2019年05月18日

藻屑蟹 (徳間文庫)赤松利市(kindle版) を読んで (南相馬市などの除染で金が乱れ飛んで荒廃した話)


 藻屑蟹 (徳間文庫)赤松利市(kindle版) を読んで

(南相馬市などの除染で金が乱れ飛んで荒廃した話)


 
  過剰とも思える賠償金の狙いが、原発避難民と一般市民との分断を意図した施策だと考えればどう でしょ う」 「俺たちは、 それに乗せられた、という ことなのか」
   原発避難民に心底から同情を寄せる市民が、どれだけいるでしょうか?」

   ゼロかもしれないと思ったが、口にはできなかっ た。 「おそらく ほとんどいないでしょうね」   
  「莫大な補償金を得ることで、 原発避難民は孤立してしまっ た」

原発避難民の帰還事業が始まった、帰還した避難民への補償金は原則打ち切られます
高額の補償金で持ち上げられるだけ持ち上げておいて、帰還できなるからといきなり梯子をはずした
避難民は当然不平不満を口にします
その声が一般市民に届かない構造が出来上がってしまているのです
本来は避難民は脱原発を身をもって声高に主張できる立場にあったのです
しかし彼らが主張しているのは補償金の継続です
そんな彼らを脱原発派の人間が仲間として認めるのはむずかしい

このことは私も前に書いた、この小説はめずらしく原発避難民のことを非難している
小説だからできたが今でもなかなかできない、原発避難民からの抗議が出てくるからだ
でもこの小説で指摘した

「過剰とも思える賠償金の狙いが、原発避難民と一般市民との分断を意図した施策だと考えればどう でしょ う」 

こんなことを政府とか東電で意図して過剰な補償金を出したのだろうか?
確かに原発避難民は過剰な補償金をもらったし今でも足りない足りないとして裁判にでも訴えている、それはもういくらもらってもたりないとなる
そういうことを延々と要求すると補償金をもらわない人たちはあいつら金の亡者だとか見るようになる、原発を誘致したときも金が欲しいからであり原発事故以後も金をむしりとるだけむしりとる奴らだとかなってしまった

そのことで別に原発と関係ない人たちもいいものとは見ていなかったのである
ネットでは(原発乞食)とか非難されていた、ただマスコミとかではNHKでも常に原発避難民側にたって放送していた、補償金のことは言わなかった
そのことでさらに原発避難民は冗長したともなる
またボランティアでも絶えず仮設にきて応援していたから原発避難民はかわいそうな人たちとして見られていた

ところがその仮設に住む周りの人は補償金を全然もらっていないのが多かったのである
南相馬市だと原町区は30キロ圏内でそれなりにもらっていたが鹿島区は一人70万しかもらっていない、それでももらっているからいいとなる
相馬市になると何にももらっていないのである
別に放射線量は同じなのである
でも相馬市にも相当な原発避難民が仮設に住んでいたのである

そういうことで鹿島区の人たちは不満であったが表立ってはそのことは放送されなかった私がそのことを書いたら「お前は傷口に塩ぬって楽しいか」とか言われた
それだけもう原発避難者の被害者意識はこりかたまっている、それに一言でも批判すればお前らは情もなにもない人間なのかとなっていたのである
それを助長したのは政府とか東電とかマスコミだったのかともなる
それからボランティアすらそうだったともなる、別にボランティアに悪気がないにしろ善意でも原発避難者様にしてしまったのかともなる

でもこうさせたのは政府とか東電とかマスコミとかであり何か別な施策があったのかともなる
でも原発避難民にすれば被害があったのだから金をもらうのは当然だとなり周りの人たちの配慮が全く欠けていたのである
それは俺たち被害者だから当然でありなぜそんなに文句言うのだとなっていたからである
そこで政府や東電の意図したように深刻な分断状態が生まれた

反原発を言える立場でもいくらその人たちが反原発を訴えても聞かれない

あいつら金だけがほしい原発乞食なんだよ

そういうふうに見られる構造ができているから通じなくなったのである
あいつらが欲しいのは金だけだと見られようになったのである
そのことを私は前に書いていた、もしそんなに補償金をもらわなかったら強力な生き証人であり反原発を主張できたのである

そして鹿島区では底辺の人が家族が三人いたから不満が本当に大きいのである
もし小高区のように補償金をもらったら相当に喜んでいた
一人に十万が払われるしその他ももらえるからそんな金をその人は手に入れたことがないからである、そういう底辺層は小高の人に不満を強く言っていたのである
他でも相馬市とかでもそうである、放射線量は変わらないのに補償金はゼロだからであるそれは政府とか東電の分断政策だったのかともなる
それが首尾よく成功して地元では反原発にならず政府とか東電に一致して反原発と反政府とかの勢力にならなかったとなる

だから外から来た人は会社経営していた人は失敗したにしろ個々人に補償金を払うよりその金で市町村の復興に使うべきだといっていたのもわかる
個々人に補償金を払った結果どうなったのか?
その多額な補償金でいち早く他の街に移り家を建てたりしたからである
まずそんなに補償金がもらえなかったらそう簡単に移住はできなかったのである
だから小高などは失敗だった、そもそも30キロ圏内だからは移住させる必要がなかったのである、それは賛否があるにしろそれほど放射線量が高くなかったからである
これも30キロ内で区切られてそうさせられたのである

国を治める時、分断して治めろというときそういうことがここにもあったのか?
何かそれがここでは成功したとなるのか?
本当に怒りをぶつけるものが仲間内であり肝心の政府や東電にはむけられなかった
例え向けられて裁判になったとしても国民からあいつらはただ金が欲しいだけだよと見られるだけだったからである
第一そもそも南相馬市内で小高とか原町とか一致しない
原町の人が鹿島に来て一致して補償金をもらうために戦おうと集まったが原町は三倍ももらっているのだから協力などできなかったのである
もしその時原町と鹿島が同額の補償金をもらうために戦うならできた
それがないからできなかったのである

つまり南相馬市は30キロで区切られて政府とか東電の思惑通りになったとも見れる
何かそこで自治体としての対策があっても良かったが何にもなかった
そしてみんな補償金をもらうために血眼になっていただけだとなる
この小説ではこの辺が多額の補償金で狂わされたらことを書いているのもわかる
それは石巻でもそれと似た状態が起きていたことも書いている
仙台の国分町などが舞台にてるのもわかる
津波の復興事業で作業員が流れてきて金を手にしたから散財したともなるからだ
その中に刑務所に入っていた人もいたとかもわかる
暴力団も入ってきたからである
そして除染では建設業で莫大な金を手にしたとも聞く、それが報道もされたのである
ついまりこの辺では非日常の世界が生まれ田舎ではもらえない金か乱れ飛んでその金で狂ったともなる

でもその熱気がさめたとき金もなくなったとき後はどうなったのか?
復興はすすまず流出した若い世代は帰らずゴーストタウンになったままだともなる
でも何か補償金問題でのしこりがあり一致して残った人でも協力できないとかある
とにかくこの小説はこの辺の現実を書いている
きれいごとではない現実を書いている    

