2019年03月12日

小高には一年前より人が帰っていた (でも帰ったのは老人がほとんどだった)


小高には一年前より人が帰っていた

(でも帰ったのは老人がほとんどだった)

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六号線のキクチスーパーの近くのスポーツ店では何かはじまる
それで調査する人が何人か来ていた
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江井区とありここまでは原町区なのか?


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江井地区を越えると小高になりこんな家があった
やはり人が住まないで放置される家が増える
江井地区まではないからである、人は住んでいるからである

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新しく小高にできたカフェ


なんか小高の街に来て不思議だった、たか神社がある所、高村という所から丘を登り下りして小高の街に入った
家には車があり人が帰っていると見た、前はこんなふうではなかった
街中でも人が少なかった、それは一年前だった
だから帰る人が増えたと見た
それはおそらく仮設はもう住めないから終わりになったから家がある人はもどった来たと見た、ただ通りを歩く人はまれだし車も少ない
駅は高校生しか乗らないから淋しいのは同じである

でも街中にカフェができていた、それでそこに入った
そしてらそこは名古屋の方の女性がはじめたカフェだった、なんでも地元の人と結婚して開いたという、そこはカフェスタンドとなっているから座る場がない狭い場所だった
でも500円だったから高いとはなるがあの場所は貴重である

そこに秋田の東京の大学に行っている人が来ていた
やはりまだ原発事故のことで関心がある人が来ている
なんでもその人は二万人とかはいる武道館で卒業式だという
そこには親は入れないという、7万人くらい生徒がいるとか言っていた
それは良く聞かなかったが私の場合もとにかく3000人の前で講義するとか数の多さには驚いたのである
今でもそういうことがあるのかと思った

そういう学生は前も駅に来ていた、それで地元のことを教えた
今度会った学生はすでに新聞社に就職が決まっているという、つまり記者になると言っていた
そこでそういうことで調べに来る人の問題は案内人が大事だということである
知らない場所に来て案内人がないとういことは本当に皆目わからないとなる
それは外国旅行で自分は常に経験して大失敗していたからだ
外国だ余計に案内人、ガイドがないと皆目わからなかったからだ
でもガイドを雇う金がないからただ外国に来たというごけでいいと思っていたからそうなった、でもせっかく外国に来ても実際はただ来ただけだとなってしまう

それでフランスのリヨンでブション料理のことを紹介していた
それと貴族の料理を余した羊か豚か牛の内臓などを料理したものだったのである
ヨ−ロッパでは貴族と下層階級は明確に食べるものまで区別されていた
階級社会だったのである、そういう違いは食べ物にも残っていたのである
日本がでも郷土料理となると別に高価な材料ではない、その土地でとれるもので作っていたのである、つまり料理にもそういう歴史がある
ただ私はヨ−ロッパを旅してもそういう旅をしていないから全くわからない
それはテレビ放送のようにガイド付きではないからそういう場所には普通の人は行きにくいからである、なにか高価なレストランが目立つ所にありそういう場所はわかりにくいからである

日本国内だってとにかく地元の人は例えその人が学問がないにしても必ず詳しいのであるだからちょっとしたことがわからない、聞くとなるほどと思うのである
玉野村でもそうだった、古い屋並がありそこは宿場町だったとか聞くとそうだったのかと思う、地元なのだけどわからないのである
まして外から来るとなるとその土地のことを知ることは容易ではない
歴史もあるしそういうことは簡単にはわからないからである
それで案内人が必要になるのである

ともかくそこには大阪から来た人もいた、パソコンを教える部屋があって教えていた
そういう人がこの辺で前から来ていた
ただ最近そうしたボランティアは減っている
でも埼玉から夫婦が来たり外からまた興味があってきている人はいる
そういう人があのカフェに寄っている
小高になにもないからあそこに入るとなる

それから駅前の案内所でばあちゃんがいて話した

「大分人が帰ってきているように見えましたが」
「そんなことないよ、若い人は帰っていないよ」
「そういえば帰っているのは老人が多いのか」
「老人ばかりだよ、若い人が帰らないと活気がないよ」
「通りを通る人と車は少ないことは変わりないようです、駅だって乗るのは高校生だけのようです」
「老人は家にこもっているよ」
「車が家にあっても老人が多いのか」

確かに家には車がある家が多いとしても老人が多いということである
やはり人はあまり通らないようになっていも車は普通は通る
そこが違っていたのだとなる
ただ一年前と比べると人が帰っていると見た、街中でも人が住んでいる
それは仮設に住めなくなって帰って来たのかと思う
もう3月で仮説は終わりだからである

