2019年05月07日

善意でもボランティアはかえってむずかしかった (自分が感じたことと同じことがネットでも書いてあった)


善意でもボランティアはかえってむずかしかった

(自分が感じたことと同じことがネットでも書いてあった)

ボランティアで一所懸命 時間を費やしてやってきたことが、感謝どころか誤解を生み、なんだか人間関係に疲れました。 家族のことだけやってればよかった。すいません 愚痴です。 いやな思いをされた方はスルーしてください。

電車で座席を譲ろうとして「相手から年寄り扱いしないでくれ!」と怒られたりするなど、これまでの人生で経験したことがなかったのでしょうか。 
逆に、相手は良かれと思ってしたことがこちらにとって大迷惑、善意だとわかっているだけに余計困ったこととかありませんでしたか。 

私はボランティアはあくまでも自己満足の世界だと割り切って考えています。

幼稚園や小学校の役員を今まで引き受けたこと数回です。 
これも無報酬で、まるで通勤しているが如く園や学校に通っていたので 
立派にボランティアだと思いますが、感謝されるどころか 
文句の言われどおしだったことも、あります。 
先生に嫌がらせされたことも。 

一生懸命、やっているのに、 
空回りして、認めてもらえず、かえって悪意に受け取る人もいますしね・・・ 
空しさを覚えるときがありますよね。 


ボランティアはかえってむずかしい、例えそれは善意であれ無料であれむずかしい
そのことを体験から書いてきた、これと同じことを経験してここに書いてきた
そもそもなぜこうなるのか?
例えば私は苦しいです、助けてくださいと頼まれれば助けることがある
それで頼んだ人が何かと文句言うことはない、でも頼まないのにかかわればそんなことしてもらわなくてもいいのにうるさいとなるだけである

電車で座席を譲ろうとして「相手から年寄り扱いしないでくれ!」と怒られたりする

自分も案内してこういことがかなりあった、うざいとされるのである、スマホを見ているから必要ないともされる
つくづくここに書いてあるようなことがボランティアの人は経験しているのだ
善意があったとしてもそれを相手が認めるとは限らないのである
かえってうるさいとなったりうざいとなることがある

そして会社とかJRでもかかわっているとそれはさらにむずかしくなる
そこは会社の運営方針がありJRで認めない者は何もしてはいけない場だったのである
無人駅だから最初は困っている人がいたので自分は案内していた
それはそういうふうに自然になったとなる
困っているから教えたとなっただけである、それはそこが無人駅という特殊な場でそうなったのである
そこは本当は人が必要なのだけどコストがかかるからJRでは人を置かない
無人化する駅が増えてゆく

でも不思議なのは駅の見守り役は何なのだろうか?

ボランティアなのだろうか?

南相馬市とJRが契約してそこに高校生の見守り役限定として常駐させるようになった
それで自治体から金が払われている
金をもらっているとするとそれはボランティアなのだろうか?
市民の税金が払われている、それもわかりにくいのである
でもあそこにいる限り見守り役でも鉄道の案内役をさせられる、現実に駅の業務はしないとしても自分が教えたりまた案内もするようになったからである

つまり市民の税金をもらっているということですでに何らかの責任が生じているのか?

確かにしているとなる、ただその責任は高校生の見守り役というだけであり駅の業務はしないという限定責任なのである
でもあそこにいると必ず鉄道のことで聞かれるのである、駅員に見えるからである
服装でもそうである、駅員に見えるからだ、第一あそこは駅員がいる場所だからである

駅員に見えるから駅の案内してもらいたい、鉄道の案内をしてもらいたいとなる
現実に乗客は聞いているのである、それをしないというとき何なのだろうとなる
その駅員がいる場所にいるべきではないとなる
誤解されるからである
別に高校生の見守役だったらそこにいる必要もないのである
奥にも広い部屋があるからそこから見守っていればいいとなる、何の問題もないのである駅員のいる切符売り場にいるから鉄道のことで聞かれるのを避けることができないのである
そこにいなければ聞かれないのである                          

つまり駅員のようにしている、その場にいることが問題なのである

それは自分が駅員でもないのに駅員のようにふるまったことで注意されたと同じなのである
駅の案内もしないならそんな場所にいると誤解される、なぜ案内しないのだともなる
だからあそこの切符売り場にはいるべきではないとなる
自分もボランティに誤解されたようにである

お前らは駅とか鉄道にかかわらないならそんな誤解される場所にいるな!

こうなるのである、ホームに入るなというのもわかる
でもお前らもそんな誤解されるような場所にいるな、駅の業務にかかわらないとしたら
奥から高校生を見守っていればいいとなる
乗客とはかかわらない場所にいて見守りしていればいいのである

なぜお前らは金を自治体からもらっているのだ

高校生の見守りのためです

そうならそうでいい、切符売り場に駅員のようにしているな!

こうもなってしまうのである、なんかこんなに複雑になるとは思わなかったけど
これも社会勉強だったとはなる   
駅とはそれだけ公共的場だからである、JRだけのものでもない自治体もかかわり外部のものも関わる場だからである
それで駅構内はJRが管轄するから一切かかわるなというのも問題になる
何か悪いことをするなら別なのだけどみんながかかわる場所だからである

見守り役は市民全部ですること!

高校生の見守り役とういけどそこにいる周りの人も見守っているのではないか?
駅前の自転車屋は本当に一日中見守っているから一番詳しいのである
私は数十分くらいしかいない、毎日たちよるにしてもそうである、だから見守り役にはならない
そしたら自転車屋が見守り役に一番ふさわしいとなる
自治体からも金をもらってもいいともなる、現実にあそこの自転車屋が町の人が集まる場にもなっているからだ
その対応もいいのである、それでその人も見守り役に不満を言っていたことがわかるのである
JRの人は何も言ってこないとか、市の方でも何も言ってこないとか言ったいたからである
それは自分自身のことでもあてはまることだったのである
見守りとは本当は市民全部ですることである、誰か怪しいのか地元の人が見ていることである
それはあそこの駅の見守り役だけでたりることもないのである、安心感はあるにしても回り全部で見ていることが安心感につながるのである

いづれにしろボランティアは本当に自分だけではない、もう不可能なくらいむずかしい
だからこんなことでこだわってやるのが馬鹿らしいとなる
そんなこと誰も望んでいなとかなりかえって叱られたりうるさがられたりいろいろ拒否されたらやれないとなる
かえって何もしない方が楽である、第一できないのである

ただ駅の見守り役は限定にしろみんなの税金でしているのだから何らかの責任が生まれるもし誰かが子供が昼間でもいないときホームに入ってきて事故が起きたらどうするのか?

それは誰の責任になるのか?

無人駅の責任は誰にあるのか?監視カメラで見ていても注意できないからである
昼間は無人駅だけど常駐している人がいるのだからその見守り役でも責任が問われるかもしれないのだ、だから何か無人駅というのは不思議である
それはAI化とかでコンビニでも無人化するとかコストを減らすために無人化が増えてくるときこういうことと同じ問題が生まれることは確かである
そのことをまさに無人駅で体験して伝えたとなる
だから何らか自分の経験したことは将来のAI化とかの問題の参考になる
自分自身も何か社会勉強になったのである
社会というのは仕事をしてみないとわからないところなのである
それをしていなかったから自分には欠けるものがあった
社会とはこのように複雑なのである、責任とかも問われるし簡単にボランティアでもできない、おそらくそこには責任問題が生じるからだとなる
責任をとりたくないから駅の業務はしないとか契約している

でも何かあった場合、誰が責任とるのだろうか?
                                                      
無人駅だから責任はJRでもとる必要がない、責任は全部乗客にあるとなるのだろうか?
これも何かわからないことでありボランティアでも保険に入るとかしているのもそのためである
それだけめんどうになるとボランティアは簡単にできないとなる
だから自分の場合はただ駅で人と会ったり何か聞かれたらするとかそういう無難にしていることが得策だとなる
ただうるさがられて文句言われて警察にも通報されるとかそれしかなかったからである
こんなことまでしてやれる人はいないとなる
ただ無難に駅で人とあったり話したり聞かれたら案内するとか程度にする
駅構内では何もできない、監視カメラでも駅長とか見ているからである
それは警察と同じなのである、そういう場所だったのである

立派にボランティアだと思いますが、感謝されるどころか 
文句の言われどおしだったことも、あります。 
先生に嫌がらせされたことも。 

これと同じだった、案内してもうるさがれなぜお前はここにいるのだとかなり駅長はは嫌がらせをする
文句の言われどうおしだったこともそうである
感謝は案内した時あったから違っていたがそれは遠くから来た人たちでありその人たちはまた来ないから地元の人は何も認めていないのである

つまりお前はそんなことする必要がないとうい事なのである

誰も望んでいないことをしても嫌がられるだけで感謝はしない、遠くの人は感謝したとしても後は来ないからである
ただあそこの駅は親切だったとかになることはありうるがそれもわからない、みんな忘れるだろう
一時のことだからである
それで何ら認められることもなく嫌がられるだけだったとなれば誰もやらないとなる
だから頼まれないのにやることが問題なのである
道がわからないのですが教えてくださいと言えば教えるがこちらから教えるとなるとスマホでいいやとかなるから嫌がられるからしない方がいいとなるのだ


駅の見守り役は鹿島の人がするべき? (なぜ相馬市とか原町の人がしているのか?)