震災後の一年で石巻の人口は一万人以上減少している
故郷を見限った人の気持ちもわかるよな、弔慰金で大金もらって仙台さ住んでいる人もいるけど石巻に残って故郷の復興のために汗流している人間としては地元を見限って安穏と暮らしている人間に一言謝ってほしいよね」

石巻の人に聞いたけど何か保険とか一億円入ったとかでやはりあそこでも大きな金が入った人たちはいたのである
でもその金をもらって仙台に出て行った、だから仙台の人口は増えたのである
とにかく南相馬市辺りでも仙台から親戚でも来る人が多いのである
それだけ仙台と関係深いのである、今の時代はどうしてもこうして移住しやすいから大きな金が入れば出で行ってしまう
故郷に愛着をもたないことはグロ−バル経済のことで書いてきた
広域社会からグロ−バル経済になると故郷に対する意識は希薄になる
小さな畑で作物がとれなくても野菜でも米でもいくらでも買えるじゃないかとなる
金があれば不便な所に住む必要はない、他に移り住めばいいじゃないかという気持ちになっているからだ
そのこと自体が故郷の価値が低下してまたそこに住む人の価値も低下する
仲間意識もコミニュティ意識も田舎だって希薄化しているのである
だからこそ簡単に街自体が分解してゴーストタウンになったとか私は指摘したのである

何かこのことは私も指摘してきた、津波原発とか自分自身の一身上の介護とか病気のこと自体が小説だった、こんなことがあるのかという信じられないことの連続だったからである、小説を書く能力があれば賞ももらえたのかとなる
それだけの体験をしたからである
小説は一般向きの娯楽にもなる、ただ詩となると理解できるのはわずかである
でも小説にはそれほど価値はない場合がある、通俗小説が多いからである
とにかく私が書いたプログは長編の小説にもなるドキュメントだったのである


posted by 老鶯 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年05月19日

原発事故の責任問題 (責任は地元から周辺から国自体、世界まで波及していた)


原発事故の責任問題

(責任は地元から周辺から国自体、世界まで波及していた)

genpatuuu11.jpg

原発事故でわかったことはその影響が大きい、影響というとき責任も世界まで拡大していたのである
海が汚染されたことは世界的環境汚染でもあったからだ
一時は東北にはもう人が住めないとか吉田所長が言っていたからそんなに怖いものだとはみんな知らなかった、知らされていなかった

そしてその責任の範囲が原発を誘致した地元にありさらに周辺地域と拡大して日本全国から世界まで拡大するものだったのである
たいだい事故だったら一地域にしか影響しない、火力発電がこの辺では津波の時火事になった、それは原発事故とは違うから騒がなかった
でも原発事故が火災になり爆発したらすぐ近くにあるのだからここも避難させられた
もちろん30キロ圏外でも避難した人が半分いたのである

まずこんなに怖いものだと地元でも認識していなかったしさせられなかったのである
だから「安全神話」が形成されて信じていたのである

普通はそんなに重大な危険があるものは手を出さない、なぜなら事故になったらその責任があまりにも大きくなるからだ、いかに会社でも責任を回避することを第一としている
保険でもなんでも細かく法律で規定しているがそれは責任を逃れるためである
責任はとりませんということで細かく規定している

だからなぜなのかわからないが駅の切符売り場に人を置くようになったが「駅の業務はしません」と張り紙がしているのはなぜだろうと思った
そこにいること自体必ず運行のことやらなにやら聞かれるからだ
駅員のいる場所だから聞かれるのである
だからなぜ駅の業務をしないのだろうと不思議になる
それも責任をとりたくないからそうしているのだろうとなる
また業務委託しているのは信号の操作などでもさせるというときJRに責任がないとしてまかせる、責任は業務委託した人だとしている
つまり大きな会社では責任を意識するからそうなる
もし事故があるとJRがとらされる、そこは大きな会社だから巨額の賠償でも請求できるからである

それで東電は原発はとても東電では責任が負えないから国が責任を負うとういことで原発を作った、国という時、それは国民のことなのである
国民が責任を負うということなのである、国民が許可したからできるのである
それはその時の政府が責任を負うということではじめたことでも国民が投票で自民党なりにまかせたからできたとなる
結果的には原発事故の巨額の賠償は国民が税金として払うことになったのである
でもそこまで国民が意識していたかというとしていない
それまで意識していたとしたら日本のような地震国に原発を作らせなかったからである

とにかく何か社会というのは人間個々人でも常に責任を負わされる立場にある
恋愛だと責任がないが結婚だと責任があり簡単にはできない
恋愛なら嫌になったら別れればいいだけだが結婚はそうはならない、離婚となればめんどうであり責任が生じて金を払わされる
契約自体が責任を明確にして責任をとらせるためにあるともなる

地銀で投資信託をすすめる、私にまかせてくださいと言う
では損した場合の責任はどうなるのですか?

一切責任はとりません、お客様の責任になります
でも手数料だけがいただきます

これもおかしいのである、私はプロですからまかせてくださいと言うからまかせた
そしたら責任が生じている、でも地銀では一切責任はとらないのである
ただ別に株でも上がり下がりがあるのだからすへてが銀行の責任というわけではない

これは原発と同じなのである

「安全神話」で絶対に事故は起こりません、まかせてください

こう地元の人たちに言っていたからである、では責任はどうするのですか?
結果的にはもう責任もとりようがなくなった
放射性物質で汚染された土地はもう30年なのかわからないが元にもどらないとなったからだ、責任は必ず誰かがとらされるのである
日本の戦争だって3百万人も死んだという時、そのことはなぜそうなったのかわからないにしろ責任だけとらされた、国民がとらされた、その責任は今でもあまりにも重すぎたのである、ただ戦争始めたとき誰も3百万人も死ぬと思った人はいないのである
戦争ともなればその責任はあまりにも重いものとなったがそれを自覚しない
そして戦争をどうして起こしたのか?その責任はと言ってもわからない、でも3百万人が死んだということで責任をとらされたのである

その責任はどうするんですか?

そして政府でも東電でも確かに賠償金は払ったとしてももう街とか自然が元にもどらなくもなったからである

ともかく「安全神話」でも地銀でも(私はプロですからまかせてください)とういうとき

責任はどうしますか?損したらどうしますか?

