(寺とか修道院とかは引きこもりの場だったのでは?)

引きこもりに興味があるのは自分自身がそうだったからである
なぜ自分がそうなったのか?
それは何度も言うように特殊な家庭環境でそれが許されたからである
例えば事務次官の40代の引きこもりが殺されたけど別に息子のことを許容して金を与えていれば何にも起こらないかもしれない、事件も起こらないかもしれない
ただ前にも書いたように小人閑居して不善を成すというのが普通にある
いかにそうして暇が与えられたとき別に引きこもりだけではない、この辺では原発避難者が暇になり毎日パチンコにギャンブルに興じて顰蹙をかったようになる
でももし引きこもりでも一人で学問とか芸術に精進していたらどうなるのか?
それが世間に認められないがそうしている人もいるからだ
それは自分自身だったとなる、それが無用の人となるのか?

ただニーチェでもヘルダーリンでも狂気にいたった、でもその思想とか詩は後世に残る素晴らしいものだったのである、ただなかなか認められなかったのである
ヘルダーリンの塔とかありそこに狂気になり閉じこもっていた
それはまさに「引きこもりの塔」だったのである
そこでも詩を書いていたしそれは素晴らしいものだったのである
だから狂気でもそれが狂気なのかともなる

引きこもりを考えると社会不適応者である、そういう人は大人しい人である、今回の川崎登戸殺人のようにな人は少ないのである
おそらく優しい気質の人、暴力的な人はまれである、むしろ暴力的とかになる人は反社会的なもの暴力団とかに入るとなる、そういう人は実は侍になったとかある 
それを言っている人がyoutubeにいた、引きこもりとは市役所でそういうイメージを作ったのだとそれも何かそう思えるのはあまりにも今回の殺人犯は引きこもりの人のイメージと違いすぎるのだ、どちらかいうとひ弱な人が優しい人が引きこもりになっているからだあれほどの暴力性がある、度胸があると感心するのもわかる、変な感心の仕方だけどそれほどに反社会的になりうるのか?
そして実際はカリタス学園には両親の代わりだった兄弟姉妹の二人が入っていたのである
とするとカリタス学園の特定の者を恨みから狙ったという推理もわかる、つまり無差別殺人ではなかったとなる
ではそれほどその一人の小学生を狙ったのかとなるとわからない、不可解だとなる
つまり引きこもりとは必ずも結びつかない、明確に生い立ちとかで恨みがある犯行である引きこもりの人でそうした明確な恨みをもっていないからである
だからこれは特殊であり引きこもり全般にはあてはまらない、私が問題にしているのは引きこもり全般の問題である

そもそも反社会性とは何なのか?宗教とかは極めて反社会的なものである
第一家庭を結婚を否定していること自体反社会的なのである
社会そのものを否定して始まっているのである
そういうものが簡単に受け入れられるだろうか?
受け入れられないから寺とか修道院に隔離して修行したりそこを居場所として世間の価値観とは違うものを追求したのである

不思議なのは禅宗である、禅宗だと悟りのためとか座禅を組んでしゃべらない、沈黙の修行をする、でもそういうことは社会生活したら世間ではできない
なぜなら世間では絶えず社交生活でもしゃべることを会社生活でも営業でもしゃべることを要求される、そして話術で巧みに相手をだまして物を売ったり銀行でも証券会社でもいたるところで口たくみに売りつける、それは詐欺とにているのである
投資信託でも他でもそういうことが多いのである
つまり社会生活するにはそうして嘘をつかねば生活できないとまでなっているのだ
マスコミとかでもそうである、そこでも実際はフィクニュースだとか嘘が横行している
その影響が大きすぎるからその人たちはむしろアナウンサーでもかえって口をつつしまねばならないのである
でも現実はその逆なのである、しゃべるのがうまい人でないと勤まらないのである

引きこもりの人は会社でもブラック会社となるとそこで働きたくないというのは当然なのである、それはわがままもあるがそういうことがある
社会とは働くとか会社でもどこでもそこは利益優先であり利益のためには金のために偽るということは当たり前なのである、それがそもそも社会である
そういう世間から出家するということで引きこもる場を作ったのが寺であり修道院だったともなる
そこでは妻帯はしなかったし禅僧のように無駄口をたたかないとか偽りを言わないとか
身・口・意を修めることをしたのである
社会で禅僧のようにしていたら奇異に見られる、ところが禅寺でそうしていたらあの人は修行しているとかなり喜捨もされていたのである
それを考えると奇妙なのである

だから引きこもりの人は本当は寺とか修道院に入った方がいいともなる
そこで社会に世間とかかわる必要がないからである、ということはそういう引きこもり傾向の人がそういう場に入っていたのかともなる
ブラック会社で働くのが嫌だとかなればそういう場所に行けばいいとなる
侍でも人殺しをするのが嫌だとなればそういう場所に行けばいいとなるからだ
ただ現代ではそういう場所が用意されていないからかもしれないともなる
第一寺は江戸時代には役所と同じであり修行の場ではなくなっていたからである
ただ今の引きこもりはそういう場には厳しいから耐えられないともなる

なぜ引きこもりが批判されるのか?それが社会に役立たないとされているからである
でも寺とか修道院で修行している人はそう見られていないのである
むしろ尊敬されて喜捨までされているのである
この相違は何なのか?これも不思議なのである
ただ一日ゲームをやっているとか何か昔の寺とか修道院で修行している人とは違うから批判されているとなる
自分自身は何かそうして引きこもり精神修養していたとなる
そして詩とか学問とか芸術を追求していたとなる
だから引きこもりがすべて悪いものとして働くことはないのである

それで団塊の世代がみんな猛烈な企業戦士となり全部会社員となったことが疑問だった
何か大学になるとすべてが自由になる、あまりの高校との相違に驚くのである
そこから自分は働くとういことができなくなったということもある
それで良く大学を文系を出た人たちがあんなのに会社にすべてを全精力をささげる人となったのが不思議だとなる
貧乏の時代だったから仕方がない面があるにしてもその中で1000人くらいは会社人間からはずれたものになっても良かったのである
不思議なのは貧乏な時代にあれだけの僧がいたのかということである
一遍の念仏宗の信者が松島で二千人いてそこを浄土して死んだとか言われる
どこでも僧がやたらと多かったのはなぜなのか?その人たちは生産に従事していないのである、貧乏な時代だったらそういう人をそんなに養えないと思うからである
今なら養える、もう働かない人が老人をふくめて三分の一とかになっているからだ
そういうことで引きこもりが100万いるということにもなる
別に食べることができるからそうなっているのである