駅の見守り役は鹿島の人がするべき?

(なぜ相馬市とか原町の人がしているのか?)


これも疑問なのである、相馬市の人もnpoに参加してしている
でも鹿島駅なら鹿島の人が見守りするのにふさわしくないか?
だってここにいつも住んでいみているからである
原町だったら原町の地域がありそこでボランティアする
現実に原町には制服を着た駅の案内役がいたけどその人は原町の人だったからである
もしそこに相馬市の人とか鹿島の人がいたら違和感が生まれる
そこまでこだわらなくてもいいにしろ本来は地域の人の見守りだったらそうなる
時々鹿島の駐在所のパトカーが駅を見守りしている
それは高校生の犯罪が起きたことがあったからだ
警官でも管轄地域がありそこで安全パトロールししているからである
そしてなぜ南相馬市ならいいが相馬市の人がきて南相馬市の役所で税金を払ってみてもらっているのか?
何かそれも疑問になる

こんなことくだくだ言うのもいやだがこれも市政とかと関係あるのかもしれない
だって高校生の見守りでもそれは地域と関係しているからである
だから鹿島の地域は鹿島の人が見守りするのが理にあっている
もちろん反論はあるしそれぞれの理屈は言えるからなんともいえない
でも市政の問題としてあるのはやはり市民の税金を使っているからだともなる
無料のボランティアだったら何も言わないだろう
ボランティアでも結局何か無責任なのである
別にしてもいいとかしなくてもいいとかなっているからだ
一旦金をもらうとなると人間社会は責任が生じるとなる
だから市役所の人でも大きくは政府でももともと国民の税金で運営しているのだからその責任があるから無駄に使うなと監視が厳しくなる
そういう責任も背負わされるとなる

でも駅の問題で複雑なのはそこには市民が関係していることである
JRだけでは運営できない、だからトイレは南相馬市で作り障害者施設の人が毎日ぴかぴかに磨いているのである
商工会ではJRから頼まれて一週間に一回くらいゴミ箱などの掃除をしている
それもJRでは金を払ってしているのである
全部こうして頼んだ所は金を払っているのである
ただその責任はゴミを片付けて掃除するというだけである
後は駅の業務とは関係ないのである

いづれにしろ駅のボランティアというと盲人とか障害者の補助とかが多い
それはやはり駅では困るからである、だからそこにボランティアの需要がある
無人駅で何か案内するとかは募集ししていないようだ
ただ無人駅でも一日一回回ってもらう管理する人は頼んでいる
そうなるとそういう人はいつも一日見ている駅前の自転車屋がふさわしいとなるのだ

考えてみると南相馬市では高校生の見守り役をとして金を払うようになったのか?
それは許可したのか?これも良くわからないのである
どういうプロセスでそうなったのかわからない
相馬市の人が人が入っているというのも何か南相馬市内ならそういうことはしないのではないか?
地域のボランティアだから地域の人がするのが合っているからだ
ボランティアでなくてもその地域に住んでいる人が見守り役には一番ふさわしいからだ

こんなことでも何か市政と関係していて具体的に政治と関係しているともなる
それは予算とか税金の使い道に一番関心があるからだとなる
予算を配分することに自治体でも一番関心がありまた国から配布される地方交付税に関心があるとなる、その予算を握るのが財務省だとかなるから国の力をそこで感じやすいとなるのである
ただ国というとあまりにも巨大すぎて理解できないのである
6万とかの自治体だと理解しやすいのである
だから政治の基本はそうした狭い範囲での民主主義が成長することだともなる
その手段としてインタ−ネットの活用がある
なぜなら誰もこんなこと取り上げないし関心もないからである
それでこれを読んだ人が関心をもつかもしれないからだ

ここにこういう問題が市の中でありますよと訴えることができる
ただ正直南相馬市内でも関心がないことは確かである
なぜなら車社会だからそもそも鉄道に関心がないからである
そこが最大の問題なのである、鉄道を利用する人が常磐高速の十分の一もないだろう
その差が大きすぎるから何かあってもほとんど関心がないのである
ただ三陸鉄道とかでは廃線になると町が廃れるとして運動になった
それは只見線でもそうである、存続するかしないかとかなって始めて全体の関心になる
普通は関心がないから問題にもならない気づかないのである

ただ小さな自治体でもいろいろな問題がある、それが報道されない
まず無人駅のことでこれだけ報道したということも意外だったのである
こんなところにこんな問題があり報道することがあったとは思わなかったからである
でもこれもやはり南相馬市の問題であり市政の問題だったのである

つまりインタ−ネット時代はこうしてその場その場で問題提起してそこにこういう問題があるということを知らせることができる
それで問題を共有するものとなる、ボランティア問題でも自分と全く同じ経験をした人がいたからである、なるほど同じだなと読んだからである
そういう問題の共感はインタ−ネットでしやすいということがある
ただそれにしても読まれるのが少数だからあまり影響はない
でもこういうことがやはりインタ−ネット時代の報道だったのかともなる
こんなことでこれだけ書いていることも不思議だったからである
報道そのものがインタ−ネットだと変わる
ただまだそれに気づいていない、でもテレビでは報道されないことが膨大にある
それが一応書いて知らせることができる、それはやはり何か時代の変化であり進歩なのかもしれない、マスコミからミニコミになるのか、そういう時代になったのである

なぜ日本の駅はホームに勝手に入れないのか? (自己責任社会ではないから?すでに駅の見守り役は駅の業務をしている)


なぜ日本の駅はホームに勝手に入れないのか?

(自己責任社会ではないから?すでに駅の見守り役は駅の業務をしている)

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ヨ−ロッパの鉄道だと自由にホームにできたり自転車をそのまま電車の後部にのせたりできる、そういうふうに作られている
それがうらやましいと見た
日本ではそのホームに勝手に入れないのか?
私はただ無人駅になっていたから入ったのである
でもやはり無人駅だから勝手にホームに入って送別する人がいた
それは駅員がいないからそうなっていたのである
それも便利だと思った

でも今は高校生の見守役がいるようになったから駅員と見るからできなくなったかもしれない、自分の場合はもともと嫌がられていたからそうなった
そもそもヨ−ロッパの駅ではあんなに駅のホームに自由に出入りできるのか?
そうなると危険にもなる、事故にもなる
日本ではうるさいくらい電車がきましたから気をつけてください案内する
ヨ−ロッパの鉄道ではしないのである
それも不思議だと思う

日本はなにかやとうるさい、干渉する、それは後で事故が起きたりすると責任が問われるからなのかもしれない、それで駅の業務をしないとJRと契約したのはそのためなのだろうでも駅は無人化してヨ−ロッパの駅と同じになっていたのである
誰も見ていないから自由に出入りする人がいて当然だからである
ただ監視カメラは見ていたからそれで見守り役が入るなと注意した
でもその高校生の見守り役は契約では駅の業務をしないとなっていたのである
ただ最近は案内したし駅のホームに入って盲人を導いた時まねてしたのである
だからこれはどうなったのか?
駅の業務もするよようになったのか?
すでにしている、ホームに入るなというときJRの命令で駅員のようになり言ったからである、つまり見守り役でも駅長の命令がありそれに従ったのだから駅の業務をしていることにもなる

いづれにしろ今は確実に駅の業務をしているのである、だから契約とは違っている
すると駅の業務をするから責任も生じてくるのか?
もう無人駅ではない、駅員がいてホームに入るなとか命令できるからである
駅員の役割をしているのだから契約は無効になる
つまり駅の見守り役は駅の業務をする、だから乗客にいろいろ聞かれたら案内する義務も生じるし責任も生じるとなるのか?
これは法律問題である、法律も責任問題がありそれを追求しているのかもしれない
何でも法律では条項では責任をとりませんとういことがうるさいくらい書いてあるし
そして保険とかでは小さな文字で書いてあってわからない
後でそれを証拠しにて責任をとりませんとなっているのである
責任を恐れるから最初の契約は駅の業務をしないとししていたのである
ただ駅の業務をすでにしているとなるとどうなるのか?
駅員として義務を果たせとなるのか?その結果には責任をとれともなるのか?

