2019年05月24日

抽象画の建築の変化のデザインの不思議 Wonder of the design of architectural change of abstract paintings

抽象画の建築の変化のデザインの不思議

Wonder of the design of architectural change of abstract paintings



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Japanese architecture

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建築と抽象画の関係あるのか?絵画と建築は密接に関係していた
なぜなら絵画は独立していない、もともと建築の一部でありまた音楽でも大聖堂と一体化してあった、つまり建築と一体化してあった
大聖堂の一面にキリスト教の絵画とかが描かれていたし仏教建築でも寺の中に絵が絵がれていたとか城の屏風に絵が描かれていたとか建築と一体化して絵画があったからだ
その後に絵画が建築から離れて独立して存在するようになり売買されるようにもなった
そのように近代化とは何でも分離してゆくことなのである
部分化してゆくのである

不思議だったのは竹中工務店のホームページの写真をきりとり抽象画に変化させる
ここは空港だったのである、すると空港にあったデザインにソフトで変化したのである
それが何か斬新なものとなっていたので不思議なのである
こんなふうに普通はなるとは思えないからだ
でも前にもこうして建築をソフトで変化して作ったものがある
何か建築をデザインしているのかともなる

この私が作る抽象画が自動生成しているから実際はAIが作っているとなる
だから大量に作れるのである、自動生成していればそうなる
それを選んで多少手直しするがそうすると何か不自然にはなる
でもそのままだと著作権違反になる、見本としてこれは著作権違反になるだろうか?

とにかくデザイン分野とこの抽象画の製作は関係しているとなる、デザインとなると建築であれ他の製造物でも関係するとなる
そのデザインにもコンピュターがソフトの製作が深くかかわってきているのである


Is there a relationship between architecture and abstract painting? Painting and architecture were closely related
Because the painting was not independent, it was originally part of the architecture and the music was integrated with the cathedral, ie it was integrated with the architecture

Christian paintings were drawn on one side of the cathedral, and even in Buddhist architecture, pictures were drawn in the temple, or pictures were drawn in the style of a castle, or pictures were integrated with the architecture Body
After that, the paintings were separated from architecture and became independent and became to be sold
As such, modernization is about separating everything
It will be partialized

What was strange is to change the photos of Takenaka's homepage into abstract images
It was an airport, and then it was soft and changed to the design at the airport
It is strange because it was something new
It's because I don't think it's going to be normal like this
But before, there is also something that changed and made architecture this way
It is also possible to design something

Because this abstract image I create is automatically generated, AI actually makes it
So you can make a lot, it will be if you generate automatically
Choose it and make some adjustments, but if you do, it will be unnatural
But if that is the case, it will be a violation of copyright. As a sample, will this become a violation of copyright?

Anyway, the field of design and the production of this abstract will be related, both in design and in architecture and other products
The design of software is deeply involved in computer design as well.

2019年05月25日

貨幣に頼ることで生まれた大きな弊害 (グロ−バル経済では投資でも金の流れが見えない)


貨幣に頼ることで生まれた大きな弊害

(グロ−バル経済では投資でも金の流れが見えない)


グロ−バル経済になると金がどう流れているのか?それがわからない、見えないのであるだからいくら世界の富が数パーセントの人に蓄積されているというのもわからないから見えないからその人に怒りをぶつけるわけにもいかない
それは王様がいたらフランス革命のようにギロチンで殺されるとなる
それは明確に格差社会であり階級社会に対する反乱だったからである
それは中国でもそうした金持ちに対して反乱して盗賊の首領が実際に一時的でも王様になったのである、皇帝になったのである
それは攻撃する相手が見えたからそうなったのである
グロ−バル経済ではでは数パーセントの人が富を収奪しているとしてもその人が誰なのかとなり見えないから陰謀論で終わっているのである

金が血液のようなものだというときその金の流れが見えないのである
その金の流れは江戸時代とかだけではない、戦前でも金の流れは狭い経済圏だと見えていたのである、だから巨万の富を得ていればそれが見えるから反乱するということはあった地主と小作は明確にその差がわかる、地主に対して不満を向ける、それで太宰治の家は大地主であり米を収めさせていた、高い塀で囲んでいたのは小作の不満があり攻撃されることがあるからだった、警察も地主の見方だった、今でも金持ちの上級国民の見方が警察でありその構図は変わっていない
なぜなら小作は汗水たらして働いている、そしてその米を地主に与えるから目に見えているのである、すると不満をぶつける相手がいつもはっきり見えているのである
それは江戸時代でも一揆が起きたのはそれが侍が搾取しているとかその対象がはっきり見えているからそうなった
汗水垂らして収穫した米を年貢として納めることでそうなったのである

今の時代はそういうふうに不満をぶつける対象がグロ−バル化しているのだから目に見えない、世界市場は見えざる手によって導かれているというが実はサタンによって導かれているともなる、公平な市場はないのである、そんな世界の富が数パーセントの人が得るということ自体なんであれシステムとしてもう経済は機能していないのである
投資しても世界の株式市場に参加しても実際はそこにこそ株式のプロがいて一般人はカモにされているだけだというとき本当だった
株の上げ下げは巧妙にそうした世界の経済を支配するグロ−プによって世界のエスタブリシュメントによって操作されているとしている
つまり株式市場では一般人が参加してももうけられない仕組みになっていたのである

だから目に見える経済とは狭い世界でしかありえないとなる、エコノミーが家政から始まっているのだから経済という時家政だったのである、それなら手にとるように見えるからである
地域貨幣を作り出そうとしているのも経済を目に見えるにするものであり何か年貢で税金を納めることモノで治めると経済がわかりやすいというときもそうである
なぜなら貨幣になるとそれが便利でも不正もしやすくなるからである

それでグロ−バル経済になり金融資本主義とかただ金を右から左に流して巨利を得る人たちが現れたのである、貨幣というのはもう今は数字なのである
数字を操作するだけで巨万の富が流れ込む仕組みが現代の資本主義である
だからそういうことで貨幣万能主義とか金万能主義に陥ってしまった
それは貨幣自体があまりにも便利であり今は市場はコンピュター化されている
結局タックスヘイブンとか騒いだけどマネーロンダリングでも止めることはできないという、その国に税金を払わない巧妙な方法があり大金持ちは今でもしているという
それも金の流れがグロ−バル経済によって見えないことから起きているのである

何か私はその人に何も働いてもらわないのに金を与えた
その金はその人とその非正規の息子とその女性の前の夫に流れたことが眼に見える
その前の夫は青森の施設に入ったからである
すると金の流れはその困窮した女性に流れ息子に流れ前の夫の施設に入った人に流れた
それからその夫を世話する青森の介護する人に流れた
こういうふうに身近だと金の流れが眼に見えるのである
ではそれが有効に働いた金なのかどうかわからない、ただ困窮した人に流れて息子でもその前の夫でも助かったとはなるし青森の施設に働く人も助かったとはなる

今は金は投資したってグロ−バル経済ではどう流れているかわからない
それでクラウドファンディングとかインタ−ネット上でできるようになった
それは小規模の個人の事業でもインタ−ネットで集められるからである
とても銀行ではそうした個人には金を貸さないからである
そこでもう銀行の役目はなくなりつつあるともなる
金を貸す相手がなくなりつつありそうした個人事業者などに金を貸さないからである
これも金の流れを目に見えるようにするものとして働かせるものなのである

郷土史などというと何かその地域だけの狭い閉ざされた世界の探求だともなるがこれもやはりその土地に根ざして目に見える経済としても探求しようとしている
それが一つの無人駅で報告することがあれほどあったということが自分でも驚きだったのである、となると他でもそうして地域の一部分でも仕事でも報告することがあると思ったただそれが報告されるていてもわからないとかはある

