2019年04月30日

元号が変わるけどもうグロ−バル化の時代に合わない (天皇の存在は是非は多数決で国民の総意で決められるのか?)


元号が変わるけどもうグロ−バル化の時代に合わない

(天皇の存在は是非は多数決で国民の総意で決められるのか?)

第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

●元号は明治と大正までは時代を現していた

平成から令和に変わるけど何か元号自体が時代にあわなくなっているのではないか?
明治とか大正までは元号が活きていた、それは私の父は明治生まれであり母は大正生まれだからである、そこに元号に親しみを感じる
明治は大きな時代だった、大正はもうひとつ特徴がないが何かそれでも時代の雰囲気を感じる、昭和になると戦争であり戦後は高度成長時代になる
昭和も大きな時代である

ではなぜ元号というのが今時代に合わなくなったのか?
それはこれだけグローバル化ししていると世界的に同時代的に世界の人が生きるようになったからである、元号だとそれは日本だけのことである
天皇と言っても日本だけの歴史の中で活きるものであり世界には通用しない
だからアジアでも天皇が戦争のことで批判されるのである

つまり太平洋戦争で天皇の権威は失墜したのである、それはグローバル化の結果だったのである、元号が変わるということでお祭り騒ぎしているけど何か私自身はそんな時代が変わることを意識しない、平成をふりかえることでも平成がインタ−ネットネットがスマホが普及した時代だというときそれは日本だけの現象ではない世界的なものである
すると平成がインタ−ネットの時代というより世界がインタ−ネットの時代になったとなる、だから元号だけでその時代をみることはできなくなった     

●江戸時代までは元号は活きていた

私は郷土史をみるときどうしても常に古い碑を見て元号をみているから元号に親しみがある、最近では宝暦の碑を相馬市の辻の塩嘗地蔵で発見した、ここが意外と古い場所だと発見した、宝暦の碑は日立木の薬師堂にもある、そこが浜街道であり松並木を通り過ぎた所にある、そこには南無阿弥陀仏の碑がある、宝暦にも飢饉がありそこで餓死した人たちを供養したものかとも思う、南無阿弥陀仏の碑が他にもありそれは餓死なのか死んだ人を供養したものである、何を供養したのかわからないものもある
つまり歴史には膨大な人たちが闇に消えたのである
それで相馬藩で津波の記録で二行だけ溺死者700人いたというのがわかった
それも全く忘れられていた、津波があって発見されたのである
そういう人たちも忘れられて闇に消えていたのである

江戸時代なら元号に意味がある、世界とかかわりがないからである
日本国内のことであり世界の歴史とは関係なく生きていたからである
現代はグロ−バル化して世界と密にかかわっている
するとどうしても国内だけの元号には違和感があるし世界的に通用しないのである
平成でも令和でも何か元号の重みがない、元号が重みがあったのは昭和までかもしれない昭和でも戦前と戦後ではまるで違っているから昭和で統一できないのである
元号でも大同とかというと東北では相当に歴史的に重い意味をもっている
その時蝦夷征服で坂上田村麿が活躍したときであるからだ
大同というのは時代的に日本にとって日本を統一した時代をの元号だからである

ただ元号と天皇は密接に結びついている、特に逆に明治大には天皇の一世一元が元号になったから逆戻りである、江戸時代は元号を何か大きな災害があるとか変えていたのであるだから明治以後の方が元号は古い天皇の時代に戻っている
明治に天皇をより神格化して日本を統一したとなる、それが太平洋戦争に通じていたのである
天皇の是非は現代のグロ−バル化した世界にはもうあわない、世界とこれだけ密接にかかわるとき日本だけが二つの歴を使用するのはめんどうになる
元号は江戸時代のような日本だけで生活しているようだったら合っていた
これだけグロ−バル化しているのに元号を使用するのは合わなくなった
天皇は日本国民の総意でなり日本国民の象徴だというとき元号も国民の総意で決めるともなるがそうなっていない、秘密のベールの中で決められた  