スーパーも小規模でもはじまった、ダイユーエイトも建物を修理してはじめるという
するとかなり復興してくるから人も帰ってくるのかと思う
でも実際は若い人は生活が別になったから帰らないと案内所のばあちゃんは言う
何かそのばあちゃんには私は親しみを感じたのである
前に知っていた女性と何か似ているのである

小高にそばあちゃん一人案内(あない)する通り淋しく春の日あわれ

そのばあちゃんのことが何か心に残る
それは私自身が家族をみんな失ったからである、それでたいがい子供を死んだとか親が死んだとか兄弟が死んだ人とか必ずそうして他人を親とか子供とかに兄弟でもそう思うようになるのである
だからあそこの駅前の案内所のばあちゃんにも私自身かそういうふうな感じになったのである
それはカフェの人は名古屋とか別である、やはり不思議なのは地元だと言葉とか何か暗黙に通じるものがあるのかと思った

いづれにしろいろいろ補償金とかで小高とはもめた、そこで険悪にもなった
それはやはり身内感覚だからそうなったのである
ただそういう時期も過ぎたともなる
小高はなんとか復興してもらいたいとなる、でも若い人が帰らないということが致命的なのである

学校の高低で子供が何人か遊んでいた、それが10人以下である
それは少ないと見た
なぜなら鹿島には保育所が二つありそこで運動会とか神輿を担ぐ祭りをしていた
親も参加してにぎわっていたからである
あの学校の子供は実際は小高に住んでいない、外から市で運営する車で来ているのであるそれは飯館村でもそうである、小高に住んでいないことが問題なのである
だから余計に老人だけの街になっているのである
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 小高区役所に置いてあった本に書いてあった

確かに子供がほとんどいないということは跡継ぎがいないということでありその街は老人だけになり死んでゆくとなる
限界集落化している、それが大きな町で起きている
でも子供を連れて新しいカフェに来た人がいた、それは本当にまれだとなる
校庭にいた子供は10人以下だったからである

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紅梅の貴船神社に咲きにしも夕暮れあわれ通り淋しき

こんなふうになる、

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椿咲く小高神社にたずねるも帰らぬ人や夕べ淋しき

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磐城大田駅に春の夕日没る
posted by 老鶯 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年03月13日

なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか? (もともと高い場所に建てられていたから)


 なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか?

 (もともと高い場所に建てられていたから)


 神社がなぜ津波からまねがれたのが多いのか、津波からすれすれで助かっているのも多い、それはもともと神社は高い所に建てられる傾向がある
高い所に神様が棲むとなるからだ
そしてもともと古いとなると海側だと湿地帯が多いから低い所に神社は建てないのである例えば八沢浦は明治以降に侍が開拓した土地である
もともと海だったのである、だから社も低い場所にあり流された

古い神社はたいがい高い所にある、相馬市でも津神社(つのみつ)がそうでありその下の・・神社もすれすれで助かっている
烏崎の八幡神社は奇跡的にすれすれで助かっている
それを見て不思議であり奇跡で神様が住んでいたからだとなる
でももともと高い所に神様を祭るからそうなっている

別に海側でなくても社は高い所にある、玉野村の神社でもそうだし山津見神社も岩をよじのぼり隠されるようにしてあった、それは佐須にある分社である
あれにくはそもそもそこに社があると気づかないのである
とにかく神社は高い所に祭るのが普通なのである
そして海側になると海とか湿地帯になっていて人は住んでいなかったからである
原町の萱浜でも住んでいない、照ア神社でもすれすれで助かったというときも低い場所はもともと海であり湿地帯だから神社は建てられないのである

そもそも縄文人が住んでいた場所などはまず津波の被害には合わない
縄文海進があり深く海が入り込んでいたからである
その縄文海進状態が津波で再現されたのには驚いたのである
ただ鹿島区の海老村でも烏崎でも実際は古い場所であり海老村は弥生時代の住居跡が出てきたという時、古い場所である
そういう場所では漁業をしていたから港としてそこに住んでいたとなる
それは便利だからそうなったともなる
三陸などでも明治にも大きな津浪で一万人とか死んでもやはり港がありそこが漁業に便利だからもどって住んでいたのである