とにかく現代は社会が見えない、その見えないことから原発事故のような危険があったことを自覚する、第一原発はすぐ目の前にあっても誰も中に入ることすらできない
地元の人でもできない、私たちはここに住んでいるからどういうものか知りたいのですが中を見せてくださいとか教えてくださいといってもできないのである
そこは秘密のベールに閉ざされているだけである
国家機密だからできないともなるからだ

そうして目に見えないことから大事故とかが起きてくるのである
金の流れでもそうである、目に見えない知り得ないからそこに不正があり巨額の金が誰もしりえない人たちに集められる、でも抗議もできないとなる
そこにグロ−バル経済の限界がある、そんな広い天文学的金が流れる世界市場では不正が行われても見えない、そこに限界が生まれる
突然リーマンショックのような破綻が生じる、そういう世界的恐慌とか破綻が近づいてるそれは必然的グロ−バル経済は宿命としてなる
資本主義だけではない中国のような共産主義でも同じなのである、やはりグロ−バル経済の中にあるからである
世界的に同時にそうした破綻が起きてくるのである


原発事故の原因ーその地に住む者と住まない者の差 (責任は住む者に強いられるー東電の人は住んでいないから無責任)


原発事故の原因ーその地に住む者と住まない者の差

(責任は住む者に強いられるー東電の人は住んでいないから無責任)


原発事故の原因とか責任を追及してきた、その原因は一つではないし多様なものがある
だからこれだけの大事故だともう国全体の責任として国民全体の責任として波及したし世界的責任にもなっていた
何故なら海とか大気まで汚染されたからそれは一国とか一地域の問題でなくなっていたからである、原発は日本だけではない世界的な影響があるものとして事故が起きた
それはチェエルノブエリですでに証明されていた、ヨ−ロッパ全土に波及したからである
福島の事故ではそれがなぜ起きたかとなるいろいろ原因はあり追求してきた
人間は住んでいる場所に一番関心があり住んでいる場所を良くしようとする
住んでいる場所が何であれ汚染されたりすると住めなくなったりするから敏感になる
毎日使う水でもなんでも汚染されたら住めなくなるからである

つまり何であれ住んでいればその住んでいることだけで責任を強いられているのである
そういうことは自覚されないが今回のような原発事故とかなるそこに住んでいた人が住めなくなり責任を強いられたのである
だから住んでいること自体責任が課せられていたのである
生れたときすでにその土地に責任をもたされていたともなる
なぜなら親がいて先祖がいて次の代もありうるからである

家だって住んでいると汚れればきれいにしよとかなる、放っておくとゴミ屋敷になってしまう、だからすでに家に住むこと自体家に責任が生じて掃除することを強いられているのである、責任を持たされているのである
何かを所有することは責任をもたされる、土地をもっていればそこを荒地にしていれば土地を有効に使わないとして土地をもつ権利すらなくなる
現実に山でも明治以降無数の権利者がいてその山全体を有効に活用できなくなった
ただ名前だけで土地を所有されているのはもう権利がないと法律もできる

原発でもそもそも東電では東京に作るのが筋である、送電線の費用もいらないし合理的だったのである
それを福島にもってきたことが災いになったのである
まず離れているということで無責任になる、東京には300キロ離れているから事故があっても安全だとなる
そこに東電の幹部とか社員が住んでいて福島に一部は住んでも住んでいない
すると住んでいないから無関心になり真剣に原発の安全など考えないのである
だからこそ東京に原発を作ることが安全を守ることだったのである
なぜならそうなればすぐ近くにあるのだからもう絶えず監視して安全を守るからである
ただそうなると反対勢力が大きくなり原発は建てられなかったとなる

そして事故になった時、離れているから的確な指示を東電の経営者はできなかったのである
そこで吉田所長の肩にその責任がのしかかったのである
実質的に原発の責任者になっていたからである
でも東京と離れているので意思疎通ができなくなっていた
それは東電の幹部でもそこに住んでいないからである

何かそうして離れていると支持もできなくなる、日本の戦争でも満州の陸軍が中央の指示を無視して暴走したとか他でも大帝国になると地方の支配がままならず反乱が起きてくるそれは離れているから中央の指示が通らなくなるためである
何かかならずそこに行き違いとか生じてくる、意志疎通がスムーズにできないのである
そうして大帝国でも崩壊してゆくことがある

そして東電にしても福島原発でも上の人がいて現場をで働く人たち、電気関係者でも千人もいたというのである
その人たちは原発の危険性を現場から見て知っていたが東電には逆らえない、東電の命令は絶対だとなっていてその危険性があっても上の人は聞かないし抑えるだけだったのである
つまり絶大な権力をもてばそうなる、その権力者に逆らうことはできなくなる

こうして東京の幹部と現場の福島の吉田所長などの乖離が起きた
いくら情報がやりとりできるとしても現場との乖離が生まれた
それは住んでいないから危機感がもともとなかったからである
福島原発の回りに住んでいたら危機感が違っていた、そのことから危機感がもともとなく大事故になった
一方で女川原発は東北電力であり地元である
それでその時東北電力の副社長が10メートルの高さに原発を建てようとしたとき15メートルにした結果すれすれで助かったのである
それも危機一髪だった、ただ女川とか三陸地域は津波が明治にもあったからそういう危機意識があったからそうできたともいえる
だからもしかしたら東北電力が原発を建てていれば危機意識があるから違ったものとなっていたかもしれない、東電は東京であり離れているから危機意識を持たなかったからである

いづれにしろそこに住んでいる人は原発がすぐ近くにあるのだから放射線とかのことがわからないにしろ危機意識を自ずともつはずだったのである
毎日原発の煙突を見ていたからである
ただ私の住んでいる所は30キロ離れていたから関心がなかった
それが福島市とか中通りまで影響したのである
福島県民も離れていると思い関心がなかったのである

いづれにしろ人間は住んでいる場所に一番関心があり責任が強いられている
だから駅でも鹿島駅のことを書いてきたが鹿島の人が高校生の見守り役でもかかわるべきだったとなる
なぜなら鹿島に住んでいる人とまた原町に住んでいる人は違うからである
鹿島に住んでいれば鹿島のことに一番関心がありまた責任が強いられるのである
そして一番駅に関心をもっていたのは駅前の自転車屋だったのである
なぜなら四六時中駅を見ているから一番詳しかったのである
私はただ毎日買い物帰りとかに昼間寄っていた、それで関心をもつようになったのであるそこはすく近くで住んでいるからである

ともかく住む場所に一番関心があり責任も強いられる、そうでないものはやはり関心がない、外から来る人でもその駅に継続的に関心はない
一時的であり一回くらいしか寄らないとすれば関心がない
そこで何か駅に要求することもない、でもそこに住んで鉄道を利用するとなると違ってくるのである、日々利用していれば鉄道に関心をもつからである
ただ車時代では鉄道を利用する人が少ないから関心がないのである

グロ−バル経済でも物が入ってきてもその物を作る人に関心などない
そこに住んでいないというより国外なのだから関心をもちえようがないのである
だからそこに住む者と住まない者の差は本当に大きい
関心の持ちようが根本的に違うし責任も強いられる
そうして現実に多数の人が故郷に長年住んだ場所に住めなくなったからである
住めなくなるということが最悪だったのである
住むということがまずできてこそその他のものがありうる、住めなくなるればもうすべて終わりだともなってしまうからである

posted by 老鶯 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年05月26日

カルマは繰り返すこと (人間の業(カルマ)は消えない)


カルマは繰り返すこと

(人間の業(カルマ)は消えない)