こういうように歴史をふりかえれば引きこもりは有用なものとなりうる、それは世間的な意味ではない価値観からではない、それと対立する価値観から有用なのである
社会や世間にいる限り偽り言う口になる、そこで意が必ず汚れるのである
身・口・意を修めるには社会から引きこもるほかないのである
だからそういう場を作りそういう人の価値を認めることだとなる
それが昔は貧乏な時の方ができていたというのが不思議なのである
ただ正直現実はそうはならない、それを証明しているのが天才的アウトサイダーだったのである、遂には狂気にいたっているのが多いからである
そういう天才的人間は社会でも自然でも統合することに腐心したのである
それができないから統合失調症になったのである

つまり現代文明は統合できない世界だからそれを統合しようとしてできないから統合失調症になったのである
むしろ遅れた国ではヨ−ロッパでもブタペストか東欧だとなっていないとういことでわかる、一時的になっても回復していたのである
それは江戸時代でもそうした精神障害者は社会の中に受け入れられていたのである
現代ではそうした社会に適応できないのもにレッテルを張り病気にして隔離するのであるその現代文明で正常と見られる人も実は異常だったのである
異常な社会から文明から異常なものが生まれる、カルト教団などもそうである
ナチスもそうである、それが生まれたのは文明という異常なものから生まれたのであり現代文明だからこそ生まれたものなのである
正常に文明生活している人にはどれだけ異常な人たちがいるか、性格が歪んで異常人格化している人がいるか?そういう人は治療すべきなのだが放置されている
そういう人たちこそ隔離すべきだともなるができないから遂にはカルト教団のように手がつけられないものとなりナチスのようになり社会が席巻されて最悪のもの地獄と化すのである

おそらく現代では引きこもりを受け入れる受け皿がない、寺とか修道院がない、そういう所はまた昔の修行の場でもなくなっている、そこも社会的組織の一部と化している
そこで引きこもりが行く場所がないから家に引きこもるとなったのかもしれない
自分自身はそうだった、ただ自分自身は特殊な家庭環境で恵まれたから60まで引きこもりだったのである、家の人に責められることが全くなかったからである
そしてかえって殿様のように自分に何でもしてくれたのである
そこに小人閑居して不善を成すともなったのである
今になったら誰も何もしてくれない、金をくれあとはなにもしないとなっているだけである
誰も思ってくれる人もいない、それもカルマだったとなる

修行としての人生

この世は快楽の場ではない
修行の場と心得よ
口さがなき人
汝を鞭打つ者
汝を虐げる者
汝を蔑む者
冷酷な仕打ち
汝はひたすら耐えよ
この世は修行の場なり
汝の精神を鍛える場なり
鉄の意志もて耐えよ
それぞれに生い立ち環境が違う
不遇な人よ、恨むとて解決せず
この世の理不尽、意にそわぬこと
常にこの世にはある
ただこの世は修行の場なり
内なる力を充実させよ!
深く大地に木の如く根を張れ
内なる力によって横暴に打ち勝つべし

引きこもりの性格としてはビジネス社会であれ現代に会わない人でありどちらかというと内向的な人が多いだろう
現代では外向的なものの価値が評価されて内向的なものの価値が評価されない時代でもある
宗教とは内向的なものであり芸術もそういうものがある
でも内向的なものはビジネス社会では嫌われということもある
ただ正直すべてなんでも外向的なものがいいとはならないしそれで分けることもできない今の社会は内向的なものの価値を認めないということがある
だから不思議なのはなぜ禅寺で座禅をして沈黙の修行をしているのか?
それは内面を充実させるためなのである、でも今のビジネス社会なら無駄だ、何の価値があるのだとなってしまうのである

何かこれだけ引きこもりが生まれた背景はいろいろあっても内向的な人の求める価値が認められない、そういうことが背景にある
いづれにしろ外向的であれ内向的であれいかなる社会であれこの世は修行の場なのである仕事でも修行でありお勤めである、でももし勤めだとしたら何かモラルに反するものがあれば勤められないともなる
それで本当に今の社会に文明に適応することが人間の道なのか?
そうでないとしたら別な場所で修行する場を提供すべきだとなるのである
そういう場がないから家庭に引きこもるとなってしまう
何か変な理屈だとされるかもしれないがやはり人間は歴史的にまた相対的に見ると見えるものがある、今からふりかえるとなぜあんなに貧乏な時代に生産にたずさわらない僧が多かったとういことが謎になる、今のように仕事しない人が三分の一膨大にいる時代ならわかる、かえってそうでない時代が僧が多かったから謎だとなるのである

2019年06月05日

高齢化社会と車社会の暗黒(高齢者の事故が増える)


高齢化社会と車社会の暗黒(高齢者の事故が増える)


1トン以上の鉄の塊が身近な生活環境のもとで時速百数十Kmも容易に加速することができる危険な代物なのだから。最近は高齢者用の携帯電話が普及されているが、自動車に高齢者用とは聞かない。運転免許をもち、実際に運転している高齢者の構成割合は高いのに、車には沢山の車種、色などの種類があるにも関わらず高齢者に適した車はないのが不思議である。

高齢化社会と自動車のあり方


人口10万人あたりの事故件数の多い順に並んでおり、日本は163位だ。これを少ない順から並べて、車の保有率が少なそうな国を除いて並び直すと次のようになる。

スウェーデン:3.0人
イギリス:3.7人
オランダ:3.9人
ノルウェー:4.3人
スイス:4.3人
イスラエル:4.7人
ドイツ:4.7人
アイルランド:4.7人
デンマーク:4.7人
フィンランド:5.1人
シンガポール:5.1人
日本:5.2人

欧州社会では、高齢者は自分自身が危険と感じたら自主的に運転免許を手放す人が多くなっています。そして、自主返納へと導く社会環境が整っています。その大前提として、交通社会において、自動車が決して優遇されていないことがあげられます。歩行者、自転車、公共交通機関、そして自動車は、交通参加者として対等なのです

自動車と路面電車が遭遇する場面では、基本的に路面電車に優先権が与えられています自動車を運転するドライバーに対して、年齢を問わず、厳しい条件が課されるため、これを超えることが難しいと自ら感じたときには、静かに身を引いていると言えます。


車に乗っていない人は車のことがわからない、でも最近駅で免許を返納している老人に何人かあっている、その人たちは電車の乗り方すらわからなくなっている
まずそういう人が多いということはそれだけ車社会になっているからなのだ
電車をほとんど利用せずに80歳とかなってしまったのである

