人の成果はすべて結果で決められるのか?
(神は心を動機を見ているー結果より重んじている)
例えば戦争だと負けるか勝つかの結果で決まる
負けたものは何も価値ないものとされる
だから歴史は勝者の歴史だとなる、負けたものは歴史に記されないともなる
では一体日本が戦争に敗れて300万人も死んだ
でも負けたのだから結果は惨憺たる敗北だったのだから意味がない
世界の歴史には記されないとなっていいのか?
その問いはあまりにも大きなものであり今だにそうなっていないことでもわかる
例え負けたとしてもでは三百万人の死は意味ない無駄な死だったできるのか?
それができないから後の世の人もその評価に苦しんでいるのである
人間社会では事業でもビジネスでも結果を出さない限り評価されない
投資信託を売って銀行員はその時成果をだした、ノルマを果たした、それは銀行に利益をもたらしたから結果から評価される
でも顧客に対しては損させたのだから結果を出してもすべてそれがいいものとして評価されるのかというのも疑問なのである
結果論で言えば金をもうけたものが何でも評価されるとなる
すべての価値は金で評価されるとなる
老人でもどれだけ金を残したのかもうけたのかで評価される
常に年収いくらだとか貯金がいくらだとかで人間は現代では評価される
結果とは金のことなのである
ただ結果を出すにしてもいろいろなことに条件があり左右される
戦争でも天候の影響などが大きいのである、だから勝負は時の運だとかなる
こういう結果を出そうとしてもその時々の条件がいろいろありいい結果が出ないということがある、それは時の運だとなる
つまり結果を出すということはいろいろな条件がありそれは一人の人間であれ会社組織であれ予測できないことが起こり結果が出たり出なかったりする
戦争でもどういう結果を生むかなど予測できないのである
大軍でも敗れることもあり信長の桶狭間のような勝利もある
そもそも人間を結果とか行動とかで評価すると間違うともなる
それで宗教では内面を重んじる、心を見るとなる
「神は心を見ている」というとき人間の成した結果を重んじていないのである
どういう心をもって成したのか?
それがもし不純な心で成したとすればそれが結果をだしても成功したとしても神は評価しない、逆に結果がでない負けたとしてもそこに例えば義があったとしたら神は評価するのである
それは何のことかというと神は動機の方を重んじているのだ
事業でもどういう動機でするのか?それが肝心だとなる
それによって成功という結果はでないかもしれないが動機が良ければまず行動する前にすでに成功していたともなる
動機が不純ならすでに何事かを成す前に失敗していたとなるのだ
たとえ巨万の富を得たとしてもそうなる
だから結果ばかりから判断すると人間は誤る
事業でも何か理系で技術が優秀だからと事業をはじめた、その人は自分が他者に優秀だということを見せるために事業を起こしたともなる
そして失敗したが依然として自分は優秀だと他者に見せたいから借金して隠している
そういう人はそもそも事業を起こす資格がなかったともなる
そんな動機で事業を始められたら周りの人が迷惑だとなるし現実事業に失敗してそうなった、その被害を関係ないと思ったが自分も受けた
その人が成功していたら結果をだしていたらどうなったのか?
今度はさらに自分は優秀だと吹聴して自慢することになる
成功しても結果をだしてもそれはいいものとならないのである
社会にとってもそんな人が成功することは逆に害悪にもなるのだ
どういう動機ではじめるのか?それが肝心だとなる
それは医者になりたいという時でも他でもそうである
ただ医者だと月給がいいとか評判もいいとか尊敬されるとか社会では一番優れた人と認められるとかで医者になる
そこには動機がない、何か親でもガンで死んだからガンを直すために努力したいとか何か動機が必要なのだがそれがない、親の跡を継がねばならないとかありやむなく医者になったとかなる
だから動機というとき犯罪でも故意なのかそうでないのかで有罪と無罪にもなる
なぜその犯罪を犯したのか?その動機を心をみて裁いているのである
殺人という結果があったとしてもそうである、その殺人を犯す動機をみているのである
神が心を見ているという時それと同じなのである
それで意外と思想というものに人は重点を置かない
人間が心でどう思うかということに重点を置かない、どう思うとそんなこと勝手だと思うそれが何か結果となるのかとなるからだ
でも実際は何か思うことは相当なエネルギーでありそれが影響する
誰かを憎いという念というのは相当なエネルギーなのである
一人でも誰かを思うことは相当なエネルギーとなる
そのために個人と直接対話するといインタ−ネットの匿名上でも疲れるのである
それは対話することは相手を思うからである
それで何か自分自身がプログでもコメントしてきても対応できないともなっている
それはその人に対して相当なエネルギーを思うことで使うからだともなる
そしていい加減な人の中傷とかもありインタ−ネット上だと相手がわからないから答えるのに疲れるとなる、エネルギーが消耗するから答えられないともなる
ただプログでも一方的に書いていると疲れないからこうして書いているともなる
このように思うということは相当なエネルギーを消耗するのである
それでインドの思想家が「誰かが憎い殺したい」とただ思うだけでその結果が出るということを教えた、本人が何もしないのにその念がが誰かに伝わりそうさせるというのだ
だからそういう念がもし国民とか会社とか組織とか多数の中に伝播するとなると怖いことになる、それは国家レベルだと戦争になるのである
宗教団体でも何百万人が地獄に落ちるとか罰があたるとか一斉にそうした念をもつことがいかに恐ろしいことになるか?
