2019年03月18日

認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯

春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

                     
春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

柔らかに白髪をぬらす春時雨


春時雨というのがある、それは二三日前だった、これもまた帽子をかぶっていると感じないことがある、でも顔をぬらす春時雨だったから感じた
まず車だとこういう自然の変化を感じない、季節感もなくなる
第一風を感じない、車は閉鎖された空間だからである
風を肌で感じられない、今どういう風が吹いているのか感じないのだ
俳句とかだとどうしても季節を感じなかったら作れない
だから今の車社会ではそうして俳句とか季節感をテーマにしたものは作りにくいとなる

最も自然を感じるのは歩くことである、でも私自身ほとんど歩かない、すると歩く感覚が消失しているのだ、歩くことは今や車社会になると最も新鮮な原初的な経験になったのである、だから文明が発達したから人間は進歩するわけでもない
かえって人間の五感は消失してゆく、そうして自然でも感じなくなることは貧しいともなる、物はあふれて機械で便利になっても五感で感じることが消失していることは貧しいとなる

それから便利になると距離感がなくなる、芭蕉が旅したみちのくでも平泉でも新幹線で二時間だとなると何の感懐もなくなるだろう
ただ旅は通り過ぎてゆくだけだとなる、そしたらもう俳句などでも作れない
作ったとしても別なものとなる、距離感を感じること遠いなと感じるかことも一つの人間的感覚である、それが新幹線や飛行機によって奪われるのである
それで千本桜を見に船岡とかに自転車で行ったことがあった
その時その桜はみな散っていたのである
あれだけの桜がもう散っていて残念だったとなるがそれも一つの感懐を生んだのである

はるけくも千本桜を訪ねればみな散りしあと我が帰るかな

あれだけの桜がみんな散ってしまったなと深い感懐が生まれた
それははるばる苦労して自転車で来たからだったのである
その距離の感覚が深い感懐を生んだのである、それは芭蕉でも同じである
はるばる平泉に来たら五月雨の中に光堂が朽ちずに残っていたとなる
それははるばると歩いてようやく訪ねた距離感にあったのだ
その距離感がなくなるとき人間の感懐もなくなる
二時間でみちのくに来たとかなればそこは隣の村に来たと同じである
説きおさの感覚がなくなったのである

だから現代では旅というのは消失している、旅人もいないのである
ただ旅館とかホテルは旅の宿というより何を食べるとかグルメとかなり保養の場なのである、今のホテルは江戸時代のようにまず旅人を受け入れる所ではない
そこで高い金をもらって保養させる場所なのである
江戸時代なら木賃宿であり旅人の宿だったからである、泊まることを優先した場だったのである、だから豪華な保養のホテルがあっても現代では旅人の宿はないのである
旅人は歓迎されない、まして自転車で旅するような人は汚いし受け入れにくいし歓迎されないのである、まず旅人を歓迎しないのがホテルであり観光旅館である
それで私は旅したとしてもそうしたホテルとか観光旅館が多いからそういうものが嫌いだったのである、そういう場所は金持ちしか歓迎しないからである
それはどこでもそうだが江戸時代ならそういうことはないのである
おんな貧乏だから安く旅人を泊めていたのである

結局時代によって失われるものがある、それは絶対に返ってこない、再現できない
時代は再現できない、芭蕉の時代を再現できないから芭蕉のような俳句はもう作れないのである、つまり人間社会は得るものがあっても必ず失うものがある
だから人間の幸不幸など計れないのである、縄文人が不幸だったともいえない
そこで自然に驚嘆して日々生きていたのかもしれない、もちろん苦しんでもいた
ただその時代時代に感じるものが違っていたのである

ともかく現代とは人間の五感が消失してゆく時代である
膨大な映像時代になっているのもそうである、でもその映像を見て本当に人間の五感で感じるものを得られるかとなると得られないのである
その壮大な空間をテレビの画面では4Kでも8Kでも再現できないからである
人間は原始的な感覚をかえって機械化で喪失している
何か写真をとればそれで自然を感じたように錯覚しているのである
それは参考になるにしても五感で感じるものとは違っているのである

そこで現代では俳句とか短歌とかそうした五感で感じるものが衰退している
膨大な映像時代でありそれに圧倒されているからである
映像によって自然でもなんでも感じたとなるからである
でも実際は感じていないのである、感じることができないのである