神社というのは本当に9割近くは高い場所にある、古い神社は特にそうである
そしなれば津波の被害に会いにくいのである
だから神社に逃げて助かったという時別にそれは神社が守る神様が守るというのではない別に高い所に高台に逃れれば津波から助かるのである
それでことさら神社が助けたとはならないのである
日ごろから高い場所を避難場所としていれば助かるのである
だから神社が特別な神の力が宿っているとかにはならないのである

それにしても神社には謎が多い、なんの謂れであるのかわからないのも多いのである
それだけ古いからそうなっている、その古いことに意味があるとなる
郷土史でも村の新旧をまず知れというときもそうである
その土地でどの家が新しいのか古いのかを知ることである
それで戦後開墾に入った人たちが本当に矢までも多い
それでそこがもともと古くから住んだ人たちなのか錯覚する、まぎらわしていのである
それはどこでも日本ではそういう人たちが戦後職もなく開墾に入ったからである
そういう開墾者が入った場所ともともと古くから住んだ人たちは分けるべきなのである

神社とはパワースポットのように何か場所と関係している、なぜそこに神社があるのか?それは場所と関係してあるともなる、ただ神社にはその由来が不明なものが多すぎるのである、だからそれだけ古いから由来もわからなくなったとなる
それで津浪で神社に逃げたから助かったから神様のおかげだったというのも疑問なのである、別に高い所に高台に逃げれば助かるのが津波だからである
その高い所にちょうど神社があったとなる、だから目印にはなったのである
実際すれすれで助かっているからである
まあ、合理的に考えれば神社が津波から助かった理由がありそれを神様が守ってくれたとはならない、その辺は疑問なのである

タグ:津浪と神社
posted by 老鶯 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年03月14日

南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)



南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)


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益田神社もありこれは一体なのである
つまり地名もこうして移住した人たちが名付けたものであることを証明している



高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

島根県益田市にある。
益田駅の東2Kmほどの染羽町鎮座。
益田川の北側、高校のグラウンドの横が参道。

北西に延びる参道の途中に鳥居が建ち、
鳥居の脇には、「式内 縣社 染羽天石勝神社」と刻まれた社号標。
参道の灯籠には、「瀧蔵大権現」と刻まれている。

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、瀧蔵権現と称して、承平元年(
九三一)には別当寺勝達寺を建立し、中世には益田氏の
庇護を受けて発展した

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた

浮田成務崇神の五世孫賀我別王(かがわけのおおきみ)

陸奥宇田志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に瑞籬の帝(崇神天皇)の五世の孫の賀我別王を国造に定められた。

信夫成務阿岐国造同祖久志伊麻命孫久麻直陸奥国信夫郡

福島市志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の同祖の久志伊麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)を国造に定められた。

 標葉が染羽を由来とし、志波(しは)と訓読みする。
続日本紀に標葉と記し、先代旧事本紀では、成務天皇(13代)阿岐(安岐)
国造の飽速玉男命(あきはや)を10世紀足彦命を国造に定めたと。
信夫国と同系、後に石城国となる。

広島は、阿岐(安岐)とよばれ宮島がある所。
厳島神社より格が上だったという!
ということで、標葉の祖は、鹿児島〜愛媛〜広島の水軍=海賊だったかもしれない

大和の蝦夷地へ政権として五国を治めていたのは、
阿尺国、思(太)国、伊久国、染羽国、信夫国。
これが鉄であり、九州から鉄を求めて開拓をした。

染羽の地を開いた春日族が、石神(いわがみ)として祀ったそうで、
やはり春日神なのだ。
春日神とは、藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、
祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

秩父・仙台まほろばの道

インタ−ネットで調べたら詳しい
春日族には真野氏と小野氏が入っている

これらを総合的に連携している、この一帯にかかわった氏族がどういう人たちだったのかわかる

志賀高穴穂の帝(成務天皇)というのが染羽=標葉(しめは)にかかわっている
浮田国造とは南相馬市鹿島区にある

真野氏とかの製鉄族が渡来人とともに入ってきた、真野氏自体が渡来人ともされるからだそれから日本の国造には最初出雲が大きな勢力としてありその出雲の正体は蝦夷だったということもある、だから出雲がある島根県とか鳥取県が深く関係している
それで末続とか常磐線にある駅名は出雲大社とか島根県と関係していた
ともかくなんらかの技術者が製鉄関係でこの地にやってきて神社を建てた   

