小高には一年前より人が帰っていた
(でも帰ったのは老人がほとんどだった)
六号線のキクチスーパーの近くのスポーツ店では何かはじまる
それで調査する人が何人か来ていた
江井区とありここまでは原町区なのか?
江井地区を越えると小高になりこんな家があった
やはり人が住まないで放置される家が増える
江井地区まではないからである、人は住んでいるからである
新しく小高にできたカフェ
なんか小高の街に来て不思議だった、たか神社がある所、高村という所から丘を登り下りして小高の街に入った
家には車があり人が帰っていると見た、前はこんなふうではなかった
街中でも人が少なかった、それは一年前だった
だから帰る人が増えたと見た
それはおそらく仮設はもう住めないから終わりになったから家がある人はもどった来たと見た、ただ通りを歩く人はまれだし車も少ない
駅は高校生しか乗らないから淋しいのは同じである
でも街中にカフェができていた、それでそこに入った
そしてらそこは名古屋の方の女性がはじめたカフェだった、なんでも地元の人と結婚して開いたという、そこはカフェスタンドとなっているから座る場がない狭い場所だった
でも500円だったから高いとはなるがあの場所は貴重である
そこに秋田の東京の大学に行っている人が来ていた
やはりまだ原発事故のことで関心がある人が来ている
なんでもその人は二万人とかはいる武道館で卒業式だという
そこには親は入れないという、7万人くらい生徒がいるとか言っていた
それは良く聞かなかったが私の場合もとにかく3000人の前で講義するとか数の多さには驚いたのである
今でもそういうことがあるのかと思った
そういう学生は前も駅に来ていた、それで地元のことを教えた
今度会った学生はすでに新聞社に就職が決まっているという、つまり記者になると言っていた
そこでそういうことで調べに来る人の問題は案内人が大事だということである
知らない場所に来て案内人がないとういことは本当に皆目わからないとなる
それは外国旅行で自分は常に経験して大失敗していたからだ
外国だ余計に案内人、ガイドがないと皆目わからなかったからだ
でもガイドを雇う金がないからただ外国に来たというごけでいいと思っていたからそうなった、でもせっかく外国に来ても実際はただ来ただけだとなってしまう
それでフランスのリヨンでブション料理のことを紹介していた
それと貴族の料理を余した羊か豚か牛の内臓などを料理したものだったのである
ヨ−ロッパでは貴族と下層階級は明確に食べるものまで区別されていた
階級社会だったのである、そういう違いは食べ物にも残っていたのである
日本がでも郷土料理となると別に高価な材料ではない、その土地でとれるもので作っていたのである、つまり料理にもそういう歴史がある
ただ私はヨ−ロッパを旅してもそういう旅をしていないから全くわからない
それはテレビ放送のようにガイド付きではないからそういう場所には普通の人は行きにくいからである、なにか高価なレストランが目立つ所にありそういう場所はわかりにくいからである
日本国内だってとにかく地元の人は例えその人が学問がないにしても必ず詳しいのであるだからちょっとしたことがわからない、聞くとなるほどと思うのである
玉野村でもそうだった、古い屋並がありそこは宿場町だったとか聞くとそうだったのかと思う、地元なのだけどわからないのである
まして外から来るとなるとその土地のことを知ることは容易ではない
歴史もあるしそういうことは簡単にはわからないからである
それで案内人が必要になるのである
ともかくそこには大阪から来た人もいた、パソコンを教える部屋があって教えていた
そういう人がこの辺で前から来ていた
ただ最近そうしたボランティアは減っている
でも埼玉から夫婦が来たり外からまた興味があってきている人はいる
そういう人があのカフェに寄っている
小高になにもないからあそこに入るとなる
それから駅前の案内所でばあちゃんがいて話した
「大分人が帰ってきているように見えましたが」
「そんなことないよ、若い人は帰っていないよ」
「そういえば帰っているのは老人が多いのか」
「老人ばかりだよ、若い人が帰らないと活気がないよ」
「通りを通る人と車は少ないことは変わりないようです、駅だって乗るのは高校生だけのようです」
「老人は家にこもっているよ」
「車が家にあっても老人が多いのか」
確かに家には車がある家が多いとしても老人が多いということである
やはり人はあまり通らないようになっていも車は普通は通る
そこが違っていたのだとなる
ただ一年前と比べると人が帰っていると見た、街中でも人が住んでいる
それは仮設に住めなくなって帰って来たのかと思う
もう3月で仮説は終わりだからである
スーパーも小規模でもはじまった、ダイユーエイトも建物を修理してはじめるという
するとかなり復興してくるから人も帰ってくるのかと思う
でも実際は若い人は生活が別になったから帰らないと案内所のばあちゃんは言う
何かそのばあちゃんには私は親しみを感じたのである
前に知っていた女性と何か似ているのである
小高にそばあちゃん一人案内(あない)する通り淋しく春の日あわれ
そのばあちゃんのことが何か心に残る
それは私自身が家族をみんな失ったからである、それでたいがい子供を死んだとか親が死んだとか兄弟が死んだ人とか必ずそうして他人を親とか子供とかに兄弟でもそう思うようになるのである
だからあそこの駅前の案内所のばあちゃんにも私自身かそういうふうな感じになったのである
それはカフェの人は名古屋とか別である、やはり不思議なのは地元だと言葉とか何か暗黙に通じるものがあるのかと思った
いづれにしろいろいろ補償金とかで小高とはもめた、そこで険悪にもなった
それはやはり身内感覚だからそうなったのである
ただそういう時期も過ぎたともなる
小高はなんとか復興してもらいたいとなる、でも若い人が帰らないということが致命的なのである
学校の高低で子供が何人か遊んでいた、それが10人以下である
それは少ないと見た
なぜなら鹿島には保育所が二つありそこで運動会とか神輿を担ぐ祭りをしていた
親も参加してにぎわっていたからである
あの学校の子供は実際は小高に住んでいない、外から市で運営する車で来ているのであるそれは飯館村でもそうである、小高に住んでいないことが問題なのである
だから余計に老人だけの街になっているのである
小高区役所に置いてあった本に書いてあった
確かに子供がほとんどいないということは跡継ぎがいないということでありその街は老人だけになり死んでゆくとなる
限界集落化している、それが大きな町で起きている
でも子供を連れて新しいカフェに来た人がいた、それは本当にまれだとなる
校庭にいた子供は10人以下だったからである
紅梅の貴船神社に咲きにしも夕暮れあわれ通り淋しき
こんなふうになる、
椿咲く小高神社にたずねるも帰らぬ人や夕べ淋しき
磐城大田駅に春の夕日没る