2019年04月01日

一世一元制は明治からはじまった (日本の長い歴史にはなかったことでかえって伝統に反していた)


世一元制は明治からはじまった

(日本の長い歴史にはなかったことでかえって伝統に反していた)


年号(元号)は、漢の武帝の即位した紀元前141年の建元元年に始まる。それ以後、各王朝の皇帝は、祥瑞(めでたいしるし)や天災を機会に年号を代えてきた(改元)。改元は皇帝の権限であった。明を建国した朱元璋は、洪武という年号を立て、皇帝一代一元として絶対に改元をしてはならないと定めた。皇帝は死後、廟号として太祖といわれるとともに、元号によって洪武帝と呼ぶ習慣ができた。これ以来明、清の皇帝はいずれも一世一元の制を守っていく。

日本でも明治になって一世一元とされた。一世一元制はまさに皇帝の絶対権力の成立とともに始まったもので、

 彗星が接近したら改元(例:久安・宝徳など)

・戦乱が起きたら改元(例:応仁・享禄・天正など)

・火事や大噴火が起こったら改元(例:明暦・宝永など)

・他にも将軍の改元、江戸城が燃えたから改元、山崩れのため改元、などなど


元号というとき常に私は郷土史を知るために墓地とか石碑でもまずいつの時代かをみる
江戸時代だったら必ずマークしてここは古いなとかみる
でも元号をみて天皇を意識したことはないのである
元号で意識するのはその元号の時代に何が起きてどういう時代だったのかを知りたいとなるが容易ではない
例えば大同というのは東北では重要な元号である
それはその時代に蝦夷征服を大和朝廷で推し進めていて坂上田村麿が活躍した時代だからである、それで田村市とあるとそこから市の名前になっている
相馬市も南相馬市も相馬市一族が千葉方面から移住して支配したからその名になったとにている

また文明となるとこの時飢饉があり相馬藩で三分の一の所帯が減ったから常にマークされる、それは文明という元号が大事なのではなくその時起きた大惨事故に記憶されているのである
明治以降でも太平洋戦争だと昭和になる、でも戦後の昭和は高度成長の時代であり平和の時代を享受したのである、だから戦後はもし江戸時代だったら改元している
ところが一世一元になっていたから変えられなかったのである
そうなると元号から時代を見ることがむずかしてなる、なぜなら戦前と戦後とはまるで違った社会となっていたからである
アメリカの民主主義を全面的に取り入れた社会になったからである

歴とは元号とはその時代に何が起きたかどういう時代の特徴があるのかが肝要なものとなる、それの目安としてある
それで天変地異があったり戦争があったり何か大きな事件があったりすると改元したというのはその方が歴史にとって重大なことだからである
つまり歴史にとって元号とはあくまでも時代の目安となるものであり何か明治以降は強力な天皇制が全面に出たから時代が逆戻りしたのかともみる
古代では天皇は現実に神になった、でもその後は江戸時代などは天皇の名前すら知らないとか京都で貧乏暮らししていたとかなる、実質の権力は政治は武家によって行われていたからである

だから明治以降は日本の歴史は古代に返ったとなる、尊王攘夷思想でも天皇を前面に押し出すものとなりそれが西欧化による対抗手段として用いられたのである
そのことが尾をひいて太平洋戦争に天皇を御真影として神として300百万人が死ぬ犠牲を払うことになった
これは実は歴史の逆戻りだったのである
明治といえば明治天皇時代であり大正でも昭和でもそうである

一世一代の元号の利点は江戸時代の年号をみればわかる、5年で改元されたとかあまりにもその年数が短すぎるから元号で歴史をたどると細分化されているのでわかりにくくなる特に幕末は変わりすぎたのである
だからなぜもし元号が日本の歴史に必要だというのはわかるとして一世一元の元号にするのくだろうか?
それは天皇の権威を保つためだともなる、そうしないと天皇の権威が失われるからだともなる

元号より西暦でもその数字よりその時代に何が起きたのかどういう時代なのか知るか事が重要である、それによってその時代をしる、西暦でも元号でもそうである
キリストが生まれたときから西暦が始まるのだからキリストが生まれたという大事件がそうさせたのでありイスラム教になるとモハメッドが生まれた年だとか釈迦が生まれた年をはじめとするのもそのためである
一世一元の元号にも利点がある、天皇と同時代を生きる感覚が生まれる
それでそのことを書いた、明治とか大正という時代になると私の父が明治生まれで母と姉は大正生まれでありそれでその時代に親しみを覚えているからだ
でも元号で天皇を呼ばない、明治以降だけ元号を天皇が生きた時代として現すようになったのである

ただ昭和となると何か親しみがないというか時代が長すぎるとなったのである
つまり頻繁に改元するのも良くないが戦後は改元するべきだったとなる
なぜなら江戸時代まではそうしてきたからである
古代の神のような天皇を継続させる時代ではなかったけど日本が西欧列強に植民地されるとかの危機感から古代の天皇に逆戻りしたとなる
何か日本を統一するのに天皇はどうしても必要になったからである
天皇とは何かとなるともともと政治的道具として権威として利用されてきた経緯がある

ともかく元号を継続するのか?天皇制を継続するのか?
これも曲がり角に来ているとなる、でも二千年つづいた元号を簡単に廃止はできない
それが日本の文化だという時、天皇制ともまた違って元号の意味を考える時なのかもしれない、天皇とあまりにも深く結びつくことは象徴天皇制の時代に合わないのである
なぜなら明治天皇とか大正天皇とか昭和天皇の時代となり天皇が中心となる歴史に逆戻りするからである
つまり歴史を作るのは天皇ではない、その時代を作るのは天皇ではないからだ
だからこそその時代に起きた天変地異とか戦争でも大事件でもそうである
この辺では東日本大震災と大津波と原発事故により時代がまるで変ってしまった
だから津波前と原発事故前と後で時代が変わったから元号も変わってもいいとなる
ただ江戸時代のようにそうして頻繁に元号を変えるのも問題だとなる
そうなると西暦の方がいいともなる

だからこそ戦前の昭和と戦後の昭和はまるで違ったものだから元号を変えてもうたいして事件も起きなかったのだから元号を変えない方が歴史をみるには良かったのである
天皇が時代を作るわけでもないからである、そして元号を秘密裏に決めるとかも何か民主主義にかなっていないのである
この権限は政府にあり天皇になるとかなる、ただ天皇は元号を決められない時代になったすると誰が元号を決めるのか今の政府が秘密裏に決める、そして何か今の政府の権威を高めるイベントにするともなる
もちろん私は日本古来の伝統文化を維持し復古させるべきだという立場にある
でも天皇制を今のように維持するのかとてるとそれは別な問題になる
元号にしても歴史的に一世一元ではないしそういう趣旨でつけられた元号は今までなかったからである、そうしたら二千年の歴史的伝統に反していたとなるからだ

それで思い出すのは都築詠一氏があれほど昭和天皇を批判していたのか?
強力な武闘派の極右とも見えたのになぜなのか?