銀行では手数料はもらいますが損してもなにもできません

一切の責任はお客様がとることになります

最初からこういえばわかりやすいのである
そういうものなのかと客でも認識するからである 

原発でも「安全神話」を形成してその危険性を一切教えもしなかったのである
だから原発が爆発した時どうしていいかもわからず混乱するだけだったのである
もともと「安全神話」で事故は絶対に起こらないと言っていたからそうなったのである

ともかく人間は常に責任を課せられている、そして責任から逃れようがないのである
生きてきたことは責任をとる、とらされることであり責任はカルマだともなる
その責任は必ず周りに波及してとらされる

事業を起こして失敗した人が親戚にいたが自分自身は関係ないと思っていた
ところが自分の家が介護になり自分が病気になったとき相手は借金で苦しんでいるから
弱味につけこんで金を要求してきたのである
だから別に自分が関係ないと思っても他者の過失であれなんであれ影響してくる
交通事故などが一番わかりやすい、自分に何の過失もないのに事故を起こされて無惨に死んだ人などいくらでもいるからだ
必ず回りに責任が及んでくる、自分は関係ないと思っていてもそうなのである
世界のことでも遠い国だから関係ないと思っていると戦争に否応なくまきこまれたりもする、つまりこの世の中何であれ連帯責任の中に生きているのかともなる

ただそれが自覚できるのは現実にこうして苦しみがあり被害があったとき意識するのである、そういうことがないと意識できないのである
カルマでもそうである、なぜこんなに苦しむのだというときそこに何かしらのカルマがありそれが現れて苦しみになるとき自覚するのである
何もなければ自覚できないのである



posted by 老鶯 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

抽象画は決まったソフトを使う手順でできる (化学実験とにている、だから才能がなくてもできる)


抽象画は決まったソフトを使う手順でできる

(化学実験とにている、だから才能がなくてもできる) 

Abstract painting can be done by using fixed software
(It's a chemical experiment, so it can be done without talent.)


mmmbluemmm.jpg


mmmshadowwwwww111.jpg

mmmmmvvvv232144end.jpg
enlarge

snowandfire1122.gif


mmmeveningred11.jpg

morningforestsun111.jpg

morning forest

blackforestwater11.jpg

night forest




私の抽象画の製作はソフトの操作でできる
その過程がまるで科学の実験とにている
まずAのソフトを使い次にまた同じソフトでも操作を変え
そして別手ソフトでまた変える
この手順が決まっていることがわかった
それが抽象画になりやすいのである

山の抽象画とか鉄道の電車が走るトンネルの製作がそうだった
決まったソフトの操作でできることがわかった
そこには創作性はない、他人の作ったもの写真でも利用しているからだ
ただそこに著作権違反があるかもしれない
ただまるっきり別なものになっているのが多いからわからないと思う

山とか森とか鉄道のトンネルは決まったソフトの操作でできる
だからその手順がわかれば大量に制作できる
なぜならいくらでもその元となる写真でも絵でもあるからそうなる
これはAI化できる、決まった手順をプログラムすればできるからである


I can create my abstract painting by software operation
The process is like a science experiment
First use A software and then change the operation with the same software again
And change with another soft again
It turned out that this procedure was decided
It is easy to be abstract

The construction of the tunnel where the abstract of the mountain and the train of the railway run is so
It turned out that you can do it by the operation of the fixed software
There is no creativity in it, because it uses photographs made by others
There may be a copyright violation there
I just do not know because there are many things that are completely different

Tunnels in the mountains, forests, or railroads can be operated with fixed software operations
So you can make a lot of it if you know the procedure
Because it is the picture and the picture that is the origin of it

This is because it can be made into AI by programming a fixed procedure

2019年05月20日

津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため (人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)


津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため

(人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)

isobemappp.jpg
クリック拡大

isobetttt111.jpg

isobetttt111222.jpg

isobemapp1.jpg




相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。
 「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった


丸森の方に行って山に登り相馬市を松川浦を見た、そこで感じたのは人間はこうして俯瞰的に見ない、いつも暮らしている場は狭い場所なのである
人間の弱点はこうして俯瞰的にとか広い視野で見ることができない
それから長い時間で見れない、つまり総合的に見れない
そこに盲点があり津波のことでもそれが言えた

高い視点から俯瞰的に松川浦を見たら津波のことをイメージしたらどういうふうに津波が来るか見える、でも住んでいる場所から見えにくい

そもそも磯部は砂州になっていたところであり松川浦は今よりかずっと広かったのであるではなぜ砂州のような所に家が密集したのか?
それは海岸線が漁業するのにいいのと船溜が漁港になっていたことである
つまり磯部は漁港として機能していたのとその後背地は田んぼだったのである
田んぼに家を建てることはできないから砂州に家が密集した 
半農半漁の生活があり家が海岸線に密集した

日本は山が多いために余計に俯瞰的視点が持ちえない
ヨ−ロッパとか中国でも塔が多いのは俯瞰的視点を得るためである
それは平地が多いから有効なのである
日本では山が多いから塔を建てても俯瞰的視点が得にくいのである

津波のことを知るには住んでいる土地を俯瞰的に見ることが必要だったのである
そして津波の被害がどういうふうになるシュミレーションしておくべきだったとなる

そして時間的にも歴史的時間でも津波を経験していないから津波が来ないという確信までになっていた、それで老人が避難しないで犠牲になったというのもいくら老人でも百年生きたとしても400年前のことなど語り得ようがない
そこで大事なのは伝承とか記録になる
「相馬藩政史」は殿様が代替わりしないから相馬藩のことを連続的に記録されているもので貴重であったが二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていなかったのである
それも津波の後に発見されたのである、それまで津波のことなど誰も知らなかったのである
ただこの二行だけでも発見していれば警告になった

人間の盲点は俯瞰的に見れない、日本は特に山が多いから俯瞰的見れないのである
大陸だと平原とか草原とか砂漠とか広い平坦な土地がどこまでも広がっている
すると俯瞰的にみる、それで大陸では戦略思考が生れる
戦略は広い視点で見て戦略を作る

【連合国の戦略】
揚陸部隊によるドイツ占領下の北西ヨーロッパの奪還

【連合国の戦術】
夜間の落下傘部隊の降下と艦砲射撃や空襲による援護

日本の太平洋戦争は戦略がなかったといわれる、戦術はあったのかもしれない、戦術は個々の戦場で発揮される
でも戦略となると戦争を総合的に大局的にどうすすめるかとなるがそれがなかった
全体の戦略はなかった、だから無闇と戦線を拡大して大敗北となった

いづれにしろ人間の盲点は俯瞰的に見れない、第一地球でも宇宙でも俯瞰的に見れる人はいない
それは神なら見れるが人間には極小の中に生きているから見えないのである   

箱根路をわが越えくれば  伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ   源実朝

こういう大きな空間は古今、新古今の歌には見当らない

そうなのか?古事記などでは日本の国造りを大きな視点で表現していた
日本は国見山が多い、南相馬市の原町にも国見山がありちょうど鹿島ー原町―小高が見えるのである
それで南相馬市が合併したのは地理的に必然性があったとなる
相馬市は視界の外になっていたからである
相馬市を見たのは丸森の高い山の上だったからである、あそこからは蔵王を見えたし亘理の方へ伸びる海岸線も見えたのである
絶景ポイントだったのである

ともかく人間は視点を変えれば見え方が違ってくる、人間の弱点は地理でも常に自分の住んでいる場所が中心になる
するとその視点が固定化されて全体の視点を見誤るのである

いづれにしろ磯部は悲惨だった、2000人も住んでいたのに壊滅して何も残らなかった、これも空恐ろしいものだったとなる


posted by 老鶯 at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年05月21日

メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる (youtubeをみて感じたこと)


メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる

(youtubeを見て感じたこと)