こんなことくどくど追求するのも何なのだが何かこれが法律なのかとなる

駅の業務はしません、駅のことに関しては責任はとりません

駅の業務は実際している その責任はどうなるのか?

JRとの契約を駅の業務をしたことで破ったのか?その破った方に責任があるとなる
JRは何かあっても関係ないとなるのか?

いづれにしろJRは駅の見守役はどうしても駅の業務にかかわらざるをえないからそうさせるべきである、ただそうなると駅の業務をするということでJRはその負担をしなければならなくなるかもしれない、現実にも駅の業務をしているからである
だから乗客に何か聞かれたら答えていたしすでにしているのである

そこで何が問題が起きたら事故でも起きたらどうなるのか?

だからそもそも駅の業務をしないとしたのが辻褄が合わないものだった
だってあそこにいれば駅の業務をぜざるをえないからである
ただ奇妙なのは自分が勝手にボランティアで駅の案内とか業務を駅の駅舎内でしていたことはするなと命令されたとはなる

いづれにしろ駅の業務はしますと書いていた方がいい
その方がすっきりする、それで別に事故が起きることもないと思うからである
現実にもう駅の業務をしているからである
それはJRでもそうさせるよになったのだから駅員としても扱うべきだともなる
そうしたくないとしてもそうしているからである
私はボランティアでそうしていたが断ることはできたし禁止できた
でもあそこの駅の見守役は市とも提携してしているからあそこにいることを拒否できないのである、拒否できないというより駅の業務をしないということでJRで契約したからである
ただ駅の業務をしているのだから契約違反だと今度はなる
それなら駅の見守り役にそのことを注意すべきだとなる
駅のホームに入るなと駅長が直接言うべきだとなる

ともかくなんか法律だとめんどうになる、それはなぜそうなるのか?
責任問題になったときやっかいだから事前に法律で決める
それで条文を作りそれを証拠として責任をとらないようにするとなる

駅の業務はしない→すでに駅の業務はしている →法律違反

駅の業務はする→JRにも責任がある→駅員と同じになるから・・・・・

まあややこしくなるが法律も詭弁だとなるがそういうことにはなる

2019年05月08日

ヨ−ロッパの鉄道は自己責任社会に基づいている (日本でも無人駅は自己責任である、責任をとる駅員がいないから?)


ヨ−ロッパの鉄道は自己責任社会に基づいている

(日本でも無人駅は自己責任である、責任をとる駅員がいないから?)

駅の近くに大きなホテルがあり、そこで日帰り湯に入るためにこの駅で下車しました。駅舎もなくホームに直接出入りすることが出来ます。ホームには、待合所があるだけの本当に質素な駅です。

駅などで発券する長方形の切符の場合は、列車に乗る前に改札印を入れる「コンポスタージュ(Compostage)」が必要なことが多いです。「必要ない」と書かれている切符もありますが、すべては仏語で書かれているため、とりあえず乗車前に刻印しておきましょう。  
切符を買う時間がないからと、飛び乗りで乗車すると、車掌から切符を買う際に通常の数倍の車内乗車料金を請求されます。

私がなぜ無人駅で駅員のようなことをしていたのか?
それは自分自身が鉄道旅行が好きで日本全国を鉄道で回ったからである
ヨ−ロッパで鉄道に乗ったし中国でも乗った、アメリカでも乗ったからである
つまりそれだけ鉄道には世話になったとなるからだ

確かにヨ−ロッパでは刻印しないで乗ると馬鹿高い罰金がとられるとかあった
私はしなかった時外国旅行者ということで許されたのである
本当は許されない、ヨ−ロッパの鉄道は日本とはシステムでもかなり違っている
それも20年前だから今は違っているようだ

つまりホームまで自由に出入りできるとか自由があったのはやはり自己責任社会だっからなのかとなる、刻印しないと罰金がとられるというのもそうである
ただ日本でも今では駅員がいていない所は自己責任なのである
駅員が教えてくれないからである、そこに問題が生まれることは延々書いてきた

ただ無人駅では自由にホームに出入りできるのが多い、第一駅員がいないのだからそうなる、監視カメラがあってもわからないし注意されないからである
日立木駅をみればわかる、誰も見ていないから待合室の壁が壊されたのである
あそこでは自由に出入りしても誰も見ていないしわからないのである

いづれにしろ日本の駅がうるさいくらい危険ですからとか電車がいちいち来ることでアナウンスする、そういうことがヨ−ロッパの鉄道では一切ない
そこは文化の相違なのだろう、ヨ−ロッパは自己責任社会だから危険は自分でさけてください、それで事故が起きても鉄道会社では一切責任はとりませんとなる

でも不思議なのは自動化機械化するとすでに自己責任なのである
JRでは自動化して乗客が困らないように便宜を図っています、それで何かあったら自己責任ですとなる、駅員がいると責任が駅員からJRになるからだ
だから駅の見守り役でも駅員がいる切符売り場だったところにいるから駅員だと乗客は思ってしまうから駅の業務はしないという訳にいかなくなるのである

いづれにしろもう鹿島駅は無人駅ではないと思う
朝と2時半ころは高校生の見守り役として駅員がいるとなる
昼間は確かにいないがそれだけの時間が駅員がいるとなるからだ
とすると駅員と思い駅の業務をするようになる、あそこにいるとわからないと必ず聞かれるからである、それで私たちは駅の業務はしないですとは言えない状態になっているからだ

ただ駅の業務をしないとういのはJRで責任をとりたくないからなのだろう
でも自分自身は駅の業務をしていたのである
JRの許可もなくしていたのである、それは乗客に聞かれたからそうなった
でも別に自分はJRから頼まれたわけでもないし委託された駅員でもないのである
だから本当は駅の業務はしてならないものだったのかとなる
ただ駅の外での案内などは自由である、そこは駅の管轄にないからである

とにかくここたけではない、会社員でないのものが勝手に会社の仕事などできないだろう、かかわることもできないだろう、仲間で組織で仕事しているからである
そういうふうにして外部の者は会社とかの内部には入れない
原発でも確かに仕事で入る人がいても厳重に管理されている、許可がなければ何もできないからである、そういうことはわかる
ただ私がしたことは別に危険なことでもない、あそこで駅の業務といってもそんなに危険なことはないのである 
のでも何かJRからするとしてもらいたくないということがあった

それは組織で仲間で仕事しているので関係ない第三者に入ってもらいたくないのということはあった
ただ駅はJRだけでなく地元の市民でも遠くの人でもみんなかかわっている
それは実際は人間は会社にしてもなんでも公共のためにある
公共善のためにあるとかなる、だから会社でも悪いことをしたりするから原発でも外部の第三者の監視が必要だったのである
それが原発になると絶対にできない、それが大事故につながったのである

つまり社会でも公共善とかのためにみんながかかわる、知るということも大事である
そこで知らされないと何もわからないからである、そして国民のためにもならないからである、そこに報道の役割があったのかとなる
無人駅の問題を追求したが無人駅はそういうことだったのかと考える人も関心を持つ人もでてくる、ただ鉄道はマニアのようにな人が関心をもっているが今は乗る人が少ないから関心がないことが問題なのである



「安全の要」である駅業務の外注化は鉄道の安全を崩壊させる


「安全の要」である駅業務の外注化は鉄道の安全を崩壊させる

  2015年4月より「業務委託駅における業務の委託範囲拡大」が実施された。

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  人身事故などが発生し輸送障害が起こった場合、今までは最終的な安全確認は管理駅社員(JR社員)が行っているものを、業務委託駅社員が行うことができるというものだまた、列車非常停止警報装置の復帰扱い業務についても、業務委託駅社員が自らの判断で復帰扱いを行い、管理駅に事後報告する。
  
  つまり、駅における安全の確保に関してJRが全く責任を取らなくなるということだ。
  この攻撃に真正面から立ち向かい、職場から、「鉄道業務の外注化反対!」「乗務員勤務制度改悪反対!」「分社化・転籍反対!」の怒りの声を組織しよう。
  
  
これも何なのだろうか? 

