2019年04月05日

万葉集の松の歌 (古代人の直き心の歌が万葉集であり神道に通じている)


万葉集の松の歌

(古代人の直き心の歌が万葉集であり神道に通じている)


0066: 大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ

0141: 磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

0145: 鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

0309: 石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし

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家の跡の松一本


家の跡誰か棲みたる
一本の松の立ちにき
その松の人にし見ゆる
今し春なり
残れる庭に水仙や
小さき花も咲く
ありし日のごと
その家の跡に土筆も生えぬ
松はここを離れがたくも
今も立ちつつここに根付く
この松と庭の消える時
また新たな家が建つとき
ここに誰か住むも知らず
その跡すら消えぬ
となれば偲ぶこともならじ
その松はなおここに住みし
人のごとくに一本立っている
まるでこの屋の主のように
ここを離れがたく立っている
人の世はうつろい無常なり
長くもあらむとしてもならず
遂には消えて跡なし
ただこの松一本の長くもあれ
ここに住みにし主の如くに・・・・

松は本当に人間に見える、それは万葉時代からそうだった、松は人間に最も親しい木だったのである、他の木は高いし太いし人間に見るのは無理なところがある
松は高さでも人間のサイズなのである
そして松は待つからきているのか?
松は人間だからこそ人間を待っているという感じになる 

人こそ知らね松は知るらむ

というときも松は人間のように見えるから誰も知らなくても松は知っているとみる
そこに松の不思議がある 

松が根に枕のように寝るというときもこれ実際の経験の歌である
松が人間のようになってそれを枕にして寝ているという感じになる
松に結ぶのもいかにも松自体が人間だからである
松は何か誠実に見える、まさにそういう人間に見える
松は嘘偽りのないもの、誠実な人間に見える、だからこそ枝を結び願いをこめる結ぶのであるそういう古代人の心境は今でもわかる 
こういう古代人の心境は深く松と自然と一体化していたのである
何か現代人はこうした素朴さを失った
自然と人間の深い交流シンパシーを喪失したのである

自然は素直であり直き心を反映したものとしてあった、その直き心を自然の基でも石でも山でも見ていたのである
現代人は機械に囲まれ、あまりにも複雑な法律で悪から逃れるようとする
守ろうとする、でもその法律でも機械でも悪いことに常に利用されるのである
松は誠実さを現している、万葉人もそのことを感じていたのである
万葉集の心とは何か?それは神道の直き心に通じている

日本人が失ったものまたそれは古代の万葉集に残されている、それは素朴な時代を生きた人間の真心の歌だった、国家神道とかではない、それは農民とかの生活から生まれた大地に根付いた土着的なものである
そういう時代から今を見るとあまりにも人間の心は穢れたものとなっていた
確かに生活は食べ物でもなんでも恵まれている
でもその心はスモッグのように汚染されて醜悪なものになっている

確かに科学技術は最高点まで達した感じがある
でもその科学技術だって原発事故のように何かそこには人間の欲が肥大化したものでありそこに人間が群がったのである
あらゆる人が科学者であれ学者であれ官僚であれマスコミであれ地元民であれ原発は巨大な欲望の象徴でもあったのだ
だから葛尾村でも原発で働いていて景気が良かったと言っている
飯館村ですら原発で働いていた、それだけ原発は金の成る木だったのである
ただ津波と事故で一挙にそれが崩壊したのである
それも何か自然からの罰なのか神の罰なのか、あまりにもむごいのでそう感じてしまうこともある

それも人間の心が物質的なものの追求ばかりで汚れてしまったからかもしれない
直き心などより科学技術による便利な欲望の限りなき追求になっていたのである
もうそれは地元だって足りることを知らないものとなっていた
だから原発事故というのは神からの罰だったのか?何かそういうことすら感じてしまうのである


posted by 老鶯 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2019年04月06日

春の陽昇る(桜咲きはじめるか北風が吹いている)


春の陽昇る(桜咲きはじめるか北風が吹いている)