●天皇が廃止されると全国の神社は維持できなくなる

とにかく天皇の是非は別にして何か元号は時代に合わなくなったのである
だから元号が変わるとしても何かそれで何か変わるとも思えないのである
そういう感覚が時代的に消失している、国民の総意でもそうでくなっている
テレビでは天皇が変わることで煽っているけど本当に国民の総意なのか?
天皇自体がもう国民の総意に合っているのかどうか?
天皇とは国民の象徴ではなくて、日本文化とかの象徴ではないのか?
日本の伝統を担う人ではないのか?

ただもし天皇が廃止されるとどうなるのか?
無数の日本の神社が維持できなくる、なぜなら由来がわからないにしろ神社と天皇は結びつく
だからこそ明治になった時廃仏毀釈がおこなわれて仏教勢力は排除された
それも当然だったのだ、江戸時代に幕府によって優遇されたのは寺であり神社ではなかったからである
天皇は全国神社の代表のようなものでありそこにこそ天皇の重みがあるとなる
天皇が総元締めのようになっているからだ
神社には必ず忠魂碑があることでもわかる、それは戦死者の霊を祭るものである
そこにまた神社の意味がある
神社でも子安神社とかあれば国家とか天皇とは全然関係ない、子供が安らかに育つようにとの願いの神社だからである
神社にはいろいろあっても国家と天皇と結びつくものが多いのである

天皇の是非は簡単には語られない、それは二千年の日本の歴史と関係しているからである
元号もまた天皇と関係しているが江戸時代は必ずしも関係していない、天皇の一世を元号にしていない
何か災害があったり悪いことがあったりすると元号を変えているからだ
それは天皇の一世元号とは違うからである、そういうことは国民の総意でもある
なぜなら災いとか悪いことを起きてくれるなというのは国民の総意だからである
それは支配者だけではないみんなの総意だからである 

●令和はグロ−バル化の中で天皇の役割を模索する時代へ

いづれにしろ次の天皇は令和の時代をどう築くのか?
夫婦で留学して国際派だというときそのことでもグロ−バル化した中での天皇がどうあるべきか模索するようになる
だから平成の天皇とは違ったものになる、代が変われば家でも会社でも自治体でも市長が変われば変わる

グロ−バル化の中で天皇はどうあるべきか?

これが令和の時代の課題だとなる
平成天皇は昭和天皇の反動として国民と同等となり膝をつき国民と対話した、それは昭和天皇との大きな相違だった
昭和天皇は戦前の現人神(あらひとかみ)の感覚がまだ残っていたからである
またもう天皇を受け継ぐ人が皇族が減少していなくなるからもう天皇制は維持できないとも言われる
天皇制を維持する体制自体が消失しているからもう維持できないともいわれる
だから今度の令和の天皇が最後の天皇であり元号もこれで終わりになるというのも現実的である
そういう状況にすでに追い込まれているのである
そして大統領制に向かってゆくのが次の時代だとなる
結局騒いでいるのは官製化したテレビだけだともなる、国民はそんなに天皇というのを重く見ていないだろう
天皇を重く見ていたのは明治から戦前までくらいである、戦後生れでも天皇は一平民のようにすら見ている
何か特別なものとして見ていない、つまり戦争に負けた結果、天皇のカリスマ性みたいなものが消失したのである
それに不満で三島由紀夫は自決した
憑き物がとれた感じになったのである

そもそも戦前は戦争の時は政教一致だったから政教分離になった、それは天皇が神だとしたら戦争に負けるわけがないからである
それは創価とかカルト宗教団体でもそうである、選挙に勝つか負けるかが仏法で決まるとしたらもし選挙で負けたら仏が負けたとなるからだ、現実に天皇が戦争に負けてその宗教的権威も喪失したからである
天皇は政教分離して国民の象徴となり政治には直接かかわらないようにしたのである
それは戦前の過ちをくりかえさないためである、政教分離にしたのである
でも創価などやカルトは政教一致であり憲法に違反している、選挙は仏法による戦いなのである、勝てば仏法の勝利であり負ければではどうなるのか?仏法の敗北かとなるからカルトなのである
日蓮宗団体は国家と一体化しやすいのである、現実に教義では仏法が国法り国より上だとしているからだ