ただ特別日本が交通事故が多いかというとそうでもない、アメリカは交通事故が少ないのか?車社会のアメリカがこの順位に入っていない
アメリカは広い国だから道路も広いから事故が起こりにくいのか?
どちらかというと国土が狭い国に事故が多いのか?
シンガポールなどは狭いのだから事故が起こりやすいとなる

とにかく車社会なのに車を利用していなことはその人は社会的弱者となる
それで近くにあったモスバーガーを20年とかそこが車専用として見ていて利用しないで大損だった、あの辺に喫茶店がなかったからである
その他車がないことで社会がわからなくなることがある
保険のことなどもわからないと常識として知ることも知らないのである
そして車がないことは就職すらできないとなる
私は別に仕事していないから車がなくても過ごせた、一万の町でも街内に住んでいるから車がなくても不便というものでもなかった
でも買い物にするにも田舎では街から離れると不便になる
自転車で買い物にするにも不便になる、だから一人一台車を持っているのである
通勤するのにも車が必要なのである

車社会で生活していれば車がない人は大きなハンディキャップを背負うことになる
普通の社会生活すらできないともなる、でも車というのは電車などと比べると本当に危険なものである、交通事故の現場を見ればわかる
コンクリートの塀に直撃した車を見ただけでその破壊力には恐怖する

1トン以上の鉄の塊が身近な生活環境のもとで時速百数十Kmも容易に加速することができる危険な代物なのだから

車自体が相当な凶器となる、車社会の暗黒面は本当はいろいろあるがプラスの面が大きいのでやめられないのである、車社会の暗黒面は津波の被害でも現れた
車で注目されていなかったのが車は場所をとる、空間の占有率が高いのである
電車を見ればわかる電車だったら百人であれ乗っても空間の占有率は少ない
でも車に1人一台で百人利用すると百台でありそれが道路をしめるとどうなるのか?
百台がが連なるのである、それで渋滞になって走れなくなり津浪で死んだ人が多くいた
それは車社会の危険な盲点が現れたとなる

自動車が決して優遇されていないことがあげられます。歩行者、自転車、公共交通機関、
そして自動車は、交通参加者として対等なのです

ヨ−ロッパではそうなっているが日本ではなっていない
ヨ−ロッパでは自転車道路も整備されているからそこを走れば安全なのである
でも日本ではないから危険になる、日本の道路は狭いから自転車も危険になる
でも日本ではすべて車優先の社会である
そして自転車に乗っていていて一番危険を感じるのは後ろから猛スピードで来る車であるそれは見えないから危険になるのだ
また車から見ると逆に急に自転車は道を横切るから目障りになる
それで車の人に怒鳴られたり注意されたり嫌がられているのである
日本では本当に車優先社会であり歩行者とか自転車とか目障りなものにされているのである、ヨ−ロッパではそうでないとするとき日本はなぜこれほど狭い国土なのに車が優先されているのか?
それは車が国の主要産業であり車を外国に売るから企業の方針でそうなっているのかともみる、なぜなら日本は会社社会であり会社の要求が優先される社会だからである
政治より財界の力が強くその言いなりになる、車が売れないとまずいとなれば国内でも車優先社会になるのである

自分自身はもともと車は嫌いだった、なぜなら車は自然に風景に溶け込まないからということもあった、突然目の前を猛スピードで走る、その時風景は乱される
また騒音も嫌だった、その点なぜ電車には鉄道には魅かれるかというと風景にとけこむからである、何か人間的なものがあるからだ
それで駅でボランティアしても見送りしたり何か情があるのが駅だと思った
車にはそういうものがないのである、またマイカーであり閉鎖された個人の空間となっているから車の人とは対話もない、誰が乗っているかもわからないからだ

つまり何か車はキレル道具である、キレルというとき人間と人間が通じあえないのである突然猛スピードで馬鹿野郎とか叫んで去ってゆく、そういう乗り物なのである
キレルとか情がないとかいう時車社会が影響していることは確かである
車によっては情ははぐくまれないのである、そういうことでも非情化社会になったともなる、つまり車社会では相手を思いやるということができないからである
それで私は自転車の人とは良く話するのである
最近でもトラック運転手だった人が足を悪くして車に乗れなくなり自転車に乗り始めた
意外と遠くまで行っているなと見ている
自転車に乗る人とは仲間になりやすいのである、でもバイクでも仲間にはなれないのである、ただバイクに乗る人はバイクを通して仲間になりやすいのである
だから車社会に住んでいると車を持たない人は仲間はずれにまでなる

だからこそ高齢者が車を手放せないのである、そして老人になると年寄りの冷や水とかいうけどそれは今までしたことができると思い込むのである
それは習慣の惰性ともなる、習慣的にしてきたことは年とっても体が衰えてもできると思うのである、またそうして車であれバイクであれ自転車であれそれに乗った快感を覚えたものはそれをやめることができないともなる
私自身でも自転車に乗れなくなったら死にたくもなるから車でも同じになる
車社会で車で生活してきた人たちが車に乗れなくなることは社会人としてまともに生きれなくなるとまでなるのが車社会なのである

そして免許を返納して失敗したという80歳の人がいたけど車が乗れないことが日常の社会生活に支障になる、田舎だと買い物すらできないとなる
その代りの交通など今はない、バスは一日二本くらいしか出てない、鉄道で不便なのは駅からの足がない、バスが出ていない、出ていても二時間に一回くらいだとか相馬市の人も言っていた、街から離れるとそうなる、でもタクシーだと高くつくのである
街内だったら600円だけど離れとすぐに倍にもなるからだ
つまり代替えする足がないのである
こうなったのも高齢化社会のマイナス面がいろいろな所に現れてきたためである

高齢化社会には車は向いていない

ここに車社会のマイナス面が露骨に現れてきたのである、だから何か高齢者向きの車が必要だというのもそうである、ところが日本ではそういう車はないという
自動運転などが取りざたされるがまだ先である
高齢者向きの車が販売されないとうのも変なのである
今度買ったヤマハの電動自転車はYPJ-XCマウテンバイクだから若者向きだと最初思っていた
でも全然違っていた、体力なくても楽に走れる優れものだったのである
この自転車だったら体力なくても走れるなと乗るのが楽しくなったのである
自転車でも今まで乗っていたらやめられないのである、自転車に乗れなくなったら恐怖だとなる、これを紹介したら脳卒中から回復した人も買って乗るようになった
おそらく車ももっているが危険にもなるから乗らないのか、ただ運動用に使っている