昨日は疲れた、ウィルスソフトの体験版をインストールしようとして失敗した
すでに入っているマイクロソフトのdefenderを削除しないとできなかった
途中で中止できたから良かった、へたにするとパソコンの不具合になる
パソコンは今はいいものメーカー品を買わないとあとで困る
富士通のパソコンはいいから買っていて良かった
後は中古品を使っていた、そしたら不具合になった
何かこのパソコンは使い方で苦労する
20年くらい使っていても私は詳しくはないのである
その機械ばかりにこだわっていると肝心の書きたいことに精力をそそげないのである

youtubeは今や小学生でもユウチュバーになりたいとかなっているから新しいメデアなのである
メデアとは媒体のことである、仲介するものとか中間で偏りがないという意味でもある
でもマスメデアとういうときメデアが力をもっていたからメデアを通してしか発言できない、するとメデアを持つものが絶大な権力をもったのである
私に発言させてくださいと言ってもメデアをもっているマスコミを通してしか発言できないのである、それもメデアをもっているマスコミの意向に沿っての発言しか許されないのである
それはNHKでもそうである、でもそうだからこそマスコミは第三の権力となっていたのである
マスコミに顔だけ出てもそれだけ絶大な効果がありその人物など関係なくても名前が知れるから選挙に有利になったのである
それで青島とかなんとかなにかふざけたものでも芸能人でも名前が知れているから都知事になったりする、それはマスメデアのマスコミの影響でそうなったのである

ただこのyoutubeとは何なのか?これは実際はまた違ったメデアだと思った
これまでは写真も出でいたがテキスト中心でありビデオ形式では出ていなかった
つまり今や個人がテレビ局になっていたのである
何かこれが最初違和感がありわからなかった
こういうのは新しいものは老人にはなじめないのである
パソコンを20年とかしていてもそうなのである
ITの世界はいろいろあり複雑なのである、遺伝子情報の解析のようなことウィルスソフトでしている、その複雑さはもう理解できないとなる

このyoutubeで理解したのは最初は武田邦彦氏の放送を見ていた、次にdeepmaxの中国情報を見た、これも中国の裏側がわかって興味深い
何か最近「オスマン帝国外伝愛と欲望のハレム」このドラマを連続して見た
中国の権力闘争は中国のカルマとして繰り返されている、でも権力闘争となるとオスマン帝国でもそうだったしハレムとは江戸時代の大奥だったから同じだった
東西でも人間のやることは共通していたのである
それが人間の業(カルマ)だったのである

最近のyoutubeで面白かったというかこれは何なのだろうと良くわからなかった
Love & Freedomの底辺労働者の訴えである
これがなぜか生々しいものだった、それは底辺労働の非正規の現実を生々しく訴えていたからである、そこで外国人労働と競争する底辺労働者の恐怖を理解した

日本人底辺労働者が外国人労働者に追いやられる!

これもグロ−バリゼーションのためだった、賃金競争で最底辺のネパールとかベトナムと同じ水準化する、その深刻さがここの放送で生々しくわかった
それでこれは個人の窮状をとかを訴えるのには効果的なメデアだと見た
とてもマスコミでは個人でこんなふうに訴えられないし語られないのである
確かに学者とか政治家がマスコミで語るとしてもその当事者が延々とその不満を経験から語ることはできないのである
だからそういう声は抹殺されていたのである
その人の焦燥感が何かyoutubeだと生々しく伝わってきた、これはテキストだとこんなふうに伝わらない、さめたものとして読んでいるからである
だからこれはメデアによって伝わり方が違うと見たのである

この人は何か大学院まで出て臨床心理学とか学んで実際に職にもついたから相当なインテリなのである、だからなぜ底辺労働者になっているのかわからない
でも家族とか恵まれないとかなり身寄りがないとかでそうなった
両親に大学の時なのか捨てられたのである
それに比べると自分は相当に恵まれていた、家族に恵まれてこんな自由な生活ができたと今でも感謝している、だから介護も必死でしたのである
それは強制されるのではない、そういう気持ちに自然になっていたからである

なぜ私がこのyoutubeの放送に惹かれたかとなると自分自身も20代に底辺労働者だった
流れ作業とか建築現場でも働き高いビルから落ちて死ぬところだったが危機一髪助かったのである、自分が働いたという時そういう場所しかなかった
三流大学の文系であれその当時はみんなどこの会社でも人手不足で就職できたが自分はしなかった、だただそういう人は本当に10万人に1人なのかほんのわずかしかいなかったみんな高度成長時代であり企業戦士となっていたのである

その時自分は追及していたのは宗教である、それでカルト教団に入ったのである
これも全く宗教を追求する、求道する場所ではなかった
でもそこで大学時代を費やしたのである、これも無駄と言えば無駄だった
とにかく人間は無駄が多すぎるのである、青春は浪費と放蕩とかで終わるのも多いのである
そして青春はあまりにも短すぎたとなる、あっというまに過ぎて老人になっていたのである

いづれにしろメデアの変化がITで凄まじい時代であった、平成はITの変化の時代でありそれは世界的に共通していたのである
そしてその変化は今も続行中なのである、だから理解できないものがある
私はスマホをしていないからそこで確実に理解できないものが生じている
メデアの変化という時、ソフトで新聞のようなものも雑誌でも作れる
本自体でも作れる、ただ出版のハードルは高い、インタ−ネットだと誰でも即座に発信できる、そのことが大変化だったのである
だんだんテレビでも見なくなる、youtubeが主流にもなるからもしれない
別にテレビ局は一人でも作れるしもしスタッフを何人か集めれば資金があればテレビ局が作れるからだ
それは教育とかでもそうしたテレビ局を作り資金もいらないのである
だからインタ−ネットのメデアを利用することでビジネスもできる
ただyoutubeが何かわからなかったようにまだこのメデアを利用することがどういうことなのかわからないことがあるのだ

botomworker1.jpg

続きを読む

40歳の焦燥 (人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)


40歳の焦燥

(人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)

Love & Freedom(底辺労働者)の人がなぜ焦燥感に苦しむのか?
それは盛んに自ら言うように40だともう終わりだがそれまでならなんとか未来がまだあると見る
そういう中途半端な年齢だからだろう
でもすでに30を越えて40になると人間はもう決まってしまう
それでもうスキルもなにもないとか苦しむ
一生底辺労働で後は生活保護だとかFXで一発かけて挽回する他ないと悲壮感を漂わせている

人間は何か意外と20代くらいで決まってしまう、40近くになったからもうその一生は見えてくるとなる
「若き時に神を知れ」というのはそのためだった、この深い意味は若い時わからないのである
20代で求道しないものが30過ぎて40過ぎて求道できなくなっている
そんなことがあるのかというときふりかえるとあった
求道は最も命が盛んな時するものであり力が衰えた老年になってすることができなくなる
普通はこういうことを考えない、青春なら欲望のままに若さを発揮して生きればいいとかなる、そんな求道とか関係ないとなる
ただ求道だけではない、ビジネスでも仕事でも20代に骨格が形成されるから30過ぎると無理だとなる
だから人間は30でほぼ人生行路が決まるとまでなる
その20代があっというまに過ぎてしまうのである
やはりその時期が一番大事だったのかとふりかえるとなる