それは近代国家では違法なのだけどカルトなのだけど容認されている、天皇にもそうした神格化の危険がつきまとっている
国民の総意で別に戦争にも総意になる、すべて国民の総意で決定されることも危険なのである
つまり根底になにがあるのか?それを歴史的に経験したのがナチスだったのである
国民の総意ほど危険なことはないことはを証明したのである、国民の総意には何ら根拠がないのである
数が多ければ何でも通るというだけなのである、選挙に勝てばすべてが通る、国民の総意だからだとなる
それが全体主義ファシズムになる、数さえ集めればすべて通るとなるからだ
だから天皇が国民の総意でどうにでもなるとしたら国民投票でその是非を決めればいいとなるのである
それが民主主義だとなる、国民の総意というのが絶対的になるのが正しいのか?
これも疑問なのである
posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)


江戸時代の飢饉の歴史

(歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)



1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉

東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)



秋田県由利本荘市(宝暦の飢饉)

矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。


天明のの飢饉 

秋田方面への流民が発生し出した。「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。老人や少年で歩行ができない者は打ち捨て、妻子・兄弟も散り散りになるという混乱がみられた。しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。

この間、他領へ逃散していた飢民も多く連れ戻され、非人小屋に収容された。江戸詰の藩士添嶋源八郎は国元へ帰る道すがら、他領へ逃散していた者四六〇人を連れ戻したので、非人たちはことのほか源八郎を恨んだという。このころになると収容者も再び増加し、千五、六百人になった。藩は再び管理が困難になり、十月九日にも希望者に手当を与え、九四二人を帰村させたという。

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍 


天明の飢饉は有名だけど宝暦に東北地方にヤマセの影響であった
宝暦というとき日立木の薬師堂に宝暦の碑がありそこに南無阿弥陀仏の碑がある
それは飢饉で死んだ人の供養だった、宝暦というとき相馬市の塩嘗地蔵の所にも宝暦の碑がある、相馬市の城下町であれは相当に古いものとなる、街中には古いものがかえってないからである、松川浦に近い所に新田には元禄の碑があった

江戸時代の最大の災厄は餓死だった、その数は膨大なものになる、それがまさに江戸時代の暗黒面だったのである、歴史という時、そうして無念に死んだ人が膨大なのである
最近でも3百万人が戦争で死んだという時そうだった
そういう暗黒面の歴史があるしそれを知らねばならないのである

なぜか?人間はとにかく過去を忘れやすい、現代のように贅沢な暮らしをしているともう餓死ということ自体イメージすらできないだろう
もちろん現代は日本でも貧困化が深刻な問題であり数人は餓死している
でも江戸時代の飢饉は何十万の単位で餓死しているのである
だから例えば日立木の薬師堂で宝暦の碑を見つけたとして念仏で供養されているとして
その背後にこうした事実があることが忘れている
歴史の闇に消えてしまった人が膨大なのである
だから相馬藩で700人溺死というのはこうした餓死者とかと比べると死者の数が少ないから余計に忘れられていたのである、政治でもそれに対して何もしていないのである

とにかく宝暦でも天明でも天保にも飢饉があった、飢饉は常にありそれで年号となると飢饉をイメージするのである、天明はまさに飢饉の年でありそれはあまりにも悲惨だったから語り継がれているのである、でも宝暦とかなると何か明確ではない、でも被害は大きかった
歴史とは何なのか?それは膨大な人が歴史の闇に消えた消されたとういことである、それが津波の被害にあって相馬藩内で700に溺死という記録があり見直されたのである、ただそれも二行だけであり津波が来て初めてその二行を発見したのである