カルマとは何なのか?カルマとは業でありくりかえすことである
同じことを繰り返すことである
例えば親戚だった家では夫が病気で身体障害者のようになった
それも若い時なのである、その時結婚した妻は大変な苦労をした
その時、どう思ったか?離婚したいとかいろいろ思ったが時代で離婚はしなかった
その後に娘がいて結婚した、相手は技術者であり恵まれていた
でもその夫が事業を起こして失敗した
それで借金で苦しむ、その時どう考えるか?
つまり親と同じことで苦しんでいるのである
その時、親がとれだけ夫苦しんだかを実感する
親の因果が子にめぐる、これもカルマなのである

カルマはこのように個々人でも多様なものとしてある
でも国単位でも国のカルマがある、中国はあれだけ大きな国だからまとめるのが困難になる、それで三国志が生まれた、それは今でも変わりないのである
国が三つに分裂するというとき今でもそうした危機がある
それは国が大きいのと人口が多すぎるからである
そういうカルマをもった国なのである
だから常に政治が最大の仙台になり政治の国なのである
代々そうしてカルマを受け継いでいるのである

カルマはまたその国の自然とか風土でもそうである
日本ではまず地震の国であり自然災害が多い国であり今回の津波でもそうだった
津波が来るということを忘れていたがカルマが現れて苦しんだ
日本の風土の地理のカルマを忘れていたのである
そんなところに原発を作ること自体危険であり間違っていたのである
カルマは必ず現れて苦しみとなったとき自覚する

人間はともかくカルマから逃れられない運命にある
第一必ず生まれた土地でも故郷でもそこのカルマを背負うことになる
その土地に生まれたことはすでに責任を負わされていたのである
だから原発事故で住めなくなったというときその土地に住むことで責任をすでに負わされていた、ただそれを真剣に考えなかっただけなのである
そして生まれた土地に住めなくなったのである

災害は忘れたころにやってくるというときカルマも忘れたころに苦しみとなって現れそれを自覚する、まず苦しみとならなければ自覚しないからである
カルマとは苦しみのことだからであ400年前にもこの辺で700人溺死と記録されていた、でも全く忘れていた、今回の津波でそれを自覚したのである
700人死んだことは大きなことだったが全く忘れていた
その時無念に死んだ人たちがいたが全くその人たちのことを忘れていた
そんなことがあったのかそんなに死んだ人たちがいたかなど誰も知らなかったのである
今回の津波でその死んだ人たちのことを知りふりかえるようになった

そして先の戦争で3百万人死んだということも月日がたつにつれて70年が過ぎ100年過ぎるとそれは事実でもあいまいなものとなる
そこからまた戦争になることもある、それがカルマである
人間が戦争やめられないのもカルマである、時間がたつと戦争の悲惨さも忘れられる、自覚できなくなる、戦争は格好いいとかまでなる
そこで戦争になってまたその悲惨さを経験した時、3百万人死んだ人たちのことを実感するのである、戦争とはこんなひどいものだったのかと実感するのである
戦争のことをいくら言ったところで実感できないからである
ただその地獄の苦しみを受けたとき実感するのである
カルマは苦しみとなったとき実感するのである

カルマは国単位であれ個々人の単位であれ苦しみとなって現れない限り自覚しないのである、だから何もなければカルマのことは自覚しない
原発事故でもこうして一回大事故があったカルマを作った
でもこれも時間がたつと忘れる、そしてま大事故が起きてそのカルマを自覚するのであるそういう業(カルマ)のくりかえしが人間なのである
そのカルマから逃れられないのである

若気のいたりとかは別に時代と関係なく起きていた、若い時は無謀であり欲望があふれるからそうなる、おさえることができないのである
それは人間がもつ本能であり業だからどうにもならない、それで必ず若気(わかげ)の至りになるのである
人間はそういう繰り返しなのである、カルマの繰り返しなのである
カルマをキリスト教では罪だともなる、人間の業はそれだけ深いということである
だから結局若い人をみればまた同じような犯罪を犯しているし変わらないのである
ただ手口が変わっているだけなのである
何かもし世の中が時代によって変わるなら若い人がもう同じ犯罪を犯さないとなるはずである、でも同じようにカルマを繰り返している
つまりこの世は実際はいくら科学技術が発展しようがいろいろ変わるようでも本質的には変わらない、科学技術で人間の業は(カルマ)は消えないのである
そうなら犯罪がなくなっているはずだからである


夏蝋梅、夏の庭に畑(クリスマスローズの詩)

     
夏蝋梅、夏の庭に畑(クリスマスローズの詩)

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涼しきや夏ろう梅の葉陰にそ石の一つの休みけるかな

うつむきてクリスマスローズ石の側長くも咲きて夕日さすかな

黄菖蒲のあまた咲きにし畑にそ笑い声ひびきなお暮れぬかな

夕べなお明るし庭に咲き初めぬ夏蝋梅や道に面して



クリスマスローズ(冬の貴婦人)

石のそばに
クリスマスローズが
いつもうつむき咲いていた
長く咲いていた
この花にそっと誰かふれなむ・・・

この夕べ光りが庭にさし
その花にさした
その花には陰になり
光がささなかったが
今日光がその花にさした

いつもうつむいている花
うなだれている花
石のかたへにひっそりと
冬の貴婦人という名がいい
でも今はもう夏なのに咲いていた

神この花を知りやはり光がさした
それを知ったのは何か月も過ぎてからだった
でも神は見ていて光がさした 

黒揚羽が庭に舞い家に籠る
その石のかたへに神の加護ありて
我は安らかに眠らむ 

Christmas Rose

By the stone
Christmas Rose
It always bloomed
Long bloomed
It feels like someone touches this flower

This evening light is in the garden
I saw the flower
It becomes a shade to the flower
There was no light
Light came to the flower today

A flower that is always depressed
Nodding flower
Secretly to the stone
The name of a winter lady is good
But now it has already bloomed in summer

God knows this flower and the light still came
It was after months since I knew it
But God looked and lighted

God bless you by the stone
I sleep in peace     


これもグーグルの翻訳だけど何か韻を踏んでいる
それは偶然にしてもそうである
ただこうした翻訳した詩とかは外国人に通じるのか?
絵なら抽象画でも通じることがある
でも詩となると相当にむずかしくなる
第一自分自身が外国の詩を訳せないのである
だからグーグルの翻訳は便利である
ただ詩となると限界がある


クリスマスローズは冬の貴婦人であり冬に咲く花である
でも夏になっても咲いていた、長く咲く花である
今日は真夏の感じだったが浜通りは30度は越えない
海からの風が吹くからだ
その花は

耐寒性強い
耐暑性弱い
耐陰性強い

というとき冬にふさわしい花なのである
日陰に向いている花である
だから長く咲いていたのか?
でも本当に長く咲いていたのである、枯れないのが不思議だった
それは日当たりが悪いからかえって良かったのかとなる
場所にあっていたから良かったとなるのか?