20代というとき何か人生はとてつもなく長いように感じるのである
永遠につづくようにも思う、だから年齢によって感じる時間は相当に違っていた
60とか過ぎると人生が終わるのがアッという間だったとなる
年齢によって青年と老人の差はこの時間感覚にある
人生が限りなく長いと20代では思っていたが過ぎてみればアッという間だった
そして20代でほぼ人生は決まっていたともなる
そしてすでに若い時は青春はとりもどせなくなっているのだ

ただ30までにほぼ決まるとしてもその先は長いこともある
私の場合は30年間旅に費やして終わったとなる
これも普通はありえないことだが正規のルートからはずれたからそのまま外れたルートを最後まで来たということになる
だから一旦正規のルートからはずれるとそのまま最後まではずれたままになる
20代でも正規のルートからはずれるとフリーターとかニートとかなり正規のルートにはもどれなくなる
時代が変わるにしてもそうなっいる

ただ人生百年という時今までと違った時間感覚をもつ必要がある
つまり成果を出すのはかなり遅くなる、60代とか70代になってもいいとなる
その先さらに百年生きるとなるとそうなるのである
だから長期展望ができる時代になっているのだ
何か成果を出すためにあせる必要はないのである
骨格は20代で決まるとしてもそこに肉付けする時間が長くなるのである

いづれにしろ40代の焦燥感はわかる
でもこれが60とか70とかなると消えてしまうのである
あきらめるから焦燥感が消える、なんとかしようとかもがくこともないのである

なんだ、人生は終わりなのか、これぽっちで終わりなのかと驚くのである
そして何か不思議な感覚になる
この人生は何なのか?人の出会いでもさよならだけが人生だとなる
人間は会ったとしても本当は分かれるだけだとなる
あなたとここで会いましたがすぐお別れです、私はあの世に行きます、あなたとは二度と会いませんとなるのも不思議なのである
例えば嫌な人がいようが常に嫁姑で憎み争っていようがその喧嘩していたのもなつかしくさえなるかもしれない、なぜなら二度と会えなくなるからである
現実に家族が全部死んでそうなったからである

この世にいつまでもいられない、人生はliveはleaveであり去ることだったとなる

とかなり次々に変わるのである、常がない、無常なのである
「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」.....
去ることが人生なら重荷もないのである
何かを重く背負うから背負わされるから人生は苦しくなる 
でももうこの世から去るだけだ、この世とはお別れだとなるとそういう重荷も消えるのである、だから60以上でも警備員とか底辺で仕事している人がいるがそういう人はあきらめているからふっきれているから悟りきったようになっているともみる
40のような焦燥感がないのである

人生はこんなもんだ、人生はこんなで終わりなのかと意外に思うのである
つまり若い時とか40でも何かをしなければならない、何かを達成しなければならないとかで苦しいのである
別に今日一日でも生きていれば得だよとか老人だとそうなる
なぜならすぐに死んでこの世とはお別れだからである
だから焦燥感とかはなくなる、ただ後悔は誰でもある
時間を有効に活かせなかった後悔は誰でもある、巨額の金を残した人でもそうである
青春はもどらないし時間がもどらない、人生をやり直すことはできないからだ
だから金より時間が貴重だったとなる

人生は誰でもなにかしら積み重ねがある、それが60以降に活きてくる
自分自身は文学の才能はあったとしても何か何もないとも見られていたのである
でも60以降とかさらにその後に何か今まで積み重ねたものが活きてきたなと思う
また理解できないことを理解できるようにもなったのである
詩でもそうである、相当に書き溜めたがまだ発表していない
なんとか詩集にしようとはしているがなかなかできない


青春でもその後の壮年でも人間には節制とか心を訓練する必要がある
しないと人間は欲望のままになり怠惰になってゆく
つまり心の鍛錬が必要なのである、それはあらゆる面でそうである
芸術でもそうであり他の仕事でも職人でも技を身に着けるのにはそうなる
それで全く絵の才能がないのに私が抽象画を作れたのはただ訓練してそうなったのであるだからすべて才能だけで決まるわけではないのである
何事か常に積み重ねて節制して鍛錬してゆくことが実りとなってゆく
だから人生百年時代は本当は焦る必要はないのである

自分としては酒とか煙草を30過ぎて一切やめたのが良かった
酒は頭を馬鹿にするし認知症にもなるかもしれない、精神を修行するには酒は良くない
なぜなら頭が一時的馬鹿になってしまうからである、脳と精神を麻痺させるのである
その影響は結構大きいのである、むしろ煙草はそんなに影響がないかもしれない
酒は一時的無意識にして馬鹿になる

いづれにしろ精神の修養と修行はしろ、節制はしろ!

これは別に宗教だけではない、あらゆる面で言えたのである
天才でない限り人間は積み重ねなのである
第一膨大な知識を全部知悉することは不可能である
ほんの一部だけであり天才だって知識的にわずかしか知ることができない
つまりある分野に積み重ねれば凡人だって詳しくなれる
そしてその人に埋もれていた才能が開花することはある
だから修行するとか節制するとかが大事になる
自分は社会からはずれて生きてきたけど修行とか節制をしてきたともなる
旅したのも見聞を広めるためであり何か無駄に浪費したのとも違っていたから今になり書くものがある、そして自分自身は節制してきたし雑学のような知識でも積み重ねてきたのである
それで凡人でも今になり何かしら芸術でも実るものがあったと思う
ただ誰も評価してくれないというだけなのである 




2019年05月22日

夏野(萱浜をめぐる)


夏野(萱浜をめぐる)

shipnanohana111.jpg


botanntutuji1.jpg
                        

船遅し菜の花満ちて海藍し

赤と白桜井古墳につつじ咲く

夏菊の庭に咲き満ち海望む

縦横につばめの飛びぬ夏野かな

石一つ古代の跡や夏野かな

隠されし木陰の道の涼しかな


牡丹咲きつつじの映えて朝日さし影のなきかも栄なるかな

我が家に牡丹五輪咲きにつつ栄えありにし跡を継ぐかな

満月の田に映りつつ蛙鳴く声のひびきて平和もどりぬ


写真は瀬戸内海のどこかの島だった、そこに一面に菜の花が咲いていた
そこをゆっくりと船が行く、瀬戸内海だと絶えず船が行くのが見える
その時私は島めぐりしていたのである
それも何十年も過ぎると記憶もなくなる
ただ船にはひかれている、電車もそうだがやはり風景にとけこむからである
そして船を見ていると何か時間がゆっくり進むように思う
車とか電車でも早く過ぎるから時間が早く過ぎてゆくように錯覚するのである
ともかく現代は時間に追われている
そんなふうにのんびりと島から島をめぐっていたというのもふりかえると恵まれていた

それから日本の船はほとんど乗った
一番長かったのは沖縄まで一週間貨物で行ったことだった
東京からはその船しか出ていなかったのである
第一そんな船に乗ること自体がどれだけ暇人だったかとなる
菜の花の季節はと終わった、萱浜は菜の花と海の風景が見られた

