2019年05月17日

小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾 (世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾

(世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


今日は暑かった、畑も乾いている、それでペットボトルで水を運んでいる
今は一人だから自転車で運んでいる
でもそこで一体なにがとれているのかもわからない、茄子を植えたというが花すらまともに咲いていない、そこで何がとれているのかもわからない
実際にもらったのはキュウリ二三本である
第一ほとんど何もとれない、肥料やら種やら道具やらそこにかけた金の十分の一もとれていない、そんなこと普通だったらつづかない
前の畑をしていた人は腎臓病で死んだ、透析をしていた
隣の畑は車に乗せられて這って80過ぎた老人が手入れしていたが今は来ていない
それで草ぼうぼうとなっている
この小さな畑でも一緒にしていた人が糖尿病で病院に二か月も入っている
手術するのに仙台まで行ったからだ
その女性でもその畑の草むしりでも苦労している
しかし収穫がないのだから普通だったやめているのだ

なぜこの小さな畑は別になくてもいいものである
でももしこれが戦前とか江戸時代とかならどうなるのか?
もし日照りになり作物がとれないとしたらどうなるのか?

今は別にここでとれなくても
野菜はいくらでも入ってくるよ、外国からだって入ってくるよ
飢饉のように餓死することなどないよ
それより今は金さえあればいいんだよ

こんな感覚であり日照りで野菜がとれないとしても全国世界規模になれば食料になるものが入ってくるとなる、それがグロ−バル経済であり広域社会に住んでいる者の感覚なのである
もし戦前と江戸時代ならその土地で食料がとれなかったら飢饉となり餓死する、そういうことがかつてあったからだ
だからその小さな畑でも野菜がとれなかったらそこに住んでいる人も困るからなんとか雨がふって野菜が育ってほしいと願うはずである
ところが現代ではそんなことがない、金があればいつでもどこからでも買えるという感覚になっている、そこで大事なのはこの土地でとれる食料ではないのである
その土地に依存して生活しているわけではないからそういう感覚になる

そこで何が起きてくるのか?
土地の人はその土地に無関心になる、その土地のことを真剣に考えない
日照りで困ったと言っても別にここでとれなくても全国からでも世界から食料が入ってくる、それより金があることなんだよとなる
そういう思考になっているのが広域化グロ−バル経済なのである
でも別にそのように広域化グロ−バル化経済だからこそ昔のように飢饉がなくていいじゃないかというのもある
それが悪いことなのか?という意見もある 

その時その土地で働く人の価値とか働く意義も低くされる

つまり地元で食料生産にたづさわてっも地元の人がその人を重視するわけでもないのである、そして地元の米はまずいとなりここでは放射能汚染とかで飼料米になっている

そうなるとそんな米をとっても価値がない→その米を作る人間も価値がない

そうしてその土地土地と人間のつながりも希薄化して原発事故で起きたように簡単にばらばらとなり先祖代々からの土地からも離れて住むようになりゴーストタウンになったのである
問題はその土地に暮らしていてその土地のことを真剣に考えないようになる
そうするとどうなるのか?

そこでその土地で長年つづいてきた祭りなどが失われる
そもそも神社はいろいろあってもその土地にあって豊作をもたらすとために祈る場所だったとかなるからだ、江戸時代だったら雨乞いをして神社で祈るとなるからだ
それより今なら金であり神に祈る必要はないとなるからだ
だからもともと地域にあったものが意味がなくなっている
神社で神に祈ってもどうにもならない、それより金があればいくらでも食料は買える
そういうことがグロ−バル経済では当たり前になっているし疑問もない

そういうことで地域に無関心になっているから原発も金になるからと地元の人が熱心に誘致したのである、そして今度は地域でも故郷でも住めなくなった
でもまた地域に執着しないからばらばらに簡単に分散したのである
そもそもこのように地域のことを真剣に考えて暮らしていないからである
別にここで食料がとれなくもいくらでもは食料が入ってくるではないか?
ここでとれないなら他から金で買えばいい、それができないなら金があるから他に移り住むだけだとなりばらばらになり町からも村からも人がいなくなり廃墟と化したのである

でもそもそも祭りとは何なのか?それはいろいろあるにしても神に祈って恵みを実りを与えてもらうということである、それは自然と人間の間に祭りが生まれたのである
豊作になれば自然であれ神に感謝するという祭りが生じたのである
その祭りもグロ−バル化経済では消失する
なぜならグロ−バル経済という時世界のことであり金さえあれば世界のどこからでも食料が入るのだから神とか自然に祈るとか必要はないとなるからだ
そこにそうした自然とか神というのものが省かれる
そして祭りも消失する、つまりグロ−バル経済では神となっているのは世界市場を操作する者なのである、それが何者か?それがわからないから陰謀論になる