それが宗教の名のもとにそうした念をもつからである、それが巨大集団になるから空恐ろしいものとなりやがて現実に殺すとかなる
それは中国の文化革命とかカンボジアとかでもそういうことが起きた
巨大集団が一つの念にこりかたまった、それはナチスのようにもなったとなる
その念をあおることでマスメデアが加担するからメデアというのはそうした悪い念でも増幅させるから現代では怖いのである
ナチスがラジオからラジオの広報から生まれたという時いかにラジオですらそういう影響があったとなる
今なら映像である、テレビがどれほど社会に影響したかわかる
そこでまずテレビでとりあげるだけで犯罪者となりリンチ化する
何百万人も見ているとなる一斉にその犯罪者に対して憎悪の念が向けられるからである
マスメデアを通じたリンチなのである、それをあおるのがテレビになっていたのだ
韓国とか中国の危険はそこにあるのだ、現実に戦争にもなりかねない状態になった
毎日韓国では日本を呪詛しているともなるからだ、戦争の恨みを果たすためにそうしている、それが国民全体に伝播してやがて日本に対して戦争をしかけるとまでなる
人の思いとか念は眼に見えない結果として現れないがやがて結果として現れる
宗教の場合は思想となるとそういう方面を重視した、思想とは思でも思うであり想でも思うことである、思いとか念は眼に見えないとしてもそれは強力なものとして伝わる
様々な結果よりこうした人の思いの方が怖いとなるのだ
結果は様々な条件に左右されるしそれは人智を越えて結果がでる
でも思想は心はその前にわかる、どういう動機で行為になったのか?
その方が大事だとなる、それで思想を深めるということも大事になる
つまり結果とか行為にのみに重点を置いても人のことはわからないのである
その結果をみて人間はすべてを判断することはできないのである、評価もできないのである
人間はそもそも思いの中に生きている、生きているとは何かを常に思っていることなのである、意識していることである
無念無想に人はならない
常に何かを思い何かを意識している、一方で植物でも動物でもそうした念が生じていない悪い念が憎悪とか嫉妬とか様々な悪い念が思いが生じない、単純なのである
人間だけが思いとか念が生じてそれが実際に事実として現象として現れる
だから思いとか念を治めるものとして宗教が思想が生まれたのである
ただその宗教にしてもカルト宗教団体とか団体組織化するとそれが悪い念の集合体となる宗教という名で相手を呪詛する、それは宗教と関係ないのだけどその念で思いで一体となり地獄に落ちるとか罰あたるとか呪詛するものとなるから怖いのである
第一そうしたことが宗教のもとに正当化されるからである
そもそも相手を呪ったり何か憎悪したりしないように心の修養を積むのが宗教だからである
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33、新共同訳)
これもそうである、最初に求めるべきなのは結果ではない、行為ではない、その動機を重んじることだからである
その動機が悪かったらいくら事業に成功しても神は評価しないとなるからだ
だから事業するにしてもこれとはまた違っていても何を求めてするのかが結果より大事だとなる
もしその求めるものが正しければ結果がでいなとしてもそれは失敗することがないとなるからだ
結果だけで人間の成すことがすべて決められない、評価できないのである
もし戦争で300百万人死んだとしてもその動機が評価されれば無駄とはならない
つまり最初に意味あるものを価値あるものを求める
そうすれば結果にかかわらずすでに成功していたともなるのである
だから意味と価値を求めて働けともなる、結果ではないとなる
そこがただ現実社会では取り違えるし評価が間違うのである