業務委託駅社員にまかせる→コスト削減→安全が損なわれる

駅の機械化自動化→コスト削減→サービス低下

何か大きな都会の駅でも機械化自動化している、委託業務というのは駅の業務を委託することである、無人駅では管理することをまかせる
それは一日一回見回りしているだけである、でも一応管理を委託している

その駅の委託業務の範囲を広げる→安全が損なわれる

それで組合が反対している
でもなぜ鹿島駅では無人化したか駅の見守り役は置いたの高校生の見守りということで駅の業務はしないという約束でしたのである 

列車非常停止警報装置の復帰扱い業務についても、業務委託駅社員が自らの判断で復帰扱いを行い、管理駅に事後報告する。

これはとかなり専門的になるから危険なことは確かである
でもなぜそんなことまでまかすのか?
私はそんなことをまかせられない、駅でボランティアで時間とかその他案内しただけで嫌がられ拒否されたからである
別に無料でしているからコストとは関係ないのである
だからJRではただ素人の人がJRの職員でないものが入ってきて何かされるのを嫌がってそうしているのかと思った

でもここではJRではコスト削減のために危険な専門的な仕事まで委託業務する

これも何かなのかわからなくなった
結局JRでは経営が苦しいから委託業務する、JRの正社員でするとコストがかかるからだとなる、JRではなるべく正社員を減らして委託業務してコスト削減するとなるのか?

何かそういうことは日本全体に起きている、正社員になれない非正規社員が膨大なのである、一千万とか二千万とか非正規の時給労働者となっているのは本当に異常だと思う
それからグローバル化して外国人労働者が大量に入ってくるとますます底辺労働者は賃金が低くおさえられるのである
それで絶望を語っている底辺労働者がyoutubeにいた

でもここで起きていることはなになのか?

JRではコスト削減しろ

●危険なことでも委託業務させてコストをおさえろ

●機械化自動化AI化してコストをおさえろ

何かこういうことなのだろう
ではなぜ駅の見守り役には委託業務させないのか?
これもコスト削減であり委託業務させない、させるとコストがかかるからなのか?

でもわからないのは危険な仕事まで委託業務させているのである
この辺の理由がわかりにくい

ただ確かなことはJRではコスト削減のために委託業務と自動化機械化AI化している
委託業務でもコストがかかる場合はしない、それが鹿島駅の無人駅の高校生の見守り役だったのだろうか?
私が勝手に駅員のようなことをしたことを拒否したのはなぜなのか?
別に危険なことではない、それよりもこれは危険である

列車非常停止警報装置の復帰扱い業務

そういうことまで委託業務している、確かに危険なのにさせているのは何なのだろうとなる

そしてJRでは責任はない、委託業務者にあるとしている!

自動化機械化AI化すれば責任はJRにはない!

それは乗客にある、自己責任だとなるのか?

実際に駅員がいないのだから人間がいないのだから責任はないとなるのか?
機械とかAIはロボットは責任をとれないからである

これも何か変なことであり何か問題が起きる、その時どう対処されるのか?
法律的にどうなるのか?それは自動車の自動化とか他にもAI化で無人化される店とかいろいろな分野で起きてくる問題である
責任をとるものは誰なのか?機械やAIやロボットには責任はとれないからだ
結局責任は人間がとるほかないからである

いづれにしろ無人駅問題からこれだけいろいろなことがあり波及するとは思わなかった
とすると様々な現場で報告することはささいな場所でもありうる
ただ今までのマスコミでは報道されないだけだったのである
この報道にしてもマスコミでは取り上げないからだ
ただ無人駅を面白がってとりあげる放送はある、秘境駅とかである
でも現実の鉄道に関するこのような問題はとりあげないし追及していないのである
だから現場からインタ−ネットではいろいろなことを追求するようになる

それで「底辺労働者」についての深刻の訴えに同情したともなる

Love & Freedom「底辺労働者」が現実を生々しく体験から報告している(youtube)

こういうことはマスコミでとりあげない、報告されない、だから報道も変わったことを意識したのである

コスト削減はJRだけでない、底辺労働者が増えたのは会社のコスト削減のためである
東電でもコスト削減した結果として原発事故が起きた
社長でもコストカッターとして知られていたのである
結果として安全が無視され大事故になった
何か社会でも共通した問題がある、それで一番わかりやすいのコストカット、削減のために会社が賃金とか安全にかかる費用を削減する、それはグローバル競争にさらされているからそうなる
また日本が経済が停滞して貧困化しいるからだともなる、会社に余裕がないからそうなる
また鉄道は利用しなくなったからそれで収入が減ったからだともなる
そこに現代の様々な問題が鉄道をとってもあり無人駅から見えたとなる










烏崎村の津波被害にあった人と話する (父親は漁師だったが50歳で死に会社で働いた)


烏崎村の津波被害にあった人と話する

(父親は漁師だったが50歳で海で死に会社で働いた)
                                                                                

1971年3月に1号機の原発営業運転を開始

昭和52(1977)原町市議会で「火力立地推進に関する決議案」可決
昭和52年鹿島町議会で「火力建設の協力に関する決議案」可決
昭和58年漁業補償協定および付帯覚書を締結
平成5年建設工事開始
平成8年(1996)発電機を送電系統に連系(初並列)
平成9年通商産業省の使用前検査に合格(営業運転開始)

1971年に副失敗第一の原発ができて開始している
1996年にに25年後に原町の火力発電所が運転開始している

それは20年後だったのか?

となると原発はそんなにこの辺では早くから建てられたいたとなるのは注意すべきである

その人は川の土手の道に杖を持って立っていた、そこで立ち止まり話した
その話が長かった、3時間以上も話した
その人は烏崎の人であり津波の被害にもあい復興住宅に家族と住んでいる
一軒屋にしても部屋が二つとか狭いと言っていた

その人は脳卒中になった、64歳だと言っていた、だからまだ若い
しゃべることはしゃべれるし脳はやられていない、ただ足にきして歩くのが不自由になったのだ、そういう人と前もあった、それは同級の人だった
一人は結構重かったのだがダメージは軽くてすんだ
足も悪くないし一時痩せ細っても頭脳も明快である
ただ病気になったから激しい運動はできない、でも自転車で運動するようになった
それで高いヤマハの最新式の電動自転車を買ったのである
もう一人は足にきた、びっこひいている、でも車で買い物に来ている
脳卒中も多いなと思った

その人は何かよっぱらったようにしゃべるが普通にしゃべることができる
一時は呂律がまわらなくなってひどかったらしい、リハビリして回復した
ただ何かときどきしゃべるのが変だから酔っぱらっているのかとも見える
なにか良くしゃべる人であった

その人は烏崎村の漁師の父親のもとに生まれた、その父親が50歳の時海で死んだというから早く父親が死んだとはなる
それでいわきの水産学校に入った、その時漁師になろうとしたのだろう
でも父の仕事は受け継がなかった、すでにその頃から漁師は魚でもとれなくなっていたのか?
                                                                                
漁獲量はピークだった1982年の1282万トンから、2012年には484万トンにまで落ち込みました。前年の東日本大震災の影響もあるとはいえ、約3分の1にまでなってしまった

漁業も農業と同じくこういう状態だったのである

でも不思議なのは妻とヨ−ロッパ旅行していたのである
その時円はドル換算で240円だったという、その頃ヨ−ロッパ旅行した人は田舎ではほとんどいない、ハワイとかの旅行が人気になった時ではないか?
ヨ−ロッパに円が240円のとき行けた人は相当な金持ちである
第一外国はそのときまだまだ遠い所だったのである
だからこんな田舎からなぜヨ−ロッパに行ったということが不思議だった
私も本当は外国に行きたかったがその時は飛行機代が50万円とか高い時があった感じになる、そうなると普通の人は行けないはずである 

ジャンボ機の登場で高額な旅行代金が大幅に引き下げられ、特別なものだった海外旅行の門戸が少しずつ広げられていった。海外旅行者数はジャンボ機の就航を挟み、1969年〜1973年の4年間で4倍以上となる223万人に拡大ーー。まさに海外旅行の第1次ブームと言っても過言ではないが、そのブームの海外旅行客を魅了したものの1つが、ジャンボ機そのもの。そのスケールの大きさは旅客を圧倒し、機内で写真を撮り歩き、収拾がつかなくなることも珍しくなかったという

ジャンボ就航前年の1969年。最低40人単位でパッケージされた旅行が対象で、その価格は個人普通運賃の60%という大幅な割引が設定された。これにより、60万円台だったヨーロッパ商品が30万円台に、30万円台だったハワイ商品は最大7割近い値下げも行なわれたという。

この時から海外旅行は安くできるようになっていたのだ
私が失敗したのはその頃から海外旅行に行くべきだったとはなる、50歳では遅すぎたのである、もし海外旅行を早くしていれば人生が変わるということもあった
だからこんな田舎にすでにヨ−ロッパに旅行した人がいたのである

ともかくトランジスターとか言うとすでに日本の過去となり歴史となった

池田勇人は、「就任以来、高度成長、貿易振興を促している私は、自ら各国の首脳にトランジスター・ラジオを手土産に持って行って売り込んだのだから、偉大なるセールスマン、トランジスター首相」
                      
池田勇人首相はあのだみ声で所得倍増を言った人だった、その時日本は高度成長時代に入っていた、ソニーのトランジスターラジオが売れるようになっていたのだ
何かそれも歴史となりつつあり日本の繁栄期の象徴的なことにもなってしまった
高度成長時代は日本の電機製品は世界一となり売れたからである

この辺で最先端の電話の開発をしていたということもあったのか?