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春草や朝はや鳥翔け陽の昇る

6号線風にゆすられ朝桜


三人の子をもつ家族移り住む土筆も生えて時は移れり

自転車に走れる道にたんぽぽの咲き増えるかな遠く海見ゆ

昨日今日咲きそむ桜に風荒しみちのくにしも我は住むなり

雲雀啼く声のひびきて陽の昇る草も萌えにつ望む海かも

みちのくに桜も咲くも北風の朝なお吹きてゆすりけるかな


今日はめずらしく朝4時ころ目を覚めた、これまで寒くて7時ころまで普通は寝ていた
昨日は23度くらいと暑いくらいだった
今日は北風が朝から吹いて寒く感じる

朝早く目覚めたので海の方に行った、朝はどうしても浜通りだと海の方に向かうのである春の陽が昇ってきていた、カメラは一眼レフの大きなカメラをもって撮った
写真を撮るのはむずかしい、刻々景色が変わる、太陽でもかわる
その瞬間をとらえるのはむずかしいのである
自転車だと写真はとりにくいのである

ただプログなどしているとどうしてもきれいな写真が必要なのである
これは朝一報のリアルタイムの報道だとなるからだ
つまりインタ−ネットの醍醐味はリアルタイムにある
今の時間に起きたことを報道すればそれはテレビとかと同じになる、それがもっとリアルにするとナマ放送になるのである

この放送することはしている方が興奮することがわかった
放送されるのを見ているより自分で放送した方が興奮するのである
ただこれだけの膨大なプログがあるとするともう読まれたり見らるのは至難である
でもyoutubeでもそうだけどテレビとか新聞とかの競合になっいるのだ
やがて同じレベルになるのか?インタ−ネットのことをテレビでニュースにすることが多くなったことでもわかる

ともかくみちのくもここも桜が咲いたけど今日は北風が吹いている、昨日とは違っているそれで出かけられないとなる

常磐線(仙台ー原町)ー風で一時間以上遅れ (昨日は東京の中学生がカメラももって来ていた)


常磐線(仙台ー原町)ー風で一時間以上遅れ 

(昨日は東京の中学生がカメラももって来ていた)

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一時間は遅れていたー運休とも出ていた


今日は風で遅れた、今日は朝から風が強かった、
駅にいたのは中国人の女性二人と後から子供が二人きた
中国人は仙台行きであり子供は原町行だった
そこで説明した

一人は仙台行きだが一時間遅れの電車が原町でおりかえしでちょうど来るときだった
その人は駅前の大岩商店で菓子を買った、お土産に買った
あそこでお土産買った人をはじめて見た
やはり人の出入りがあると外部の人が来るとお土産を買う
駅と高速の鹿島のSAであれだけお土産を売っているのもそのためである
お土産は内容もあるが場所が影響しているのである

昨日は中学生がカメラバックをもって駅に来ていた
それがニコンのいいカメラだったのである
中学生にそんないいカメラもたせるのかとなる
東京の人であり中学生で二日くらい泊まり来るというのも驚いた
中学生には見えなかったからだ
東京だとなにか早熟になる、いろいろな人と接して成長するからだ
そういう刺激には都会では恵まれている

だから趣味を究めるにしても仲間もできやすいし上達する
そういう店もある、田舎だと何か人間的に文化的にも知識的にも遅れるのである
その一番の要因が本すら読めなかったことだった
本の量は今になるとこんなに膨大にあると思わなかった
今はアマゾンで古本の安いの主に必要な時買っている
それで知識量が増大したのである
何か調べにも田舎だとできなかった
今はインタ−ネットでできる、家に居ながら学者の論文も読める

とにかく一週間に一回と仙台に行っていたのは本を買うためだった
それだけ本を買うだけでそれだけの労力が必要だった
ところが今思うとその本すらほんのわずかし買えなかった
本の量は仙台の大型書店などの十万倍なのか百万倍なのかあまりにも膨大にあった
その中には古本があるからそうなる
通販で田舎の不利な点は解消したのである

ともかく春になると遠くから来る人が増えてくる、鹿島駅に撮り鉄とかマニアがくる
最近私もいい写真を撮ろうとしている、でもそうなると荷物になるのである
私は駅のウオッチャーである、今日誰が来たとか小さな駅で無人駅だからできる
ただ30分くらいしかいない、それでも一日一回は必ず寄っている

2019年04月07日

神の爆弾に宗教問題をとりあげる (宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


神の爆弾に宗教問題をとりあげる

(宗教団体はただ数を権力を得るために活動しているだけ)