花にはいろいろあり性質があり育てるのもむずかしい
私の庭はここは納屋であり土が悪いから花を植えても育たないのが残念である
ただバラは咲く、30輪くらい蕾が出ている
根が深く張るのは育ち花が咲いている
夏ろう?梅でもそうである、これは大きな葉が育ち木陰をなすので夏にふさわしい
本当はもっと花を楽しみたいが庭が狭くて細くて鑑賞できない
第一庭の手入れ自体がめんどうになる、人間一人でそんなにいろいろなことはできない
手伝いさんとかは今はなにもしない、何か金ばかりせびられるので頼みにくい
私は金持ちでもないからである

ただ畑代は払っている、畑をの話を聞くのが興味あるからだ
川端に黄菖蒲が一杯咲いていた、そしたら夕べ木陰の道で休んでいると畑に女性の大きな笑い声が聞こえた、その声になにか陽気な気分になった
なぜなら畑をしている女性から聞くことは憂鬱なことが多いからだ
絶えず周りを気にしている、近くに団地のビルがあるがそこからも見ているという
そんなところから見ている人がいるのかとなる
隣の畑とかでもその人が気になり心が休まらないのである
そしてカンナの花も盗まれたとか必ず盗まれる話になる
この前は組費を集めて盗まれたとか必ずトラブルになるのである
それを自分が払わされるから嫌になるのである
ただ花とか畑に詳しいからそういうことで受け入れているのである

いづれにしろ畑に大きな笑い声がひびいたときは平和が戻ったということを感じた
やはり生業がないとその土地も死ぬのである
原発避難区域の小高であれ浪江であれ草ぼうぼうであり田畑は荒地しかないからだ
するとそこに生業もないから死んだものとなる
活気が生まれてこないのである、それは飯館村でもそうである
そこに生業があり人の手がはいり笑い声でも聞こえればその土地は活きているのである

それで田んぼに満月が映り蛙の声が合唱がひびいた、その時も元に戻ったということを感じた、つまり蛙と田んぼは一体化していたのである
田んぼがなく荒地になっていれば蛙もいないからである、、蛙も生きることができないからである
そもそも田舎は田畑がなければ田舎と感じないからである
ロボットとかドローン工場ができてもそれは田舎にふさわしいとはならないからである
ソーラーパネルでもそうである
そこには何か安らぎがないのである
だからビルばかりの東京とかなるともう精神的に異常化してくる
そこになごむものがないからである





2019年05月27日

なぜ日本が衰退しているのか? (産業構造の変化ができないから?)


なぜ日本が衰退しているのか?

(産業構造の変化ができないから?)


日本ががなぜ貧乏になっているのか?
この解答もいろいろあるがではなぜ高度成長があったのか?
これをふりかえると日本は産業構造を変化させたからだった
それまでは養蚕であり絹織物産業でアメリカに輸出していた
絹織物は今の自動車のようなものだったのである
それで外貨を稼いでいた
私の母親も原町の紡績会社で働いていた、原町は原町機関区であり今のいわき市の平機関区と福島県の常磐線では二つあっては繁栄していた
そして原町紡績会社に引き込み線があり直接鉄道で積みだして運んでいた
それは横浜から船で運ばれていたのである

とにかく養蚕は日本全国でどこでもしていた、必ず兜作りの屋根が今でも残っているからこの家で養蚕していたとわかる、それが本当に多いのである
養蚕は地方に生産拠点がありそれで地方の産業となっていたことが今と違っていた
桑畑が私の家の裏にもあったしどこでもあったからである
養蚕は農業でもあったからそうなった
それで阿武隈高原の町に鉄道が通る時、煙で桑の葉が被害をうけるから反対したとかあった、それだけ養蚕中心の産業構造だからそうなっていた

その時蒸気機関車であり私が原町の高校に通った時もまだ蒸気機関車だったことがふりかえると信じられないのである、どうしても蒸気機関車のことが思い出せないのである
ただトンネルを通った時、煙で顔がすすけたことがあった
でも今どうしてあのようなものが走っていたことが現実に思えないのである
ただその時もし鉄道マニアであったらそのことを思い出すだろう
私は全国の鉄道を乗って旅したからである    

そして蒸気機関車の燃料は石炭だったのである
石炭というときその頃各地に炭鉱があり石炭がエネルギー産業になっていた
だから学校でもストーブを使っていて石炭を使っていたのである
エアコンなどなかったのである
その頃の産業は養蚕であり石炭だったともなる
ただ戦後は養蚕はつづいていてもすぐになくなった
でも戦後十年は炭を使っていた、囲炉裏がどこにでもあった
その生活は本当に江戸時代のつづきだった
水道もないから街内では井戸の水をもらって生活していた
それで子供の時水汲みされたことを思い出す
その時は何もない、飯台一つしかない生活だったしたいがい同じだった
玉子も食べられなかった、農家では食べられたのである
農家の方が裕福だったのである

つまり養蚕や絹織物が石炭が産業だった、それが戦後10年くらいして産業構造が変わった三種の神器といわれた、冷蔵庫、洗濯機、テレビとかが出てきたからだ
この電器産業が輸出ともなり売れたので日本は目覚ましい高度成長時代を築いたのである要するに産業構造が変化したこととグロ−バル化して輸出を日本がになったことで高度成長時代を築いたのである

その高度成長時代を築いた中心がが団塊の世代である、その人たちの話を聞くとわかる
私の家でも駄菓子屋のようなものを始めた、その時別に何のノウハウもない、全くの素人であり商才もなにも関係ない、第一私の家ではそういう商売に向いている人はいなかったのである、でも成功したのは時代だったのである
その時物がないからただ物を置けば売れたのである
ちょうど角に家があり場所が良かった、その頃車もないから場所が関係していたのであるただそれは他でもみんなそうした零細な商売でも繁盛したのである
それは中小企業でも同じである、電器産業になり部品を調達するために中小企業が繁栄した、それで人手不足となり金の卵は地方の中卒が東京などへ集団就職したのである

なぜ日本が今貧乏になり衰退して後進国にすでになっているというとき輸出産業の大手の電器会社がもう終身雇用ができない、45歳でリストラとかなっている
もう電器産業は中国でも韓国でも同じものを作り品質も変わらなくなったからである
パソコンだって中国製品と変わらないとなれば日本の製品は売れないとなる
するとどうなるのか?もう日本で外国に売れるものはない
でも石油とか材料とかを買わざるを得ない、そうなると苦しいとなる
そしてIT産業には乗り遅れてスマホでも中国の方が優れているとなった

だから産業構造を変化しないかぎりもう日本は貧乏国になり発展途上国になる
すでになっている、すると産業構造を変えるにはどうすればいいのか?
それが大問題になる、そして過去をふりかえると日本はグロ−バル化した結果
石油とか外材とかいろいろなものを輸入に頼りすぎたともなる
でもそれがこれからできなくなる、第一売る物がなくなる、車でも中国で電気自動車を自前で生産している、そしたら車さえ売れなくなるのである

ではこれから日本はどうするのか?
国内産業と国内需要にもどることではないか?
国内の資源を活かすとか国内でなるべく生産できるものを生産して外国の物を輸入しないそれより輸入する金がなくなる、輸出するものがなければ金が入ってこないからである
すると江戸時代のように自給自足のような生活にならざるええない
日本には本当に森が70パーセントでありこの資源を利用していない、もう外材を買う金もないとしたらこれだけの資源を放っておくことはできない
日本がにある物でまかなうほかないとなる

何か時代が逆戻りすることが歴史ではあるのかもしれない
日本の人口が減るという時もそれもこうした時代とマッチしてそうなってきている
それだけの人口をもう養う力が日本がにはなくなったからである
そうなれば人口だって減らざるをえない、それをとめることができない
そして日本人の人口の適正規模は8000万くらいなのかもしれない
大正時代で6000千万でありそのくらいの時はかえって自然と調和した社会だったのである東京でも百万くらいだとするとちょうどいい人口だったともなるからだ