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる(キーワードー都築詠一) 

なぜこれほど光厳天皇をほめていたのか?それは南北朝の争いで光厳天皇が自ら蟄居して深く反省したからだとしている
それに反して昭和天皇は自分の命が助かりたくてGHQに命乞いしたとか痛烈に批判していたのである
それが極右なのになぜだろうと良く理解できなかったのである
普通は極右だったら天皇は批判しないからである、だから一世一元制にも反対したともなる
ただ今や日本人にとって天皇とは何なのか?それも問い直されている
それはマスコミとかでは表立って言わない、だからまともな議論にもならない、何か日本が危機になる時天皇が問題になる
南北朝時代がそうでありまた明治維新の時もそうだった、錦の御旗が強力なものとして勝敗を分ける
官軍と賊軍に分断されてしまうのである、それが日本の歴史だったともなる

でもそれが今後適応されるのか?日本は混乱が生じると天皇を担ぎ出す、それが権威となるからだ
だから今は自民党がそうである、これはいい機会だとして政権を強化するものとして利用する政治的意図が働くとなる
かといって元号は日本の歴史そのものであり文化だというとき否定するのもむずかしいしメリットもある
そういうことで元号は日本の歴史とかをふりかえる話題として良かったとなる
そして元号がなぜ維持されているのか?
それは日本が漢字圏であり漢字を使用していることにあった、漢字二字で深い意味をもたらす、漢字一字一字にも深い意味があるからだ、でも中国では元号は廃止された、それは共産主義国家になったからである
王朝を否定するものだからそうなった、日本では天皇を象徴制として維持するのはやはり日本の歴史と文化の継続のためとしてあるからだともなる



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新元号は「令和」 (意外と時代に合った良い元号なのかも)


新元号は「令和」

(意外と時代に合った良い元号なのかも)

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「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」から引用したものであります。

鏡前の粉…女人が鏡の前でよそう白粉。梅花の白さをいう。
蘭…蘭はフジバカマだが、広くキク科の香草をいう。ここでは梅と対にして香草をあげた文飾で実在のものではない。
珮後…珮は本来帯の飾り玉。ここでは身におびる程度の意。

蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす...実景ではない、詩的創作である

梅の花がふんぷんと匂い、珮後に蘭が咲きとか花が咲き交じりそこに花の匂いに満たされる、阿部首相がそれぞれの花を咲かせる平和な時代であって欲しいということを記者会見で言っていた
やはり時代としてはそれぞれの花を個性を活かす文化の時代を言ったともなる
それで文和というのを私は挙げた、文化の時代になると思うからである
ただこの令は予想外だったし誰も予想してなかったから意外だった
何か最初違和感を感じたのである

でもそれなりに調べてみるとなるほどと思うこともあった

嘉辰令月歓 無極 万歳千秋楽 未央」の詠み

「嘉辰(かしん)令月歓(よろこ)び極まり無く

   万歳千秋楽しみ未だ央(なか)ばならず」

★「かしんれいげつ よろこび きはまりなし、
  ばんざいせんしうたのしみ いまだなかばならず」 
  
  1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」
2 陰暦2月の異称。

大辞林 第三版の解説

れいげつ【令月】

@ 何事をするのにもよい月。めでたい月。よい月。
A 陰暦二月の異名。

精選版 日本国語大辞典の解説
れい‐げつ【令月】

  
  
  
禮記卷六 月令 東風解凍

東風解凍、蟄蟲始振、魚上冰、獺祭魚、鴻鴈來。

東風凍とうを解き、蟄虫ちつちゆう始めて振うごき、魚冰こほりに上のぼり、獺だつ魚を祭り、鴻雁こうがん来きたる。

【通釈】正月には東風が氷を解かし、土にもぐっていた虫が動き出し、魚は氷の上に姿をあらわし、かわうそは魚を岸に並べて祭をし、鴻おおとりや雁が飛来する。

「月令」(「がつりょう」または「げつれい」と読む)は一年間の暦や恒例行事、季節の変化を月順に述べたもの。『呂氏春秋』の十二紀とほぼ同じ記述である。引用部分はその冒頭、孟春之月(旧暦正月)における自然の変化の特徴を述べた部分である。「東風解凍」を踏まえた和歌は夥しい数に上る

凍りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房『詞花集』)

「月令」があるから例がないというわけではなかった
ここでも月のことだった、最初なじめなかった、意味もわからなかった
ただクールムーンなのかと思った
これが国民になじめるのかと思った

ただ新年になりずっと月をみているとなごんだ、それが満月となり穏やかに感じた
それは津波原発事故から8年すぎたからである
その時間がすぎてようやく何か月を見て平和を感じたのである
それで俳句にしたりした、その月を満月を見た感じは 

凍りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房『詞花集』)

この感じである、凍てりついた風景も心の傷も何か穏やかになり癒されるという感じになったのである、それは歳月がそうさせたのである
それでこの元号もいいのかなと思い直した

平成とは全く平成でなかった、もう津波原発事故で大災難の時代になったのである
平成の記憶はもう悲惨な戦争の時代と同じだった、それからバブルの崩壊とかもあり日本は停滞した失われた20年と2になっていた氷河期世代も平成である 一身上でも平成の三〇年の後の一〇年間は介護や病気で惨憺なる状態だった
もう責められるだけの地獄の世界を経験したのである

ともかく人間は世代によってどういうふうに生きるのかどういう時代になるのか違っている、まず明治とか大正とか戦前の戦争から戦後の生きた人たちは激動を生きたのである
だから昭和でも戦後生まれは平和の時代を豊かな時代を生きたとなる
特に団塊の世代は高度成長時代を生きたので余計にそうなっていたのである

梅の花匂い放ちて夕べ散る満月照らし心おきなし

紅梅の匂いに満月美しき盛りの時や幸にめぐまる

月影に浮かびしもあれ死にしもその面影や彼岸となるかな  


こんな歌を今年は作った、やはり令月の気分が出ている、令和にふさわしい気分である、だから最初はこれは何と思ったが意外といいものなのかもしれない、自分にもあったものなのかもしれないと思った
ただこれは賛否両論がかなりある元号だと思う、何か最初違和感を感じたからである
ただ自分の心境に照らし合わせると意外と合っているなと見直したのである

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なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか? (青森は月額利用料金が全国で最低だった)


 なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか?