宗教と宗教団体と違っている、宗教団体とはなんであれ利権を追求する団体である
それは政治団体ともにている、創価などは政治団体化している幸福の科学でもまた他の日蓮宗系統の団体でもそうである
そもそも宗教を職業とすること宗教で飯を食うこと自体が何か誤った方向に導いたのかもしれない、それでパウロはそのことを嫌ってテント作りして自活して布教していた
宗教というとき何か暴力団のように怖いというのは団体化して徒党を組んで威圧してくるからである
そして罰が当たるとかその団体は宗教で脅しをかけたりする、呪うことだってする
そうしたカルト団体では宗教団体はみんな同じなのである
個々人の改心とか心の問題など関係ないのである
会員を増やしてこの世の勢力となり権力と利益を得るためでしかない
エホバなどでもそうである、会員になるのはどんな人でもいいのである
ネコ十匹飼ってまわりに迷惑をかけているとしてもその人がどんな人か問わない

それはどこでも同じなのである、会員を増やすことが第一であり宗教で重んじる改心とか何か精神的なことは一切関係ないのである
だから政治団体に当然なってゆく、議員をたてないにしても政治団体なら当然団体の利益を得るために訴えても正当化されるからである
そして集団化すると何でも許されるとまでなる
みんな創価の会員であれカルト団体の会員化したらそれはナチスになるのである
宗教だと必ずそれが悪用される、敵に罰が当たるとか呪詛するのも普通である
それが何百万で呪詛されたら怖いものとなる、つまりナチスなのである
当然権力を目指しているのだからその人たちが権力がとれば結果はどうなるのか?
それはソビエトとか中国の共産党でもわかる、利権は一分の幹部が一人占めすることになる、なぜならそもそもそうしたイデオロギーなど手段に過ぎないのである
権力を得るための美辞麗句でしかないのである

現実は常に人間の底知れない欲望がありそれが権力を得ればそれを実現しようとする
宗教団体だから清貧だとか今はありえないのである
それはすでに宗教が力をもったとき権力を得た時そうなっていたのである
だから実質の権力者の武士と衝突して信長の焼き討ちがあった
それは信長でも相手がそうしてただ権力を維持して権力をふるうだけの団体とみていたからである、そこに現実に武力をもつ僧兵もいたからそうだったのである
宗教団体は僧兵であり武力をもたないにしろいざとなれば武装すらして権力をふるうことになる、カトリックでもそうだったから政教分離政策をとるようになったのである

つまり宗教も必ず俗化する、巨大な大衆であれそうしたものに飲み込まれて俗化する
そもそも会員だけを増やすことを目的としているのだから必然的にそうなるのである
その人たちは地の塩なんでもないただの俗化した人たちである
ただそうして団体で数で権力化して圧力をかける、そのために宗教も利用されるだけだとなる、寺がつぶれてゆくというときも何か宗教が胡散臭いというのがあるからである、江戸時代から墓を管理するだけのものでありそれが現代までつづいてきただけなのである
大衆にとって宗教はなにか?
それは一つの利権団体として利用するものとしてあるだけである

キリストが二三人集まる所に私がいるとか言っている、たった数人のことなのである
それが何百万とか億人とかなるともうそこには神はいないのである
ただ権力を得るために人々が群がるだけだとなる
オウムの幹部は高学歴でありそれで学歴をもっていない人が地位を得るために幹部になりたくてサリンをまいたと言っていた
その内部でも熾烈な地位争い権力争いがある
そして人間が組織化して集団化するのは人間の変わらない業なのである
会社自体でも必ず派閥を組む、派閥を組むことも人間の業である
それで宗教でも団体化組織化したら同じになる
そこはもう権力を操作する場所でありあとは宗教はそのために利用されるだけだとなる

そもそもでは会員を一人でも増やしたから信者の数を増やしたから神は認めるのか?
数さえ集めればそれで集団で神に訴えて神が仏でもいい認めるのか?
それは世俗ではそうして数が集まれば恐怖するし権力で左右できる
でも数が多いからとその人たちがみんなどんな人たちなのか、その内面は心はどうなるのか?そういうことは一切関係ない、これだけの数が集まりました、みんな成仏させてください、天国に入れてくださいとは宗教ではならないのである
それは世俗の場なら通用するからそうなっているのである