 電話交換手がスイッチボードのプラグにジャックをさしこむかわりに、特定の入力条件が満たされたときにリレーが回路を閉じるという方式を利用したのだ。リレーを使う ...

phonejack11.jpg

こんなことを電話局ではしていて相手の電話とつないでいたとなる
だからこれが不便なので新しいものにするために開発していたが失敗したと言っていた
その時すでにソーラーパネルも開発していたがこれも失敗していたという
ただそうした先進的な取り組みをしている会社となると一流だったとなる

その人の言ったことで不思議なのはもともと今の火力発電所がある所には原発が建てられる予定があったか烏崎村の人が反対してできなかったという
そんてことがあったのか、私は覚えている、火力発電所を東北電力で建てる時会社で案内したのである、それは火力発電所であり原発ではない、ただそういう計画があったのか?その辺が良くわからないのである

火力発電所が建つ前の状態を私は知っている、そこは海であり原町まで砂浜がつづいていたのである、景色的に原始のままだったともなる
右田の松原もあり景観のいいところだったのである
だから火力発電所ができたということは大きなこの辺の変化だったのである
何かそれで烏崎の人に補償金が入り景気良くなって呉服屋が旅行に招待したとか知っている、家族の人が呉服を買っていたからである
ということはその時火力発電所が建った時、景気が良くなっていたとなる
ともかく原町の火力発電所ができてから40年がすぎている 

1971年3月に1号機の営業運転を開始

その約20年後に原町の火力発電所ができたとするとありえる、つまり双葉で火力発電所ができたからこっちにも作ろうということはありうるからだ
ただ意外と早く原発はすでに稼働してしいたのである

宮城県での建設候補地が町域に含まれる女川町および牡鹿町(現・石巻市の一部)の両議会も9月に誘致を決議し、石巻地区市町村長(1市9町)も誘致を請願して、浪江と女川で誘致合戦に陥ったが、1968年(昭和43年)1月5日に東北電力は女川町小屋取地域に建設することを決定した(浪江には浪江・小高原子力発電所が建設準備中だった)

浪江と小高の中間地帯の崖の上に原発は建設される予定だったより工事は始まろうとしていたのである、それが震災と津波で廃止になったのである
つまり津波と原発事故がなかったら小高に東北電力の原発は作られていた
それで小高の大工さんが景気良くなると言っていたのである
そこに建っていると相馬市まで30キロ圏内になり事故があったら住めなくなっていたかもしれない、ここは人口が多いからその被害も甚大になった
そして小高に東北電力の原発が建つことも知らない人が多かった

私自身も知らなかったのである、なぜなら原町はその時市であるから6万くらいの人口があったから左寄りの人たちがいて反対運動してきいるはずだがしない
そして小高でも共産系の人たちが多い町なのにしていないというのも解せないのである
だから知らない人が多かった、原発は何か知らないうちに建てられていたのである
それは原発の土地を買い県の許可がおりりれば作れるというものでみんなで協議するとかなかったのである、だからここには民主主義は全く機能していなかったのである

烏崎で中学の同級生も死んだ、地区の世話役で老人に避難勧告をしていて老人は頑固で逃げないので避難が遅くなって死んだとか言っていた
そういうことは他でも聞く、時間がないのに老人とかを回って逃げ遅れて死んだ人がかなりいたのである
また前が防波堤で遮られて海が見えないからわからなかったということも言っていた
そういえば確かに防波堤の上を自転車で行ったことがある
津波の場合、津波が来たのを見て早く逃げて助かった人の話を聞いている
八沢浦でも海に近いのに津波が来たのを見て裏山に逃げて助かった人がいた
それだけの余裕があったとはなる

海岸に接していても白い波が盛り上がるのを見たらすぐ逃げれば助かった
烏崎でもすぐ裏山があり高い所があったからである
それは歩いても近いのである、何か避難することでも失敗して相当数が死んだのである
大内では津波が来るのを見てトラックで逃げて助かった人もいる
つまり津波は意外は津波が押し寄せるのを見ていると怖いから逃げることがあるが見ないと逃げないこともあった、それが盲点でもあった
人間はやはりじかに見ないと危機を感じなかったということである

その人は今、二間の復興住宅に二人くらいで住んでいる
でも息子はいわき市と仙台にいるというから近いからいいと思った
それなら何かあったら来てもらえるからである
金はないと言っていた、それは船主でなくなっていたからである、漁業組合にも入っていない、仕事は電機関係とかの会社だったからである
そこで働いたことの苦労も語った

ともかく60代になるとなんらか病気になっている人が本当に多い、実はその人の同級生も64であり病気になっていた
自分自身も60代で病気になり入院して手術もしたのである、そのことはプログに書いてきた、まず60代以降は健康が大事である
一旦軽いにしても脳卒中になり障害がでると身体障害者になる
だからその人は歩くことはしても自転車にも乗れないのである
そして時々めまいするとかいうからやはり一時は呂律もまわらなくなったのである
でもリハビリして回復したのである
そして病気になってから誰も来ないとか言っていた、健康ではないからパークゴルフもできないと言っていた、確かに人間が何か病気になったり障害が出ると人は来なくなる
そういう人と付き合うことはさけられる、車も運転できないから一緒に行けないからである、なんかそれも淋しいと思った
車椅子の人を良くみかけるがその人も脳卒中になってそうなったのかもしれない
高齢化社会でこうした人たちも増えてゆくのである

いづれにしろこうして老いて昔を語るようになる、その人はまだ呂律がまわらないようになったりししても語れるからいい、もっとひどくなるとしゃべれなくなるからである
それもショックだとなる、こうして会話ができれば何かを伝えることはできるのである
これも一つの郷土史として記録されるとはなるからだ







        
  


posted by 老鶯 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年05月09日

なぜ駅の高校生の見守り役が駅の業務をしないと契約したのか? (専門以外の人が立ち入ることを嫌っていたから?)


 なぜ駅の高校生の見守り役が駅の業務をしないと契約したのか?

 (専門以外の人が立ち入ることを嫌っていたから?)

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こういう契約がどうして結ばれたのか?
それが理解できなかった  
これを契約条項に持ち出したのは誰なのか?どういうわけでそうなったのか?
これはJRの方で駅の業務はしないようにと市側ので認めたNPOに提示して決めたのではないか?その経過がわからないにしてもNPOが提示したのではないだろう
JRでそう提示してNPOは受け入れたのではないか?

なぜそう思ったかというとJRとかでも外部の人が勝手に立ち入ることを嫌うのである
駅の業務に立ち入れさせたくないのである
でもわからないのは他ではかえって駅の業務を委託している
それも危険なことも委託している
それはコスト削減のためにそうしている
こういうふうに正式にJRと民間が契約してならいいとなるのか?
それはJRでそういうふうに認めているからである
それで安全管理ができなくなるから労働組合では反対している

だから危険でもない「駅の業務をしない」という契約をしたのだろうか?
委託すると金がかかるからなのだろうか?
この辺のことがわかりにくいのである
まず駅で乗客の案内をしても危険なことはないからである

おそらく自分の場合は許可もされていないで勝手にしていたからJRで嫌い立ち入らないようにとしたとなる
何かそのことがわからないのである
役所仕事としてここでもある、私の部署ではないので他の人に聞いてくださいとかなる
それが現代社会である
つまり〈私たちは高校生の見守り役以外はしません、そうJRと契約していますから」とかなる
それで駅前の自転車屋でもいつも見ているから木が枯れたから水をやるとかしてもいい
それが人間の務めだと言っていた
今の社会は部分化専門化してその部分しかしない、そして無数の部分の仕事に分化しているのである、それで全体を知る人は誰もいないのである
まず全体を知り得ようがないのである

こういうことは別にここだけではない、役所でもそうだがどこでもそうなのである
無数に分化された社会であり専門化された社会だからである
原発でもそこは専門家しか立ち入ることはできない、そして誰も全体を知るものはなかった、吉田所長すら肝心の復水器について知らなかった
なぜなら私は資材部門だったからと言っていたからである
また社長でも会社全体を知る人はいないのである、何か一つの専門に詳しくてもあらゆることに詳しい人はいないしなりえようがないからだ

例えば原発では千人の電気仕事をする関係者がいた、配管の仕事をする人もいた
だからその人たちは実はこれは危ないとか現場で仕事して知っていたのである
では所長であれ幹部であれ上の人はそうした細部のことを知っているかというと知らないのである、いくら技術者として優秀でももう全部を知る人などいないのである
そんなことができるのは神だともなってしまうのが今の社会なのである