 (青森は月額利用料金が全国で最低だった)

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 週刊現代2019年4月13日号
 

福島県は一か月の入居費が13万だからそれなりに高い
東北では宮城県についで高い、13万くらいが全国平均になるのか?
東京となると20万とか格別になる、入居費用も高い
最低は宮崎県だった、ここも青森と似ているし九州は10万以下であり
東北より低いのはなぜだろうとなる
北海道は12万でそれより高いからである

この図は日本全国の経済状況を反映しているとなる
青森が下から二番目で安いから今南相馬市では青森に介護される人が送られているという福島県でも南相馬市でも人手不足であり施設という建物があっても介護士とかそこで働く人が不足しているからそうなる
ではどこでめんどうみてくれるのかとなると青森が費用が安いからとなり送られている
青森はもともと仕事がない地域だったからである
九州でも福岡を除いてそういう傾向があった、福岡市とかに人口が集中しているのである

老人になるとこういうことに興味をもつ、明日は我が身とかなるからだ
でも8万とかなると安い、何か身元保証人すらなくても入れる施設があるという
そこは劣悪でもそういうのもあるのかと知る
そこでなぜ経営破たんして倒産しているのか?
それは長生きしすぎると新しく人を入れられないのでそこで収入が減るとかのためだと書いてある、これも経営するためには金のことを考慮すればそうなるのか?
そういう施設では経営が苦しいから何を使うのにも金を要求される
細かく要求されるという  

青森の施設に入った人も貧乏でありぎりぎりしか払えない、でも入って終わりかとなるとそうではない、何かその他にかかる費用があり食費でも別に払う
その金がないので息子が働いて払うという
その息子もまた苦しいのである、建築関係で働いていて給料の高い所に行っているという飯館村でまだ除染の仕事とかしてもいた、今度は宮城県の方に行くとかしている
それで家族が青森まで呼ばれて行った
その時その人は新幹線で行くとしてその金がないとかなり援助してくれとかなる
帰りはバスで帰ってこといと言った

2025年になると団塊の世代で介護される人が増大する
その時どうなるのか?みんな安い青森に送られるのか?
青森がそうした老人の引き受け場所となるのか?

ともかく施設でもなかなかそこは終の住処にはなりにくい、家族でも世話できないとかなり介護難民があふれとか認知症になった人が日本中でうろうろする時代が来るとか言われる、認知症の介護となると自分も経験したからその労力は生半可なものではない
心身ともに衰弱してしまうのである
そういう人を介護する家族は自分もそうだったが鬱病になるのである

新元号が令和になったけど何かこれもいい面もあるが令は冷たいにも通じている
老人がこれだけ増えるということはいい時代にはならない
青森が姥捨て山になるのか?そう前にも書いたが安い料金の身元保証人もいらない所はそうなる、そういう施設でも無許可でも需要があるから増えてくる
それも老人にとっては地獄かもしれない、だてから長生きしすぎるとそれも不幸になるなと予想する、でもどうしても手当したりするから長生きするのである
長生きすると施設でも新しい人を入れられず収入が得られないというのも矛盾なのである


2019年04月02日

令和になぜ違和感があるのか? (「英弘」「広至」「万和」「万保」よりは良かった)


令和になぜ違和感があるのか?

(「英弘」「広至」「万和」「万保」よりは良かった)


新元号の候補にあがったものとして「英弘」「広至」「万和」「万保」があったと報道された、これも何か違和感を覚える
万というのは江戸時代とかに使われる感じで斬新さがない
「英弘」「広至」はユニバーサルということで現代的なのだろう
英知を弘める、広きに至るとかなる
本当にまず令和というのは意外だったのである
国文漢文関係の学者でも専門家でも意外だった
だからこの字がなぜ引用されたか不思議だとなる
著名な万葉学者が名付けたというが令という字は漢文が典拠だとてしている
月令というのが使われているからだ

それそれ令というからイメージされるのは典拠になった万葉集の文をイメージする人はほとんどいないだろう、国文学の関係者でふらそうだったのである
だから最初何なのだろうといぶかうのが普通である
今まで一度も元号に使われなかったということでもそうである
元号には何かしら意味と期待がこめられて作られてきた
大同などは坂上田村麻呂が活躍した蝦夷征服のために日本を統一するために大同になった大同とはこれも中国の思想にある、その思想に基づいて日本の統一のために使われたのである

今回の元号は令という意味を深く詩的にでもくみとればいい元号となるのかもしれない
でもそこまで庶民は意味を汲み取れないのである
それで令は命令であり上から目線で阿部首相が選んだとか批判される
それは何か令は古典を典拠にしてもその意味を普通は汲み取れないからである
汲み取ればいい元号になっているのかもしれない、そのことを書いた

令は明らかに冷をイメージする、それは冷たいなのである、すると現代的にはクールであり格好いいとかなる、クールジャパンになるのだ
そしてどうしても上からの命令に従って和がありうるとかにとる人もいる
それは令というのがどうしてもこの一字から古典の出典からでもイメージできないからである
それは他のものと重ならない、重複しないとすれば新鮮なものになっている
でも令一字から意味を汲み取ることはむずかしい

ただ意味を汲み取るとしたら庶民的には普通にはクールになる
クールに冷めた時代になれとなるのか?
月令とあるように月と関係している、月はクールだからである、太陽とは正反対であり陰陽にすれば陰である
それでも今年の新年から月を見ていると満月がありそれが震災から8年過ぎて何か明るくなごむものがあった、それはやはり8年も過ぎたからである
そのことで令和というのがいいものだとも見た