ただそうはいっても機械をすべて否定はできない、今度買ったE-BIKEは走り自体が違っていた、だから軽快にどこでもすいすい走れる、自転車だと風でも感じるし五感で感じるから世界が広がった感じになったのである
自転車でもやはり遅いとすいすい走らないと行動しにくいのである
でもバイクだとはやすぎるのである、ただ車と違ってバイクは風は感じる

それで霊山から相馬市の方に下ってくると海から吹いてくる東風を感じる
その時山から海に近づくのを肌で感じるのである

東風(こち)吹くや相馬市に向かい山下りぬ

霊山から下りくると東風(こち)を体で感じる、その時相馬市に帰ってきたとなる
海の方に向かっていると感じる、それはいつも海側に住んでいるから余計に感じるのである、海の見えない地域では東風(こち)でもまた違ったものになる

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

 右大臣菅原道真の歌でも東風(こち)は山から吹いてくるのである、京都は山に囲まれているからである、東山があるごとくその感覚は海側とはまるで違った感覚になるのである、それで会津は広いし方角がわからなくなった
 それは周りが山に囲まれているからそうなったのである
 ただ日本海になれば海に面していても風は違ってくる、だから風は場所によって違って感じる、だから風土だとなるのである、その土地の風土は土だけでなく風によって感じるのである


2019年03月19日

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



posted by 天華 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される (そこで会ったのは中国人の高校生だった)


無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される

(そこで会ったのは中国人の高校生だった)

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ここには防犯カメラがなかった



相馬市の道の駅から駅にかかわったので日立木駅に来てみた
そしたら待合室が壊されていた、それは結構損傷が大きい
そしてそこにいたのは中国人の高校生だったのである
その高校生は4年間くらい日本にいたとか普通に日本語がしゃべれる
相馬市の東高校に入学して中退したとか言っていた
一年生でやめたらしい、母親は中国人である

そこで日立木駅の入り口の待合室が一部壊されていた
そのことで話し合っていたら見守り隊のパトロールが来た
それで高校生はスマホを貸してその見守り隊の人が警察に連絡した
私は警察に連絡しろと言ったからである
鹿島駅で落書きをされたとき警察に連絡したからである

とにかく無人駅は特に日立木のように日中だと一人二人くらいしか乗り降りがない
駅前にはなにもない、人の目が全くないとなると荒らされやすい
そしてそこには防犯カメラが一台もなかった
これも不思議である、鹿島駅には4台くらいあるからだ
なぜここはこうして見ている人もいないのに防犯カメラがないのが不思議だった
こういう場所にこそ防犯カメラが必要だからである
おそらく費用の面でとりつけないのかもしれない

まず日立木駅は乗り降りするにも一人か二人しか昼間は見ない
高校生の通学などでは三人四人とかなるかもしれない
それだけ少ないから駅でも人がいることはほとんどないともなる
そういう所は昼間でも誰も見てないから荒される
そういうことは予想していた
それを現実に目にしたのである
ただこれが昼間にしたのかどうかはわからない
鹿島駅ではまず昼間は人の目があるからできない
向かいの自転車屋の人はいつも見ているからである

ここも水戸管理局内で管理している
水戸管理局の人は水戸から来るのではない、ここに住んでいるのである
ただ管理局が水戸になっているだけなのである
しょちゅう水戸から来ていたらやはり大変だと思ったがそうではなかった

ともかくその中国人の高校生と駅で話してこんな人がいたのかと驚いた
中国人は良く見かける、女性が日本人と結婚した人も知っている
その高校生は日本語では困ることがない、第一高校生なら読み書きだってしているからである
しかしその人は相馬市の東高校に入ったがやめたという、その理由はわからない
それで今度は原町の高校を受験するとか言っていた
それで通うので駅に来たのだという、駅の近くに住んでいたのである
あれだけ日本語ができるということはもう日本人になれると思った

中国人で女性の人が裁縫会社のフクソウに来ているが日本語はしゃべれない
ただ昨日はコンビニで阿武隈信用金庫のカードで金を下ろせないと騒いでいた
それは本当に下せないものだから信用金庫に行って直接聞いてみないとわからないと教えた
中国人はそれなりにいる、ただ中国人は前と違ってそんなに貧乏ではない
むしろ中国人の方が日本人より金持ちが多くなっている時代である
だから日本に来るメリットがそんなにあるとは思えないのである