いづれにしろこうして高齢化社会になると車から自転車とか電車を利用する人が増えてきているのだ、技術的に自転車は進歩している
でも何か高齢化社会に車は適応しにくいのである、もともと車は若者向きだったからである、第一猛スピードで走るのもそうである、ゆっくり走れないものだからである
車間距離とかあり同じスピードに合わせなければならない、だからゆっくりは走れない
自転車なら別に早くも遅くも走れるし景色が楽しめるのである
そして田舎だと歩道を走れるから安全だとなる、ただ自転車はどうしても車社会では目障りになる、自転車から見ると車は危険なのである
つまり車は高齢化社会になり合わなくなったのである
何か高齢化社会では若者向きのものが合わなくなる、スマホでも字が小さいから目が疲れるしめんどうだからしたくないとか何かと今の社会に合わなくなる
それがみんな悪いというのではなくいい方に働けば住みよい社会になる
何か多少不便でもスローな社会で余裕ある社会になる

正直車は減らすべきだと思う、車をもちすぎて増えすぎたのである
車をいらないとできない、ただ車社会一辺倒の時代は終わったのである
だからヨ−ロッパでは車に対しても成熟社会になっていると見た
日本はなぜ効率第一で余裕がない社会なのである、それはヨ−ロッパのように成熟していないからだともなる、ヨ−ロッパでは騒音にうるさい食べる時だって音をたてないようにするのがマナーである、何かそういう点日本はまだ後進国なのかとなる
社会とか文化が成熟していないのである
だから技術があっても車というものに対して制御できない社会だとなる
技術を社会にうまく適合できない社会だとなる
そうなると車優先になりそれ以外のものは無視されるのである
歩行者でも自転車でも全く考慮されない社会になってんることがそれを示している
でも高齢化社会になると運転できなくなるから車社会にブレーキがかかるとういことがある、それは悪いとはならないのである

いづれにしろ車をもたない人は何か劣等者だとか能力がないとか見ているというのも異常である
それもあまりにも車優先の社会にしてしまったからである
その弊害が高齢化社会で出て来たのである、これもカルマであり自業自得である
車をもたない人がどれだけ肩身の狭い思いをしていたか車をもっている人にはわからない
でも車を運転できないとなりそのことを高齢化社会で老人は痛切に感じることになったのである
技術は必ずいい面と悪い面に働く、なんでもそうだけどそれが高齢化社会で現れたのである


posted by 老鶯 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

熊沢元農水事務次官の引きこもりの息子の殺人の深層 (ここにもカルマがあったのか?)


熊沢元農水事務次官の引きこもりの息子の殺人の深層

(ここにもカルマがあったのか?)

「最たるものは約2年に1度、抜き打ちで行われる金融検査の日程と支店の特定です。とくに数十兆円もの不良債権を抱えた大手金融機関は、多くの違法スレスレな案件を抱えていました。それが発覚すれば営業停止など、経営を直撃する厳しい処分が待っていました」

 酒色に溺れる官僚と手段を選ばず情報入手に奔走する金融マン。ズブズブの関係の両者に、司直のメスが入るのは時間の問題だった

 
 ノーパンしゃぶしゃぶの顧客名簿
  
農林水産省 
高橋 政行 (事務次官)東  久雄 (審議官) 
堤  秀隆 (官房長)石原  葵 (総務審議官) 
鈴木 信毅 (技術総括審議官)加藤  孝 (審議官) 
小畑 勝裕 (審議官)小高 良彦 (審議官) 
竹中 美晴 (審議官)西藤 久三 (審議官) 
田原 文夫 (企画課長)上谷 敏博 (情報化対策室長) 
城  知晴 (秘書課長)関川 和孝 (総務課長) 
須賀田 菊仁(文書課長) 
熊澤 英昭 (経済局長)←うおおおおおおお 
林  正徳 (総務課長) 
佐藤 正明 (調整課長) 
白須 敏朗 (金融課長) 
宮本 昌二 (国際部長) 
山本  徹 (構造改善局長) 
岡本 芳郎 (次長) 
川村 秀三郎(総務課長) 
小林 新一 (農政部長) 
石原 一郎 (農政課長) 
高木  賢 (農産園芸局長) 
高橋 徳一 (総務課長) 
皆川 芳嗣 (企画課長) 
坂野 雅敏 (農産課長) 
中須 勇雄 (畜産局長) 
梅津 準士 (畜産課長) 
本田 浩次 (食品流通局長) 
田中  誠 (総務課長) 
上原 勝美 (企画課長)

BSE問題で引責辞任、退職金8874万円満額支給、天下り…息子殺人容疑で逮捕の元農水次官

こんなことしていたの、何か事務次官は製造責任果たしたから偉いとかいうけどこれも何なのだろうか?
何かそもそも官僚というのも汚れている、それはそれだけの権力をもっているから金融関係でも深くかかわる、だから最近は地銀とかでも信用できなくなった
地銀などはもう追い込まれているから自分たちの利益しか考えられくなっている
そういう状態にあるのを知らなかった、地銀がなくなるんだといういうときそういう所にはかかわるべきでなかったとなるが遅かったとなる

何か人間は世間はブラックなのかとみる、官僚からしてこういう状態なのである
それは原発事故でも官僚は何の役目もなくただ東電の言いなりになって安全策を講じなかった、ただ天下り先として見ていただけだとなる
それで保安院は不安院だったとしている
何かこうした腐敗が底流にあり大事故につながった要因だともなる
「安全神話」を作ったのは官僚が大きな権力をもってそうした
もちろん政治家でもそうだった、その利権が大きいからそうなった
東電に天下りしている官僚が多いからである、そこに癒着が生まれていた
それはどこにでもあるとなればそうである、でも国のトップがそうだと国民は何を信じいいかわからなくなる
何か官僚とは犯罪者だとか言う本も出ていた、これも何なのだろうとなる
トップがモラルを欠けた時下々もモラルが喪失するからである
第一検察関係が東電に天下りしているのも大問題なのである
利益で東電と結びついていたのである

いづれにしろ今回の事件は何なのだろうと思う
屑息子というけどこの事務次官がそんなに優れた人だったのか?
その詳細はわからないにしろ親自身が息子を屑息子として殺せる者だったのか?
その親があってその子がありともなる
この人の場合、別に殺さなくてもいいのである、金銭的に生活にも困らないとしたら何をしようが他人に害を与えなければいいとなる