それがイスラム教でも同じだったのである、最近見ている、「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜」でイブラヒムという大帝相に反乱する、イスラムにもいろいろ宗教団体があり特別の団体に金を支給できない、多くはできないと断る、それをその宗教団体は怒りデモしたり襲撃までする
それは一重に特別に特定の宗教団体に金を多く出せということでそうなった
それでそこまでするというのはドラマだからだろう 
普通は宗教家だったらそんなことまでしないとなる
それで殺されているのだから割に合わないとなるからだ
でも金がないと生活に困るとかありそうなった、政府からの支援で成り立っていたからだともなる、これも何か政治と宗教の分離がなされておらずこうなった
現実にこれは日本であれ世界であれ共通の問題だと思った
利権のためには金が欲しいとなれば武力で襲うこともある
ただそれだけのことでありそこに何か宗教が関係しているとも思えないのである

宗教団体の会員の頭の中にあるのはとにかく会員を誰でもいい、一人でも増やして勢力を持つことである、権力をもつことである、それしかない
それが権力を得る事だからである、後は馬鹿な会員に適当に罰当たるとか脅していればいいとなる、ただそれでも自分がその罰を当たることを恐れているのである
それは自分が損すること常に恐れている、損することは罰があたることなのである
利益があるもうかる得することが信仰のおかげだとなるだけである
それが宗教の俗化であり大衆化でありもうそこには本来の宗教心など何一つないのであるあるのは人間のむきだしの欲望が集団化したというだけなのである
そこでは一切の精神的なもの真善美もない、そんなものが生まれえようがないからだ
だから宗教でも仏教でも芸術化されたときそこにはやはり今の宗教とは違っていたのである、それは本来の宗教心が信仰心があってこそ生まれたとなるからである

現実に創価だったらカジノなどギャンブルに反対するはずだがしない、自民党のなすがままである、それが庶民の政党なのか?
つまりもともと権力を求めるだけであり権力で得することしか考えないからそうてっても不思議ではないのである
それは結局大衆なら得することしかしない、原発でも得するから積極的に誘致したのである
損得ですべて判断するだけである、いづれにしろそういう団体はなのためにあるのか?
それはただ利権をえるために会員を増やし権力を得るためだとしかいいようがないのである
だからそういう団体が宗教を標榜していることこそ偽善だとなる
でもそういう矛盾がこの世の習いだとなる、それが変わらぬ世の中の姿だとなる
それにしてももっと謙虚ならいいがあからさまに利権のみを追求しているのは異常だとなる
そのために毎日祈っているのも異常だとなるがそれがそうならないのは数が多いことであり権力をもつと是認されることである
そしてまたいつしかナチスの全体主義の再来の悪夢が現実化するのである 

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紙の爆弾は何なのか?左翼系であるがそれなりの論調を出している
でも楽天でその紙の爆弾を出した、楽天の社長は創価系だとしているがそうでもないことがわかる、ここで批判しているからである
とにかくインタ−ネットだとプログだと簡単にこうして評論を加えられる
それは金がかからないからである、マスコミが力をもったのはまず一個人では新聞であれ雑誌であれテレビとなると余計に何も言うこともできない
ただそうした権力をもつマスコミによって牛耳られてきたのである
それがyoutubeで放送するとかインタ−ネットで報道が変わって来たのである
マスコミとyoutubeでも平行化してくる、それは報道するにしても資金がかからないからである、テレビ局すら個人でも作れるともなる
そこで百家争鳴になっている

abstract painting・・ change of water


abstract painting・・ change of water

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タグ:change of water

2019年04月08日

常磐高速の鹿島のSAの向かい側の山の休息所から海が見える (ここにいる人を見たことがないが車でも行ける道があった)


常磐高速の鹿島のSAの向かい側の山の休息所から海が見える

(ここにいる人を見たことがないが車でも行ける道があった)

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いつも見ている休息所に人がいたのを見たことがない

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休息所までの道

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ここから広く海が見える

いつも常磐高速のSAに行くと道路の向側に休息所が一つ見える
あそこちいた人を見たことがない、あそこに行けるのかと不思議に思っていた
実際はSAの入口から山の方に分かれ道がありそこは舗装されていなけど
そこを廻って行くといける
車でも行ける、そこの休息所からは松川浦まで見える、海が見える展望が開ける
気持ちのいい場所だった

でもあそこにいる人を見たことがないのである
あれはSAを作った時、設置したものである、それは展望がいいからである
展望台なのである
でもせっかく作っても誰もあそこにいるの行くのを見たことがないのである
だからもったいないと思った