ハルビンから来たというがこの辺はその方面からの人が多い
名取の空港から飛行機で行くのかと思ったら行けないという
新潟から行くと言っていた、北京から三時間で成田に来た
中国は飛行機だと近いのである、ただ新潟まで行くとしたらちっょとめんどうだなと思った
ただ飛行機で直接ハルビンに行かなくても北京に行ってそれから電車を利用すれば行ける
とにかく今は中国は近いのである

いづれにしろ日立木駅で中国人の高校生と話しするとは思ってもみなかったがそういう時代だともなる、どこに外人がいるかもしれない時代だともなる
東京に行ったら外人だらけだとなる、田舎でもやはり外人がこうして普通にいるからである
あの人はもう日本人であり日本で暮らすのに困らない、でも何か学校でつまづいたのだろう
それは日本人だって学校でつまづち、不登校になる
自分自身も高校は嫌だった、そこで勉強嫌いになったのである
その人が東高校を中退した理由はほからないがやはり何か中国人だからなのか?
他でもそういう人がいたとかテレビで見たからそうなのか?
別に言葉に困らないのだからなしめないとは思えない
言葉が通じなくてなじめないとテレビでは放送していたからである

この人の場合はほとんど言葉では困らないのである
第一また原町の高校に行くということは日本語でもできるからそうなっているのである
中学とか高校で外国に来るとやはり外国に溶け込みやすい、言葉も覚えるのである
だから外国になれるには若い内なのである
人間は何でも時期がありそれを逃すとできなくなるのである
それで自分は50歳で外国旅行して大失敗したからである

2019年03月20日

山元町の津波の被害 (前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)


山元町の津波の被害                         

(前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)

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黒く盛り上がる波が怖い

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磯崎山

津波がぶつかってせりあがったようになった
辛うじて御堂は残った

ここしか高い所がない、だから被害が大きくなった

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中浜小学校に残った松
これも海が近いのだから枯れてもいいが枯れていない


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津波の後に残っている松と木

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八重垣神社の松、ここも海が近いから良く枯れずに残っている

山元町郷土資料館

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弥生時代は古い

でも・・・・千軒とか伝説が各地にありそれが消えた、それは津波とかのためだったこともある
南相馬市の鹿島区の海老千軒とかも言っているからである


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白いのが津波の砂の堆積

硝子に自分が映っていた




山元町の磯崎海岸に上ったら土地の人と話できた
その人は毎日散歩のために上っているという
それでいつも港に停泊している船を見ているが漁に出たのを見たことがないという
津浪はこの磯崎海岸も襲ってここも危ない所だった

なぜ山元町の被害が大きかったのか?
津浪は地形の影響が大きかった、山元町を見るとさえぎるものがない
その海岸近くにある家も多かったとすると被害が大きくなった
山下駅の海側にも家が結構建っていた、それをいつも電車から見ていた
仙台に近いから山元町は通勤圏にもなっていた

その人は何か不動産屋らしい、それで阿武隈川を越えて岩沼になると土地が一千万高くなると言っていた
建物の値段は変わらないが土地の値段が高くなると全体的に高くなると言っていた
一千万も高くなるとその差は大きい

それからなんでも小高の人が農業やるために移り住んだという
その人は土地を買いあさって農業をはじめたという
それは補償金を一杯もらったからだと言うとそうかとその人は言った
山元町の土地は安くなっているから買いやすくなっていたのである
ただこんなところにも小高の人が金があるから土地を買っていたとかなる
新地辺りにも小高の人は土地を買って住んでいる
一方で山元町では人口が減っている

死者 637人(遺体未発見の死亡届17人および震災関連死20人を含む)
家屋の被害(平成25年5月24日現在)
全壊 2,217棟(うち流出1,013棟)
大規模半壊 534棟
半壊 551棟
一 部 損 壊 1,138棟

この被害は凄い、全壊が2,217棟というのはそんなに家があったのかとなる
その辺を行ったことはなかったから残念だった、津波の前の状態がわからないからだ
なんでも磯崎山で聞いたのでは三方から津波が来たという
そういう話は聞く、そして渦巻いたりしたということ聞いたから恐ろしい
映像を見ても黒い波が盛り上がり瞬間的に高くなる
その光景は今さらながら空恐ろしいとなる