だから駅で勝手にボランティアしてなぜ仙台行きと原町行きのホームがほからないのが不思議だった、そんなことが当たり前であり誰でも知っていると思ったからである
ところが遠くから来る人はそれがわからないのである
それでその表示をするようにしたかしたのである
つまり上の人はすべてを知っているわけではないのである
だから原発では電気関係者が千人も働いていたということはそれだけ複雑なものが原発
だった、そしてその電気関係者はどこが危険が知っていたが上の人はそれを認めなかった上の人には何も言えない、もし逆らうというと会社自体がつぶされる
東電の命令は絶対だと言っていたからである

いづれにしろ現代文明社会はこうして原発事故でもそうだが破綻してゆるのではないか?ナチスがなぜ起きたのか?それはこうして専門家して無数に部分化した社会をまとめるために起きたとしている人もいる
つまり一つになるにはハイルヒットラーが一番わかり安いからである
カルト教団でもそうである、そこではめんどうな教義はどうでもいい、大衆がてっとりばやくわかることがいい、それで題目を唱えていればすべて解決するというのが一番いいとなるのだ、教える人も楽なのである、それで一日中題目を唱えている人がいたのである
そんなことしたって解決するわけがないのにもそれがわかりやすいからそうなるのであるナムナムとひたすら唱えることがわかりやすいからである

そしてなぜボランティアが難しいのか?
ボランティアがなぜ嫌われるのか?
それは専門化部分化した社会では私が駅にたまたま無人駅化したから勝手に駅員のようなことをして嫌われたと同じなのである
そうした専門化した部分化した仕事では第三者は素人は入りこめないのである

「お前はなんの権限があってしているのだ」
「そこは俺たちの会社の組織の許可がなければ入れない」

これはどこでもそうなっているのである、特に原発とかなると国がかかわっているから余計にそうなっているのだ、第三者は入り込めないのである
すると内部は秘密のベールに覆われているし知り得ようがない
そこから今回のような大事故になったのである
それがこれからも今の文明社会で起きてくる、全体を知る人などいない
部分部分で仕事していて他のことはわからないし立ち入ることもできないからである

ボランティアは何かそうしした専門家ではない、だから専門的に仕事している人がそうした何も知らない素人を入れるのは嫌うのである
それは一万くらいの町でもこの町がどういうふうになっているのか?
それもグローバル化とも関係してわからないのである
だから昨日は会社で働いていた人の話を聞いてそんな人がいたのかと知ったのである
その人はすでに40年前とかに海外旅行にヨ−ロッパまで行っていたことに驚いた
円がどるで240円の時だったからである
こうしてつくづく身近でもどういう人がいるかわからないのである

昨日また会った人はネパールの若い女性である、前も黒い顔の女性が二人いたからスリランカかと思った、それもネパールの女性だった、この辺では福装の裁縫会社で働いている女性が多いからである
グロ−バル化することでもさらに複雑になっているのが今の社会なのである
つまり一万の町ですらいかに複雑になってどう動いているのかなどわからてい
実際に隣の人が何をしていのかも未だにわからないことがあるのだ
田舎だからそんなことがないと思うがある、そういう社会なのである
だからボランティアというのは何か得たいの知れないものと現代では成り安いのである
なぜならみんな専門部門で仕事していて何かフリーのボランティアは何する人だとなってしうまからである

奇妙なのはだから全体を生きようとするものはアウトサイダーになるほかないとかなる
つまり無職になる他ないとなる、無職は専門家にならない、素人だけであらゆることにかかわるからだともなりそれも逆説だとはなる
ただはっきり言えることはこうして素人の外部のものを立ち入れさせないと会社でもどこでも内部だけでしかわからなくなりそこで原発事故のような破局的なことが起きてくる
原発が素人などわかないから知らせることも見せることも許可されない
でも原発でも科学者でなくてもわかることはありえたのである
原発は別に核分裂して熱をたして蒸気で電気を起こしているからである
それは蒸気機関車でもそうでありその基本的原理はわかることなのである
核のことはわからないにしてもそういう原理はわかるのである

ともかく無人駅でボランティアして社会が見えることがあったのは不思議だった
第一ここでこんなにいろいろな問題があると思わなかったからである
それじ社会勉強にはなったとなる
郷土史研究というときそれは総合的なものであり町でも歴史から地理からあらゆることを全体的に見る作業だからである、その一つに駅があったということなのである




現代文明は結合とか調和とか秩序とかが失われたのか? (有機的全体的歴史的持続的結合から無機的刹那的部分的接触の現代文明社会 )

現代文明は結合とか調和とか秩序とかが失われたのか?

有機的全体的歴史的持続的結合から無機的刹那的部分的接触の現代文明社会 

Organic overall historical persistent bond → Inorganic momentary partial contact

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人間社会からなぜ今現代文明は結合とか調和とか秩序とかが失われたのか?

有機的でないというとき無機的な社会となる、人間の温かい血が通わない冷たい関係である、それは人間の関係は金だけの関係だとか一時的な関係であり金の切れ目が縁の切れ目とかは別に昔からあったから格言として残っている

ただ生命というのは本質的には有機的全体的歴史的持続的結合の上に成り立っている

また二つに分けるとすると空間軸と時間軸の結合がある
人間はそもそも空間がなければ生きられない、また時間があって人間は生きている
時間という時、それは極めて人間的なものである
時間を作り出したのは人間であり人間にしか時間がないし歴史があるのは人間だけである動物には歴史がないのである、一代ですべての生は消滅する
ただ種の保存があるだけなのである

空間的結合というとき今はグローバルになり世界的結合になる
交通の発達でそれができるようになった
ただここで問題なのは空間という時、世界的に交通が発達して容易に行き来することができるとしても文化的結合とかアイディンティティの結合は不可能なのである
そこには時間が歴史が欠けているからである
時間軸とはその地域地域の空間から時間の積み重ねで作られてきたものだからである
それは地域の風土とかに深く依存して作られてきたからである

たとえば最近しきりに縄文時代のことを言う、縄文時代とは何なのだ
縄文時代が一万年というがそれが今の時代と何の関係があるのか?
それは時間軸の志向なのである、なぜ日本では天皇を近代国家になっても崇めるのか?
それも歴史的時間軸の志向でそうなっている
天皇は日本の国家が成立してからつづいているから継続されている歴史的な象徴だともなるからだ

つまりその土地の風土とか地理とか空間と時間が一体となって作られたのが一つの国を形成する、アイディンティティを形成する、そこには時間的要素が欠かせないのである
だからその時間は長いのである、父母がいて祖父母がいてさらにその前の先祖がいて成り立つのが歴史である

それが村の歴史とかで語られる、先祖は死んだら山に葬られて田植えの時期になると山から先祖が平地におりてくる、先祖は稲作文化と深く結びついてそうなった
それは地域の風土と結びついて長い時間のなかで形成された
空間と時間が一体化したのである

故郷という時それは何なのか?
それは空間的に故郷という場所があって成り立つ、一方故郷は古い郷でもありまた故ある郷ともなる、それは時間の中で作られた故は理由でありアイディンティティの場所なのである、空間だけでは必ずしも故郷とはなりえないないのである
故郷は先祖が関係しているのである、時間の中で生きた人間の物質的精神的営みが関係している

故郷は一時的なものではない、長く継続するものである、山とか石とか木とかの存在と似ている、木は大地に深く根を張りその樹齢が5百年とか千年のもあるからである
そういう長い時間の中で継続して作られたものだからである
故郷というとき狭い一地域だがそれぞれの国も同じである
日本という風土があり土地があり日本の歴史が形成されたからである
だから郷土史というとき狭い一地域でもそこはミクロコスモスの世界なのである
一つの調和したコスモスとしてあった世界なのである
自給自足できた世界だった、村は日本では一つのミクロコスモスとなっていたのである
コスモスというとき地球規模になれば不可能である 

そこには分裂分断にならざるをえない、生態系にしても狭い地域で成り立つ
そこに空気と水と土とか山とか森がないと成り立たない
その基本が喪失すれば原発事故で空気も水も土も森も汚染されて住めなくなったからである、そして長い時間軸で形成された故郷は捨てられて町も廃墟と化して荒地となったからである、そして先祖も捨てられたとなる、それは老人だけが避難区域に残されてその子供たちは流出したということでもわかる
親でも先祖でも時間軸で形成されたものが破壊されたからである

それはここだけではない、そもそもすでに有機的全体的歴史的持続的結合が失われた世界に住んでいるそ→その反対は無機的刹那的部分的接触なのである
そこではまた専門化社会でありそれも部分部分の専門家がいて専門家以外は立ち入れない社会になっている 
だから常に現代人間は無機的な情がないと感じる社会に生きている
そこで金だけが人間を結びつけるマルクス流に言えば人間疎外が起きているのである