牡丹が咲いてこれも散った、どういうわけか庭の牡丹だけは毎年五六輪咲く
牡丹はまさに栄いの花である
隣の庭に咲いていたのは牡丹とつつじである
そこは空家の庭である、塀がないから丸見えになる
主はいなくなっても花だけは咲いているというのも不思議である
ただこの家には人が住むというが未だに住んでいない

萱浜は夏野になっている、田んぼがあることはある、でも原野化しているのが多い
そこに夏の黄色な小さな花が一杯咲いている
新しい電動自転車は悪路でも行けるし平坦な道でも坂道でもすいすい行くから楽である
これに乗ると何かどこまでも行きたくなるのである



古代の泉官衙遺跡の正倉院がある場所を表示した案内を設置した
一葉松の近くでありあんなところだったのかとわかりやすくなった
ずいぶん離れていると思ったが泉官衙遺跡は広い地域だったのである
何かその遺跡の石が発見されて露頭してあったとか案内に書いてあった

ここまで運河があったということが証明されている
それを絵にしたのをパンフレットで出している
何かそんな運河があったのかと見る
湿地帯だったから船でしか行けないということがあったのだろう
古代には船が運送に利用されているのが結構多いのである
陸地は湿地帯とか道がなかったから原始の状態になっていて船で行った方が便利だったとなる

それにしてもあんなところに正倉院があったとは意外だった
つまり泉官衙遺跡は広い地域であり新田川橋の高平の西殿はやはり古代の泉官衙遺跡と関係しているのだろうか?
それだけ広い領域であったのは意外だった
ただ西殿の地名は古代に由来していない、なぜなら沢田館があり西殿と東殿があったからである
でも古代に由来して西殿と名付けられたものはあるから注意すべきである
タグ:牡丹 夏野 萱浜

2019年05月23日

施設で老人が若い介護士に殺される (介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


施設で老人が若い介護士に殺される

(介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


 勤務先の有料老人ホーム「サニーライフ北品川」(東京都品川区)で入所者の男性(82)を暴行して殺害したとして、警視庁は22日、元介護職員の根本智紀容疑者(28)=東京都新宿区北新宿4丁目=を殺人容疑で逮捕し、発表した


このサニーライフは月の料金が23万とかそれなりにいい施設なのかもしれない
東京だと高くなる、ただ必ずその他にもいろいろ料金がかかり要求される
だから本当は25万くらいになっているかもしれない

なぜこの介護職員が殺人までにいたったのか?

それが知りたいとなる、なにかこういう事件はこれから増えてくる
認知症の介護だったのか?何が原因でそうなったのか?

介護問題はこれからさらに深刻になる、知っている人も非正規の建築現場で働いているのに親が施設に入った
それもこの辺の近くでは立派な施設があっても介護する人がいないから青森の施設に送られた、この辺では青森に多く送られているのである
つまり介護する人がいないのである 
そして施設に入れば後はみんなやってくれるというがその非正規の息子は施設から別途に金を要求されて払っているのである
つまり施設に入れたからといってそれで終わりではないのである
その人は金持ちではないから最低辺の施設に入れた、それで青森に送られた
青森は仕事がないのでそういう人を受け入れていたのである

介護する人がいないというとき介護の仕事が過酷だからそうなっている
誰もやりたくない、家族でもやりたくない、それで金がある人は施設に入れる
でもそこが介護される人にとっていい場所とかなるとはならない

介護の問題は何かエネルギーが奪われる、肉体的にも精神的にも奪われる
そういう仕事に若い人がつくのは何の生産的なことがないともなる
自分自身10年かしてもう肉体的精神的にエネルギーが奪われた
ただ私の場合は特別親に世話になったから自然と介護を懸命にしたのである
そういう動機が特別あったからである
だから認知症になっても懸命になってしていたのである

では介護施設では若者がそんな動機などないとしたらどうなるのか?
貴重な青春時代のエネルギーを奪われるだけだともなる
ただ別に若者の仕事でも最底辺で非正規で辛い仕事をしている人はいくらでもいる
自分も最底辺の肉体労働をしていたからである
ただそれも一時的でありそれ以後一切仕事はしていない、後は旅していただけだとなる
つまりそういう仕事でも一時的なら救われるのである
それが若い時長くつづきさらにその仕事で何かスキルがつくとか生きがいになればいいがならないとしたら誰もしたくないのである

何か自分は30頃だったとか親戚の人が叔父にあたる人が手術をするので輸血してくれとか頼まれたが断った
その時山登りして非常に疲れてしなかった、つまり自分のしたいことをして老人のために病人のために何もしなかったとなる
このように今なら介護とか病人の世話より若いなら遊びたいとなる
そういう時代であり介護とかなると誰もしたくないのである
自分が家族の介護をしたのは若い時ではない、60以降だったからである
それは特別世話になったから自然と介護に懸命にれたのである
もし若い時そんなことを強いられたら親を恨んだともなるからだ

山登りでも今になると体力がないからできない、すでに40頃から自分は登山をやめた
体力がないのでやめた、それで自転車旅行に切り替えたのである
自転車旅行も若い時はできないとと思っていた、でも実際は40過ぎても自転車旅行はできた、なぜなら疲れれば休めばいいからである
そうして私は旅ばかりしていたとなる
そのプラスマイナスはあった、仕事をしない人間は会社のことを知らない人間は何か欠けたものになる、それで介護では苦労したのである
介護では社会とかかわるからである、それでニートは親に頼っていられるときはいいが親が介護状態になりそれから死ぬと地獄になる
もし金もないとしたら最悪になる、それをプログで書いてきた
誰も同情しない助けない、弱者になった結果困窮した人たちが襲ってきたからである

いづれにしろこれからこういう事件が増える、これがどうして起きたのかわからない
原因がわかないがこういう事件が起きやすくなる
たとえ金持ちが入る施設でも起こる、かえって金持ちに若者が使われているとか不満になっているかもしれないからである
つまり介護には動機が必要だが金だけだったら手厚い介護はできないからである
それで虐待になる、非正規の底辺労働者は身寄りもなくあとは施設に入れられて虐待されて死ぬだけだと恐怖を語っている
身寄りがないとそうなりやすいので恐怖になる、そういう人を自分自身も見ている
病院でも特養に入っている人が虐待されていたからである
自分も病院に入院して虐待された
虐待は日常的にある、ただ殺人までになるとなかなかないが当然殺人までなることがありうるしこれから増えるのである、だから施設とか病院は自分自身が恐怖なのである



サニーライフの評判

ここも悪徳ブラック?

サービス残業や休日返上が当たり前の社風

入社後の離職率が高い。大量採用、大量退職を繰り返している
スタッフがやる気なくして次々と辞職

社長なんかが施設みたいな豪邸に住み、ロールスロイスポルシェベンツマイバッハとかを会社の経費として乗り回して、下は薄給そのものじゃ 
当然、下の人間は(不当な搾取に)あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、まともな神経で働かなくなる罠 

ここの支配人の月収は25万円で、土日祝祭日出勤当たり前、残業手当はなし。 
こんなんでモチベーション維持して働いていけますか? 
支配人もそうだけれど社員は消耗品で使い捨てで、潤っているのは経営者一族を 
始めとした一部の人だけなの?これじゃ何かと世界を騒がしているどこかの国と 
変わらないんじゃないか? 