しかし一般的には何か違和感が大きい、でも候補にあがったものよりは比べるとこの令和というのは希少価値があり良かったのかともみる
これまでの元号に使われていないということで斬新だったのかともなる
まず「万和」「万保」は江戸時代的で元代にあっていない
「英弘」「広至」は現代的であるからこの二つから選ばれたら庶民でもなんとなく漢字からイメージできる
でも令だけはなぜこの四つの候補とは異質すぎるのである
そしてこれに決められたというのはなぜだろうとなる

ただ令というのが冷でありクールだというイメージがある、月はクールだから私自身は意味としてはいいものだと見たし震災からクールになり落ち着く時になったとも思うからだやはり東日本震災はあまりにも大災害でありこれをクールに客観的にふりかえるのには時間がかかる、すると8過ぎてクールにふりかえり考察するようになる
そういう点で令和があっていたのかとなる


@「命ずる」、「いいつける」

A「法令などを世の中に広く知らせる」

B「みことのり(天皇の命令)」、「君主(国を治める人)の命令」

C「のり(法律、規範、おきて)」(例:律令)

D「布告書(広く国民に知らせる書類)」

E「いましめ(前もって注意する事)」、「教訓(教え)」

F「おさ」、「長官」(例:県令)

G「よい」、「立派な」、「優れた」 (例:令名)

H「他人の親族に対する敬称」(例:令兄)

I「皇后、太子、諸侯などの命令文」  

令という文字がひざまづくとかその上に冠をしたとかから成り立つとそれは上の命令を従順に聞きしたがって和があるとなってしまうそれも何か違和感がある、どうしても一般的にはそういうイメージになる  

家令(かれい)とは

明治時代以降の日本において、皇族や華族の家で、家の事務や会計を管理したり、他の雇い人を監督した人[1][2]。執事。バトラーを参照。
律令制において、一品以下四品までの親王・内親王、職事三位以上の公家の家に与えられる家務を総括した職員[1][2]。あるいは、そのような公的家政機関の長官[2]。けりょう。家司を参照。 

何かこうしたものとして令が使われている、 

B「みことのり(天皇の命令)」、「君主(国を治める人)の命令」 

この意味にとる人が多いことは確かである、万葉集からとったとしてももともと中国の古典に由来しているという時そうなる
何か万葉集の古典からとったから庶民的だともならない感じなのである
ただ月令とかと結びつくとき月をイメージしていいものだと私は感じたのである
人間はその時々の心境によって自然を見る目を違ってくる、だから今年は月令はまさに落ち着いてより平和を感じたからである
でもそこまで一般的にこの字から感じ取ること意味を汲み取ることはむずかしいから何か違和感がある

しかし平成とか昭和でも別に時代にあっていない、和を昭かにするとかなるが戦前の昭和は争乱であり戦争の時代である
平成にしても最後の十年は東日本震災であり全く平成ではなかったのである
明治だけは一番元号としては時代にあったものであり明治時代は日本にとって時代的にはいいイメージがある
明治から大正となるとまた違った雰囲気を感じる、時代的にも退廃してきたとかともみる
それでも父が明治生まれであり母は百歳生きて大正生まれだから親近感をもつのである
いづれにしろいくら元号が何か期待してもその期待とは裏腹にもなってきたのが歴史だった
だから元号にこだわるのもまた元号が何か社会を変えるということもないのである






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春に寒い北風〈桜前線)

                                                    
春に寒い北風〈桜前線)


北風のなお吹きつけて厳しかも我が生ここに刻みけるかな

春に吹く春北風とはハルキタであり何かあたたかい明るい感じである
ここ何日かは冷たい冬の北風である
だから季語にあっていない
芯からその北風を受けて寒い、一日一回はどうしても買い物で外に出る
それで自転車だからまともに北風を受ける

一旦あたたかい春が来たと思ったけど今の時期でもこんなに寒いのかとなる
そういうことはこれまでもあった、最後の寒さであることは確かである
元号も変わったけどこの令和の令が冷をどうしてもイメージするのである 

人間は何か長く生きればその生をその土地土地に刻む
つまりなぜ老人が原発事故でも故郷に帰ったかというとそこに自分の人生があったからだとなる
やはりそれぞれに苦労して人生を刻んできたからである
それは親でもそうだし先祖でもそうだったのである
もしその場を離れると人生の刻まれた歴史が失われるともなる

何かたいして苦労ではないにしろ今頃の北風にはそれを感じた
今頃は東風が吹くのに今日は本格的な北風だったからだ
だからみちのくではまだ花は一分も咲いていない
でもいわきでは咲いた、そこでその距離を感じる
いわきはここよりあたたかいし仙台はここより寒い
80キロくらいの距離がそうさせているのである

西の方は東京でも桜が満開になっている、でもここは何か冬にもどり北風が吹きつける
それで日本列島は桜前線でその土地の気候の風土の差が現れるのである
旅していたとき西の方が大阪京都は花の盛りでもみちのくはまだまだでありまた逆にみちのくに桜前線で咲くときは西の方は散っているのである
この桜が華やかに咲いて散るのと桜前線が距離で咲く時期が散る時期がある

この距離感覚が今はなくなることがまたもののあわれを感じなくさせた
芭蕉の奥の細道でも新幹線で二時間ちょっとで来るとなると何の感懐もなくなる
つまり距離感がその時は日本の最果てに行くという感覚が「奥の細道」を生んだ
「五月雨のふりのこしてや光堂」とかもそうである
はるかにみちのくの平泉にたどりついたら金色堂だけが栄華を残していたとなる

現代に旅は消失したのである、豪華なホテルに泊まってもそれは旅ではない、保養であるそして今のホテルでも旅館も旅人を迎えるものではない、そこで金を払って保養するとかうまいものを食べるとか役割が違ってきたのである
そういうところで旅人は歓迎しないし旅人自体がいなくなったのである
江戸時代だったら歩く旅だからみんな旅になっていたし宿でも旅人を迎えるものだったのである、お伊勢参りだって一か月となればそれも歩くとなるとみんな旅をしたとなるからだ

桜は満開もいいがその後に散るということが桜の魅力であり日本人の心に影響した

はるけくも千本桜たずねればみな散りにしを我が帰るかな(あわれ深まる)とでもなる

船岡の千本桜は見応えあるがそこまでは自転車で本当に遠かった
それもその時今の楽な自転車ではなかったから余計にそうなる
そうして苦労して来てみたらみな桜は散っていたのである
この時深いもののあわれをかえって感じたとなる
それは芭蕉がはるばる苦労して来た平泉で感じたことと同じなのである
距離感覚の喪失が旅を消失させたしもののあわれも消失させたともなるのだ
つまり何かを得れば必ず人間は何かを失っているのである