南相馬市小高区の奈良、平安時代の「横大道よこだいどう製鉄遺跡」(国史跡)にあった製鉄炉を復元し、当時の製法で鉄を作る実験が、考古学研究者らによって福島市で進んでいる。年内には、その鉄を使って刀鍛冶、藤安正博さん(67)(福島市)が古刀を再現する計画だ。

行方郡多珂郷(福島県)を今の高平にしているけど地理的に合わない
多珂神社があるところは磐城大田の地域なのである
高平は離れているのである、だからそれは間違いである
この多珂神社は海が見えるとしても高い丘にあるからだ
この近辺が多珂郷なのである

次回は綿津見神社がなぜ南相馬市に多いのか?(安曇族の謎)

posted by 老鶯 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年03月15日

安曇族と綿津見神社 (真野の草原は南と北の境界線だった)

 安曇族と綿津見神社
(真野の草原は南と北の境界線だった)


●安曇族の浜通りへの進出

カヤナルミは出雲の大物主命(おおものぬしみこと)(ニギハヤ)と伽耶の宗像神の間にできた女人、出雲王朝にとってこの女性こそが南部伽耶との同盟関係を象徴する者だった
大国主の子の建御名方は出雲から追われ信州諏訪の地へ落ち延び二度と外に出ないことで助命された 

建御名方の正体はタケムナカタでありカヤナルミの母は宗像(むなかた)神である

建御名方「古事記」の中で越の国の人、沼河姫とこれに求婚した大国主との間にできた子と記されている越の国には伽耶国の王子ツノガノアラシトが来日したのもキ気比神社で建てられた

出雲に樋川(ひのかわ)

海流を考慮した領地の取り合いになっていることから海洋民族的とみなして安曇氏を呼んだことからも言える
南部伽耶族の神々が宗像住吉神として海の神であった 

苕野神社福島県双葉郡浪江町請戸東迎 38)

式内社(延喜式神名帳記載神社:927 年編纂)
祭神:闇淤加美(くらおかみ)神 、五十猛神 、大屋津姫命 、抓津姫命 ただし本来の祭神は不明
創建:養老元年(717 年)に荒氏が請戸小島に社を建てて奉齋したのに始まり、その後島が海没した
ため、これを現在地に遷座した(この島は現在海中に暗礁として残っている)。
縁起に関する伝承に、海から流れ着いた女神を祀ったという内容の話が幾つかある。近世において
は貴布根大明神と呼ばれていた。

鳥取県の神社(神社数 21社)

和名類聚抄によると米子市付近には伯耆国合見郡安曇郷があった。現在は上安曇と下安曇の二つの村
がある。これらは「あずま」と呼ぶがこれは住民が「あづみ」を訛ったことによるらしい。これらのことからこの地域は安曇族ゆかりの地といえる。

徳島県の神社では「綿」の代わりに「和田」、「和多」と表記する場合が多い。安曇氏族との関連を思わせる神社はない。

イザナキが行った禊で、イザナキから成った底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3柱。海をつかさどる神としてはイザナキ、イザナミによる神生みで、すでに大綿津見神が生まれており、底津、中津、上津の3神で海を垂直に分けて治める意味があると考えられる。
 海幸山幸の神話では「綿津見大神」として登場。兄の釣り針をなくしたヤマサチビコのため、大小の魚を集め、タイののどに刺さった釣り針を見つけ出す。
阿曇氏の移住先の穂高神社(長野県安曇野市)などにも祭られている。


「秩父・仙台まほろばの道」九州とか瀬戸内海とかから海人族が渡ってきたという指摘は重要である
なぜなら安曇族は有名だけどそういう海人族が日本の国造りに深くかかわっていたからである
その証拠としてなぜこれほど南相馬市内でもやたらと綿津見神社が多いのだろうか?
こんなに多いということはそれが何を意味しているのか?
やはり海人族の一団が移動してきて移住してきた証拠なのである
安曇族は浜通りを北上してきている

安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座
綿積神社 - 福岡県糸島郡志摩町鎮座
大綿津見神社 - 新潟県佐渡市小木鎮座
吉田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区吉田鎮座
新田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区新田鎮座
手鎌綿積神社 - 福岡県大牟田市恵比須町鎮座
      

海とか和多都見(美)とか漢字の表現が違うのである
松川浦に和田がありかこれは綿津見と関係あるのかもしれない
四国では和田は綿津見と関係していたからである
あそこも地理的には松川浦の入江の奥にありそういう場所である
それから原釜にも津波で流されたがその津波記念館の前に龍神社があった
これも安曇系統の神社らしい、特に相馬藩地域には綿津見神社が多い