ただ不思議なのは山元町というとき山元だから山側を中心に発展した町かとも思った
そして山下町でもそうである、そもそも海側にはそんなに人が住んでいなかったのかもしれない、ただ漁港があり江戸時代の神社もあるからそれなりに古いのである
浜吉田だと浜が近いとなる地名なのになぜ山元町なのか?山下駅なのか?
それが不思議に思った、これも単純な疑問ではある
山寺とありそこが宿場町になっていたこの町名が生まれた

郷土資料館には古代のものが展示してあってわかりやすかった
弥生時代に津波が来てその地層で砂がある所が津波が来たためだという
貞観時代の津波も言われるがここでは弥生時代だから相当に古い
ただ津波がかなり奥まで来ていたという証拠である
そして不思議なのはここでも慶長津波については何も語っていないのである
何かこのことがわからないのである

山元町は電車で通り過ぎると海の方にも行ったことがなかった、それが失敗だった
ただ津波の跡は枯れずに残った松とか中浜小学校などに生々しく残っている
本当に海のすぐ側の小学校で屋上に逃れて助かったというのも判断が良かったからだったなぜなら地震から10分後に津波が来たというからだ
この辺では40分後だったのである、それ良くとっさに判断したと思う
やはりあれだけ海が側なのだからそれで判断できたのかもしれない
津浪でもあの小学校は流されないし屋上に逃げた助かったというのも津波の教訓である
ビルのような建物は流されないのである、だから高い所に逃げれば助かるのだ

山元町くらいまでは相馬の続きという感じになる、ただ山元町については調べていないのも失敗だった、ただ電車で通りすぎる町だったのである
ここは浜街道として連続したものとして知るべきだった
結局電車とかバスとかで交通を頼っていると本当にその土地のことがわからないなと思った、その土地に寄ったりもしない、ただ通り過ぎるだけだからそうなっていたのである
仙台には常に用事があって行ってもここには寄らなかったからだ
現代とは交通の便がいいから途中をぬかしてしてしまうのである

posted by 天華 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2019年03月21日

原発避難民の補償金の使い方が間違っていた (小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


原発避難民の補償金の使い方が間違っていた

(小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


事情は詳しくわからないにしろ昨日山元町の不動産屋の人が言ったいたのは何を意味しているのか?
小高の人が山元町の土地を買いあさって農業をはじめている
その土地は津波の被害にあって売った方がいいと土地をもった人が考えた
津波の被害の土地は海老辺りでも国で買い上げるが安いと言っていた
国に売るよりは高く買ってくれる人に売ったのかもしれない

そこで山元町の土地を売る人の気持ちはどうなるのか?
「もうこの土地では農業はできない、土地をもっていても無駄だ、売る他ない
安くてもしょうがないな・・・・先祖代々受け継いだ土地だけどしょうがないな」
「ここで私たちは農業をはじめる、補償金があるから安くなった土地を買える
小高区はもう放射能汚染で土地は使えない、ここならまだ農業ができる」

こんなふうになったのかもしれない、これも矛盾なのである
だって小高区を復興するために補償金を与えられたのに実際はそうでとなかった

町全体の復興のために補償金は与えられない
個々人の復興のために与えられた
だからその補償金は個々人で自由に使えばいい

こうなっていたのである、だから避難した時点で他に土地を買い家を建てた人も近くにいる、それは個々人に補償金が与えられたからその補償金を使うのは個々人であり小高区とか南相馬市が決めるのではない、そうなれば今の世の中暮らしやすい場所を選ぶ
そういう場避難区域になったところよりいい場所はいくらでもありわざわざ放射能汚染で農業もできない、不便な所に住まなくてもいいとなる
これは時代でありどうにもならない

なぜなら十津川部落が水害で国から金をもらったときその金は北海道移住のために全員が一致して移住するために使われた、個々人の自由に使える金ではなかったのである
その時代は農業中心の時代だから北海道に土地があるから農業できるということで
みんな一致して移住したのである
そこでの暮らしは楽ではないにしろそれを受け入れざるを得なかったのである
それは相馬藩が飢饉のときも越中などの移民が荒廃した土地を与えられるということで
命がけで移住してきたのともにている