それは行き方がわからないからである、あそこの分かれ道はわかりにくいからである
人間は近くでもわからない、ましてや遠くから来たから余計にわからない
そこでた常に案内が必要になる、スマホだけでもわからないことがあるだろう
第一あそこに注意してあそこに上れるのかと見る人もいないだろう
まず用をたす、食事することなどを考えるからだ
そして去ってくだけなのである 

人間は今車とか利用すると本当にその土地のことがかえってわからない
それで自分自身も山元町のことがわからなかった
電車で何百回も通っても山下駅を通り過ぎるだけだったからである
つまり便利な道具を使うとかえって地理がわかるようでわからなくなるのである
要するに地理を実感でわからなくなる
だから記憶にも残らないのである、歩いて旅した体で土地のことが記憶される
自転車でもある程度記憶されていてふりかえり詩にしたりできるが
車とかでは遠くに行けることが有利でも記憶されない

つまり遠くまで行ったということが記憶されないことがあるのだ
遠さの感覚もなくなるからだ
まず常磐高速でも通り過ぎるだけでありそれだと何も土地のことはわからないとなる
現代は面の情報より点の情報になっている
そして便利になりすぎてかえって地理でも見逃しているのが多くなるのである

人間は未だに近くでもわからない場所があった、昨日はそこを発見した
それは今日の俳句短歌の部に書く

タグ:常磐高速SA

南相馬市の桜の短歌十首(その見所の場所と写真十枚)


南相馬市の桜の短歌十首(その見所の場所と写真十枚)


原町市街の桜(雲雀が原)
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牛越城の桜

高倉の桜

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山雀を見つけた

橲原の桜

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立目石

小池の桜

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常盤木の松に桜や御本陣勇む騎馬者駆け上る所

旧街道枝垂桜の優艶に松も古りにき傾き立ちぬ

牛越城一時の城山桜咲きて装いけるかな

高倉の春の日あわれ古き家田の手入れやしばし語りぬ

高倉の花に染まるも墓地ありて訪ねる人もまれに淋しも        

高倉に山雀一羽見つけしも辺り人無く春の日暮れぬ

大谷に四本の枝垂桜のあわれかなこの家の古りしや夕日さし暮る

大谷の細道暗く椿咲き孟宗竹に赤く映えにき
            
大原に桜の咲けど空家かな我知る人は墓に入りにき

橲原の夕べあわれも立目石桜の映えてこの道暮れぬ

円墳に木の根付きて芽吹きけり小池の家や桜咲き暮る

川岸の樹々の芽吹きて盛りなる花より花へ鳥なき飛びぬ 

まず雲雀が原に行き御本陣山から桜を見た、それから旧街道に出てヨークベニマルの所で枝垂桜を見た、次に高倉の方に行きそこにもバンガローがあり墓地があり桜が満開だったでもそこのバンガローとかには人はいなかった
老人が一人田んぼにいた、あそこは田んぼ畑も回復していない
放射線量が高いのと若い人が外に出て帰ってこないといっていたからだ
それでカモシカが出て来たとかイノシシに荒らされるとか言っていた 

人の手が入られないと荒らされるし草ぼうぼうになり荒地化するのである
農協に頼んで何かしていることは言っていた
でもあそこにも桜が満開だった、あれだけあそこに桜が咲いているのが意外だった
山雀を一羽見つけた、山雀はなかなか見つけられないがやはり山が近くなると山に入ると見かける

それから大谷(おおがい)に出た、あそこには四本の枝垂桜の咲く家がありその裏は小暗い道になり孟宗竹の生える小径になっているその脇は新田川なのである 
それから橋を渡り大原にでる、そこに病院で知り合った前田という所に住んでいた人を知っている、その人は古い農家でありでも今は息子が跡を継がないので空家になっているつ、息子は市街の方に住んでいる
その墓をたずて墓参りしたことがあった、その墓は杉の木立に隠れてあった

大原から新しくできた森の道を行き橲原に出る、小池との境目の石として立目石がある、その前に桜と椿が咲いていた
それは写真をとるにはいい所だった、その頃薄暗くなり日が暮れようとしていた 
小池では古墳に木が根付き芽吹き桜が咲いていた、その前の畑で仕事する夫婦がいた
街に帰ると真野川の岸辺の桜を通り家に帰ってきた