志賀神社内にもワタツミ神社が祭られているとか志賀との関係も深いのである
つまりこの辺に来たのは九州系の海人族だったのかとなる
綿の字で共通していたからである
ただではそんな遠くから来たのかとなるとそんな航海術があったのかとなると疑問になるただ船を操作するのににたけた一族だった、それは中国からわたってきた人たちだったからである、古代でも短い距離の航海だったら海でできたのである
いづれにしろ古代はその前でも国が確定していなければいろんな人たちが外国からでも入りやすいし日本の国をかえって移動したり移住しやすいのである
なぜならそこには確かに原住民が住んでいても広大な荒野が広がっていたからである
もしそこに強力な国家が形成されていたらできないからである、入り込めないからであるそれで日本の国が大和朝廷ができる前までは国というものも成立していなかったから渡来人が技術をもって入ってきたのである、無政府状態だったともなる

● 真野の草原は気候的に南と北の境界線だった

なぜこれほど渡来人が日本に来たのか?
それはまだその時統一国家がないから自由に出入りできたからである、パスポートがないとか何かそうした制限もないから自由に入って来た、ただ地方には地域の勢力がありそれでそうした人たちがその地に根を張って力をもっていた
それで多数の古墳が作られた、それは先祖を祭るものとして作られたがやがてそうした厚葬は禁止された
大和朝廷が成立したときそうして蝦夷が出雲と対立した
その蝦夷とはただ大和朝廷に対立するものでありそこに伽耶族のツノガノアラシトとか安曇族とか宗像族とか様々な人が群居していたのである、そこには原住民の縄文人の末裔も住んでいた
そういう様々な人は大和朝廷に統合されてはいなかったのである
それで海人の安曇族も日本に入ってきた
ただそういう人たちの勢力が衰えたとき歴史から消えたとなる
また隠されたとなる、それで地名がわずかに残っていてその時をイメージしている、地名というのは消えないからである

こういう古代史の流れを見ないと万葉集の真野の草原の歌が何を意味していたのかわからないのである
そして歴史は地理を見なければわからない、どうしてまずこの歌ができたのか?
それは地理と深くかかわっていたからだ
なぜ綿津見神社がこれほど相馬地域に多いのか?
それはこの辺までは気候的にまだあたたかいということも関係していた
それはここ二三日寒い、寒気がシベリアからおりてきた
その天気図を何回か見た、すると丁度浜通りのこの辺がその寒気のおりる境目になっていた
つまりここは海老村が車輪梅の南限の地としてあったようにそうした南と北の境目にあった
それ以北になるとさらに寒くなるから住むのに適した地とはならないからだ
それでこの辺までは安曇族も進出して稲作とかの技術をもってきて土着した

それは評価らでもわかる、綿津見神社が不和もある乃は本当に多いし現実にやたらこの辺では綿津見神社が目に付くのである
真野の草原の歌の意味しているのは真野の草原は地名でありこの地点までは安曇族でも進出して土着できた
たから気候的にみても石巻の万葉集の草原→萱原だとはありえない、それは遠すぎるからだ、現実問題として真野郷から以北は寒くなりさらに石巻だと遠いし寒くなる
ここが進出する限界点でありそれで真野の草原の歌が生まれたのである
だから綿津見神社がこの辺にふわもあることがそのことを示しているのである

●地図から見る境界線だった真野の草原

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福島県でも綿津見神社は相馬地域にほとんどある!

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須恵器の発見場所 森浩市

末続(すえつぐ)は須恵器のことである

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寒気は丁度真野の草原地域が境界になっておりてくる

クリック拡大

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植物の分布とか気候の関係で自然の影響で境界線が生まれる
国でもそうである、ライン河があれば境界線になる
そこは気候的にも南から寒い北国になるとかある
そうして歴史の始まりはそうた自然の影響が大きかった
なぜなら飛行機のように地理を克服できないからである
必ず地理とか気候によって制限されていたからである
だから真野の草原もそういう境界の地点としてあり古代に知られていたのである
だから真野の草原(かやはら)は萱(かや)ではない
大和朝廷国家が成立した時点でそこが境界線として記憶されていたのである






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綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)


綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)

神社を子供が訪ねてその由来をたずねる

「何かこの辺で綿津見神社が多いですがなぜですか」
「それは時代をずっとさかのぼる、日本の国がまだできていない時のことじゃ」
「綿は何の意味ですか、ただの綿なのかな」