何かそういうこととにているのだ、一部が災害で大きな被害になるとかえって外部の人たちが入ってくることがあるのだ
ただここでは小高の人たちが農業をやるために資金があるから津波で安くなった土地を買いあさるとなる、小高の農業の復興のためにはその補償金は使われないのである
これも矛盾なのである、そういう矛盾は船主とか漁業関係者にも生じた
そのことは再三指摘してきた

なぜ復興できないのか?
それは補償金でもすべてが復興のために使われなかった
除染費用が何兆円とあるとしてもそれは東京のゼネコンに流れた
県でその金をもらい独自に除染をしたら良かったということがあったがそれもなかった
つまり金の使い方が悪いのでそうなったのである
そういうことを会社経営している人はしきりに言っていた
そういう人がまたなぜ会社経営に失敗したのかもわからない
ただ部下に仲間に裏切られたということは言っていた

そもそも小高と鹿島区も南相馬市で補償金でもめたからである
でもふりかえるとそのことを指摘すると小高の人は鹿島区の人たちはなんなのだ
かわいそうな俺たちをただ批判するだけなのか?そうして怒ることにもなる
でも内部でもそうした矛盾が生まれてそれも大きいのである
なぜみんな若い世代が出て行って帰らないのか?
それは多額の補償金をもらった結果としてそうなったのである
小高とか原発避難地域の復興には使われなかったのである
それは県単位でもそうだし市町村単位でもそうだったのである
そこになんら自治体の政治力も働かなかったし一体自分たちの住んでいる村でも町でも市でもどうするんだということを協議したこともないのである
ただ国の言うなりになり個々人の自由意志にまかされてそれなら補償金もらって外で生活しようとなってしまったのである

ともかく小高区を例にとればなぜきついことを言うかとなるとそれは南相馬市に住んでいれば当然予算とか税負担があり大きく影響するからである
つまり復興してもらなわないと南相馬市全体で困るからである
それは家族の一人が病気になったような状態になるからである
離れていればそうはならない、でもすでに外に出て家を建て仕事をもち子供も小中学校を高校でも外の学校に行った人は故郷と関係が薄れてしまった
いまさら戻るわけにもいかないととなる
既成事実化してしまったのである、でもそれでは親を残してその負担をどうするのか?
ただ金を払えばいいと言う問題でもない
現実にこの辺では立派な施設があっても働く人がいないから老人ホームでは介護を引き受けない、それで青森の施設に受け入れられた人もいる
それは全国的問題にしろこの辺では極端なものとしてなんでも現れたのである
                                                    

タグ:原発補償金
posted by 天華 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

春彼岸(満月に梅匂う)


春彼岸(満月に梅匂う)

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今出ている月(19時14分)


家一軒ここに隠され匂う梅

朧月ひそかに棲みて匂う梅

花々や墓地賑いぬ春彼岸

落椿あまたや続々墓参り


誰が知らぬ人花挿して我が墓や死ににし人を一人偲びぬ

せわしなに時は過ぎゆく死す人の忘るは早し彼岸はめぐる

次々に人の変われるこの世かな今日ある人も明日なしかも

梅の花匂い放ちて夕べ散る満月照らし心おきなし

紅梅の匂いに満月美しき盛りの時や幸にめぐまる

月影に浮かびしもあれ死にしもその面影や彼岸となるかな 


彼岸だけは墓地はにぎわう、それにしても人の世は変わりやすい、人自体が次々に変わる
死ぬと忘れられるのも早い、そして時間が過ぎ去るのも早い
家族が二人死んだけど一人は8年過ぎたしこれも早い、一人は三年である
そして残された人もまた生活とかいろいろ追われる
それでこの辺は津波とか原発事故などがありめぐまぐるしく変わった
なにやかにやで自分も一人で暮らすのが3年すぎたのである 

年をとれば今日ある人は明日なしかもとかなる
同世代の人が次々に死んでゆく、有名人でも死んでゆく
するとその死者をいちいち偲ぶことすらできないのだ
なぜなら次々に死ぬ人が知っていても増えてくるからである

昨日は満月でありその後朧月になった
梅の花も十分ににおいを放ちそして満月に照らされる 
私の場合はめぐまれていたが不幸に死んだ人も多い
実家の墓では肺病で25歳で死んだとか記されていると墓参りすると何か苦しくなる、圧迫されるのだ
でも実家の墓には私はもう行かない、300万もらって墓を頼むと親戚が墓参りする
その人は地元に住んでいない、もう会うこともない
何か自分の親戚はもめていたし特に母方はそうである
でも親戚はもともとなかったしすべてその縁も切れたとなる、これも無常である

