2019年04月12日

相馬の城跡から坪田の都玉(くにたま)神社を回る (相馬藩の悪因縁がカルマとなり原発事故につながったのか―足尾銅山と関係していた?)


相馬の城跡から坪田の都玉(くにたま)神社を回る

(相馬藩の悪因縁がカルマとなり原発事故につながったのか―足尾銅山と関係していた?)


相馬の城跡で写真をとっている人がいたのでその人と話した
その人は高校の歴史の先生だった

「この石垣が野面積みですか」
「これは会津の侍が来て教えられて作ったんですよ」
相馬駒焼があるけどあの跳ねた馬の絵を工夫したのは外から来た絵師だったんですよ」
「ええ、そうですか、知らなかった」
「そうですか、外から来た人が何かを教えてそれが残ることはあります」
「城の石垣というとき穴太(あのう)衆が有名です」
「それは近江ですね」
「信長がそのあなう衆に安土城を作らせて有名になったんですよ」

それから私は気にかかっていた、相馬の城の桜は何か大きくない、成長がとまっている

「染井吉野は60年が寿命ですよ」
「なぜここの桜は大きく成長しないのか」
「土地が悪くて栄養が悪いからかもしれません」
「そういうことあります、とにかく土地が悪いと作物も育ちませんし花も咲かないですから」

それから津波の話をした、その人は松川浦の津(つのみつ)神社を津波の神社と言っていた
それは違うと私は強く言った、それは渡来系のツノガノアラシトから出ていると言った
そのことは私が最近津波のことを調べてわかったことだったからである
それは私が発見したことでもあった
なぜなら津神社とは松川浦にもあるし烏崎にもあるし原町の雫(しどけ)にもある
津波の神社がそんなにはない、本当にまれにしかない、名取の波分神社くらいが由来がはっきりしているのはないのである

高校の歴史の教師だったその人は由緒ある相馬藩士の子孫だった

「私は伊東であり相馬藩士の子孫です」
「野馬追に出ているのですか」
「出ていますよ」 

この伊東という人の姓は多い、でも途中伊東という墓が成田にあったのも不思議であり具体的く狭い地域だとつながるのである

それから足尾銅山とか麻生副総理とかの話になった

足尾銅山が本格的に稼動し始めたのが1877年(明治10)経営が古河市兵衛になってからです。古河市兵衛は1875年、新潟県草倉鉱山を政府からの払い下げを受け順調な経営をしていた。1877年、古河市兵衛は鉱山業に専念する事を決意し足尾銅山を買収することになった。古河市兵衛は小野組(市兵衛の養父が幹部を務めていた)に属していた頃に縁があった元相馬藩藩主(この時相馬家)を買取り、名義人として立て足尾銅山を買収した

1610年から明治に至るまで幕府の御用銅を生産していました。そしてその銅は日光東照宮や江戸城の建造の際にも使用されています。その他にも寛永通宝にも使用されています。足尾銅山で採掘された銅の寛永通宝は年間約400万枚も鋳造されていました。1枚3グラムで使用されていた銅は400万枚で12トン、もちろん寛永通宝以外でも銅は使用されていたことを考えるとそれ以上の銅が産出されていました。足尾銅山で産出され作られた一文銭の裏には足尾を意味する「足」の字が刻まれ「足字銭」と呼ばれています。 なお、この寛永通宝は足尾以外で作られた物を合わせて、現在100億枚近く残っているそうです。

第三十三代当主和胤の母雪香は日本の民主主義の父と言われた尾崎行雄の娘であり、認定NPO法人「難民を助ける会」の創設者。妻雪子は、麻生太郎元内閣総理大臣(92代)の妹である。

旧領地は、2011年3月11日東北地方太平洋沖地震による津波で被災した。縁のある麻生太郎は、相馬市長立谷秀清の要請も受け、震災後、国会議員として初めて現地入りし、被災見舞いと現地視察を行った。

インタ−ネットで麻生副総理のことがいろいろ出ていた
麻生氏は財閥であり天皇と縁戚にありそれで力をもった
その裏のつながりも出ていた、麻生氏にはあまりいい印象を持たない人が多い
知り合いの女性も威張りすぎていると言っていた
女性は直観で判断するがそれが当たることもある