贅沢は言わねえけどそろそろ休みが欲しいよ。 
ベテランはどんどん辞めてくだろ。


やはり離職率が高いからあまりいい評判ではない、働く人が働き安い環境がないと介護はむずかしいということか


なぜ日本の技術はITなどで遅れたのか? (日本の文化(言語)と相性が悪かった?)

                                                        
 なぜ日本の技術はITなどで遅れたのか?

 (日本の文化(言語)と相性が悪かった?)


動詞が文末に来る頻度が高い言語の話者は、陶磁器、光学機器、自動車のように、単体で完結する製品やサービスで強い傾向があり、目的語が文末に来る頻度が高い言語の話者は航空機のような大規模なものを作ったり、PCやスマートフォンのように他のさまざまなものと相互作用をこなすものを作るのに強い傾向があります。


ベストプラクティス、テンプレート、こういったものがないと動けないのが日本人の悪いところだと思うのです。これらは強いていえば、すべてコピペです。日本人はある技術が元々あって、それをより良くする、量産するといった、熟達させることは得意です。匠の技というのも歴史のある技術を熟達させたものを指しますよね。それはそれで日本の素晴らしいところではありますが、0から1を生みだすということに関しては、世界と日本とでは雲泥の差があると思います。これを自分の課題としてしっかり見つめることが重要です

言葉が技術と関係しているのか?詩を書いたりしていると言葉自体に興味をもつ
言葉は一番その国の文化をなのである、言葉が文化のアイディンティティなのである
すると言葉の問題もあってITに日本がは遅れたのかとなる
ここでドイツ語と日本語は語尾に目的語くるというが英語の基はドイツ語だとするとそういうことがあるのか?
ただドイツと日本は物つくりは得意だがITに送れていることでは共通しているという
技術でも何か得意分野がありITはまた他の技術と違っているのである
どうしても英語でプログラムでもコンピュター言語化してソフトでも作るのだから英語圏の人は有利になりインドでは英語圏であり数学も得意だからIT分野の人材が出やすくアメリカでソフト制作を委託されるようになっている

私は技術はわからない、文系だからわからない、でも何かパソコンをしていて抽象画を作っていてITとかAIの技術にかかわっていることを意識した
抽象画はソフトの操作で自動化してできるからである
森であれ川であれ電車が多様なシーンを進む地球を進むシーンを抽象画として作ることができたからである

IT化というとき膨大な情報を処理する能力のことでもあった、AIでもそうである
膨大な写真がインタ−ネット上にありそれを処理する能力である
それはきりなくあるから抽象画もきりなく生産できるのである
写真の加工が基本だとするといくらでもビッグデーターとして写真がインタ−ネット上にあるからそうなる

英語は何か数式とにたものがありそれがインタ−ネットやAIやプログラミングするのに適していた、相性が良かった、日本語であれ漢字であれ相性が良くない
でもなぜ中国ではあれだけIT化してアメリカを追い越すまでになったのか?
となると漢字文化圏であってもITの技術進歩はできるとなる
だから言語だけが関係していたともならないのである
ただ中国人は日本人より英語ができる人が多いのである、しゃべれる人も多いのである
語順が同じだということもあるかもしれない、その理由は良くわからない

「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」 

He left Tokyo for Nagoya(東京をたって名古屋に向かった)

これは何か数式のようになっている、英語は数式的なところがありそれてでITに相性が良かったのか、それとも英語的思考がITを生んだのかともなる

動詞が最後に来るとなると

私は森の中に鳥を見た 

私は鳥を見た森の中に

I look a bird in the forest


その相違があるが動詞が先に来て目的語がつづく
結局絶えず動くものを見ているのが動詞が主語の次にきて前になりやすい
でも最初に景色を見ているものは動詞が後になりやすい
森だったら最初に目に入るのは森だからである
その後に鳥でも動物でも動くものをキャッチする

日本では森が多いしドイツでももともと森でおおわれていた国である
それで共通しているのか?
平原とか砂漠だとまず動くものをキャッチするから動詞が先に来る
目的語も動詞の次にきて文頭に来る、そのバックとなる景色はあとになる 
次々に変化するものとらえるということでその変化に適応できるということで英語が有利だったのかともなる
農耕民的だと定着して一つの物造りに励むとういことがある、その物にこだわり作り上げる
それは農耕民ではない、森の民の縄文人でも縄文土器を作ったからにている
ただこれどういう関係になるのか?今一つ納得がいかない

確かなことは縦書きと横書きの感覚は相当な文化の相違だとみる
縦書きと横書きではかなり違ったものだからである
ところが漢字は縦書きである、でも漢字は横書きでも何か英語のようになる
日本語はまず縦書きでないとかなでも表現しにくい言葉である
ここに精神性と文化の相違が生まれる
縦書きということは上意下達のようになる、日本語で尊敬語が多いのはそのためである
英語だとIとYOUであり人間関係も対等となるのである
言葉でもそうだがアメリカのように現実社会でもそうである、特にクィーンズイングリッシュよりアメリカ英語は庶民的なものとなっているというのもわかる
アメリカ自体がリンカーンから始まった平民の国だからである

いづれにしろ日本語自体にも文化にも何かITに適さない言語でありそれで遅れをとったともなるのか?
日本語はかなもあるしカタカナも混在しているからわかりにくくなる、それはまずプログラミングでは使えないともなる
ただ漢字の方が横書きでも通じるし簡潔化されている、、かなが入る日本語はいい面として機能したとしても何か簡潔さに欠けているし上意下達になった
それが英語のようにプロググラムミングするのに適していなかったのかともなる
物造りだったら言葉が関係していたとも思えない、それはただ物を精進して丹精を尽くして作り上げる職人文化が日本がにもありドイツにもマイスター制度があり似ていたのかとなる

つまりIT化とかAI化とかコンピュター関係とかで日本が技術的に遅れた原因は文化的要因がありそれで遅れて世界から取り残されたともなる
だからそれは日本の文化とも関係しているからそれを変えることができないからむずかしかったともなる
それから日本自体が天才を産みだすシステムがない、文化がない
ヨ−ロッパに多数の天才が生まれたのにも文化があった、地方都市で育まれた経緯がある日本には天才を生む土壌がなかった、教育でも画一的であり同調圧力が強いから個性あるものが敵視されて排除される
そうして様々な要因でIT化で遅れとりそれが経済の衰退となっていった

日本が技術的に優れているとか、頭脳が優秀だとか言われたときは電機製品とかを故障しないものを作ったとかで世界に売れたからである
でもそれは何か発明とは違っていたのである、細部にこだわる文化があり精巧なものを作るという文化が歴史がありそれで一時は成功して日本が技術的に優れているとなり日本人は頭いいとされた、今でも日本の技術は優れいるという感覚をもつ
でも日本の技術はIT化とAIで相当に遅れてしまったのである
それを証明したのが安全神話を作った原発だったのである