とにかく今北風を感じるという時、車だったら感じない
「風流は寒きものなり」ともなる、ただ今の時期に寒いの厳しさを感じる
そこでそういう厳しさの中に人間の生が刻まれたと感じるのである
60まで旅したがその後十年は介護などでしていない
それだけ旅したからいいともなる、今は外人が多いし日本人が旅しずらくなった
それも日本が観光で金を稼ぐとなり貧乏になったからである
そういうふうに常に時代は変化するのである

時移る令和となるや春寒し

この令和の令が冷をどうしてもイメージする、万葉集のように梅の花の宴をイメージしないのである
そこに漢字の特殊な差用がある、それでどうしても地名でも音に漢字をあてたときその漢字を意味としてとらえる
そこで地名でも実際は音なのに違ったものとして意味から地名をみるのである

ともかくここ数日は春寒しというより寒戻るとなっている




2019年04月03日

老人は過去を昔を語ることに役割がある (でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない)


老人は過去を昔を語ることに役割がある

でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない

本来なら老人は、>人生経験を積み様々な知識と知恵も持っています。それを次の世代に伝えていくことは、老人の役割として大事なことであるはず。

市場社会が進行し共同体が破壊されると、根無し草の労働者は定年になると同時に社会的役割から除外され、年金頼みの生活しかなく、家庭の中ではお払い箱・厄介もの扱い。さらには福祉施設に押し込まれ、あらゆる生産的活動からも遮断されてしまう。


老人には老人の役割がある、役割があったとなる、それが喪失したのも現代である
老人の役割は昔をこれまで生きたことを語ることにあった
それが昔話になりそれも歴史であった

その語ることが極端になると認知症になると若い時のことは忘れられないから遂に千回も同じことを語る、それで嫌になったがその語ることが生きたことだったからそうなったのである
姉の場合は従軍看護婦として今のマレーシアのシンガポールから橋を渡ったジョホールバルで四年間地獄の苦しみを受けた、だからそのことがどうしても忘れられなかったのである
それでそのことを死ぬ直前まで語っていたのである

でも語るという時、それを聞く人、受ける人が必要になる
それが現代では欠けているのである、世代間でも断絶しているのである
そせそも現代社会はあらゆるものが分離してパーツ化している
子供は年代ごとに分類される老人もまた分離されて隔離されて収容される
昔の村だったらそこでは長老とかいたり子供も若い世代も一つの村の中に生活していたのである                                            

だから老人でもその村の中で生き続けやがて死んでゆくがその後も村の中で生き続ける
世代間の連続性があった、そこで語ることも受け止める人があり伝えられる
囲炉裏を囲んで老人は孫たちに語ったりしていた
語るにもそういう場が必要なのである
そういう場がないと語ることも活きてはこないのである

会社で60年とか働いて退職するともうその人のいる場が消える
なぜなら会社を退職して地域で生きろといってもその連続性がないから語る場がなくなるもし死ぬまで会社にいるならそうはならない、会社は一過性で消えるものも多くなっている、銀行すら消失するとなるとそこで連続性は断たれる

老人はその人生を語ることなのだがそれを受け止めるコミニュティとか場とかないと活きてこないのである
語ることは何か文章にするのとか違っている、語ることはまた女性が得意なのである
だから語り部とかに向いている、話がうまいのである
そういう人を知っている、とにかく話だけはうまいのである
それで欠点としては口だけの人だともなる、何か口からでまかせだともなる

でもその人がこういうことで働いて苦労したとかいろいろ語る時、その人は故郷で生きてきたから故郷という場がありそれを聞いているのも受け止めるのも故郷に住んでいるからこそできるとなる
もしそういう場がなかったらいくら話しても活きてこないだろう
例えば今南相馬市から青森の老人ホームに送られ人が多い
でもそういうふうに離れるともう故郷とは別な世界になり何か語るにしても活きてこないということがある

ただ語るにしても人間はいろいろであり語るべき人生であったのかともなる
やはり老人が語り重みがあるというときそれだけの人生を生きたということで重みがでる例えば私はFXでデイトレダ―で億万長者になったとか聞かされてもつまらないとなる
老人の価値も今では金で計られるとしても過去を語る時もし何か波乱万丈の人生を送ったりするとそれに耳を傾ける若い人がはいる

それで面白いのはヤップ島の石の貨幣があるがそれが海に沈んで取り出した時、その苦労を語りその石の貨幣の価値がその語りによって価値があがってくるというのである
つまりそういうふうに語れるものがありそれが価値となっていたのである
老人の価値もそうである、どれだけ語れるものがあるかでその老人の価値を計るということもある

何か語るということは語る時人は全身で感情をこめて語るから文章にするのとは違う
そこに深い思いがあり語るのである、なんかyoutubeではその個々人の語りが活きている
そして語りだとわかりやすいからつまらないものでも見る人が多いのである
文章を読むことはかなり疲れるからである
だからテキストの時代からyoutubeの語りの時代に入ったという人もいる
本当に武田邦彦氏などは語るのがうまいと思う
だから個人で10万とか見られるのはやはり語りがうまいからだとなる

私も老人にしてもこんなに毎日書いているのは語りたいということがある
語り表現したいことがありそうなる、それが簡単にできるのでこんなに延々と書いているのである、ただ自分の場合は話すのが下手だからyoutubeには向いていない
テキストで流すのならいいが向いていない
文章には語るよりもっと深いものを表現できる

ただテレビが依然として人気があるのは表現がわかりやすくしているからである
語りであり文章ではないからである、そうなるとみんな知識人でもないから見る
ある特定の知識人相手ではない、大衆が相手だからである
万葉集が令和の新元号で話題になったとき人気になったというときもそうである
それを大衆向きに面白おかしく説明する
そこにどうししても浅薄なものとなるがそれも関係ない、大衆向きの娯楽のように放送しないとみんな見ないからである
要するにテレビはパンとサーカスなのである、もともと馬鹿を相手にしているという感覚なのである、それで肝心なものが放送されなかったり議論されないのである

ともかく膨大に老人ばかり増えてくると老人の価値は減退する
寿命が60年とかの時代はそうして生き残った老人は価値が自ずとあった
今はない、むしろ早く死んでくれとかなっているだけである
ただ昔から老人にも役割があり価値があり村という共同体の中では活かされていたことは確かである、その時でもやはり貧乏だから食わされないとかの問題はあった
でもたいがい長生きするのはまれだから老人の役割はあり活かされていたともみる