つまり時代の変化がありそれをすべて否定的にとらえるのではなく、人口減少でもプラスの面はあるしまた輸出産業がないとしても国内生産と内需にもどるとどうなるのか?
森林資源でも他にも国内の資源が活かされて地方も活性化するとかなる
農業も荒地が多いがもう輸出産業がなくなればそうした荒地でも耕して食料を確保しなければならない、戦後の引揚者がわずかの土地を求めて農業を仕事をしたのと同じになる
でも半分は厳しくてやめた事情はある
活かすものがないとなるとそういう時代になる
すると地方に人が移住して活性化して過疎化も解決するとかなる
いづれにしろ膨大な高度成長時代に生まれた中小企業でももう成り立たなくなっている
何か起業してもうまくいかいない、それは時代だからである
能力があるとか関係ない、高度成長時代では私の家でもそうだが別に能力がなくてもみんな成功していたからである

おそらく今たりないのはこうした時代に適応したマッチした国家的政策、グランドデザインを描くことかもしれない、個々の問題はいろいろあるにしても戦略的思考が必要なのかもしれない、時代に適応した国家的戦略をもちそれに向かって国民が一致協力するとなるネガティブなものがあってもそれをボジッティブなものに変える
かえって地方が活性化して日本全体で自然と調和がとれた社会になるとかのビジョンを出してみる
もちろん時代は逆戻りはしない、でも何かやはり時代は常に過去を歴史をふりかえり進むともなる
つまり日本の産業は国内中心の産業と需要にする、国内の資源を極力活かすとかする
それは江戸時代の逆戻りだとかなるがそれが理にかなっている
何か方法があればいいがないとしたらそういう方向にもってゆくほかないからである

とにかく時代の変わり目でありそこにいろいろな矛盾とか問題が噴出する
戦後70年で大きな根本的変革が要求されているのである
そのグランドデザインが描かれていないのである
つまり個々の問題をいろいろいっても解決しない、日本全体をどうするのかという大きな視点と戦略とビジョンが必要になっている
もしそれができたとき一眼となって日本人がすすむとなるからだ
ただ正直私の言っていることは一つの提案にすぎない
私自身そうした大きな視点とか戦略とかグランドデザインを描けないからである
ただ過去をふりかえるとこういうことがありそこからまた未来を見るということで書いただけである

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責任をとれない人には何でもまかせるべきではない (あらゆることに責任がついてまわる)


責任をとれない人には何でもまかせるべきではない

(あらゆることに責任がついてまわる)


この世の中は本当に責任が常に問題になる、だからこそ契約にこまかく責任はとりませんと書いてある、責任を明確にするために契約がある

ある人が組の会費集めとかまかせられた、組長で順番がまわりまかせられた
でもその人にはそもそもその責任を果たすだけのものがなかったのだ
福祉に世話になっているし貯金もなにもない、だから金を盗まれたとかなりそれは3万とかでも払えない、それで私の所に常に頼みに来る
最初から組長などできない、責任がもていない人だったのである
私の組では一人暮らしの人は組長にならなくてもいいか助かる
金があづかるとなるとめんどうになる
数万の金でもない人はないからなにかあったら責任がとれないのである
だから責任がとれない人にはまかせるべきではないのだ
別に断ってもいいのである、そういう事情がありそれを押し付ける方も問題だとなる

とにかく何かこの責任問題をいろいろ自分の一身上でもそうだが問題になった
介護になってからあらゆることで自分は責められる立場になったのである
それから津波や原発事故でも責任が問われた
特に原発事故では責任が重く問われた、「安全神話」で事故は起きないとしていたのに大事故になりとりかえしのつかないものになった
その責任はどうとれるのか?誰もとっていないともなる
もし事故起こしたら切腹してますとか契約にでもあったらまた財産は没収されますとかでまかされたらそれなりに責任とるのだから「安全神話」を信じてもいいのかとみる
実際は誰も責任はとらないのである

地銀にしても

私はプロですからまかせてください

ではどういう責任をとるのですか

株とか投資信託はいろいろなことで変化しますから保証はできません
すべてお客様の責任です

ではなぜプロですからまかせてくださいと言うのですか?

・・・・・・・・・

それならそれで損することもあることを明確に説明すべきです
そうして客に判断をゆだねる
説明責任がアカンタビリティがあるというのは本当である
責任の中に説明責任が明確にある
すべてまかせてくださいとなれば客は何もかかわる必要がないのである

「私は株のことや投資信託は全く知りません、あなたがプロというのでまかせます
私は忙しいしいちいち株のことなど調べることも株の上がり下がりとか投資信託の利益がどうなっていんるのか見ていられないのです
だからプロの方におまかせしたのです」

「そういうことなら私たちプロですからおまかせください」

こういうふうになっても全く地銀でも損しても責任は一切とらない
地銀は百パーセント損することはない、手数料が確実に入るのである
そして何か売り買いするとまた手数料が銀行に入る絶対に損しない責任もとることがない商売だったのである

「もしお客様損するようなことがあればこちらでも分相応の負担はします」

こうでもなっていたら責任を分担してとるということで信用できたし納得できたのであるそもそも何も責任をとらないのだから信用できないとなっていたのである
そしてでは株でもなんでも知らないものはかかわるなともなっていた
素人は怪我するからかかわるなともなっていたのである
そもそも経験も知識もないからである
ただリーマンショックの時もっていた株が上がった時投資信託に回したのも分散投資しておけばいいのに地銀の儲けだけを営業の人はノルマを果たすだけにそうしたのである
でもなんであれこ一切地銀は責任はとらない、だから最初から何の責任も取れない人は信用してなてらないしまかせるべきではなかったのである

なにかこういうことは社会の中で常にあるから保証人問題があり保証人がない人は信用できないとなるし後ろ立てがないものは信用できないとなる
何かまかせるにしてもその人だけを信用していたら金を貸す方でも部屋を貸す方でも大損するからである
だから契約して責任を明確にしていないと後で大けがをする
だから何かと社会は責任を恐れるから契約をする
駅の高校生の見守り役でも駅の業務をしないと契約しているのはJRの方に責任が回ってくることが恐れているためかもしれない、駅の業務をJRが頼んだとなる何かあるとJRに責任が問われるからである
それで私が書いた時刻表でもルールであり何かで問い合わせとか来たりして責任をとらされることが嫌だから断ったとなる

つまり人間社会ささいなことでも常に責任を恐れるのである
それも責任をとらされることを恐れるからそうなっている
ただ責任を明確にして責任をとらないものには任せるべきではない
その任せた方が実は責任が問われているのである
それは原発でもそうである、なんであれ東電と国に原発を建てることで合意してまかせた時点で責任が今度は地元住民と福島県民とかさらに日本国民まで責任をとらされたのである、国民が関係ないとはならない、莫大な廃炉費用が税金として国民からとられるからである、責任は何かあったら広く波及してくるのである

合意したことはどちらにも責任がある  

説明責任→合意→契約→責任

こういうことになる、だから合意には双方が責任があることを明確にしたものだとなるそうしたら簡単に合意はできないともなる
責任が問われるし責任が課せられるからである
だから合意の契約するときは慎重になるしその重みを感じてすることになる
責任をとらされるものとして合意するからである
交渉とかでも説明責任が重要になる
説明したとしても専門的なことだからわからないとかいっても一応説明はされるべきなのである

このシステムには最終的な「説明する責任」がない
日本がで最も力をもっている人たちと、公式に民主主義国家である以上は主権者である普通の人々の間の政治的コミ二ケーションを可能にする機構がない
権力者がある政策について人々にきちんと説明し、人々が別な政策について権力者に一般的な方向付けを与える
官僚たちは何をしているのか、なぜそれをしているのか、人々に伝えず、人々は「公僕」たちが何をすべきか、官僚たちに伝えない、政治家は信用されずその役を果たしていない(
日本を幸福にしない、日本がというシステムーカレル・バアン、ウオルフレン )

民主主義ではめんどうでも説明する責任が重要になる、とにかく相手が素人でも説明はすべきだとなる、そして責任を明確にすべきである
そうしたら投資信託など誰もしなくなる、だからこそ明確な説明はしないししてもわからない仕組みになっているのである
ただそれだってやはり説明責任がある、そしてまかせる客も合意したとなるのだからわからないにしろ責任だけはとらされるのである

だからわからないならやるな、まかせるな!