桜は別に遠くに行かなくてもどこでも咲いている、ただ船岡の千本桜のような所はここにないのは残念である
でも高倉のようにほとんど誰もたずねないけど満開の桜が咲き桜色に染まっている
都会だと人が混みすぎて嫌なのである、外国人の観光客も今やそういう人が混む上野とか避けるのも理解できる
日本がだったらとにかく桜どこでも咲いているしまだ発見しない桜が無数にある
それは二週間くらいしか咲いていないかさ桜を見ることはむずかしいからである
今日は南相馬市の桜の紹介である




2019年04月09日

津浪原発事故の自治体崩壊の恐怖 (人が流出して人が住めなくなる)


津浪原発事故の自治体崩壊の恐怖

(人が流出して人が住めなくなる)   

政経東北 April 2019(平成31年 4月号)CONTENTS
政経東北4月号  

瓦解する南相馬市「二つの公立病院」
非現実的な再編計画をゴリ押しした門馬市長
利権化する放射能ゴミ処理
勉強会で報告された各地の事例
福島沖大地震予測問われる企業の防災対策
原発賠償を不当拒否された郡山市の事業者
関係者が明かす東電「不誠実」の数々
なぜ、福島は分断するのか(脳神経学者・伊藤浩志)
科学は「公正中立」という幻想
生き残り模索する観光業界
求められる県の戦略的取り組み


この辺で起きていることは何かそれを追及してきた
何かこれほどの被害なのに危機感がないのかもしれない
小高辺りでもなんとかなるさとか関心は補償金しかなかった
補償金が頼りの綱だったのである
でもその補償金が全体の復興につながらなかった
かえって若い世代の流出をまねいたのである
なぜなら今の世の中は江戸時代とは違う、金さえあればどこに住んでもいい時代なのである、そうなるとスーパーすらない、医療も福祉のサービスもまともに受けられないとなるともう住んでいられないとなる
江戸時代だったらもう藩から簡単に出れないから今とは違っている
でも相馬藩では天明の飢饉のとき三分の一が流出して荒廃した
江戸時代でも逃散があり厳しく禁止されていた
この辺で起きたのはまさにこの逃散なのである
人々が補償金をもらったからそれで全国に散らばり逃散した
それが奇妙なのは医師会に活きていた

現代の日本において、勤務医の辞職を逃散と呼ぶことがある。72時間連続の当直明け勤務など、労働基準法に違反する長時間労働を強いられている病院の医師が、待遇が改善されずに絶望して辞職することを指す。

そのことは何か小高病院の問題で医師がとても入院させることは無理だとして辞職したことと通じている、看護師だって集まらないからである,医師の負担も増えるからである
でも市長が強行したとして批判されている
今何が起きているのか?

●医療崩壊
●福祉崩壊
●教育崩壊
●農業崩壊
●商業崩壊
・・・・・・・・
  
自治体崩壊

こういうことが起きている、小高病院の問題は医療崩壊が起きているからである
現実に知っている人は白内障の手術は糖尿病があるら仙台市でしている、それも病状が悪いとして二か月くらい入院している
ただ仙台には娘がいるからそういうことができている
南相馬市ではいい医療が受けられないとなれば他でもそうなる

福祉崩壊はこの辺では施設は立派なものがあるとしてもそれを維持するマンパワーがない介護士とか不足している、するとどうなるのか?
みんな青森に送るられるのである、青森では施設の入居費が8万と最低だからである
南相馬市は13万円で全国平均並みである
そして青森だと仕事もないからそうした仕事をする人がいるということである
これはここだけではない、福島県全体でもそうなのである
立派な建物があっても施設があってもそこで働く人がいないのである
特に原発事故地域では若い世代が流出しているからである
そして教育も崩壊しているという時、若い世代が流出したからだとなる
逃散したからだとなる、江戸時代のようにその逃散を禁止できないから余計にそうなる
そして取り残されたのは老人だけなのである
その老人もただ負担になるだけなのである

津波原発事故で感じたことは村ごと津波で消失してなくなるとか住んでいる場所にも故郷にも住めなくなるということである
例えば大きく国家が崩壊するようになるとこんいな状態になるかもしれない
流民のようになる、ただその流民も現代では難民とは違う贅沢なのである
国家自体が崩壊するようになればどこにも日本に住むにして厳しい条件になるが今はどこでも住めるし豊かな生活をする場に移動する
それで東京の老人は松山市が福祉のサービスがいいからと移住している
金さえあればどこでも住めるとなれば当然そうなるのである
いくら先祖がどうだとか故郷がどうだとか言っても危機的状態になれば特に医療が崩壊するとなると住んでいられないとなるから最初にその問題が深刻なものとてし起きている