新地町の文禄の碑は検地のためだった (元号が地名化した例)


新地町の文禄の碑は検地のためだった

(元号が地名化した例)

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日刊現代2019−4月3日号

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日刊現代で元号が地名化している例をあげている
明治、大正、昭和がある
それは耕地整理で移転した人たちがいてその人たち住む場所を明治とか大正とか昭和にした、何かと土地の整理と関係していた

だから新地町にあったただ「文禄」と記された石碑は検地が行われたときの記念なのである、伊達藩では相馬藩より早く検地が行われていたからである
相馬藩では文禄の碑は見かけないからである

ただ元号が地名化するというのは普通はない、ただ福島県に昭和村とかある

1927年(昭和2年)11月23日 - 野尻村、大芦村が合併、昭和村となる。

1926年に昭和が誕生したのだからその時の記念に昭和村になった
だから令和と名のつくのがこれからできるのかとなる。

検地の記念の碑が各地に多いことは確かである
葛尾村の落合の墓地に記されていた明暦と元禄は古いがやはり検地を記念にしたものらしい、なぜならそれは墓ではないからである

江戸時代から戦前でも農業中心の社会である、するとどうしても土地と関係して地名でも名付けられる、耕地整理は常に行われてきた
この辺は津波の被害とか原発事故で小さな田とか畑でもやめる人が多くなった
それでそこがソーラーパネルになっているのを見かける
ただ土地をもっているだけでは何のや利益にもならないからである

平成(へなり)という地名があったとしてもそれはへいせいの音ではないから平成村とか平成町は生まれていない
江戸時代までは元号しかないのだから元号に意味があった、歴史の記録だった
だから必ず墓でも古い碑でも元号を見て時代を見る
でも現代は元号からだけでは時代は見えない、西暦の時代だからである
この人が昭和生まれだからと言ってそこからその人なりを見ない
西暦何年でこの人は私より年上であり年下でありそういう時代を生きたのかと見る
そして昭和は戦前と戦後とまるで違っているから時代を見れない
戦前と戦後に明確に分けられる、昭和になっていると時代がかえってわからなくなるのである

だから元号はもうゆきづまっている、これから採用されるかどうかすら国民的議論になるかもれない、それはまた天皇制をどうするのかということにもつながる
元号で活きていたのは明治と大正までだったとなるかもしれない
でも大正は中途半端な時代だった、それでも私の父親が明治生まれであり母と姉は大正生まれだから親しみがある
つまり団塊の世代までは元号にまだ親しむが昭和とか平成とかさらに令和でもどうなるのか?必要性も感じなくなるかもしれない、元号にもいい点があるにしてもグローバル化社会では通用しないともなる 

でももしこれから時代が変わり中国がアメリカより大きくなり日本も中国寄りになると
元号でも「華和」とかなったりするかもしれない、そうすると中国が喜ぶからである
中華の華と大和が和でもって一体化するともなる
ただ中国ではすでに元号は廃止している、そういう政治的意図とかの元号は中国自体廃止しているのだからありえないともなる

posted by 天華 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年04月04日

真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった (草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

              
真野の草原の歌の笠女郎は近江出身説が有力になった

(草津と栗東市内にある地名の移動が顕著)

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遺跡出土地点
鉄生産のセンター、本拠地(行方郡(真野郷)宇多郡と深く関係)

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●地名は伝播する

地名はいろいろあるにしろ古代の地名は伝播した地名が多い
縄文人が住んでいたとしてインディアンのようにアイヌ語の地名があるとしてそれもあるでも古代においては地名は遠くから韓国からの渡来民もいて伝播して地名化する
だから何か類似の地名が日本全国に生まれる
地名も他所から人が移ってきてもたらされたのである
神でも風習でも元を正せば他から移動している
神話とかいろいろな昔話でも元をたどると日本だけではない世界共通なものが見られのはそのためである、羽衣伝説などがそうである
渡来人がもたらしたものが技術でもそうでありそれに神々も人と一緒に移動してくるのである


大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社とされる。式内社(名神大)、和泉国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる

大鳥北浜(鍬靱)神社:吉備穴戸武媛命 (日本武尊の妃)
大鳥羽衣浜神社  :両道入媛命 (日本武尊の妃)
大鳥井瀬神社   :弟橘姫命 (日本武尊の妃)

和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる重要氏族である。

その本来の出自としては、海神族(海祇族)の祖神綿津見豊玉彦命の嫡統で阿曇連と同族であり(奴国王の後裔でその嫡流ではないかと推される)、「ワニ」は鰐(トーテム集団の象徴)を意味するものと考えている。これが、和邇氏が長期間にわたって多くの后妃を輩出し、天武十三年十一月の朝臣賜姓五十二氏において、大三輪君(旧来の大和地方の支配者大物主命の後裔)に次いで第二番目にこの氏族の本宗家とみられる大春日臣が挙げられている主因の一つであろう。

近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町

日本書紀に「素戔鳴尊、新羅国に到り、埴土を以て舟に作りて、出雲国に到る」とあり。埴土(はにつち)は鉄を含んだ赤い土で製鉄の原料である。埴土で鉄器(丸)を作り、その鉄器で舟を作ることから、船に「□□丸」と名付ける。刀剣の「□□丸」などの名にも用いられる。また、丸は両刃の刀と合口の意味で、鰐(わに)の歯に似ていることから丸(わに)と称す。古事記に「日子穂穂手見命は鰐の背に乗って海神宮から帰ったが、その鰐に紐小刀をつけて送り返したので、鰐を佐比持神(さひもちのかみ)と称した」と。日本書紀に「神武天皇の兄の稲飯命は、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)となった」とあり。サヒは古代朝鮮語で鋤(すき)または剣を意味するが、同時に鋭い歯をもった鰐を意味する。対馬国鰐浦村は海洋民鍛人の渡来地にて、古くは和珥津(わにのつ)、和邇津(わにのつ)、鰐乃津(わにのつ)と称した。≫

南相馬市の鹿島区に烏崎があるけどもともとは烏浜(からすはま)だった、とするとこれも近江から移動してきたのかもしれない、烏アはあとから名付けられたからである
そして石巻にある鰐山がある、それは和邇氏のことである
そこにも真野という地名があり萱原の地名がある
南相馬市鹿島区の海老村があるがこれも移動地名だったかもしれない
エヒであり蝦夷のことだと前に指摘した