ただ必ず引きこもりは「小人閑居して不善を成す」になる、それは経験からわかる
それで川崎登戸事件で親が恐れたこともわかる
ただ息子を殺すことまでできるのか?それをほめる人がいるのも納得いかないともなる
この不詳の息子でもかえって親が死んだり介護になったりすると目覚める
そういう立場に追い込まれると目覚めるということがある
44歳にしてもまだ目覚めることはありえたのである
詳細はわからないにしても高齢化社会では何か親の跡を継ぐことが遅くなるのである
60歳だってみんな親が80過ぎて生きているからである、そういう社会に変化しているのである、それで新陳代謝がなくなり社会が停滞している負の面がでている
とにかく時代劇でもドラ息子が親が死んだりして目覚めて立ち直っているのを良く見る
だから今本当に殺す必要があったのか?それが疑問なのだがなかなかその家の事情には踏み入れない、まず家庭環境というのはみんな複雑なのである
私の家でも外からは絶対に理解できない家族だったからである

得てして、社会的地位が高く、固い仕事をしている人が親だと、とにかく家庭内の問題を隠そうとして、相談にも来なければ、来ても変わることができません。
時々「息子の命と、あなたの世間体とどっちが大事ですか?」と、私なんぞブチ切れる時があります。

こういうことはある、あまりにも社会的地位が高すぎたのである
だから庶民のように気楽に相談もできない、まず全然プライドもない人を知っている
頭を下げて畳にこすりつけてお願いする、借金とかでもそうである
そんなことを地位ある人はできない、妻でもできないのである
普通の人だってそこまでできない、だからお嬢さん育ちだと危難に対処できなくなるのだ
ただこういうことにもカルマが関係しているのだろうか?

その人の一生のカルマが関係してそうした家の問題でも苦しみとして現れてくるのか?
自分自身の家は介護とかでそうなった、何か親の因果をカルマとして受け継いだとなる
でも正直愚母を殴ったりは普通はしない、それは思春期だとある
自分自身もあった、自分は学校に適応できない性格だし我がままだった
でも親元を大学の時離れたのが良かったのである
その後自分が親を殴ったことで自責の念に罪の意識にかられた
自分自身も何か人間的にまともでなかった、不良ではないが何か性格的に弱いとかあったためだとなる 

普通はどうであれ親がいろいろあっても普通の親だったらそうはならない
ただ親を憎んでいる人もいるがそれは例外的なものである
今の時代子供を虐待して死なせることまであるからもう家族自体の崩壊現象が起きているのかともなる、動物以下だと憤る人もいるのがわかる
親に迷惑かけたとか必死になって介護している人もいた
やはりそういう人はいる、でも40過ぎたらそういうことで自責の念にかられるのが普通である、だから親が認知症になっても愛情をもって介護しているのをプログで報告していたのである 

ただ今の時代ならゲームしていることは不自然ではない、別に40歳過ぎてゲームしていても漫画を読んでいても不思議ではないし異常ではない
では写真が趣味の人や鉄道のNゲージが趣味の人がいてもその人が異常とはならない
現代は趣味に生きる時代だからでもある、趣味が高じてプロになる人もいるし遊びとして追求するものがある、芸術ならそういうことがある
ゲームであれ漫画であれそれは絵画とも変わりないのである
絵を描いているから正常であり漫画だから異常だとはならないのである
現代は個々人で趣味を究める時代になっているからである
別に老人になって撮り鉄でも異常ではない、それでプロになり生活する人もいる
その人は写真の趣味なだけである、写真の趣味の人が一番多いからである
それが鉄道マニアであ撮り鉄だから異常だとはならないのである
鉄道は風景にとけこむから芸術化するのである   
でも芸術家には何か社会性がなく社会的常識がない人が普通にいる
ベ―トベンもそうだったらしい、何か絵とか音楽とかしかわからなくなるのだ
それも異常だともなるからだ

ただこれもあくまでも趣味でありこれで金を稼ぐとなるとまた別問題でありフリーランスとか老後に悲惨になっている
何か自分ですべて自由に決めるとか自由とかいうが自分の存在の意味すらわからなくなっているともなる
正直この息子は別に引きこもりでもいいが精神的未熟のままに大人になった
ただ自分自身も引きこもりだった時、そういう面があった
何かやはり普通の社会生活をしない人はおかしくなる、社会的常識もなくなる
でも愚母を殴って快感だったとはならない、それは不愉快なものとして罪の意識として40頃になればふりかえる、それで自責の念にかられるのである
何かこの息子は統合失調症だったとか異常性があったのかもしれない
それでも自分自身も変な方向に行ったから社会から離れるとおかしな方向に行きやすいのである

会社に行く。特定の界隈の人と定期的に接する。これらの行為は、自分の定義を確認する行為でもあったのだ

つまりあまりにも自由ということは不自由になる逆説がまたここに生まれていた、不自由があり自由がある、不自由がなければ自由もないとなるから人間は複雑なのである、本当にかえって自由に生きることがむずかしいことなのである

アウトサイダーとかなると相当に優れた人でないとなれないだろう
天才でも狂気にいたったことでもわかる、ニーチェの超人思想でもそうである
だから今自分にしてもこれだけの多くの人が引きこもりとなり社会から隔離されるというか離脱していることはそれでまともな感覚を維持できるのかとなる
この息子は親も異様なものとモンスターと感じたのだろう
手に負いなくなったのである、ただこうしした社会から離れた人でも優秀な人は優秀である、
それは本当に百万人に1人とかなるだろう
キリストとか釈迦とかソクラテスなどはそういう人だったとなる
そんなレベルまでになることは普通は誰もなれないのである
たから何かおかしな方向に行く方が多いのである

では社会人として普通に働いている人が正常かというとそうではない
現実この事務次官自体が高級官僚としていかがわしいものだったのである
お前ら引きこもりは屑だとか生きるに値しないとか責めるがそれで俺たちは違うと比べて悦に入るのもどうかとなる
お前らはただの社会のロボットにすぎないんだよ、社畜なんだよと自らも言っているのだから社会で働いている人が結婚して子供がいるだけで自慢できるのかとなる
そういうことは昔から言っていた、そういう人でも異常人格者などいくつらでもいる
モラルに反している人など官僚自体が普通にいるということである
お前らはただ社会の平凡なロボットに過ぎないんだなるから引きこもりを責めるがお前らもそんなに責めるほど偉いのかともみる
いづれにしろネットでは何か深い議論はできない、表面的なことでみんな終わっているから自分自身は議論は今したくない、結局不毛だからである
例えば武田邦彦氏とかだと深い議論ができるが他はできない
何か表面的であり掘り下げて議論ができないからである