そして例え十億円あったとしても誰もこうした現代で普通に受けられるサービスも受けられないとすると誰も住まないのである
金があってもなんのサービスも受けられない、スーパーさえないとしたら買い物すらできないからである、草茫々の荒地の中に十億円の豪邸をもって住んでも何の豊かさも得られないとなるからだ
つまり限界集落化した状態がこの辺では津波の被害地でも大規模に起きているのだ
そして復興でもうまくいっていない
つまり建物とか高台を整備してもそこに人が住まないのである
それは新地の喫茶店でも言っていたが駅前にあれだけのホテルでも立派だしテナントが入れる建物を作っても問題は客が来なくてはどうにもならないと言っていた
そういう施設がなくても客が人の出入りがあれば繁盛するとなる
それは教育でも立派な学校を作ってもそこに通う子供がいないのである

そして政経東北でそういう建物を維持するのには金がかかる、もう維持するだけで容易ではない、そして財政破綻が生じてくる、建物の維持のために予算だけがとられるというのとにている、夕張では観光用の立派な建物を作っても人が入らなかったのである
その建物を維持できなくなり壊すことになったのである
復興ができないというとき津波被害地でもここでも建物とかインフラとかはできたが肝心の人がそこに住まないのである、それは人が逃散してしまったからである

なぜ天明の飢饉から相馬藩では立ち直ることができたのか?
それは人が三分の一に減っても越中などの移民で補うことができたからである
それが今は時代とか様々な悪条件でできないのである
かえって人が移動しやすいから流出しやすいのである
全国を東京の老人が住む場を選べる時代である、だからこそ選ばれない自治体は逆に極端に荒廃して限界集落化する
一から何かを始めるような時代ではないからである
それで相馬が飢饉の時、人を呼びために宣伝歌として作られたのが相馬民謡だったという

相馬相馬と 木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く

そういうふうに人を呼び込み減った分を補った結果復興したのである
それができたのは労働力であり人であった、インフラとかの建物とかではなかったのである
そういう問題に再び直面しているのも不思議だがこの辺のカルマなのかとなる
いづれにしろ今回の政経東北の示唆しているのは参考になる
原発の被害地域は例えば大熊から双葉から浪江からと合併してコンパクトシティ化するとかもそうである
現実に大熊とか双葉とか浪江でも復興するとなるとできない
南相馬市地域にもそういう人たちが相当数すでに住んでいるから実質は広域的な問題となり南相馬市とかでもそういう避難民をかかえこんでいるからである
そうしたら南相馬市とか浪江でも分離して考えることできなくなっている

ではそれをどう具体的に進めるのかとなるとむずかしい
相馬藩としてあれば政治が一つにまとまるからできたが今はできない
そういうことをどう進めるのか?それも大きな政治の課題となる
復興庁があるとしてそういうことをどう進めるのか?
それも見えていない、そういう間にすでに十年とか失われた時となってしまったのであるその時間のロスも大きい、時間のロスは意識しにくいからである
でも流出した若い世代が帰らないのはすでに移住した先でも子供も学校でもそれだけの年数を過ごせば故郷とはどこになるのかとなるし知らないともなるからだ
そして時間は戻らない、人生でも青春時代でも二度と帰ってこないということが深刻なのである

人間は危機感がないというとき現実にそうなってみないと感じないのである、そこが弱点なのである
津浪でもまるで危機感がなかった、でも自治体崩壊というのは実際は眼に見えてもいる、それは現実化しているの避難区域である
そこは依然としてゴーストタウン化しているからである、その危機は個々人が良ければいいとてし生活していても全体が市町村が自治体が崩壊すればもう個々人でも家族でも住めなくなる、いくら金をもっていても住めなくなる
その恐怖はこの辺では現実のものとして見えているのである
そういうことはここだけではない、夕張とか限界集落でも日本全国で少子高齢化で起きてくる
ただこの辺ではなんでも極端なものとして起きているのである
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無人駅を自動化してもわからないことがあった (人がいないとわからなくなることが依然としてある)


無人駅を自動化してもわからないことがあった

(人がいないとわからなくなることが依然としてある)

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私が行ったときはこれはみんな運休になっていた
その後一時間遅れの原町行が表示された