彼岸には死者を偲ぶことはいいことである、一年に二度でも人間は現実に存在しないと忘れるのである
日々の生活に追われ忘れるのである、死者でも生者でも「去る者は日々に疎し」になる
実際現実に逢わなければ死んでいるとも同じだともなる
この世とは無常の世である、それは老人になると否応なくただ事実として示されるのである
若い内はまだ親か元気だったりするからまた同世代で死ぬ人もいないから感じないのである

ともかく十分に梅のように匂いを放ちそして死ねば恨みは残さないだろう
でも人間はつくづくいくつになっても生に執着するのだ
それは生物の本能だからどうにもならないとなる
生きれるかぎりは生きるとなるからだ

昨日は月影の中をずっと自転車で走ってきた、そして今日は墓参りである
家族が待っているいるわけでもない、一人暮らしにもなれてくることは確かである
要するに人間は何でもなれるということなのは確かである
どんなことでも受け入れざるを得ない、それが現実を生きることなのである




2019年03月22日

春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

  
 春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

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亘理まで5里中村へ三里とある

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この石はみ応えがある
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八重垣神社の松は残っていた、ここは海に相当近い
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津波の後に長い高架橋のレールになった

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ここは五本松だったが三本になった





朝雲雀六号線を遠くへと

我が家を遠く離れて春の山 

東風(こち)吹くや境を越えて遠くへと

草萌えて電車の来るや海望む

大石に一日におうや庭の梅

正宗の休みし石や落椿

春の闇三本松の浮かぶかな
                                    

新地なる道標(みちしるべ)古り春日さしその道のりや昔思いぬ

正宗の休みし石と吾も休む津波の後の春の磯山 

海霞み島の見えじも船影の二艘進みぬ春の昼かな  

椿咲き松によりにつ正宗の休みし石や沖行く船見ゆ

春の山霞て見えじ島の影二艘の船の沖に行く見ゆ 

(八重垣神社)

津浪にも神社の松の残りしを春の日さして我はやすらふ

山に没る春の夕日や海よりそ満月上る浜街道行く  

春の灯や電車の音に浜街道旅人の行く影のありしも

我がよりぬ坂本宿の古きかな春の満月夕べ昇りぬ 

鹿狼山見えて高きを我が還る6号線の春の夕ぐれ  

松川浦月影さして鷺一羽なお餌漁る春の夜かな  


五本松三本残り支え合う人のごとしも月影さしぬ

五本松三本松のなお残り我が還り来ぬ春の夜かな

三本松変わらずここにあるべしや我が待つ人のなしとて待たむ


相馬市を越えて新地に行くと道標がある、それで坂本まで何里とか記してある
それを見ると何か旅に来たなのという感じになる

大石の庭は前にも見た、あの石がいいのである、そこに梅が匂っていた
それから新地を越えて山元町に入った、ここは行ったことがなかったのである
何百回と仙台に通っていたがこの海岸沿いは行ったことがなかった
実は新地の海岸までは来ていた、でもそこから先は遠いなとなり行かなかった
つまり自転車だとなかなか遠くに行きにくいのである
ここから5キロで温泉かと遠くへ行ってあったが引き返すと10キロになるから遠くなるすると先を急ぐから行けないとなる
ただ電車の中から山下駅からいつか海の方に行ってみようとは思っていたのである
それがこの年までついに行かなかった
人間は近くでも行かない場がある、その間に月日が流れて津波の後に行くことになったのである
人間は意外と灯台下暗しで終わることがあるのだ

磯ア山でも津波が襲ったが辛うじて被害をまねがれた
そこに正宗が座ったという石があった
そこからの見晴らしはいいが港もあり船もあったが漁には出ていないという
その道はサイクリングにはいい、堤防の上を走ったら気持ちがいいとなる