時事問題の深層というとき私はまさに深層を追求しているのである
だから一言二言を発言しても深層には至らないから議論はしないのである
誰かプログで長い文で批判する者があれば検討するが今は一言二言の発言では相手にしたくないのである
時事問題でもこれも何かその時々に常に事件が起きるしまた忘れられる
でもそれを歴史的にとか幅広い見地から検討する
そうするとその起きてくることでも何か人間の普遍的な問題としてクローズアップするのである
ただ歴史的には引きこもりがこれだけいる時代はなかった
だから引きこもりとは何なのだろうとなるが自分自身が引きこもりだったから理解するともなる、普通に会社に勤めていた人は理解できないからである
そこで深い議論にもならない、ただ引きこもりは無駄だとか始末しろとか言いたい放題になる、とにかく議論を深められないのがネットの弱点なのである


posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年06月06日

野馬追いの起源 (馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


野馬追いの起源

(馬に乗る人侍でありそれに従う人が御徒町(おかちまち)とかに住む)


この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士でしたから、江戸の中頃になると彼らの生活は苦しくなり、さまざまな内職にはげみました。中でも有名なのが屋敷の庭を利用した朝顔の栽培です。今でも行われている入谷の朝顔市のために、最初に栽培しはじめたのは御徒町だったといわれています。


江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。 御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す 。 なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。


「御徒(おかち)」「御徒士(おかち)」「徒侍(かちざむらい)」「徒組(かちぐみ)」「歩行衆(かちしゅう)」
と呼ばれる幕臣が住んでいたところ、つまり「御徒士」たちの社宅があったのが、現在の御徒町あたりだと言われています。
下級武士で、徒歩で行列の先導などを務めていたそうです。

召馬預が二百俵級の旗本の役だと前回説明しました。ここで、二百俵(二百石も同じ)級の旗本の生活を整理してみましょう。

@屋敷の門は長屋門で片側に番所付だ。広さは六百坪くらいと、かなり広い。
A生活はぎりぎりで苦しかった。侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人の計5人を使用人としていつでも動員できるようにしておかなければならなかったが、実際は馬を飼っている者は少なく、登城時に不可欠な槍持と草履取以外は使わなかった。

 武装することの根本に、やっぱり馬がある。武士はね、馬に乗る資格のある者(侍)と資格のない者、という区別が、江戸時代も、もっと前も、ずっとある。その、馬に乗る武者が、戦力の中核で、それに歩兵や従卒が従っているのが、武士の戦闘集団のもともとの姿だった。
 
なぜ野馬追い祭りがここに残っているのだろうか?
そして野馬追い祭りが馬の祭りだいうことである、馬なくしてありえない祭りである
これが今の時代と何の関係があるのかとなるとあった

馬をもっている人と馬をもっていない人の身分差別だったのである、侍はそもそも馬に乗って戦う人だった、馬をもたなければ侍とはなれなかったのである
足軽というのは馬をもっていない、だから歩くほかない、つまり馬を持つ人と馬を持たない人で身分差があった、だから野馬追い祭り馬を持っている人の侍の祭りだとなる
馬を飼うには費用がかかる、だから専用に馬を飼う人を雇うとかなる
野馬追いでもそうである、馬を野馬追いのために飼っていると金がかかるのである
だから野馬追いに出る人は金がかかるから困るがどうしても出たいとなって無理しているなぜ出たいとかなると馬に乗ると昔の侍になり偉くなった気分になれからである
馬に乗るとそのこと自体目上になる、馬上から庶民を見下ろすことになるからだ
実際に野馬追い祭りでは行列の前を横切るなとか二階から見るなとか禁止事項がある
それはやはり侍は身分的に上だということを示すからである

ともかくこれは今の時代と関係ないのかと思ったらあった
現代では車がない人は一段劣った人と見られている、そして何事も車優先の車社会であるそれで歩行者と自転車は目障りにされているのだ
それはつくづく自転車とか歩行者は車がない人は身分に差があるとなる
それで御徒町(おかちまち)とあるのはまさに馬を持たない人たちが歩くことしかできない人たち住んだ場所でありそこに明確な身分差があったのである
足軽というのもそうである、足が軽い人たちというのはまさに足を使って馬に乗っている侍についてゆく人だったのである

だから歴史とはつくづく継続しているのである、第一野馬追いと車社会が関係しているとは思わないだろう、でも関係していた
私は車がないから自転車の人と良く話する、この自転車はどうだこうだとか話する
自転車を通じて仲間になりやすいのである、車を持っている人も常に車の話になるのとにている、昔なら馬をもっている侍は常に馬の話になるのと同じなのである
馬というのはそれだけ人間の生活を左右しした、歴史も左右したのである
それでモンゴルは馬で常に移動したからそれがそのまま軍隊となりジンギスーハーンの帝国が生まれたのである、また昔の始皇帝が生まれた長安(西安)に兵馬俑の馬の軍隊が発見されたのである、それはまさに馬があってこそ始皇帝も中国を統一できたとなるからだ

とにかく明確に馬を持っている人が侍であり馬を持たない人は馬を持っている人に従うというのが武士の時代だったのである、だから歴史的にここを抑えておかないと野馬追いとは何なのだろうとなる
馬の祭りだということは馬を持っている人が社会を支配したからそうなっていたのであるそれは世界史的にもそうである、だから日本でも騎馬民族征服説が生まれたのである
馬と車が関係ないようで関係していたのである
馬の代わりになったのが車だともなるからだ、それだけ車社会ということは車が社会を変えてしまったのである、お前は車がない車に乗れないということは御徒町とかに住み足軽だということになるからだ

ただ馬とは何なのか理解できなくなっている、馬と直接接するのは競馬だけになったからである、野馬追いでも競走馬を使っている、それ皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人は相当に馬に興味があるからしげしげと見ていたのである
今は競馬を通じてしか馬に興味をもてないのである
だから歴史的に馬が人間の生活を左右したのか理解できなくなっているのだ
野馬追いの時だけ馬に興味を持つのである、でもあとは馬とは関係ないのである
競馬だけが馬と関係している、そこに何か野馬追いでも盛り上がらない理由だとなる