私が行った時は電光掲示板でもみんな運休になっていた
でも不思議だったのは原町行の向かい側のホームに二人待っていたのである
それがわからなかった、もし運休になっていることがわかったらいるはずがないからだ
それも知っている人がいたから地元の人だから電光掲示板を見ないはずがないと見た

それでインターホンで次の原町行が来るのですかというと来ないという
それで向かい側の人にそのことを伝えた
そしたら一人はこっち側に渡ってきて確かめに来た
電車は来ないですよというとどうしようかと聞いた

ところがまた状態が変わり一時間後に原町行が出るとアナウンスされた
それが電光掲示板に出た、それでこれは間違いなくこの時間に来ます
一時間待てば来ますということでその人は待つことにした
バスもでているといったが午後からは一本しかでないから一時間待つとまた向かい側のホームに行った

ではなぜこうなったのか?

その二人が向かい側の原町へ行くホームに行ったときは運休とは電光掲示板に出ていなかったのである、そう言っていたからである
その後に運休になったのである、風ではなく信号機の故障とかで遅れた
意外と信号機の故障の遅れは前にもあったからある
ちょっと時間のずれで向かい側のホームに待つことになった
これはアナウンスしてもわからないことがあった
そこでいつまでもホームで待つということがありえた

そこで思ったことはやはり人がいないといくら自動化してもわからなくなることがある
すべてを機械とかでまなえないのである
もちろんなかなか電車が来なければ電光掲示版を見に来るかもしれないがそれでもいつまでも待っているということが起きていたことは確かである

いづれにしろ昼間ちょっと様子見にゆくだけで用が何かあるというのも不思議である
既に2時ころ高校生の見守りの人がきた、でもその人は駅の業務をしないのである
ただそこにいるというだけなのである、でも駅員が来てありがとうということがあったからその時何かあったらしい、何か人がいないと困ることはある

だから無人化して自動化ですべてまかなうことはできないと思った
それでもみんなそのことで騒がない、人を置いてくれとは騒がない
高校生の見守りが必要だとしたのは乗客の要望だったのかわからないけど市の方で決めて金を出すようにした、そこに乗客で要望を出したとは思えないのである

2019年04月10日

春の丘のスミレ(隠された道)


春の丘のスミレ(隠された道)

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春光や道いくつも分かれけり

隠されし道にすみれを見つけけり


高倉の奥にしあれや古き家春の日来たりて我は偲びぬ

丘の上に松風なりて鶯の鳴く声ひびき樅の木も立つ


故郷でも狭い場所でもまだ行っていない場所がある、そこはいつも通っていたのである
それは小山田の丘だった、そこに道があり電動自転車で上った
この自転車はもともとマウテンバイクだから道が悪くて行ける
だから行動範囲が広がったのである

そこは意外と眺めのいい所だった、丘であり樅の木が一本立っていた
それが目立っていた、鶯がなき松風が鳴る、気持ちのいい場所だった
そこにはタラの芽の木が何本かあった、あれは一か所に集中してあることが多い
でもあんな近くにあるとは思わなかった、あれは知っている人はいる
あれはうまいからみんな探しているからである
近くでもまだ行っていない所を未だに発見しているのは不思議である
灯台下暗しなのである

高倉は奥の行き止まりである、あそこに住んでいる人に聞いたら戦後開墾に入った人ではない、百年くらい住んでいるというから戦前から住んでいる古い家だとなる
その土地を見る場合新旧が問題になる
あのような奥でも戦後開墾に入った人が多いからである
その見分けが大事なのである、古い家はやはりその村を語るものでありまず知るべきだとなる

橲原でも大原でも高倉でも山の方にあるのは何か奥座敷のようになる
でもそういう場所で放射能汚染で田畑でも放置されて草ぼうぼうになり荒地になっていると淋しいとなる、人間はそこに営みがないと自然まで死んでしまうのである
人の手が入らないと山でも山林でも何か問題が起きてくる
そういう場が失われることは全体からみると小さい部分でも何か貴重なのである
ただあんなに桜が咲いていたのは意外だった
あそこはバンガローとかがあり休む場所になっていたが人はいなかった

高倉からさらに道がありあそこはどこに行くのか?飯館村の長泥の方に行く
でもそこは立ち入り禁止かもしれない、ただ前は細い森の道を行っていた
道にさそわれてどこまでも行く、それが旅でもあった、道は未知だからである








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