なんかあらゆる人と人間として話すことも接触することもできないのである
それぞれが部分的専門的なものとしての存在であり人間は無機的存在となる
どこであれ役所であれ会社であれ大きくなれば様々な分野に専門化して分かれて部分化して全体を見る人なと一人いないしわからないとなる
それで私は専門ではありません、別な課に行ってください、そして別な課に行ってもまた別な課に行ってくださいとなり遂に行く聞く課もなくなる
つまり人間は有機的に結合しないのである

無機的刹那的部分的接触でありそこに結合とかはないのである、ただ一時的に会い別れるだけだとなる、それは無常としてあったがそれでも空間と時間が一体化した有機的ミクロコスモスは存在したのである
そしてこれが喪失するどうなるのか?
ばらばらに村でも町でも市でもなり原発事故の避難区域のようになるのである
それはここだけではない、他でも起きるのである
現実にそういう社会に住んでいるからである
有機的持続的結合ではない無機的刹那的部分的接触の中で生きているからである

だから東京のような大都会になると何か大きな災害が起きると巨大な崩壊が起きてくる
地震であれ事故であれ水でも供給できなくなる
水などいくらでもあるじゃないかとなるが都会には水も供給できなくる
それで東北の被災地では一時的に水も燃料もなくなり裏山から水を運び裏山の木を切り燃料にして生き延びたのである
それが大都会ではできないから巨大な都市自体の崩壊が起きてくる
もう道路も破壊されるから脱出すらできなくなる

大都市には有機的生命的に結合するミクロコスモスがない、食料だって外部からもたらされてかったらもう生きてゆけないからである
そこで成す術もなく死ぬ他なくなるのである
つまり大都会は災害には弱いのである
田舎だったら水を山からとるとかありえた、でも原発事故ではそれすらできなくなっていたから都会とは限らず現代社会は生態系に依拠したミクロコスモスが喪失しているから危険なのである

だから原発事故は空気でも土でも水でも森の木々でも放射性物質で汚染されたから使用できなくなった、つまりそれは生態系に依拠するミクロコスモスが破壊されたからそうなったのである
だからもう故郷であれ何であれそういう場所を捨てて脱出するほかなくなった
その時故郷は空間と時間軸で作られたものが捨てられたとなる
確かに今は移動が簡単だから他に移ってまた家を建てて住んだ人が多い
でも空間は移動できても時間軸で作られてきたものは再構築不可能となった
それは一から始めなければならなくなったからである
また他の時間軸の中で再出発しなけれはならなくなったからである
精神的アイディンティティを失い再構築を強いられたともなる

ただ時間軸で形成されたものは何か目に見えないからそれが喪失したことが何であったか自覚できないともなる、それは精神的要素が多いからである
だから生業(なりわい)を返せと裁判を起こした時、その生業とはまさにその土地と風土のなかにあって長年の時間軸で作られたものを失ったということである
それは500年であれ1000年であれその土地に根付いて成長した木が他の土地に移せないとにているのである
ただダムになったところで桜の古樹を他に移した例はある、でも木とかでもその土地と一体化して長年あったものを移すことは不可能だとなるのである

言葉でもこれも長い時間で作られた歴史的なものである
そこには縄文時代からつづいているとしたら本当に長いのである
だからその言葉は民族のアイディンティティとなる
言葉はただ名前だけではない、基本的に民族の文化なのである
言葉には民族の精神が宿っているとなる

それで恵みというときめぐるなのである、水を考えるとめぐるであり水はめぐって大地を潤し実りを与えるのである
こういう言葉やはり原始的生態系と一体となって暮らしていた縄文人から生まれた言葉だったともなる
また賜る(たまわる)というときタは多いという意味である
すると多くたまわるとなる、ター回るなのである、獲物でも分け合うとういことである
そういう生活を縄文時代はしていたからこういう言葉が生まれたとなる
それは狩猟でも採集でも自然から賜ったものを回すという思想なのである、そういう循環型の生活をしていたからこういう言葉が自ずと生まれたともなる
たかるというときタは多いでありタ、狩るなのである
多くの物を狩るなのである、この狩るが稲作が入ってきたとき刈るになった、つもりもともと縄文時代の言葉だったともなる
多珂神社が多いがこのタカも集る(たかる)からきているのかもしれない、なぜなら大勢で獣にたかり狩りをるからである
言葉の解釈はいろいろあるしても日本語の基本は一語でありそして動詞が基本になる、めぐるは芽ぐわしとかにばなっているが
めぐるという動詞が基本なのである

言葉とは縄文時代までさかのぼるものなのである
それでグロ−バル化して英語にしたらいいというとき日本民族の歴史も文化も失い根無し草になってしまうのである
そこに歴史と文化の重みがある
それを失うことはもうアイディンティティも失い生きる意味さえ失ってしまうのである 

有機的全体的歴史的持続的結合から無機的刹那的部分的接触の現代文明社会 




2019年05月10日

なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか? (生産共同体(会社)から排除されたため)


 なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか?

 (生産共同体(会社)から排除されたため)

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 経済という時、基本として生産と消費がなんでもある、生産する者とまたはサービスを提供するものと消費するものサービスを受ける者がいる
それは資本主義社会では明確に分かれているのである
なぜなら時代をさかのぼればのぼるほど生産と消費は分化していないからである
例えば農業している人は米でも野菜でも生産する、そして村は生産共同体だったと同時に消費する共同体でもあった
つまり自然があり米でも野菜でも生産して消費する、その時消費するというとき自然から神からいただくということで感謝する、それがその土地土地の祭りとなっていた
神社とかにはもともとそういう機能があったとなる
神社はその土地土地に根ざしたものが多いからである
そうして一つのミクロコスモスに生きていたのである

そういう社会では生産と消費は分化しない、今でも小さな畑で野菜を作っている人は生産と消費が分かれていない、しかしそのためには金がかかる、肥料やら種やら道具やら労働力やらと生産するには金もかかるし苦労が多い、だから私がそれを援助してももらったのはキュウリ二三本でありそれも一万もしたともなる
これをスーパーで買えばそんな馬鹿高いものにはならない、だからそんなことをしても無駄だとなり損するだけだとなる

ただその人にとってそれが生きがいになっている、他にも仕事があるとしても家事などしたくない、皿など洗いたくない、その人は庭で花を育てるとかそういうことに熱心なのである、そういうことが苦労があっても好きなのである
皿洗いと掃除とか家事はしたくないのである
だから今は一切していない、なぜそうした農業が生きがいになるのか?
ただの労苦ではないのか?

それは生産と消費が一体化してからである

そして生産共同体というとき生産は共同でする、その人も畑で野菜作るにもいろいろ他でも畑で野菜を作っている人がいるから聞いている
また畑をうなってもらったりしている、その時は金を払っているのである
つまり一旦生産するとなるとサービスを提供する側になると共同体が必要なのである
協調しないとできない、それでどうしても農協などがかかわるようになる
でもそんな小規模なものは金にもならない、農協を通じて売る場所がある
するとそこで農協に金を払うからもうけもなにもなくなってしまうのである
いづれにしろその畑で野菜を作ることは共同があり生産と消費が一体化している
そして現代社会は生産とサービスを提供するものと消費が分離しているのである

消費者が王様だというときもそうである
ではなぜそうなるのか?生産する者からサービスする者から一旦離れてしまうことは社会にとって消費者になる
でも消費共同体などないのである、消費は個々人でしている、だから会社を退職した人は生産共同体(会社)から離れるから社会で孤立する
会社をやめて地域で活動しろといってもそこには生産共同体としてのコミニュティがないのである

生産共同体は会社は共同して働く場だったのである、だから会社で働く人たちは共同体の一員となる、そして仲間意識をもつ、でも一旦そこから離れると仲間ではなくなる
でも農業とかしていた村ではそういうことはないのである
村の共同体の一員として死ぬまであり死んでからも先祖として生きつづけていたのであるそれが村の祭りだったのである

人間は自然から確かになんでも消費する存在である、食べ物でも自然から本質的には得ている、でもまた生産するものでもある、生産することによって自然への神への感謝が生まれ消費するというものではなく賜(たまわ)るのである
資本主義グローバル化社会になるとそういう自然の中での生産と消費の一体化は喪失して分離されるのである、その時自然とか神に感謝する祭りはなくなる
そこに媒介するのは金だけだとなる
だから会社という生産共同体から離れたらその人は消費するだけの人間となる
そうなると消費するためには金がないと存在感がなくなる
消費すれば金を払えば消費者は王様だとなり歓迎されるのである