こんな疑問を子供が思うのは当然である
綿とは綿のことではない、大洋をわたという、それでこういう話になった

「あなたはどこから来たのですか」
「わたしは渡ってきたものです」
「どこからですか」
「呉(くれ)の国からです」
「それはどこにあるのですか」
「その国は太陽の沈む方です」
「なるほど暮れる方角にある国ですか」
「そうです」

この渡ってきた人たちが来たのでその地に祭られたのが綿津見神社じんである
綿は渡ることである、わたしとは渡ってきた人が言った言葉である
つまり渡来人のことである

綿津見神社は多い、それは日本の国が成立する前に海を越えて渡ってきた人たちが多いからである、そしてその人たちがその土地の先祖となった故にその人たちを記念する神社が多い、綿津見神社とは大洋をおおわたというごとく海を現すがその海は渡る海として意識していたからそうなった

そして綿津見はワタツミでありワタのツミはツノガノアラシトという韓国系の渡来人のことである、津神社とあるがそれはツノミヤとかツノミツとか言い一字でツとは言わないからである
つまり中国の呉から渡ってきた安曇族とかと韓国系のツノガノアラシトが合体した神社なのだ

綿がなぜこの字になったのか?

沙弥満誓、綿を詠む歌一首

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(万3-336)

万葉集にあるように綿とは韓国からの輸入品だったのである、当時は韓国はカラの国と呼ばれていた、それは伽耶の国でもあった、半島の端の先の国だったのだ
そこは日本の国の一部でもあったのだ、つまり海を渡ってきたものだから綿になったのだ、わたる→綿(わた)となる

そういうことでこの疑問に答えたがまだまだ謎が多いのが歴史である
それはあまりにも古い時代のことだからである

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2019年03月16日

春の日に多珂神社近辺をたずねる


春の日に多珂神社近辺をたずねる


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多珂神社

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紅梅の朝に匂いて鳥の来ぬ近くに椿赤く映えにき

日々ここを通りて匂う梅の花さらに匂いのましにけるかな

参道の苔むし静か春日さし狛犬久しく守りいぬかも

綿津見の神社のありて海望む春の日さしぬ丘の上を行く

羊歯生えてここに根ずきぬ古木かな南方の木なり春の日さしぬ

隠されて古き墓あり林中今日我たずね春の日暮れぬ

木の切られその根の残るこの家の古きにあれや椿の散りぬ


多珂神社の近くに綿津見神社がある、とにかくこの辺では綿津見神社がなぜこれほど多いのかというのが謎なのである
多珂神社は近江にある多賀神社由来だというのはわかる
綿津見神社は安曇氏の神だとしても安曇氏という名前も聞かないから不可解なのである

綿津見神社となれば海に望む場がふさわしい、でも飯館村にも綿津見神社はある
海から山へと移動している、神社とは移動するのである
例えば山の神社が海の方にも移動する、山津見という地名が松川浦にあるからだ

いづれにしろスダシイの森があったがそれも南限の地として南方系の木がここに繁茂していた、それは車輪梅が南限の地として海老村に自生していたことでもこの辺が気候的に南方系の植物が自生する限界の地だったのである
それで真野の草原(かやはら)はそうした境界線として奈良の都の人たちに意識された場所だったのである
                 
何かこの辺では放射能汚染の関係で木が切られている、それも大きな木が切られている
家の周りの木が切られている、何かそれも残念に思う
屋敷林ある家は古いからである 

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この説明の碑は何なのだろうか?こうなると記念碑である
看護婦になった動機がここに記されている
墓とは記念碑なのか?そもそも墓が何なのかわからないことがあるのだ
記念碑となればこうして記しておく、でも記念碑として残されるのは何か特別にその土地でもどこでも功績のあった人であり普通の人はこうして記念碑を建てない
そもそも墓が記念碑なのかとなるとこれもわからないからだ
記念碑となれば記念碑だらけになってしまうからだ
そもそも墓参りするのはその家のものとかその家系に連なるものである
一般の人は他人の墓参りなどしない、私が墓を見るのはそれは土地の歴史を知るためである、ここが江戸時代からあったのかと知るためなのである






2019年03月17日

万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る


万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る

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「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」

 この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)

 多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。

 また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。

 
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである

高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた


多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである

浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである

ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる

では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである

ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる

それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる

posted by 老鶯 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

a train go

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人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



2019年03月18日

認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方一人はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