八重垣神社とは何なのか?海に迫って神社がある、そのことはまた歴史の探求として書いてみよう、ここでは旅として山元町まで行ったことを書く

山元町の街の方に行くと夕暮れになっていた、郷土資料館によった
そこに坂元のことが記された木簡が発見された、坂元願とかの木簡であり古代のものである、坂元宿はそれだけ古いことに驚いた
山元町は古代の歴史として相馬の延長にあることがわかった
これも鉄道だけだと線だけの旅になりわからないと思った
鉄道の旅は日本全国を隈なく乗ったけどそれだけではわからないのである
第一そもそもすぐ近くの山元町のことを知らなかったからである
人間は交通が発達して便利になってもかえっていろいろなものを見逃しているのである
感じなくなっているのである

夕日は山に没しその時満月が出た、坂元駅辺りでかなり暗くなった
でも六号線をひたはしり鹿狼山が見えた、あれはこの辺では一番高いから目印になる
それから相馬市の方に行く道ではなくて松川浦に行く道路を進んだ
そして松川浦に出た、満月であり月の光りが入江に反射していた
写真をとったが夜でうまくとれなかった
鷺が一羽月明りのなかで餌漁っていた

そうして相馬市により食事して例の五本松の所にくる、今は三本松しかない
それも枯れるかもしれない、何か松は枯れやすいのである
春の夜の闇の中に三本松が影となり浮かぶ
その松は人間に見えるのである、松は一番人間に親しいものであり人間に見えるのであるだからこの松が還ってきた自分を待っているというふうに見えるのである
家には誰も待つ人がいなくても松が待っているとなる  

今回は介護とかで旅は10年くらいしていなかった
それで新しい電動自転車で旅した気分になった、やはり旅で見る時の自然でもなんでも違って見えるのである、旅人して見る景色は違って見えるのである
新鮮に見えるのである、だから旅人になる必要があるがそれが今ではしにくい
車でもバイクでも早すぎて旅人とはならない、通り過ぎるモノになっているからだ
電車でさえ旅人としての経験はできない、現実に何百回も仙台に通い山元町を通ったのにそこを知らなかったからだ

旅の問題は自転車だとしても六号線だけを通っていただけではその土地のことはほからないということである
海から山へと横の方面も旅しないとわからない、ただ六号線は遠くに行くにはどうしてしも便利だからそこだけを頼りに通りすぎてゆくのである
寄り道できないことが問題なのである、その時何か大事なものを知らずにただ通り過ぎてゆくだけだとなる
そういうことが現代では多すぎるのである

とにかく旅したな旅人のようにまたなったなとつくづく思った
でも山元町から越えると仙台の方に行くともう日帰りはできないと思った
やはり80キロ行くとして帰りもそうなるから行けない
泊まるとなると結構楽ではない、ただこうして動いていれば体力も筋肉もついてくるかもしれない、ただ一日とか休めば楽なのである、連続して自転車をこぎつづけることは苦しくなる、ただまたさらに遠くへ行ってみよう
そう思うのはどうも去年でも4月5月でも光線が紫外線の影響か日射病に熱中症になってひどいめにあったからまず光線には弱くなっているからだ
夏は全く旅は自転車ではできないと知ったからだ
すると3月から4月がいいとなるから今の内に行った方がいいとなる
ただこの自転車の弱点は荷物がのせられないことなのである
そしてスタンドがないからとめるのに苦労するのである
長距離になると荷物がのせらられないことは苦しい、そこが一番の問題だった












2019年03月23日

原発事故の原因として全体を見れない社会があった (ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故の原因として全体を見れない社会があった

(ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故で起きたことは何なのか?その原因は何なのか?
それは複合的だからそれを解決することは簡単にできない
様々な現代社会の矛盾もそこに現れたからである

現代社会の特徴は何か?それは全体を見れない社会、全体を把握できない社会である
無数のパーツになって社会を構成している、その全体を見れる人は理解する人は一人もいない、そんな人はスーパーマンしかいないのだろう
だから原発でもその全部を知る人などいなかったのである

第一吉田所長が復水器のことを知らなかったのである
それは一番所長ともなればわからなければしもそも所長になれない
トップになれないはずである、でも私は資材の専門であり専門でないからわからないといっていた
他の会社でも私は…専門であり私には会社のことでもその分野はわからないとか社長が言っていた
それは今の社会でどこでも起きていることである

原発でもそうして巨大な複雑化したものでありそれを全部知る人は誰もいない
その時何が起きるのか?
今回の事故のようになったときもう手をつけることもできない
メルトダウンして全体が崩壊してしまうことになる
それはあまりにも巨大であり複雑だからである