こうにもなる、責任は必ずとらされる、誰かがとらされる、原発でも合意したから責任は地元の人も故郷に住めなくなる責任をとらされたのである

そして組長をまかせられて金をあつかうとなると責任が生じる、わずかな金でもその人には貯金もないとしたら何かあったらどうするのか?
その責任がまわりにくる、それがいつも自分自身なのである、必ず金を払っているからだそうなるとそんな責任をとらされることはやるなとなる
また周りの人もやらせてはいけないのである
こうして人間は常に何かしら誰かが必ず責任をとらされるのである



posted by 老鶯 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


2017年3月、金融庁は「顧客本位の業務運営に関する原則」を打ち出し、金融事業者に顧客本位の業務運営、いわゆる「フィデューシャリー・デューティー」の確立・定着を求めた。「顧客本位の業務運営」に関する7つの基本原則とは以下の通りだ

【原則1】顧客本位の業務運営に係る方針の策定・公表等
【原則2】顧客の最善の利益の追求
【原則3】利益相反の適切な管理
【原則4】手数料等の明確化
【原則5】重要な情報の分かりやすい提供
【原則6】顧客にふさわしいサービスの提供
【原則7】従業員に対する適切な動機づけの枠組み等


手数料等の明確化
重要な情報の分かりやすい提供

投資信託にはこういうことはない、複雑であり一般人はわからない商品である
株の方がわかりやすい、なぜなら株は上がったりもうかり下がったら損するだけである
だからリーマンショックのとき買った株が上がったから8年過ぎてもうかっていたが
銀行員が来て勝手に投資信託に回して損したとなる
その時説明責任があったが一言説明なく投資信託に回した
ただこれには自分自身の責任もかなりあった、その時の情勢もあるからだ

私は投資のことでもわからない

自分はそもそも地銀ということで信頼していた

時間がないからまかせた

こういうことで地銀を信頼したからまかせたのである
そもそも病気になったらプロである医者にかませるだろう
法律がわからなければ弁護士にまかせる、家建てるにしても素人は建築会社にまかせる
そもそも一人の人間の知識など限られている
だからこそプロがいてまかせるのである
金融のプロが銀行であり証券会社である、株が上がったり下がったりする
それを素人の人は他にも仕事があるから見ていられないのである
だからそういう暇がない人は知識がない人はやるなとなる
銀行にまかせること自体がお前の責任だったとなる
それも言われてもしかたがないとなる、自己責任だとなる

でも金融でもそうだが原発でもそうだったが相手は圧倒的な専門知識がありそれに対抗できないのである
だからこそ「安全神話」が作られたのである、放射能のことを原子核とかなんとかなるともうお手上げだからである
そこに圧倒的な知識の差がありそれと対抗すること自体不可能なのである
それは金融商品でもそうである、まず投資信託について毎月分配型について通暁することは不可能である、仕組みが複雑すぎるからである
それは素人をだますために作られた商品だとも今では思ってしまう
顧客のためではない、そういうふうに複雑にして顧客をだましやすい商品として作られたのである、最初からそういう意図があったのである
そこにすでに悪質性がある、ギャンブルにしても公平性がある
調か半かは確率であり公平だともなる
ところが投資信託にはわかりにくい、株とかFXはもうからないとしてもわかりやすいから素人でも理解できるから公平だったとなる
一時何かアメリカの投資信託で円安になりもうかったがそれもすぐ売って別なものを銀行で買った、そこでまた手数料が入りまた売ったり買ったりするときその額によって銀行が手数料が入る仕組みになっていたのである

結局自分はなぜそういうふうに失敗したのか?

その原因が来た相手はみんな追い詰められた余裕のない人たちだったのである
金がなくて苦しんでいる人が病気と介護のとききて大金を盗まれた
事業に失敗した人が金に苦しんでいて責められて自分自身も苦しんだ
相手を思いやる余裕などないからである
銀行も同じなのである、銀行は今一番追い詰められていたのである
それが今までの感覚で銀行は信頼できると思い込んでいたのである
老人は銀行との付き合いで確実に利子をもらって預金を増やした経験があるから
その経験で銀行を信用している人が老人に多いのである
だから大銀行でもリストラされているとか追い詰められているから2000千万も投資信託で損した老人がいたのである

その最大の原因が銀行がもう生きる死ぬかの瀬戸際にきているからである
特に地銀などはもうなくなるとされている、維持できないのである
そうなって追い詰められた者は何でもする、悪もなにもなくなる
そうして自分は責められ苦しめられてきたのである

追い詰められた人間は会社でも国でも一番怖い

追い詰められれれば人間から善悪は消失する、今日食べるものがないとなればわずかなものでも食べるために人を殺すこともある、それは追い詰められているからである
そういうふうに銀行は今やそれだけ追い詰められているから危険だったのである
はっきりいってももう銀行の仕事はなくなる、福島県で残る銀行は一つだけであり
もう銀行は生き残れないのである
そういう銀行とかかわることはすでに危険だったのである

いづれにしろ追い詰められると人間個人でも会社でも国すら危険なものになる
まず余裕がないから相手のことなど考慮しない、相手の利益など無視する
頭の中は自分のノルマを果たすことか銀行の利益だけしか考えられなくなる
それは個々人の会社員だけではない、銀行員だけではない、会社自体が存亡をかけて
投資信託でももうけるほかないとなっているからである

それでこれから地方が衰退して窮地に追い込まれると田舎でものんびりとはならない
現実に自分自身がそうした人たちに襲われてきたからである
つまり日本経済が縮小して衰退して窮迫してくるとこういうことが起きやすくなるのである、若者でも老人でも生活がぎりぎりだとか銀行でも儲け先がもないとか物を作っても売れないとかいろいろな経済の窮迫状態が起こってくる
それが日本全体を追い詰めてそういうとき戦争にさえもなる
戦争とは何か追い詰められたからなったとなる
なぜなら人間がそんな簡単に戦争に突入するとは思えないからだ
ドイツでナチスが台頭したのも借金漬けであり失業者が膨大に増えた結果だとしている
経済的困窮の結果戦争に突入したのである
日本がもアメリカによっけ経済制裁されて追い詰められたのが原因だともしている

とにかく追い詰められた人でも会社でもそういうのが増えると害になってゆく
もう客のもうけのことなど全く考えられない、いくら手数料をとるしか考えないからである、頭の中はそれしかなくなるのである
会社自体がそうなっているからである、その駒になるのが営業員だとなるからだ

ただそうした会社が繁盛するのか、栄えるのか?
地銀とかなると地元に尽くすから地銀なのである、地元を栄えさせるのが地銀の使命なのである、それができないとしたら地元にとって必要なのだろうか?
もう地銀などいらないとなる、そこにマイナスの感情だけが働く
銀行に金を預けてもなんにもならないという声が大きくなっているからだ
銀行の用がなくなっているのである、そして投資信託のような詐欺的商品をうりつけるだけだとなりその負の感情を受ける

そういうことで会社でも銀行であれ維持できるだろうか?