そういうふうに歴史には膨大な人が闇に消されているのである、だからそういうふうに歴史の闇に消えた人たちをその事実を掘り起こして検討することが大事になる
それが供養だとなる、それは先の戦争で死んだ人たちだけのことではない
飢饉で死んだ人達でもそうである、逃散というのもありそれは江戸時代なら藩から出れないがどうにもならず出て行った、でも他藩でもそういう人たちを受け入れることはできないから戻されたのである、そういう中で死んだ人たちがいた
それは決死の移民でヨ−ロッパとかで死んでいるのと似ている
それに比べると原発避難民も大量に逃散したがその先では新しい家を建てたりして地元の人からうらやましがられて反感をかったのである
それだけの時代の差があったということである 

ともかく一つの古い碑でもそこに膨大な人が餓死してそれを供養している
そういうことをイメージしないとただここに一つ古い碑があるだけだとなってしまう
そこに無数の歴史の闇に埋もれた無念の霊が眠っているということ知らねばならない
歴史には個々人でもそうだが無念の死が無数にある、それは今でも家族とか身近な世界でもそうである、戦前だと若くして啄木のように肺病で死んだ人も無数にいる
そうした暗黒が歴史でもある、一つの古い碑があったとしてその背景にはその当時の時代背景がありそれをイメージできるかなのである

posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

野馬追いが残ったのはなぜなのか? (相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)


野馬追いが残ったのはなぜなのか?

(相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)

なぜ野馬追いが相馬藩で残っていたのか?これも謎である
6万石の小藩なのに未だにあのような華麗な侍の行列が見られる
伊達藩は60万石であり他の大藩でもそうしたものが残されていないのである
今でも相馬市の城跡は何もない、貧弱なのである
会津とかでも大藩であり常に歴史が語られている、でも野馬追いのような行列はないのである、ここにしか侍がそのまま行列になるのは見られない不思議である

野馬追いとはそもそも何であったのか?

それは良く北朝鮮と中国でも軍事パレードをする、あれとにている
国の武力を誇示するものである
戦国時代なら余計にそうである、それで映画にしろ常に信長が美濃の斎藤道三に向けて行列して対面した
その行列は軍事パレードでありどれだけの装備があるから道三は見ていた
それで槍隊とか鉄砲隊とかを見ていた、そしてそれに目を見張って侮れないと見たのである

つまりこうした行列は軍事パレードであり国の力を誇示するものである
野馬追いもそれなのである、相馬藩は小藩であったが大藩の伊達と隣り合っていたから常に驚異にさらされていたのである
するとそれに対抗するには軍事力を見せつけないと対抗できない
そういう伝統がありまた津波のことで書いたように相馬藩には郷士が非常に多い藩だった18パーセントもいたということは多いのである
それも相馬藩の特殊な事情なのである、軍事力を高めるためにそうしたとなる
それは北朝鮮とかとにているのである、軍事国家として核をもち威嚇していないと他国に大国に責められるという恐怖がありそうしているからだ

相馬藩が伊達藩のような大藩に責められても支配されなかったのは軍事力だった
それももともと相馬氏は馬を調教する、馬をもってのしあがった一族である
馬は強力な兵器でもありそれが野馬追いの基である
モンゴルを見ればわかる、馬によって世界を征服したともなるからだ

本当に原町への長い街道を500騎の馬が行列するのは圧巻だった
そういう光景を実物として見れるのはここにしかないのである
でも戦国時代とかは参勤交代でもやはり藩の力を示す示威行為である
軍事パレードなのである、ただ平和の時代になりそれが祭りのようになったのである
でも参勤交代の行列も明らかに野馬追いの行列とにているのである
それは軍事パレードで藩の力を誇示するものだからである
それは戦国時代のつづきとして継続されていたのである 


posted by 老鶯 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)