でも行方郡は常陸国行方郡と同一名であり、両地域間には多数の同一字
名があることも重要である(鈴木 2009)。→小鶴・島田・馬場・宮田・井田・根本・海老沢・鹿島・太田・太田和・大谷大野・小高・大甕・泉・牛渡・村上・大井・岡田・石上・五台・真野・信太・小池」 

小鶴があり馬場があり石上があり真野があり海老沢がある、その地名も鹿島区だと海老沢→海老村になり小池→小池村となりとその地名移動だとなる、大谷村もありこれらの地名は移動したともなるのか?井田があれば井田川があるからである
そして島田というのは泉官が跡から木簡として字が書かれていたのである
ただ南相馬市にはその郷名はなかったが常陸の島田郷から移動してきた人がいて記したとるのは間違いないとなるからだ

そして近江の地名を調べると秋田城木簡に秘めた万葉集 大伴家持と笠女郎」吉田金彦が笠女郎(かさのいらつめ)が近江の出身だということを地名から解き明かしている
それも地名だけではない裏付けが考古学的な発見であった

となると近江から地名が移動したともなる、つまり草原(かやはら)は移動地名だったのかとなる、

萱野神社

彦坐王命の第四世にあたる治田の連が、栗太郡一円の開発にあたり雄略天皇六年、遠祖の開化天皇を祀ったことに始まると伝えられています。

萱野というときこれは由緒ある神社があり地名であるからこれは伽耶国と関係しているかもしれない、他に大萱とかあるがこれも大草郷があり何かそこも伽耶と関係していることもある
角山(つのやま)となれば伽耶国の王子ツノガノアラシトをとった名だとなる
近江だとそういうことは色濃く反映して残っている
それだけ歴史の層が厚いし渡来人の足跡が深く刻まれているからである

ただ地名だと裏付けがなくただイメージだけで推察するからかなりの過ちが起きる、でも今回その裏付けが考古学的は発見で得たのである
つまり近江の栗東市の栗太郡衙があるまた大津周辺地域の考古学的発掘で宇多郡と行方郡そして真野郷地域が密接な関係があった
鉄の生産を通じて工人がその地域と行き来していたのである
つまりその近江の栗太郡は笠という地名がありそれは広い範囲をさすものであり吉備からの笠氏が移動して勢力を広めた地域だったとしている

この草津と隣の栗東市は交通の要所であり古代でもそうだった、そこに鉄生産のセンターが本拠地があり現実に工人が行き来していたのである
そうなれば当然、みちのくの真野の草原(かやはら)は遠い地としてもこの辺では十分に知られた土地だったのである
なぜなら生きた人間が行き来していたからである


それで笠女郎はここが故郷でありここの出身だとなればそれが裏付けられることになる
地名だけではない次と考古学的に裏付けられたものを検討する    

行方郡に

吉名郷、大江(大井)郷、多珂郷、子鶴郷、真吹郷、真野郷 

大江郷がありこれも栗東市の草津市の中にありそういう地名が移動してきて行方郡の郷名になった、また常陸国から移動してきて名付けられた、吉名とは小高とされているが物部吉名という人が現実にいたのである、だからこれは物部氏が支配した地域となる
そして原町の桜井古墳の主は物部氏とされているのである
高野郷というとき高野新笠がいて高野神社があり製鉄にかかわった、新笠だからやはり笠氏一族なのである

高野朝臣姓は、乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓されたとみられ、一族は朝臣姓とはなったものの、高野朝臣姓にはならなかった。乙継は続紀に生前の記事はないことから既に没しており、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。夫である天皇から妻への稀有な賜姓の例といえる[12]。天皇の妃嬪である新笠の姓は子孫に継がれなかった。

高野」の字(あざな)は、現在の奈良市高の原に比定される。高野近傍には土師氏の本拠地である菅原伏見、また秋篠がある。新笠に賜姓が行われたという宝亀年間、この地に孝謙・称徳天皇の陵(高野陵)がおかれたばかりであり、孝謙・称徳天皇はこの陵の地により「高野天皇」、「高野姫天皇」と称されている。瀧浪貞子によれば、高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)立太子されたことに係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、としている[12]。

大枝陵と母方への大枝賜姓

新笠の陵所と、母・真妹及び一族へ与えられた姓が同じ「大枝」であることから、真妹の居住地は山背国乙訓郡大枝であり、当時の招婿婚の習慣から新笠もそこで生まれ育ち、それが桓武天皇の山背国への遷都、特に大枝に近い長岡京への遷都の誘因となったとの説がある

吉名郷、大江郷、多珂郷、真野郷は近江に関係している、吉名は不明でも物部氏と関係している、大江はやはり近江の瀬田地域に関係している、つまり地名の移動が栗東市と草津市にあるのが多いのである
そうなると真野の草原という地名も移動したとなる     
滋賀県栗東市苅原があり苅をカイと発音するともある

すると原町区の萱浜がカイハマが同じ発音だから草原(かやはら)に通じているのかとなる
確かなことは地名の移動がありそして濃厚に近江の草津と栗東近辺にある
そしてその辺に笠地名が多いということはやはりそこと行方郡とか宇多郡が鉄の生産で密接に結びついて現実に生身の人間が行き来していたとなると何かこの真野の草原がリアルにイメージされてくるのである 
萱が伽耶に通じ駒は高麗ー高句麗に通じている、それで常陸国に高麗原がある、だから伽耶国から草原(かやはら)となっても不思議ではない、ただ地名としてはここには萱浜はあるがもともとカイと発音していたからどうなるのかともなる
その場所も真野郷内ではないからだ

次はその考古学で発見されたものからの裏付けになる、その論文もでていたので解読することになる 

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クリック拡大
(秋田城木簡に秘めた万葉集ー大伴家持と笠女郎ー吉田金彦)

ここで吉備から笠氏がこの地に移動して勢力を広げた結果としてこれだけこ笠地名があり広い範囲で支配していた証拠としている
その辺の地名が陸奥の行方郡に移動ししてきたのである、それは常陸国経由にもなる

posted by 天華 at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

駅の高校生の見守り役は楽だ (それでもJRの駅員が来てお礼していた)