何かしら負の感情を従業員であれ消費者であれ受ければそれが栄えるだろうか?
それは国でもそうである、その国がいかに強大であっても回りで負の感情をもたれたら栄えるだろうか?
いづれは衰退してゆくのではないか?共存共栄しなければ負の感情ばかり強くなればとても栄えることはできない
だから銀行はもう必要ないとなり消えるともなる、ただ何か新しい利用価値が生まれれば別である、今のように窮迫して投資信託のようなものを売りつけるとしたらもう維持できない、それも時代の変化で銀行すら消えるということになる
銀行自体今どういう働きを社会でするのかどういうサービスを提供するのか問われている投資信託のようなものを売りつけるだけとなると銀行はもう終わりだと思う
それは最後のあがきなのかもしれない、そのために被害者でる
そして銀行は消えるのかとなる

ただ銀行だけではない、大企業のリストラとかあり日本時代が窮迫してこういうことが起きる、地方も疲弊して追い詰められた人があふれると危険な状態になる
そういう人と出会うことが多くなるからである
余裕がなくなった人たち自分が経験したように襲ってくるからである
遂にはホンジュラスのようにギャングに支配されるとまでなる
そしたら国を脱出するほかなくなるのである
そういう危機すら日本にこれから来るかもしれない、それは経済が衰退して困窮してくる人たちが増えればそうなるのである

それで自分自身がその例なのである
自分が病気になり介護になり弱った時襲われたからである
それは相手も追い詰められていたからそうなったのである
余裕がない人は他人のことなど考慮できない、食うか食われるかになるのである
そういう地獄がこれから日本が困窮してくればなるのである
それが大企業でもリストラが起こり首切られた人たちがブラック企業で働かせられたりと日本は余裕のない社会になってゆく
そういう地獄がこれから起きてくる、戦争状態のようなことが起きてくることもありうるそうなったとき決して富裕な人たちも安閑となどしていられないのである
もういつホンジュラスのように誘拐されるかもしれないし襲われる
そうした地獄のような社会になる、だから経済の窮迫は怖いのである



posted by 老鶯 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年05月28日

川崎登戸無差別殺人の動機は何のか? (犯罪を起こすのなぜかその心理ー格差が原因なのか?)


川崎登戸無差別殺人の動機は何のか?

(犯罪を起こすのなぜかその心理ー格差が原因なのか?)


この無差別殺人のことは今のところわからない、だから何か言うことはむずかしい

ただ一体なぜ犯罪を起こすのか?

これは最初から計画した犯罪であり金目当てでもない、自らも死ぬ覚悟で起こした犯罪である
生きようとするのではなく自らも死ぬことを覚悟した犯罪である
それも壮絶な自死で死んでいる
ではどうしてこんなことを起こしたのか?

犯罪は相手に対してそれは社会でもいい、自分を知ってもらいたい、自分という人間をいることを知ってもらいたい、何かそういうことで犯罪を起こす
これは別に金が欲しいというのでもない、もう人生をあきらめた人が絶望した人がしている
それで道連れ殺人になる

そんなら自殺しろよ

となるがしないのはなぜか?
そうしたらその人のことを誰も知らせることができない、自殺したら誰もその人のことを知り意識する人はいないのである
そんな人いたのとなるだけである
それがその人がどんなに苦しんでいても誰も知らないということがある
何か現代ではそういうことが多いのである
誰にも相談する人がいないとか窮状を訴える相手がいない
そういう人がやがてどうなるのか?自暴自棄になる

何かyoutubeで非正規の底辺労働者が追い詰められている、何かもう聞いているだけで息苦しくなる、でもyoutubeがうっぷん晴らしになり不満のはけ口になる
そういう効果がある、見ている人が聞いている人がそれなりにいるからだ
それで自分自身もそういう人がいるのかと知り意識したのである
特に都会だと人が多いから埋もれてしまうだろう
それはテキストでは感じないものを感じた不思議がある
つまりyoutubeだと声とかによって感情がこめられるからだとも見た

カリタス学園と何なのか、金持ち行く私立なのか東京辺りでそういうことで私立学校がありそれで金持ちのことがわかり差が生まれる
ただ動機はわからなくなったし何が動機なのかはわからない
ただ私立の学校をねらっとなればそこに動機があったのか?

とにかく犯罪は相手に対して意識させる、

俺がいるんだ、俺を知れ、俺を意識しろ

そういうことがある、なぜなら実際にそんなことで子供を殺されたら絶対に一生親は忘れられなくなるからだ、まさに犯人の思うようになるからだ
でなければそんな人がいたのとか何の意識もしない、その人がどんな苦しんでいてもそうである、そんな人知らないよで終わりだからである

ともかく何でもそうだが追い詰められた人は怖い、そこまでするのには何か追い詰められていたのだろうともなる、自死覚悟でしているからである
ただこの本当のところはわからない
でも犯罪を犯す動機は効果は相手に社会でも自分がいる、苦しんでいる自分がいるということを知らせることであり意識させることなのである
それで誰か一人でも訴える人が慰める人がいれば救われるとなる
誰もいないと自分という存在を知らせる意識させるために凶悪な犯罪も犯す
そしてそれだけの犯罪を起こすとなれば自らも死ぬということで決行した
だからそれが精神障害者なのか?そうも見えないしわからない
そこまでの決意があってしたのが何か違っている

こういう犯罪を犯せば社会では大騒ぎになりそいつはなんなのだと延々と問うことになる、でもそうしなければそんな人はいくらでもいて何も知らない、いることさえ知らないし意識しないのである
現代社会は経済的に行き詰まり追い詰められている人が増えてくる
40代50代ではもう絶望する人がふえている、それで底辺労働者が延々とその不満を書いている、その人も非正規で40近くであり50代となってゆく
その人も絶望しかないと毎日youtubeで訴えているのである

現代はとにかく人間の心は非情化している、相互の人間のつながりはなくなっている
そこで非正規とかは孤立している、もし底辺でもそこにまだ人間的つながりがあればそうはてらない、家族もいないとなれば余計にそうなる
現代とは孤立化しやすいのである
それで知っている60代の女性が畑にいて土手の道の方を見てここで倒れても誰も助けないよという
何かその人は田舎でも最底辺で苦労したから非情を身にしみている
田舎でもそういう非情化した時代なんだと思う
自分もそういう目にあったからである、田舎だと何か人の不幸がドラマのように楽しみなのである、刺激がないからそれは一番の刺激だともなる
だから田舎が人情に厚いとかはとっくになくなっているのである

そういう社会は都会でも田舎でも同じだとなるが何か私立などはないからそこに格差が目立ちそうなったのかともなる
南米では格差が激しくて金持ちの人は誘拐されたり常に危険にさらされているからである
いづれにしろ登戸で毎日十何万も乗り降りがあることに驚く、そういうことがこの辺ではイメージしにくい、ただ自分は小田急沿線に大学あり良く登戸というで名前を覚えていた小田急沿線には大学とか学校が多いということがわかる
たた川崎市というとき何かわかりにくいところだった、田畑があったりもするしでも人口密集地帯もある
それももう半世紀前とかなると記憶もおぼろになった
でも登戸でこんな犯罪があったのか?それで注目したともなる

posted by 老鶯 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年05月29日

借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類 (日本人が貧乏する理由(武田邦彦)


借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類

(日本人が貧乏する理由(武田邦彦)




武田氏はとにかく見識が広いから参考にして見ている、人間はなかなか正確にわからないし批評はできない、だからコメントするのでも一行二行とかしていてはわからない
こいつは馬鹿かとかなんとか言ってそれで平等化する
それでも何か批判して俺の方がわかっているんだともなるからだ
だから私は一行二行のコメントを歓迎しないし私のプログにはコメントはない
やはりプログでその人なりのものをもっていて批判しないと相手にしたくないのである
ただプログだとどこに書いてあるかわからないから問題なのである