そしてなぜ会社を退職すると社会で居場所がなくなるのか?孤立するのか?
それは生産共同体から分離されてしまうからである
地域でもし昔の村のように農業でもしていればそういうことはありえないのである
労働の疎外というときマルクスが指摘したことは今も活きている
でもその労働の疎外がどこから起きているのか?
それは生産と消費の分離から起きていたのである

とにかくなぜ一旦会社から分離させられると居場所がなくなり孤立しやすいのである
そしてもう何か社会のために労働したとしてもできない
ボランティアとか意外とめんどうでできないのである
なぜなら会社とは生産共同体として組織化して素人は立ち入れない場所だからである
なにより生産共同体になると個人ではできない、組織化して仲間でするから一旦そういう共同体から離れると消費者になるほかないからである

現代は何か本当に労働自体が疎外されている
その悲惨な例が非正規とか派遣で働いている40くらいの人たちである
夢も希望もない、家族がいない人は何の働く動機もない
ただ金だけであり日々ただ生きがいもなく時間を浪費しているだけだとなる
つまり派遣という労働は毎日ただ仕事の現場に派遣される
会社で働いているのとは違う、会社員とも違う、仕事があれば派遣されるのである
そこでは日給であり正規の会社員として定年まで働くというものではない
だから保証もないし福祉もないとなる

そして何よりそこで働いたからと言って誰かに感謝されることもないのである
家族がいたら家族に感謝される生きがいがあるかもしれないが結婚していない独身者はそういうことがない、ただ一日分の金をもらいあとは食べて寝るだけだとなる
労働する生きがいがないのである
例えば働く語源が端(はた)を楽にするというときそれは家族労働のような狭い範囲から生まれた、家族が働いて苦労しているから楽にさせたいとなるのが語源なのである
そういうとき働くということはやりがいがあるとなる
今の労働はそういうことは全くない、それもグローバル化すれば地球の裏側で働いている人のことなどまるでわからない、つまり働いている人とは関係をもていなのである
ただモノが無数に入ってくるが人とは関係しない、そこに金が媒介となるだけである
そこに結局労働の疎外が起きているのである
ただマルクスの論理はそれで共産主義になったらそうした労働の疎外がなくなるということはないかった、共産主義だってグローバルであり働くという語源のようなものはなくなっている

つまり生産共同体として生産と消費が一体化することが本来の人間の在り方でありそこに自然との融和があり人間の協調があり祭りがあった
だから人間の労働のモラルもなにもなくなったのである
働くことに生きがいが見いだせないのだ、ただ金が欲しいというだけである
それで小さな畑で野菜を作る人は生産と消費が一体化しているからそこに生きがいを見出しているのである
ただそこの矛盾は金がかえってかかるということである
その金を与える者がいなければそもそもできないのである

いづれにしろ生産と消費が分離しているのはあらゆるものがそうだと思う
例えば情報というとき今までは情報を提供する者と消費する者に分離していたのである
情報を提供する者はマスコミだった、新聞とかテレビとか主だった、雑誌でもそうであるそれで情報を提供するものが国民の世論を操作して作っていたとなっていたのである
マスコミが報道するとき必ずマスコミの意にかなったものしかとりあげないからである
ニュースにしても重大なニュースでも報道されないからだ
また個々人では報道できないからである
それがインタ−ネットでyoutubeとかなると一個人がテレビのように報道できる
それは金がかからないからできるようになったのである

それでyoutubeのLove & Freedom底辺労働者)は一つの例としてこんな人がいたのかとなりその人の立場を派遣労働の悲惨な姿を生々しく知ったのである
それは家族もいないから孤立していて労働自体にも共同性もなくただ毎日金をもらい食べて寝るだけの生活なのである
そこで生産共同体という会社にも属していないからない、派遣共同体とかにはないから孤立しているのである
何より家族がいないということが孤立感を深めているのである
それは今になると自分もそうだから同情する、共感するとなる

自分自身も若い時は底辺労働者だった、でもそれは自分にとって必要なものだったのである、何か自分は恵まれていて傲慢な所があったから底辺労働してそういう傲慢さが打ち砕かれたのである、その後も自分は労働は一切していない
旅ばかりしていた、消費しかしていないのである
鉄道の旅をしている時でもそうである、それは消費でありサービスを受ける側しか経験していない、でも資本主義社会では消費者は王様なのである
金さえ払えば鉄道会社でサービスしてくれるのである
それが一旦サービスを提供する側にまわるとボランティアでもいかにむずかしいか無人駅の問題で延々と書いてきたのである
それは自分だけではない退職したら会社という生産共同体から離れたらもう一消費者でしかありえないのである、そこに仲間もいなくなり孤立化して居場所もなくなるのである 、ただ金をもっていれば消費者は王様であり待遇してくれるとはなっているのだ
しかし消費共同体というのはないのである、だからやはり孤立しているともなる
生産共同体なら会社のように共同があるが消費するだけだったらないからである
だから会社から退職した人は一消費者となり居場所がなくなり孤立するのである


posted by 老鶯 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

藤の花、菖蒲の季節(相馬市には藤の花が合っている)


藤の花、菖蒲の季節(相馬市には藤の花が合っている)

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玉子屋


藤の花垂れにし下に休む人その後我も休むかな

八重桜に菜の花映え街中や玉子屋にそ働く人あり

玉子屋に働く女やあわれかな墓に入りしも花をささげぬ

紫と白の藤咲く相馬市に奥ゆかしくも住み人のあれ

路地を入り白菖蒲咲くを我見つけ知られざりしもあわれ深まる

人生の移り変わりの激しかな津波に病杖つく人かな  

若葉に風のそよぎて鳥飛ぶや藤の陰にし人は休みぬ


藤が咲き菖蒲の季節になった、相馬市は城下町であれ入母屋作りで公共の建物は統一している
それが原町とは違う、原町の駅前の丸屋には十階の建物がホテルが建つとうから驚く
とにかくこの辺は震災以後ホテルが建てられつづけている
こんなにホテルがあっていいのかとなる、まだ原発の廃炉作業がつづくから需要があるともなる

その村とか街にあった花がある、相馬市は藤の花である、城跡の中村神社に藤の木があるからだ
そして白い藤も咲いている、城下町としてしんみりとして合っているのである
ただあそこで城下町を意識するかというと外から来ても意識されないだろう
細い路地があるからそれで城下町を意識することはあるが他に何か意識しにくいのである

原町はひまわりの花があっている、明治以降常磐線の機関区としてそこから街が発展したからである
つまり鉄道の駅中心に街が整備されたからである
それまでは浜街道沿いの宿場町だったとなるからだ
そこは相馬市との大きな相違である、だから今になっても駅前に十階ものホテルが建つことでもそうなのである

でも相馬市にはそういうビルが建つと景観がそこなわれる、何か低い家並みがあるのが素朴な感じがするからだ
それで原町と相馬市では違っているのである
それぞれの街で町でも村でもなんらか特徴がある、でも有名でない所はわかりにくいとなる

鹿島には玉子屋は有名であり街中に工場がある、そこに八重桜と菜の花が咲いていたのも合っていた
そこで働いていた女性も死んで今は墓の中である、その墓がすぐ近くにある
そこは自分の家の墓でもある
そこに津波の被害者が主に右田の人たちが復興住宅地の団地にいる
その公園でいつも休んでいる、そこには藤棚があり藤が咲いている

それにしても復興団地があそこにできると思わなかった、前は幼稚園があったがそれもなくなった
こんなに変わるとは思いもよらなかった
人生は本当に有為転変である、烏崎村の人と土手の道で語ったけどその人も津波の被害にあった人だった
そして脳卒中になり杖ついている
病気になっている人も多いのである、それは自分自身もそうだった、家族はみんな死んだとかなりただ茫然としているだけだった
人生とはこんなに変わるものかとただその無常に驚くだけである
もともとそういうことが人生だったともなる、なぜなら70年前は戦争であり三百万人死んでいるからである
長い人生のなかではそうして変化することを知った

路地は入ったら白菖蒲が咲いていた、あそこに咲いているのは気づかない
街中の畑にも菖蒲が咲いていたこともあったが今は荒地になっているのも淋しい
畑でもそうだが荒地になっていると良くないのだ
そこで花でも植えているだけでほっとする、そこに美が作り出されるからだ
ただそうするのにも手間がかかり金がかかるからできないのである
何かそういうことをNPOでしてもらいたいともなる
駅の見守りなど本当に必要なのかどうか疑問だからである、いれば安心感があるにしろ駅の業務をしないというのも変ったからである

今日は暑い、暑いともう自転車で出かけられなくなる、自転車は日ざしをまともに受けるから困るのである
それで去年は熱中症になったから怖くなったのである