駅の高校生の見守り役は楽だ

(それでもJRの駅員が来てお礼していた)

駅の高校生の見守り役が楽である、大変なんだよなとかいうけどこれもおかしい
ただ今日は原町の駅員がきて何かあったのかお礼をしていた
何かあって連絡して来たらしい

ではなぜお礼をしたのか?
それはやはり団体でしているのかともなる
私は何かしても駅で困ったことが連絡してもかえって迷惑がられるからだ
つまり人間が認められるのは有効なことをしているとは限らない
やはり団体として認められるとそれだけで何もしなくても金が入る場合がある
それは上の方の天下りしている官僚とかがそうなる
椅子に座っているだけで金が入ってくるとなる

それで駅の前の自転車屋も不満を言っていた
自転車屋の人はいつも駅を見ている、そして何か聞かれることもあったからだ
でもJRでは何もお礼もないと言っていた

商工会にしても団体でしているから掃除を頼まれればJRで金を払っている
こういうことは個人ではできない、個人は今の社会では何もできないような仕組みになっている
それもわかる、なぜなら個人はどうして信用させるかむずかしいのである
それで自分自身が知らない個人を家に入れて手伝いしてもらって大変な損害をこうむったからである、大金を失ったからである
それは家政婦団体とかに入っていないし個人で働いてもらっからそうなった

もし団体だったら今度は団体の責任に連帯責任になる
団体が会社がその個人を雇って派遣するからそうなる
純粋な個人だと何かあったとき他に誰も責任はとらないからだ
だから現代はみんな組織であり団体で行動している

カルト教団などでも労働組合でも何であれ団体化組織化しないと信用されないし圧力にもならないし権力を持つことができないからである
だから団体化組織化しないと今は何もできないということがある
何かいいことをしても個人だと得体の知れない胡散臭い奴だとしかならない
団体組織に入ればそれでその人に一目置くとなる社会である

ただ私はそこをボランティアというのではなく、一つの広場として人の行き来を見たり知っている人と会って話したりしている
今回は足の悪い女性が向こう側のホームから階段を上り下りてくるのに時間がかかる
病院に通っている女性だった、前にも見ているからだ
それで大変ですねとか声をかける、そういうことはいくら監視カメラを見ていてもできない、ロボットでもできないのである
だからエレベーターが必要だということもわかる
本当に老人がここの階段で落て大けがをしたことがあったからだ
結構駅の階段は老人にはきついものとなっているのだ

向かい側の原町行のホームの休憩場に原町行という方向を示すものを設置した
それは水戸管理局の人が何人か来たときあそこに設置するとわかりやすいと私が言ったのである
なぜなら改札口を出るとすぐに目に入るからである
ただ駅には三か所原町行を示す表示板がある、それでもわかりにくいのも不思議だった

いづれにしろ駅のボランティアの監視員のようになっているのが自分だと思った
ただ私は昼間にせいぜい30分くらいしかいないのである
ただ駅によるのが気分転換みたくして寄っているだけだとなる

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ここが一番わかりやすかった


2019年04月05日

食堂・レストランはどこがいいのか? (価値=場所+料理+サービス)


食堂・レストランはどこがいいのか?

(価値=場所+料理+サービス) 

食堂というとき食べるだけではない、その他の付加価値が影響する
何か私は狭い食堂が嫌なのである、狭苦しいと嫌なのである
だからそもそも私は都会には行きたくなくなった
ごちゃごちゃしているから嫌になったのである
人ごみも嫌になった、前からそういう性格があった
でも若い時は都会に行くことを苦痛とはならなかった
それが今は何か人ごみとか狭苦しい場所とかに行きたくない

そうなると食堂でもまず場所だとなる、場所と関係してその食堂内の雰囲気も問題になるもちろん味も問題になる
味が一番の問題なのだがその味にしても一人暮らし用になっていない
一人暮らしで気づいたことは定番の料理はあきる
でもみんないつも同じ定番の料理なのである、エビフライとかハンバーグとかサシミ定食とか決まっているのである
そこで一人暮らしに向いているのは惣菜などを個別に売って自由にとれるものである
それで自分なりの組み合わせの料理が味わえるのがいいのである

そういうの都会にある、都会にはいろいろ需要がありサービスも生れる
でも田舎だと外食でも限られている、それも定番のものが多いからあきるのである
そこが最大の問題なのである
そこで東京では日替わりで違ったカレーを出している店が繁盛しているのもわかる

一人暮らしにとって料理はめんどうになる、だからどうしても外食が多くなるのが
それがいつも定番だから飽きるのである
ただそもそも安いのだからぜいたくは言えないのである

それで深野のユッサでは最近食堂を新しくした、そこは惣菜を小皿で150円でだしていいる、するとそれを選んで自分好みにできる、そういう食堂は都会にある
つまり需要があるからそれに応じてサービスが生まれる
田舎ではそもそも需要がないからそういうサービスが生まれにくい
一時仮設食堂であつみ食堂でそういうバイキング方式の食堂をしていた
それも客が以外と入らずにやめたのである
それはなぜか?そういう方式でも受けなかったとなるのか?
それより一人暮らしに野菜がとれるので良かったのだがそもそも一万の町では需要がなかったのである
でも都会だったら一人暮らしの老人が多いから老人用の食堂までできている
それが田舎ではできないためだと思った

つまり何か商売するのにも需要がないと成り立たないのである
また需要を見ないと商売は成り立たない
そして価値=場所+料理+サービスなのである
私はだから高見食堂に行ったけどそこは料理がいいにしても狭苦しいのである
まずカウンターにしか座れないのである、そこも狭いのである
そういう場所だと悠々と食事できないともなる
それで高見ホテルの食堂は広いしコーヒーも無料なのと味噌汁がいいものを出していてうまいのである、ただあそこも定番になるからあきる
日替わりの魚定食があればいいがホッケしかでてこない
でも大きなものだからあそこは得である、あとはいいにしても飽きる
たとえうまくても高くても同じだとあきるのである
これが食堂とかレストランの一番の問題だった

とにかく一人暮らしだと果物は簡単に用意できるが野菜を食べるのがむずかしいのだ
だから小皿で安く野菜とか惣菜を食べられるのがいいのである
ただそれをしているのは深野のユッサだけである
そこは場所がいいとしても自転車だと遠くなるから簡単には行けないのである
そういうふうに何かすべて満たされるものはこの世にないとなる




posted by 天華 at 08:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題