そういうことは別に原発だけではない、あらゆるところに起きている
医療関係でも体でも体の一部分の専門家がいる、医者がいる、でも体全体を診れる人は一人もいないのである
でも人間は死ぬとき必ず合併症で死ぬのである、一つの臓器がだめになりそれから他の臓器も悪くなり死に至る、それは人間の体ももともと一つのものとして機能しているからそうなる、でも全体を見れる人は一人もいないのである

そうして現代では江戸時代から明治に変わる時、私的所有権とか私的権利とかを過剰に認めた、結果的に山でも無数に分割されて全体として管理できなくなった
いちいち土地の所有者を確定して管理しなければならないからである
それは他でも津波の後に土地を利用するにも遠くに住んでいたり細分化されて土地の所有者すらわからないとして利用できないのである

それは村が山を共同で入会権として利用していた時代とまるで違った社会になったのである、そういう弊害はいろいろな歪みとして現れたのである
原発事故後の補償金問題でもそうである
みんな個々人が金をもらい個々人が勝手にその金を使い個々人が復興すればいいとなっていたからである
江戸時代なら村全体という志向がある、まず村全体をどうしようかとなる
それは村が一つの自然共同体になっていたからである
個々人だけでは生きられない社会だったからである
入会権でもそこでみんな燃料となる薪でも分け合うということをしなければ生きていけないからである、そこに共同が自ずと生まれていた
全体があって個々人がありえたのである
それはまた自然の生態系に依存していたから小さな村で自給自足していたからそうなったともなる

なぜ原発事故で村でも町でもコミニュティが簡単に崩壊したのか?
それは放射性物質の汚染でそこに住めないからしかたがないとなる
でもそれだけではなく現代社会のコミニュティの脆弱性がありそうなったともみれる
資本主義社会とグローバル社会とかも深く影響している

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである

見えざる手で利己心がかえって社会全体の富をふやしてゆくというアダムスミスの考え方である
つまり利己心は資本主義では奨励されているし競争でも奨励されている

でもそうなると全体というのはコミニュティとかは本当に見えざる手で維持できるのか?それがこの辺で起きた問題である
補償金をもらって個々人で復興すればいい、市町村のことなどどうでもいい、別に金さえあればどこにでも住める、こうして簡単に村でも町でも崩壊したとなる

そもそも日ごろ人間は協力していなければ共同していなければ何か事があったとき協力するだろうか?江戸時代のような村であれば個々人の勝手は許されない社会である
その負の部分は自由がないということである
でも明治以降は自由を与えられてもそれは私的利益と権利の追求になった
個々人が良ければいいのではあり他人は個々人の利益のために犠牲になってもいい蹴落としてもいいという社会になった
そこで全体の志向は失われたのである、だから小高の農家の人は山元町で津波の被害地を安く買って農業をはじめたとなることでもそうである
小高では放射能被害で農業をできないから補償金で山元町の土地を買ってするとなった
肝心の小高では農業をする人もいなくなり老人ばかり残されたのである
何か事あれば今のコミニュティは簡単に崩壊する実例を作ったともなる

十津川部落では政府から援助金をもらったけどそれは村全体のためにもらったのであり
村全体が一致して北海道に移住したのである、それは個々人が勝手にできる金ではなかったのである
だから現代社会には全体という志向がない、個々人の利益と権利の追求がかえって奨励されているのだから今回のようなことがあってもまず個々人の利益や権利が優先される
そして回りでは同じようにいい暮らしをしているとなれば誰も崩壊した村や町に住まないとなるし復興もできないともなる
もちろん原発事故がそうしうたのだともなるが何かそれだけではない現代社会の歪がそうしたのだということもあると思った
現代社会は全体が見えないからいざこのような大事故が起きると市町村自体でも簡単に解体してしまう、全体をどうしようかとか働かないからである

まず自分が自分の家族をどうしよう

これが優先されるのである、ただ不思議なのは戦前だと国家の方がこうした個々人の利益や権利より優先された、それで国家のために3百万人が死んで犠牲になったのである
戦後はそうした国家すらない、ただ個々人の利益と権利のみが過剰に追求されてきたのである、原発事故ではそうした現代社会の矛盾とか脆弱性が露骨に現れたとも見れるのである
posted by 天華 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

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慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

posted by 天華 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処