ともかく今のことでも歴史的にみると何か見えてくるのもがある
現代と江戸時代なども関係ないということにはならないのである
やはり人間の生活はつくづく継続であり関係している、歴史的な目で見ることが何でも必要だということである

posted by 老鶯 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

今までの日本人の労働観は通用しない (労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)


今までの日本人の労働観は通用しない

(労働する価値とか意味が見いだせなくなっている)
   

ニートは憲法違反なのか?
(誰でも労働したいがそのしたい労働ができない) 


「よくわからない」からとりあえずやってみる。
実際にやってみないと、労働が何であるかはわからない(やってもよくわからない)。



laborー(名) 労働 (=labour) laborious  (形) 骨の折れる

ラテン語系の labor を見ると、これには古代の奴隷制を連想させる苦役のイメージが色濃く付きまとっている。要するに、堪え忍ぶ苦しい仕事の意味合いが強い。労使関係、労働運動、革命運動等の文脈における「労働」は基本的に labor である。ちなみにドイツ語の Arbeit の語源的意味も 辛苦、困苦であり、フランス語の travail にいたっては責苦、拷問という恐ろしい意味が語源にある。この系列では、働くことは「苦」なのである
一方、ゲルマン語系の work の方にはあまりマイナス・イメージはない。同語源のドイツ語 wirken にも見られるように、その意味するところは何らかの自主的・能動的な活動をなすということである。その活動の結果としての作品が名詞としての work(Werk)である

なぜ労働を問うのかとなると人間日々働いているからである、毎日どこかで日々働いている、それが社会だからである、労働無くして人間もありえないとなるからだ
ただ労働とは何かとなるとそれが本当にむずかしい、いろいろいくらでも理屈が言えるからである
労働を苦役としてとらえることはその起源も古い、つまりエデンの園から神がアダムを追い出して労働させられるようになった、それがlabor(苦役)なのである
罰として労働をさせられているのである
エデンの園では苦役の労働はない、でも何もしていなというのではない、苦役の労働がないだけだった、でも一日何していたのだろうとはなる
何かいろいろな花が咲いていてそれに名前をつけるとか知的な活動はしていたともいう
でも苦役としての労働はなかったのである

労働というときその要素は様々であり正直一つのものとして語れることはできない
労働は多様でありその価値も多様だからである、時と場合によっても意味と価値が違ってくるからである、つまり労働は何かと定義することは不可能だとなる

多様な価値観をふくむ人間的活動となる

労働をみるとき欠かせないのは他者のためにとか家族のためにとか地域のためにとか国家のためにとか自分自身のためではないものが必ずそこにある
そもそも働くとは端(はた)を楽にするということから出ている言葉である
それは身近な人が働いていて苦労しているから楽にしたいとして生まれた言葉である
働くとは必ず家族であれ村であれ地域であれ国家であれ広く関係していて労働が語られるのはそのためである
だからつくづく労働は何か語りつくせないし定義もできないしその意味と価値もすべて語りえないのである

基本的には労働しなければ今日の食べ物がえられないから労働するとなる
腹減ったからに狩出て獲物をとらえる、農業になると米や野菜を作る、それはある程度の日数がかかる一か月とかもかかるとなるとそこに計画性が生まれる
それで農業となる暦が大事になりいつ種をまくとか時季が大事になる
それを基にして文化化したのが俳句の季語だとなる

民族的に働くということの意味も価値もとらえ方も違う、そもそも大陸の国を見る時大事なのは日本のように海に囲まれていないから民族同士の争いがたりない、すると戦争で負けたものは奴隷とされる、その奴隷は戦争で皆殺しにされていたが温情で奴隷として使ってやるとなったのである、そこに人権の進歩があったとみるのも歴史である
またなぜ貴族と平民とかに別れるのか、階級制があるのかというのも民族同士が戦争して優劣を決めるからである、それで面白いのはネパールである
インドからカースト制がもたらされているからいろいろ人種でカースト制が作られる
それが外国人にも適応されている、日本人もカースト制に入りどういう位置にあるか決められているというのも奇妙である
それは民族が混交してくるとどうしてもその差で色分けしてカースト制が生まれていたのである、だから外国をみるときこのことが背景にあることを知らなければならない
日本では特殊であり日本は階級制もない平等な国なのは日本人は早い時期に人種が混交してみんな日本人になったからである
そういう歴史や文化の差があるということを知らねばならない
つまり日本は大陸と比べるとありえない特殊な国柄を歴史を文化を作ってきた国になる
敵味方塚がなるのも日本だけである、だから中国人が敵の墓まで作っているのが理解できないのである
それは日本人は一つの民族であり争っても仲間だということでそうなっているのである
中国人は敵の墓まで暴いて罰しているのだからそこが歴史と文化の大きな相違なのである

外国では戦争に勝てば負けた人は奴隷にされる、そして本当はみな殺しにするのだが温情で活かすが奴隷として使われるとなったのである
その奴隷に働かせて貴族が労働しない階級制が生まれた、だから奴隷を使うことに罪悪感がないのである、日本ではそうはならない、そういう歴史がないためなのである
労働が苦役とするとき奴隷にやらせればいいという労働観になる、そして労働しないから暇が生まれ学問が生まれたとなる
なぜならスクールとはスコーレであり暇の意味だからである、それは奴隷がいたことにより獲得されたのである
今でも働く者は奴隷だ、社畜だとかになる、自らそういうものもいる
ということは戦争に負けたわけではないが働かされているという感覚になる、では苦役でも働いているのか?
それは戦争に負けたからだとなるが今ではまた違った意味でそう強いられているとなる

この奴隷労働をふりかえるとき常に労働にはそういう要素がある、働かせられているとは強いられているのだから奴隷なのである
もし働かなくてもいいとしたら働かないからである、奴隷だから働かさせられるのである
奴隷でなくても借金したりすると嫌でも働かせられる、借金の奴隷となるのである、それは苦役でしかないのである

ともかく働くことにはいろいろな要素があるから一概には言えない

今何が働くことで問題になっているのか?
それは働くことが生きがいが感じられないと何か意味を価値を感じられないとか労働疎外が起きているためである
村とかの共同体があれば村を維持するための労働となりそこに労働疎外は起きない、苦役でもそこに労働の価値と意味を感じるからである、溜池でも共同で作るという時それと村を維持するためにみんなで働かねばならないものだからである
そういう目的が明確でありその労働の意味と価値を求めることをしなくても明確だからである
だから労働が苦役でもあってもそのことで悩まないのである、ただ苦しいから楽でありたいというのはいつでもある
今の労働は何か労働自体がそうした意味と価値が感じられないのである
その例だ非正規の労働なのである
正社員なら高度成長時代の会社なら終身雇用であり会社が村のようになっていたのである
会社とは社(やしろ)に会すだからまさに村なのである
村でも終身雇用だからである、そういうことで働くことは会社のためでありそれは村のためだということに通していたのである
そこに共同体があり共同体を維持するために働いていた協働していたのである
  