武田邦彦氏は人気がありあれだけ広い見識があるから参考になる
それは直接現代のエリート層とも通じているし外国生活も長いからその経験で違っている第一私は底辺層としかつきあったことがないからである
すると社会のことを底辺からしか見れないのである
そうしたら社会のことはわからないとなる

ただ人間はつくづくその人の生い立ちから住む場所から個性でも違っている、だから人はみんな違っているのである、その人自身の個性を作る条件がみんな違っているからである毎日海を見える場所にいる人と山に囲まれて山ばかりみている人でも何か人間も違ってくる、風土によって違ってくるから世界中てこれだけ文化も違ったものとなるのである

だから人間は自分の経験からいろいろなものを見るのが基本になる
経験しないものはわからないのである、それは本を読んでもわからない
実感がないからわからないのである、例えば戦争でもこれだけは実感することが不可能である、隣にいる人がばたばた死んでゆく、戦友が死んでゆくことなどとても経験しないかぎりわからないのである、だから戦争がどうのこうのというときそういう経験した人こそ戦争を語れるとなるがしない人はわからないから戦争はいいものだとさえなる、恰好いいともなってしまうのである

武田氏は超エリートである、でも貧乏のことを語る時何かずれているなとも見た
なぜなら借金してでも金を使うのが資本主義社会である
そういうことが理解できない、もちろんそこに深い意味があるかもしれないから表面的なことで軽々しくは批判できない
youtubeの欠点は言うことが短いし何か感情的になりふすい、それで非正規の苦しさを訴える人に同情した、声とかが出ると何か感情がでてくるんだなと思った
テレビというメデアは声とか表情が見る人に影響する、それで人の感情をあおる
あいつが悪い奴だとなるとみんなが感情が刺激されてリンチ的になるのである
つまりテレビとかは深く考えさせるメデアではなのである
ただyoutubeを見ていてわかったことはテレビとも違う何か学習機能がある
常にスタディしている、だからテレビのような大衆相手にエンターテインメントになっているのはも違う、とにかくテレビは視聴率がとれればいいのである
youtubeも視聴率が問題になるが百万とかまでは見る人はいない
そして個々の経験に基づいたことを発言しているのである
そこはテレビというマスメデアとの大きな相違だったのである

youtubeでもまだ深くは考えられないメデアである

それを感じた、だから借金してでも使いというとき誤解が生じる
そこだけをきりとって反論すると誤解が生じる、またそこには深い裏付けがないからである
なぜなら武田邦彦氏は果たして借金の意味を深く考えているのか?
まず自分自身が借金をしたことがあるのか?借金で苦しんだことがあるのか?
また他人の借金で苦しんだことがあるのか?
それがあれだけのエリートだとない、そこに借金とは何かわからなくなっているのだ

自分自身も親の介護とか自分の病気とかで苦労しなければ人はみんないい人だとのんきに思っていたのである、社会ともかかわらずに60まで生きていたことが異常だったとなる
だから社会は人はみんないい人だと思っていた
人間とは結局自分の経験から社会でも見る
一旦人から裏切られた人は深刻な人間不信になる、もう人間は信じられなくなるのであるそういう経験を私は介護になってからずっとしてきてそのことプログに書いてきた

人間とはこんな恐ろしいものだとか実感した、誰一人として自分が苦しんでいるとき同情もしない、むしろ相手が弱ったからチャンスだとなり大金は盗まれるわ何かと責められるとか苦しんだ、一切そこに同情すらなかった
それも自分自身がこれまであまりにも楽していた結果でありカルマだったことを知った
だかちそのことで他者をうらまない、でもそれ以来人間観が変わってしまったのである
人間がこんな恐ろしいものだと思わなかったからである
人間は自分が苦しんでいれば相手が死ぬと何であれ何の関係もないのである
だから最底辺で苦しんで老いた人が言う
あそこの土手の道で倒れても誰も助けないというときそのことに共感したのである
その人もこれまでひどい目にあった連続だったからそう思うようになったのである

そして借金してでも使えということがどういう意味なのか?
そんなこと軽々しく言えるのか?
借金した人が私が介護して病気になって来た時どれほどの恐怖を与えたか?
そのことを書いてきた、事業に失敗してかなりの額の借金をした人がきて助けると言うがもう助けるどころではない、その人の頭には借金のことしかない
それも額が多いのである、だからもうその人にとって頭は借金のことしかない
すると自分が苦しんでいてもそんなこと関係ないのである
こいつからなんとか借金しようとしかないのである、だから脅迫もされたのである
その時自分が病気であり介護していてどうにもならなくなっているからそういうふうに借金でも要求しやすくなっていたからだ
その人はなんとか自分の財産を得ようとしていたのである

その人は別に会社にいたときはいい人だったのである
誰もとれない資格をもっていた技術者だったからである
ただ事業をはじめて失敗して借金したのである
その人はまず事業などできない、商売できない人だったと思う
経営者にはなれない人だったと思う、技術をもっていても経営とか商売は違っているからだ、その人はまず私が病気のとき物を持つことさえ嫌がっていた
入院するとき物をもつことさえ嫌がっていた
つまり私のためには何もしたくなかったのである
それはその家族にも言えた、ただ金が欲しいしかなかったのである
そういう人がどうして会社を経営できるのか?
他者になにもしたくない、ただ金をもらいたいというだけなのである
そんな人に仕事でも頼むだろうか?その家族もまたそうだったのである

そして借金している人は怖い、借金しているだけで犯罪者予備軍であり犯罪の動機をみると借金を返すためだとかの動機が本当に多い
だからまずこの人が借金しているかどうかでその人を見るのが常である

だから借金している人は犯罪者である

ここまでなってしまうのである、それほど借金は人間を変えてしまうのである
借金している人はもう人を助けるなど全くできない
また追い詰められている余裕のない人間は人のことなど考えない
会社でもそうだし今の銀行が追い詰められているもう顧客のことなど考える余裕もないのである、会社がもうけをだすためには詐欺的な投資信託でも売りつけるほかないのであるつまり余裕がない人は人を助けるとか考えることすらできないのである

だから借金してまで使いということほどあまりにも浅薄な意見はない
ただ資本主義社会では借金は奨励されるというとき会社とかで事業する人はそうかもしれない、でもその人は事業していたのである
そして多額の借金となり我が家が苦しい時借金を返すために脅迫までするようになったのである
だから借金は人を根本的に変える、善人も借金で簡単に悪人になる
もう借金した時点で悪人となっているのである

だから武田氏の見識の広さには学んでいたがこれはどうかなと反発した
ただその背後には深い意味があるがそれが語られないのかもしれない
でもこれは危険なことである、借金してでも使い、そうなのか?
そんなことで同調して借金して使う人がいたら危険だとなる
結局は人間はその人の限られた経験からしか語られないのである
あらゆることを知り経験することはできない、そこにかたよって見方が生まれる
底辺で生きている者は社会のエリートとして生きている人のことを理解できないのであるまたエリートは底辺の人を理解できないのである

だから格差社会になるとたがいに社会で理解し得なくなり分断されて社会が維持できなくなる、その認識は共通していとなるが借金については個々人ではすべきではない
借金の恐ろしさについて鈍感でありその恐ろしを知らない
借金によって人間のモラルは消失する、ただ借金を返すために借金のために殺人まで普通にするからである、そういう事件はいくらでもあるからだ
ただ正直youtubeでもネットではなかなか深い議論にはならないのが問題なのである


あとかぎ

借金しても使えというとき貯金だけしてもだめだということはある、金をいかに有効に使うか、それが資本主義だということもある
だからそういう意味とかありそれはくみとれる、でも借金しても使えというのは誤解を与えやすい
国単位とかだとそうなのかもしれない、でも個人単位では別だと思う




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