何かこのつながりは一つの相馬藩の歴史としてあった
それは必ずしもいいものともならないものだった
相馬藩の歴史という時何か野馬追がありほめたたえられることがあるが暗黒の面もある
それはどこにでもある、どうして山口県に首相が出るのが多いのかというと長州閥が歴史的に継続しているからだと指摘する人も多い、そこが未だに政治的力をもっているのはなぜなのかとその裏を暴いて指摘している人もインタ−ネットにはいる
天皇家とは必ずしもほめたたえられるものではないと非難する人もいる
インタ−ネットで「心の青雲」のプログで最右翼の都築詠一氏があれほど昭和天皇を批判したのは意外だった、そのように天皇家でも権力と関係していて権力と関係する者は何か陰謀論につながるのである
天皇とは日本の権力構造の中で必ず祭り上げられて利用される存在だったからである

当時、日清戦争・日露戦争のさなかであった政府としては、鉱山の操業を止める事はできず、反対運動を食い止めるため、政府は運動の盛んだった谷中村の廃村を決し、1907年強制破壊が行われる。その後、村民は主に隣の藤岡町や群馬県板倉町にあたる地域、下都賀郡の他の町村、古河町(現在の古河市)、那須郡、北海道常呂郡佐呂間町に移住した。また、元谷中村民以外も一緒に移住したが、実質的には元谷中村民救済の意味が強かった。なお、佐呂間町にある「栃木」という地名は、この移住の際につけられたものである

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)
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何かこれもつながっている不思議がある、足尾銅山と内村鑑三も関係していた

田中正造が釈放された後の12月27日、学生約800人によって、鉱毒被害地学生視察団が組織され、内村を団長として谷中村はじめ渡良瀬川流域の村々を回った。内村は、行った先で「毒塚」(鉱毒の混じった泥を集めて積み上げた塚)の一つに駆け上がり、学生や地元参加者を前に朗々と演説を行ったという。

 ところが、翌年になると内村の鉱毒事件への関与は格段に小さくなる。その理由は詳らかでないが、運動から離れ聖書研究へと没頭していく。

 ともあれ、今から112年前に書かれたこの文章が、福島第一原発事故を経た現在にそのまま通じることに、複雑な思いを抱くことを禁じざるを得ない。われわれは何も学んでいないのか、それともただ歴史は繰り返すものなのか


ここに内村鑑三の文が出ている

最も耐え難き災は天の下せし災に非ずして人の為せし災なり、天為的災害は避け得べからず、人為的災害は避け得べし、而して、鉱毒の災害は後者に属し、而かも、其の最も悲惨なる者なり。
 悲しむ者は一府四県の民数十万人なり、喜ぶ者は足尾銅山の所有者一人なり、一人が富まんが為めに万人泣く、之を是れ仁政と言うべき乎。

 これも原発事故と通じるものがあった不思議である、相馬藩の殿様がこの銅山の所有者の一人でもあったのである
歴史はここで継続したものとしてふりかえることができる、相馬藩の殿様がこの足尾銅山にかかわり富を得た、その財閥と麻生氏が継続して天皇もかかわり原発事故とも関係してくる、今回の原発事故はそうした相馬藩がかかえるカルマだったのかとも思う
それは天明の飢饉とも通じている、カルマとは何か必ず苦しみとなって現れるのである
それは個々人でもそうだしある土地でもそうしたカルマが苦しみとなって現れるからである、つまり一つの事件であれ事故でも突然偶然に起きるのではなくこうした歴史の継続としてカルマがあって起きてくるのではないか?
相馬地域がかかえたカルマ(業)があって原発事故でも起きたのかともなる
そうした過去の罪業がカルマとなり相馬藩の地域に原発事故や津波ともなったのか
天罰だったのか?

というのはなぜ相馬藩では相馬藩政記に二行しか700人溺死としか記録されていなのか?
それも津波の後に発見された二行だったのである
そのことを問うてきたがそれはその時相馬藩がこの地を支配していない、戦国時代の争いの渦中にあり津波の被害が甚大でもそれにかまっていらないということがあったとも推測した、だから記録もそれだけですませたとなる
その時民の苦しみは隠されて表に出さなかった、そして相馬氏が権力を得るために支配するために没頭していたからだともなる
何か相馬藩にも暗黒の歴史があったことは確かでありそれが津波や原発事故としてカルマとして現れたのかもしれない、それは私の家でもそうだしどこの家でも必ず暗黒の面をもっているからである、それが私自身が塗炭の苦しみにあったのはそのことが原因してきたと書いてきたからである

インタ−ネット時代になるとこうした暗黒面を盛んに指摘する人がいて陰謀論をいう人が多い、それにも閉口するが何か暗黒の歴史が必ず人間にはありそれがカルマとなって個々人でもある地域に災いとなりカルマとなり苦しみとなって現れるのではないか?