だからグロ−バル経済というのは一見世界で食料でもある所からない所に供給するのだからいいじゃないかとなる
それで飢饉もなくなり世界の人たちにとっていいものである
つまりグロ−バル経済化ではそうした経済原理だけが働きその土地土地に伝えられた祭りは失われる、それは国でも日本だって伝えられてきた祭りがあり天皇がそれを継続している司祭だとなっている
宗教とはいろいろあっても神が存在して神と人とが折り合うためのものであった
そこに至高のもの、神を認めてそれに折り合うために祭りが生まれた
キリスト教が生まれたユダヤ人の聖書でも常に動物が犠牲として神にささげられていたりして神とおりあっていた
なぜなら至高のものなる神が実在している、その神との折り合いがつかないと災いが起きるからである、ノアの洪水も神が起こしたとしている、それは人間の心がみな悪くなったからだとしているからである
そこでなんらか神と折り合うものが必要となり家畜がささげられたり人間までもささでられたりしていたのである

グロ−バル経済ではそうした狭い地域ではない、世界規模になると地域地域の経済とはまるで違っている、そうなると地域の神とかの折り合いは必要なくなる
神社などもその土地土地に結びついた神であり祭りがあったからだ
グロ−バリゼーションとは一体何なのか?
それが現代の最大の課題である、それが人間にどういうふうに影響するのか?
何か人間がもともと継続していた地域地域の祭りでも消失したことは人間にどう影響するのか?
そういうことをもっと知るべきではないか?
すべてが経済とかコストとかそれだけ社会を計っていいのかということである
そこに何か非常に危険なものがあり神の怒りをかうものがあってそれで世界規模の破綻が起きてくる、
グロ−バル経済は世界市場が神の見えざる手によって導かれるというが実は悪魔にサタンによって導かれていたのである
世界の富が数パーセントの人に集まっていることがそのことを如実に示しているからだ
だからこそ絶えず陰謀論が言われるのである

グロ−バリゼーションによって何か本当は人間にとって大事なものを見失った
それは文化的なものでありそれは経済の原則と反するものがある
祭りとかは文化的なものであり人間が何千年とかつづいた歴史の中で継続されたものであり
そこに人間が継続しなければならないものがあった
それは経済のコストとからだけでは計られないものがありそれを見失ったとき人類そのものが危機にさらされる
そういうことで原発事故だって起きる、人類滅亡の危機になる
科学至上主義というのもそうである、科学者が神となることなのである
そこにはすでに神を畏敬する畏れもなくなることなのだ
遺伝子組み換えとか現実にすでに実行されている
そういうことから人類に大きな災いが生まれ原発事故のように取り返しのつかない壊滅的なことが起きてくる

つまり人間が長く継続したものにはなにかしら意味があって継続されてきた
しかしそれすらもう問われることもない、そうして祭りであれ伝えられてきたものが無視されるとき大きな壊滅的な災いが起きる
津浪でもそうである、何か言い伝えが失われた結果として無防備に海岸沿いに家が密集したからである
それで一匹の魚を軽んじた結果、それが大津波となったという伝承もそうだったのである
グロ−バリゼーションとは本当は悪魔的なものでありサタンが支配した結果なのかともなる、世界の富が数パーセントの人たちに集まるというときそれ自体が悪魔的だからであるそして普通の人は投資したとしてももうけられない、一割しかもうからない
もうかるのはと株を操作する世界のエスタブリッシュメントであるとしている
株に投資させられる一般人はカモだとしている、自分もそういう経験をしたからである
つまり経済がギャンブルのようになっている、そして地域地域から国単位でも祭りとかが失われてただコストしか考えられない世界になっている
つまりグロ−バリゼーションとは世界が悪魔がサタンが支配するシステムだともなる
第一世界の株のことなど経済でもわかる人はいない、それは何かしらのきっかけで恐慌とかなり破綻する宿命にあるのだ
悪魔のシステムだから当然そうなってもおかしくないのである  

グロ−バリゼーションをすべては否定はできない、でも今のグロ−バリゼーションは限度を越えている
あくまでも内需主体のドメステック経済が主であるべきなのだ
それはまた地域地域でもそうである、あまりにも広域化するとその地域の価値とか人間の価値まで失われるのである
だから現代は輸送にたずさわる人が多いのである、田舎で会う人がトラック運転手が本当に多いのである
それは広域的にグロ−バルに運ぶ社会だからそうなっているのである
経済とかコストが全面に出てきて何か本来あるべき文化的価値とか人間の本来の価値が無視されてしまったのである 








荘厳な森の詩(丸森町の森からイメージされたもの)


荘厳な森の詩(丸森町の森からイメージされたもの)


荘厳な森の詩

樅の木が忠実なる友とか同士のように
厳かに立ち並び歳月を森に重ねる
まるでゴシック建築の神寂びた石の柱のように
森の奥処に山雀がリズミカルに鳴く
それは森全体にひびき木霊する
つつじが赤く新緑の中に歓び映える
新たな命の再びここに芽生えぬ
藤の花がさわに長々と垂れ咲く
首飾りのように神は木にかける
その美は文明の華美なる濫費にあらじ
清楚にしてつつましきもの
重厚なる厳(いか)つしの森は鎮まり
錚錚と風は鳴りここに樹々は連なる
ここに我らの精神は形成されぬ
力強く樹々は信をもて結ばれる
原始組成の自然(じねん)の紐帯
人はそに付け加えるもののなかるべし
我々は文明の中で真の精神の拠り所を失う
その心はただ物質文明に消耗されぬ
真の自然の声を聞かず形姿を見ない
我々は深遠なる森に還り深く木のごとく根を張り
そのよって立つべきものを心から感得すべし