日本の技術は優秀だから事故は起きないとしていた

これも奢りだったのである
そこに一時は日本の電器製品が世界一だとしていた奢りがあったことで失敗した
日本人は発明とかは苦手である、ただ精密に細部にこだわり精巧なものを作る物造りにはすぐれていた、それはドイツと共通していたのである、原発でも巨大なものは操作するのはアメリカが優れていた、安全管理も優れていた
そこには技術ても戦略的思考があったからだともなる、日本は個々の細部にこだわっても戦略的思考がないからである
結局日本の高度成長時代で電気製品中心になったのはそれはたまたま幸運だったともなる日本人が優秀だからとは言えなかったのである、現実に今や中国があれだけ技術的にも躍進していることでわかる、中国人の方が優秀だと今ではなっているからである
ここには国自体のスケールの相違とかその他にも原因はある、何でも総合的なものとして働くからである
何か総合力で中国が優ったからだともなる

世界史でも技術的な面でも興亡がある、中国が優れていたときもありイスラムが優れていたときもありやがてヨ−ロッパが主導権を技術的に発揮した
そういう技術面でも興亡を繰りかえすのが人間の歴史である
では日本がそうして技術的面で世界で優れていたのか?特別の発明をしたのか?
品質のいい物つくりはしても発明はなかった、それが今日本の衰退となった
そこに日本の文化が世界的になりえないものがあったとかなる
日本語は民族のアイディンティティの文化の最たるものであってもIT化とかAI化の技術には不適合な言語だったともなる
ただ言語がどのようにIT化とかに影響しているのか正直説明しにくいだろう
明治維新ではヨ−ロッパの文明を紹介する時に日本人は漢字を利用して翻訳した
かなだけでは無理だったからだ、そもそもかな自体が漢字から作ったのが日本がだったのである
英語は横書きであり漢字のように日本語化できなかったこともある、そういうことは確かに影響していたのである

2019年05月24日

なんのために働くか悩む時代 (人は価値と意味を求めている)


なんのために働くか悩む時代

(人は価値と意味を求めている)


底辺労働者の苦悩は働くことの意味とか価値がわからなくなっている
毎日非正規のその場限りの仕事である、肉体労働でありスキルも身につかないとか嫌になっている
それで自分には哲学などは関係ない、それより今日一日の糧となる金が必要だとなりいやいや働いている、それは金のためだけでありその労働が評価されない
何か今の労働はただ金に換算されるだけでありそこに意味とか価値は見いだせなくなっている
その人は(Llove and freedom)底辺労働者のyoutubeの人も結婚もしていないし家族もいないのだから家族のために働くという基本的な動機すらないからだ、ただ自分が日々食べるために仕方なく働いているとなる
要するにその人は働きたくないのである、それで生活保護を考える
そして今では機械が働き人間はベーシックインカムでしたいことをすればいいとかなる

江戸時代辺りだと働く意義とか価値とか意味とかあまり考えないだろう
豊かになった時考えるようになる、ただ毎日食べるために働いているということも多いからそうなる、そんなことで悩むということもない
悩んでいる余裕がないともなる、だからその人は哲学とかも否定しているがいろいろと理屈をこねているのはその人は大学院まで出たインテリだからである


駅前の自転車屋のことを考えるとその人は病気である、でもこの街に一軒しかもう自転車屋がない、すると自転車屋は貴重な存在でありなくてはならない存在である
そういうことは医者にもあるかもしれない、医者がいない僻地で医者がいることはその人は必要不可欠だから周りの人から頼られているのだからその人が働くことについてその価値とか意味を考える必要がないのである
それでその一軒だけの自転車屋が存続してもらいたいとなり25万とかで買った電動自転車のロードを中古品としてリサイクルショップに売ろうとしたがその自転車屋にくれたとなる、つまり一軒しか自転車屋がないのだから存在価値が大きくなっているのだ

現代は社会が複雑であり無数のパーツとして部分として働いている、一つのものを作るにも無数の人がかかわる、江戸時代の職人だったら一つの物、簪(かんざし)を作る、下駄を作る、籠を作るとか一人の職人が一つのものを作っていた
それでその職人が作ったということでその作ったものにその職人の名前までつけられていたのである、それはその人が一人で作ったものだからである
今は一つの物を作るのにも無数の人がかかわる、すると誰が作ったとか関係なくなる
会社で作ったとなるとそれを作るのにかかわった人の数は多くなるからだ

それからグローバル化すると一体誰のために何のために働いているかもわからなくなる
地球の裏側の人のために働いて金をもらうとなったりしているから誰のために働くなど関係ないのである、ただ金のために働くとなるのが多いのである
そしてグロ−バル化経済の矛盾は世界の富の数パーセントが富を独占している
すると働くということはそういう数パーセントの人たちのために働いているのか?
そういうふうになると馬鹿らしくなる、その人たちは株式を操作して働かなくても莫大な金が入るからである
アメリカではそれが極端なのである、そういう世界が成り立つのかとなる
それで資本主義は働くとういことでその価値も意味も見出させず崩壊するとまでなる

なぜなら資本主義が修道院から生まれたという時、働くということは神の奉仕であり人を助けるためだったからである、愛の行為として働くという意味と価値を見出したからである、それがもう全くなくなったとき資本主義からモラルはないのだから資本主義自体がただ金を得るためだけだとなったときそれはもう基本的に崩壊しているのではないか?

グロ−バリゼーションでも働くことはただもし数パーセントの人たちに莫大な富を得させるものためだったらもう誰も働くことに意味も価値も見いだせなくなる
そこにそうした富と金を集めている人の責任が問われるが現実はその人たちはグロ−バル経済の中では見えないのである、それはグロ−バル経済だからである
経済でももともとエコノミーとかは家政から発しているから家族単位の経済だったのである、働くということも端(はた)を楽にするというというとき家族とか村とかの狭い範囲で働くということが意味と価値をもっていたのである
だからグロ−バル経済とかなるともう意味とか価値とかはわからなくなるのである
するとただ目前の金のためにだけ働くというだけになり何のために働くのかもう世界中でわからなくなっているのである

そこに現代の危機がある、資本主義崩壊の危機が生まれている、グロ−バル経済ではとてもどんなことしても働く意味とか価値を見出すことは不可能だからである
だからこそ数パーセントの人に富が金が集中してただ搾取されている労働だともなる
それも見えないからそういう怒りが革命ともならない、結果的にどうなるのか?
働くことの拒否現象が起きる、働いたら負けだとかなりニートとか非正規でも前は自由時間をえるためにフリーだとかなっていたのである
それは実際は正社員になれない人たちを膨大に作り出したのである

そういうことから資本主義は崩壊してゆく、共産主義でも中国で共産党の幹部とか官僚でも一兆円とかとてつもない富を得ているのも同じなのである
そういう不公平な格差社会が継続できるだろうか?
そこで働くことはそういう一握りの超富豪のためでありグロ−バル化経済でもそうである働くことの意味も価値も見いだせないと悩むのは社会にモラルが喪失してもうそういう社会システム自体が崩壊しつつある現象なのである

posted by 老鶯 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題