そこから今度は線路に沿って坪田の方に行った、いつも見ている線路脇の神社は「都玉神社」である、それはいつも車窓から見ていたがその由来を尋ねることもなかった
今日地元の人に聞いてわかった、それは(国魂)クニタマ神社であった

正徳五年(1715年)、第五代藩主・相馬昌胤公の息子・都胤がわずか五歳という年齢で亡くなってしまう。
都胤公を寵愛していた昌胤公は嘆き悲しみ、現在の社殿のある場所の裏山に石室を築き、都胤をそこに埋葬する。
その後、享保三年(1718年)には神社を建立。
都胤(くにたね)公の御魂(みたま)を祀ったので、『 都玉(くにたま)神社 』と称するようになったのだとか。
さらに、昌胤公の死後、天保十三年(1842年)には昌胤公も合祀される形で都玉神社

だからこそ都の字がついていたのである、これも歴史としてつながっている
その子のために神社を建てるというのはなぜなのか?
国魂(くにたま)とはこの地域の魂だともなる、でも庶民だってそういう人はいくらでもいた、その息子がかわいいとしてかわいそうだというのもわかる
でも庶民でもそういう親はいくらでもいたからそれを特別供養して地域の人に供養させるというのはどうかという理屈も成り立つ
それは現代だから言えることになる、当時にしてみればそれに文句を言う人などありえないとなる、侍と庶民は別でありましてや殿様の子となれば別格だからである
ここには子安神社もあるから子の安かれとなるし子安神社も多いのは庶民でも医療が発達しないから死ぬ童子が多かったからである

そこから坪田の道を行き歩いてくる人がいたので聞いた 

「この辺は何村ですか」
「坪田です」
「なかなかどの辺までは坪田村なのかわかりにくいです」
「坪田があり八幡があり成田がある、八幡は八幡神社があるからだよ」

なぜ村の範囲がわかりにくいのか?それは江戸時代なら村ごとに年貢を納めていたし村が行政の単位であり村ごとに人は結束して生活していた
それがなくなったとき村の範囲はあいまいになったのである

「柚木(ゆぬき)は南柚木と北柚木がある」
「柚木が相馬市でも鹿島のように思う人もいる、まぎらわしい」
「柚木は南柚木と言って北柚木とは言わない」
「方角地名となるとどこが中心かで方角が変わる、相馬藩は小高にまず相馬氏が城を置いた、だから小高から北が北郷になる、相馬市に(中村に)城を移した時、その城が中心になって南になるから南柚木となった、北柚木とは言わない」
「そういうことか」
「それで鹿島は北郷であり北郷と宇多郷が野馬追の時、雲雀が原に出陣するとき一体化して合流して向かうことになった
南相馬市となったのは相馬市の城から南だからそうなった」
「なるほど・・・」

こうして何かその場で話すると会話すると会話が活きてくる、それはその場にいるからである、そして地理は相馬市でもわかりにくいのである、鹿島ならだいたい村でもどの辺までか見当がつくが原町とか相馬市なるとつかないのである
だから地理だけはその土地に住んでいる者しかわからないから別に知識がなくても地理だけは土地の人がわかるのである
常にそこに住んで体でわかっているからである、それは地図を見てもわかりにくいのである

いづれにしろこれだけの歴史をふりかえることができた、今はインタ−ネットをしていないと情報弱者になる
なぜなら古代のことでも学者の論文を最近読めたことや慶長津波のことが記録がないにしろ慶長津波の前と後ではやはり天明飢饉のように石高が激減していたことをインタ−ネットで読めた、それが学者の論文であり数字から確実に慶長津波の影響があったこと証拠ともなるからだ
そういうことで今はインタ−ネットにアクセスしないと情報弱者になりわからなくなる
高校の教師だった人もそういう点でインタ−ネットをしていないから情報弱者となり知識的に遅れるのである










posted by 老鶯 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

高倉村の短歌十首と詩(生業がなくなると村も死ぬ)