み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわく鳥の声かも

山部宿禰赤人

丸森は名前のごとく森の国である、樅の木の原生林とかもある、確かに樅の木が多い
それだけ原始の森があった所である、その森は相馬市からつづいていた
ただ樅の木となると丸森とかに多い、松の木も混じっている
そこで聞いた鳥の声がまさにこの万葉の歌だと感じた
樅の木が暗い森からひびきそこに荘厳な樅の木が立っていたからである
そこは森が深い、前にそこに迷い込んで出れなくなった恐怖を書いた
それだけ森が深いとなる、ただ杉の林だとあまり荘厳さを感じない
それが樅の木だと感じる
それはドイツの黒い森に通じるものがあるからだ
しかしドイツに行っても黒い森はほとんど消失している
でもヨ−ロッパはドイツでも樅の木の森におおわれていた
そのゲルマンの深い森からあの荘厳な石のゴシック建築が生まれたのである

万葉集の歌が何なのか感じにくいものがある
それは万葉集には原始的な人間が実際に生活していてできたものだから現代人の感覚ではわかりにくくなる、その自然だって今とはまるで違っていた
神道が日本の原自然から生まれたことでもわかる
ヨ−ロッパでもそうだが中東辺りですらレバノン杉の森があった
それが船の材料とかで切って残っているのは数十本とかになってしまった無惨がある
自然がどれだけは消失したか、破壊されて来たか、それはドイツに行ってみても森が見えない、でもあの平原は黒々として原生の森だったのである

日本では森が70パーセントとか残されたのは牧畜などをしなかったからか山が急峻でできないということもあった、日本語の野(の)は斜面の意味だからである
そこが外国の感覚と地形と違っているからである
それだけ日本は山国でありヤマトなのである

いづれにしろ木暗い、奥深い森にひびく鳥の声はこの歌と同じだった
ここだも騒ぐというとき鳥の声がここに鳴き合い共鳴したということである
それは奥深い原始の森があってこそなのである
そこには樅の木とか松とか杉だけではないものがある森だから感じたともなる
ブナの木の森でも感じるものがあったがブナの木はこの辺ではなくなっている
小山田の奥の森にブナ坂とあったから前はブナがあった
それはどこでも杉の木だけではない、杉の木は木材として作られた林であり本来の森ではないのである
森という時縄文時代が森を住処として生活していた、日本全体が森でおおわれていて縄文人は森で生活していたのである
それで縄文人は前期では満遍なく森に割拠していた、縄文人が争わなっかったというとき農業ではなく森を生活の基盤としていたからである
稲作になると土地をもつものがそれだけ財を貯えるから土地争いとかが起きてくるからだ

いづれにしろ文明人はもう自然と共鳴しない、自然というときそれはただ木材としてしか見ないからである、その収入となるもの金となるものしか価値を見ていないからである
だから容易に森も破壊されてゆく、ただこれは世界的にそうである
グロ−バル経済になればますます森は資源となり金となるものとして伐採されて熱帯林すらなくなっている
その時人間の精神も文化も消失するのである、消失しているのである
鎮守の杜(もり)が日本にあるのはやはりそれだけ日本は森の国だったのである
日本語に森ということばがない、それはもる(盛る)であり盛り上がるとかになりもりではない、ではなぜこれほど森におおわれていたのに森という森林という言葉が日本語にないのか?
それはあまりにも森に覆われていてそれは当たり前であり意識しなかったともなる
一本一本の木は意識しても森全体を意識できなかった、意識できないほど森に日本は覆われていたとなる

いづれにしろ飯館から丸森は森がつづいている、丸森はまだ回らない知らない所がある
飯館でも広いから行っていない場所がある、それだけ森が広いからそうなる
必ず自転車で行くと道に迷ってしまうからである
そして森に迷い込んで森から出れなくなった恐怖を経験したのである   

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この地図をみれどわかる、縄文時代は東北地方が人口が増えて関東から長野県地方が東北より増えている
でも西は増えていない、同じままなのである、だから東北地方はそうして人口が一時増えたがそのまま増えない
西は縄文時代は全く増えていない、つまり人口面から見れば東北関東地方が縄文時代は中心地域だったのである
そしひてそこは蝦夷の地域であり出雲に通じていて日本の原型を作っていた
実はここかヤマトの起源であり西から弥生時代に日本が作られたというのは違っているのである
それは征服したものがそういうふうに歴史を記したからそうなっているだけなのである

とにかく最近でも日本は森が多いと思った、山を見ていても森か見えないけど山と森は一体なのである
山全体が森になっているのが日本の自然だったのである、そして今でも70パーセントが日本の国では森なのである
こういう国は大陸と比べると珍しい、ネパールが山だけの国になるが日本は森の国なのである