2019年03月19日

無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される (そこで会ったのは中国人の高校生だった)


無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される

(そこで会ったのは中国人の高校生だった)

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ここには防犯カメラがなかった



相馬市の道の駅から駅にかかわったので日立木駅に来てみた
そしたら待合室が壊されていた、それは結構損傷が大きい
そしてそこにいたのは中国人の高校生だったのである
その高校生は4年間くらい日本にいたとか普通に日本語がしゃべれる
相馬市の東高校に入学して中退したとか言っていた
一年生でやめたらしい、母親は中国人である

そこで日立木駅の入り口の待合室が一部壊されていた
そのことで話し合っていたら見守り隊のパトロールが来た
それで高校生はスマホを貸してその見守り隊の人が警察に連絡した
私は警察に連絡しろと言ったからである
鹿島駅で落書きをされたとき警察に連絡したからである

とにかく無人駅は特に日立木のように日中だと一人二人くらいしか乗り降りがない
駅前にはなにもない、人の目が全くないとなると荒らされやすい
そしてそこには防犯カメラが一台もなかった
これも不思議である、鹿島駅には4台くらいあるからだ
なぜここはこうして見ている人もいないのに防犯カメラがないのが不思議だった
こういう場所にこそ防犯カメラが必要だからである
おそらく費用の面でとりつけないのかもしれない

まず日立木駅は乗り降りするにも一人か二人しか昼間は見ない
高校生の通学などでは三人四人とかなるかもしれない
それだけ少ないから駅でも人がいることはほとんどないともなる
そういう所は昼間でも誰も見てないから荒される
そういうことは予想していた
それを現実に目にしたのである
ただこれが昼間にしたのかどうかはわからない
鹿島駅ではまず昼間は人の目があるからできない
向かいの自転車屋の人はいつも見ているからである

ここも水戸管理局内で管理している
水戸管理局の人は水戸から来るのではない、ここに住んでいるのである
ただ管理局が水戸になっているだけなのである
しょちゅう水戸から来ていたらやはり大変だと思ったがそうではなかった

ともかくその中国人の高校生と駅で話してこんな人がいたのかと驚いた
中国人は良く見かける、女性が日本人と結婚した人も知っている
その高校生は日本語では困ることがない、第一高校生なら読み書きだってしているからである
しかしその人は相馬市の東高校に入ったがやめたという、その理由はわからない
それで今度は原町の高校を受験するとか言っていた
それで通うので駅に来たのだという、駅の近くに住んでいたのである
あれだけ日本語ができるということはもう日本人になれると思った

中国人で女性の人が裁縫会社のフクソウに来ているが日本語はしゃべれない
ただ昨日はコンビニで阿武隈信用金庫のカードで金を下ろせないと騒いでいた
それは本当に下せないものだから信用金庫に行って直接聞いてみないとわからないと教えた
中国人はそれなりにいる、ただ中国人は前と違ってそんなに貧乏ではない
むしろ中国人の方が日本人より金持ちが多くなっている時代である
だから日本に来るメリットがそんなにあるとは思えないのである

ハルビンから来たというがこの辺はその方面からの人が多い
名取の空港から飛行機で行くのかと思ったら行けないという
新潟から行くと言っていた、北京から三時間で成田に来た
中国は飛行機だと近いのである、ただ新潟まで行くとしたらちっょとめんどうだなと思った
ただ飛行機で直接ハルビンに行かなくても北京に行ってそれから電車を利用すれば行ける
とにかく今は中国は近いのである

いづれにしろ日立木駅で中国人の高校生と話しするとは思ってもみなかったがそういう時代だともなる、どこに外人がいるかもしれない時代だともなる
東京に行ったら外人だらけだとなる、田舎でもやはり外人がこうして普通にいるからである
あの人はもう日本人であり日本で暮らすのに困らない、でも何か学校でつまづいたのだろう
それは日本人だって学校でつまづち、不登校になる
自分自身も高校は嫌だった、そこで勉強嫌いになったのである
その人が東高校を中退した理由はほからないがやはり何か中国人だからなのか?
他でもそういう人がいたとかテレビで見たからそうなのか?
別に言葉に困らないのだからなしめないとは思えない
言葉が通じなくてなじめないとテレビでは放送していたからである

この人の場合はほとんど言葉では困らないのである
第一また原町の高校に行くということは日本語でもできるからそうなっているのである
中学とか高校で外国に来るとやはり外国に溶け込みやすい、言葉も覚えるのである
だから外国になれるには若い内なのである
人間は何でも時期がありそれを逃すとできなくなるのである
それで自分は50歳で外国旅行して大失敗したからである

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



posted by 老鶯 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)