高倉村の短歌十首と詩(生業がなくなると村も死ぬ) 

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高倉は奥にしあれや生業のここにもありて春の日暮れぬ

高倉に山雀見つく誰か棲む広き庭かな春の日暮れぬ

高倉を装う桜あわれかな墓地のみここに訪う人もまれ

高倉や巌にスミレ清らかに流れの上や我がたずねけり

高倉の春の日あわれ古き家田の手入れやしばし語りぬ

高倉の花に染まるも墓地ありて訪ねる人もまれに淋しも        

高倉に山雀一羽見つけしも辺り人無く春の日暮れぬ

墓一つ倒れてあわれ夏草にここにも生きにし人のありしも

高倉にしみじみ鳴きぬ蝉の声街を離れてここにひびきぬ

山の村貧しく淋しも誰か見む神見守りて愛しむべしも

高倉の街に遠きを生業のここにありしも冬の日あわれ  




高倉村の老夫婦

国見山の麓高倉村押釜村
押釜村に紙漉き一六戸
個数数十軒相共に暮らしぬ
水清らかにその生業厳しも
高倉村社も古りぬ碑も古りぬ
草刈りする老人あり
今草茫々と草に埋もれぬ
ここに共に暮らす日の長しも
街より離れて遠く
秋の蝉鳴く声ひびきあわれも
この山里に長くも暮らし
やがてここに死すや
岩のごとくここにとどまれや
その裔も見守りてあれや
しかし悲しも里は荒れにけるかな
虫かすかに鳴きて老夫婦
ここにありしもあわれかな




高倉村は江戸時代からありその前からもあった、それなりに古いとなる、でもでもあんな奥にどうして暮らしていたのか?
今になるとそう思うがどうも江戸時代とかなると違っていた、木材の供給地であり炭焼きをしていたし紙漉きも盛んだった
生業がその土地にあったからだ、そこが今と大きな相違なのである 
飯館村でも1950年代に11000人いた、その後6000人になった、約半分になったのである
戦後は引揚者が入ってきて増えたのである、だから良く貧乏な時代にそれだけの人を養っていたと今になると不思議になるのだ
戦後10年くらいは炭焼きもしていた山村に仕事があったともなる、でもそれも10年くらいで終わったのである

いづれにしろ押釜村とか高倉村とか大原村とか橲原村は奥座敷になる、特に高倉村と橲原村は秘境のようにもなる
でもどうも江戸時代でも戦前でもそれだけ人口がいたということはそうではなかった
人が結構いてにぎわっていたともなる、それが勘違いしているのである
高倉村は行き止まりの村であり何か一段と淋しい所だと思った、でも不思議なのは高倉村から石神村が分村した原町市史に書いてあった、これもだから理解できないのである、石神村は今は広いからである

とにかく何か山村とかは別に原発事故前からグローバル化などで燃料も炭から石油となり木材は外材になり生業が奪われていたのである
それで原発事故でそうして生業が奪われていた所にさらなる打撃となったのである
そして生業がなくなると実は村も死ぬのである
それは具体的に山の手入れをしないとかいろいろ人の手が入らないと何か自然も荒れて災害すら起きてくる
だから生業を返せと裁判を起こしたがこれも前からすでに生業はいろんな面で奪われていたのである
漁業だってそうなっていたから漁業権を東電に売り渡したりした、それは実はグローバル化経済とか産業構造の変化で限界集落が全国に生まれたのである、だからマクロ的視野から見るとその影響が余りにも大きすぎたとなっていた 

いづれにしろ桜の咲いている所は工事している、バンガローがあるが人がいなかった、何か他から移った人が神社に異常に興味をもっていた、その人と駅で会ったがどこに住んでいるかわからなかった
ただあのような奥地に桜があんなに咲いていたが何か村自体は淋しいとなる、田畑は荒地化して放置されて外に出た家もある
そうなるともう村は死ぬ、多少でも田畑があり営みがあり生業があるとき村は生きていたのである
もし生業がなくなればただ家があるというだけになるからだ

次は高倉村の歴史を探求して書いてみよう