Love & Freedomの非正規労働者の絶望は何か現代の労働を象徴しているのである

彼は働くも
妻もなく子もなく
親もなく親類もいない
ただ一人働く
今日の糊口をしのぐために
それは会社のためでもない
誰かのためでもない
社会のためでもない
孤立して今日一日分の金をもらう
働いたからと人からの感謝もない
ただ一日分の食べる住む金をもらう
そこに協同で働くことがない
孤立した労働であり
誰からの感謝もない労働
ただ一日分の賃金をもらう
労働の価値はそれだけである

非正規労働者が会社のためという動機がない、だから働く仲間がいない、決まった場所で働くわけでもない、どこに派遣されるかもわからない、日々違った場所に派遣されるからである
何か達成感もない、そして最後は孤独死だとなるだけであり捨てられるだけだとなる
そこには労働の共同性が奪われた孤立した労働だともなる
無数のパーツ化した分解された労働でありアトム化された人間となる
その個々の労働につながりが見いだせないのである
そうなるとエジプトのピラミッドを作った人たちは奴隷だったとかなるがそうでもない
その目的は王の墓ではないとすると宗教的建造物を一致して作っていたともなる
それはカテドラルを作った人たちの労働とにている、また古墳でも共同の産物でありその時代の共同性の証として残されたものだとなる、すると今の孤立した無数に分解された苦役の労働よりは意味と価値があったとなるのである 
この人の希望はFXでの一攫千金なのである、つまりそれだけが希望だけだという時何か切ない悲しいとなる
金さえあればというのがまさに資本主義での幸福になっているのだ
でもこの人がでは何をしたいのかというと金が入ってどうするのかというと見えない
ただ苦境から脱したいから金が欲しいというだけになる

例えばそういうことは田舎でも起きている、田畑があってもでは地元の田んぼからとれた米を食べているかというとそうではない、いくらでもうまい米は売っているから、地元の米を食べて地元の人に感謝することもないのである
第一私が援助して畑に野菜を作らせている人はそもそも何ももらっていないからである
そしたら何のために金を払っているのだとなるからだ、田舎でも村でも今はその土地でとれたものを食べていないのである
かえって外国から来た野菜でも果物でも食べているのである
グロ−バル化経済では日常的にそうなっているのである、そしたら地元の人が働いていてありがたいとかならないのである
そして地球の裏側から来た果物でも食べていてもその食べ物を作る人のことなど知り得ようがない
つまりそこで労働しているもののことなどわかりえようがないのである
ただ食べ物だけは入ってくるのである、それでもバナナ農場で働いたから苦役だったというから労働に苦役がつきものなのであるこういうグロ−バル化経済が今は労働疎外を生んでいるから社会が変わっているから労働は義務だとした今までの価値観は変わる
こういうことは商品としての労働となり貨幣の物神化とかでマルクスが説いた
ただマルキシズムでもまたその労働は共産党のための共産党の金持ちのための労働になった
兆もの金を共産党幹部は得たからである、極端な格差は平等の共産主義にも生まれたのである

現代の労働がなぜ疎外が生むのか?ただ金だけを得る労働になりかつてのような労働の意味と価値が生まれないのか?
労働をしたくないというとき苦役だから常にそういうことはあった
でも家族のために村のためにかんばらねばならぬ、働かねばならぬきということで働いていた
それは原発避難地区に起きている、なんとか働いて田畑を復興させてくれと願っても若い世代でも働く人でも流出したらできないのである、こういう場では働いてもらいたいし働いた人に感謝するとなる、それで働き甲斐があるとなる

グロ−バリゼーションと資本主義が危機だというときそれは労働観に現れている、働かないという時なぜなのか?
働きたくないのはなぜなのか?このことを追求することが大事になる
私自身は働きたくなくなったのは底辺労働でありロボットのように流れ作業しかししていないからである
これが仕事なのかとなるとしたくないとなった、でも何かそこで生きがいのある労働であれば自主的にする
でもそんな仕事は与えられないのである、それは能力がないからそうなっているのだともなる
能力がある人は生きがいのある仕事をしているとなる
それで私は引きこもりになり家で好きなことをしていただけだとなる
学問とか芸術をの追求をしていたとなる、それは創造的仕事だからしているとなる
何か私は文章を書くことが好きである、しゃべるのは不得意である、だからこうしてプログで書き続けているのである
ただ金にならないから価値と意味を与えられていないとはなる、与えているのは自分だけだとなっているのだ



posted by 老鶯 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年06月07日

イノクの星(Enoch Star)

イノクの星(Enoch Star)

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 「あれはイノクの星だ
神に召されて地上から取り上げられて消えて
聖書に記されるているイノクだ」      

「何かあるのかないのかわかなんないな」

「イノクは目立たない人だったんだよ
性格的にそういう人がいるよな」

「おとなしいというかつつましいという人が女性でもいる」

「星にもいろいろあるんだよ」

「そうだな星の数は無数だからそれだけ性格も違う」

「人間の数も何十億だからな」

「死んだら星になるといってもいろいろだとはなるな」   

That is the star of Enoch
Called by God, taken from the ground and disappear
It is an innoc written in the Bible

I have no idea if there is anything

Enoch was a person who was not noticeable
There is such a person by character

There are women who are gentle or humble

There are many things on the stars

Yes, the number of stars is infinite, so their character is different

Because the number of humans is billions

If it dies, it will be various even if it becomes a star

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私の母の性格は目立たない、おとなしい女だった、何かいつも陰になっている人だった
そういう性格の人はいる、イノクというときそういう人だったのかもしれない
人はいろいろな性格の人がいて千差万別なのである
そして死ぬと星になるというけど星も無数であり星にもいろいろあるとなる
これもソフトの操作で偶然にできた抽象画である

My mother's character was unremarkable, a gentle woman, someone who was always in the shadows
There are people of such character, it might be that kind of person when saying Enoch
There are people of various characters and there are many different people.
And when it dies, it will become a star, but there are an infinite number of stars and many kinds of stars.
This is also an abstract image created accidentally by software operation