2019年03月26日

原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた (避難して失われた時間はもどってこない)


原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた

(避難して失われた時間はもどってこない)


津浪と原発事故はいろいろな教訓を残した考えさせるものがあった
それを私は探求してきた
今ふりかえると一番の問題は人生でも天の時だと考察した
それも原発事故で起きていたのである

それはどういうことかというと今になりなんで復興できなくなったきか?
その一番の問題が復興する時を失ったということである
原発事故で避難した人たちは最低で5年とかもう8年過ぎてしまった
その間に何が起こったのか?
復興する時間を失ったということである

例えば時間というのは子供時代とか少年時代とか青春時代とかでその時間の価値が違ってくる
母親でも幼児から子供の時一緒に過ごさないと母親を母親としてみないことが普通に起きている
親戚の人は5歳ころまで母親と一緒にいたがその後は別な母親になった
それでその実の母親が年取って私が実の親だとして合わせてくれとかなった
でももう実際はその子供は大人になっていてその子供すら大人になっている年である
だから今さら私が実の母親ですと言ってもそうはならなくなっていたのだ
ただ不幸なのはその母親が認知症になったことである
金をもっていたからその実の娘はただ施設にあづけている保証人になっているだけなのである、それは金が欲しいだけでそうしているのである
つまり自分の母親だという感覚がないのである
つまりその女性は母親であるべき時間を失っていたのである

これと同じようなことが原発事故で起きた
若い世代は子供と一緒に故郷を出て避難して生活をはじめた
すると8年もたつとどうなるのか?
子供時代の8年間を別な土地で暮らしたのである
小学校でも中学校でも高校でも故郷ではない外で暮らした
そういう子供の時故郷で暮らしていないとどうなるのか?
かえってその8年間でも故郷の外で暮らしたのだからそこが故郷だともなる

つまりその時の時間はとりもどせないのである
その子供たちが過ごした時間は故郷の外で暮らしたから故郷と疎遠になる
そうしてもう故郷にはもどってこないとなり復興できなくなった
残されたのは思い出があるから故郷に残った老人がほとんどだとなった
老人だけでは復興はできないのである

だから失われた時間の問題はそれがとりもどせないのである
空間は別に故郷でもある、荒廃しているが故郷はなくなっていない
それで今度は浪江の高瀬川渓谷に行ってみようかなとなる
確かにそこにあった大堀焼の窯元が軒を連ねた場はなくなった
でも高瀬川自体はやはりこの辺では渓谷として景勝の地としてある
空間は失われていないのである
ただそういう故郷であれ場で過ごした時間が失われたのである

そして不思議なのは地の利でも人の和でも関係していた
地の利というとき原発事故から距離に比例して被害の度合いが大きかったのである
原発立地の町の大熊町とか双葉町は8年過ぎても住めない
浪江でも隣でありほとんど人が住んでいないのである
ただ距離に比例し補償金が配分されたのも地の利が関係していた
30キロ以内は手厚い補償金がもらいたからである

そしてまた人の和も関係していたのである
人の和が内部でも家族でも分断されたのである、家族がばらばらになってしまったのである、若い世代は外部に流出して老人だけが故郷に残された
それから補償金でもめて南相馬市では分断された
人の和が壊されるとこれも復興することがむずかしいのである
人の和がもっとも大事だということも言われるからだ
時を失い人の和も失われたのがこの辺なのである
それが深刻なのは失った時間は特にとりもどせないことなのである

それぞれこがすでに別な土地で過ごしている時間が8年とかなりもう十年とかなる
すると十年一昔とかまでなってしまうのである
その人たちは故郷にもどらない、疎遠となり子供たちでも故郷はその土地で時間を費やした場所だともなるからだ
つまり生まれた場所が故郷ではない、そこで育った時間を過ごした所が故郷なのである
また別に血のつながりがなくても実の母親でなくても一緒に過ごした時間があれば家族であり母親だという感覚をもつのである
ただ親戚の人は育ての親すら捨てた異常人格になっていた
それは何か確執があり異常化したから恐ろしいと思った
近づくのも怖いとなって縁は切れた
こういうことは長年一緒に暮らしていても熟年離婚があるからありうる
でもその一緒に過ごした時間が無駄に帰するのはもったいないとなる
なぜならもうその後に一緒に過ごす時間がないからである
他の人と一緒になっても時間が無くなっているから思い出でも作るのはむずかしくなる
失われた時間は取り戻せないことが深刻なのである

いづれにしろなぜ復興できなくなったのか?それは津波の被害地域でも同じようなことが起きている、被害地の故郷から若い世代が流出したからである
それで復興するのに高台を作るのに土地造成するのに時間がかかり待てないとして別の場所に家を建てたり流出したりしたのである
だから時間がいかに影響していたかふりかえるとわかる
それは個々人の人生でも同じだと書いた
時間が失われると取り戻せないことが深刻なのである
別に故郷という地は空間は荒れても残っているが時間は帰ってこない、とりもどせないから復興でもできないとなったのである   

 天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)

posted by 老鶯 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